2006年2月24日   神田雑学大学 講座No300
大原幽学伝―農村理想社会への実践

講師 鈴木久仁直
ただ今ご紹介を頂きました鈴木です。私は清掃関係の公務員をやっております。これまで千葉にかかわる歴史・風土・文化など、そういったものにまつわるものを題材にして、本を七冊ほど世に問うてきました。例えば30歳の時最初に出した本が、「利根の変遷と水郷の人々」という本です。続いて「変貌する利根川」を書き、あるいは「ちばの酒ものがたり」という江戸時代からの千葉圏域での酒造業の展開というような現状をまとめてきました。昨年の8月に出しましたのが一番新しい「大原幽学伝」で、「農村理想社会への実践」というサブタイトルをつけて出版しました。

1.大原幽学と二宮尊徳
大原幽学とほぼ同時代、幽学より10歳年上に二宮尊徳がおり、関東に2人の農村指導者が現れました。
それは現れるべくして現れたものといえましょう。特に関東地方には加賀藩や島津藩のような大きな藩、力をもった領主はおりませんでした。殆ど代官とか旗本とかに支配される細切れの支配体制下にありました。旗本も3千石以上の大きな旗本になりますと常駐した部下を置いていたようですけれども、それ以下の小さいところでは収穫時期に二三人の部下を送るだけですから、江戸末期の荒れた時代、治安の維持とはできなかったのです。そういった中で現れたのが二宮尊徳と大原幽学だったのです。非常に似たところもありますし、似ているようで違うところもあると思います。

比較しますと、大原幽学は最低限の組織化として「先祖株組合」というものを作りました。二宮尊徳のほうは互助講といった形で相互扶助組織を作ったわけですけれども、これは似ていますが、「先祖株組合」の方は共有財産を作って没落農民を保護するとか、あるいは質流れした田畑を買い戻してもとの農民に耕作をさせるとか、そういったことまでやっており、似ているようで違うと思います。分相応と分度というような言い方もしております。分相応は大原幽学がよく使った言葉です。幽学の分相応には色々な解釈が出来、難しいのですけれど、また後で説明いたします。
禁欲的で合理的な労働を目指すというようなことでは非常に似ていると思っています。

二宮尊徳は報徳金という形でお金を対象に利益、利潤として考えさせるということをしました。幽学は景物という形で櫛とか鏡、あるいは色紙、そういうものを褒美としてあげました。幽学は生涯独身でしたが、二宮尊徳は妻帯しています。

幽学は権力と無縁の形での指導でしたが、尊徳の場合は農民に生まれたのですが、武士として取り立てられて、権力を背景に指導しています。幽学の場合はあくまでも個人単位の指導でした。幽学は「神文」といった入門証を出させて個人の指導をする。結果として幽学が住んだような村では、全村指導するという村もありますけれども、それは結果であって、基本的には個人が対象です。

二宮尊徳の場合は村単位での復興を目指したといえると思います。どうしてもだめな人は切り捨てるというようなこともしています。
最大限の違いは、子供、女子の教育への取り組み姿勢です。女子教育については江戸時代に言った人は殆どいませんし、二宮尊徳も発言はしておりませんが、幽学は女子・子供教育に非常に力を割きました。私は農村復興指導者としての評価だけでなく、教育者としての幽学を力点をおいて評価したつもりです。

さらに幽学の場合は平等の思想というものが入っております。当時は封建制の時代で、できることから平等の思想を取り入れ、幽学は無理を押してまで進めることはしておりません。例えば当時名主や水呑み等格差の大きい農村社会で、墓石に格差をつけないで同じ規格のものを取り入れるとか、モデル農村を作っていくわけです。最初は6戸からですが、耕地を揃えて、平等にやっていす。当時平等の思想にはなかったことですから、ある権力者は危険な思想だと思った人もいます。農村自体が復興していくわけですから、褒美をあげて表彰した領主もいます。危険思想だと禁止した領主もいます。

あと違うのは後継者です。幽学の場合も2代目3代目と育っていくのですが、2代目の場合は組織としては大きくしました。3代目になると内部抗争をして3代目の教主が追放されてしまう。地盤沈下し影響力は少なくなってしまいます。それに対して二宮尊徳の場合は後継者が非常に育ちまして、どんどん大きくしていったことが一番大きな違いかなと思っています。

