神田雑学大学 平成18年7月21日 講座No320





方言研究者
講師 伊川公司



講師の伊川公司さん1.はじめに
ハマことばに注目 方言との違い
ハマことばというのは居留地が開放されたのが明治32年ですから、それまでの横浜居留地の言葉を中心として言うのですが、それ以降の横浜の言葉も包括してハマことばと呼んでおります。昭和30年代に国立国語研究所が全国緊急方言調査というのを行うことになりました。そのころ、私は相模民俗学会というところに所属しておりましたので、国語の専門家があまりいないということで、私も実は言語学ではなくて文学の方が専門だったのですが、横浜担当ということで県下で10名の委員が任命されまして、それから昭和49年、(1974年)から今まで営々と続いております。

10名の委員がいたのですが、現在は3名になってしまいました。85歳の静岡大学名誉教授の日野資純という方言学の大家ですけれど、その方と私と国学院の教員をやっておられた3名がなんとか今継続しております。何をやってきたかと申しますと、まず方言を神奈川県方言地図というものですが、ここに神奈川県で100地点を選びまして、記号で図示するわけです。東海道が開かれてからまた言語の変化があったのですが、この三浦半島型言語、それから足柄型言語、それから東京と共通する言語など、こうするとそういう特色が良く分るようになります。

こういう地図化を第一の仕事とし、現在やっている仕事はこの「分類神奈川県方言辞典」です。一冊だけ持ってきたんですが、これが全四冊で完結は来年か再来年になるものです。では神奈川県に過去方言辞典はなかったかといいますと、ここに県の教育委員会から出されたものですが、昭和40年に刊行されたものがあります。これは古書店でも殆ど見つけることは出来ません。実は方言というのは差別用語が結構出てくるのです。そういうことでこれは出版後回収されて、今私が持っているこれも、やっと古書店で見つけて手に入れたものなのです。そういうことで言語の研究というのは大変な部分もあるのですが、興味がつきず、こういう研究を現在続けております。

ところで、私が自費出版で出した「茄子の樹」という本を持ってきました。私は、大学を遅く出まして29歳で都立の教員になりましたが、最初に行ったのが八丈島です。4年間いたのですが、その4年で私は目が飛び出すくらい驚いたのが茄子の樹です。それは何かといいますと、八丈島を題材にした滝沢馬琴の椿説弓張月という本があるのです。その中で島人が大きい茄子の樹にはしごをかけて茄子を採り、島外から来た為朝にもてなしたという記述があるのです。この茄子の木を見て吃驚しまして、そんなことあるのだろうかと思っていたのです。後半の2年間に畑を農家から借りて実際に作りましたら、茄子が枯れないのですね。

ナスを作っている方はご存知だと思いますが、秋になるとナスはアクが強くなって苦い硬い皮になり、普通は1年生で枯れてしまうのです。ところが、八丈島ではその時期を越すと、来年度に新しい芽が出てくる。そこからまた新しいナスが採れるのです。それを自分で体験しました。  

それから八丈島の民俗のとりこになりまして、八丈島の歴史と民俗を4年でまとめて書きました。驚くことばかりでして、滝沢馬琴も八丈島の方言を沢山記録しておりまして、そこが私の方言研究の動機にもなっているのです。

神奈川県の方言調査を現地でしていましたら、横浜へ来ると、どうも他の地域と言葉が少し違うのです。神奈川県の言葉というのは東京の言葉と違って、副詞に「へー」を使います。「もう駄目だ」というのを「へー駄目だ」とか間投助詞に「なんとかよう」とか「なんとかずら」などを語尾につけるのです。足柄方面ではなんとか「だんべー」、これは東京でもあるのでしょうが、そういう特徴があります。

そのうちに横浜では、特に擬音語、擬態語、擬声語、それから畳語(じょうご)と言って畳む言葉という何回も繰り返す言葉、こういうのが特に他の地方の方言より多いということが分ってきました。これは調べていくとどうも外国人と接触するたそのなかで、確認のための言語というような形で残ってきたような感じがありました。そういうことから横浜の言葉の研究を自分のもう一つの仕事として、やっていきたいというような気持ちになりまして、ずっとそれから横浜の研究をしているのです。

横浜は「ジャン」ということを使います。「そうじゃん」、「そうじゃんか」等は横浜の代表的な言葉と言われますが、これは今東京から関東全域に広がっておりまして、むしろこれは他県の言葉であるみたいなことも言われてもいるのですが、神奈川新聞でその特集を一面全部使ってやりました。中心になって書いたのは当時文化部長で今は論説主幹をなさっている方ですが、「じゃん」の語源がどこから来て、どう流れて行ったかと言うことについて、一応結びに私の考えを持ってきていただきました。これは岩波書店の「物類称呼」と言う本で、今は絶版になっていますが、江戸時代の中期以降に全国の方言をまとめたものです。これに岐阜の言葉として、「じゃ」と言う言葉が載っています。これが変化して「じゃんか」という言葉になったのですが、次第に東海道を上って来て、横浜に到着し、外国人を迎えて元気の良かった横浜の言葉として定着したのではないかというのが私の推論です。

明治に横須賀の教育界というところで調査した中に「じゃん」という言葉があるのです。裏付けは、これが追浜という、横浜とすぐ隣りのところで現地調査されているわけです。それが唯一の論拠なのですが、そういう言葉からだんだん横浜の言葉を集めていきまして、神奈川新聞に週一回600字なんですが、2年間連載したものをまとめたのがこの本です。これは神奈川新聞社から出版されましたが、今は絶版で手に入らなくなっています。

