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神田雑学大学講演抄録 第353回 平成19年3月30日

東京大空襲と私

講師 早乙女勝元 


目 次
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1.先ず最初にビデオを見てください

2.はじめに

3.「なぜ過去を振り返るのか」

4.東京大空襲とあの日あの時

5.「そして今日から明日へ」

6.質疑応答


1.先ず最初にビデオを見てください

 みなさん今日は。早乙女勝元です。「東京大空襲と私」というテーマでお話しますが、お話の前に15分ほどのビデオを見ていただきたいと思います。15分の内部資料でタイトルは「東京が燃えた日」、なんといっても目で見てもらうということが良いのではないかなということで先ず映像を見ていただき、その後でお話をさせていただきます。
(ビデオ放映)
東京大空襲の絵

ビデオ映写のなかで早乙女氏が語っていること

講師早乙女勝元さんの顔写真  早乙女勝元です。今日は映像付きで東京大空襲について語りたいと思います。太平洋戦争末期の頃、海のかなたにあったはずの戦場が国内に移りました。それはB-29の登場によってです。アメリカが日本向けに開発した長距離重爆撃機B-29は当時としては優秀な爆撃機だったんですね。東京から2300km地点のマリアナ諸島を前線基地にして、いの一番に首都東京を目標にしました。こうして1944年11月から東京は警戒警報と空襲警報の鳴り止まぬ日々となり戦争最後の年を迎えます。

 東京はB-29による空襲を100回以上も受けましたが、その中で未曾有の犠牲者を出したのが3月10日の東京大空襲です。たった2時間あまりの空襲でしたが、それまでと異なる特徴が幾つかあります。一が深夜、二が300機もの大編隊、三が圧倒的な焼夷弾攻撃です、そして四が超低空による無差別爆撃です。爆撃の目標は隅田川を中心とする下町地域の人口密集地帯で、わずか2時間あまりの空襲が東京の歴史と運命を一変させてしまいました。罹災者は100万人を超え、傷ついた人は数知れず、警視庁による確認死体数は8万8千793人、およそ10万人もの都民の命が奪われたのです。

 10万人と一口に言うことをためらいます。3月9日の夜まで灯火管制の薄暗い灯のもと乏しい食料を分かち合いながら、ため息をついたり語り合っていた一人一人に固有の生活と人格があった訳ですから。

 しかもそれらの人々は男たちを戦場へ送った留守家族で、主として女性や子供、年寄りたち、つまり小さいものや弱いものに強いられた犠牲だったのです。当時私は12歳、向島区寺島町にいて、今で言う中一の生徒でした。勤労動員で工場に働きに行くうちに、この鉢巻をつけていました。神の国だから神風が吹くと信じていたけれど、3月9日の夜の北風はもっぱらB-29にとっての神風だったんです。家族一同火の粉をかき分けながら逃げて、まあ一言で言うのは難しいんですが、ふりそそぐ焼夷弾の下、なんとか命拾い出来たのです。

 その時の悲惨さを描いた映画が今井正監督による「戦争と青春」です。工藤有紀さん演じる若い母親が、空襲の中で赤ん坊を見失うという物語ですが、一部分をご紹介しましょう。映画に登場する少年が丁度私と同年齢で、映画は途中からモノクロからカラーに変わります。

戦争と青春抜粋

 東京は広島の原爆に次ぐくらいの大被害を出したというのに公立の戦災記念館もなければ、平和公園もありません。私どもはやむにやまれぬ決断から、民間募金で空襲被害の大きかった江東区北砂1-5にこのセンターを立ち上げました。4000人からの人達が募金に応じてくださったのです。東京都民の惨劇を語りついで行こうという拠点が出来たのです。
 過去は未来の為にあります。「伝える・知る・学ぶ」ことが、きっと明日の平和の力と結び合うと信じています。

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2.はじめに

 先にビデオで見ていただきましたが如何だったでしょうか?引用されています劇映画の一部分、題名は「戦争と青春」、東京大空襲を描いた今井正監督の遺作でございます。監督はこれを作り終えて試写会に行く途中で車の中でお亡くなりになってしまいました。いささかも死を自分で自覚しない死に方で、大物でないとああいうわけにはいかないだろうなと思いましたが、見ていただいた部分は御殿場に60軒の家を建てて、それを一瞬のうちに燃やして空襲場面を再現いたしました。たった10分たらずですが、あの10分に大金をかけております。