2.生い立ちと遍歴
幽学は寛政9年、1897年3月17日尾張藩の武家に生まれています。剣道・槍・弓・お茶・儒学など厳しい子供教育を仕込まれまして18歳までは順調に育っていきます。18歳の時に何らかの事故を起こし勘当をされます。
門人への言い伝えによりますと道中で供の者と当時尾張藩の剣道指南役の刀のさやが触れ合ったということで諍いになり、指南役の方が刀を抜き、それに対して幽学は謝ったけれど果し合いになり、幽学は指南役を切り捨ててしまったということが言われています。

尾張藩の剣道師範というと柳生家が有名ですけれど、他に神道無念・円明流・新陰流とか色々いるのです。どんなレベルの人とやったのか、それが事実なのかどうかも確かめられません。但し勘当されているの、何らかの事故があったのは事実でしょう。当時は連座制ですから、たとえ子供の事件でも家の罪になりますし、5人組制では隣の家の問題でも連座して罪になるという時代です。親としては勘当して、縁を切ったということで家を守ったものと想像いたします。当時の子供にとって勘当というのは、戸籍もなくなって、一番厳しい罪なわけです。それで幽学は放浪の身になるのです。
その時に幽学は親から3両の金と大小の刀と3か条の訓戒を与えられています。

訓戒は「武士たるものみだりに身を捨てるべからず。他国の君主に仕えることはあるべからず。民間に子孫を残すべからず。」ということで、命は大事にしてくれということと、仕官することもだめだと、子供を作ることもだめだと言う3か条の訓戒です。この他「生家を決して明らかにしてはならぬ」と繰り返し注意されたと、門人には伝えられていたわけです。

その後、熱田神宮の神官を頼って行くわけです。18歳の身寄りのない幽学が勝手に行けるとは考えにくいので、親との関係で熱田神宮の神官を尋ねたとと思います。田島主膳というその方は、保護をするわけですけれども、すぐに京都の九条家へ転勤になります。京都に来るように誘いますが、幽学は武道家として生きようと武者修行をして、道場破りのような生活をしていたわけです。あるとき恨みに思った道場主の一部の者に手裏剣を太ももに投げられたということがありまして、武道家として生きる道はないということを悟り、その後九条家に勤めている田島主膳を頼って京都に行き、京都で色々な修行、礼儀作法、あるいは占い、易学も学んだりします。

尾張藩は九条家とか5摂家とは非常に近い関係があります。この後幽学は近畿地方を歴訪することを繰り返しますが、その中で一番長かったのは、高野山蓮華谷の三昧院の僧秀漢のところで、そこには通算3年ほどいました。
幽学が唯一師と仰いでいるのは、伊吹山の黄檗宗松尾寺の僧、提宗です。黄檗宗というのは中国から日本に渡った仏教の中では遅い方で、江戸時代、隠元禅師が開祖です。黄檗宗は仏教だけでなく社会的な事業とか医療だとかを実践するところです。そこで1年半くらいです。

幽学はこうして近畿地方を歴訪することを繰り返し、当時進んだ農法や医療を身につけていく。幽学は社会の役に立つために、あらゆるものを身に着けようとの考えがあったと思います。見ただけでは技術は盗めませんから。後で述べるように、プロの農民に農法を教えていくわけですから、生半可な知識では教えられません。大変な知識と学ぼうという意欲をみなぎらせ、社会に役に立とうという気持ちで取り組んだ結果だろうと思います。いろいろ周って9年間は修行をしていたことになります。再度伊吹山の提宗禅師を尋ねて、社会活動の実践を誓うわけです。

その後、天保元年、中山道を通って江戸に向かう予定をたて、その途中信州の上田に天保元年の8月1日に立ち寄り、大変な信頼を受けます。
上田城の大手門近くにある呉服商小野沢家ですが、そこに居候をし、講習をして道を説く活動を始めます。しかし城下町の大手門近くで、多くの門人を集めるということは、上田藩からにらまれるようになって、教化活動を禁止され、天保2年の8月には江戸に逃げるような形で、江戸へ向かいました。非常に多くの方に見送っていただいて、荷物をもつお供の人間まで雇って貰って、送られました。