「横浜ハマことば辞典」 それで今回出したのがこの「ハマことば」です。中高の総合学習の授業などで色々と出版社に質問があった辞典が欲しいという声があり、それ以後2年かかって作りました「横浜ハマことば辞典」といって、2800円の本です。横浜にはまず「じゃん」という言葉、それから本牧では、ここは小さい港なんですが、今でも漁をやっています。ここの漁師さんの言葉は、「本牧のさかさことば」と言って、海上の忌み言葉が変化したような言葉を盛んに使うのです。それからさらに外国人との接触のなかから生まれてきた言葉が沢山あります。これからそうした興味を持って調べたごく一部をこれからご紹介してみたいと思います。

2.はじめにことばありき。(横浜の開国)
―彼理・黒船―
ペリーの黒船がやってきたのは嘉永6年、徳富蘇峰に「ペリー来航およびその当時」という本がありますが、これにもペリーというのはこの「彼理」を使っています。それからヘボンさん、横浜ではお医者様で、クリスチャンの伝道師で、ローマ字の普及に貢献した人で有名な方ですが、彼は「平文」、平らな文と書いてヘボンと読み、横浜では親しまれて使われています。

黒船というのは、安土桃山時代の南蛮船がすでに黒船と言われていたのです。当時は、木の船ですから腐ったり虫がついたりしないように、それと水漏れを防ぐ為に、コールタールを黒く塗ってあったわけです。

それがペリーが来たことによって、だんだんとアメリカ船のことを意味するようなことに変わって行きます。ペリーは9隻の船でやってきたのですが、彼等が来た時は海図がない。ですから東京湾に入るためにはまず海図を作らないといけない。そのため、翌年の安政元年また来ることになるのですが、嘉永6年ペリーは久里浜で交渉して帰っていくわけです。その時にもう彼は羽田沖まで来て海図を作っているのです。 一番最初に来た時は、その土地の名前などを海図にどんどん描いていって、これを今でも横浜の人は使っている人が沢山います。

まずルビコンポイント、ルビコン岬ともいいますのは観音崎のことです。今でも横浜の人は、「あそこはルビコン岬だよ」というように使っています。イタリア北部からアドリア海に注いでいる河の名前ですが、ローマ時代にイタリアとキサルピナガリアの境になっていた河です。そこをシーザーが、紀元前39年にローマに進軍する時、「サイは投げられた」と言って渡った河です。その名前をつけたということは、いかにペリーがなみなみならぬ決意で開国を迫って来たか、をしのばせるものがあります。それからちょっと入ってペリー島とあります。これは猿島のことです。司令長官ペリーの名前をつけたわけです。

その向かいのこのところがサスケハンナ湾と言っておりますが、例えば徳富蘇峰の「ペリー来航およびその当時」のその部分を読みますと「艦隊は浦賀から5マイルを隔てたる、提督がサスケハンナと命名したるところに移り、陸地から1マイルばかりのところに停泊した。」とあります。こうして海図を作っておかないと、来年来るといっても堂々と入って来れないわけです。おっかなびっくりで水深を測りながら来る訳ですから。その次の、ウェブスター島というのは追浜あたりのことです。日産自動車の工場や住友重機の工場があるところで、夏島と言いますが、そこに命名しています。

それからアメリカ錨地、これは海の公園と言って埋め立て地できれいな場所になっている場所ですが、富岡の近くです。今は海ではないのですが、今でもアメリカ錨地といわれる場所で、その次がミシシッピーベイ、これは横浜の方、本牧から三渓園を過ぎてまっすぐに海岸がありますね、富岡の近くまでまっすぐに伸びています、これがミシシッピーベイ、またの名を「飛行艇の海」といいます。何故かというと、昭和12年に富岡と言う場所にあった横浜海軍航空隊ですが、ここで4発の飛行機を作っていたのです。これは実用化まで行かなくて、終戦と同時に海に沈めてしまったから、飛行艇の海と言われているわけです。

その富岡と本牧の間に根岸というところがありますが、今はプールになっていますが、そこがその頃は飛行場で、ここからパラオやサイパン島への定期航空路の発着地点でありました。
横浜港の先のところの、本牧の鼻がトリティポイント、ホワイトクリフ、マンダリンブラフおいいます。マンダリンは橙色の植物ですが、その色をした絶壁という意味です。これがアメリカ人だけが使ったのではなくて、横浜の人たちみんなが用いる地名になっていくわけです。

ちょっと横道にそれますが、「横浜」の語源は桜木町に向かって山下公園の入口の山下橋というのがあって、ここから山手の山があります。ここから細長く横に半島のようになっていた地域、それから来ています。ところが外国人はそれを聞いても「よくはま」と聞こえるらしく、当時の海図を調べてみると全部「YOKUHAMA」と表記されています。
まず、こうした「地名」が新しく横浜人の中に入ってきたわけです。

―異人さん―
横浜の中学校の副教材に「横浜の歴史」という本があり、これには横浜言葉という項目があります。そこには「居留地にいる外国人のことを異人さんと呼び、その家のことを異人館と言った」と書いてあります。東大の構内にはお雇い外国人と言われた方々の銅像が沢山ありますが明治初期には沢山の異人さんがいてお雇い外国人とも呼ばれていました。

