神田雑学大学 平成18年8月25日 講座No325

織田信長・家系と家族の謎

系図研究家

講師 市川香舟 


目 次

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講師略歴

はじめに

織田氏系図

信長の歌

信長とその周辺

日本の苗字、家系調査

終わりに

4.質疑応答






講師略歴


 現在77歳、家系調査暦30年、市川家系情報主宰、家系研究協議会理事、読売日本テレビ文化センター講師、社団法人日本音楽著作権協会の会員、

著書は市川一族の本、伊藤一族の本、春日局、自分のルーツが分る本。

はじめに

 私は市川香舟と申します。日本人名事典 蝦夷実地検考録に出ている市川鶴鳴という学者がおります。その6代目にあたります。その子供が北海道松前城を設計した市川一学です。そのまた子供が市川十郎と申しまして昌平坂学問所の教授をやっておりました。蝦夷実地検考禄という53巻の書物を書いた人で一代限りの旗本になっております。その孫が私の母親でございます。私の本業は日本家系協会の調査部長を昭和51年に始めまして今年で家系調査歴満30年になります。家系を調査する仕事です。

 10月には叢文社からと秀和システムから殆ど同時に2冊の本が出ます。秀和システムからは「日本人の名前」というタイトルです。叢文社の方は540ページくらいになると思いますが、まだタイトルが決まっていません。これは全国の新聞に出版時に広告を市川香舟の名前で出しますので是非皆様よろしくお願いいたします。ですから私の本業は家系の調査なのです。今まで650件ほど30年間でやってきましたけれど、本当に私じゃなければ分らなかったという家系も結構ありました。

 今日は織田信長の家系の謎、家族の謎ということを主題に家系ということ全般をお話させて頂きたいと思っています。

織田氏系図 その出自は平氏か藤原か忌部氏か

 織田信長については歴史研究という本の4月号に家系の謎ということで書きました。これを読みながらまたお話もさせて頂きたいと思います。

 「群雄割拠弱肉強食の戦国時代その戦国時代に終止符を打った織田信長は天文3年1534年尾張那古野で生まれた。信長公記を見ると信長には兄が2人いたことになっており、ひとりは大隅守信広、もうひとりは安房守だが系図には名前が載っていません。」

   皆さんに配布した系図にはこの人の名前が入っておりません。実際には信長公記を見ますと安房守という人が出てきます。ですからいた事は間違いないと思います。

 「ともに父信秀の側室の子であり、信長は三男ではあるが、正室土田御前を母とする嫡子なのであります。さて信長の家系は寛政重修諸家譜の織田系図によれば桓武平氏とされています。この系図を見ますと信長の家系は織田氏の嫡流と思われがちですが、実は庶流でございます。先祖平重盛の子、資盛を祖として平氏滅亡の時、資盛の妻は幼児だった親真を抱いて近江の国蒲生郡津田庄、現在の滋賀県近江八幡市に行かれました。後に越前国丹生郡織田の庄、現在の福井県丹生郡織田村織田町、今合併されて越前町となっておりますところに移ります。」

 そこで親真は織田氏を称したというのが系図のいうことですが、本当のところは良く分っていないのです。色々何本もの織田系図があります。私も10本近く見ています。全部違うのです。人の名前は合っていても兄弟順が違う、兄弟の人数が違う、色々あるのです。

 だから系図ははっきり言って一級の資料ではございません。あくまでも2級の資料です。正史に対してあくまでも補助的な役割をする資料、それが系図でしょうね。信用できる系図と出来ない系図があります。私も読売日本テレビ文化センターの講師をしており、今浦和と水戸で月に一回家系学入門講座というものを担当させていただいていますが、どの家系図が正しいのかといわれると窮してしまうことが多いです。

 「さて織田氏の出自には平氏説、藤原氏説、忌部氏説と3つの説があります。織田信長は初め、天文18年、1549年11月に尾張熱田八か村に向けた正札に藤原信長と署名しております。そして後には平信長と称しております。」

 こういったことはずいぶんあるのです。徳川家康もある時期の古文書には藤原の家康と書いてある。ある時期から源になったのです。私は、豊臣秀吉は無論ですが織田信長も徳川家康の系図もあまり信用できないんじゃないかと思っています。

