平成18年2月17日神田雑学大学講座No299


SP レコードあれこれ話




講師 岡田則夫(大衆芸能研究家)




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ご紹介をして頂きました岡田則夫でございます。今日はレコードの話ということですが、そんなに堅苦しい話ではなく、あちこち脱線してしまうと思いますが、まあ、右から左へスーッと聞いていただければそれで結構でございますので、ひとつ宜しくお願いいたします。

私とSPレコード収集

私が生まれましたのは、文京区の弓町というところです。ここは後楽園から本郷方面へ行く壱岐坂という坂を登りまして、登りつめたところが大横町商店街っていう下町っぽい商店街でして、その中ほどに昔、ロンドンテーラーという洋服屋があったのですけれども、そこが私のおじいさんの家でございまして、その裏側を入

ったところに私が生まれた家がありました。おじいさんは、昔気質の洋服の仕立て職人ですから、耳学問になるからなんて寄席なんかによく連れてってくれましてね。本郷三丁目から湯島の坂を降りますと上野で、ここには鈴本、講釈の本牧亭がある、それから神田にも寄席があちこちにありまして、かすかに記憶に残っているのが須田町の立花でございますね。

そんなところに行っているうちにいつの間にか落語が大変好きになっちゃいまして、朝から晩までラジオにかじりついては落語を聴くようになりました。昭和二十年代から三十年代にかけての落語家といいますと、なんといっても三代目三遊亭金馬ですね。非常にこう声にドスがあって明快な口調でね、分かりやすい、子供でも分かる面白い話をいっぱいしてくれました。

花色木綿とか道具屋とか、それから孝行糖なんて話もよくやっていました。それから十八番はなんていっても居酒屋ですよ。それからもちろん五代目の古今亭志ん生師匠も元気でしたし、春風亭柳橋、八代目の文楽や三木助や柳枝も健在でした。とにかくあの時代は落語界の黄金時代だったのでしょうね。

そんなことですっかり落語少年になっちゃいまして、だんだん中学、高校と進むに従いまして、まあ子供ながら知識欲っていうのですかね、そんなものが芽生えてきた。そこで何か落語に関する本がないかなあと思いまして、まず新本屋さんに行きましたね。ところが当時は落語に関する本というのは一冊も売っていなかった。まあそうでしょうね。落語って言うのは当時としては大衆の娯楽ですから本読んで勉強するというようなものではなかった。

まあだけど一冊くらいあるんではなかろうかと思いまして、こんどは神保町のほうから神田の古本屋街をぐるぐる回りましたら、古賀書店に落語の本がありました。そこでめぐり逢ったのが、正岡容(いるる)の本だったわけでございます。

落語ファンの方はご存知ある方もいらっしゃると思うんですけども、この方は四十数冊本を書いていますけれど、とにかく中身が全部落語および寄席のことばっかりでございまして、これくらい寄席を愛した方はいらっしゃらないんじゃないかと思いますね。お弟子さんには人間国宝の桂米朝師匠や俳優の小沢昭一さんがいらっしゃいます。日大の永井啓夫先生もそうです。それから私の先生であります小島貞二も正岡容の門弟でございます。しかし、私が本を手に入れた時、正岡容はすでに亡くなっておられました。三十三年十二月七日、55歳でした。ですから、私は正岡容没後のファンということになります。

そんなことで正岡容の本を熟読しましてね、昔の名人上手のことがね、熱っぽく語られているですよね。三代目小さんであるとか初代の円右であるとか、三代目円馬、あるいは盲の小せんと言われた初代の柳家小せんですね、それから三語楼だとか、そういった人たちのことがいっぱい書いてある。そういう本を手に入れたのは昭和三十八年ごろですけれども、本に出てくるそういった名人が全部死んじゃっていないわけですよね。しかしなんとかして聴けないもんかなあと思いまして、考えたのが、これがレコードを収集するきっかけになった訳でございます。

ところが、古本なら古本屋で手に入れることが可能なんですが、SPレコードを売っている古レコード屋というのは神田のレコード屋社さんぐらいのもので、専門店は少ないのですね。SPレコードは主に道具屋さんでさまざまな商品の間に混じって売られているのが実情なわけです。ところが古道具屋は東京に無数にあります。そこで初めは自分の家の近所をぐるぐる回りました。次にやったのは電話帳作戦ですね、職業別の電話番号簿の古物商とか資源回収問屋とかそんなところを上のほうから根気よく、「昔の古いレコードありませんか」と電話していくわけですね。

そうしますと五十軒に一軒とか運がよければ二、三軒ぶちあたることもありますけれど、そんなふうにして、当時千軒くらいありましたかね、全部電話しました。それで「有る」となると喜び勇んで、電車に乗っていそいそと出かけて行って買うわけでございます。

でもね、電話だけじゃ駄目なんです。昔は電話のない道具屋もいっぱいありますからね、そういうのを調べるために、こんどは駅を一駅一駅降りていくわけです。例えば東武東上線だったら北池袋、下板橋、大山と各駅停車で降りていく。降りたら駅前で取材をするわけです。むかしはたいてい自転車預かり所っていうがありましてね、おばちゃんが牛乳とパンかなんかを商っている。牛乳一本買って、おばちゃんこの辺にそういうのないのなんて聞いて、探し歩くわけです。そしてひとつひとつ川越あたまでずっと駅降りてさがしました。まあ無さそうな新しい駅は省きますけれども。

そうやって東上線がおわったら次は西武線とか、東京の駅って言うのはだいたい四百いくつありますけれども、三百くらいは降りたことはあると思います。これだけ熱心に会社の仕事もやったなら、社長賞ものですね。

