神田雑学大学定例講座 第309回 平成18年4月28日

スクープの裏側

――元スクープ・カメラマンの赤裸々な半生――

講師:近衛 麗衣


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自己紹介

1.私が写真を撮り始めた理由

2.週刊誌のスクープ取材に携わる

3.結婚・出産・離婚

4.スランプを経て「フライデー」に持ち込み

5.その後、そして現在の活動

自己紹介

父方の祖父が近衛兵に在籍いたことからペンネームに「近衛」姓を名乗りました。源真里先生に「近衛麗衣」と命名して頂きました。 出身は埼玉県です。本名は腰塚昌子と申します。東京写真専門学校(現・東京ビジュアル・アーツ)報道写真科卒業。 国学院大学法学部法律学科中退。

1.私が写真を撮り始めた理由

中学時代に"Queen"のドラマー、ロジャー・テイラーの美しさに魅せられ、ロック・ミュージックを聴き始めました。 そして、高校時代に"KissとAero smith"の前座を務めた日本のロックバンド"Bowwow"のファンとなり、ロックのライブ写真を 撮り始めました。高校時代には、ロータリークラブの後援する「インターアクト・クラブ」に所属して、 1年生の冬休みに、グアムとサイパンの船旅の海外研修生に選ばれ、参加させて頂きました。

「文化祭」副実行委員長としてもリーダーシップを発揮しました。学校内ではそのような活動をしておりましたが、 対外的にはロックの写真を撮るほか、TBSテレビの「銀座Now」(10年くらい前の番組)の特派員や東京12チャンネル (現・テレビ東京)も「ロックおもしロック」にアメリカのロックバンドのファン代表として出演しました。  

そうこうしているうちに、勉強の方が疎かになり、大学に行きたいと思いましたが、レベルの低い大学へは行きたくなかったので、高校卒業後は写真の専門学校に入学しました。今は移転してしまったのですが、もともとは水道橋駅と御茶ノ水駅の間にあった「東京写真専門学校」で、「東京デザイナー学院」と併設されていました。現在は日本テレビの近くに校舎を移し、校名も「東京ビジュアル・アーツ」と改名しています。

在学中から音楽雑誌のカメラマンを始めました。高校時代からロックのライブ写真を撮り始めていましたので、作品は大分ストックとして溜まってきました。 テレビ出演した時に知り合った音楽雑誌の編集長にこれらの写真を見せました。最初に雑誌の掲載となったのは「プレイヤー」 という音楽雑誌です。19歳の時でした。

そのあと、ロック雑誌の「ロッキンf」の仕事を始めるようになりました。現在は廃刊になりましたが、 「現代用語の基礎知識」を出している自由国民社で発行していた「新譜ジャーナル」という音楽雑誌には専門学校在学中から レギュラカメラマンとして仕事をしていました。「新譜ジャーナル」はフォーク系の雑誌でしたが、その中でも、 ロックバンドを担当するということで仕事をしていました。

2.週刊誌のスクープ取材に携わる

専門学校を卒業する頃になって、フリーでカメラマンをしていた関係上、就職をするかどうか迷ったのですが、 専門学校の講師の紹介で、週刊誌の仕事に携わるようになりました。

・「宮崎知子・獄中独占会見」の裏事情

そのきっかけとなったのが、「女性自身」の1981年6月2日号に掲載された長野県と富山県で誘拐殺人事件を犯した宮崎知子―― ご記憶の方もおられるかと思いますが、赤いスポーツカーに乗り女性を誘拐し殺害した容疑で逮捕された女性―― についての取材記事です。

これは専門学校の講師から話を持ちかけられました。私としてはマスコミ業界に携わりたいという希望もあり、講師の先生からこの女性に手紙を書いて欲しいとの依頼に応じました。私も好奇心が強い方なので、あまり怖いとかなんとかを考えもせずに相手に手紙を書きました。手紙は本名で出しましたが、自分がカメラマンであるとことを伏せて、スタイリストの卵でスタイリストの学校に通学している、という設定でした。所謂ダマシ取材の形になってしまいました。