 徳川家康は新田源氏の得川家から出たと言われ、群馬県にはそのような発祥の地の案内がありますが、実際には私はクエスチョンマークだと思っています。しかし天下を取るには源氏か平氏でなければ取れないのですね。最初源頼朝が源氏、次の北条氏が平氏、次の足利氏が源氏と、源氏と平氏が交代して政権をとるという風潮があったんです。それはこの歴史研究にも書きましたが「信長が藤原氏から平氏を称するようになったのは源平政権交代思想が原因と思えます。これは源氏の足利将軍家に代わり平氏の織田信長が天下を治めることを正当化した考えではなかったか」ということですね。「平氏の北条氏に代わって源氏の足利尊氏が天下を取ったのも、尊氏が好むと好まざるとにかかわらず、源平交代思想を深く信じている全国の武士の期待を背負ってしまったからだ」と私は思っております。

 「このように源平交代思想は武士の間では根強いものがありました。信長はこれを利用する為、平氏を名乗ったのだから先祖はやはり藤原氏だとするのが、藤原氏説の主張であります。その根拠は信長が氏神として崇敬していた織田庄の織田剣神社には明徳4年西暦1393年藤原信昌、将広親子の置文(子孫のために書き記した文書)がありまして、この藤原信昌が織田氏の先祖だというものです。」 信正の信から尾張の織田との関連もうかがえるというのがこの藤原氏説の主張でございます。事実尾張の織田一族にはこの信の字を使った人が非常に多いのです。


 また姓氏家系大辞典の大田亮先生もこの忌部説をとっております。しかし織田氏の出自が源氏か平氏か藤原氏か忌部氏かというはっきりした決め球になる文献は無いのです。先に天下をとって将軍になった源頼朝や足利尊氏とは全く違います。家系がはっきりしておらず謎に包まれております。けれども信長には頼朝や尊氏を凌駕する強烈な個性、日本人離れした発想力と実行力があります。この魅力に比べれば信長の氏素性の詮索はあまり必要なかったかもしれません。信長の魅力は気宇壮大な型破りの風雲児であることであります。

信長の歌

 信長の気宇壮大さをこんな歌詞にまとめてみました。実は私日本音楽著作権協会の作詞の会員なんです。昭和36年に会員になりレコードも何枚も出しております。まず織田信長の青年時代を「青年織田信長」と題して書いてみました。


    やるぞ戦国大名ならば
    六十余州を手のひらに
    のせて平和を築かにゃならぬ
    今日も尾張の片隅で
  天下を見下ろす織田信長だ

  馬事だ白痴(うつけ)と笑わば笑え
  人生わずかに五十年
  きっと見ておれ四隣の敵よ
  今は名もない信長が
  天下に号令する日は近い

  敵は大軍味方は小勢
  今川義元思い知れ
  運を味方に嵐のなかで
  ついに仕留めた桶狭間
  天下は必ずこの手で掴む
 これはまだ誰にも作曲してもらって無いのですが、だれか作曲してくれませんかね。まだ演歌では織田信長の歌ってないでしょう?

信長とその周辺



 皆さんのお手元にコピーを配布しましたが信長の兄弟、子供ずいぶんいますね。こんなにいるとは思わなかったでしょう。勿論一人の女性から生まれたわけではなくて何人もの女性からの子供です。そして織田信秀、信長の家系というのは皆領内にある美人ばかり狙っているのです。だから女の子はみんな美人です。これは今残っている肖像画を見てもはっきり分ります。有名なのがお市の方ですね。

 織田信長の正室は美濃の斉藤道三の娘だったと出ていますが、この方がいつ結婚したかという正確な記録はありません。信長公記にも出ておりません。そしていつ死んだのか別れたのかということも出ておりません。しかしある本によりますとずっと長生きして寛永まで生きたという説もあるのです。しかし私はそんなに生きるはずがないと思っています。というのは最後には斉藤道三は自分の子供に殺されますよね。斉藤家は信長の敵になるわけです。ですからいつまでも敵の家の娘を自分の奥さんにしているのはどうも考えられないのです。いったん返したのではないかという人もいます。

 斉藤道三の娘なんですが、この人を濃姫と言っていますが実際には名前が分らないのです。帰蝶とか書いてありますけれど、これは60年後70年後に書いたものに出てくるのです。濃姫というのは美濃の姫と言う意味ですからね。私達は今から410年前の織田信長の肉声を聞くことも出来ませんし、本能寺の変を目撃することも出来ません。残された資料によって歴史家が自分の判断で歴史の糸を紡いでいくわけなのです。ある学者によっては全然反対の説を言う方がいます。特に今の学者は現在の書かれていることを否定しなければ学者ではないというような傾向が多少見られます。そこで私も時々大学の方々とやりあっております。