 工藤夕貴さんの防空頭巾にはたっぷりと火薬が塗ってありまして一瞬のうちに火が顔全体を覆う仕掛けになっています。もっとも本当に廻ったら大変なことになりますのでとっさに助監督が消すわけですが、この映画で彼女はブルーリボン主演女優賞を獲得しました。今から16年前の作品です。レンタルでも見ることが出来ますので、あの赤ちゃんがどんな運命をたどったのかということにご関心のある方は後ほどご覧いただけたらと思います。

 今日は朝ものすごい雨でしたね。一日中駄目かと思っていましたらうまくあがりましたが代わりにひどい風で、私みたいに50kgもないと吹き飛ばされそうな感じでこちらにやってまいりました。今日は「東京大空襲と私」というタイトルでお話をさせていただきます。そのあとは質問・ご意見・ご感想があれば聞かせて頂きたいと思います。

 今朝起きてどういう順序で話そうかなと考えてレジメを作りましたが、今日の話は3つに分けてお話しすることにいたしました。
 まず一番目、「なぜ過去を振り返るのか。」何故過去の戦争における民間人の犠牲、被害を省みるのか。その理由をまず冒頭に申し上げます。
 二番目、今日のテーマであります「東京大空襲とあの日あの時」としてみました。私の個人的な体験も入ろうかと思います。
 三番目、やはり過去は未来の為にありますので、三番目は「そして今日から明日へ」といたしました。その民間人の体験・被害をどういう風にこれから平和の力に結び付けていけるのかどうなのかというのが三番目のテーマです。

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3.「なぜ過去を振り返るのか」

 去年の8月15日、私は出先の喫茶店にいてコーヒーを飲みながら人を待っておりました。そうしましたらどこのテレビ局ですかね、多分あれは原宿渋谷界隈とお見受けします、そこにいる若い人たちのすごい雑踏にマイクを向けて「今日は何の日ですか」と一人一人に聞いております。私はどう答えるのかなあと思って聞いていたのですが、見てる間中、答えは例外なく「お盆です」。お盆には違いありませんよね。ですけれどとっさに終戦記念日とか敗戦記念日とかひらめく若い人はもういないんでしょうか。

 しばらく前に私は学生たちの集会に招かれて小集会ですが行きました。そうしましたら学生が私を紹介してくれるんですけれど、冒頭にこう言うんです。「先生は12歳で東京大震災を生き延びて・・・」東京大震災なんてないでしょう? 関東大震災は大正12年のことですよ。そのとき12歳なら私は今96ですよ。
東京大空襲の絵 坂井輝松氏 13歳の灼熱記憶
坂井輝松氏・13歳の灼熱記憶

 もはや関東大震災も東京大空襲も区別がつかないんですね。片方は天災、片方は人災ではありませんか。

 というふうに思うんですけれど、それも仕方がないのかなあと思うのは、もはや62年も経過いたしました。戦争はこりごりだという方は、もう私を含めて高齢で少数派で残り時間が気になるところですね。そして代わりにこりごりでない方々が圧倒的多数になりました。とりわけ今の学生諸君なんかは典型的な存在ではないかと思います。ですからいくら私が映像でもってお話をしてもなかなかピンと来ないし、実感を伴わないというのも無理なからぬ話しです。

 あたかも平和ということが空気みたいに感じられちゃうんでしょうね。空気があることを有り難いなんて思う人ありませんからね。たっぷりあるうちに生まれて、ここまで育って来たのではありませんか。でも空気が無くなって見ると後の祭りという。まな板の上のお魚と同じです。そうすると戦争体験が有ろうと無かろうと、現在を生きている私どもにとって共通して大事なことは、空気の様子によく目を配るということでしょう。もうちょっと難しい言葉で言えば、社会的感覚を磨くということであります。

 今の世界や日本がどう動いているのかということに、何時もいつも関心を持ち続けて、そこで人間的な発言をすることが今ほど問われている時はないのではないでしょうか。こ うして考えて見ますと今60数年を遡って、その過去の戦争における社会的弱者でありました私達がどんなめにあったのか、私は強者の側ではありません、それをきちんと確認することが基本だと思います。強者の側から戦争を見ていきますとやっぱり勇ましい戦争と色々な名目がつく戦争しか見えないのと違いますか?ですから小さいものや弱いものがどういう目にあったのかということを知ったり学んだりすることは、単に過去の歴史に後ずさりする行為ではありません。

