神田雑学大学 平成18年8月18日 講座No325

インド・釈迦の足跡を訪ねて
原田公平


インドへの動機

 サラリーマン生活、50の声を聞き、初めて人生の残りを考えた。仕事以外で何か思い切って何かしたい、そのとき浮かんだのが「中国・道元禅師の足跡の旅」であった。30歳過ぎに坐禅を始め、師匠から道元禅師の中国のエピソードをよく聞かされた。禅の仲間に声をかけ勤め人6人が手を上げ1年かけて準備した。できるだけ当時に近い旅をと運河を使い、また歩いた。天童寺の坐禅堂、案内の住職から「ここに道元禅師が座っていた」と聞き、そこで坐禅をさせてもらい、体が痺れた。同じ行動しても、一歩踏み込むと全く別の世界の旅を味わった。

 次は釈迦の生まれたインドだと3年後、ほぼ同じメンバーで1年の準備、夏休みを利用して8月、インドの雨季に訪れた。

 今日はパワーポイントを使って皆様と一緒にインド・ネパールのお釈迦さんの活動したところを訪ねます。

インドへの道

 バンコクへ向かう機内のコーヒーに「スジャーター」がついている、「仏跡の旅」の最高の縁に狂喜。スジャーターとは村娘の名前で彼女は釈迦に乳粥を供養した。釈迦はそれまでの苦のみ修行を捨て、乳粥を食べ元気を回復し、菩提樹の下に座り悟りを得た。

バンコクからカルカッタへ、夕闇迫る眼下の広大なソーメンを流したようなガンジスの河口は視界一面グレー、鼠一色の死の世界、そして程なく猛烈な熱気と人と牛と子供の物乞いのインド・カルカッタに入った。

ホテル名が「アショカホテル」、アショカとは漢字で「阿育王」と書く。王は釈迦が亡くなったあと200年後にインドを統一し仏教を保護、世界に広め、釈迦の遺跡に「アショカ王柱」を建て、現在も数多く残っている。インドのお札にも「アショカ王柱」が印刷されている。

カルカッタ 

翌朝、ホテルの周辺散歩、牛の風景にびっくり。

インドの85%がヒンズー教徒、カルカッタのヒンズー寺院の代表、女神のカーリー寺院でヤギの生贄の儀式をみる。殺生を禁ずる仏教との違いを目の当たりにする。

カーリー寺院の近く、ごったがえす交通麻痺の車窓からマザーテレサの「死人の館」、窓のない静かな建物、現実のカルカッタに40万人の路上生活者、死ぬときだけはせめて人間らしくとマザーテレサの愛の館に思考が停止した。

ガジュマルの大家族樹

 事前調査で是非とも訪れたかったところ、広大な国立植物園、車で入る。ガジュマル(榕樹)は枝から根が出て地面に根付く。枝は限りなく広がり今、幹は300本、周囲は420メートルあり周囲は歩けるようになっている。僕の想像を超えたものを前に茫然。

また人が乗れる大きな蓮をみて、蓮華に座る釈迦の姿を思い浮かべ、インドに来たという実感が湧く。

インド博物館 

インド博物館を代表するのはイギリス人によって発掘された「パールフットの大塔」、釈迦の前生の物語「ジャータカ物語」の1話、1話が一つのレリーフに表現されている。紀元前2世紀頃に作られたという。館には釈迦の遺骨、仏舎利も展示されていた。


ジャイナー寺院

 仏教と似た教えで同じ頃生まれたジャイナー教、仏教は13世紀にインドで完全に消滅したが、ジャイナー教は健在。信者は多くはないが寺院は目も眩むばかりの華麗な装飾。殺生と無所有を説く教えは商人や金融業が多く、寄進が多いからという。

仏陀が最後に歩いた道

 僕たちはカルカッタから夜行寝台列車でビハール州パトナへ。早朝に着き、釈迦が活動した地、仏跡の旅はここから始まった。

仏陀は出家して住んだところが王舎城(ラージギール)。成道した後もここに多くとどまり説法をした。80歳になり生まれ故郷のルンビニー(ネパール)を目指すが、途中のクシナガラで入滅する。

専用バスで釈迦の最後の旅の道を、逆方向に南下する。遠く広がる農村風景、道端には大木が列をなし村人が木陰で休んでいる。ところどころにマンゴーの木、2500年前のような錯覚をする。インドの盛夏は4,5月、今は8月で雨季だが日本の夏よりはるかに暑い。バスのクーラーが故障し、窓から自然の風を取り入れ、釈迦の道を行く。