 私は系図を色々見ておりますが、例えば有名な佐藤系図というものがあります。日本で一番多いのが佐藤さんなのです。その系図も私が今まで東北地方だけで35,6本くらい見ています。しかし全部系統とか兄弟とか違うんですよね。どれが正しいのかというのはそれぞれの系図研究家の判断なのです。これが正しいと言い切ることは出来ません。

   織田信長の系図も結構あります。私は月に一回は目白の徳川林政史研究所に行っています。あそこにはチャンと与えられた閲覧室がありまして、私は月に一回です。出てくるものは活字ではありません。全部古文書です。虫食いのものです。

 ですからちょっとでもはがすと駄目になって、あなたはもう来てもらっては困ると言われてしまうのです。そういううるさいところなのです。しかし一般の人でも閲覧許可をとれば見ることは出来るのです。織田信長に関する資料をここでずいぶん見ました。信長公記の写しも見ました。これは側近家臣の太田牛一が書いたのです。しかしそれにさえも正しく記録の出ていないことが結構あるのです。

 そしてつい最近の研究では2番目に結婚した生駒家宗の娘がいます。家宗の娘から信長の嫡子である信忠信雄、長女の徳姫が生まれています。この方は側室であっても正室の座を与えられていたのではないかと言われています。そしてこの人はとても美人だったんですね。生駒家宗の娘はいったん嫁に行って、夫が死んだので帰っているのです。そこをちょうど織田信長が通って、今の江南市で出会ったのです。そこに生駒屋敷といってお城みたいな大きな屋敷があったのです。そこでこの生駒氏は馬借を手広くやっていたのです。生駒氏は奈良県の生駒市から来たと言われています。

 わたしも最近あちこちの尾張関係の研究会に色々行っていますが、織田信長や徳川家康が天下人になったのはまず一つは財力なのです。そして特に生駒家宗の馬借としての財力を信長は利用しています。有名な前野家古文書という文献がこのあたりを詳しく述べています。生駒氏は讃岐高松藩の17万5000石の大名になっています。本家は5000石で尾張藩の家老になっています。また別の家老になっている人がいて高松の方に行っています。これも5000石です。

 生駒家宗の娘は3人の子を産んでからすぐ亡くなってしまいます。29歳かあるいは39歳かで亡くなります。信用できる尾張徳川藩に残っている文書によりますと、そのときあの剛毅な信長が生駒屋敷に向かって涙をながしていたと言います。かれは彼なりの人情があったということなのでしょうか。
先日織田信長の正室だった帰蝶(濃姫)の生存を検証するという一文がある雑誌に載ったのです。それには泰厳相公縁会(たいげんあいこうえんかい)名簿というものがありまして、その中に慶長17年7月9日信長公御台、養華院殿要津妙玄大姉という記載があります。また大徳寺の塔中の中に総見院というのがあります。これは織田家の菩提寺です。それの石塔には養華院殿要津妙法大姉、信長公御寵妾なりとあるのです。さて正室なのか妾だったのか、そして養華院殿要津妙法大姉が帰蝶であったかどうかははっきりしておりません。このように文書というものは相反するものが出てくるのです。正しいものはなかなか分らないということです。これは岡山県出身の東大教授の山本博文先生もおっしゃっています。要するにあくまでも歴史というのはその歴史家が判断し自分の主張をするのだと言われています。

 「さて信長の娘達であるが、先の信秀の娘達でみたと同じように、順序については史料によって違いがある。ふつうは江戸時代に織田氏の作成した織田系図によって長女は徳姫となっていますが、ある系図では蒲生氏郷の正室になった方が一番の長女だと言っております。」

 もうひとつこの系図には書いてありませんが、織田信長の姉が今の愛知県津島市の神官だった大橋重長に嫁いでいることが張州雑志や系図纂要によって確かめられています。ということはまだこの系図よりの子供が増えてしまうのです。私はここの織田系図の活字になったものを何本も持っていますが全部違うのです。人数も違う、兄弟順も違うのがあるのです。

 さて織田信長の兄弟で子孫が大名になったのは二家しかいません。信雄の子供が2家ありまして合計4家あります。最近スケートの選手で出ましたね。織田信長の子孫だという人が。
それから面白い異論があります。織田信長の妹のお市の方が実際にはいとこだったという古文書もあるのです。
それからもうひとつ有名な森蘭丸っていますね。彼のお母さんは信長の叔母だというのです。信長の叔母で今の美濃の岩村城主だった遠山景任に嫁いだ人がいるのです。この人が大変な美人だったらしいのです。

