神田雑学大学 第303回(平成18年3月17日)講演抄録

お台場の歴史を考える

講師 西川武臣(横浜開港資料館) 


目 次

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    はじめに

    台場の歴史

    東京湾の台場






はじめに

 「お台場」は最近東京都港区の観光地になっていますが、台場という言葉は砲台を意味して、東京湾の中にいくつもの台場があったことは殆ど知られていません。
これらの台場は江戸時代の終わりごろ、日本に来航した黒船から江戸を防衛するために築造されましたが、そうした台場のひとつである品川台場と神奈川台場を取り上げ、台場の知られざる歴史を振り返ってみたいと思います。

台場の歴史

 台場の多くは土に埋もれてしまったり、その後の海岸部の開発によって当時の姿のまま残っているものは殆どありません。その場所を探して、それがどのように作られていたかを調べるのが職場での私の仕事のひとつになっています。

 江戸時代の終わりごろに台場がいくつか作られるのですが関東大震災や戦災で多くの記録が消滅し文献などでひとつひとつの台場について知ることは困難です。そこで台場の歴史の概略を最初に示します。

 18世紀の終わりぐらいから日本全国にいくつかの台場をつくろうという動きが出てきます。そのきっかけはロシヤが南下政策をとって黒船に乗ってけっこう北海道あたりに出没し始めたことがきっかけです。有名なのは1792年ロシヤの使節ラクスマンが北海道にやってきて国交を結べと軍事的圧力をかけてきたことがあります。
 そのとき老中の松平定信が危機感を持ちいずれ東京湾までくるのではないかと思ったわけです。それ以降、首都である江戸の防衛が真剣に考えられるようになりました。

 次いで、19世紀早々ロシヤのレザノフが通商の要求をだします。幕府は拒否しますがこの時、樺太、択捉あたりで日本人部落を焼き討ちするような事件がおこりました。さらに、1808年、イギリスの軍艦が長崎にオランダの国旗を掲げて入ってきて居座るという事件がありました。このようなことから台場というものが真剣に検討されるようになります。その後の動きを年表にしますと

弘化 2 (1845)アメリカ船メルカドル号が浦賀入港を求める。
           このトシ、幕府が三浦郡鶴崎に台場を新設。
   3 (1846)ビッドル艦隊が浦賀に入港、通商を求める。
           鎌倉沖にデンマーク船発見。
嘉永 2 (1849)浦賀奉行が三浦郡観音崎、十石、旗山、猿島台場を視察。
           イギリス船マリーナ号が東京湾に侵入。
   5 (1852)幕府が三浦郡観音崎に新造した台場を川越藩に引き渡す。
   6 (1853)ペリーが浦賀沖に来航
           ペリーが久里浜に上陸アメリカ合衆国大統領の国書を幕府に
                      渡す。
           ロシヤ使節プチャーチンが長崎に来航
           幕府が品川台場の築造に着手
           幕府が徳川斎昭の主張を入れ「海防の大号令」を発令
           幕府が黒船来航時の各大名の警備担当場所を通達
   7 (1854)ペリー艦隊が小柴沖に錨をおろす
           日米和親条約締結
安政 3 (1856)アメリカ総領事ハリスが下田に来航
   4 (1857)幕府が松山藩に神奈川宿周辺地域の警備を命じる。
           この年、松山藩が神奈川宿の並木町に台場を築造する。この
           台場は神奈川台場が完成した頃に廃止された。
   5 (1858)日米修好通商条約締結。その後オランダ、ロシヤ、イギリス、
                      フランスと同様の条約を締結。
           松山藩が幕府に神奈川宿の猟師町のどこに台場(神奈川台場)
           を築造すべきかをうかがう文書を提出する。
   6 (1859)神奈川台場仕様書と入用内訳書が作成される。
           横浜が開港する。
           神奈川台場の工事が始まる。