その時に幽学は「別れても心は通へ友人の真の道のへだてなければ」という歌を道友(門人)に与えています。幽学が一番好きだった歌だと言われます。
江戸へ着きましたが、はさほど長くは居ませんで、鎌倉あたりを歴訪し、そろそろ近畿に帰ろうかと思っている中で、たまたま知り合った人に「まだいいじゃないか、房総の名山鋸山も見学して行きなさい」と房州への旅行を勧められ、天保2年11月18日、今の富津にある竹岡村、百首村に記念の第一歩しるします。

そこで館山の儒学者林潤造に好意をいだかれ、あちこち紹介状を書くからと房総に留まることを勧められます。こうして幽学は天保2年から房州の南館山から北の香取、鹿島神宮近辺を、往復しています。
あと簡単に述べますが、天保4年(1833)からは房の北東部に集中するようになり、天保6年には幽学が生涯住居を構えた長部村で、性学を説くということを始めています。

天保11年には長部村の名主遠藤家では物置を改造しまして住居兼教道所を作りました。幽学は初めて居を持ち落ち着くわけです。記念館のパンフレットに小さく載っている住宅は天保13年に幽学が自ら設計して作ったものです。上が銅葺きの屋根になっています。これは大正時代に屋根を葺き替えて銅葺にしたものです。

3.道友(門人)
幽学は門人を門人とは言いませんで、同じ道を歩む友と書いて道友と呼びました。
幽学を尊敬し指導を受ける中で更に道を究めたいという人には、神に誓うという形で「神文」という入門証を書いてもらいました。617名の人が書いています。当初は占いとか人相学とかの入門証も入っておりますけれど、天保9年からは全部性学の入門証になっております。
性学というのは、いまの感覚だとこれはSEXに結びつきそうですが、当時性というのは、人間の心ですとか良心ですとか、そういったものをさしており、人間の学問と言いたかったんじゃないのでしょうか。入門証のピークは天保9年で、一年で88通の入門証が出ています。

高弟としてはまず長部村の名主である遠藤伊兵衛、その子供の良左衛門がいます。二人とも名主になっていますが、最初良左衛門は遊びが好きで、一年に30両も使ったとか言われている放蕩息子だったといいます。これを改心させ、立ち直らせた。幽学の場合は不良息子を立ちなおさせるのを得意にしていたわけです。良左衛門が2代目教主になっていきます。
次に林伊兵衛は十日市場村、今の旭市の名主で豪農で、酒造業とか色々な商売をしていました。先代は苗字帯刀を許された名主でしたが、結構借金をこしらえて没落していたわけです。そこで頑張って蓄財していったのが、林伊兵衛です。

当時、イワシがとれるという幸運も手伝いまして15,000両といわれるような財産を築いたと言われています。ところが長女がいるわけですがこれは30両の簪を買ってやっても喜ばない、子の正太郎は出入りの職人などと酒も飲み始めている、伊兵衛は今で言う生活習慣病にかかるようになって、将来の行く末を考え悩んで、非常に落ち込んでいくわけです。その時に娘に菅谷又左衛門の弟幸左衛門を婿にしたわけです。姉さんに婿にします。姉さんに婿を取ったという訳で正太郎は余計遊びにはしります。林家としても婿の幸左衛門は性学に入っているということで快く思っていなかった。

しかし幸左衛門の働きがとてもよかったため、幸左衛門の助言で、正太郎を幽学に預けようということで預けたところ、幽学は最初は口で教えるというようなことはしなかったそうで、なにも言わないで自分の姿を見せていただけで、正太郎は最終的には孝行息子に立ち直ります。それを見て伊兵衛が感動して自分が性学に入ろうという話しになる。林伊兵衛は蓄財のためには、鬼の伊兵衛と言われたほど厳しくやっていた人でしたが、蓄財したお金を、性学のために使うようにもなります。

有力道友の本田元俊、長沼村(成田市)の医師で幽学の道友では、遠藤良左衛門と双璧だろうと言われている人物です。幽学は本田元俊にも医師の心得7か条を書いております。
幽学は投薬の知識もあり製薬をやったりもして信頼を得ております。当時伊吹山というのは薬草の山と言われていて尾張藩の医師などは相当利用したようです。今でも伊吹もぐさというのは名物になっています。
それから岩井重右衛門、この方は旭市ですけれども、浜で網主、農業をやっていて経済的に性学を支えた人物です。
岡飯田村の星野惣左衛門は小見川ですが、村で性学を広めましたが30代でなくなった方です。