 その時武田信玄の武将だった秋山信友が攻めて来て、その戦争中に夫が亡くなってしまうのです。そして最後にはこの人は敵だった秋山信友と結婚してしまうのです。ところがある作家はこの遠山景任の妻だった信長の叔母と信長の間に出来た子が森蘭丸だったと言っています。するとまた子供が増えますよね。森蘭丸は系図上では清和源氏で津山藩の大名になった森忠政の兄になっています。実際はどうなのですかね。まあ使う資料と研究者によって色々な説が出てくるわけです。

 幕府は色々と寛永年間に出来た寛永諸家系図伝を作る為に各大名に出させて集めたのです。そうしたらとんでもない杜撰なことが分ったのです。それで寛政年間に寛政重修諸家譜というものが出来まして、これは図書館に行けば必ずあります。その中にも織田信長の系図が出ています。これが正しいということになっていますが実際には疑問点が多々あります。
しかし私の考えですが、平氏説は多少は信じても良いと思っています。その証拠には彼の親戚には津田という苗字が多いのです。津田は完全に平氏ですから。

日本の苗字、家系調査

 日本の苗字はある人は30万と言いっていますがこれは違います。「蓬田」こういう字がありますね。これは4通り読めるのです。「あいだ」とも読めるし「おうだ」とも読める。「ほうだ」とも読めるし「よもぎだ」とも読める。この4つが同じ一つの字でその30万の中に入っているのです。5つも6つも読める字があるのです。私はそういうことで30万字説には反対していました。私の推定では字そのものでは10万5000くらいと考えています。

 読みは同じでも富という字の富田とワかんむりの冨田は字が違いますから別に数えます。でも元ははっきり言って同じなのです。中島もそうです。山偏のついた中嶋がありますね。元は一緒です。古いのは中嶋のほうです。正字と俗字ですが現在は俗字を使う例のほうが多いのです。
やまもとは山本と書きますよね、ところが鹿児島へ行くと山元が多いのです。下に元がつく苗字は大体九州に多いです。

 読み方も難しい問題です。実際には織田(おだ)と皆さん言っていますが、寛永年間にある人が書いたものには織田「おた」と書いてあります。濁っていないのです。そして信秀の奥さんのほうは土田「つちだ」と濁っているのです。ですからあるいわ「おた」じゃなかったのかという研究者もいます。本当のことは何と読むか分らないです。古文書にはルビをふったものもありますが少ないです。織田家に関する系図の188人の中で「おた」と書いているのはたった一件しかないですね。あとはルビがふってありません。色々な大名の苗字には読めないものもあります。今の学者が色々言っていますが、実際にそうひとがそういったかは誰にも分らないのです。

 漢字は中国の方から来ましたが、日本で作られた字というものもあります。1115字あります。殆どが苗字の字です。ちょっと脇道に入りますが、木偏に神で「榊」は日本で作られた字です。漢字ではありません。国字といいます。山偏の右に上下と書いて「峠」、これも漢字ではなく国字です。だから日本の苗字もルーツを探る時、こじつけられて作られた苗字か、前からある訓読みの字かをまず見る必要があります。訓読みの、高橋とか山本とかいうように、こういう苗字は古いとおもいます。

 佐藤というように音読みが入るのは新しいのではないかと思います。文字が中国から入ってきてからの苗字ではないかと思います。昔からヤマト言葉というのがあったのです。そのヤマト言葉が苗字になっているものがあるわけです。高橋なんてそれですね。
1000年以上前まで分ると300万円とっている人が最近いました。驚きますね。調べて一番難しいもの、困るのは南北朝時代です。これ以前は資料があるのです。南北朝で散逸して分らなくなってしまっている例が多いのです。ですから南北朝時代の前までにたどりつけばある程度さっと出来ます。

 あと源光圀、水戸光圀さんは私に言わせると系図学では悪いことをやっています。大日本史を編纂するというので領内にある庄屋さんから先祖伝来の系図を巻き上げているのです。それが帰って来ていないのです。私は茨城県で10何軒調査やっていますけれど、その家はもと庄屋で系図がなくなってしまった。それで水戸の彰考館に行って聞いてみました。そんなことはありませんよと言われてしまいましたが、それはうわべですね。領内に尊卑がはっきりしていて徳川家より立派な系図を持っている家があるのです。

