神田雑学大学 平成19年2月16日 講座NO347

半七捕物帳

―「なんだかんだ」→神田との所縁―

講師 今内 孜 


目 次

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プロフィル

1.はじめに

2.なぜ『半七捕物帳』に魅せられたか

3.半七が「お江戸のホームズ」といわれる訳

4.そもそも『半七捕物帳』って何?

5.作者の『半七捕物帳』に対する思い

6.『半七捕物帳』は江戸を知る宝庫

7.豊富なトリックと内在する謎

●『半七捕物帳』の7不思議

●『半七捕物帳』のミステーク

8.おわりに



プロフィル

平成9年(1997,65歳)リタイア。生涯学習として同年JSHC入会。(JSHCの概要、会員数約1000人、活動=大会、例会、「ホームズの世界」)。

同11年JSHC全国大会の実行委員長(王子大会)。

徐々にSH(シャーロック・ホームズ)から半七へ。平成11年(67歳)の秋頃から『半七捕物帳』の研究を始める。平成18年、江戸文化歴史検定2級取得。

1.はじめに

なんだかんだ」と副題をつけたことについて申し上げます。
@現在の内神田1丁目には、半七の住居(三河町)があった。御宿稲荷の近く。御宿稲荷とは、徳川家康が秀吉から関八州を与えられて新領国を視察した際、三河町(?)の家臣の屋敷に宿をとった。稲荷はそこにあった祠(ほこら)とされる。町名は三河の町人に与えられたことによる。

内神田1丁目の南部(鎌倉河岸)。「三河万歳」文久3年(1863)、55番目の事件。
男がまだ生きている女の赤ん坊を抱えて死んでいた。行き倒れ。半七は男の右手にある鼓砥から三河万歳の才蔵であろうと鑑定する。鎌倉河岸の名は築城の時鎌倉から取り寄せた石材を陸揚げした、ここの石工が鎌倉の人などの説がある。慶長年間には遊女屋があり、元和4年(1618)旧吉原(目本橋葺屋町)へ集約、明暦3年(1657)新吉原へ移る。

A神田錦町2丁目の南部(「ちよだプラットフォームスクウェア(元の中小企業センター)」や東京ガスの建物がある辺り)。「雪達磨」文久2年(1862)、43番目の事件。
当時は火除地になっていて、大雪が降った冬、その一角に大きな雪達磨が。これが暖気のためだんだん融けて崩れていくと、中から男の死体が出てきた。この男が贋金作りの一味だった。

かつてここは三代将軍綱吉と桂昌院母子の帰依を大いに得た護持院という大きな寺であった。これが享保2年(1717)、火災で焼けたあとは再建を許されず、火除地となって「護持院ガ原」と呼ばれ、寺の境内にあった林泉がそのまま残って、恰好の散策や将軍の小鷹狩りの場であった。夜になると暗闇の森になって、追剥が出たりする物騒な場所であった。悪法と云われる生類憐みの令は護持院の僧隆光の建策といわれる。

B神田小川町3丁目(いまの三省堂書店の前から右手の方、古書会館のある一角)。「歩兵の髪切り」慶応元年(1865)、61番目の事件。
江戸末期、歩兵屯所という幕府の歩兵隊の訓練所があり、この屯所で兵隊の何人かが何者かに連続して髪の毛を切られるという事件が起きた。当時、髪を切られることは最大の侮辱。困り果てた歩兵の隊長が半七を呼ぶ。

2.なぜ『半七捕物帳』に魅せられたか



●『半七捕物帳に惹かれた理由
@SHと半七とは深い関係がある(次項で述べる)。JSHC会員の中にも半七の好事者がいる。
A自分の研究対象として『半七捕物帳』の方が有利。→言語(英語と目本語)や現場(イギリスと東京)。
B江戸趣味とも合う。
C銭形平次や鬼平に比べて物語の量が手ごろ。
D研究者が少ないだろうという思いもあった。