ナーランダ大學跡(八大聖地の1つとも、しかし釈迦の亡くなった後にできた)

 中国のお坊さんで最も知名度の高いのは西遊記の三蔵法師、実在の方である。7世紀初め国禁を犯して天竺(インド)へ求道の旅を17年間。その中でもナーランダ大學には5年間仏教を学んだ。

今も発掘され広大な遺跡跡、僕たちは一番高いストーパー(塔)、舎利弗塔に上り、玄奘三蔵が訳した「般若心経」を唱える。釈迦の10大弟子、般若心経に出てくる舎利子、盂蘭盆会を始めたといわれる目連もここの出身だという。

 玄奘のずっと後、ここの高僧の命で密教が中国に入り、空海が入唐しその密教を受け継ぎ、日本に新しい平安仏教が栄えた。

 隣にナーランダ博物館、仏像とヒンズーの神々が展示されているがイスラム教の影響で仏像や壁の彫刻は首から上が破壊され、痛々しい。

王舎城(ラージギール)釈迦が最も長く生活したところ

 オレンジの衣をまとったヒンズー教徒でごった返している。ジャイナ教や仏教、ヒンズーの寺院は同じ場所が多い。ヒンズーのお祭りがあるのだろう、ヒンズー教徒は食材を持参し自分たちで料理を作っている。我々はそうはいかない、ある一軒のレストランへ行き、ガイドが注文する、レストランはそれから料理作りが始まるから数時間必要。その間、鷲霊山に向かう。

鷲霊山で読経(八大聖地の1つ 釈迦が説法した場所)

鷲霊山の途中まで車で行き、途中からなだらかな山を登る。鷲の顔をした岩を回り込むと釈迦が説法していた場所、6名は一人一人五体頭地でお拝する。

釈迦はここで多くの経典を説いている。禅宗で必ず読むのは法華経の中の「観音経」、今回はメンバーの三上さんのお父さんが全員、ルビ入りで写経してくれたのを全員揃って「世尊妙相具 我今重問彼・・・」と感動と歓喜の声で読む。最後には我々の坐禅の老師とお経を書いてくれた三上輝夫氏の健康を祈願して、下山する。

*大般若経や法華経は釈迦が説法してから7800年後に大乗仏教の経典として現在に至っている。

 

遅い昼食をとる。ガイド氏が配慮してくれただけに料理は口にあう、通常だと辛くて食べられない。ビールも離れた酒屋から取り寄せ、しかし冷たくはない。

本当はここの温泉に入りたかったが時間がなく釈迦成道の地、ブッダガヤに向かう。

今は田植えが真っ盛り、色とりどりのサリーの女性たちが中腰で横一線になって植える風景は僕たちには懐かしい光景だ。これは日本からの指導と聞いた。夕闇が迫り稲光、バケツをひっくり返したようなスコール、インドの物資の輸送は大型トラック中心、街道は渋滞する。運転手はおおらかで僕たちのバスを優先的に通してくれる。

ガヤが今夜の宿泊地、町は停電で真っ暗闇、現地人の黒い顔が蝋燭の光で異様な光景を見ながら、まずはブッダガヤへいく。

漆黒の前方にブッダガヤのシンボルの塔がライトアップされ、浮かんでいる。

今インドで修行中の坐禅仲間が出迎えてくれ、彼の案内で本堂に入る。明日から着るオレンジのユニフォームは彼が皆にプレゼントしてくれた。この夜は般若心経を上げてガやのホテルに入る。ホテルの名前が釈迦の幼名「シッダルダー」である。

ブッダガヤで坐禅(4大聖地の1つ、釈迦が悟った地)

 古くは高岳親王に明恵上人、臨済宗の開祖・栄西禅師などが天竺を目指したが叶わなかった。中国は古来、法顕や玄奘三蔵に代表されるように多くの僧が天竺入りしているが、日本は明治になるまで1人もいなかった。

 現在は意志と時間と少々のお金があれば簡単にできるが、はやり日本から遠い、仏塔を眺めながら、今日この地に立つってることが不思議でならない。

 素足になり入口の仏足石に合唱。1世紀頃にギリシャ文明の影響で仏像が生まれ、仏足跡に取って代わる。正面の釈迦本堂、艶やかな南方系の仏陀像に三拝。 

後ろに回ると何代目かという大きな菩提樹が茂っている。幹の根っこに金剛宝座、釈迦が悟りを開いた場所、見張りの僧がいる。白衣を着た東南アジアの大勢の信者たちがその国の言語でお経をあげている。

