神田雑学大学 平成18年5月12日 講座No310

へび博士の大巷談

「有名人たちの多彩な感動秘話」

講師 高田 榮一 


目 次

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1.はじめに

2.スカルノ大統領とデビ夫人

3.野口英世とカツオの刺身

4.小野田寛郎と月夜

5.徳川夢声が教えた涙

6.高村光太郎のレモン

7.五島慶太と堤康次郎

8.誕生日システムの盲点

9.質疑応答






1.はじめに

 高田でございます。
 今日のお話に「ヘビ博士の大巷談」なんて大そうなタイトルをつけましたが、私にとって忘れ難い大感動の体験、見聞です。しかし私ごとではなく、探せば掘り出せる感動の宝物です。私は話をするたびに泣きたくなります。そのたびに涙目の私です。

 本題に入る前に、きのう、身近なお二人のエッセーを読んで、涙目になった報告をいたします。一つは、この雑学大学の理事をされている吉田源司様のエッセーです。家を新築されたとき、一時仮住まいをされていたご両親が、「一緒に住みてえ」と大声で叫ばれたお話です。親離れ子離れの風潮の中で、このお話はほんとに感動的です。

 もう一つは、やはり理事をされている得猪外明さんの「父の浪花節」です。浪花節の好きだったお父上が、軍人として中国に歴戦され、そのことをよく浪花節で口ずさんでおりました。その父の足跡を訪ねて赴いた息子の外明さんは、その現場に父を偲ぶものが何もないむなしさを綴ったのです。まさに浪花節の境地です。

 このお二人のエッセー、気取らぬ筆致で人生の哀愁を描きだしていて、読みながら、つい涙目になったのです。

2.スカルノ大統領とデビ夫人

 次はスカルノ大統領とデビ夫人の話題です。
 デビ夫人はテレビ出演されて、茶の間の奥様方のファンが多いようです。

 ところで、私はスカルノ大統領が遠い人とは思えないのです。というのは、太平洋戦争の頃、スカルノ氏の独立運動に協力した金子智一さん一家と私は親しくしていて、スカルノさんの人間についていろいろお話を伺っていたからです。

 金子さんは、太平洋戦争のとき、陸軍報道班員の青年部長としてインドネシア渡りました。そして、オランダからの独立を果たそうとして活動していたスカルノのグループと知り合い、独立運動を助けたんですね。そのため、終戦の直前オランダ軍につかまって、拘禁されたんですから熱血漢ですよ。いわばスカルノと盟友関係にあって、日本に帰ることができたのは昭和22年に入ってからです。スカルノの盟友だったから、人間スカルノのことをよく語ってくれましたね。

 私は金子さんの奥さんのきみさんとも知り合いで、その関係でご主人とも親しくなったんです。きみさんは歌人であり、作家でもあります。歌人としては私の先輩で、私を弟のように接してくれました。作家としては平林たい子文学賞を受賞したりして、歌人としてよりも作家の仕事のほうが充実していたかもしれませんね。4年ほどまえご主人の智一さんは亡くなりましたが、きみさんはご健在です。 そんな金子さんからスカルノこといろいろ聞きましたから、私にとって身近な大統領、というわけです。身を挺してスカルノを助け、独立運動に導き、そのスカルノを大統領にまで押し上げた人物を私が身近な人としていられる、と思うと、感動いっぱいです。

 さて、デビ夫人とことですが、私はこの人に、運命的な人生を大きく感じますね。デビさんは、たしか根本さんが元の名だったと思いますが、赤坂の高級社交クラブで働いていたとき、たまたま来日していたスカルノ大統領と出会い、求められて、妻としてインドネシアに渡ったわけです。スカルノ大統領がなぜデビさんを求めたのかについては、私なりの思いがあります。そのことにちょっと触れておきます。

 インドネシアのバリ島の東にあるコモド島に、世界最大になるオオトカゲ「コモドdラゴン」が生息しているんですが、その貴重なドラゴンを研究する者は、誰もいなかったんですね。そこで私が日本人専門家として初めて探検に行きました。コモド島に渡るにはバリ島で船をチャーターしなければなりません。船がチャーターできるまでの数日間、バリ島の田舎を見て歩きました。  そんなとき、町の看板に化粧品や薬のポスターが貼ってあります。そこに美女のモデルが写っています。こうした宣伝風景はどこの国も同じことですよ。ところが、どのポスターの顔も、どこかで見た顔なんですね。はて、誰に似てるんだろうと考えていたら、デビ夫人の顔だと気がつきました。