今そういう道具屋は本当に少なくなりまして、まあ現在はリサイクルショップってハイカラな名前が変わってしまいました。なんといっても面白いのは昔の道具屋ですよね。本当に懐かしいんです。たいてい路地の奥の方にありましてね、木造の平屋で、入り口のところには火鉢の欠けたやつなんかが置いてあったりして、灰の中に水が溜まってぼうぼう雑草が生えているようなそんなものが転がっているような道具屋ですね。

中に入るとたいてい土間ですよね。土間。いきなり地面から土間になってね、そこに昔の国民服のボタンのとれたやつとか、昔のモスリンのくにゃくにゃになった着物だとか飯盒だとか鍋釜の類とかね、もうありとあらゆるものがころがっている。天井からは裸電球がにぶい光をぼーっとはなっていて、ばあさんがいて店番しているという、そういうような薄暗い感じの店のがらくたをまさぐっていくとレコードがたまにあるわけですよね。レコードはこうやって手を入れて中をさぐりますとシャリッとしますからね。手触りで分かるんです。それから箱なんかに入っていても、つっこんでこうやりますと手触りで分かるんです。

このように、ともかくきょろきょろレコードはないか、レコードはないかそればっかりが頭にあるわけなんですね。まず都内からだんだん集めていったわけでございまして、まあ勤め人になってからは、多少は経済的に余裕がでてきますので、こんどは全国行脚となりました。

全国展開になりますと急に行動範囲が広がっちゃいますから、全部は到底いけませんから、ありそうな土地柄というものがあるわけです。これは多少社会科のお勉強になりましてね、まあ私は戦前のレコードが中心ですので、まず戦災に遭っていないということがひとつの条件ですね、B-29の爆撃を受けていないところ。それから土地柄っていうものがあるんです。なにか文化的なにおいがするっていうか雰囲気ですね。大きなお祭りがあるとか織物が盛んであるとか、なんかおいしい酒があるとか、町並みがきれいだとか、そういうところ。

これは人口の大小は関係ないのです。それから土地柄で落とすことが出来ないのは花柳界ですね。花街、遊郭が栄えたところです。そういったところは例外なくレコードも沢山売れた所なのです。これは私の経験でそうなのですが、そういうのは昔の松川二郎の『全国花街巡り』などの昔の本を見て、あそこに遊郭があったのかなーなんていうことを調べて行ったわけでございます。

熱心に聞き入る受講生そして北海道から沖縄まで、すべての都道府県でSPを手に入れてやろうと思いましてね。これは一種の遊びですけどね、何か目標があったほうが収集と言うものは面白いものなんです。まあ東京に居座ってもレコードは集まるんだけれど、私は旅が好きなもんですから、物見遊山も兼ねましてね、あちこち歩きました。三年前に沖縄に行きまして、これで全県制覇となりました。収集旅行を始めて四十年。収集で訪問した都市は二百五十ヵ所になりました。集めたレコードは二万枚ほどでしょうか。

レコードをそのようにして集め、聞いて分かったということは、レコードというのはありとあらゆるものが吹き込まれていますね。初め落語だけ集めていたんですけれども、寄席全般に広がっていきました。落語には芝居話というものがある、そうすると歌舞伎も集めようかなとなりますよね、そうするとついでに新派、新国劇だやれレビューだ、エノケン・ロッパなどのああいう軽演劇も集めよう、チャンバラものも集めよう、じゃ映画もやろう、じゃーいっそのこと演劇関係全部集めてやろう、そうなると能・狂言から始まってしまいますからね。

それから寄席の音曲関係から派生していきますと、これは大変です。義太夫、清元、常磐津、長唄、端唄、小唄などの三味線音楽全部、尺八、琴といった日本の伝統音楽は全部収集対象に入ってしまいますし、まあついでに童謡唱歌や詩吟も集めましょうとか、民謡、それから流行歌となりますと明治からこのかたの俗曲、昔の法界節、書生節、それから昭和の流行歌、そんな風にやっていきますと全部が収集の範囲になってしまいます。いろいろ聴いて見ますとまあ、日本の芸能の根っこというものは一つだということをつくづく感じます。

とにかく見るもの見るものが興味あるようになりますので、それで分かったことは、日本のレコードというのに、見る芸能、踊りとかは別ですよ、聴く芸能というものはたいていのものは全部入っていますね。最低一枚は。それを時代的に並べますとその時代時代でどういう芸能が好まれたのかということもよく分かりますし、芸能の変遷もわかる。例えば漫才なんかですとね、漫才というのは明治の中ごろに興ったもので、新しいものなんですが、レコードをによって移り変わりがよくわかります。

それからレコードは記録ですから、今流行ることがなくなってしまった廃絶した芸能ですね、こういうものもあります。例えばね、覗きカラクリだとかね、阿呆陀羅経であるとか説教浄瑠璃、これはやっている人はいることはいますが、殆ど絶滅に近い。そういうもんだとか、まあ映画説明なんかもそうですよね、これもトーキーとともに無くなった芸能ですから。そういうように今は聴く事が出来ない芸能を聴く事ができるとこともレコードの恩恵でしょう。普通昔の芸能を調べるときは活字の媒体からいくんですけれども、レコードというのも資料としましては大いに有効にこれから使っていこうと思っているわけでございます。

ともかくテープ録音というのが身近になったというのは近年のことで、カセットなんかが出たのは昭和四十年台代ですよね。それ以前というのは普通の一般家庭ではテープはないわけで、まして戦前になりますと音を取る物はレコードしかないわけですね。レコードで記録するしかないわけで、今言った芸能関係以外にもレコードには色々なものが残っているのです。