万延 1 (1860)松山藩主松平勝成が竣工した神奈川台場を視察する。
文久 2 (1862)生麦村でイギリス人が薩摩藩の藩士に殺害される(生麦事件)
慶応 2 (1866)松山藩が神奈川台場の警備を免除される。その後、台場の警
           備は慶応3年から古河藩が担当する。
   4 (1868)戊辰戦争が始まる。
           神奈川台場が新政府に引き渡される。
 このように幕末には国際的な緊張がたかまって東京湾のあちこちに台場が作られていきます。全国では100や200の台場が築造されたのではと思います。

東京湾の台場

 次に東京湾の台場についてですが、資料は江戸を中心とする海防図を掲げた瓦版です。縮尺や方位はいいかげんですが当時の様子を理解するのに役立つかと思います。□印で示されているのが台場で、各大名が旗印をあげて存在を誇示したのでどこにどの大名が警備する台場があるか庶民は知っていました。

 神奈川台場はペリーがきた時はまだ出来ていません。また、小さな台場ばかりでは威力がないというので、品川沖に本格的な台場を作ろうとしたものが品川台場です。当時、品川台場の一番台場は川越藩(17万石)、二番は会津藩(23万石)、三番は武州忍藩(10万石)が警備を命じられて駐屯していました。
 しかし、東京湾内で実際に大砲を撃って外国船を攻撃したことはありませんでした。当時黒船の大砲の威力はわかっていましたし下手に撃つと逆にやられる恐れが強かったのです。

 こんな理由で台場を作ったものの、これはみせかけのもので幕府の姿勢をみせるための苦肉の策であったともいえます。
 品川台場はぺリーの来航をきっかけにつくられたわけですが、この艦隊は2ヶ月も湾内に居座っています。艦隊は最大九隻の軍艦で乗組員は1500人以上乗っていたと思われます。
 たまたま2月21日アメリカ初代大統領の誕生日記念に祝砲を撃って江戸の市民は動揺します。また生活物資を積んだ船が自由に行き来できなくなって市民生活にも影響がでてきます。庶民の動揺を防ぎ幕府の威信を示すために急遽品川台場の築造を決めたものです。台場の築造には大変な費用がかかったわけですが、これをみた外国の領事などは、これは役にたたない、大砲も射程が短くて脅威でないと判断していました。  

 品川台場の設計をしたのは代官の江川太郎左衛門です。彼は蘭学にすぐれた学者で韮山に反射炉をつくり大砲の鋳造をやったわけです。この制作費は70万〜80万両かかったといわれています。当時米を10キロ買うと一両ぐらいだったそうですから、およその見当はつくかと思います。東京湾にあった全部の台場の制作費はおそらく1千万両を越し更に数百万両の維持費がかかったものと思われます。

 品川台場は11作る予定だったものが最後の三つは未着工でいま残っているのは第2、第6台場の二つです。台場は軍事的にはあまり役に立ちませんでしたが、この建設によって地元の経済の活性化には役立ちました。資材は伊豆、真鶴、横浜近郊あたりから船で運ばれたようです。

 最後に神奈川台場は横浜が開港した後、多くの台場の最後に作られた台場です。この目的は国際貿易港の防衛にありました。また外交儀礼上の祝砲、礼砲を撃つための施設でもありました。場所はJR東神奈川の駅から歩いて15分ぐらいのところにあります。外国人の居留地は現在の中華街から山下公園にかけてありました。
 規模は品川台場に比べて小さいのですが、ここに14門の大砲を載せました。作ったのは四国の松山藩です。

 生麦事件や長州藩の外国船砲撃など国際緊張が強まって一時開港をとりやめようかという動きもありました。この時、神奈川台場も対外戦争に使用される可能性がありましたが、実際に、この台場は平和時の外交儀礼のために利用されただけでした。
 このように、東京湾内には多くの台場がありましたが、先に述べたように、そのほとんどは現在昔の姿をとどめていません。せめて残された台場だけは後世に史跡として残したいと思います。

ご参考:
横浜開港資料館ホームページ

おわり
(文責 三上卓治)
会場写真撮影:橋本 燿
HTML制作:大野令治