平成18年1月13日NO296 神田雑学大学定例講座 


第8回ヨーロッパ映画 俳優編






講師 映画史研究家 坂田 純治







●今日はヨーロッパ編ですから、ソフィア・ローレンのお話から始めましょう。


ソフィア・ローレン
ヨーロッパとハリウッドと両映画界で活躍した女優で、あまりにも有名ですが、今年72歳。息子の監督で100作目を発表しました。私生児として生まれ、ナポリで飢えと貧困との戦いの中で育ちました。ナポリの海の女王コンテストで優勝して、ナポリのプリンセスと言われました。

イタリア映画界にもチョイ役でデビュー。その後、抜群のプロポーションを生かして雑誌のモデルなどをしていましたが、後に夫となるカルロ・ポンテに見出され、1955年主役に抜擢されました。そのあと、大ヒットとなったデシーカ監督の「河の女」に主演、2作目にして国際的大スターとなりました。早速、ハリウッドからお迎えが来るわけですが、エロチズムに満ちて、しかも女の悲しみと苦しみを表現できる女優として評価されました。

1961年の「ふたりの女」ではアカデミー賞外国映画主演女優賞を獲得したのが、成功の第一歩となりますが、一見ハスッパに見えながら、「ひまわり」では満都の紅涙を絞る演技でありました。

1963年の「昨日・今日・明日」は三話構成の喜劇。
第一話はデシーカ監督、ローレンはヤミタバコを売る女。妊娠中は捕まっても罰金免除となるため、いつも妊娠のためセックスをするため、男は持たない。

第二話のローレンは年下の情夫を持つ、金持ちで、身勝手な女を演じた短編。ナポリの下町の子沢山な女と貴婦人を使い分けている。第三話は、神校に通う真面目な学生と、高級娼婦の交流を描く作品。学生はローレンに振りまわされた挙句、外人部隊に入るとわめく。ローレンを尋ねてくるのは、お金持ちの坊ちゃん。ローレンの美しさとバイタリティを余すところなく描いています。

さて、ヨーロッパ映画の女優があまたあるなかに、なぜソフェア・ローレンをあげたのか。そしてまた、ローレンを上げるなら、なんと言っても、その映画は「ひまわり」1970年でしょう。それはデシーカ、マストロヤンニ、ローレンのトリオの集大成であります。

戦争で引き裂かれた夫婦の絆。戦争が終わっても、夫は帰ってこない。夫を探しにロシヤの原野をゆく妻。そこには、ヒマワリの花々が咲き乱れていた。夫は命を救われた現地の女と結婚していた。優しいロシヤの妻に子どもまでできている。妻は夫をイタリヤに返そうとする。しかし、前妻も再婚して子どもまでいる。
ローレンという女優を、好きな人と嫌いな人が極端に別れているという特徴がある。ところが、このヒマワリですっかり見なおされたのであります。映画は反戦思想で貫かれています。1949年、「自転車泥棒」を作ったデシーカ監督の名作です。



ロシア人妻を演じるのは、ソ連の「戦争と平和」でナターシャに扮したリュドミラ・サベエワア。夫は優しい奥さんの勧めで、イタリアへ向おうとする。ローレンは奥さんと充分に話し合って、解決を図ろうとした。プラットホームでは列車が次第に速度を上げる。ローレンは走る列車に飛び乗って、人目も憚らず号泣する。
デシーカは反戦思想の持ち主だが、自転車泥棒もそうであったように、正面きって反戦を訴えない。ソフトだが、じわじわと見る人の心に染みる作り方をする。

先月の例会で、ヨーロッパ女優編にブリジット・バルドーはでないのか、の会員の声がありましたので、1955年の「夜の騎士道」バルドー20歳頃の作品を少しだけ、上映致します。
ルネ・クレールがジェラール・フィリップを使って作った映画にチョイ役で出ています。
1965年「ビバ・マリア」メキシコ革命時代の題材で、ジャンヌ・モロウとB・Bが活躍する作品。2本続けてご覧下さい1。

「夜の騎士道」
「ビバ・マリア」

バルドーは、航空会社のお金持ち社長の娘でした。小さい時からバレエを習っていました。16歳のときに一流雑誌のモデルになったのが、キッカケで親の反対を押し切って映画界入りをしました。その時に現れたフランスの映画監督ロジェ・バデムと愛し合う間柄となり、19歳で結婚をしました。ロジェエ・バデムは、美女殺しの異名があるくらいのいい男で、名女優カトリーヌ・ドヌーブを奥さんにしたり、ヘンリー・フォンダの娘ジェーン・フォンダと結婚したり、次々に映画界の美女をモノにしてしまう監督です。