僕たちは1人ひとり金剛宝座にお拝をし、菩提樹の茂った枝の下で念願の坐禅をする。感無量。

 ここの記念に菩提樹の実でつくったという数珠を数個かった。昨年から四国88ヶ所、歩き遍路を始め、数珠はこれを使っている。 

 

ベナレスで沐浴(世界最古の宗教都市)

この旅の最も思い出に残る1つとなった。

早朝に出発、ヒンズー教徒の沐浴を見物する。各ホテルから続々と人が集る。行く道々にはお供え用の花を売っている。56名単位で船に乗り、屈強な若者が櫓でガンジスの上流に漕いでいく。雨季で水嵩が多く、水は濁っている。色んなものが流れてくる、ギョッとする、牛が流されている。異臭が鼻に、と見ると布に包まれた人間が流れている、そしてまた。ガイド氏曰くまっとうに死を迎えた人はここで火葬にされ、灰をガンジスに流してもらう。がそうでない人はそのまま流されるという。

 同じ流れる水、ガート(木浴場)ではヒンズー教徒がそれぞれに、厳粛に沐浴をしている。

 ベナレスでは沐浴する計画でガイドに告げてあった。沐浴の観光を終え陸に上がる、ガイド氏がこれから沐浴に行くという。僕は思わず「えっ、行くの」と。他のものも同じ思い、口をつぐんでいる。ガイド氏が「ここまで来ていかないの」とややさげすんだ声に、我に返った。「行く」っと。他の者も腹が決まった。

 ガイドは燃えてる火葬場の横を通り、少し離れた場所に僕たちを案内した。パンツ1つになって恐る恐る足から水に入る。ひんやりとして、そして川底は土でドロっとしている。胸まで水に浸かり、思い切ってズボッ潜り、頭まで水に浸かると今までこだわっていたことがスカッと消えていた。あれだけの観光客、沐浴したのは僕たちだけのようだった。やってよかった、今も思う。

サルナート(鹿野苑)4大聖地の1つ)釈迦が始めて説法した地

 4大仏跡の1つ、サルナートはベナレスから10キロほどのところ。ブッダガヤで釈迦が悟り、その教えの最初がここサルナート、初転法輪の地である。釈迦の護衛として一緒に修行していた4人の仲間、ブッダガヤで釈迦が苦行を捨て、スジャーターの乳粥の布施を受けたのを堕落と見て去っていた。釈迦は深遠な法を、まずこの4人に法の輪を説いた。

 広大な敷地、大きくて高いストーパー、入口に釈迦が4人説法して像がある。発掘中の遺跡もある。2500年前にここでの説法が約1000年ほどして朝鮮から日本に入ってきていつしか日本人の生活や心の拠り所となり、そして今、私たちはここにいる。

最高の土産

 僕の旅はあまり土産にこだわらない、むしろ買わない方が多い。

サルナート美術館、よく見る写真の仏像が展示されている。クーラーはなく、暑くて鑑賞意欲が湧かない。そうそうに出て涼しいバスに戻ろうとすると僕の肩を叩くものがいる、振り返るとぼろぎれに包んだ小さな仏像をチラッと見せて大切そうにまた包んだ。思わぬアプローチに気が和んだ。それまではインド人の土産のしつこさにうんざりしていた。

 いくらと聞くと法外な値段をいう、全部で3体、今掘り出したばかりだといわんばかりに土まで付着させある。手にもつとずっしりと重い。交渉を重ね、3100ルピーで買った。帰国して友人に2体、プレゼント。1体は今も手元に。あれはサルナートの地でつくられた本物の仏像である。見るたびに当時のことが蘇り、僕の旅の最高の思い出の品の1つとなった。

ネパール カトマンズへ

 ベナレスから一旦カルカッタへ戻り飛行機で向かう。と言えば一言だが、難行苦行の連続、といってもガイドがすべてやってくれるのだが。ベナレスから夜行列車の駅に向かう、途中スコールにあう、そうなると長蛇の交通渋滞、それでもギリギリ列車に間に合う。列車が遅れ、カルカッタ駅は現地のガイドが駅構内に車を入れてスタンバイ、すぐ飛び乗り、朝の交通渋滞の中、飛行場へ。インドの全ガイドとカルカッタのガイドさんとはお別れ、彼らのガイド振りは完璧であった。インドの商人は世界の嫌われ者の風評があるが、彼らの献身ぶりは今も心に残る。