平成13年青蛙房を訪問(初出誌の穴を埋めてもらうため)。岡本綺堂の養嗣子経一氏(92歳)から返事が来る。岡本経一氏は今年98歳、いまもご夫婦でお元気である。
同年5月演劇博物館へ6日間通って『岡本綺堂日記』の未刊行部分を写す(『半七捕物帳』に関する部分)。
平成13年〜15年、半七に関するものを「ホームズの世界」に掲載。

いままでまとめたもの
@平成14年7月「『半七捕物帳』便覧」1刷(16年10月同5刷)
A平成14年11月「『半七捕物帳』事件現場」
B平成16年2月「岡本綺堂日記」(『半七捕物帳』に関する部分)
C平成16年3月「『半七捕物帳』年代記」、のちに「事典」に発展
D平成18年12月「『半七捕物帳』事典」
*『半七捕物帳』関係の本は商業べ一スには乗らない。これは覚悟の上だった。

3.半七が「お江戸のホームズ」といわれる訳

(1) 綺堂の半七執筆動機から綺堂の随筆「『半七捕物帳』の思い出」より。⇒「(SH0))三冊を読み終えると、探偵物語に対する興味が油然と湧き起こって、自分もなにか探偵物語を書いてみようという気になったのです」(「文藝倶楽部」昭和2年8月号)。綺堂はSHを原書で読んだ。

(2)両者の類似点
@両主人公ともその道の元祖。SHは私立探偵、半七は岡っ引の元祖。
A両物語が大体同じ分量(SH=短編56、長編4。半七=短編68、中編1)。
B舞台がロンドン、江戸で、共にその時代の情景をよく描いている。
象徴ロンドン=ガス燈に馬車、これを江戸に変えれば、行燈に徒歩(駕籠)。
「改めて云うまでもないが、ここに紹介している幾種の探偵ものがたりに、何等かの特色があるとすれば、それは普通の探偵的興味以外に、これらの物語の背景をなしている江戸のおもかげの幾分をうかがい得られるという点にあらねばならない」(「雪達磨」の冒頭)。「雪達磨」は発表誌不明、震災前。

もう一つの逸話
綺堂が嘗て、長わずらいで寝ていた時に、枕許の小説本を読もうとしたが、病中で活宇が小さくて読みづらい、致し方なしに床の間にあった和本の『江戸名所図会』を取り出してみると、この方は木版で字も大きいので、病中はそればかりを読み耽った。もともと『江戸名所図会』のような本は、昔は大ていの家には備えてあって、親しまれ役立っていたという事であるが、病中、綺堂はこれを通読して、この江戸の姿を、如何に面白く現代に伝える方法はないものかと思案し、その答案が後日『半七捕物帳』となって世に出たと云うことである」(綺堂の門下、岸井良衛)。

(3)ドイルと綺堂の類似点
@両作者ともそれぞれを副業的な作品と位置づけ、あまり長く書く気はなく、それで名を成そうとも思わなかった。
ドイル=開業医時に暇でSHを書き始めたが、白分は歴史小説で名を残したいと思っていた。 綺堂=既に劇作家として実績を残し(「修善寺物語」「箕輪の心中」「品川の台場」「室町御所」など)、『半七捕物帳』を多く書こうとは思っていなかった。

しかし、結果として二人はその作品で名を残すことになった。綺堂については、劇の方は将来忘れられても、『半七捕物帳』は後世に残るだろうという評論家がいる。

A両作者とも続けるのをやめようとして執筆を一時中断し、のちに再開した。
ドイル=1893年(M26)発表の「最後の事件」でSHを消滅させ(スイスのライヘンバッハという滝に転落させた)、8年間中断後の1901年に過去の事件である「バスカヴィル家の犬」を発表、1903年「空家の冒険」でSHを生き返らせて復活させた(中断期間10年)。