最初はあまり抵抗も無く、好奇心もあったので手紙を書いたのですが、返事が来るかどうか期待もあり、不安を感じながら待っていましたら返事がきました。非常に独特の筆跡の手紙でした。十数通くらい文通したと思いますが、それくらい手紙を交換したのなら面会に行ってはどうか、とその講師のルポライターに持ちかけられました。会ってもらえるかどうか分りませんでしたが、富山刑務所に出かけました。

富山刑務所では、知人という名目で面会の申し込みをし、許可を得ました。ただ、本人が承諾するかどうか分りませんでしたが、会ってくれました。面会時間はおよそ30分くらいでした。映画やテレビドラマで見るようにガラス越しに面会し、後ろには看守が付いており、話の内容をチェックしていました。面会が終り門を出ましたら虚脱感に襲われた記憶が残っています。 獄中で面会をしたのですが、そのことを原稿に纏めて欲しいと要望され、原稿用紙30枚くらいに纏めました。かなり取材期間は長かったのですが、途中で驚くべきことが起こりました。

それは想定外のことでしたので、ビックリしました。富山刑務所に収監されている宮崎知子(さん)がある男性と文通していて、その人の手紙は面白いので、あなたも是非その男性に手紙を書いてみてはどうか、と私に持ちかけてきました。私はまたその好奇心から、どんな人なのかと思い、その人に手紙を書きました。返事がきましたが、返事の封筒を見てビックリ仰天驚いてしまいました。その封筒にはハンコが押してあって、大阪刑務所の住所でした。ですから、富山刑務所に収監されている宮崎知子(さん)と大阪刑務所のある男性とが、囚人同士で文通をしていた訳です。囚人同士の文通という事実に驚かされ、また、囚人を紹介されたことも驚きでした。

その男性がどんな罪で入っているのか不安になったので、ルポライターの先生に調べてもらったところ、暴力団関係の抗争があり――記憶が定かでないのですが、関西に鳴海組というのがあって、その組長を射殺した――事件に関わった人らしいと判明しました。未だ二十歳(ハタチ)そこそこで、そんな人と関わってしまったことにビックリ仰天、ショックを受け、この取材は中止、掲載を止めて欲しいと雑誌社に申し出たのですが、強行的に雑誌掲載されてしまいました。

私としては無知というか、学生に毛の生えた程度の知識しか無く、人から指示されて行ったことで、自分で考えて行った仕事ではないのですが、そういうことに自分の身を置いてしまったことで非常に情けない思いをしました。 雑誌に掲載されてからは彼女には手紙を書かなくなりました。暫くして彼女から「アナタの素性を調べました」、と弁護士を通して手紙がきました。

「今まで私が書いた手紙を全部返して下さい」と言われました。そう言われても仕方無いと思い、お詫びの手紙を添えて、彼女からもらった手紙を全部返却しました。 その時のことは、自分より立場の弱い人に対して、「偽りの手紙を書いて仕事をした」、ということで非常に後悔しました。これは偽りの無い気持ちです。 宮崎被告の判決は死刑でしたが、未だ執行されていません。大阪の囚人のことは、その後については知りません。

「女性自身」では色々な事件物や仕事をしましたが、「男性に騙されて眼を刺された女性へのインタビュー」で仙台へ行きました。今は人権問題とか間違った記事を書きますと訴えられますので少なくなっていますが、当時は「載せてしまったもの勝ち」のようなことがあって、載せられたら「載せられ損」のような風潮がありました。眼を刺された女性の顔写真は撮らないという約束にも拘らず、顔写真をトップに載せてしまい、編集者の許には彼女のお母さんから苦情の電話がかかってきましたが、逃げ回って電話に出ず、随分卑怯な対応をしていました。

・「山口百恵・結婚一周年スクープ」秘話

芸能物の仕事も色々やりました。代表の一例として、「女性自身」1981年11月12〜19日号の山口百恵さんが結婚して一周年記念の時に張り込みをしました。「女性自身」にはグラビア班とか活版ページの読み物班とか班が分かれているのですが、私がいたセクションは活版の読み物のページ班でした。 グラビア班の方は、一週間前から当時住んでいた品川駅前にあるマンション「品川ペアシティルネッサンス」の前で張り込みをしていましたが、私はカメラマンで、記者と二人で張り込みに行った一日目に写真が撮れてしまいました。

