神田雑学大学 平成18年9月29日 講座No330

ヨットよもやま話

講師 千葉 邦郎 


目 次

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プロフィル

私とヨット

アメリカ杯とは何か

AC艇及びア杯の特徴

終わりに






プロフィル


1959年早大卒
1959年日本鋼管(造船)入社、1972年より1975年までロンドン駐在
1992年日本鋼管退仕

2002年論集「近時往訪」出版
2004年論集「思い出ロンドン旅日記」(近時往訪U)出版
2006年論集「ダッファーの楽しみ」(近時往訪V)出版


私とヨット

 クルーザーを手に入れ、女性を誘うと「お尻が濡れるのでしょう」と体よく断られました。-―ホンネは別ところにあるのは承知の助ですが。若い頃、彼女はディンギーに乗ったようです。ディンギーに乗っていると波を被りますので、足元とお尻が始終海水で濡れます。

 ディンギーのことをヨットと思い込んでいる方が多い。また「ヨット=帆を張って'走る船」とし概念は和製英語らしく、英語でyachtというと「豪華な遊び船」を意味し、モーターボートであることが多く、ジャグジ一や、ヘリポートが付いていたりする(例:イギリス王室御用船「ヌリタニア号」)、日本で一般的な30ft程度のヨットは、英語では"Sail boat" と呼んでいます。

 かといって帆船や帆掛け舟はヨットとは言わない。意地悪な言い方をすると、帆に風を受けて航行する遅い船です。無風では動かないし、強風となると危険でコントロールするのは難しいからでしょう。14世紀ころのオランダで使われ出したと聞きますが、その頃は高速性・俊敏性から海賊を追跡したり、偵察に利用されたようです。

 ヨットでの航海や、ヨットの競技のことをセーリングと言いますが、これは、ヨットがセール(帆)使って進むのからで、推進機やキャビンのない小型のヨットを「ディンギー」、推進機ヤキャビンのある大型のヨットを「クルーザー」と呼び分けます。

 風をエネルギーとして走る原始的な船で、燃料も不要です。出航に際しては、帆の展開に必要なロープ類のセッテング等の確認項目は、30以上あり、手抜きしますと深刻な事態にいたることも度々です。原始的なるが故に、スマートさ、カッコ良さは無く、乗るといつも災害訓練している感じで、そのこと事態は尊重すべきかもしれません。エコ時代に向いたスポーツ、海に対し畏敬の念をもって接すればフトコロの広さをいつも実感できる、素朴でユッタリしたスポーツでもあります。販売広告には水着の美女を利用しますが「ウソッパチ」で、日焼け止めクリームでは間に介いません。長袖のシャツやパンツで肌を隠さねばなりません。

 メーンセールだけで走れますが、風上ヘ帆走する時の風量を増加するために、前方にヘッドセ一ルを装備してあるのが普通です。風下へ走る時もメーンだけで良いのですが、スピネカーを使います。左右対称の卵形の帆で速力が増します。進路を変えるにはロープ(シート)を利用して帆の位置を変えますが、メーン、ヘッド、スビン用のロープは夫々色分けされてます。帆の他に舵とキールがあり、帆と舵とキールのバランスで船を操ります。

 造船会社卒業後、薦められて尾道にlO日間出掛けて小型船舶操縦免状を貰い(1993年)、翌年シドニーで1週間ヨットスクールに出掛けて30ftクルーザーで講習を受けました。その後、葉山マリナーでディンギーを熱心に週2,3回習いました。ディンギーは突風に見舞われると転覆する、それを水に漬かりながら、戻すので、体力も要ります。しかし帆が風を孕んで進みはじめる時は心が弾む思いに駆られ、病み付きになりました。

 中古クルーザーを手に入れ、東京湾内を帆走しました。私は大型船には特別の興味があります。大型船を識別するには煙突に付けた「ファンネルマーク」を見ます。馴染みのマークを見付けると現役時代を思い出し嬉しくなります。海上から陸地を見ますとフラットに見えます。都心部や横浜中心部の高層建築物も低く見えます。考えていたより低く感じ、何か別の次元からの風景を見ている感じです。東京湾横断道路を超えて木更津や、追浜方面にも出掛けました。



 付き合つてくれる人も少ないので、大半は一人で操船しておりました。今でも夢の島近く留めてある舟に出掛け、災害訓練モドキを楽しんでおり、時折、孫を乗せて安全なセーリングを楽しんでおります。