異人豆というのは、南京豆・ピーナッツのことで、これが秦野あたりでは「異人豆」という言葉で残っています。アメリカなどでは外国の人をどういう言い方をするかというと、日本人ならジャパニーズ、ドイツ人ならジャーマンというような言い方をして、ホレジナー(外人)というような言い方はしないのですが、日本はこういうところは平気で自分達の言葉形式を通して、外国人にまでこういう単語を話させているのです。
三日住めば浜っ子というような言い方があるのですが、きっぷの良い江戸っ子に対して、浜っ子はさっぱりしていると言われます。慶応4年に江戸から東京になった、それと同時に横浜もまさに日本の代表的な港として充実してくるわけです。

メリケン波止場―アメリカ・メリケン―
この発音はアメリカですよね。ところが日本人はこの発音をはじめ聞いても、この「ア」が聞きとれないのですね。母音が日本は5つしかない。それに対し外国には沢山ありますから、日本人には聞き取れないのです。それで「メリケン」という発音に聞いてしまったわけです。

ここの突き出ているところがメリケン波止場ですが、そのころは波を防ぐ為にカタカナのウのような形をしていて、象の鼻というような言い方をされていたといいます。山下公園の氷川丸が係留されているところにあった波止場、これがフランス波止場であります。象の鼻の根元のところに日本波止場もあったのです。今も瑞穂埠頭というところが、メリケン波止場の向かいにあります。

ここは第2次大戦で負けた後全部米軍に接収されていましたが、今でもここだけは米軍の専用地なのです。ですから、普通だとメリケン波止場の名称はこちらに変更されてしかるべきなんです。ところがその変更がないというのは、単なる地名にも、その意味の深さ、言語の力の大きさ、不思議さがあるわけです。

その後も、横浜に移民宿とか移民館というものが多く町中にあった年代もあったのです。多くの移民希望者が集まった時代もあったのですが、その頃でもメリケン波止場という名前は、ちっとも変更されないで使われてきています。

画像は第二話 【メリケン波止場】波止場は墓標(小説) BY 田中良平 から転載しました。
実はメリケン波止場は、一番最初はイギリス波止場と言ったのです。メリケンではないのです。最初に「日米修好通商条約を締結しても、アメリカは何も貿易をしていないのです。慶応元年の貿易相手国の統計をみますと、イギリスが85.9%、フランスが8.2%、オランダが4.2%、アメリカたるや実に1.5%、こんな違いがあるのです。アメリカが何故に日本に開国を迫ったかというと、あれは捕鯨船への水、食料などの補給基地のためで、条約を結んでも実は何にも貿易をするものが当時なかったのです。ですからはじめは殆どイギリスで、イギリス波止場という名前から徐々にメリケン波止場に変わっていきました。

メリケンというのは日本全国の方言に沢山残されており、大きい地位を占めている。メリケン粉とは、うどん粉と区別して小麦粉のことを言います。メリケン棒、メリケン針、メリケン帆布、メリケンサックなどがあります。

―メリーさん―
浜のメリーさんという人の映画がありますが、このメリーさんはメリケンのメリーなのです。横浜をご存知の方はこの人の話は良く知っておられると思いますが、今で言えば女性の路上生活者の一人です。この人の話は五代路子さんの一人芝居で何回も演じられていますし、そういう点で有名な女性なのです。

横浜駅の西口、高島屋前、
ホテルニューグランドのロビー
とかですね、そういうところに彼女はいつもたたずんでいたのです。私も実際に見ているのですが、それが真っ白なウェディングドレスを着て、レースの手袋をして、上等なハンドバックを持っていたのです。この人は横須賀から来たという噂もたちました。はじめは金髪だったとか、若い頃は赤い服を着ていたとも言われていました。

その他、彼女は戦争に行ったまま帰ってこない夫をいつも横浜で待っているんだという話、それから死んだ子を待っているので似た子がいると連れ去ってしまうとか、いや女装のゲイだ、また外国人相手の娼婦という噂もありました。そうじゃなくて教育者の家庭に生まれたお嬢さんで、外国に行った子供が東京オリンピックの水泳選手として来日して、再会を果たしたとも言われています。ある人は横浜のある喫茶店でお茶をご馳走して、彼女から雪子というサインを貰ったらしいんです。それでも素性とか個人的な話になると彼女は絶対話さなかったといいます。実は今も横浜で大きいグラビア本が2冊出ていまして、「浜のメリーさん」という本です。

なにを話したいのかといいますと、このメリーさんというのはメリケン波止場のつながりで、やっぱり横浜での話題の人物は、メリーさんという名前が一番あっているのだということなんです。メリークリスマスのメリーなどから来たのではないのです。

2年前に亡くなった筑波大学の民俗学教授の宮田さんは、こういう人は社会学上、民俗学上の風俗として、古い歴史のある街には必ず存在するのだと言うのです。
横浜の街角に立ち続けた伝説の娼婦ということで、神奈川新聞の文化部長などでも、その後横浜からいなくなった後を、追跡をしています。中国地方の田舎で一生を終えたと言われています。

実は、この人の前には横浜にそういう人はいなかったかといいますと、ちゃんと有名な人がいました。この人は本にはなっていないのですが、戦時中にぺんぺんばあさんといって、伊勢崎町の街中でいつも三味線をぺんぺん鳴らしながら歌を歌っていた。その人は戦後にマンドリンおばさんとも言われ、それからラバウルおばさんとも言われた。それはそういう歌しか歌えなかったから、そのように言われた。