幽学が活動した地域と言うのは、九十九里から銚子にかけて、イワシで賑わう浜と利根川水運で賑わう利根川に挟まれた地域です。
当時は江戸へ向かう幹線輸送路は利根川ですから。利根川の高瀬舟は平均で一艘400俵から600俵積めるわけです。4人くらいから6人くらい、そうすると一頭の牛や馬では一駄2俵ですから、一艘の高瀬舟に見合う牛や馬では何百頭という数になってしまいます。とても輸送効率では船には太刀打ちできません。江戸の経済と直結するも入る利根川水運の河岸、あるいはイワシで賑わう出稼ぎ人が多い九十九里浜、貨幣経済が浸透、江戸の文化も浸透してくるようなところで活動したわけです。

貨幣経済の浸透とともに当然農民は階層分化していったわけです。大地主も現れれば、没落農民も増えました。没落農民の受け皿になったのが博徒です。当時利根川流域は、東海道と並ぶ博徒の2大発生地だと言われております。利根川上流では大前田英五郎や国定忠治、下流では銚子の五郎蔵、飯岡の助五郎、笹川の繁蔵、佐原の喜三郎とかの博徒の親分がいます。博徒は戸籍もないわけですから国の権力によっては守られない、自分たちを守るのは自分たちの力だけですから、親分の庇護を必要とし、ますます集まってくるわけです。

一方女性は潮来の遊郭などで働くようになるわけです。自分の家を助けるために自分を犠牲にするというのは、当時の女性には美徳のように考えられておりましたので、自然にそうなっていったのです。
天保水滸伝のような、血で血をあらう殺伐とした時代、農村は荒廃し、長部村も四十何件あったのが25件くらいしかなくなっている状態でした。そういった農村をどうやって復興させていくかという時代に幽学は現れたわけです。天明、天保以降は人口も減少していくわけです。江戸の中期から後期、人口の減る地域は東北、経済的に豊かであると思われてきた関東、近畿で、幕末まで人口は減少し続けます。幽学の活動した長部というところは、博徒の縄張りの中心で、幽学は博打はだめ・大酒はだめと指導していくわけです。

4.農村復興の指導

幽学の指導の中で一番有名なのは先祖株組合、世界最初の協同組合ではないかとの評価もあるわけです。これは農民が一人5両分の土地を出し合って共有財産を作る。この利益を積み立てて、没落した農家があればそれを助けよう、あるいは質流れの田んぼがあれば、買いもどして耕作をさせることもやったわけです。この共有財産制度は、幕府ににらまれるひとつの大きな原因です。理解できなかったとも言えると思います。

共同購入も進めていきます。共同購入とは例えば農具の購入、イワシ、茶碗、お膳、下駄、醤油とかいったものは協同購入でするわけです。協同購入でいいところは、まず皆が一緒のものを手にする、大量に仕入れて中間マージンを省いて安く買える、同時に不必要なもの、華美なものは買わないわけです。贅沢なことはしないで、皆で相談して共同購入をする。特に幽学の場合は全国各地を遊学してきたわけです。江戸に出ることもしばしばあるのですが、その時に大丸でかなりの量の買い付けをすると日記にしばしば出てきます。

生活改善としては博打の禁止運動もあります。一晩で博打で財産を失うこともあったようです。物を河岸に売りに行った帰りに、遊女に誘われて気が大きくなって、博打をやるとかいうことがあったので、博打、大酒、不義、密通、女郎買い、強欲、謀りごと、職業の2重、兼業も禁じたようです。
次に耕地整理、これは非常に民主的な会議で決定していった。今、国の補助金を補助金で耕地整理を進めているわけですが、これはなかなか進まない。耕地整理を民主的な会議で決定する。会議体の名称である「前夜」というのは、前の夜とかきますが、小前夜、大前夜といくつかの段階があるのですが、道友の会議制で決めました。

長部の場合ですと日野神社を中心に、神社ですから山の高いところにあるのですが、その麓にあった住居2戸を一単位で、家と耕地の整理をしながら家も移転させます。農民の力だけで全部成し遂げたというのは、大変なことです。
長部の場合ですと2戸を1組にしましたが、指導を進めていく中で、更に発展させ、鏑木村の荒地を開墾して新しく作った村が宿内という集落です。この宿内部落はモデル農村と幽学が考えた所です。これは嘉永3年1850年の10月秋の収穫の終わった後、道友の多くが参加して宿内のモデル農村の建設に着手して、翌年の3月に竣工します。これは長部とは違いまして、最初の参加農家は6戸を6戸一直線上に並べて作った。それは開拓村で寂しいということもあって集合させたのだと思います。

