神田雑学大学 平成18年12月22日 講座No341


絵本 『おじいちゃんの山』




おじいちゃんの山(木を植えているおじいちゃんとお地蔵様)




講師 おおたけ けいこ
稲田 善樹




1.はじめに


講師の稲田善樹さん 皆様こんばんは。私は今年の6月に『おじいちゃんの山』というノンフィクションの絵本を発行しました。私の故郷は高知の土佐湾に面した仁淀川の下流にある小さな小さな村なんです。この本ではその村が培ってきた温かい人情と幾つになっても忘れがたい故郷への想いを入れながら、42歳で全盲になった父が一人で育て上げた杉の山の話を一冊の本にまとめました。

私から見ると父の生涯は非常に不遇であったんじゃないかという気がしまして、もう亡くなって7年目ですけれども、まあこのまんまというのはなんとなく心残りがありました。それで絵本を作ることになったんですが、やっぱりそれには縁のような色々なつながりがあって初めて生まれてきたものだと思うのです。絵本はもともと画家の領域ですから、そのご縁で助けていただいた画家の稲田さんにもたっぷりとお話をうかがって、それから後でこの絵本を朗読させていただきます。

8月18日にニッポン放送のうえやなぎまさひこさんの番組「ちょっといい話」でこれが取り上げられまして、それがとても良くまとまっておりますので、最初にそれを皆さんに聞いていただこうと思います。これはライターの方がロングピースのタバコを吸いながらまとめて下さった8分くらいのものなんですが、すごくいいショートストーリーに仕上がっていて、私感激して涙がほろほろっと出るくらいでした。纏めてくだすった方に心から感謝しています。

2.ニッポン放送

「うえやなぎまさひこのサプライズ」10時の「ちょっといい話」より
絵本を片手に説明は、おおたけけいこ手元に一冊の絵本があります。児童文学専門の出版社てらいんくから6月に出たばかりの「おじいちゃんの山」という本です。表紙を見ると緑の杉の苗を植える白いシャツのおじいちゃんの絵が描かれていますね。

この絵なんですが、これを描かれたのがサラリーマンを定年退職した後、画家として再出発し、モンゴルを自転車で旅して絵を描く67歳の稲田善樹さんという方なんですね。

お話を書いた方は、モンゴルの子供に絵本を贈る運動をしている主婦大竹桂子さんという68歳の方です。武蔵野市にお住まいです。お二人は2年前モンゴルの民話『みどりの馬』というお話を絵本にして出しました。この『おじいちゃんの山』という絵本は、2人にとっては2作目の絵本であり、これは日本の話です。高知県の清流、仁淀川の下流、広岡上ノ村、現在の春野町、ここで94歳の生涯を終えました大竹桂子さんのお父様、智さんがその半生をかけて育てた杉の山のお話なんです。大竹桂子さん
このお話の主人公、智さんは昔旧制中学校で物理や化学を教える先生だったんですね。ところが「そこひ」という目の病気で視力を失ってしまったのが42歳の時、働き盛りです。お嬢さんの桂子さんはまだ7つでした。おぼろげな記憶のなかに父親が入院した病院のベッドや白いカーテンが浮かぶのですが、お父さんの言葉や行動は覚えていないと桂子さんは語ります。目が見えなくなってしまうという大変な現実を決して取り乱さず弱音もはかず静かに受け入れた人でした。

成長した桂子さんは親戚のおばさんの援助で東京の大学に進学します。そのまま東京で結婚して二人のお子さんに恵まれました。3人の兄弟も村を離れて高知の広岡上ノ村ではおじいちゃんの智さんとおばあちゃんの久栄さん2人だけでひっそりとした生活が続いていました。おじいちゃんの楽しみは縁側で聞くラジオ、キセルでふかす煙草、けれどもおじいちゃんは毎日欠かさず裏の山に出かけていきました。