そして、何がしかのお金を貰っていた。こういう風に横浜の町にこういう人が常にいるんですね。それじゃー東京ではどうかというと、東京でも渋谷のジミーさん、渋谷の白い天使、渋谷の花子さんという人がいたと言われています。それから、新宿の母といわれた人も良く知られています。

宮田さんが「民俗のまなざし」という本に、1980年代に全国的に「メリーさん」と呼ばれる一人の老女の噂があることを、雑誌「女性と経験」で女子大生が研究テーマにしており、全国の都市で調査をしたことを書いています。戦後50数年間、横浜にいたこの人などを特に取り上げ、特集にまでしています。

社会評論家の赤塚行雄さんが、まずメリーさんとラバウルばあさんについて、「横浜は村落共同体的伝統のない町、出自のはっきりしない人が入って来ては去って行く、また町の人もその人物の過去を勝手に想像して尾ひれをつける傾向にある」「その前のラバウルばあさん、歌を聞いた通行人は息子を戦争に奪われた母親だと思ったのではないか。敗戦で殆どの人が過去を断ち切り、これから未来に踏み出そうという時、ばあさんの激しい踊りと歌は過去に引きづられ、抵抗するような感じで強烈な印象を与えた」とあります。

夜遅く働いて帰ったり酔った気分で帰るときにそういう歌を聞くことによって、私達の生きる都市生活の深みといいますか、そんなことを感じたのではないかということです。ともかくも混沌とした人間の心を開放する場所として横浜みたいな町が存在して、また言葉もこういうメリーさん単なる名前についても、言葉の文化と繋がっているのじゃないかということを感じるわけです。
実は、今も横浜駅の西口などには路上生活者がたくさんいるのです。ところがそういう人たちは、何も私達の記憶に残らないし、一過性の存在でしかないのです。このように、メリーさんのようなそういう不思議な人物を残してきたことも、横浜の風俗といいますか民俗だったのではないかと思うのです。
「メリーさんの写真は、檀原照和さんのご好意で転載いたしました」
http://www.k2.dion.ne.jp/~dambala/top/merry.html

―ハイカラ―
これは皆さんご存知のとおりです。明治の初めの正装というと、海軍のハイカラーの軍服の真似をした服装もはやっていて、あれからハイカラという言葉が出たのです。横浜ではハイカラビル、ハイカラ髪、ハイカラさん、ハイカラ式、ハイカラ党、ハイカラ連という言い方まであります。とにかく西欧風で真新しい、流行に敏感、ついには逆にバンカラなんていう言葉も出てきました。それから、ひどいのは動詞として「ハイカル」とか「ハイカラがる」とか「ハイカラ好み」なんていう言葉まで生まれ、全国的に広がっていきました。

―カムヒア― come here-
横浜の山手の住宅地に外国人が住んでいたわけです。そこで庭で犬を飼っていて、そこで主人が犬にこっちへ来なさい、「come here 、come here」と呼んでいた。道路を通っていた日本人がそれを聞いて、「ああ、アメリカ人は犬のことをカムヒャーと呼んでいる、犬はカムというのだ。日本でも猫にでもタマヤーとかいうようにヤをつけているのだな」と考えたのです。これは現実に、私も中華街の裏町で年をとったおばあさんに直接聞いて採集した言葉です。
横浜には横浜浮世絵といって、一枚刷りの木版の絵が沢山残っているのですが、その中にもカメ芝居というのが出ています。これは、明治初年に犬を着物を着せて舞台の上でロープを渡らせたりしているものです。犬の芝居という意味です。

―Gang・ギャング―
これは理解できるでしょうか。このギャングという言葉はもう死語になっているかと思いましたら、つい2,3日前のNHKで自動車を輸出している大きな輸送船への積み込みに働く労働者の単位がギャングだと言っていました。昔から横浜の港の荷揚げのひとつのグループをギャングというのです。但し英語の辞書を引いて調べますと、やはり一番初めは、奴隷とか工夫とか囚人などの群を言うのらしいのですが、横浜では今でも一つの労働者の編成単位の呼称になっています。ギャングウェーといったら貨物船へ昇り降りするタラップがギャングウェーです。これも、今でも生きている言葉です。

―bluff・ブラフ―
ブラフ、これはなんという意味かというと、断崖とか絶壁という意味です。山手のことを横浜ではブラフといいます。今でも色々なところにブラフという地名がついています。排水溝なんかはブラフ溝といって、断崖の所に作るものがブラフなのです。

3.ハマことば・ハマベンの誕生
―浜弁・ハマことば―
私がハマことばという言葉をこんなに堂々と使えるようになったのも、根拠が段階を追ってありまして、明治の初年頃「横浜土産」とか「横浜通商 異国言葉」という2,3ページとか4,5ページの木版の本がいっぱい出ているんです。日本人がそれを読んで、勉強して、会話をしようと努力しているわけです。港へ行きましたら波止場言葉とか、人力車の人はリキシャマン語、車屋英語といった風に色々言葉を使おうとしているのですが、母音と子音の音の違いから、正しく聞き取ったのを発音できなかったのです。そういうことを総称して、次第にハマことばというようになったのです。