 つまり、インドネシア人が一般的に好ましいと思う顔がデビ夫人の顔なんだと私は思いますよ。スカルノ大統領がデビさんを妻に、と求めた背景にはインドネシア人の美意識が働いた、と私なりに文化論として考えたわけですね。日本の美人の中にも一般的に好まれる顔がありますから。たとえば水谷八重子とか、田中絹代とか、です。
話を戻しますが、デビさんはスカルノ大統領のもとへひとり飛び立ちました。私はデビさんの勇気に感動しますね。スカルノ大統領は知っていても、ですよ、知らぬ国へ思い切りよく飛んで行くなんて、大変な人生ドラマだと私は思いますね。

 デビさんの次のドラマが私を泣かせたんです。デビさんが大統領夫人となってから、何年目だったでしょうか、デビさんは大統領名代として来日しました。大統領専用機に乗ってですよ。デビさんを、日本は国賓として迎えました。
 いまでも覚えていますが、デビさんは、それなりの威厳をもって、タラップを降りました。タラップの下には、たしか絨緞が敷かれていて、政府高官が出迎えました。大統領夫人としてタラップを降りるとき、デビさんの心中、どんなものだったでしょうか。
 テレビでこのシーンを見たとき、私は胸いっぱいになりました。勇気があれば、人生はこんなにも変わるんだ、と。ひとりの女の変化、と言ってしまえば簡単ですが、変化のためには動かなければならない。デビさんはすごい人生を自らが築いたと思うと、話のたびに涙目になる私なんです。

3.野口英世とカツオの刺身

 今度は野口英世の話ですが、野口英世の人生ぐらい感動的なものはありません。貧しい農家に生まれながら、努力と努力で世界の偉人となった話は知らぬ者はおりません。英世の努力の中で、努力の話ではない感動的な人生をひろい出すことができます。私はその努力でない人生に泣けてしまうんですね。今日は、その感動のエピソードをお話します。

 明治33年、英世はアメリカへ飛びだしました。日本にいたら、行き詰まってしまうと思い切りよく日本を出ました。たよるのはフレクスナー博士ひとり。野口は、フレクスナー博士が日本に来たとき通訳を買って出たことから、知り合ったんですね。博士は外交辞令として、「そのうち勉強しにアメリカへいらっしゃい」と軽く英世に声をかけたんです。その言葉ひとつを頼りに遠い国のアメリカへ行ったのですから、無鉄砲な話です。
 フレクスナー博士もびっくりしました。まさかやってくるとは思わない青年が突然現れたんですから。追い返すわけにはいかない。何か仕事を与えなければ、と考えた末に毒蛇の研究を命じました。

 この時代、毒蛇の咬傷に悩む人が多くいたんですね。血清もない時代です。英世は不自由な手を使って、毒蛇から毒を採り、その作用を記録し、また世界の文献を読み、数ヶ月後に、論文にまとめたのです。「毒蛇の調査とその毒の作用」が論文のタイトルですが、世界で初の論文ですよ。誰にもできなかった研究をやり、それを論文にまとめ上げた英世の快挙に世界中がおどろきました。野口英世の名は世界に知られたんですね。

 英世の名を世界に知らせたのが蛇です。
 蛇の研究をしている私にとって、英世の存在は感動的なんです。だから私にとっては、野口英世は遠い昔の人ではないんですよ。
 こうして頑張った英世は、15年後、日本に里帰りしました。行くときは、誰も見向きもしないような一介の若者でした。15年経って日本へ来るときは世界の偉人です。
 新聞は「野口博士帰朝す」と大見出しで書き立てるわけで、日本を出るときと比べたら、大変な違いです。英世の胸の内はどんなものだったでしょうか。ここにすごい人生ドラマがありますね。

 さて、英世は各界の歓迎行事をこなしながら、郷里の猪苗代の翁島村に向かいました。貧しい村が大きな歓迎アーチを建てていました。私はその村びとの心に去来する思いを考えると涙がこぼれます。