ですから社内内部では、ヤッカミやイジメに遭いました。普通でしたら二十歳くらいの若い女の子が撮れたのですから、「良かったね!」とか「これからも頑張れよ!」とか、そのような言葉があっても良さそうなものですが、全くその逆でした。「キミね!こんなことはそんなにあるものでは無いよ!」とか「キミ、ギャラはいくら貰ったの?」とか言われ、陰湿な大人気ないイジメに遭いました。そんなことが今でも記憶に残っています。

「おすぎとピーコ」という双子のオカマの男性の取材の時ですが、私はカメラマンで、インタビュー内容を聞かされないまま約束の場所に行きました。そうしたら記者が1時間近く遅れて、彼を待っている間に、おすぎだったかピーコだったかは定かではないのですが、二人で話をしていて「今日はどういうことでインタビューすることになったのですか。私は内容自体を聞かされていないのですけれど」とお聞きしましたら、「私が結婚するというのよね〜」と言われビックリしました。

私もオカマで売っているから「女性と結婚するのですか?」と聞きましたら、「あなたもおかしいと思うでしょう」と言うから「ええ思います」と言いました。「結婚する訳無いでしょう!」と本人も言っているし、ある噂話で結婚すると話題になったらしいのです。本人が否定しているにも拘らず、無理やり記事を作ってしまう、いい加減な記事の作り方を当時はしていました。

・セクハラ・いじめ・ストーカーの被害から自殺未遂

「女性自身」では、セクハラとイジメの被害を受けました。先ほども申し上げましたが、スクープを撮ったあと、ヤッカミやイジメがあり、 セクハラも受けました。当時、私は一人住まいでしたが、無理やり私の家に来ようとするのです。新米のカメラマンの私に 「写真を教えてくれ」、などと編集者に言われました。「そういう事は会社で」、とやんわりと断りましたが、 立場の強い者が圧力をかけるような形のものでした。

  ストーカーの被害も同時進行というか、ダブルパンチで受けました。 テレビにも出ている女性評論家のパーティーの席で知りあった男性ですが、思想を持った方で、 どちらかといえば右寄りの方です。私はどちらかと言えば左寄りの考えなので、相容れないところがあるのですが、 その後、しつっこく電話を掛けてきました。そのことが原因でノイローゼになり、自殺を図った経験があります。

埼玉の実家に帰り、頭がおかしくなり、起き上がれなくなりました。実家では医者通いをしていましたが、「一度自殺を経験したので、また自殺を図るのではないか」、と院長先生が私の母親に目を話さないようにと言っていたそうです。 半年くらい実家で寝込んでいましたら回復してきました。そうしたら、もう、写真の仕事は辞めようと思ったのですが、 何となく悔しさが残りました。

・「フォーカス」の売り込み

「女性自身」の仕事をしていた時から売り込みをしていたのですが、新潮社「FOCUS」へ連絡をとり、その仕事を始めるようになりました。 「FOCUS」の1982年5月7日号は、未だ「女性自身」にいる頃に掲載したものですが、この掲載もイジメの対象になりました。

当然フリーの立場ですから表向きはどこの出版社の仕事をしても構わないのですが、嘱託というか仕事を与えているということで、あまり他社の目だった仕事をすると、「アイツは他で稼いでいるから仕事を与えなくてもよい」というような風潮がありました。挨拶しても無視され、結構陰険なイジメを受けました。

半年が経過し、体調も回復してきたので、また売り込みを始めました。自分独自でいろいろネタ探しをして、売り込んだのですが、 掲載のチャンスがなかなか無かったのですが、その熱意を買い、先方から依頼がきました。 それが「FOCUS」1983年3月4日号の混血歌手、青山ミチの発見スクープ写真です。 この写真は愛知県岡崎市で撮ったものです。本来なら男性カメラマンが行く予定でしたが、 彼が交通事故に遭い、ピンチヒッターで私が岡崎まで出向きました。