アメリカ杯とは何か

 ヨットと…言っても広範囲に亘るので、ここでは世界的に有名なアメリカスカップレースを、ファンの立場から話してみたいと思います。
アメリカスカップは、1851年にロンドンで開催された万国博覧会の記念行事として行ったワイト島一周レースに米国から参加した「アメリカ号」が圧倒的大差をつけて勝ち、80pの高さのカップを手に入れました。カップはその後ニューヨークヨットクラブに贈与され、そのカップ争奪戦が現在のア杯に継承されております。

 1,853年にペリー提督が浦賀に来航、その15年後に明治維新となる頃の話です。
ア杯.参加するには、莫大な資金(数十億円)、叡智を傾けた(NASAの技術も流用とも聞きます)建造技術、メダリスト級の乗組員をいれての訓練が必要です。その上に、複雑なルールを守りながら、そのルールをもとに知恵を駆使して敵を「ヤッツケル」ゲームでもあります。意欲のあるグループはア杯勝者が決まると直ぐに、次のカップウイナーを目指してシンジケートを組み、準備を開始します。

 観艦式の艦艇に乗りますと、商船と艦艇の操船技術の差が分かり、その差を見せ付けられますが、AC艇と我々のセールボートの差はそれ以上です。多人数での操船、経験と技術の差は「月とスッポン」。
総当りのマッチレース「ルイビットンカップ」勝者とア杯ディフェンダーとの問でカップ争奪戦を行いますが、優勝賞金はありません。
資金獲得のために艇・帆・ブームにスポンサー名をつけます。電通に聞くとスピン5億円、目立つ字体1億円、小字体5000万円とか。



 米国がこのカップを得てから、およそ150年の間米国以外の国にカップが渡ったことは無かったのですが(米国は挑戦者には絶対にカップを渡さないような防衛策を取ってきたらしい)、1983年オーストラリアに奪われ、1987年米のデニスコナーが直ぐに奪還しました。1995年に再度ニュージーランドに奪われました。次の2000年にも、ニュージーランドが連勝。その次の2003年の大会ではスイスが優勝、スイスには海が無いので2007年にバレンシアで開催されます。

 アメリカスカップは、日本では知名度は低いのですが、オーストラリァがカップを奪った時は、凱旋する勇者迎えるためパースで臨時閣議が開かれました。奪還したデニスコナーの凱旋パレ一ドが、レーガン大統領時代にニューヨーク 5th Avenue で行なわれました。オーストラリアから米国へ戻る時には大統領専用機も提供されたのです。そして「Come Back」出版し、デニスコナーはその後「ミスターアメリカカップ」と言われ賞賛されました。

 日本は1992年、1995年、2000年に参加しましたが、資金難などから2003年のア杯以降不参加。ウデの程度はルイビットン杯セミファイナル4位が続きました。もう一度意地悪な言い方をしますと、ア杯は白人中心のレースでしょう。ルールも時代と共に変更されます。来年の第32回大会には南アや中国も参加します。日本もGNP世界第二位の経済大国です、この歴史ある文化的事業に、ココロを入れ替えて、是非再チャレンジして欲しいと願って止みません。

AC艇及びア杯の特徴

 長さ25m、幅5m、帆の高さ35m、艇重5トン、船底に特殊なキールを装備、16名の大男の乗組員の役割もタクティシャン、アナリスト、ナビゲータ等、専門スタッフを艇長の周囲に乗せ、あらゆる海象条件に対応して船を操ります。艇長は彼らの機能を組織的に総合力として纏め.上げます。勝者が「何分差、何秒差で勝った」と表現するマッチレースです。1レースに約2時間強掛かります。

 レースはスタートラインから風上のブイを回って風下のブイに戻る。それを3往復し勝敗を決めます。風向が著しく変わる場合はブイの位置を変えます。レース海面は幅も広く、両艇の間は1kmも離れることもあり、風の吹き具合で一方的なゲームとなりマッチレースの興趣を殺ぐこともあります。2000年大会では1999年10月中旬から2000年2月下旬まで4ヶ月掛かりました。1995年米西海岸のサンディエゴでア杯決勝戦を見に出掛けました。現地の事情も分からずに、日本のキャンブを訪ねようとしたのですが、キャンブを畳んだ後で、何処にも、面影さえありませんでした。勝ち進めないことが判明した時点でソソクサと帰国する、キャンプを張っているとお金が掛かるからと聞きました。.