たとえば演説のレコードだとか、宗教関係ですとお坊さんの説教だとかお経だとか、ニュースの記録、これは断片的ですけれどもそういったものとか、教育方面で言いますと算盤の読みあげ算とかね、これなんか今聴くとちょっと味があって面白いものなんですけれどもね、昔の名人が算盤塾で、一銭なり二銭なりとありますよね、読みあげ算の寄算、掛け算、割り算、ああゆうのも吹き込んだレコードがございます。それから戦後だったらパチンコ屋の場内放送とかこういうのも案外今聴いてみますと面白いんですよね。風俗史の貴重な記録だと思います。

コマーシャル、宣伝の媒体にもレコードは昔から使われておりまして、コマーシャルソングの第一号というのが、これは私の知っている範囲では「猫イラズレコード」だと思いますね。「猫イラズ」は殺鼠剤です。これには猛毒の燐が入っていて、御馳走だと思ってねずみが食べるとお陀仏になってしまうんですよね。大正六、七年ころの成毛商店というところが宣伝用に作ったものです。歌の中に「チュウチュウチュウ」という鳴き声が出てくる面白いものです。これはこれがCMソングの最初でないかと思うんですがね。あと星製薬もその同時期にありますけれど。そんなように日本のレコードには色んなものが入っているということです。

私は洋楽は集めていません。嫌いじゃないんですが日本の物だけです。日本人がやっている洋楽は集めます。けれども、外国人が演奏している洋盤、クラシック、タンゴとかシャンソンといった大衆音楽など、本家が向こうのものは他の方にお任せして私は日本もの専門でやっているわけでございます。

SPレコードの歴史

さてレコードの歴史なんですけれどもね。記録するには文字とか色々ありますが、音の記録というのは、人間はなかなかすることが出来なかったのですね。ご存知のようにレコードの原理を発明したのはエジソンということになっておりますね。1877年のことでした。エジソンが最初発明したレコードというのは筒型でしてね、缶ビールの缶みたいな筒型で縦振動のレコードでございました。筒型ですから同じものを複製するということはやり難いわけですよね。

それで考え出されたのが、我々が知っているおせんベいの形をしたレコードが発明されました。日本語で「平円盤」と言うのですが向こうの言葉ではディスクと言います。これを考え出したのがドイツ人のベルリナーという人です。あるいはベルリーナと言う人もいますけれど。この人が商品化することに成功しこれが1888年のことと伝えられています。

そのころには日本にはレコード会社の影も形もなく、ヨーロッパやアメリカなどのレコード先進国が日本のレコード市場を開拓しようというのか進出を図りまして、日本にやってくるわけです。機材一式や技師を日本に持ってきてホテルの一室を利用して音を取ります。取った原盤を本国にいったん持ち帰り、そして本国でレコードの形にいたしましてそれを改めて日本に輸出すると言うやり方、これを「出張録音」と我々は言っているのです。

その出張録音に日本に一番最初にやってきたレコード会社がどこかといいますとイギリスのグラモフォンという会社です。英国グラモフォンと我々言っておりますけれども、明治三十六年の二月のことでございます。これが日本のレコード事始になるわけです。西暦1903年ですね。

今までの本にはたいてい明治三十四年と言う風に書いた本が多いんです。これは何故かといいますと、当初のレコードについて書いた本と言うのは日本に一冊しかありません。山口亀之助先生の『レコード文化発達史』という有名な本でございまして、それにこれ誤植だったいうのですが、明治三十四年と書いてあるんです。それが訂正することなくそのまま百科事典でも何でも音楽関係の本全部、明治三十四年と言うことになっていますが、これは間違いでございまして、先年日本で最初のレコードのCD化をするというので私お手伝いしましたが、その時イギリスの本国に、日本にやってきたガイズバーグという録音技師の手記が残っておりまして,それにちゃんと1903年の二月と記録されていました。新しい資料が発見されたのですね。

たかだか百年かそこらの昔のことなのですけれども、こういった庶民のこと、大衆に関することは百年もたつとなんだかわかんなくなっちゃうものなんですよ。まあしょうがないことなんですがね、それがこの度分かったと言うことで朝日新聞でも一度記事になったことがございます。

英国グラモフォンは築地のセントポールホテルというところをスタジオ代わりにしまして録音が行われたわけです。ところが外人の人がいきなり日本に来て東洋の訳の分からない芸能を吹き込むわけですから誰か道案内とかそういう人がいないと出来ません。それで活躍したのが快楽亭ブラックという落語家でございます。

このお名前どこかでお聞きになったことあると思いますが、青い目の片言交じりの噺家で大変有名だった方で、ほかの講釈みたいな事もやりました。このブラックが芸人さん達の斡旋とか、もちろん通訳、お金の出し入れなどマネージャー的な仕事もしたのかもしれませんね。まあそういったプロデューサー的な仕事をして大活躍したのです。このブラックという人がいたお陰で、日本最初の録音が成功に終わったと思います。

この時吹き込まれた枚数は7インチ盤というドウナツ盤くらいの大きさの盤が百六十四枚、それから十インチ盤、二十五センチですねこれが百九枚、ぜんぶで二百七十三枚が録音されたわけでございます。その中から、ブラックの日本の最初のレコード、今日実物持ってきたのでお見せしましょう。(回覧)

これ裏は何にもないんです。片面盤といいましてね、裏はのっぺりとしていまして、表側だけ、だいたい2分半くらい入ります。当時の録音としてはかなりよく入っています。これから復刻したものを再生してみようと思います。まあプレスの枚数は百枚から百五十枚くらいのものでないでしょうか。

スピードは普通七十八回転がスタンダードですが、昔はその周辺のスピードで、七十六のもあれば、遅いのもあるし、大体八十回転が多いですね。大正時代のものなんかは八十回転から八十四回転です。昔は電動モーターではなくて分銅みたいなもので録音をやったらしいですからそんな正確にスピードが計れなかったんではないんですかね。聞くときに自分の好きな速度で聞くようにスピード調節でやったんでしょう。