そこにはおじいちゃんのお父さん、桂子さんからみるとおじいさんが作ったミカンの段々畑があったんですね。握った杖でこつこつと足元を確かめながら急斜面を登っていく、けれども木の寿命なのか世話の仕方に限界があったのかミカンの木は次々に枯れていきました。おばあちゃんは言いました。「杉の苗を植えたらいいぜよ。杉は大きくなれば孫の役にたつぜよ。」その日から一本一本おじいちゃんは杉の苗を植えていきました。

桂子さんの息子さんは高知に行くたびに言いました。「あのねー、おじいちゃんのなかにはねー、山の地図があるんだよ」。栗、柿、枇杷、葡萄なんの実でもあれ食べたいって言えばまっすぐにその木のある場所に連れてってくれる。木の実だけではありません。杉の葉、蓬、どくだみなど色んな葉っぱを摘んできてはゴエモン風呂で薬湯を沸かしてくれる。まき割りもおじいちゃんの仕事。自分が山で転んで怪我しても薬箱を必要としない人でした。摘んできた薬草を揉んで貼って傷を治してしまう。山の知識と知恵を自慢することも無く黙々とこなしたおじいちゃん。でもその中にはたった一個、夢があったようです。

娘の桂子さんが帰省するたびに口述筆記を頼んで書き上げた化学式の論文、点字というものを学ばなかったおじいちゃんが信念と記憶だけを頼りに書いた「稲の増収計画」の立派な化学論文でした。「これでわしがノーベル賞もろたら、孫にお山を買うちょる。」無口なおじいちゃんが唯一上機嫌で語るひと時でした。いま佳子さんは高知へ帰る度に青々と茂る杉の山を見て思います。「おじいちゃん、みごとな杉やね。ノーベル賞ものじゃね。」

ミュージックが流れた。ほんとうに、ぴったりのいい感じでした。小椋佳さんの「山河」です。

ひとはみな山河に生まれ 抱かれ つどう
ひとはみな山河を信じて なごみ 愛する
そこに命をつなぎ 命をきざむ
そしてついには山河に帰る

(著作権の関係で音を聞いていただけず残念です)

3.絵本が出来るまで

この本が生まれるきっかけですが、その前に私が夫と一緒に7年かけて四国の88カ所の歩き遍路をいたしました。実際に歩いたのは6年で、毎年4月から5月にかけて廻ったんですが、歩き遍路とはいえ途中でバスや電車を利用することもありました。それで、ようやく昨年の5月3日に結願いたしました。これがその結願の証書です。終えたときに高知の私の実家の兄を訪ね、夫と兄がお酒を飲んでいるうちに父とか祖父とかの色々な話が出てまいりまして、この本を作ろうということになったので、結願ということとあわせて色々な縁が積もり積もってここに至ったと思い、これも88箇所お遍路のご利益なのかなと感じたりしています。

作ってみようと思い、色々資料調べして見ますと、村の事は春野風土記という本があり、この中の記事に私は感動いたしました。それは、私が5歳の時に赤痢にかかって死にかけた時に診てくださった先生が、広田先生っていう方で、その先生が静脈の研究のすごいオーソリティだったということが分ったんです。あのころ、赤痢に罹るというのは、大変死亡率も高くて大変な病気だったと聞きますが、その先生が両腕を切開して、そして治療をしてくれて助かったと母には聞いております。その時私が思ったのは、「ああ、あの先生がいなかったら、私の命はどうなっていたのか分らなかったんだなー」と。

私は、皆によって生かされたんだと感動いたしまして、今何か世の中の役に立つことをしているのかなーって、まずそのことをすごく考えさせられました。そういうことがあって色々ストーリーがまとまり、絵は絶対に稲田さんにお願いしよう、ということで説得にかかりました。
稲田さんは、丁度大きな戦後60年の記憶という大きな展覧会をひかえていて、ずっと描いていましたから、それが終わるのをじっと待っていました。

出来上がった物語を、北海道にお住まいの私の童話の先生のところにお送りして、いったりきたり4回ほど直していただいて、出来上がりました。いまになって考えると、一寸追いかけるものが多すぎたかなって、今回の朗読の為、何度も自分で読んでみて反省することもございます。
これから、稲田さんに絵のお話をしていただこうと思います。