最初は彼女に取材申し込みをしたのですが、本人からは拒否されました。 拒否されてもプロの根性で絶対に撮らなければならないのです。彼女の家の前で6時間くらい待っていました。 岡崎市では「岡崎ミチ音楽教室・歌謡教室」を開いています。3月4日午後ですから未だ寒い時期でしたが、 昼間から夜まで待っていました。

自宅から出てきたところを「写真を撮らせて下さい」とお願いしたのですが、「嫌だと言っているでしょう」と拒否され、 カメラの準備をしていて、彼女が振り向いた瞬間に1枚撮りました。撮った瞬間に「あなた!フィルムを返しなさいよ」 と掴みかかってきました。取られては困るので、カメラを抱きかかえたのですが、ストロボは取られてしまいました。 それで恥かしい話ですが、その場を走って逃げました。 追っかけて来なかったのでホッとしましたが、ストロボだけは取られてしまい、その後も戻ってはきませんでした。

新潮社に戻り、1枚しか撮れませんでしたと報告しましたが、「チャンと撮れている?」と聞かれ、 「大丈夫です」と言ったものの内心心配でした。それが3月4日号に掲載された写真です。 彼女を取上げた理由は、スキャンダルの歌手として有名で、岡崎市で発見されたということで、 「あの人は今?」とかいうタイトルの対象になりました。昔活躍していて今何をしているのか分からない人を取り上げている企画です。 彼女の場合は、結婚を3回していて、3人の父親の違う子供を生んでいるとか、いうことで取り上げられました。

「FOCUS」では、礼宮(現・秋篠宮)さまの学習院高等科卒業式写真を潜入して撮りました。 父兄と名乗り写真を撮りました。卒業式の式次第から聞いていたのですが、どういうタイミングで撮るのが一番いいのか迷いました。 丁度出てきたところを撮りました(「FOCUS」1984年4月6日号)。

その翌年に清子内親王(現・黒田清子さま)の女子学習院中等科卒業式に潜入して撮ったのですが、 学習院の関係者の方が寄ってきて「キミ、いま宮様をお撮りになりましたか?」と聞かれましたので「ハイ」と答え、 正々堂々と名乗る訳もいかず、「学習院の学生です。写真部の者です」と言いました。「昨年、礼宮さまの写真が載ってしまったので、 また出たら困る」と言われ名刺を渡されました。新潮社の人に一部始終を話しましたが、掲載になりました (「FOCUS」1985年4月5日号)。

3.結婚・出産・離婚

「FOCUS」の仕事をしている間に、結婚し、出産し、そして離婚しました。その間スランプに陥り、写真の仕事から離れました。 スクープの仕事ばかりでなく、時事通信社の「週刊時事」ではアメリカ初の女性知事などキャリア・ウーマンのグラビアの撮影 (1985年4月6日号)や、日本経済新聞社の「日経スタッフ」編集事業部で企業人の写真を撮影したりしました。

4.スランプを経て「フライデー」に持ち込み

写真の仕事にまた戻りたいという希望がありましたので、自分で色々と企画を立て、ネタ探しをして活動しているうちに、もともと私自身ロックが好きでしたから、ミュージシャンが来日すると六本木のディスコへ行き、そこで彼らと会いました。

・「スラッシュのプライベートをスクープ」

たまたまアメリカのロックバンドで「ガンズ&ローゼズ」のギタリストをしていたスラッシュがソロで来日した時に、 張り込んで撮った写真です(講談社「FRIDAY」6月23日号)。これだけフレンドリーな写真を撮れたのですから仕事に生かそうと思い、 たまたま「週刊現代」に「ガンズ&ローゼ」の記事が載っていたのを思い出し、「週刊現代」に売り込みの電話をしました。

そうしたら、写真がそれだけあるのなら、「FRIDAY」が良いのではないかと「週刊現代」の方から「FRIDAY」の方に話をして戴きました。 そして写真を見せ、掲載ということになりました。 この会場は年配の方が多いので、ロックミュージシャンの話をしても、何故それがスクープなのかお分かりにならない方もいるかと 思いますが、「プライベートで何故そのお店に行った」とか、写真週刊誌的には取上げる価値があるのです。