それではブラックのレコードを再生してみましょう。(CDをかける。『蕎麦屋の笑』
幕末に日本にきたブラックが初めて蕎麦屋に入った時の失敗談。一人で一度に何品も注文したので、後から連れがくると思われてなかなか持ってこなかった話)

これが最初に日本で吹き込んだ時のグラモフォンのレコードです。明治三十六年の二月の録音ですね。これはね、イギリスのEMIの本社に原盤が残っていたのです。原盤と言ってもメタルの原盤でなく実物が残っておりましてそれからCDに起こしたものでございます。よく100年間残してくれたもんだなとイギリスのレコード会社に感謝しなければならないと思っています。

ブラックはオーストラリア生まれのイギリス人です。当時の吹き込みの様子だとか回顧談とかそういったものが一切ないのですね。新聞にも雑誌にもないし謎なのですよね。初めてレコードを吹き込んだということがニュースになってもよさそうなものなんですが、まあ当時としてはこういうものはニュースにならなかったのかもしれませんね。あったら本当に私も知りたいなと思っているのです。ギャラ幾らとかどんな交渉したとか・・・・。

吹き込んでいる内容は、雅楽のような宮中の音楽から豊年斎梅坊主の阿呆陀羅経のような大道芸にいたる迄幅広い分野が入っているわけです。それも中身も当時の名人クラスばかり、たとえば常磐津の林中であるとか、謡曲の宝生九郎だとか、落語ですと名人の四代目圓喬。それから明治の爆笑四天王のうちの一人の鼻の円遊・ステテコの円遊と言われております初代の円遊なんかも入れておりますし、娘義太夫なんかも当時大変人気がありましたので、いろいろ入っています。英国グラモフォンの種目のそろえ方と言うのが後からやってくるアメリカコロンビアとかアメリカビクターとかのお手本になったわけでございます。

このようにグラモフォンが一番槍でやってきまして、その後米国コロンビアがやってくる、アメリカのビクターもやってくる、それからドイツのライロフォンという会社もやってきます。それからフランスのパテもやってきまして、出張録音というのが大正五年まで続けられたわけでございます。この中のレコードでなかなか見つかんないレコードがありまして、まだ発見されてないレコードも結構あるんです。例えば落語の初代の円左という人のものが未発見ですね。

それどころか聴いたことがあるという人もいないんです。せめて破片でも見たいと思っているんですけれど。ただカタログには出ているんです。そのカタログも発見されたのがここ十数年前の話です。それまでは誰がどんなものを入れていたのか、そういう資料が乏しいと言うのがこのレコードの特徴でもありまして。

本の場合は国会図書館などで納本制度というのがあって納めますよね、ですからある程度全貌がつかめるし新聞などにも広告を出すんですけれども、まあレコードみたいな当時の新しいソフトですね、まあおもちゃの一種くらいに片付けられていたのかもしれません。このようにして出張盤時代がしばらく続きまして、まあ日本の初期のレコードというのは外国人の手によって大変な努力で製造されたわけであります。出張盤時代で全部で何枚くらいあるかというと、およそ4000種くらいはあると思います。

明治36年最初に日本で吹き込まれたレーコード それから日本でもレコード会社が設立されることになるわけですが、日本で一番古いレコード会社というのが日本コロンビアの前身になりますが、日米蓄音機株式会社というのが一番古いです。これが明治四十年で、この会社はまもなく合併して日本蓄音機商会と社名変更になりまして、この会社が大正時代日本のレコード会社のなかで一番のメジャーな会社になるわけです。もちろん録音技師なんかは向こうから呼んできた人がやっていたわけなんですが、いよいよ日本でもレコードが吹き込まれるようになるわけです。ただ初めのころの品質はどうしても舶来品には及ばなかったのですが、だんだんプレス技術なんかも熟練工が出来まして品質のよいレコードが出来上がるようになるのです。

当時のレコードは殆どが片面盤です。これは両面作る技術がなかったわけじゃない、やっぱり片面盤のほうが有り難味があったんじゃないかと思います。一枚あたりの値段ということもありますから、数沢山売ろうと思うと片面の方が良かったのかも知れません。現にドイツのライロフォンという出張盤なんかは両面盤で初めから出しているんですよね。ですけれど日本のレコードは最初はみんな片面盤からスタートいたしました。値段が出張盤時代はものすごく高くて、盛り蕎麦一銭位の時で二円くらいから四円なんていう値段ですね。

だからレーザーディスクの出始めの時の感覚よりもっと高かったと思いますね。機械ともなると何十円ですから、六十円とか七十円とか。ですから初期のレコードというのは有産階級というかお金持ち階級しか買えなかったと思います。ですからこの辺のレコードっていうのは、探しても普通のしもた屋風の民家からは出てきませんでね、蔵のあるようなところですね、道具屋にあってもこれは秋田の佐竹公の末裔のからでたものという説明付きで、墨で書いた箱なんてに入ったのが出てきたりします。

ここでちょっと昔の録音の仕方について説明しておきますと、当時ラッパ吹き込みといいまして、ちょうどメガフォンを逆にしたような格好のラッパに向かって大きい声で吹き込むわけです。声を出すのです。そうすると音波が管を伝わってカッターがぐるぐる回っている蝋盤に溝を刻むわけで、物理的に録音していたわけで、ですから声の小さい人なんかは良く取れなかったんですね。

だからなるべく大きい声で「わーッ」と吹き込む、それから吹き込むという言葉が生まれたそうです。ですから録音に成功したものというと、浪花節のような大きい声を出すものとか、義太夫もそうですよね、大きい声出す人、それから芸者では吉原〆治というのがいまして、この人が大変声が大きかったというのでよくレコードを沢山入れています。ラッパ吹き込みの時代はずっと昭和の初めくらいまで続くわけでございます。