4.稲田善樹さんの話 この絵を描いた時


私がこの講座で大竹さんを前におじいちゃんの山について語るというのですから、内容に触れるというよりはどんな気持ちでこの絵本の絵を描いたかと言うことを中心に話したいと思います。

私はさっきも大竹さんが言われましたように何回か個展をやっているんですが、「戦後60年消せない記憶」ということで、昨年は戦争が終わって60年になるわけですが、60年目にして戦争の傷跡が自分の目でどのように確認できるものだろうかということをやってみようと、全部は廻れませんけれどモンゴル、ロシア、韓国、フィリッピン、パプアニューギニア、ラバウルに行き描きました。そこでは自分の目に映る戦後の記憶をたどりながら廻りました。あと外地ばっかりではなくて日本では広島と長崎と決めて、私は広島県出身なのですが、何年かぶりに広島の平和記念館を訪れ、やっぱり行く度に涙を誘われて決意を新たにします。

私も昭和14年生まれの満州引き上げですから少しの体験があるのです。これは一人でなく関係者と一緒に廻ったのです。例えばラバウルですと生き残った兵士たちと廻ったのです。韓国もそうです。ここは従軍慰安婦の方がいらしてナグモの家というボランティア団体が作った元従軍慰安婦の人たちが生活を共にする施設に2泊3日で泊まらせていただきながらスケッチするということをしました。そして帰って来てそれを絵にして、戦後60年私はこう見ましたということを絵で多くの人に見てもらいたい、それで皆さんはどう思われるかということが問いかけたかったのです。そして戦後60年という問題を考えてもらいたかったのです。

そういう準備をしていた最中に大竹さんからメールが来て、「稲田さん絵本またやりたいんだけれどやってくれるか」というから、まあ前の『みどりの馬』の例があるので、「まあいいですよ」ということで内容をまず読ませていただきました。非常に柔らかいエッセーみたいなタッチで書いてありまして、私なりに心を打たれました。
やはり絵本の絵を描くとなるとその文章、内容に惚れこまないと描けないのです。自分のテンションを上げるということを抜きにして絵は描けないのです。自分はそうなんです。どうやってテンションを高めるかといいますと私の場合は惚れ込むのです。一にも二にも惚れ込む。この文章のここが好きと言う事で惚れ込んでいく。

自分なりに個展の準備をしながらこの絵本のイメージも膨らませていきました。個展を終えていよいよとりかかったのですが、モンゴルの『みどりの馬』がずいぶん時間がかかったのに反し、このおじいちゃんの山は非常に短い時間で、12月から初めて3月には描ききってしまって意気揚々と「大竹さん出来たよう」と言って渡したんです。
この中で私がどこにほれ込んだかといいますと、まずは四国高知のお話しです。高知は自由民権運動の土地柄ですね。まずわたしはこの本に出てくるおじいちゃんのお父さん、大竹さんのおじいさんのことがとても気に入ったのです。

おじいさんは日露戦争に従軍するわけですが、203高地で負傷します。戦中も戦後も国中が勝った勝ったで浮かれきっていた時に、このおじいちゃんはそうではなかったんですね。私は普通の人で日露戦争で浮かれていなかった人がいたということが、そしてそれが大竹佳子さんのおじいちゃんだということが何よりも気に入ったんです。こんな人が身近にいるんだということと、こういう人こそ掘り起こさなくてはいけないという気持ですね。

坂本龍馬とか板垣退助とかはよく語られますが、こういう全く草の根の市民、こういう人たちが日清日露の戦いとか60年前の大戦とかそういう戦争に対してどんな思いで見ていたのかということを、これから色々な形で掘り起こしていく時代に差し掛かっているんじゃないかなと、私はこの本を読みながら絵を描きながら考えていたのです。

この絵は気に入っているのですが、近くの井野町で作られている和紙を使って描いたもので、203高地の若き兵士が貫通銃創を受けるところを絵にしました。この色遣いは古い話だから古い写真のような色にしました。このおじいさんに主人公の佳子さんのお父さんはおそらく色々な話を聞いて影響を受けたのではないかと思います。