熱心に話を聞く受講生―衣紋坂・えもんざか―
これと同じものが東京にあるのをご存知ですか。吉原に衣紋坂というのがありました。これが横浜にもちゃんとある。これだけは東京からそのまま入ってきているのですね。今横浜スタジアムの場所にそのまま同じ大きさで、港崎町(みよさきちょう)という遊郭街がありました。そこには遊女屋が15軒、店屋が44軒、案内茶屋が27軒、遊女が実に570名、4年後には1387名も遊女がいたのです。ここに遊所を東京の吉原と同じように作ったわけです。場所も日本堤から大門に至るあの道のように、坂道が県庁側から反対側に横浜市役所の方に逆に低くなっているのです。これは万延元年からわずか慶応2年のほんの4,5年間の間栄えますが、豚屋火事というのが横浜一円に起こって全部焼けてしまいました。それで全く消えてしまうわけです。

―買弁―
買弁というのは華僑、印僑などの貿易商です。中国人の才能というのは皆さんご存知だと思いますが、片言の世界共通語を使って、貿易の仲立ちを実にうまく商取引をするのですよね。外国人が集まるところ必ず華僑、後に印僑がいて、この買弁が通訳の仕事をしていた。
ともかくハマことばというのは、例えばアメリカのア、Aを落としてしまってメリケンと発音する、こういう母音の聞き落としですね。それから子音の聞き落としでも、例えばgoldゴールドと言うとお金ですね。それをゴールという。最後のdが出てこない。それから発音の聞き違いで、例えばロウソクのことはキャンドルですね、これをケンローという発音をします。Leが落ちてしまうのですね。

それからお父さんファーザーはファウラ、fが落ちている。こんな言い方で日本人が使っていたわけです。ソーセージなんても、今、私達は使ってちっとも違和感を持たないんですけれども、当時の人は一生懸命聞いていても分らなかったのでしょう。セウソージとか全く違う発音が出ている様子が記録にあります。
このようにアメリカ語が主体になっていたのですが、イギリス語、ドイツ語も入ってきますので、大変言葉が複雑になってきて、面白み、違和感が沢山ある言葉が広がっていったのです。

―キリスト教の許可による外国文化の広がり―
安政元年に日米和親条約を結びまして、それから18年たった明治6年になって、キリスト教が黙認されることになりました。許可ではないのです。黙認です。ですから日本人が教会の窓から中をのぞくとお巡りさんに捕まったり、そういうことがあったらしいのです。そのころ、教会をなんと呼んだかというと、「テンポーハウス」。お寺はテンプルですね。本当はテンプルハウスなのでしょうが、日本人は天保(年間)とからめて覚えたのでしょう。それから「オーテラー」と言うわけです。オオは感嘆詞、お寺をちょっと伸ばすような言い方で、日本のお寺とちょっと違う教会を表現しています。こんな時代の中で出てきた言葉がこれです。

―twoポッポ木待て待て―
Twoは英語ですよね。ポッポは擬音語です。これは外国人が公園を通っていて、木の上に鳩が2羽止まっている、あれはなんだと質問したら日本人が答えたのは「ツーポッポ キ マテマテ」、木の上で2羽の鳩が休んでいるのだと、こういう言い方をしたというのです。これで向こうもこのことを理解した。たくましいですね。これもキチンと当時の本に出ております。

―靴ポンポンman―
これも同じような例です。あの人の仕事は何かと聞いたところ、あの人は「クツ ポンポン マン」ですと。靴を修理する靴屋さんという意味です。当時の日本人が物怖じせず対等に話していたことをが判ります。

―鳶の羽・Don’t be in hurry―
これトンビノハネってどういうことかと言うと、急ぐなと言う意味です。これで外国人も分ったといいます。英語で読めばドント ビー イン ハリーですが、「鳶の羽」の方が通じたのでしょうね。

―eat next room―
これはどうですか。次の部屋を食べましょうということですが、次の部屋で食事しましょうと言う意味で使われたと記録されています。

―ヘッドカッタ―
理髪店でヘッドカッターという看板を出したと言われています。向こうの人には首から切ってしまうということですので、これは流石に外国人に指摘されて看板を下ろしたそうです。

―ウミン国・エンゼル―
これは何かと言うと、皆さんかすかに覚えている人がいるかもしれませんが、横浜浮世絵の中に沢山ウミン国の話が出ています。これは太った赤ちゃんに羽根が生えている絵です。森永ミルクキャラメルのエンゼルです。あれが当時もてはやされていたのです。外国人と会って、その絵をみて、外国に行けばウミン国というのがあって、そこの赤ちゃんには羽根が生えて、それが次第に羽根の生えた大人になって、空を自由に飛んでいると言う夢にまで広げているのです。ですから外国人を決して怖がっていたわけじゃないのです。貪欲に外国の文化を吸収しようとした、そういうもろもろを総括するようなことばです。

―キリシタンバテレンの魔法―
当時の外国文明の数は驚異に近いものがあった。ペリーは安政元年に来て、横浜に上陸したら、すぐに線路を敷いて、そこで小型の蒸気機関車を走らせるなどをやっているんですね。そういう中で日本人が一番怖かったのは電信電話ですね。まあ怖かったと言うより、驚異だったのでしょう。それは「キリシタンバテレンの魔法だ」と言われ、電線の下で電気の通るのを今か今かと待っているとか、魔物がつくと言ってあの下は絶対通らない、とかいうことが当時あったようです。

それから、ガス灯にも凄く驚いています。ガス管の途中に小さい孔を開けて火をつけて、これは花ガスといって、花火のようなガスと言う意味でしょうが、明治天皇はわざわざそれだけを見るために横浜に来た記録があります。そのほか、明治天皇は鉄道が敷かれた時、新橋と横浜両方の駅に行っています。また、横浜に灯台ができるとそれを見るために、さらに競馬を見に、横浜に来ています。