 私どもが生きている現在を正しく認識するためでしょう。現在ってどういう時代なのかを知るということです。だって現在は過去と繋がっているからです。その現在はまた未来と結び合っているんですね。その未来を人間らしく平和の中に生きたい、そういう社会を孫たち子供たちに手渡したいからこそ、過去の事実を今さかのぼっていく意味合いが生じるのではないでしょうか?過去の教訓を学ばぬものは再び同じ過ちを繰り返すと言ったのは誰でしたっけ、アメリカの哲学者サンダヤーナです。

 私は人類への警告と受け止めたいと思います。もうちょっと分りやすく言いますと自動車のバックミラーとお考え下さったらいいと思います。なぜついているのでしょうか? ドライバーの皆さんは多分後ろも見ながら安全を確認しつつ好ましい方向へ向かってアクセルを踏むのではないですか? ですからバックミラーが曇っていたり、曇らせられていたり、別な光景にすり替えられていた場合の前途は、極めて危ういと言わねばならぬと思います。いま何故過去を振り返るかということを私はそんな風に考えますけれども、いかがなものでしょうか。これを前段にしまして話を次に移して参ります。

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4.東京大空襲とあの日あの時

空の要塞ボーイングB29

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 ちょっと歴史をタイムスリップします。丁度63年戻ります。1944年、昭和19年ですね。この年の11月の末から日本の諸都市、とりわけ帝都と呼ばれた東京が戦場化するのです。それはB-29の登場によってです。B-29というのがどんな飛行機なのか今では若い人は全然分りませんね。鉛筆のBと間違えてずいぶん濃い鉛筆があるもんだという方がいましたが、ボーイング社というのは今だってアメリカの経済を支えている大軍需産業です。アメリカが容易に戦争から手が抜けないというのは、そういう軍需産業が経済構造の中で大きな地位を占めているのが問題なのではないでしょうか。

 こういうことで短い爆撃時間で発生した火災は延々と3月10日の朝8時過ぎまで、東京の下町一帯を嘗め尽くすことになります。罹災者、家を焼け出された方は100万人を超えました。傷ついた人のトータルはあまりにも沢山でどれが本当か信じられないくらいです。そして尊い命を犠牲にした東京都民、というよりも男たちを戦場に送った留守家族、だから圧倒的に女性子供年寄り、そういう社会的弱者に被害が集中いたしました。確認した遺体数は警視庁発表で8万8千793人です。すごい数だと思いませんか。9万人からの遺体を確認したんです。未確認もあったでしょう。防空壕のなかに蟄居していて、家が燃えて崩れてくればそのまま地下に埋まってしまいます。

小川さんいち氏の絵 東京大空襲
小川さんいち氏 東京大空襲・戦災資料館提供

 無数の運河を通じて東京湾にまで流出した遺体もあったと思われますので、推定10万人の都民の死者といって良いのではないでしょうか。それまでの戦史でどんな激戦地があったにせよ、こんな短時間でこんなに大勢の兵員が死んだという記録はありません。あるとすれば後の沖縄の南部戦線、広島、長崎などになっていくのではないでしょうか。この東京大空襲を無差別爆撃だと、国際法に反するところの非戦闘員に向けた非道な残虐行為であったと言うことを私がどうして実証できるかといいますと、今日は一枚の地図を持ってまいりました。

講師の顔写真その2  帝都近傍図と書いてありますが、言うまでも無く東京のことであります。そしてこの赤く塗ってあるところが全体の空襲で焼けてしまった焼失区域です。殆ど全体にわたって真っ赤になっていますが、3月10日も含めた百回以上の空襲によるところの焼けた部分を赤で表しました。真ん中に2本の青い線が入っております。一本が隅田川です。もう一本が荒川放水路です。

 3月10日はこの隅田川をはさんで4つの目標が設定されました。まず一、浅草、そしてちょっと下って日本橋、それから本所、深川、囲みますと丁度こういう四角形が第一目標であります。この中には軍需工場はございません。昔も今もありません。そしてその火災は予想もしないほど突風にあおられて、この2つの大川で挟まれた運河で刻まれた下町を総なめにしていきました。

東京大空襲被災地図  運河にかかっている橋はおおむね木で出来ていましたから、燃え尽きてしまって、そして周りが全部火の海ですから、人々は退路をたたれたといっても言い過ぎではありません。私がこの地図を見て無差別爆撃だったと言い得るのは、B-29は全部東京湾上から入ってきています。房総半島を中断してそして東京湾に出て、下町地域を狙ったのです。本来いの一番に目標になりそうなのはここです。石川島造船です。当時としては大軍需目標ですね。その石川島にはぽつぽつと赤い点があるに過ぎません。B-29は目と鼻の先に軍需目標があるにもかかわらず、それは眼中になかった。