 もう一つの感動シーンは、英世が関西の医学界に招かれて講演のため西下しました。そのとき、苦労して育ててくれた母親シカさんを連れていったんです。宿は箕面の温泉でしたが、料亭で食事の時、カツオの刺身が出たのです。田舎ぐらしのおシカさんは見たことも食べたこともありません。そのとき、母親の隣にいた英世は、「お母さん、これはカツオの刺身ですよ」
と自分の箸でシカさんの口へ入れてあげたんですね。そのシーンを見ていた芸者の八千代さんが、英世の親孝行ぶりに感激して、新聞記者に話したんです。この親孝行美談はニュースとなって、全国に知れわたったんです。学問の努力の話ではない、人としての誠(まこと)として訴えて来ます。私はこの話に弱くて、野口英世を語りながら、ここで必ず涙目なんですね。

 猪苗代の野口英世の生家のわきに野口英世記念館があります。ここには、英世にかかわるあらゆるものが、展示されています。そこで、私が泣かされたのは、二つのことでした。
 一つは英世が自分で作った毒蛇の剥製やホルマリン浸けの標本です。何と私も同じことをやってきたんですから、じーんときました。100年も前と全く同じことをやっていると思うと、英世のことは、現実感をもって迫ってきます、思わず涙をこぼしました。

 二つ目は、英世が背広姿で写っている等身大の写真です。おそらくニューヨークの街角でのスナップですよ。写真のわきに並んだら、私と同じ背格好なんですよ。私と同じく小男なんです。兄弟を感じました。大きいアメリカ人の中で、小男ながら頑張った英世は、強い男ですよ。ここでも私は涙が流れて仕方なかったわけです。

4.小野田寛郎と月夜

 小野田さんは昭和19年12月、見習士官としてルバング島に渡り、この地で少尉となって、以来30年、フィリピン軍に囲まれながら頑張りました。すごいですね、30年、ジャングルに生きたんですから。

 ジャングルから出るきっかけになったのは、小野田探しにルバングに単身渡った鈴木紀夫という冒険好きの青年で、二人が会ったのは昭和49年2月20日で、帰国したのが3月13日です。

 小野田が鈴木青年と会った頃、私は和歌山の寿司屋で、元陸軍少尉と飲んでいたんですよ。そのとき元少尉が言ったんですね。
 「小野田がジャングルから出てくるのは今日あたりですよ」  なぜ今日なのか、不思議なので、「なぜですか」と訊きました。すると今夜は「月が大きく出ているから」とナゾのようなことを言いました。
 あとで月のことをきくと、ジャングル戦は、月明がないと、全く動けない。「月あかりが、敵も見方も必要なんです。私もフィリピンで戦った経験がありますから」なんて聞かされていたんですね。そんな状況の中で小野田は現れて鈴木と会ったんですよ。ルバングと和歌山と遠く離れていても、月への距離の中では近いんですね。小野田の見ていた月を私も見ていたと思うと感動的ですよ。

 小野田が羽田に生還したのは昭和49年の3月13日なんですが、テレビで見ていて、二度感動を胸いっぱいにしました。
 最初の場面は、タラップを降りてきた小野田が、親に軽く会釈しただけで、足早に近づいていったのは戦友の小塚金七の遺族でした。そして深々と頭を下げたんですね。あとで小野田の書いた本を読んで、そのときの小野田の心情がよくわかりましたね。
 自分の親とは戦地へ赴くとき、すでに別れを告げている。しかし小塚金七は最後まで私と共に30年を頑張ってくれた。たまたま敵弾を受けて亡くなった。私は生きて還った。遺族にお詫びをしなければならない。いかにも小野田らしい筋の通った行動じゃないですか。

 次の場面は、記者会見のときの発言でしたね。
 若い記者の一人が、こんな質問をしたんです。
 「小塚金七さんが亡くなって、山を下りようという気持ちになられたのですか」
 この質問を受けたとき、小野田は怒りを浮かべて反論したんですよ。見事でしたね。
 「そんなこと、むしろ逆さの方向です。復讐心のほうが大きくなりました。目の前で、30年もの仲間が倒れたときの口惜しさってありませんよ」
 小野田さんの言葉に、若い記者はあっけにとられていました。私はこの記者会見のテレビを見ていて、もののふの心意気を感じました。今の若い人たちの軟弱さを見せつけたんですから。すごい小野田さんの気迫です。