つぎにここに大きな仁淀川という川が流れている。仁淀川の源流は石鎚山で修験道で有名な山です。行ってみて、仁淀川は大変きれいな川でこんなに大きな幅の広い川がこんなに澄み切った色をしているということに驚きました。

この物語には仁淀川が最初から出てくるので、一番最初に仁淀川の源流である石鎚山を描こう、表紙にはこれを使おうと考えて石鎚山をこういう風に描ききったのです。その次にこのきれいな仁淀川をどうやって読者に感じてもらおうかということを考えて、色々写真集みたりして、夢をふくらましてこういう色合いにしています。そこに黄色い喋が飛んでいます。これアゲハチョウなんですけれど、何故アゲハチョウなのかということです。この喋は見ていただくと全編に出てきます。これは桂子さんの物語におじいさんが亡くなったくだりがあるのです。

「葬儀のとき大きな黒いアゲハチョウが私の周りをゆったりと飛び交っていました。わたしはその蝶をじっと眺めました。おじいちゃんが最後のお別れに来ているように思えたのです。」このくだりを読んでいましたのでこれが頭に引っかかっていて、現地に行ったとき、暑い盛りにアゲハチョウがいっぱい飛んでいるのに気付きました。ここはお遍路さんも沢山いて、信心深い人達が沢山いる土地柄です。人が亡くなると東の空から阿弥陀様が迎えに来るといいますが、私は阿弥陀浄土へのお誘いにアゲハチョウを使ったのです。こっちが東の空です。東の空からアゲハチョウが舞い降りておじいさんがあがっていくこういう構想にしました。

全頁にアゲハチョウを飛ばそうと最後のページ、清滝寺への登り道にあるお地蔵さんなんですが、ここにも黒いアゲハを飛ばしました。ところが飛んでいないページもあるのです。一番最初の石鎚山の絵、こんな高いところには飛ばないだろうと思ったのです。ところが後で「そんなことはありませんよ。ヒマラヤだって蝶が飛ぶんですよ」と言われちゃってね。本当は飛ばしたかったんだけれどこれは失敗でした。もうひとつ飛んでいないページはこれ、宇高連絡線で桂子さんが宇野へ行くときの絵です。海の上だからアゲハは無理だろうと躊躇したのですが、海の上も蝶は飛ぶんですってね。これも入れておけば良かった。

それとこの物語でとても感心したことはこのおじいさん42歳でそこひが原因で全盲になるわけですけれど、途中で全盲になるということはとても大変なことだと思うのです。生まれながらの障害とは違う苦しさがあるんですけれど、それを乗り越えて94歳まで生きられたということに感心します。このお父さんが目が見えない中で野良仕事をし、杉の苗を植え、それを管理するという日常生活以外に非常に大きな夢をもっていたということにも驚きました。

学者さんなんですね。米をなんとか増産する方法を考案してそれでノーベル賞を取るんだと言って、桂子さんに口述筆記させて論文を完成させたんだそうですけれど、こういう障害にめげずに、学ぶ喜びに挑戦していくということに感動しましたね。そして論文が作成されていくのですが、これにはとても残酷だなと思うところがある。論文がなくなってしまうのです。桂子さんも言わないけれど、多分誰かが棄ててしまったんでしょう。おじいちゃんはどんなにがっかりしただろうか。

どれほど大きな挫折感だったろうかと思うのですが、その思いを私はどういう絵で表現するか、悩みましたね。しょげている人間を描いてもさまにならないし、あまり迫ってこない。何回も何回もラフスケッチをして考えていたのですが、全編の導き手になっているアゲハチョウが進路を失ってしまうくらいの衝撃を受けたんだろうと思って、じゃアゲハチョウが蜘蛛の巣にかかって女郎蜘蛛の餌食になってしまったという構図を考えました。この蜘蛛の巣の描き方も面白いでしょう。カーボン紙をしいて上からくもの巣を薄く描いていって、その上に水彩で空の色を一気にかけたんです。