綺堂=大正14年(1925)執筆の「三つの声」で中断し、6年後の昭和6年(1931)に吉五郎(半七の親分)物の「白蝶怪」を書き、昭和9年「講談倶楽部」の執拗な要請に屈して「十五夜御用心」を書き、半七物を復活させた(中断期間9年)。震災に遭って江戸が破壊されたことも続編執筆の契機となった。

B背景となっているその時代の描写にも力点を置き、正確に描かれている。
SH=19世紀末のロンドンが舞台。ガス燈、馬車、電報に象徴される(1874(M7)〜1914(T3))。 半七=江戸末期の情景、風俗を的確に描く(天保12年(1841)〜慶応3年(1867))。

(4)似ていない点もある
@執筆者
SH=SHの相棒であり、かつ事件に関与したワトスン。
半七=「わたし」による半七老人からの聞書き。
明治30年前後に聴いて大正から昭和にかけて執筆。

A結末
SH=最後の挨拶という「タイトル」もある。
半七=何の挨拶もない(最後の事件は大正7年で、ごく初期の作晶=14作目か?)。 途中で中止した未完の作品があった。

4.そもそも『半七捕物帳』って何?

(1)作者は劇作家の岡本綺堂
綺堂=明治5年高輪で生まれる。父は徳川家の家臣でのちに英国公使館に勤務(敬之助・幾野の長男)。14歳のころから父の感化で劇作家を志望。当時は敗北者の子は、官僚になっても出世できないという事情があった。父が友人の保証債務のために一家が破産に瀕していたこともあった(明治24年解決)。東京府立第一中学校(現目比谷高校)を卒業後、父の知人である杜長を訪ねて東京日日新聞杜に入杜、早々に劇評の筆を執る。明治29年、24歳の時に処女作「紫宸殿」が「歌舞伎新報」に掲載されたが、上演されず。

初めて自作が上演されたのは明治41年の白虎隊を題材とした「維新前後」で、市川左団次による明治座での公演。大正2年42歳のとき、24年にわたって勤めた新聞杜勤務に訣別し、以後、新歌舞伎作者の第一人者へと駆け上がって行く。明治30年、元宇和島藩(伊達家 政宗の長子秀宗)藩士、小島邦重の長女栄と結婚。綺堂26歳、23歳。大正5年、『半七捕物帳』3編を自発的に起稿し、折から連載物を頼みに来た「文藝倶楽部」に翌年の1月号から連載された。前述の通り途中で中断したが、昭和11年までの20年間に69編を積む。劇作の数は196編まではっきりしているが、焼失分も含めると200編は超しているといわれている。昭和12年、劇界を代表して第1回芸術院会員、昭和14年3月1日67歳で没。

(2)日本で最初に書かれた捕物帳。その後佐々木味津三が昭和3年に『右門捕物帖』を「富士」に連載、38話まで書く。次は昭和6年野村胡堂。月刊誌「文藝春秋・オール読物」が岡本綺堂の半七捕物帳みたいなものを、毎月書いてもらえませんか」と頼んできたのに対し、「さあ。半七そのままには出来ないが、私は私なりのものを書いてみましょう」と答えて『銭形平次捕物控』を執筆するようになり、383編まで続けた。
(3)69編72事件から成る。そのうち半七が関わる手柄話は67事件。他はほかの岡っ引(七兵衛、竜土の兼松、吉五郎)の話が3つ、八州廻りの目明しの話(常陸屋の長次郎)が1つ、隠密話が1つとなっている。

(4)舞台は殆ど江戸。例外は箱根。追跡は妙義、甲州街道の鳥沢。探索は行徳から堀江、横浜。
(5)江戸時代ならではの事件が多い
「現代の探偵物語を書くと、どうしても西洋の模倣に陥り易い虞れがあるので、いっそ純江戸式に書いたならば一種の変った味のものが出来るかも知れないと思ったからでした。幸いに自分は江戸時代の風俗、習慣、法令や、町奉行、与力、同心、岡っ引などの生活に就いても、ひと通りの予備知識を持っているので、まあ何とかなるだろうという自信もあったのです」。