そのバデムに見出され、B・Bは特訓を受けて、エロチシズムの世界に入ります。当時、マリリン・モンロウがM・Mと呼ばれていた向うを張ってB・Bと呼ばれ、際どい作品や理知的な映画に出演しています。「夜の騎士道」などがそれですね。バデムと別れてからのB・Bの無軌道ぶりには、すさまじいものがあります。俳優であれ、歌手であれ、実業家であれ、浮名を流して好き勝手な生活を続けました。

そのような野放図な生活を続けている内にB・Bはノイローゼになり、26歳のとき手首を切って自殺を計ったりしてスキャンダラスな話題が盛り上がり、1963年39歳で引退しました。現在71歳。もう一人でてくるジャンヌ・モローは、レストラン経営者の娘でしたが、18歳のとき親に内緒でコメディ・フランセーズの演劇に夢中になります。親はお金持ちの商人と婚約させるが、結婚式の前夜に婚約指輪をローヌ河に擲つて、夜行列車に飛び乗ってパリに向ったという行動派。

パリのコンセル・バトワール〔演劇学校〕で演劇訓練を重ね、19歳のときにコメディ。フランセーズ最年少の主演女優として、21歳で舞台デビューを果たしました。映画はジャン・ギャバンの「現なまに手を出すな」に共演、「死刑台のエレベーター」では主演をしています。と、前置きは長いのですが、上映の場面はすごく短い。

ジャン・ギャバン

戦前戦後を通じて、ヨーロッパ映画界を通じての美男俳優たちが跪くほどの大スターといえば、ジャン・ギャバンでありましょう。1904年、パリの寄席芸人の子どもとして生まれました。家計は貧しくて、19歳ころまではセメント工など、下層労働者として過ごした経歴があります。芸人の子どもでもあり、やがてミュージック・ホールへ出たい願望があり、ステージに立つようになります。ドタバタコメディの端役を演じたり、シャンソンを歌ったりしました。が、なかなか芽が出ない。

フランス海軍を志願したこともありましたが、結局またミュージックホールに戻ってきました。25歳のときに、映画界から声が掛かりました。しかし、これも4年間は端役ばかりで、ものになりません。ところが、巨匠と言われたジュリアン・デヴェヴイェの目にとまって、1934年、当時、ベストセラーになったルイ・エモン原作の「処女地」の映画化、「白き処女地」で主役の座を掴むことになりました。



ギャバンは既に30歳になっていました。この出演が好機になって、以来デヴェヴイェとのコンビが続き、人気も急上昇します。当時フランスには、ルネ・クレール、ジャン・ルノワール、デヴェヴイェ、ジャック・フェデなどの巨匠がおりましたが、その中のジャン・ルノワール(画家の巨匠ルノワールの次男)がギャバンに目をつけ、1936年「どん底」の映画化にあたり、劇中の泥棒ペペルの役を与えます。

これを挟んで1936年、デヴェヴイェと組んで作ったのが名作「望郷」(ペペル・モコ)であります。そして、伝説的大スターとなるのであります。さらに新進のマルセル・カルネ監督1938年「霧の波止場」出演と続きます。

第2次大戦が勃発し、彼は戦火を逃れてアメリカに渡りますが、在米中には取り上げるほどの作品には恵まれていない。フランスでの数々の名作は、「普通の人間が、運命の無情さに翻弄され、何時の間にか悲運に巻きこまれる」ペシミステックな雰囲気の濃い作品が多く、アメリカでは通用しなかったきらいがある。第二次大戦が終わって、ギャバンはフランスに帰国する。

やがて、ジヤッコ・ベッケルという新進監督等と交流して、1952年、[現ナマに手を出すな]に登場。63年。アラン・ドロンと組んで「地下室のメロディ」に出演。いわゆる暗黒物であるが、これに独特の貫禄を発揮した。そのほか「港のマリー」や、「フレンチ・カンカン」「ヘッド・ライト」など、中年の男が若い娘に青春の薫りがを見出して、結局は寂しく別れるという悲哀を円熟した演技で見せたドラマが多くなりました。

バーボンよりスコッチだよ。スコッチよりコニャックさ。
このコニャックの味のように、深みの味わいのあるジャン・ギャバンでありました。彼は芝居をしない役者でした。生まれながらの役者でしょうか。結婚歴は3回ありますが、一方では大変艶っぽい話題も豊富でした。たとえば、デヴェヴイェの「地の果てをゆく」で共演したアナ・ベラ、ルノアール監督の「獣人」で共演したシモーヌ・シモン、「霧の波止場」のミシエール・モルガンなど、など、艶っぽい話題も多い人でした。

中でも、マリーネ・ディトリッヒとの仲は特に深くて、1946年、それがために「狂恋」という映画が企画されたほどであります。ただし、恋人は最後に死を迎えるデッド・エンドの映画でした。まさに、ジャン・ギャバンの自分史というか、その歴史はフランス映画の歴史といっても過言ではないでしょう。1976年11月、心臓発作で72歳の人生の幕を下したのであります。