普通の記事の仕事もしました。「連合」の会長になられた鷲尾悦也さん、当時事務局長の時に歌手デビューを果たされました。 新人の女の子とジュエット曲を歌い、ソロで歌ったものをCDに出しているのですが、 その作詞をした石坂まさお先生――昔、藤圭子の一連のシリーズの作詞をされた方――と交流があり、 「今度面白い企画がある」と聞かされ、鷲尾さんが歌手デビューした時に取材・撮影をして 「FRIDAY」に取上げて戴きました(1996年8月30日号)。

写真には撮らなかったのですが、私は色々と好奇心が旺盛ですが、落ち込んでいる時に友だちに誘われ、色々な新興宗教に行った経験があります。その中の一つに福永法源の「法の華三法行」というのがあります。今でも悩めば占いや宗教に出かけます。「日刊ゲンダイ」だったか「夕刊フジ」だったか定かではないのですが、福永法源の「足裏診断」という記事で載っていました。私もそれに行きました。料金は3万円でした。診てもらって良かった、とは思わなかったのですが、診断後、別室に連れて行かれ、セミナーを受けろとか色々な勧誘がありました。

鑑定料を取るのはホンの入口なのです。セミナーに参加させるためのテクニックが巧妙で、別室で「あなた! セミナーを受けなさい」と言われ、2〜3日だったか、1週間だったか忘れましたが、普通それくらいのセミナーでしたら料金的には 4〜5万円とか、10万円なら分るのですが、確か100万円の金額提示がありました。

親戚や友人から借金して何とか掻き集めることが功徳になり、その集めたお金でセミナーに参加することにより「あなたは救われる」、 と言われました。足裏診断に3万円で行っただけなのに、 そんな大金を集めてセミナーに、簡単に参加しますとは言えず、何とかその場逃れをして帰ってきました。 詐欺で被害に遭われた方は、莫大な金額を「法の華三法行」に注ぎ込んだようです。

・「船田元・畑恵スクープ」

「FRIDAY」では、張り込みをして取った仕事もあるのですが、偶然スクープを取れてしまったという経験も結構多くあります。その中で、政界失楽園騒動で有名になった、船田元氏と畑恵さんのスクープも偶然撮ったものです。

ある日曜日の昼下がり、私が外国人の友人と、NHKの前にあるお洒落なお店にいた時に、畑恵さんのお顔を見かけました。私も好奇心が旺盛ですから、どんな男性と一緒にいるのか興味を持ち、見に行きましたら船田元氏でした。 ビックリして二人を観察していたのですが、どうも打ち合わせをしている雰囲気ではなく、これは不倫をしているのではないか、 と私の心の中で推測しました。

当時はカメラを常時持ち歩いていましたので「これは絶対撮らなければいけない」と職業意識が働き、 どうこう考えているうちに、相手が席を立ってしまいました。後姿で分りにくかったし、 それにピントもチョッとズレているのでこの写真では掲載は難しいと思ったのですが、体の特徴で分かる、 と編集者に言われ掲載になりました。船田元氏は気が付いたようでした。 失楽園騒動の火付け役になりました(「FRIDAY」1996年8月2日号)。

その後、すぐに「週刊文春」で否定会見をされましたが、やはり私が思った通り最終的には前の奥様と離婚し、再婚していますから、見る目があったのかと自画自賛しています。 なお、写真の版権については撮影者本人に帰属します。

5.その後、そして現在の活動

 スクープの仕事をしていたことに関して、他の講演会で「恥かしくないのですか」と質問されたことがあります。 別に恥かしいという気は無く、たまたま私の直感というか、そういう能力が発達していただけなので、別に恥かしいとは思いませんし、 自分でもこれだけスクープを取ったのは自分の仕事の経歴だ、と思っていますので、そういう気は全くありません。