 決勝戦最終日の前日、サンディエゴヨットクラブで食事をしたのですが、立派で豪華なヨットが数多く停泊していました。キャディラックに「フリートウッド」という車種がありますが、ヨットハーバーに林立する帆柱、風が吹くとシートが帆柱に接触し、懐かしい音楽を奏でますが、この帆柱を林に見立てて「フリートウッド」というのだそうです。
ニュージーランドは、オーストラリアに次いでアメリカを5一0で破り、カップを持ち帰りました。艇長はラッセルクーツでした。

 私は、1997年にオークランドのヨットスクールで1週間操船を習い、次の1週間で南島を1周してきました。前の経験に懲りて、次のオークランドで開催された2000年のアメリカカップレースには2週間滞在し、会の運営や裏事情も.見てやろうと.勇んで出かけました。この30回大会でもラッセルクーツはニュージーランド艇を率いて連勝しました。2003年大会もオークランドで開催されたのですが、日本が参加しなかったので急速に私の熱も冷め、出掛けませんでした。代わりにデービッド先生に頼んで、優勝艇「アリンギ」と「ニュージーランド艇のキャップを送ってもらいました。今被っているのがソレです。

 なぜスイスが優勝したのか、それはラッセルクーツが7,8名の仲間とスイスチームに移籍したからです。名物だったラグビーの「オールブラックス」の跡継ぎで、「ニュージーランドの誇り」だったのが一遍に失望させる結果になりました。彼はア杯で3連勝した天才的なヨットマン、1984年のロスオリンピック・フィン級のゴールドメダリスト、数々のレースの勝者です。

 偶々、10年以上前に葉山で開催されたニッポンカップの時、近くで見たことがありますが、背の高くニヒルな感じと、少し顎の長い人だったとの印象を持っております。俗にヨット競技では「頬で風を感じる」とも言いますが、彼は人一倍頬の面積が大きく、感度も良いのかもしれません。ヤマハ製26ftの市販タイプを使ってのレースでした。そのままでは32回大会はスイスが勝ちそうですが、ラッセルクーツが契約違反をしたとかでスイスチームをクビになりましたので、いま現在はカップの行方は分らなくなりました。

 序でに、オークランドで親しくなったアメリカ人に連れて行ってもらって分ったのですが、毎週骨休めに金曜日に開かれる体育館のような巨大バーで日本人選手を見つけようとしましたが誰も来ていませんでした。他チームとの交歓の場でもあり、各国から集まった女性ファンも沢山居たのに!
数多くのキャンプを訪ねましたが、ニッポンチャレンジのキャンプは秘密主義、精神主義で応援艇にも乗船不能で、仕方なく応援艇にスポンサーとして3回も乗船した。応援艇はオッカケ艇で応援するヨットをスタートからゴールまで3回も追いかけてくれます。それに反し観覧艇は一般的で、一回だけ往復してくれました。多分燃料費の採算からと思われます。

 レース後、毎回開かれる会見にも好奇心をもって出掛けましたが、出席していたのは艇長のピーターギルモアだけなのにガッカリしました。レースは.ルールに基づき展開されますが、ルールをチームのために有利に展開する、相手の不備をついて不利な立場に追い込む弁舌の場なのに、英語を話せる艇長任せでした。ルール解釈には弁護士の出番もありますのに、「日本の持つ造船・操船技術は世界最高水準です。資金も豊富、人気化すれば出資者も出てきます。日本は技術オタク国家で、関心さえ持てば優れた新技術はどこよりも速く開発出来ます。そして専門家を組織化して注力すれば、凄いことを達成出来ると信じております。海洋国家でもある日本は海のことなら何でもゴザレと行きたい、そして将来に向けての活力を生み出して欲しい。

終わりに

 神田雑学大学の定例講演会に呼んで頂き、ヨットに関心を再び持つことが出来ました。感謝しております。今日の講演のキッカケは下記の「ダッファーの楽しみ」に掲載された「ニュージーランドー人旅」でした。(拍手)

おわり
(文責: 千葉 邦郎)
会場写真撮影:橋本 曜 HTML制作:大野 令治