―生写・正写―
もう一つの驚異は写真術、これは生き写しと言って、生写と言いました。正確に写すということで正写という言い方もありました。写真機に対してのその驚きをこんな言い方で表していたのです。

―station・停車場・火輪車―
鉄道のことについて話しますと、新橋・横浜の鉄道の開通ですが、これも横浜の高島嘉右衛門という人が鉄道を引き受けて、新橋まで敷いているのです。横浜、品川間をまず開通させ、それを新橋まで伸ばしているのですが、当時のスピードというのはどれくらいかというと、 横浜、新橋は現在は40分くらいですね。殆ど変わらなかったということを言いたいわけです。ということは途中に4つの駅しかなかった。それで一日8往復、片道正確には53分、乗客数は一ヶ月に約7万人。一週間で34,881人という話も残っており、凄い混雑だったようです。
ここで言いたいことはステーションという言葉は今でも残っていますが、実は他の言葉になると、停車場とか火輪車、岡蒸気、鉄道所などの日本語を殆ど今も使っているのですね。小型蒸気機関車を安政元年に初めて見て以来約18年たつと、すっかり日本語化している。その後、管轄が逓信省から帝国鉄道省、鉄道院となり、そのため院線から、省線、国電となり、E電なんていうのはすぐ消えました。それがJR線と今は変わってきたわけです。

―がた馬車・がたくり馬車―
それから申し上げたいのは、横浜から東京に定期馬車があったという事です。また海にもちゃんとした定期船があったのです。船や馬車で東京に通勤していた人もいたのです。乗合馬車は「がた馬車」、「がたくり馬車」とか言われていましたが、自動車が入ってくるのは明治31年、日清戦争後なのです。

講師の伊川公司さん 横浜のシルクロードというのをご存知ですか。横浜港から海外に輸出するもので何が多かったかといいますと、慶応元年のデータを見ましても生糸が79.4%、お茶が10.5%、あとは、蚕の卵で蚕種と言われるものが3.9%、その他海産物が2.9%ということで、もう生糸が殆どです。この生糸を横浜に運んだのがシルクロードです。正式には横浜街道といいます。もう一つは、東海道から横浜の港の方へ道を作る必要が出て、当初神奈川宿のところに港を作る予定だったのが横浜に変わりましたから、この道は横浜道といいます。もうひとつ八王子の方から来る道も横浜道と言う事がありますが、正式には東海道から横浜に入るこの短い道を横浜道といいます。

―遠行きボーイ―
今でも八王子に行きますと、シルクロードゆかりの異人館という建物が復元され、保存されています。当時の外国人たちには、三渓園や本牧のあたりまで遊歩道を作られてあったのですが、彼等はそれでは満足しないのですね。勝手に馬に乗って東海道の方まで行って、例の生麦事件を起したり、それから八王子の方へ行って、異人館のあるところでお茶を飲んだり休んだりしていたのです。鎌倉の大仏を見に行ってみたりもしています。その彼等を案内するのが「遠行きボーイ」、遠行きは日本語で、ボーイはboyで英語ですよね。

横浜の海上から定期船がでていたという話をしましたが、3隻ほどありまして、それぞれ一日に2往復くらい。ある船は横浜渡船場から東京の永田橋まで、朝9時に出て、永田橋から夕方の2時に帰る便があったようです。その他にも2隻の蒸気船があって、これは一時間で着いてしまったようで、今考えても速いスピードだと感心させられます。ちゃんと定期券で通勤する人が数十人いたという記録が残っています。

―舶来・勧工場―
「舶来」とは船で外国から持ってきた商品を言うのですが、「勧工場」をご存知の方はいらっしゃるでしょうか。これは実は今でも上野に残っています。西郷さんの銅像の下の商店の形式、あれが勧工場です。つまり、デパートなんですけれど色々な商店が集まって大きな百貨店を形成している、勧業博覧会と言う言葉のイメージでお分かりいただけますでしょうか?

―谷戸―
この「やと」というのは横浜ではよく使う言葉で、山の入り組んだ谷間の水の湧き出るところを谷戸といいます。山下公園から山手へ上がっていく坂、あそこを谷戸坂といいます。全国的にはこれをサクとかヤチというところもありますね。鎌倉ではヤトとかヤチというらしく、川端康成は山の音という作品のなかでヤトとわざわざ読み仮名を振っていますね。里見敦は鎌倉の裏のほうですがヤツと書いています。同じ鎌倉でも違った使い方があるのですね。

―平坂―
それから京急・横須賀中央駅ご存知の方はいらっしゃいますか。この横の坂をあがっていく道、あれを「ひらさか」というんです。あんな急な坂を平坂とはおかしいようですが、広い傾斜地をヒラというのです。アイヌ語では崖のことを「ピラ」といいます。関係がありますかね。こういう言葉を地域ごとに分けてみると面白い研究になると思うんです。

ついでに申しますと、多摩地方で「はけ」という場所があるのをごぞんじでしょうか。平成11年4月の朝日に出たのですが、石原慎太郎知事がここの昭和記念公園で第10回全国緑のつどい講演会で皇太子ご夫妻をお迎えししたとき、「はけ」とい掲示があったのです。雅子妃殿下が「これはどういう意味ですか」と聞かれると石原知事は得意になってそれを説明したらしいですが、大岡昇平の「武蔵野夫人」の冒頭に出てくる場所で、いわいる関東ローム層の平地からでも水の湧き出てくる地形です。この水の湧き出るところが東京付近では「はけ」といいます。「捌」とも書いて、掃除のはくというのもこの言葉が語源だと思います。ほぼ傾斜した水の湧き出るところ、これを横浜では「ヤト」といい、八王子などでは「はけ」というのです。