映画は6作ほど、ジャン・ギャバンづくめ。

1936年「われ等の仲間」ジュリアン・デヴェヴイェ監督。
10万フランの宝くじを5人の失業者が当てる。それをどう使うか。パリ郊外にレストランを建てて、共同経営を目論見るが、一人去り、二人減り、最後にはギャバンを含む二人だけになってしまう。ラスト・シーンでギャバンが残った一人を射殺するが、ハリウッドはアメリカマーケットで上映するには悲惨過ぎると、ハッピーエンドにした。これはアメリカ版。ギャバンがシャンソンを歌う場面があるのも珍しい。


「霧の波止場」1938年、マルセル・カルネ監督。
この映画の見所は、18歳になったばかりのミシェル・モルガンの登場です。脱走兵と家出娘の邂逅。絶望的な恋。運命の皮肉を暗示する作品。ミシェル・モルガンはフランス映画界では珍しく舞台経験のない、生粋の映画人であります。15歳のときエキストラ、17歳で主役の座を獲得しました。そして「霧の波止場」で一躍トップスターに。162cm、50kgの小柄ですが、堂々たる風格、気品のある美貌。にじみ出る女らしさなど独特の個性を発揮した、戦後のヨーロッパ映画界を飾る大女優であります。

デートリッヒについてちょっとお話しましょう。
ドイツ生まれ、軍人だった父は将校でした。娘時代から演劇に興味を持ち、マックス・ラインハルト〔演劇学校〕で基礎訓練を受け、22歳で映画の制作助手をしていたルドルフ・シーバーと結婚し、娘マリア・リバーをもうけました。1975年、シーバーが亡くなりましたが、53年間全く籍は除さずに通しました。

孫のデービット・ライバーが制作したドキュメント「真実のマリーネ・ディトリッヒ」に、それは赤裸々に描かれておりますが、1928年ハリウッドで大スターになった彼女に、ヒットラーが帰国を勧告しました。しかし、彼女はそれを拒絶してアメリカ国籍を得たのであります。世界大戦中はGIの制服を着てリリー・マルレンなど歌いながら、述べ50万人の兵士を慰問して歩きました。

恋多き女でありましたが、中でもジャン・ギャバンとの仲はドキュメント映画にも描かれておりますが、もっとも彼女に近い友人としてのヘミングウェイはこのように語っております。
「彼女は、愛について誰よりも知っている」ヘミングウェイ彼女とギャバンとの共演は、1946年「狂恋」という作品です。

1953年「現なまに手をだすな」ジャック・ベッケル監督
ギャバンは戦後、特に暗黒街ものに出演しました。フランスの暗黒街ものは、ハリウッドと違い、下町の情緒が漂うような味わいがあります。銃撃戦も決して下手ではないのですが、ギャングとしての人物像を掘り下げてよく描かれております。この映画はギャバンの人気だけではなく、殺された親友を偲んで聴くハーモニカの主題歌「グリスビーのブルース」の哀愁がたまらず、大ヒットとなりました。戦後のギャバンの方が好きだという人も多い。

1954年「フレンチ・カンカン」ジャン・ルノワール監督。



ギャバンにしては珍しい総天然色映画。フランスの古きよき時代の実話であります。
ムーラン・ルージュの創設時代、創設者と若い踊り子を巡るエピソードと苦労話。下町の人情の世界。シャンソンが流れる。フレンチ・カンカンがどのようにして誕生したか。
約20分間に渉って、そのフレンチ・カンカンが画面いっぱいに展開されるエンデング。

1936年「望郷(ペペル・モコ)」ジュリアン・デヴェヴイェ監督
年代順に映画を5本並べたが、「望郷」を最後にしたわけは、何と言ってもジャン・ギャバンの代表作であるからであります。

パリ生まれの強盗ペペはカスパに潜んでいる。このカスパ、通路は網の目の迷路で警察もうっかり踏み込めない。みんながペペを護っているからだ。そのかわりペペがカスパから街へ出たら、最後、すぐ警察に捕まる。



パリから観光にきた宿命の美女が現れる。ペペはミレイユ・バランという女優が扮する金持ちの美女の虜となってしまう。街に出たら危ういと判りつつも、ペペは望郷の念にかられ、街に出た。そして警察に捕まる。観光船の出帆の時刻が迫ると、ペペは鉄柵越しに、見送らせて呉れとせがむ。船尾に美女が立っている。ペペは声を限りに女の名を呼ぶ。「ギャビー!」。皮肉にも、その時出航の合図の汽笛が鳴って、声はギャビーに届かない。ペペは鉄柵に凭れるようにくずれ落ちた。隠し持った匕首で、わが胸を刺したのだった。船は出て行き、次第に遠ざかる。ペペの視野には霞がかかり、やがてすべてが終わった。

終り

           
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映配
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大和
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文責:三上 卓治
写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田 節子