 これらの感動に加えてもう一つ、ルバング島で元上官谷口義美から任務解除命令を受けて、やっと山を下りたあと、マニラでマルコス大統領に、ぼろぼろになった軍刀を差し出したんです。降伏したからには、勝者に軍刀を渡すのが武人としての礼というわけです。マルコス大統領は一旦受け取った軍刀を小野田さんに返し、言ったんですね。
 「私もゲリラ戦を戦った男だ。君の気持ちはよくわかる、この刀を大切にしなさい」と。
 これは泣ける話です。こういう感動は人生に必要だと私は思いますね。


5.徳川夢声が教えた涙

 私は徳川夢声から感動的なことを学んでいるのです。
 それが、現実に仕事に生きたから感謝感激なんですよ。
 NHKがまだ日比谷の市政会館にあった時分です。夢声が週刊朝日で夢声対談を続けていた時代で、天動説とか地動説の論争が、その対談で話題になったりしていました。夢声はまたNHKラジオで宮本武蔵を朗読していましたね。
 夢声に会ったのは、そんなときでした。なんで会いに行ったのか、覚えていませんが、NHKの大ホールの客席だったと記憶してます。

 夢声はよれよれのレインコート姿で現れましたね。眠そうな眼でした。きっと宮本武蔵の朗読で神経を使ったあとだったのかも知れません。その日、秋雨のうすら寒い日だったと思います。夢声との話は、たまたま話術のことになったんですが、これはすばらしい、中身のある、話でしたね。「対談のコツ」なんです。
 夢声に教えられた対談のコツは、私の人生に最高の価値でしたね。どういうことかと言いますと、私の場合、インタビューを受けることが多いんですが、そのとき、質問者が、「先生は蛇がお好きなんですか」と聞いてきます。それに対して「大好きなんですよ」と答えたら、対談は盛り上がりません。単調に終わってしまいます。盛り上げるためのコツは、1と聞かれたら、2,3,4と答える。

 たとえば、「そう、大好きで、いま10匹も飼っているんです。しかし好きだから、世話をするのに面倒くさい、と思ったことありませんね」と内容を多くしてそう答えます。すると質問者は、その中から面白そうなところにマトを絞って次の質問をしてくる、というわけです。1と来たら2,3,4と。5と来たら6,7,8と。
 私の談話が面白いとマスコミの評判をいただいたのも、夢声が教えてくれた対談のコツのおかげなんです。夢声には涙のこぼれるぐらいの感謝でいっぱいなんです。

6.高村光太郎のレモン

 高村光太郎は彫刻家で詩人です。詩を書いている私は光太郎からいろいろな栄養を学びとった人間です。光太郎の有名な詩集は「智恵子抄」で、その中にある「レモン哀歌」は絶唱ですね。私はこの詩を読むたび、つい泣けてしまうんです。コピーをとってきましたので、いま皆様にお渡しします、ちょっと読ませていただきます。


  ―レモン哀歌―
      〜高村光太郎 『智恵子抄』より〜

  そんなにも あなたはレモンを待ってゐた
  悲しく白くあかるい死の床で
  私の手から取った一つのレモンを
  あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
  トパアズ色の香気がたつ
  その数滴の天のものなるレモンの汁は
  ぱっとあなたの意識を正常にした
  あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
  私の手を握るあなたの力の健康さよ
  あなたの咽喉に嵐はあるが
  かういふ命の瀬戸際に
  智恵子はもとの智恵子となり
  生涯の愛を一瞬にかたむけた
  それからひと時
  昔山巓でしたような深呼吸を一つして
  あなたの機関はそれなり止まった
  写真の前に挿した桜の花かげに
  涼しく光るレモンを今日も置かう

 実は、友人と或るパーティーに行って、私が朗読したんですよ。そしたら、同行の友人が泣いたんですよ。まさか泣くとは、と思いがけぬシーンにパーティーが一瞬静かになりました。
 今、読みながら、私もこみ上げてくるものがあります。終わりの2行が、胸に迫りますね。亡き智恵子の遺影の前に挿した桜の花かげにレモンがすずしく光る、この情景に、愛の燃焼を思わずにはいられませんよ。