―ware上屋・ウワヤ―
横浜には高いところから建物の密集を見下ろすところが沢山あり、屋根の上に大きな字で、このように書いてあるところが多々あります。ところが横浜が開港する前は、この言葉はなかったのです。外国人が持ってきた言葉です。4本の柱に屋根だけつけたものがwareです。丁寧に言えばwarehouseですが。日本人はその発音を真似て、建物の周りも囲ってもっと立派な建物にして、それをウワヤ、上屋といったのです。今でも横浜の倉庫群にいくとみんな「上屋」と書いてあります。

―pilotパイロット―
これは水先案内人のことで、横浜ではマドロスさんとともによく使われています。

―肩士・かたし―
重い荷物を運ぶ人を肩士と言います。私はこういう言葉が大好きで、いい表現です。

―忠泳館―
これはご存じないかもしれません。明治の初めのころ横浜の港の真ん中に、大きな船の真ん中をはずしてしまって、海水を入れて浮き掘りのようにして、プールとしたのです。ちゃんと一銭蒸気があって、ここのプールと陸を結んでいたと言われています。浅草に花屋敷がまだありまが、これも横浜が最初でした。

―Craneクレーン・キリン―
これはハマことばの中でも私の一番好きな言葉です。ああいい表現だなと思うのです。港の荷おろしをする機械ですね、いかに表現が適切かという証拠に、私が本を出した時教え子が感想を送ってきて、うちの娘を港に連れて行ったら「あっキリンがいっぱいいる」って言ったというのです。横浜あたりではこれをキリンという。方言にも広がっていて、クレーンでなくキリンというのです。田舎でうどんを搾り出す機械があるのですが、あれをキリンといいます。その他、建築業者が家を建てるときに柱が垂直に立つようにこういう風に支えを作るんですね。あれもクレーンというのです。それともうひとつ、建設で使うジャッキ、これなども横浜ではクレーンと言います。これなどもハマの港から広がった言葉です。

4.ハマことばの広がり
これから少し鉄道に関わる話をしますが、新橋までの鉄道を敷設した人は先ほど言いましたように高島嘉右衛門と言って高島易という暦の専門家です。教育者でもあって、あらゆることをした人です。この人が鉄道を開いた。邦枝完二の「銀座開化」という本を読みますと、「銀座の誕生はレンガ通りが出来、横浜作りと言われた西洋長屋が政府の一大決心のもとに竣工された。」と東京の開発を述べています。

実は横浜が開港した時、一番最初に集められた商人は、東京から現実に命令でもって人間が派遣されているのです。ところが、東京の人たちは藩出身のかなり拘束を受けていて、それから学問もあり、教養を積んだその階級社会に生きるの人々には、外国人が無礼者に見えて仕方がなかった。つまり、日本人にとっては外国人の所作が無礼に見えるのです。そして皆そうそうに逃げて帰っているわけです。そのため最後に誰がその役割を担ったかと言うと、学歴も語学歴もほとんどない地方から出てきた商人なのです。

彼等が買弁という人たちを仲介にして、商売をした。銀座の開発もそういう人々が住んでいた横浜作りという形式の建物の建設で始まったのです。それまでの日本橋から変わる、新しい銀座の開発は横浜人が開発したと言われています。その建物がどういう建物かというと、今も慶応の三田記念館なんかを想像していただけば分ると思いますが、一階は石造り、2階がなまこ壁、内側は1階が洋風で2階が和風、こういう建物が最初の横浜作りの建て方でした。
―因業屋・強情屋・まからぬ屋―
当時の人々の様子は、西欧化したよに見えても、時代とともにすぐ国粋的になっていき、町の商店は「因業屋」、がんこで強情な商人たちが逆に存在感を示すようになるわけです。「強情屋」とか「まからぬ屋」なんていうのもあってこれで結構商売になっていたようです。

―顕官・ゲジゲジ・なまずの不体裁―
それからお役人に対して、当時の人も言葉で結構抵抗しているのです。例えば立派なお役人様は「顕官」と言って称えるかと思うと、悪がしこくて、ずるいお役人のことを「ゲジゲジ」と言ったり、威張るお役人のことを「なまずの不体裁」などといった言葉が盛んに使われました。

―立場・建場―
「立場」というのは、使わなくなったものを処分するところ、材木なんかのいらなくなったものやゴミ類を処分する場所で、これが明治の初めの横浜地図に沢山その場所があったことが記載されています。今でも地名として沢山残っています。

―浜苞(ハマツト)―
それから、「苞(ツト)」というのはお土産のことですが、これは今でも使いますし、万葉時代からある言葉です。

―茶巫・卓袱(チャブ)・チャブ屋―
これは中華街の言葉です。私達は南京町という言い方や唐人町という言い方を昔はしたのですが、大正元年に辛亥革命で中華民国が出来、それで初めて中華街という言葉が出来るわけです。そうした所にあった「チャブ屋」というのは、遊郭とも違う、キャバレー、バー、スナックとも違う、これ等と喫茶店、ダンスホールなどをすべて一つにしたような店のことです。チャブ台というのもそうして店のつながりから生まれています。当時の外国人は大変利用したらしく、明治の高官と交渉する外国人が「あらそう」とか、そうしたところで生まれた女言葉を使うので困ったと言う話も載っています。