かけたら蜘蛛の巣のところの筆圧でへこんだ溝の中に空の色が入ってしまったんです。これはうまくいった。こんなに細いのをどうやって描こうかと思っていたところでしたから。カーボンは水で消えてしまって筋だけが残ってそこに水彩絵の具が入るんですね。水に消えるカーボンと言うのが絵描用にあるのです。これは私の創意工夫の賜物でだれも褒めないから自分で褒めているのです。

もうひとこと、このおじいちゃんが杉の苗を植えるでしょう。私裏山に案内していただいて行ったんです。ここはみかん畑だったというのです。みかんの木が虫にやられてもう育たないから杉に代えたと書いてあるのですが、私はそればかりではないんじゃないかと思った。昭和30年から40年ころは貿易自由化でやいのやいの言われて一番最初に犠牲になったのは柑橘類を作っていた農家です。もう食っていけないというのでみかん畑の木を全部伐採してしまった時代ですよね。そんなことも考えさせられながら描きました。この絵を描くことで色々勉強になりましたし、高知のことも知ることが出来ました。

5.終わりに

私が子供の頃はミカン畑は段々畑になっていたんですけれど、今はそれが消え去ってなだらかな山になっています。それだけの歳月がたったのです。今は兄がそこにおりますけれど、その兄も大腸がんの大きな手術をしたりしながら本当に大変な思いをして山を守っているのですけれど、もう父が育てても次に育てる人がいないっていうのが問題なんです。私も行った時に生意気に鎌を持ってやってみたんですけれど、とっても出来る作業じゃないんです。あまり急斜面なので転んだりばかりして、この山がどうなるのか暗澹たる思いがして、最後の文章は「龍雄兄きが守っちょるきに。」というふうにして祈りのようなかたちで終えたんです。

息子は編集作業をしていますが、何回も終わりが来たねと言うんです。たしかにそうなんです。今自分で読んでいてそういうのもよく分かるんですけれど、それはそれとして、願いを込めて一冊の本を作ったという想いはあります。学校図書の掲載にとりあげられたということですので、まあ子供達が読んでくれると嬉しいのですが、わたしは、本当は大人に読んで欲しいのです。原画展のギャラリーにいらしてくださった方々も自分の生きた時代を重ねるように本を読んでくだすったのがすごく嬉しかったし、これは吉祥寺でギャラリーをやって銀座の方でもご好意で出させていただいたのですが、高知のハートプラザというNHKのホールをサポーターの方が取ってくださって、高知でもすることが出来ました。まあ本がたくさん売れると言うには程遠い現状ですが・・・

6.私の活動

私は武蔵野市で子供たちにアジアの本を読み聞かせる活動を仲間とともにしております。そのご縁で てらいんく という出版社さんのお世話になることが出来ました。最初に訳したモンゴルの創作民話『みどりの馬』は、300冊をモンゴルに寄贈しました。これはモンゴル語で作ったものです。この時は大変盛大な贈呈式をモンゴルで開いていただいて、私と稲田さんはモンゴルの子供たちの教育に寄与したと言うので、ゴールドメダルを文部省というところで頂きました。原作者の作家のジャンビーン・ダシドンドクさんとはいまも交流しています。今年の8月に韓国でアジア児童文学大会と世界児童文学大会というのがございまして、それに私の友達が訳してくれた英語版とハングル版を持っていきました。

交流した人たちからは、「アジアお話の会」に色々なアジアの本が届いています。
今回は自分のことを書いただけですけれど、今後はこの活動で、子供たちがアジアの近い人たちと仲良く出来るように、アジアを知っていただけるように活動をしていきたいと思っています。武蔵野市の「むさしのスカーレット・アジアお話の会」という団体です。皆と一緒に楽しく活動しております。今日は色々と聞いていただき、ありがとうございました。(拍手)終わり。



文責: 臼井 良雄
会場写真撮影: 橋本 曜
絵本より画像スキャン: 三上 卓治
HTML制作: 和田 節子