 やはり人口密集地帯の人々から戦意を奪うべく、低空有視界飛行による爆撃をやったとしか言いようがありません。真ん中にひとつポツンと白く抜けているのは皇居であります。ここも赤い点がぽつぽつとあるくらいですが、ここは爆撃してはいけないという爆撃制限命令が出ておりました。アメリカはまもなく日本は負けると知っていたんですよね。そしてその戦後の統治のためには天皇制を使おうということが頭にあったものと思われます。

横川国民学校宿直先生の慟哭の書 東京大空襲
横川国民学校宿直先生の慟哭の書 東京大空襲・戦災資料館提供


 地図を見まして当時のことを思い起こす方がいらっしゃるでしょうか。私が住んでいたのはちょっと白く見えるこの向島です。被害の中心地からやや外れていたと言えるのではないでしょうか。火もようやく収まり3月10日の朝を迎えますと数時間後に3月10日の正午がやってきました。焼け残りの家のラジオは東京大空襲について公式の説明をしております。その中の一節を紹介しますと「都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬(しゅめ)寮は2時35分、その他は8時ごろまでに鎮火せり。」ここで問題になりますのは2時35分に消し止めたという宮内省主馬寮です。皇居の主の馬の寮と書きます。天皇の乗る馬の寮舎のことです。そこは火災が生じたのですが2時35分には消し止めて、その他は8時ごろまでに鎮火せり。火を消したんではない、自然と消えたんです。

 ここに私がいつまでも忘れることが出来ない三文字が入っています。「その他」です。100万人からの罹災者と10万人からの都民の命の犠牲を大本営という政府と軍部は「その他」の3文字で片付けました。人命はそんなにも軽かったんですね。国民のことを臣民とか赤子とか言っていましたが、とにかく人権はおろか人間の命は吹けば飛ぶ様な存在でしかありませんでした。私の兄は軍人でしたけれども、彼が持ち帰って来たところの軍人手帳を見ますと、「死は鴻毛より軽しと覚悟せよ」。鴻毛って鳥の羽ですよね。死ぬことはそんなに軽いことなんだよって兵員にそう言っていたんですから、兵員以外の民衆の命なんて民草の「その他」でしかなかったのではないでしょうか。

 B-29の航続距離でも、日本を爆撃するにはアメリカ本国からではちと無理です。そこで東京から2300km地点に前線基地を設けました。サイパン、テニアン、グアム。勿論日本軍はいましたけれど、玉砕全滅させられて、そこに巨大な滑走路が出来て、はじめは300機でしたが後には1000機からなるB-29が待機するようになったのです。
   この一番機が東京上空に姿を現したのは昭和19年の11月1日です。一万mの高高度を、万年筆の先くらい、きらきらきらきら光って、真っ白な4本の飛行機雲を吐いて飛んで来ました。私は4基のロケットが来たのかと思いましたが、それは4つの発動機から出ている飛行機雲だったんです。高高度から日本の東京の町々などを詳細に航空写真で写し取りました。数回にわたる偵察飛行です。

 そして11月24日、いよいよ本格的な東京空襲が始まります。目標は都下武蔵野の中島飛行機製作工場です。ですから一応国際法に則って当初は軍需目標を高高度から爆撃しました。およそ一万mから落とした爆弾というのはそんなに簡単に当たりません。しかも気象状況は非常に悪かったんです。こういうことで何度か軍需目標に向かって精密爆撃を繰り返していたんですが、容易に効果があがらないと見たアメリカはその後戦略戦術を一変させて、精密爆撃から無差別爆撃へと切り替え始めます。それが昭和20年の幕開けからです。

 そのとき私は向島区寺島町、今で言う墨田区寺島町1丁目に住んでいまして永井荷風の墨東譚綺で知られた玉の井の隣です。そこで今でいう中一の生徒でした。学校には行っておりません。もう学校教育は停止です。そして昭和19年の9月1日から学徒勤労動員がはじまり、12歳で隅田川沿岸の大鉄工所に働いていました。そこで見た光景はもともと虚弱体質で軍人になれそうもないと思っていた私にとって、更に戦争を懐疑的にさせてくれるものでした。大勢の朝鮮半島から来た若い人たちと一緒に働いていたんです。彼等が地獄のようなリンチのなかで働かされているのを見たとき、同じ同胞じゃありませんか、私も虚弱体質でいじめられて最下層の駄目子供だったから、やっぱりそういう方々に心が移りましたよね。はたしてこの戦争はどうなんだろう。