7.五島慶太と堤康次郎

 西武鉄道の創設者、堤康次郎氏に私は会っているんです。五島慶太には会い損なって秘書から話を聞いただけです。私は以前百貨店の業界紙をやっていまして、多くの店の経営者と親しくしていました。その一人に堤清二氏がいたんです。セゾンの社長をやっていた人で、堤康次郎の次男です。今は引退して作家です。私も文学をやっていたから堤清二も私の感性をよく理解してくれていまして、業界新聞の専務の私と百貨店の社長という関係以上に親しかった。彼が西武百貨店の店長をやっている時、西武鉄道を創設した堤康次郎、つまり親父さんに一度会いたいと言ったのです。

 堤康次郎は政界にも出て、一時衆議院議長までやって、そのときの秘書が堤清二でした。清二氏は親父が衆議院議長を降りると自分も辞めて、西部百貨店の店長になった、そんな時代です。会見を頼むと「いいですよ」と言ってね、すぐに電話があって、「朝6時に麻布の家に来てください」と。玄関で出迎えたのがドテラ姿の堤康次郎でした。そして最初に私に言ったのは、「朝ごはん一緒に食べませんか」ですからね。ずいぶん親しげに声をかけるなと驚きました。

 これがあれだけの大企業を背負っていく人の人間味なんですね。色々な話をしている間に何回も「清二をよろしく、清二をよろしく」と、いいましたね。やはり親ですねえ。そんなやさしい面があるなあと思って聞いていたら、ライバル東急の五島慶太の話になると、目が据わってきましてね、五島君はけしからんって始まったんですね。伊豆の方で二人は事業戦争をやっていたんです。言葉の勢いが凄い。私ごときに言ってもしょうがないのに、言い出したら止まらないのですね。

 堤清二氏はコクド(西武鉄道)の社長だった堤義明さんと異母兄弟です。堤康次郎氏は大事業をなしただけに、精力的だったということでしょうね。
 私が堤康次郎に会いたかったのは経営戦略を聞くよりも、人間康次郎を知りたかったんですよ。とにかく、男としての迫力をかんじました。五島慶太も東急を率いて、男っぽく生きた快人物ですよ。

8.誕生日システムの盲点

 最近の社会システムは誕生日を元にした制度で運用されています。たとえば退職も誕生日、運転免許の更新も誕生日です。これは一見合理的で良い方法に思えますが、そのためにそれぞれが個の単位で動いてしまって、群れとしてのくらしを忘れてしまったわけです。毎日のように犯罪が起こるのも、周囲を考えず、個の都合だけで動いてしまうからです。

 その点、江戸時代は群れの良さがみごとに社会を守っていましたね。江戸というマスの中にみんなが住むために、お互い譲り合ったり、気遣い合ったりしてくらしていたんですよ。早生まれ、遅生まれというくくりかたも、秩序を守っていたんですね。江戸に住む人たちはそういう心配りを「江戸しぐさ」と言っていたんですね。
 江戸しぐさが生かされたのは、すばらしい距離を保っていたからです。恋のさや当てとか、袖ふれあうも他生の縁というのも、ほどよい距離感のことを言っているんです。
 動物の世界にも、それぞれ距離を保って生きている、そういう秩序があるんです。これをクリティカル・ディスタンス(Critical Distance)、つまり防衛の臨界距離と言って、生きるためのギリギリの必要距離のことです。

 最近、マンションで問題が多いですね。住民のけんか、あるいは人を投げ落とすとか。考えてみると、部屋の広さばかり強調して、共用部分にゆったりした距離感を考えないからです。階段をゆるやかに、廊下を広くとっていれば住みよいのに、それを考えない。かって同潤会アパートいうセンスのよい集合住宅がありました。大正12年の震災のあと、復興事業として造られたものすが、距離感をほどよく生かしていて、住民のトラブルなど起きませんでした。高層を避け、中庭を設け、部屋は広くないけれど、距離感が大切に生かされていたわけです。

 最近のハラの立つニュースは、北海道の釧路川の工事のことです。川の流れをよくしようと、5億円かけて蛇行を直線に変えたのに、今度は10億円かけてともの蛇行の川にもどすというのです。蛇行でなければ生態系がいかされない、というのですが、それならなぜ蛇行を直線に変えたのか。不見識もいいところです。

 蛇行で思い出すのは、福知山線の脱線の大事故です。カーブを走るのにスピードを落とさなかったといって、カーブの曲がり度合いなど多く論じられていましたが、問題は運転者の適性こそ論じるべきなんです。私は危険な毒蛇をたくさん飼っていましたから、飼育者の適性を常に考えていました。学歴とかは関係ありません。運転者の適性を重視していれば防げた事故だと思いますね。運行ダイヤの過密さはあとの問題なんです。