江戸時代特有の事件というのは、幽霊や神隠しなどの怪奇性に富んだ事件のことを云っているようだ。その点はいまの推理小説とは趣を異にしているので、若い人にとっては違和感があると思われる。

(6)江戸時代の情景、風俗、史実、芝居話などがふんだんに織り込まれ、江戸を知るこができる。
(7)劇作家ならではの特徴と面白さ、すなわち科白、情景、場面転換、芝居の引用・椰楡の巧みさがある。

(8)「岡っ引き」とは? 江戸の治安を司る町奉行所の同心の配下にある岡っ引の半七が活躍する探偵物語。「岡っ引」の名称は御用聞き、手先、小者、目明し、猿(大坂)など。初めは目明しと呼んでいたが、正徳2年(1712)にその使用が禁止され、岡っ引と名を変えて奉行所は使用を続ける。さらに寛政元年(1789)にまた岡っ引の使用が禁止され、またも手先として使用して不徹底に終わる。禁止は岡っ引に犯罪者を起用したり、岡っ引がその立場を利用して強請りたかりなどの悪事を働いたため。しかし、両奉行所の与力は50騎、同心は280人で、この人員で江戸府内の行政・治安の任に当たっており、これではとても江戸市中の治安は維持できず、たびたび禁止令が出ても、奉行所は名を変えて岡っ引を使い続けていた。

(9)半七の人物像
「半七は岡つ引の子ではなかった。日本橋の木綿店の通い番頭のせがれに生まれて、彼が十三、妹のお粂が五つのときに、父の半兵衛に死に別れた。母のお民は後家を立てて二人の子供を無事に育てあげ、兄の半七には父の跡を継がせて、もとのお店に奉公させようという望みであったが、道楽肌の半七は堅気の奉公を好まなかった。」

『わたくしも不孝者で、若い時には阿母をさんざん泣かせましたよ』。それが半七の懺悔であった。肩揚げの下りないうちから道楽の味を覚えた半七は、とうとう自分の家を飛び出して、神田の吉五郎という岡つ引の子分になった。

「(『石燈籠』の事件のあと)それから三、四年経つうちに、親分の吉五郎は霍乱で死にました。その死にぎわに娘のお仙と跡式一切をわたくしに譲って、どうか跡を立ててくれろという遺言があったもんですから、子分たちもとうとうわたくしを担ぎ上げて二代目の親分ということにしてしまいました」

「半七は岡つ引の仲間でも幅利きであった。しかし、こんな家業の者にはめずらしい正直な淡白(あっさり)した江戸っ子風の男で、御用をかさに着て弱いものをいじめるなどの噂は、かつて聞えたことがなかった。彼は誰に対しても親切な男であった」。好物は鰻に蕎麦、酒は少々、時には罪人に対して情を示し、自分の手柄を捨てて見逃してやることもある。八丁堀との連絡にも心がけ、いまでいうホウレンソウ(報告・連絡・相談)を実践。部下に対する面倒見もいい。十手を出すのは4事件、持っていることを口に出したのが2事件で3場面。身内は母のお民と妹のお粂、女房のお仙には姉妹がないようだ。義母のお国については語られない。

(10)働く子分は10人+1
(松吉、庄太、善八、幸次郎、亀吉、多吉、熊蔵、弥助、亀八、仙吉)で、他に下つ引の源次が活躍。綺堂門下の岸井良衛によると、子分は綺堂の門弟がモデルだといわれている。ちなみに戦前の太ったコメディアン岸井 明は岸井良衛の兄である。

5.作者の『半七捕物帳』に対する思い

綺堂はSH物語を読んで、探偵趣味よりも19世紀末のロンドンが鮮明に描かれていることに強く興味を惹かれ、亡びゆく江戸を後世に伝えたいという思いが強く湧いてきた。途中で厭きながらも、関東大震災を契機として更にその気が強くなり、雑誌杜の勧めや『半七捕物帳』が売れてきたこともあって執筆を再開、以後は作風も変って筋も複雑化し、69編まで続けた。