 14歳から少年航空兵少年戦車兵を目指してみんな行くのですね。その年まで一年ちょっと。でも私は軍人にはなれそうもないなと思っていました。軍人というのは人を殺すか殺されるかですよ。私は殺すより先に必ず殺されていると確信していましたね。その時はさぞかし痛いだろうと思うと、どうにかなってくれないかなーと神頼みみたいな感じで昭和20年1月元旦を迎えるのです。

 B-29は元旦からやって来て、それからは連日連夜ですね。一晩として安眠できる夜がないうちに、とうとうあの恐ろしい炎の夜を迎えました。それが3月10日の明け方です。私はこの空襲に「大」をつけて「東京大空襲」と名づけました。そういう題名の本を1991年に岩波新書で出しました。いまでもぽつぽつとは出ていまして最近アンコール復刊になりました。

 東京はおよそ百十何回かのB-29の空襲を受けております。そのうち大規模空襲が3回あります。一回目が3月10日の東京下町をターゲットにした東京大空襲です。2回目が4月の半ばです。今度は東京の西部方面池袋などを中心とする大規模空襲です。3回目が焼け残りの東京全体といったらいいでしょうか、5月24日と5月25日の両日、東京全体が焦土となってしまいました。

 その中でわけても大きな人的被害、人類史上未曾有と言っていいと思います人的被害を出したのが3月10日の明け方から始まる東京下町地区への無差別爆撃です。爆撃は調べてみますと非常に短い時間ですね。零時8分、まず深川の木場白河町、三好町一帯に第一弾が投下されました。空襲警報が解除になったのは明け方の2時37分であります。2時間半ないのです。この短時間が東京の歴史と運命を一変させてしまいました。東京の下町地帯は見渡す限りの焼け野原で、上野駅から東京湾が見えたという人がいます。

 それ本当と言いたいくらいですが、もっとも今みたいな超高層のビルなんて殆どありません。あるとしたら鉄筋コンクリートの国民学校ですね。土蔵、煙突みたいなものが点在するだけで、見渡す限りの焼け野原です。被害の実態はどの程度か? というのは日本政府は戦後追跡調査をしておりません。どこで誰がいつどのように死んだかというリストさえ持っていません。東京都も持っていません。東京都にそういう問い合わせがあると全部早乙女に聞けとこっちに来るのです。

 たしかに空襲自体は明け方の2時35分に終わったんですが、その夜は猛烈な北風の強い日でした。アメリカ側はわざわざそういう日を選んだんですね。関東大震災は勿論その前の江戸時代の大火まで調べつくして、木造家屋に類焼、延焼がもっともふさわしい日はいつかを選んだのです。非常に合理的科学的に3月10日を設定しています。つまり今日みたいに春先の風ですよね。その風が土と木と紙で出来た家には最もふさわしい。そしてそれに合った焼夷弾も開発します。それがナパーム製の油脂焼夷弾、アメリカに言わせますとM-69という焼夷弾です。

東京大空襲の絵 坂井輝松氏13歳の灼熱記憶
(坂井輝松氏13歳の灼熱記憶 東京大空襲・戦災資料館提供)


 こうして3月10日の後、4月、5月と第2次、第3次の大規模空襲にあって、東京は真っ赤赤と言っていいくらい焼け野原になって8月15日を迎えます。東京の区部人口は開戦時687万人でした。8・15ではそれが253万人に減少しております。約400万人はいなくなってしまった。もちろん疎開その他で東京を離れていった方々も沢山いるのですけれど、あるいは無念の死を遂げた方々もその中に含まれると言わねばなりません。そして昭和20年度の日本人の平均寿命は地に落ちます。なんと言っても若い人たちが続々と亡くなりましたから、この年は。昭和20年度に限って厚生省が発表した「平均余命」と言いますが、平均寿命のことです、男23.9、女37.5これはみんな信じませんよね。

 よく新聞なんかに引用しますとすぐ記者から電話かかってきて、その根拠はどこにあるのかと、たぶん読者がそう聞くからはっきりしたことを踏まえておいて下さいというのですが、ちゃんと厚生労働省の資料に出ております。翌年の昭和21年は、食うや食わずの時代ですね、それでも男は42.6女は51.5、日本の近代史以来初めて日本の平均寿命は50年を超えました。女性が1.5上乗せしたからです。平和と人命が密接にリンクしていることが分りますね。では05年度はどうだったかというと、つい最近新聞に発表になりました。一昨年よりちょっと落ちているんです。男78.5、女85.5、女性は世界一位です。では昭和20年と比べてどのくらいプラスされたんだろうか、ちょっと単純計算してみました。男性はプラス55年、女性はプラス48年です。日本が今日までのところ一応平和だったからです。こう言って良いのではないでしょうか。