 アフリカを歩いたとき感心したのは、小学校の周囲の道にナマコ形の刻みが入っているんですね。これでは物理的に自動車は5キロぐらいでしか走行できません。なるほどと感心しました。運転者として適性のない者がハンドルを握るから毎日のように交通事故が発生するんです。スピードを落とさなければ走れないようにすれば事故は必ず減少します。日本社会の制度は、場当たり的で何かが欠けています。

 以上、蛇行しながら、お話させていただきました。感動こそ人間の誠という私の考えをお伝えしたかったわけでした。
 ご清聴ありがとうございました。

 最後に何かご質問いただけましたら、と思います。よろしくお願いいたします。

9.質疑応答

1.質問:上野公園に野口英世の銅像があるのをご存知ですか?
答え:よく知っています。玉応不三雄さんという人が、野口英世顕彰会の会長をやっていて、私も懇意にしておりました。会長は英世と同じ福島県の人で、有志にはかって、上野駅に近い上野公園に建てたのです。余談ですが、アメリカで出版されている『NOGUCHI』の翻訳を会長にたのまれた経緯があります。

2.質問:猪苗代の野口英世記念館にも銅像があります。私事ですがあれを作ったのは私の伯父、吉田三郎といいまして母の兄です。それを作ったときは野口英世にアトリエに来てもらったそうです。
 私は若い頃アフリカのナイジェリアにいたんですが、あそこに野口も来ていまして、ガーナで死んでいるのです。ガーナのアクラですね。この間小泉首相が行きましたが、ガーナじゃ野口英世はとても有名でみんな知っているのです。
 ところが野口英世にはいろいろ毀誉褒貶があって、一面では非常に女にだらしなかったとか、色々借金を踏み倒したとか、私生活上もそうとう問題のある男だったということを聞いていますが。
答え:ただ今の毀誉褒貶が野口に多いというご指摘は事実です。それには二つの面があると思います。
 一つには、あの寒村で育って快楽のかの字も知らない野口が都会に出てきてその楽しさに溺れこんだということも分かりますよね。都会で育って色々な快楽を知って育った男なら溺れないです。あの寒村で貧しい少年時代を過ごし、出てきた野口がそういう遊びしか出来なかったという、そんな野口を温かい目で私は見てやりたいです。また理解の目で書かれた本もあります。
 それから二つには、野口はダージンとかいうアメリカの女性と結婚しているんです。野口はお子さんがないんです。これは動物学をやっている私の推測ですが、女遊びをしすぎて、おそらく野口に原因があって子ダネが乏しくなったのだと思ったりします。

3.質問:野口英世の書なんかはどうなんですか?
答え:達筆です。今日持ってきたかったのですが、野口が20代の初めに八子弥寿平という郷里の金持ちへ借金を依頼する毛筆の手紙があるのですが、22歳であの貧乏のどん底で手習いなんてする時間はなかったんだろうと思うけれど、その中であの達筆ぶりは凄いですね。私がふっと気がついたのは樋口一葉の達筆ぶりです。彼女も同時代です。彼女も貧乏のどん底にいるのですが、毛筆が素晴らしい。枯れて枯れて枯れ抜いた字ですね。私はエッセーに書いたのですが、なぜあの時代、あの貧乏の中でこれだけの達筆になったのか、私の結論は国が勃興しようとするときは、青少年も一緒になって勃興しようとする、おそらくそういう向上心があの達筆になったのではないかということです。

4.質問:五島慶太と堤康次郎の人間性を比較するとどう違いますか?先生はどちらが好きですか?
答え:嫌いはないですね。どちらかと言うと五島さんのほうが陽ですね。堤さんのほうが比較すれば陰です。五島慶太は鉄道大臣までやりましたが秘書に聞いても大変あけっぴろげの性格です。堤さんのほうは秘書もあまり言わないようなところがありました。今の鉄道の経営を見ても西武はストをやらないでしょう。あれははやり堤さんの何かが影響しているのです。東急はストを年中やっているでしょう。この差が陽と陰の差でしょうね。

おわり
(文責: 臼井 良雄)
講座企画・運営:吉田源司 会場写真撮影:橋本 曜 HTML制作:大野 令治