 大名があちこち移封されますね。その時に系図を作るのですがその前の先祖は分らないというのが多いです。私も佐竹氏に関しては12,3回県立公文書館に行って実物を見ています。その時代は全然分らないと書いているのです。調べてみると分ることもある。佐竹氏に遠慮して分らないとかいているのです。だから系図は全てを鵜呑みにしてはいけません。調べれば分ることもあるのです。

 話は違いますが豊臣秀吉も水呑百姓だと定説で言われていますが,実際には前野家文書には中村村の村長(むらおさ 村の有力者の意)とはっきり書いてあるのです。昭和39年尾張地区を襲った台風によってその土蔵が破壊されてしまった中に入っていた前野家文書というのがあるのです。これはいま新人物往来社から出ている武功夜話五巻です。その原本が前野家文書なんです。どうして前野家文書が今まで発見されなかったのか。そこはキリシタンだったのです。細川家とか明智家とかキリシタン大名と親交があった。だからこの書は絶対見せてはいけないということが代々言い伝えられているのです。その原本を静岡大学の小和田先生が見に行って、絶対間違いないということに最近なったのです。前野長康がいたから蜂須賀小六がいたから豊臣秀吉は天下人になったということがあるのです。前野長康は関白秀次事件に連座して切腹してしまい、歴史から隠れてしまいました。

 大名の脇坂家系図もおかしい。有名な賎ケ岳七本槍の一人、脇坂安元が幕府に提出した和歌があります。
「北南 それとは知らず 紫の 由縁(ゆかり)ばかりの 末の藤原」
我が家は藤原氏と言っていますがどこの藤原氏なのか分らない、ただ言われてきたので仕方なしに書いたのだと徳川家光に言って、正直なやつだといって褒められたと言う記録があります。ですから戦国大名の系図に関しては信用できないものが多いです。しかし島津氏とか伊達氏とか蜂須賀氏などは信用出来るものです。前田利家となると疑問ですね。

 私は仙台の原田と言う人の家系をやったことがあるのです。ある会社の社長をやっていますけれど。そうしましたら原田甲斐から出てくることになっているのです。原田甲斐という人は仙台の人ですが、先祖をたどると九州から出ているのです。新幹線も飛行機も無い時に先祖は結構おおきく動いているということです。同じように千葉氏が一番多いのは宮城県です。あと佐賀県です。鎌倉時代源頼朝の命令で地頭として千葉から行っているのです。

 そういった歴史も調べてみると、ある苗字のルーツの隠された理由があることもあります。ですから織田信長の家系も下から3番目の子供で従来は某ということで入っていた人が、古文書が出てきて信照という名前でこれは中根という家に養子に入ったということが分ったりしています。中根の元は松平、その前は平氏だったのです。平氏の中根氏に松平氏が入り、その後に織田氏が入っている、そういった複雑な系図もあります。
私は残された資料が一級資料か2級資料か3級資料かによってその系図の信頼性が格上になったり格下になったりするのではないかと思っています。今では市町村史の資料編というものがありその中には宗門改め帖が活字になっているものがあります。それを見て自分の家の最後の人の名前が分ると、戸籍謄本につなぐと十代くらい分ってしまうことがあるのです。

 宗門改帳には奥さんの名前まで出ていますから。それには享保何年何月何日女房妻くら35歳とか檀家の主人が40歳とか詳しく出ています。これでもって系図も出来ます。これは正しいと思います。これが第一級資料です。今までは女の名前なんてほとんど系図には出てきませんね。
これを見ると面白いことが分ります。天保の大飢饉の時、家で一番最初に死んでいるのはその家の女房なのですね。自分は食べないで夫に食べさせ子供に食べさせるというのがあったのですね。こういうこともあって系図研究家は女性を大事にしない家系は伸びないなどと申しております。

終わりに

 織田一族の系図を見ますと朝廷に近い公卿や大名に娘をやっていますが、その殆どが信長死後に実施されたものが多いのです。これは豊臣秀吉がどうも信長の娘を自分の政治判断で政略結婚させた可能性が高いということだと思うのです。信長が生きているうちよりも死んでからの方がそういう事実が多いんですから。
信長の子供もここに書かれたよりももっと多かった可能性もありますね。資料が発見されたものしか載せていないのですから。わたしは今徳川林政史研究所の古文書、あそこは徳川尾張藩の古文書が1万5000点くらいあるのですが、それをまだ全部みておりません。死ぬまでに見きれないとおもいます。この中にも織田信長に関するものは結構あるのですから。