国内録音時代の初期のもの、豊年斎梅坊主という当時かなり売れたベストセラーレコード「阿呆陀羅経・でたらめ」というのを聴いて見ましょう。(CDをかける。)阿呆陀羅経

というわけでございまして、この梅坊主というのは安政元年の生まれですから、根っからの江戸時代の大道芸人でございました。後に寄席に出るようになって人気を博しました。今聴くと、やはり声が違うという感じがしますね。この野太い声っていうか、こういう声の芸人さんは本当に少なくなりました。大正時代になりますと、明治天皇が崩御されて喪が明ける、それと同時に、それを待っていたかのように東京大阪に続々とレコード会社が設立されるわけでございます。

大阪には大阪蓄音機株式会社、京都には東洋蓄音機、東京には富士山印の東京蓄音機
これが東西の大手なんです。京都というところは、今はレコード会社ありませんが、芸どころです。祇園をひかえていますし、家元なんかも京都にいっぱい控えています。京都だけでもレコードは商売として成り立ったわけです。京都の東洋蓄音機はオリエントレコードと言いまして駱駝の印ですね、松井須磨子がカチューシャを入れたので有名になった会社です。

これは松井須磨子が巡業で京都に行った際に吹き込んだもので、『復活唱歌』の題で入っていますが、なかなか無いレコードです。ある本には二万枚売れてつぶれかかったレコード会社が持ち直したなどと書いてありますが、これはいささかあやしいと思っています。

大阪の大阪蓄音機は白熊印と言って、これには珍しいものが色々入っています。音の良いレコードで有名ですけれどね。東京蓄音機は富士山印、これは東京のご当地レーベルみたいなもので、これにはさまざまなものが入っていまして、特に浅草オペラですね、田谷力三だとか原信子とか当時の浅草オペラの全盛期、大正八九年の華やかなりし浅草オペラの録音がそっくり残っています。

このように大正に入ると新しいレコード会社も増え、先ほど言った日本蓄音器商会もニッポノフォンとなりまして、これは大レーベルになりまして、レコードは次第に普及してくるわけでございます。レコードもみんな両面盤になりまして、次第に庶民の方にも浸透してくるわけです。二枚続きのレコードも発売されるようになりまた。大正九年に設立されました日東レコードは、清元延寿太夫や春団治のレコードなどがずいぶん売れたレコード会社ですけれども、そのように色んなレコード会社がどんどん出来まして、大変な競争になるわけです。

それでは、大正時代らしい書生節のレコードをひとつ聴いてみようと思いますが、この書生節というのは何かと言いますと、これはつまり演歌ですね、今は流行歌というのはレコードを仲立ちとして流行っていくわけですが、ラジオもテレビもない時代、歌が流行るというのは寄席の芸人が歌ったりあるいは花柳界の芸者、太鼓もちなんかが流行らせたり、もうひとつは大道の流しの芸人ですね、そういった人たちが流行歌を流行らせたわけです。

そのなかで大きなウェイトを占めるのがこの演歌師でございまして。バイオリンを弾きながら歌って本を売るわけですよね。演歌の商売のやり方はですが、これは桜井敏雄さんという最後の演歌師といわれた方に聞いた話なんですけれど、「リュウ」といって流してあるくのと、縁日なんかで人を集めて歌うのと両方あったそうです。職業上の分類から言えばこれは商人の一種なんで、歌本といってぺらぺらの薄い本を売るわけです。歌詞を覚えたい人がそれを買って、家に帰って覚えるわけです。

これを書生さんたちがやっていたから書生節と言ったのです。学生さんですね。かすりの着物をきて朴歯の下駄をはいて。演歌で有名な人では演歌中興の祖と言われている添田亜蝉坊という人がいますけれど、この方はレコードは数枚しか入れていないんです。このひとはバイオリンを使わなかった。肉声だけでやっていた。バイオリンを初めて使ったのは神長瞭月という人で、レコードも沢山入れています。この方は私が学生ころまで健在でした。テレビの11PMで「オッペケペー」を聴いたことがあります。

今は流行るか流行らないか分からない音楽をレコードを出して流行らせるという時代になりましたが大正時代にはレコードにはそれだけの力が無かった。新作のレコードを吹き込んでそれをレコードで流行らせようという試みがなされたことはあるんだけれども、実際には流行っていないですね。ですから大正時代にレコードになったものは全部巷で流行っているものがレコードになっているわけでございます。

それではその中から秋山楓谷という上方の有名な演歌師が歌いましたジンジロゲというのを聴いていただきましょう。(CDをかける。)ジンジロゲ

と言う感じで・・・。これは本買わないと歌詞が分からないんです。これは南方から来た歌らしいです。ともかく石田一松さんのお弟子さんに聞いた話によりますと、とにかく何でも歌ったんだそうです。民謡が流行りそうだなと思ったら民謡も歌うし、客が喜ぶものはなんでもネタにしてしまう、全然選ばないんです。そして時々こういうようなものを吹き込んで人気になる。このジンジロゲという歌は、戦後森山加代子さんが中村八大さんの編曲で一回リバイバルしたことがありますよね。ですから中村八大さんの時代だとこれを若いころ聞いたことがあったのかも知れないと思ったのですがね。

それとさっき複写盤の話を言うのを忘れていましたが、大正時代になりますと、法の隙間のグレーゾーンを狙って、まあ海賊盤ですね。これを作る業者がずいぶんあったのです。どうして作るかと言いますと新しいレコードを買ってきましてそれに直にメッキするわけですね。それではがしてそれをスタンパー代わりにして作るわけです。石膏で型をとってやるみたいなものです。どんどん作って新しいレーベルをつけて売るわけです。