前には水田、後ろには畑、さらに北風をさえぎる小高い岡で理想的な農村を作っているわけです。一番の特徴は各戸の耕地面積を平等にしたことです。江戸時代農民の力だけで、耕地を平等にしたモデル農村を作ったというのは想像を絶する話でしょう。
先ほどの先祖株組合もそうですが、幽学たちは当時の税制から考えると、制度に違反することもかなりやっているわけです。実際の生活の場での指導も多く、よく孝や分相応を口にするのですが、江戸時代の枠には収まらない、耕地整理、モデル農村の建設まで進めているわけです。

あと年間の作業計画表を作ることを指導しています。これは合理的な作業をめざしており「身骨を痛むほどに丹精するばかりでは、なかなかもって手の廻る者にあらず。元旦より大晦日までの割付こそ、大事なるものなりと何国にても名人の翁は皆伝えたり。1町作りて分相応のところ、1町2反も3反も作る故、手遅れとなり、肥やしも少なく上々の耕地も荒れて、悪地同様となり、米穀収穫少なく、御年貢のみ多く、自ら身代衰えるなり。1町作りて1町3反作りたるほどの収穫をよしとすべし。」と、合理的な考え方をしています。ただ単に丹精すべきということでなかったのです。農作業の場合は季節のタイミングが大事ですから、農作業の遅れは後への影響が大きいのです。

「百姓はどれほど仕事が上手であると言っても上には上があって限りがない。そのような上手な者に遅れをとらないようにするには、予め年間の農作業の手配り・方法などの計画をきちっと立てて帳面に書いておき、それを基準にして作業を進めることである。」ということで年間作業表、すなわちスケジュール表を作るわけです。そこには月に何日と休みも入れております。男子は毎月17日に大きな会合を開いていたわけですが、そういう日も休みにする。そういう合理的な農作業を計画させたわけです。

幽学の場合は技術的なことも教えていきます。田植のしかたを「性学植」と呼びます。これは正条植だけのことではありません。当時は雑植といって、キチンと線を引いたような正条植の田植えででなくて、不規則に植えていくわけですけれど、それが普通であった。正条植は千葉県あたりでは明治30年くらいから指導が始まりまして、大正には増えてきますが、全県下正条植になるというのは昭和の初めのころじゃないかと言われています。幽学は江戸時代に正条植をやったのです。これは農作業の効率も良いし日当たりも風通しも良いわけです。

しかし当時の人は、最初は驚き、笑ったそうです。遠藤家などで実践される中で、普及していったのです。性学植というのは、浅植も指導しました。深植にすると葉が土の中にもぐる形で収穫にも影響が出ますので浅植を指導したわけです。ただし浅植にすると、風で苗が浮き易くなりますので、苗の植え方の角度まで指導しています。
あと特徴的なことは自給肥料です。近くの九十九里浜は、当時最高の肥料であるホシカ(金肥)の大生産地であります。そのホシカを禁止していくわけです。

ホシカは生産力を高めますから、使うと収穫量が増加して大変有効なのですが、当時天保の飢饉といわれる飢饉が続いたわけで、通常なら収穫が増加するのですが、天候不順で収穫がなくなると、農民は高価な金肥のための借金が大きな痛手になります。農民の没落を防ぐために、幽学は金肥の代わりに草の堆肥を勧めます。なぎ芝と言って盛んにやられたひとつですけれど、土ごと草を刈って春から夏にかけてそれを重ねて発酵させて翌春に使うことを薦めています。

5.教育者
大原幽学は農村復興の指導者であり、先祖株組合という協同組合の創立者というような評価でみられることが多く、事実それは間違いではないわけですが、幽学が求めたものは何かと考えた場合、それは教育・人材育成だと思います。自分が頑張っていても自分の子供が馬鹿息子で、博打を打ってという話になると家は一気に滅んでしまいます。
家をまとめるためには、女性の力も非常に大切なわけです。当時女性教育、子供教育にこれほど力を注いだのは、大原幽学だけではないかと思っております。