『半七捕物帳』が好調に売れ出したのは震災後からで、日記にもその様子が克明に書き残されている。そのころ綺堂には家の再建、焼失した書物・資料の再蒐集、不幸な姉お梅(大正9年、18歳の子英一を肋膜炎で喪い、夫(石丸常次郎を昭和4年脳溢血で亡くした)を引き取って面倒を見るなどの課題を抱えていた。

*のちに緒堂は門下の北条秀司に「とんでもない。芝居の仕事なんかで食って行けるか。ぼくは半七で食っているんだ」と云っている。

6.『半七捕物帳』は江戸を知る宝庫

綺堂は明治5年生まれながら、江戸の残景を知り、すすんで古老から江戸の話を訊いていた。また、『江戸切絵図』、『武江年表』、『江戸名所図会』『遊歴雑記』『嬉遊笑覧』など、いまに残る貴重な江戸の記録書を丹念に見ていて、『半七捕物帳』に取り入れている。新聞記者時代には勝海舟や榎本武揚と話をしたことがあるという。

〈註〉その他の捕物帳。「むっつり右門」佐々木味津三=明治29年生まれ愛知県、「銭型平次捕物帳」野村胡堂=明治15年生まれ岩手県、「孫十郎捕物控」久生十蘭=明治35年生まれ北海道、「安吾捕物帳」坂口安吾=明治39年生まれ新潟県、「人形佐七捕物控」横溝正史:明治35年生まれ神戸市などがあるが、何れも明治以降の生まれで、東京生まれの作家はいない。

以下にいくつかの事例を挙げておきます。

@江戸の情景
*「堤を降りた川の縁で、二人の女が真白な大根を洗っていた。それを見つけて半七は声をかけた」(「鷹のゆくえ」=目黒)。
*「正面には一面の田畑が広く開けていた。田の畔を流れる小さい水の端で、子供が泥鰌を掬っているほかに人通りもないのを見すまして、半七は……」(「春の雪解」:入谷田圃)。

*「ふたりは話しながら両国の方へ歩いてゆくと、長い橋のまん中まで来かかった時に、あたまの上を雁が鳴いて通った」(「槍突き」=両国橋)。
*「そこらの田や池では雨を呼ぶような蛙の声がそうぞうしくきこえた日和下駄の歯を吸い込まれるような泥濘を一足ぬきに辿りながら、半七は・…・・」(「海坊主」=小梅中の郷)。

*「上野の山に圧懸っている暗い空には星一つみえなかった。不忍の大きな池は水あかりにぼんやりと薄く光って、弁天堂の微な灯が見果てもない広い闇のなかに黄色く浮かんでいた」(「人形使い」=池の端)。
時代小説を読む場合、上にあるように道の悪さと夜の暗さを頭に入れておいた方がよいでしょう。道は雨が降るとぬかるみ、天気が続くと埃りたつという状況でした。

A下級武士
*「江戸の侍の次三男などというものは、概して無役の閑人であった。長男は無論その家を嗣ぐべく生まれたのであるが、次男三男に生まれたものは、自分に特殊な才能があって新規御召出しの特典をうけるか、あるいは他家の養子にゆくか、この二つの場合を除いては、ほとんど世に出る見込みもないのであった。
かれらの多くは兄の屋敷に厄介になって、大小を横たえた一人前の男がなんの仕事もなしに日を暮らしていると云う、一面から見れぱ頗る呑気らしい、また一面から見れば、頗る悲惨な境遇に置かれていた」(「お文の魂」)。

B町人の生活
長屋住い、その職業。鍵を掛けないで外出。相長屋の者が病気や葬式などの世話をする。四季折々の生活(花見、潮干狩、月見など)。大家の存在も住人の生活に大きく関わっていた(大家に認知されない者は無宿者といわれた。長屋住いの町人は税金が掛からないが、町政に口を出すことはできなかった)。