ですから完全に売れると分かっているものばかりそれをやりますし、しかも演者にお金を払う必要もないし、広告費もいらずに濡れ手に粟のぼろもうけみたいなものでやっていた複写盤、これがずいぶん出回りまして、正規のレコードが例えば一円五十銭で売っていれば、安いほうの複写盤は三十銭か五十銭とかね、レコードそのものの作り方はそんなに難しいものではなかったようですね。

セルロイド工場に毛の生えた工場にメッキ槽一個とスタンパーがあれば出来るわけですから、レコードの素材なんかも古レコードを溶かして使えば別に新たに調合してやる必要もないですから、そんな風にして作っていたレコードがあります。関西の方が多かったですし名古屋もありました。これは複写盤といいまして、面白いのはマークが似ているんですよ、鷲印じゃなくて丹頂印とか自動車印とかね、わりと複写盤の方がレーベルもきれいで見栄えは大変いいです。これは大正九年に法律改正になるまで、一番被害にあったのは雲衛門のレコードなんですが、大正九年までは複写盤がずいぶん出回ったと言うことを聞いています。

これから昭和に入るわけです。昭和に入りますとレコードの世界というのはがらっと変わりまして、大正の末期に輸入レコードの税金があがるんですね、関税と言うのかレコード税が。今まで高い洋盤などを日本に輸出していた会社が一気に税金を沢山払わなくてはならないので、いっそのこと日本で作って売ろうじゃないかということになりまして、まあ現地生産です。コロンビア、ビクター、ポリドール、そういった錚々たるレコード会社が日本にやってまいりまして、会社を設立してレコードを売り始めるわけです。それと同時に昔からある日本のレコード会社も競争に巻き込まれ一生懸命やるわけです。

同時にレコードの製造の方法が今まではラッパ吹込みだったのが、昭和に入りましてらは、そういった新しい会社は電気吹き込みという、これはラジオの録音方法を応用した声の音の強弱を電流の強弱に変換して溝を切るという方法ですね。マイクロフォンを使うからこれを電気吹き込みと言います。これによって今まで入れ難かった音なんかもきれいに入るようになりまして、なんといっても大きな音のレコードを作ることが出来るようになったわけでございます。

岡田講師それでレコードもどんどん普及しまして、同時にプレーヤーの方、ハードの方も安い機械が色々発売されるようになりました。いままで大きなラッパだったのですが、ポーターブルの小型の蓄音機が安い値段で出るようになったりして、普通の勤め人の人なんかにも広がっていったわけです。

それから、レコード会社の文芸部も強化されました。たとえば流行歌で特に顕著なのですが、今までは流行っていたものを吹き込んでいたのが、作曲家、作詞家、歌い手そういった役割分担がなされまして、作詞家が作詞したのを作曲家が曲をつけ、それを楽譜通りちゃんと歌える歌い手が必要になってくるわけです。レコード歌手というものが生まれたのは昭和になってからです。

なんと言っても昭和に入ってからよく売れたレコードは流行歌ですね。各社新譜をバンバン出しましてね。はじめはレコードによって歌が流行るということがレコード会社はわかんなかったらしいのです。東京行進曲という有名な「昔恋しい銀座の柳・・」これが流行って、レコードでこれだけ歌が流行るのか、じゃーやってみようかということでビクターが次から次へと出すようになりまして、他の会社もどんどん出すようになったのです。

昭和六年ごろ古賀政男なんかが出てまいりまして、完全に大道の演歌師は昭和六年ごろを境にして縁日からもどこからも消えちゃいまして、本が売れないわけですから、自分たちで歌を流行らせることも出来ませんし、逆にこれはお客さんからチップ貰って流すというだけになってしまう、この流しの形態は今でも少しは続いていますけれど。

さて、昭和に入りレコードの技術が進歩して、会社も一生懸命やって、一番黄金時代になったのは私は戦前では昭和の十四、五年じゃないかと思っているんですがね。このころは流行歌なんかでも前奏間奏沢山あって、楽団なんかも巧くなっていますよね。作詞作曲も手馴れたものになってきて、映画とのタイアップなども盛んになってきてプレス枚数も全然違いますし、十五年になると下火になりますが十二、三年あたりがレコード界のピークではないかと思っています。

昭和六年に満州事変、日中戦争が昭和十二年、太平洋戦争に突入するのが十六年と、日本は軍国時代に突入します。それで戦争近くになりますと物の統制ですね、レコードの素材と言うのはシェラックという南方からくる軍需物資に使われるものなんですね。貝殻虫の一種の分泌する蝋の一種みたいなもので、絶縁体なんかに使うんですね。これに黒いカーボンを混ぜて色んなものを調合して作るんですがそれが高価なものなので段々盤質も悪くなり、さらに昭和九年、日本の検閲制度が内務省で行われ、それによって中身も軍国風になってきましたね。それで歌なんかも軍国調のものが流行ってきて、落語とか漫才とかもそうです。

ところがそういった軍国調の時に軍国調ではないものも出ていないわけではありません。それが、マニアが欲しがるレコードなんです。軍国調初期のもので月月火水木金金というのがありますよね。これは有名な歌なんですが案外放送で流れない。最近の懐メロ番組は戦前の東海太郎など戦前の曲っていうのはカットされちゃって、戦後からいきなり始まるような時代になりまして、そういった思いもありまして、これ昭和十五年のポリドールレコードですが、聴いて見ましょう。(CDをかける。軍歌『月月火水木金金』