幽学の場合は「議論集」ですとか、彼の言葉を書き残した「聞書集」ですとか、彼の著作もあります。けっこうな文献が残っています。そういうものを見るとまず「人を導くに、はじめ一とせ、二年の中は、先ず情を施し、その情よく通る時に至りて後、理をまなばしむる」とあります。まず信頼関係を得るのが大事だと。人間と人間ですから信頼関係がなければ相手は本気にならないし、学ぼうともしない。これが幽学の教え方の基本ではないかと思います。

また「換子教育」ということを始めました。子供教育の方法、今で言うホームステイです。換子教育というのも幽学が初めてです。門人の子供同士を別々の家で育てる。裕福な家の子は貧しい家に、貧しい家の子は比較的裕福な家で育てられます。2年くらいのうちに何軒かに預けられます。遠藤家などは何人もの子供を預かったりしたようです。どうしても親は子供に甘くなる。子供を仕込めるような家庭環境にしないさいという教えです。預けられた子供の教育のためだけでなく、預けられた家にも大変な教育になると幽学は考えていたようです。


子供大会とかもきやりました。幽学にはお金は無いわけで、色紙、櫛などの安いものを景物といって記念品を贈りました。功績のあった子供には、形に表して褒めてあげることを重視したのです。子供たちが非常に喜んだのは、幽学の住居に褒美泊まりと言って、一緒に寝物語を語りながら幽学と一緒に泊まってすごすので幽学の人間性がしのばれる話です。
「子供を口にて仕込むは甚だ悪し。」親の背中で育てろと言うことです。子供の教育は親に責任がある。親の生活態度を改めないと子供は直らないとよく言ったようです。

幽学はさまざまな心得を作ります。元服・結婚・妊娠、そういった場合の箇条書きにした心得をたくさん作っていくわけです。子供仕込み心得の掟なども書いていますが、それには悪口を言っても家中で無視するとか、金銭を家の中に散らかしては駄目だとか、呼ばれたらすぐ返事をするだとか、子供のしつけは村中の者で行うなどがあります。

家族円満とを考える時、女性の力が大きいわけです。幽学は女性教育を重視しました。当時は生まれたら親に従い、結婚したら夫に従い、老いては子に従いという三従の教えを、女大学とか色々なところで言われていたのがせいぜいでありました。
幽学の場合は毎月17日に男子の大会を開けば、18日に女性の大会を開くとか、かなり平等に女性教育をやっています。
妊娠をしたら重いものをもってはいけないとか、妊娠時の食べ物なんかにも注意を与え、かなり細かいところまで配慮しています。

本田元俊は若い時に意地の悪い質問をされているのですが、孔子は女子と小人は養いがたしといっていると問われ、若き本田元俊は、孔子は女子や小人の能力や器に応じて生かせとおっしゃっているのであって、蔑視の対象と言っているのではないと言い返します。

当時有力道友の20人をまとめたものがあります。そのうち7名が女性なのです。神文は男性だけを対象に出させていたのですが、これは女性を決して蔑視していたわけでなくて、当時の世相から仕方がなかったことなのだと思います。
2代目の教主になった良左衛門は甲乙の区別なく家の株をそろえようとまで言っています。それは「すぐに財産を分配したほうが良いという意味なのか」と聞かれて、そうではないんだ、今あるのは何代も過ごしてきた結果としてある。本当に困った緊急のものに与えるということには意味があっても今一挙に平等にしても無理がある。これから5代6代かけて、願い続け、家株も財産も平等になるようにしていくようにするのだと言っています。
教育は人を変える。その結果農村も地域社会も変わると考え、幽学は人材育成を基本としていたと思います。

幽学は最後には自殺するところまでいってしまいますが、事件の経緯ははしょって、6年にわたる江戸での勘定所での吟味があったわけです。最終的に罪になるわけですが、判決は自分を師と仰ぎ、裁きの場で無宿人の幽学を自分の実の弟と主張し押し通してくれた旗本の高松彦七郎ですが、その人の家に100日間居なさいという罪ですから、厳罰主義の江戸時代としては罪といえないくらい軽い判決だったのです。今回は温情で許すが、これからは活動はするなと言外に言っている判決だろうと思っています。

それに対して幽学は、道友に非常に迷惑をかけたし、今後道友たちに更なる経済的負担を与えることもおそれ、100日の謹慎が明けた後、長部に帰って、最後に遺書を書くわけです。短刀に「難舎者義也」の文字をきざんだ短刀で切腹します。介錯のいない切腹は難しく、苦しんで見苦しくなることが多いのですが、見事な作法だということで検視の役人は驚いたといわれています。捨てがたきものは義なりと読みますが、自分の命を捨てても正しき道を捨てることはできないということを残して死んでいったわけです。