―唐物店・唐人笛(チャルメラ)−
はじめは中国からの輸入商品を売る店でしたが、そのうち外国の商品を売る店を全部「唐物店」と言うようになりました。「唐人笛」なんかもこれチャルメラのことです。横浜ではチャルメラとも言いますが、むしろ唐人笛と言われてきたようです。横浜に崎陽軒なんていう商店がありますね。この崎陽というのは長崎の別名ですよね。横浜絵図のなかにも「肥前、崎陽、玉浦風景の図」という絵図があります。

―ドヤ(宿の反対読み)モク・ヨーモク―
これは読み方を反対にした言葉ですね。隠語です。ヤドを反対に読んでドヤです。モクも雲、煙の反対読みで、タバコのことです。

―Charamel・キャラメルー
これも江戸時代のポルトガル語から伝来してそのまま生きている言葉です。製法は明治になってから変わっています。

―Glyko・グリコ―
これはグリコ。ドイツ語で動物の筋肉などが本来の意味です。

5.関東大震災による壊滅とその後の復興
―この際―
時間がないものですから関東大震災のころの話をしたいのですが、関東大震災は震源地が小田原だったのです。横浜は震源地に近いですから津波も当時来ているわけです。当時は倒壊家屋が90%です。そして、南京町には中国人が5000人住んでいて、そのうちの2000人が死んだと言う記録があります。当時の大阪毎日新聞を見ると「罹災民90万人、横浜市は全滅、最良の救援を待つ」とあります。それでも日本人は打撃を受けながら、結構たくましくそこから立ち上がるわけです。このさいなんとか頑張ろうやということでしょうか、「このさい」という言葉が盛んにつかわれていました。

―移民館・移民宿―
横浜の「移民館」、「移民宿」というのは途中で神戸に移りますけれども、移民する人たちが、その頃はここから出発するので、多くの人数が当時逗留して利用したのです。

―今半・イマハン―
これは皆さん知っていると思いますが、映画館や劇場の夜の割引ですね、これから半額になるということを「今半」といいますね。

6.敵性語と第2次世界大戦、敗戦と進駐軍のミシシッピー・ベイ上陸
―敵性語―
戦争に突入するようになる昭和15年からは、敵性語という言葉が出てきます。日本語でないといけないと言うことで、高等女学校は英語をはずして、英語雑誌名とか店の名前とか全部変えさせられたのです。ロシア語、フランス語なんかも敵視されていました。
歌手のディック・ミネなんかは三根耕一、野球のスタルヒンは須田博、雑誌のサンデー毎日は週刊毎日、エコノミストは経済毎日、オール読物は文芸読物と変えられていくわけです。ジャズなども軽音楽と言わなければいけなかったのです。野球もストライクは良し、ボールはただ一つ、二つとかと言っていたようです。セーフは良し、アウトは引け、ファウルはだめ、三振はそれまで、という言い方をしたのです。

―Made in occupied Japan―
昭和20年に敗戦になるのですが、アメリカは横浜のここのミシシッピーベイにまず上陸する。重光外相がアメリカの軍艦の「ポーハタン号」という船の艦上で、終戦の条約に調印する。前に述べたように一番最初の、開港当時の安政5年の日米修好通商条約をむすんだのは、東京湾に来た「ポーハタン号」という軍艦の上で結ばれているのです。彼等は日本が敗戦になった時、その前例の通りにこの形式で、艦上で条約をむすび、ミシシッピーベイにあがって、山下公園の前のホテルニューグランドに泊まって、マッカーサーを迎えて、それからマッカーサーは第一生命ビルに移ったのです。アメリカというのは、最初ルビコン岬と名前をつけたように、こういう歴史的なつながりをしっかりとらえて国と国のつながりをきちんと結びつけていくわけですね。

そうした中でこれだけは申し上げたいと思ったのですが、「Made in occupied Japan」という言葉です。占領下の日本で作られたものという意味です。これはブリキのおもちゃにつけられて輸出されていったのです。戦後の復興の始まりでした。

時間がなくなってしまいまして、ずいぶん省略してしまったのですが、これで終えたいと思います。大変おおまかな話になりましたて、どうも失礼しました。 

(拍手)


質問:横浜は人間が流動的なところと思いますが、そこでそこの言葉がどうしてこう長く残されているのですか?
答え:横浜は3日住めば浜っ子という言葉があるくらい、まずそこに入れば横浜人として通用する、浜っ子は自分達を誇りに思っていますから、残されているのではないでしょうか。横浜人は土地を離れても愛着を持っている人が多いです。それに横浜の人は定住するとそこにずっといる人も多いです。

質問:馬鹿、あほ、たわけの世界、罵倒語に関しては横浜あたりはどうなっていますか?
答え:あまり使わないですね。いいじゃんか。そうじゃんか。というむしろ肯定するような言葉が多いですね。無論喧嘩もありますし、そういう罵倒語もあったと思いますが、あまり強い存在感がないですね。河出書房で「あほ馬鹿考」という部厚い本が出ていますよね。柳田国男が言っているのは、方言周圏論といい、ある地点で使われる言葉はそこを中心に円をかいて広がっていって、そしていつその言葉がその土地に伝わったか大体分る、その方言の伝播速度もカタツムリの速さだといわれていますね。


終り

文責 臼井良雄
写真撮影 橋本曜
HTML制作 和田節子