こういうわけでこの時代、月月火水木金金なんて言っている時代まではいいんですよ。この後だんだんものすごくなってくるんです。戦う東條首相とかね、一般の国民は歌わなかったかもしれませんが、そういった歌が次々に出てきまして、こんどまた機会があったら戦争中の子供の歌など、悲しい歌がいっぱいあります。

ということで戦争になりまして、戦争の真っ只中はレコード会社は軍需産業の中に組み入れられまして、焼夷弾がばらばら降ってくるなかでレコードなんか、まあ作られていることは作られているんですが、買う人も少なくて、つぶれてしまったところもありますし、爆撃を受けて製造不能になったところも沢山あります。

それで戦後を迎えるわけですが、ビクターが一番被害が大きかった。戦前のレコード会社の大手は、コロムビア、ビクター、ポリドール,キング、テイチク、タイヘイ、ニットー、それから名古屋にありましたツルレコード、まあ準大手も入れてこんなところ、その中でコロンビアが川崎に工場があったんですがこれが被害が少なくてすぐ戦後復興したわけでございます。

ご承知の通り、終戦後あの「りんごの歌」を出したのもコロンビアです。コロンビアがリードしていたのですが、当時のレコードは素材も充分ではなくて、当時のカストリ雑誌がザラザラの紙のように盤面はザラザラでございました。その後でキング、テイチク、ビクターという風に復興してきました。そして、昭和二十八年ごろからLPというものもお目見えするようになって、一時LPとSPが両方売られていたんですよね。美空ひばりのレコードの後期なんかSPとドーナツ盤両方あります。

歌手でSP時代に吹き込んで今もご活躍の人といいますと、島倉千代子ですね。それから小林旭も『有難や節』なんか入れてます。昭それからペギー葉山、これもSP入れています。それからザ・ピーナツ、それからダークダックス。最後までSPで残ったのは踊りのレコードですね。戦争中は踊りどころじゃありませんでしたので、戦後あちこちの婦人会などで踊りを稽古するのが流行ったのですね。踊りのレコードがもてはやされまして、これは最後までSPレコードが最後までなくならずに三十六年ごろまで目録に残っておりました。

SPレコードが消えたのはそのころでございます。ですからSPレコードには1903年から約六十年間の歴史があるわけですね。この辺で時間でしょうか。どうもこの辺で終わりにいたしましょう。



(講演終了・引き続き質疑応答)

質問:古いレコードはどういうところを探すんですか?

答え:
僕なんかの集め方は贅沢って言えば贅沢なんだけれど、あるかないかわかんないところをふらふら出かけて行ってね、そこで思いがけない場所でひょっこりとんでもないものをあっと見つけた時の気持ち、それを味わいためにわざわざどこでも行くわけです。

まあ、のべつそういうことがあるわけではなくてこんなの何年にいっぺんのことなんだけれども、その気持ちを味わいたいために行くんですね。珍しい盤を「時間をかけない」で、「安く」しかも「沢山」欲しいなんて、収集の効率ばかりを求めますと、会社のお仕事見たくなっちゃいまして面白くもなんともありません。まあ、収集は、「収集のプロセス」が面白いわけですね。これは、長年レコード集めをやってきた結論ですね。

さて、SP盤はだいたい山奥の方が古いものが残っているんです。ちょっと不便なような所ですね。不便なようなところで昔文明というか盛んだったところ、例えば東北で言うと弘前市、盛岡市、会津若松とか酒田とか、秋田市もまあまあでしたね。信州、長野は東京から疎開した荷物が行っていましたもんですから時々そういうものが出たことがありますね。上田とか小諸周辺。長野市っていうのはなぜかそういうものがないんです。門前町っているのは意外とないんですよ。でも、なんといっても宝庫は京都周辺です。

町の成り立ちには門前町、港町、宿場町など色々ありますが、一番駄目なのは工業地帯でしたね。駅に降りるとSPがあるかどうかなんとなくわかりますね。駅って言うのはその街の顔でしてね、味のいい古い和菓子屋があるとか酒屋があるとかそういう雰囲気のところ、駅の前の道の狭いところがいいんですよ。パッと降りたときだだっ広い道が通っていて、白らっ茶けた色のビルが立ち並んでいるようなところはこれは駄目だなとすぐ分かりますね。和菓子屋さんとか佃煮屋があったりそういう古いとこを行くのが面白いのです。

質問:どうやって買うのですか?

答え:道具屋さんていうのは個性的な人が多いというのか、客が癖があるのでそうなったかは定かでないんですが、普通のデパートで買うみたいにはなかなか売ってくれませんでしてね、一番困るのは物が目の前にあって買うことが出来ないことなのですよね。よくあるんです。売った後でも、これは自分用だから売らないなんていう。

そんなら並べてておくなと文句の一つも言いたいんだが、喧嘩にならないんですよお金を払って出てくるとほっとしますね。。一種の道楽で商売やっている人もいるので、その人は商売と道楽がチャンポンになっていますから、俺の物だと言われると怒るわけにいかない。そこで、いろいろ作戦をたてて口説きに行くわけです。そこがまた、おもしろい。そういうお店屋さんのおやじとは、人間的な関係をつけてから買う、これが鉄則です。

道具屋さんは癖はあるけど好人物が多く、じゃあ泊まって行けとか、大分県の中津でそういうことがありましたが、蔵の中に中に入れてもらい一日中見せてもらうとか。ものすごい量のレコードがある場合があるんです。だいたい一日かかっても見きれないという、これ我々の言葉で山っていうのですが、何度か遭遇したことがありまして、そういったときのために七つ道具というものを持っていきます。まず懐中電灯は必需品、なぜならだいたい薄暗いところが多いのです。レーベルなんか見えませんから。

それから紐、手袋、夏はタオル,暑いときは汗がぼたぼた流れますから。何十年の埃が顔に付き黒い汗がこぼれることもある。それからカッターです。箱をきっちり縛っている店主がいるんです。いちいち解いていられないので切って、それであとで自分で結わえて帰るわけです。そのために紐、懐中電灯がきれるために蝋燭を持っていくこともあります。これらをかばんに入れて持っていくのですが、一回お巡りさんに職務質問されて参ったことがあります。説明するに困りました。

こういった話は山ほどありまして、仲間内ではよく話しているんですが、レコードの雑誌で『レコードコレクターズ』という中村とうようさんがやっていらっしゃる雑誌社がありまして、『蒐集奇談』の題で毎月六ページこんな雑談を百七十回連載させていただいきました。今年あたりもしかしたら本になるかもしれません。

質問:子供のころ勉強にためになると父が言って聞かされた子供の劇のレコードがあったのですが?