遺書は非常に謙虚な内容で、血を吐くような心情と、すさまじい生き方がつづられています。無学の自分が多くの人を教導するといったことをやって罪をうけ、多くの道友に迷惑をかけたこと、事件を起こして、今までまじめに活動してきた人の中にも動揺が見られ、元の悪しき慣習に戻ってしまう人も出てきていることへの配慮、自分が死をもって責任をあがなえば、教えそのものは生き残っていくだろうとの期待などを述べ、武士らしい武士として最後を遂げます。

幽学はこの時村役人に、親から勘当のとき貰った3両と大小を渡し、葬式代にと残しました。幽学は結構有力者に保護され食うに困らなかったのですが、そうでないときもありました。3日も食べないで冬をさまよう時もあったそうですが、いつも自分の生き方、死に方まで考えて人に迷惑をかけまいと考え、生涯3両をずっと残していました。

6.質疑

(質問)どうして幽学は死ななければならなかったのですか?

(答え)幽学はやくざの乱入事件がありそれを口実に裁判になっていくのですが、判決後、幽学は今後活動ができない、できる見込みがなくなった。しかし色々な人が慕ってくる。来れば話もする。遠藤良左衛門なども呼び出しを受け、取調べを受けることもあったわけです。指導を続けていくと、更に迷惑をかけることになるんではないかと考えたのでしょう。今後社会活動ができないということは、この世の中で死んだも同じではないか。そこまで思いつめて、あと教育のために自分の出来ることは、自分の死だけではないかと判断した結果ではないかと思います。

(質問)幽学が社会活動を禁止されて自殺までしてしまったのに、性学は2代目3代目と引き続き活動して大きくなっていきますが、それは何故できたのですか?

(答え)このあと2代目を継ぐとなると、成田の医師本田元俊か長部の名主として堂々の地位の遠藤良左衛門か、どちらかだったと思いますが、自然な形で遠藤良左衛門が推されて、2代目教主という地位になります。

幽学の戸籍がありませんでした。無宿人の幽学が勝手にその村にとどまって、長期間宿泊することは、それだけで違反なわけです。幽学の身分のほか、改心楼の建設や耕地整理が有罪の理由とされました。だが、それ以外には奇怪の儀なく、ご法度(法律)を堅く守りと同情した判決でした。遠藤良左衛門は農民で、名主としてしっかりとした地位があるわけです。その人が違反とならない学問を教えることができるということで認められ、彼は1111通の神文を集めました。組織としては幽学よりも大きくしたわけです。
それは自分の恩師である幽学の教えを守ろう、広めようと、努力した結果です。若干組織のための組織ということも出てくるわけです。幽学の場合は門人たちの中で、更に極めようとした人が神文をかいたわけですけれど、2代目教主の場合は勧誘をして、面接をして、それに受かれば神文を書いて、弟子入りをするという風になりました。3代目教主になると内部抗争が始まってしまいました。勢力争いで両者とも没落してしまいました。但し八石性理学会というのは、財団法人になって今でも残っています。そういった遺品とかを守ってきたわけです。今は幽学記念館ができてそこで保存しています。

(質問)八石性理学会という財団法人は、今でも幽学の思想を受け継いで教育をやっているのですか

(答え)たしかにあそこの村は違うと言われています。例えば行いがよいとか、泥棒がいないとか。財団法人として幽学の住居を守る、草抜きをするとか結構大変なんですが、ずっと続けてきています。国の重要文化財に指定され、町では記念館を建てて保存しようという話になったわけです。それまで財団法人で守ってきたのです。記念館の初代館長は遠藤さんで遠藤家の末裔です。
幽学記念館が開設して10年、八石性理学会の役目は終わったと思っている人が多いようです。皆様もどうかお運びください。     
以上で終わりますが、時間の制約もあり、幽学の功績やスケールを十分に話させませんでした。アテネ社発行の『大原幽学伝』は幽学の全体像の理解や評価を分かりやすくまとめた一代記です。ぜひ参考にしてください。
ご清聴ありがとうございました。  (拍手)
文責 臼井 良雄    会場写真 橋本 曜   HTML 山本 啓一