C四季の歳事(延110)
*新年の屠蘇、書初め、六日年越し、七草粥にはじまり、煤掃き、大晦目で終る1年の歳事がふんだんに織り込まれている。亀戸の鷽替え(1月)、草市(7月)、月待ち(同)、井戸替え(同)、鞴祭(11月)、歳の市(12月)も語られ、多くの歳事が織り込んである。

D史実(延130以上)
史実をふんだんに取り入れ、その組み合わせが妙を得ている。

*「熊の死骸」=亀戸の鷽替え(1月25目の初天神とその前目)、青山の火事(弘化2年1月24目午後2時過ぎ)、熊の出現(同夜)、永代橋の崩落と抜刀(文化4年8月19目) 〈註〉鷽替え=木製の鷽という鳥を買い求め、去年のを返すことによってこれまでの凶事が嘘となり、吉に替わるという酒落たもの。はじめは参詣人の袖の中の物を取り替えたが、のちに改められた。鷽は木を削って作ったもの。

*「川越次郎兵衛」=江戸城御金蔵破り(安政2年3月6目夜)、本丸表玄関での騒ぎ(その翌目昼間)、田舎源氏の一件(嘉永4年11月15日、池田屋の主人が柳亭種彦の「修紫田舎源氏」の扮装で向島あたりを練り歩き26人手鎖になる)、国定忠治の仕置(嘉永3年12月21日磔刑)、安政の大地震(安政2年10月2目)。大坂屋花鳥(遊女)店に放火、伝馬町牢屋の牢名主となり女義太夫20名を苛める。

E芝居(50〜60場面)
半七や子分のみならず、髪結床の亭主や船宿の船頭にも云わせている。
*「六三郎粋な名前だな。その六三郎にお園が用があると云って牽引いて来てくれ」(「熊の死骸」半七)=寛延2年(1749)3月、大坂の女郎お園(22歳)と大工の六三郎(18歳)が馴染を重ね、不義理の借財から西横堀で投身心中を遂げたことを題材としたもの。締堂にも大正4年(1915)正月本郷座初演『心中浪華春雨』がある。

*「いつ両腕がうしろへ廻っても、決しておれを怨むな。飛んだ梅川の浄瑠璃で、縄かける人が怨めしいなんぞと詰まらねえ愚痴を云うな」(『勘平の死』半七)=正徳元年(1711)3月竹本座初演、近松門左衛門作の世話浄瑠璃『冥途の飛脚』で、宝永7年(1710)12月、大坂の飛脚屋忠兵衛が女のために公金を横領して召捕られたという実説に基づく。遊女梅川と馴染みになった大坂の飛脚問屋の息子が、為替金300両の封を切って使い込み、梅川と駈落ちをして捕われるというもの。

*「石橋山の組討ちで、ちっとも判らねえ」(「鬼娘」半七、「かむろ蛇」わたし、「菊人形の昔」半七):石橋山は相模国足柄下郡(いまの神奈川県小田原市)の海岸沿い、早川から南方約2Kmの小高い丘にある古戦場。源氏再興を期して伊豆に挙兵した源頼朝は、治承4年(1180)ここで平家方の大庭三郎景親と戦ったが、多勢に無勢で敗れ海路安房に逃れた。このとき頼朝の先陣真田与市義忠は俣野五郎との暗夜の組討ちで落命したと伝えられ、中腹の佐奈田神杜に祀られている。この故事から、暗夜での組討ちをいう。

*「五段目の勘平のような身振りで暗がりを探ってみると・・・・」(「人形使い」地の文)=『仮名手本忠臣蔵』の五段目「鉄砲渡し」で、勘平は暗闇の中で定九郎の懐中から五十両の金を奪う。そのしぐさを想起しての描写。