答え:
児童劇のレコードは沢山ありまして、それは二郎の母というものではないでしょうか。これは売れたレコードです。そういう教育に良いというレコードには文部省推奨レコードというのもあったんです。完全な学校の教材レコードではないです。学校の教材レコードとなりますと一番多いのはアクセントです。読本朗読というやつです。模範朗読、共通語で読むというものです。大阪で出たものもあるんですが、面白いことに大阪なまりがあるんです。

質問:「のらくろ」のレコードというのを聞いた覚えがあるんですが。

答え:これは講談社発行のキングレコードのものです。長谷山雛菊音楽会の児童劇ですね。講談社は少年倶楽部、少女倶楽部など子ども雑誌を発行していましたから、そういう子供物が強く、のらくろは自分の雑誌でも大宣伝して大層売れたんです。

質問:青森県で子供のころ紙芝居つきのレコードで怪人が出てきて怖い声色でしゃべる記憶があるんですが。

答え:
それは子供用に買ってもらうために色々工夫したお話絵本つきの怪人ダブロットという紙芝居のレコードだと思います。黄金バットの亜流だと思うのです。しゃべっているのが紙芝居の名人の島廼家勝丸です。リーガルレコードというコロンビアの大衆盤に入っているのです。

質問:先生は再生装置はどんなものでやっていますか?

答え:
蓄音機を持っていますが特別の時しか使わず、普段は78回転のプレーヤーで聴いています。テクニクスのSP15というのを使っています。微調整もききますし、すごくいいです。問題は針、カートリッジですが、これも東京に住んでいる幸せといいますか、秋葉原で買えます。秋葉原には何でもあります。SP用のカートリッジの業務用をいまだに作っているのです。12500円くらいですね。問題はアームですね。これがなかなか手に入らなくなりましたね。
竹針は鋼鉄針の代用品としてだけではなく、盤を傷めないということでクラシックでは使うことが多かったようですね。

質問:レコードの修理の仕方は?

答え:
ぴかぴかの状態、これはピカ盤といっていてこれと袋とカードがある、これを三つ揃いといっているのですけど、そういう状態であるのはまずない。どこかに難があります。反ったレコードは真夏にガラス板の上に載せるとふにゃふにゃになりますのでサンドイッチ状態にして暗いところに置いて元通りにするというのがオーソドックスです。ズボンプレッサーでやる人もいます。コタツでやる人、ガスストーブでゴム手袋をはめてやる人もいます。

それから傷のあるレコード、特に戻るレコード、これはルーペでよく線を調べて線を作るんです。ちょっとダーマート鉛筆のような蝋の鉛筆で溝の傷を埋めてからってやるんですね。うまくすると直ります。隙間やひびがはいったやつ、これは柔らかくして内側から絞っていってぴたっと合わせる方法と欠けてなくなってしまったレコードは、そこに幅広のセロテープをつけて、そこにエポキシ系の接着剤を流し込んで固め、はがして上にシリコンをかけておいて、鉄針でレコードを掛けて道を作ってやるのです。

とにかく、かけがいのないレコードというのはたまにありますから、再生しないとどうしようもないのです。割れていてもこれはというレコードはこんな破片でもいいんです。私の場合はレーベル眺めるだけでもいいんですから。

未発見レコード探索のお願い

最後にひとつお願いしたいことですが、落語で3枚だけ未発見のレコードがありまして、このレコードが発見されますと、我々の世界ではちょっとしたニュースになるのでます。落語家がだいたい四百数十名SPの時代に吹き込んでいるんですがその中で三人だけ発見されていないんです。半分あきらめているんですが、初代の三遊亭円左、これがベカレコードという白地に日章旗、海軍の旭日旗のマーク。それに数枚入れているんです。これが見つからない。

つぎが二代目の三遊亭小円朝、これも円朝の門人なんですがね、この人のレコードは十二インチ。三十センチ盤。フランスのパテーレコードといって縦振動でやる方式のレコードでして出ていることは間違いないのだけれども売れなかった。ハード自体も普及していない。それに吹き込まれた三遊亭小円朝の『妾馬』。

それから最後が一番望みを持っているのですが春風亭小柳枝という名前で入っているんですが、アメリカンレコードのレーベルに入っているんです。これはまだあるんではないかと思っているのです。これがもし見つかりますと落語家の録音というのは明治から現代まで一本の糸でこう繋がるわけです。ですから何とかして探したいと思っているわけなんです。ご協力ください。

質問:海外にはないんですか?

答え:
いい質問なのですが海外には僕は行っていないんです。期待できるのは、まあ日本人がいたところですね。台湾、韓国、旧満州、樺太ですね。南米やハワイのように日本人の移民が行ったところだとか、日本の大会社の支社があったところも期待が持てます。

終り
                              


文責:臼井良雄
写真撮影:橋本曜
画像編集・アニメーション編集:橋本曜・和田節子
HTML制作:和田節子