 約1時間、期待したヒマラヤの峰嶺は雲の中だった。町は1300b、インドの暑さと喧騒、みやげ物、物乞いからやっと解放された。しかしガイドは学生のアルバイト、日本語は初級以下。

カトマンズと目玉寺院

 スピルバーグの映画、インディジョーンズでカトマンズシーンがある。塔の上に大きな目玉を持つ建物すごく神秘的でカトマンズとは現世離れのイメージがある。僕たちの目的はチベット仏教を見たかった。

 ネパールはインドの属国みたい、インドルピーが通用し、ヒンズー教が中心。しかし2つの目玉寺院が山からと平地から町を守っている。寺院はチベット仏教で多くの参拝者もある。

小高い丘の目玉寺院・スワンヤプナーの入口で一度やってみたかったへマニ車をまわす、みんなも楽しそうにやっている。1回まわすと一度お経を読んだことになるらしい。中は日本の寺院と同じく、違うのは金ぴかの仏像とオレンジの坊さんの袈裟である。多くのラマ僧がお経を上げている。脇には少年僧がいて旅人を珍しそうに好奇の目で見ている。僕たちも五体頭地で礼拝をする。

 あの不気味な目玉は人々を守るために四方をにらんでいると聞けば、慈眼に見えてくる。

 僕たちの仲間の1人で短髪の者、オレンジのユニフォームで僧と間違えられ尊敬を受けていた、また目玉寺院では僧と意気投合していた。

インド デリー国立博物館

 カトマンズからデリーまでは1時間と少し、空港出口でガイド氏が待っていて、すぐに専用バスで国立博物館へ。国立博物館は大きく、インドの歴史がすべて詰まっている、僕たちの目的は1つ、仏舎利(釈迦の遺骨)を見るためである。カルカッタの博物館でも見たが、ガイドいわく、あれはニセ、ここは本物ですと。閉館間際、いろいろと手を使い、駆け足で仏舎利のある部屋へ。そこは厳重に保管された壺と骨が展示されている。

 釈迦はどうしても人間と思えないが、こうして骨があるということはやはり人間だったと思うような、思わないような。まあ、でも一応、本物の遺骨に出会えたのだ。

 デリーに来てから下痢者が続出、旅の疲れが出たのか、カトマンズからの機内食に何かあったというものもいたが僕は大丈夫だった。この夜の中華料理は誰も食がすすまず半分残った。

タージ・マハール

 デリーから早朝に列車でアグラへ。朝のデリーの沿線、車窓から人々が小さな入れ物を持って歩く姿が目につく、ある場所では堂々と朝の儀式をしている。小さな入れ物は水でお尻を洗うというインド人の清潔さが伺える。僕は仕事でインドの隣国の中国によく訪れた、中国の便所の汚さとついつい比較してしまう。インドの男性は清潔でおしゃれである。

 美しい大理石のタージ・マハールはイスラム教徒の王様、その愛妻のお墓である。1人のために膨大な費用と人手をかけて建築したがそのために、王は悲劇末路となったが、今や世界中から観光客が押し寄せている。

 帰途のバスの車窓、男の子が牛に石を投げている光景を見て、微笑ましかった。

インド・ネパール仏跡を旅して

 この旅の目的は「何故、インドで仏教が滅んだのか」を現地で感じることであった。

インド社会はカースト制度を維持している。平等を説く仏教ではなく、ヒンズー教・カースト制度、11億の民の85%、国民宗教である。炎天下、道路工事をしている人達、レストランで床を拭いている人、堂々と物乞いする人達、人々はそれを受け入れている。

デリーの駅前、多くの物乞い人達、私たちのガイドが一瞬、何気ないそぶりで布施をしていた。豊かな人はそれなりに喜捨しているようだ。

仏教は上流の人々に受け入れられたが結局大衆に浸透しなかった。平等よりカーストがいいということだった。

平等と自由の日本社会は今世紀になって競争がさらに激化、誰でも成功のチャンスがある反面、失業者が溢れ、ニートとか新しい階層が生まれ、年間3万人を超す自殺者。

カーストとどちらが幸せだろうか。

仏教が滅んだのは分かるような気がした。


文責 原田公平  会場写真 橋本曜  HTML  山本啓一