*「しかしいつの代にも横着者は絶えないもので、その禁断を承知しながら時どきに阿漕の平治をきめる奴がある」(「むらさき鯉」老人)=寛保元年(1741)9月豊竹座で初演、浅田一烏ほか作の浄瑠璃『勢州阿漕浦』で、主君の不興を受け、漁師となって阿漕の平治と称した侍桂平治が、あるとき母の難病に利く矢柄(やがら)という魚を得ようとして、禁漁の阿漕浦に網を入れたという場がある。漁夫の平治が母の病気快復を願って、禁漁の阿漕浦で魚を獲ったために海に沈められたという伝説を脚色したもの。阿漕浦はいまの三重県津市南部にあって、伊勢湾に臨む海岸。伊勢神宮の供え物を得るために禁漁とされていた。矢柄は全長1mほどの細長いヤガラ科の魚の総称で、本州中部以南の沿岸に産する。

F科白
*「へん、意気地もないくせに威張ったことをお云いでないよ。槍突きぐらいが怖くって、夜のかせぎが出来ると思うのかえ。おまえさんが盆槍で、向うが槍突きなら相子じゃないか。槍つきが出て来たら丁度好いから、富さんと二人でそいつを取っ捉まえて御褒美でもお貰いな。蜂を相手に蔭弁慶をきめているぱかりが能じゃないよ。しっかりおしな」(「槍突き」)=駕籠屋の女房が亭主に云う。

*「これでどうにか白と黒との石が揃ったようだ。まあ、おめえの五目列べを遺ってみろ」(「大森の難」)=半七が庄太に云う。
*「どうも素直に行きそうもねえ。面倒でも畳のほこりを立てろ」(「女行者」)=半七が子分に云う。
*「何がはいだ。はいや炭団じゃ判らねえ。しっかり物を云え」(「あま酒売」)=半七が被疑者に云う。
*「女に怨まれちゃあ助からねえ。おめえも用心しろよ」(「金の蝋燭」)=半七が子分に云う。

*「女の強情な奴は男よりも始末がわるい」(「海坊主」)=会話以外の地の文。
*「女は案外におそろしい料簡を起すものだ」(「新カチカチ山」):半七が幸次郎に云う。
*「女に惚れられるのは怖ろしい。あなた方も気をおつけなさい。あはははは」(「廻り燈籠」)=半七老人が「わたし」に云う。
*「節季師走に気の毒だな。あんまり好い御歳暮でも無さそうだが、鮭の頭でも拾う気で遣ってくれ」(「三河万歳」)=八丁堀の旦那が半七に云う。

7.豊富なトリックと内在する謎

地蔵は踊る」の地蔵を踊らせる仕掛けはモグラのように地下に横穴を掘るという、コナン・ドイルのホームズ講「赤毛組合」を彷彿させる大掛りなトリックだが、当時の地蔵信仰や史実による大風雨を絡めて、いかにも時代と国の違いを感じさせる。『半七捕物帳』は江戸の風俗や情緒をふんだんに織り込んでいる面が強調され、トリックについてはあまり論じられないが、ここには江戸時代ならではの仕掛けを多く見ることができる。いくつか挙げると、

@近親者の犯行と思わせたり、嫁が主人を殺して逃亡したと見せかけた変装殺人で、いわゆる一人二役(「石燈籠」「大坂屋花鳥」)。
A芝居の小道具を凶器にすり替えた下手人隠しの遠隔殺人(「勘平の死」)。
B人間や被害者、死骸の消失(「槍突き」「蝶合戦」「地蔵は踊る」)。
C連続殺人に便乗した殺し(「槍突き」)
D下手人が被害者を装った首なし殺人(「蝶合戦」)。

E信者獲得の芝居に見せかけたり、落雷死に見せかけた毒殺(「蝶合戦」「雷獣」)。
F邪魔者を狐にたぶらかされたように装った人間隠し(「狐と僧」)。
G雪達磨の中への死体隠し(「雪達磨」)。
H凶器が消失した殺人(「人形使い」)。
I誤って自分の店の井戸に落ち込んだ溺死を、違う場所での溺死に見せかけた死体移動(「むらさき鯉」)。