近衛 麗衣さんのHP

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・探偵学校の講師を経て、イラクへボランティア

数々のスクープ経験を買われて、探偵学校の講師も務めました。スクープの経験を生かした写真の講義とか、法務局へ行ってどのようにしていけば調べられるか、というようなことを教えました。 取材をする時にも使っていたのですが、法務局へ行き、会社の経歴・業績の調べ方・見方などを教えました。

本を出版した会社が倒産し、原稿料を貰えないことがありました。その出版社を調べてみたら、社名変更を繰り返しており、役員が一斉に退任していたりしていました。 そこで、その出版社の実物の登記簿謄本を利用して、こういう会社は「危ない会社の見本」として生徒に教えました。登記簿謄本を見れば、その会社の経歴がすべて分ります。  

実習として尾行も行いました。普通の人は尾行されても全く分りませんが、何か後ろめたいものを持った人は気を遣って行動しています ので、逃げられることもあります。 尾行はマルタイと言いますが、「尾けられている」ということがよく分かります。私も尾けられ、それでストレスを感じ、 探偵学校の講師を辞めました。

生徒の中にはいろんな人がいます。某有名私立大学の法学部の学生がいましたが、何故来ていたのかまでは分かりませんでした。 探偵という仕事は「個人情報保護法」の制定により、非常にやり難くなりました。ある大手の探偵社が最近倒産したと聞きました。

私がいた探偵学校、ガル・エージェンシー(ガル・ディテクティブ・スクール)では、探偵学校で経営基盤をつくり、卒業した生徒のうち優秀な人は、探偵学校がチェーンを率いている各フランチャイズに就職させます。全国的な組織で、私がいた頃は180ヶ所位ありました。 大手の探偵社の多くは独自に探偵学校を持っており、探偵を養成しています。そして自分の探偵学校を出た人を調査員として使っているところが大部分です。 探偵調査では浮気調査一番多いようです(笑い)。それも夫が頼むケースが多いようです(爆笑)。

探偵社も興信所も内容的には同じような仕事をしています。ただ、民事的なことは興信所ではあまり取り扱いません。主に企業が中心の仕事ですから。 裁判資料では、一回の調査では信用性がないので、少なくとも3回以上の証拠資料が対象となります。 探偵に興味を持ってこの業界に入ってくる人が多いですが、理想と現実は大きく違います。直ぐ辞めてしまう人が多いです。

  その後、私はイラクへ行きましたが、昨年は写真撮影の活動でウクライナとベラルーシへ行きました。 バグダッド陥落後、2003年6月10日から19日まで、イラクへ医薬品を運ぶ団体「人間の盾」に入り、現実にイラクでボランティア活動をしました。イラクの病院へ医薬品を届けるのが目的で、その団体はNGOでした。未だ安全な時期でした。

日本からは羽田から関空へ行き、関空から「エミレーツ」というアラブ首長国連邦の飛行機に乗り、ドバイに飛び、 そこからヨルダンのアンマンに飛び、総勢9名でしたので、アンマンからバスを調達して国境越えを行ったのですが、 一昼夜かかりました。

砂漠地帯なので昼間は40度以上あるのですが、夜は冷えてすごく寒かったです。 国境のところは大変な渋滞でした。国境を越えるだけで所要時間2〜3時間かかりました。税関では荷物を開けられました。 帰国後、7月23日から8月一杯まで東京・世田谷区池尻「BarBarBarBurn」 で「イラクの子供たち」の写真展を開催しました。イラクの現状についての講演は4回を数えます。




・執筆活動に力を入れている

現在は執筆活動に力を入れています。色々原稿を書いていますが、本は一冊出しています。1997年7月にワインのソムリエを目指す女性向けの実用書「ソムリエール」で、ライターとして取材・インタビュー・執筆を担当しました。出来ましたら今年中にまた一冊出したいと思っています。 また、上田龍皇先生に師事して「算命占星学」の鑑定も行っています。 現在は、本業の報道写真の他、今までの経験を活かして、エッセイや小説の執筆活動にも力を入れています。    終わり


(文責:桑垣 俊宏)



写真撮影 橋本 曜  HTML制作 上野 治子