 歴史と言うものは、あくまでもその時の出た資料によって、研究者が自分の考えはこうだと主張し、その意見が多いと定説になっていくのです。天皇の初期八代はなかったなんてのは今だから定説みたいに言われていますが、戦争前だったら憲兵隊に逮捕ですよ。江戸時代の一揆をおこした張本人、これは罪人ですよね、しかし現在は村の神様に祭られている人も結構居ます。見方によって時代によって歴史の見方は変わってくるのです。明智光秀までも見方が変わって来ていますね。歴史に学ぶということは、長い年月がかかります。ここで良いという終点がありません。
どうもご静聴ありがとうございました。(拍手)

質疑応答

質問:そもそも系図は誰が書いたのですか?だれが書いたというような署名のようなものがあるのですか?
答え:大名旗本に関しては大体寛政年間、その前の寛永年間の当主が書いています。なかには大学頭の林家に頼んで書いてもらっているものもあります。口伝を言って作ってもらっておりケースもあるのです。大名旗本に関しては寛政重修諸家譜というものがどこの図書館にも索引を含め30巻ありますからこれみればある程度菩提寺も名前も戒名も分るのです。

質問:明治になって公爵とか侯爵とか伯爵とかを決める際、家系を政府に出せという命令を政府が出したことがあると聞いているのですが?その時に改めて口伝を付け加えて、〇〇天皇の後裔なんて出して認められ、高い爵位を貰ったというような話を聞くのですが、そうやって系図というのは勝手に当主が作って、時代がたつとそれが本物になってしまうのですね。
答え:そういう面もあります。私も30年やっていますけれど家紋自体を3回も変えた家があるのです。苗字を3回変えた家もある。そうなるとこれは実際に調べてみないと分りません。

質問:そうなると調べてもしょうがないんじゃないかという気もしますが。
答え:いや、そこを調べるのが私達なんです。だって自分の家の苗字が前はなんという苗字だったかということは調べて正しかったことを知りたいというニーズはあるのです。ある程度のことは色々資料を調べると我々専門家には分ってくるのです。分らなくてもどこになにがあるかという資料は持っていますから。例えば東郷という家が九州にあったと。その前の名は渋谷だとか河崎、その前は秩父、すなわち桓武平氏です。これはちゃんとした系図が残っていますから分るのです。ですから問題は過去帳でどのへんまでさかのぼれるかです。過去帳は一級資料だと思います。

質問:過去帳はお寺が書いたものなのですね。宗門改めは誰が書いたものなのですか?
答え:そうです。宗門改めはだいたい改め役というのが村におりまして、それが毎年毎年書くのです。藩領の場合、その藩士が改め役。幕領の場合は代官の手代。それが残っている村は自分の家系は10代くらいすぐ分ります。皆さんも自分の家系を調べる時はまず宗門人別帳がどこにあるか、ぜひ教育委員会かなにかにお聞きになってください。あればしめたものです。

質問:苗字の出来方に興味があるのですが、例えば桓武天皇の子孫の高望王とかなになに親王とかいう独自の姓名を持っていた人が都から下ってきて、たまたま千葉という地名のところに住み、千葉の太郎とか言われるうちにそれが苗字になる。千葉の太郎の子孫の千葉六郎がたまたま臼井という地名のところに住み着いて臼井の六郎と呼ばれ、その子孫は臼井という苗字を名乗るようになる。こういうのを見ると最初独自の苗字というのはあったのでしょうが、それからあとは地名を苗字にして数が広がっていったんじゃないかとおもうのですが?
答え:そうです。だいたい85%から90%の苗字は地名から起因しております。しかし鈴木のように地名起因ではないと思われる苗字もあるのです。

質問:天皇家にはなぜ苗字がないのですか?
答え:これはですね。天皇に苗字を与えるひとがいないからです。一番偉いんだから。

質問:苗字帯刀を許されるというのは一部の人ですよね。だれが許したのですか?
答え:その地域の支配者です。天保以降は武士の株の売買で苗字を買うということもあります。

質問:現在は細胞中のDNAを調べれば係累がわかりますね。そういう手法は使わないですか? 答え:名前までは出てきませんね。DNA学説で判明するのは血系。家系とは違います。人間はアフリカのある女性から発していると、言われていますよね。この女性も父と母がいたから生まれたわけで、こうなると際限がありません。

おわり
(文責: 臼井 良雄)
会場写真撮影:橋本 燿 HTML制作:大野 令治