J松本清張の『点と線』メーントリックの原形ともいえる偽装心中(「津の国屋」)。

これらの仕掛けはいまでこそ単純さは免れないが、当時としては新鮮であったろうし、むしろ単純さ故の良さがあるのではないかと思う。『半七捕物帳』は犯行の語りを抑制し、多くの江戸風俗を活写しながら、人間の本性に係わる恐怖、特に女性の怖さ(と云ったら云い過きだろうか)を語った文学で、まさに岡本統堂の世界と云えるが、それ故にトリックの妙が目立たない。山田風太郎は「半七捕物帳を捕る」(『半身棺桶』所収)で、全編にわたる犯罪のテーマを挙げ、「犯罪そのものの着想としては、半七捕物帳は何という豊饒なテーマをふくんでいることであろう。いまでもわれわれが新鮮な興味をいだく異常心理、屡々用いたがるトリックが縦横に駆使されている」と書き、「すべてが締堂先生の独創ではあるまいが、たとえそうとしても、百花捺乱、その換骨奪胎の妙に驚き入るよりほかない」と結んでいる。

最後に私が選んだ『半七捕物帳』の7不思議と作者のミステークを挙げておく。
『半七捕物帳』の7不思議
@「お文の魂」になぜKのおじさんを登場させたか。
A半七の家族の消息が不明。
女房お仙の年齢と没年、義母お国の存在、実母お民と妹お粂のその後。
B「白蝶怪」をなぜ吉五郎の事件としたか。史実が織り込んでないので半七物でもよかった。
半七を続ける意思がなかったからか?

C「廻り燈籠」でなぜ十手を出さなかったか。
D半七老人の苗字をなぜ出さない。
E半七の甥の存在(「蝶合戦」)→お粂のその後とお仙に姉妹があったかどうかは書かれていない。
F半七老人の居住地(赤坂とあるのみ)→裏伝馬町説(いまの元赤坂1丁目、岡っ引の絵草紙屋 丸屋半七が住んでいた)、勝海舟の居住地跡説の二説がある。

『半七捕物帳』のミステーク
@その時点であとの事件に付言している。
「猫騒動」(文久2年9月)で「湯屋の二階」(文久3年正月)を云う。
「半七先生」(嘉永3年7月)で「朝顔屋敷」(安政3年11月)を云う。
A「わたし」が半七老人に逢う時代(明治30年前後)にまだ走らない市街電車(「勘平の死」、明治37年開通)、まだ発売しない煙草の常磐(「広重と河獺」、明治34年以降の発売)が出る。
B明治の町名を江戸時代に云っている。万年町、末広町、浦安など。

C「奥女中」で参勤交代緩和の布達を文久2年7月としているが、史実では同年閏8月22目。 物語が成り立たない。綺堂はどの資料を見たのか?
D「川越次郎兵衛」での御金蔵破りとの関係。「江戸の御金蔵破り……。あの一件は安政2年3月6目の夜のことで、藤岡藤十郎と野州無宿の富蔵が共謀して、江戸城へ忍び込み、御金蔵を破って小判4千両をぬすみ出したので、城内は大騒ぎ、専ら秘密にその罪人を詮議している最中、その翌目、即ち3月7日の昼八つ(午後2時)頃に、何処をどうはいって来たのか、……」とあるが、幕府の役人達はこの御金蔵破りを2ヵ月間気が付かなかったという説がある。
その他、年齢の数え違い(「猫騒動」「松茸」)がある。

8.おわりに

(1)元祖としての貫禄
(2)当時の江戸は。今の人が今の時代を進捗した時代だなと思っているように、江戸時代の人は当時をそのように感じていた。

江戸は住みよかったか。談合、賄賂、公務員宿舎は今に始まったことではなく、江戸時代からあった。公務員宿舎は当時の組屋敷。

おわり
文責: 三上 卓治
会場写真撮影:橋本 曜 HTML制作:大野 令治