 私はこの8・15を迎えた時に、戦争は終わったらしいということは大人たちの言葉の端々で分りました。でも平和が来たという実感にはならなかったですね。なにがなんだか分らない。ただこれから先どうなるのか、ただ頭が真っ白になったのを覚えていますけれど、その私が「あっこれが平和なんだ」と思ったことが2つあります。

 ひとつ、8月20日、これを当てられる人は滅多にいないと思います。灯火管制公式解除です。灯火管制解除は8月15日ではないんです。もちろんつけた方はいたでしょうがね。ですけれども8月15日のあと一週間くらいは警戒警報も鳴ってB-29が来ていたのです。空襲以外の目的で偵察飛行で来ていたんですね。写真などもいっぱい撮っています。ですから政府も疑心暗鬼だったので、8月20日の正午に始めて灯火管制解除を公式にラジオで発表しました。これで焼け残りの家にぼちっと灯がともり、それが連鎖的に拡がっていって我が家でも黒い覆いをはずして、裸電球の下で家族の顔を見ました時に「平和って明るいんだ、今夜から防空壕に入る心配なしに、ぐっすりと寝て朝を迎えられるんだ」と嬉しかったですね。腹はぺこぺこでも。よもやそういう日が生きているうちに来るとは思いませんでしたよ。

 二つ目は翌年昭和21年の11月3日です。これはお分かりですね。新憲法の公布です。ただ私は昭和21年の春から町工場で働いていました。私は大学はおろか高校も出ておりません。大層な低学歴のコンプレックスを持っております。10年ほど前に千葉大学から非常勤講師になってくれと言われたときは嬉しかったですね。学歴欄は白紙にして出しましたよ。それでも通るんです。学歴はいらないんです。大学で教えるには。そしてしばらく待っていましたら学長の角判のついた採用通知が来ました。私はそれをコピーして千葉県下に住んでいる母のところに持っていきました。そのころまだ母は元気でしたから、母は涙を流して喜んでくれましたね。

 自分で自分がかわいそうに思える青春の日々を労働で過ごしました。でもさっきちらっと申し上げた兄がいて、9つも歳が違うんですね、彼は大層な軍国主義教師でした。大勢の教え子を戦場に送って自分も続いて帝国海軍へ入り、戦後ふぬけのようになって帰ってきました。それから後は焼け跡に教え子の消息を訪ね歩く日々ばかりでした。彼は教師でしたからやっぱり教壇に立って、これからの世界と日本がどうなっていくのか子供たちに教えなくちゃならないから、新聞発表になった憲法の条文をかなり良く読んでいたと思います。してみると11月4日であったのかもしれない。

 私に教えてくれました。「今度の憲法で俺が心に感じたことが幾つかあるけれど特に響いたのは第9条だ。もうこれから日本は戦争をしないと決めたんだ。軍隊も持たないと。世界のどこかで紛争が起きたとしてももう日本は手出しをしないし出来ない、すると対話、協調、信頼、相互理解による平和を先導的に世界に訴える国になったんだ。お互いに命拾いしてめっけものだったなー」と。その言葉は心に響きましたね。

 私はそのあたりからあの戦争はどうして起きたんだろう、なんで大人たちは食い止められなかったんだろうということに興味と関心を持って、それから兄貴の本を譲り受けて読むようになりました。彼が焼け跡で並んで買ってくる本は大抵岩波文庫岩波新書です。それを譲り受けて読んでみたけれどちっとも分りません。「分らないところは声をあげて読め。音読で読め。俺が教えてやる。」と兄が言いましたが、よもやその岩波書店の著者に自分もなるとは夢にも思いませんでした。そこから私の主体的な自覚がはじまったのでしょうか。自分で自分がかわいそうに思えるような青春でしたが、ともかく読む、読んだら書く、読んだことを書いてみるんです。感じたことでいいのです。

 この一冊の本を読んで一番強く感じたのはこの事、2番目、3番目、4番目と書くのです。なぜそんなことをしたかと言いますと、書くことによって、頭の中に入れたことを整理することが出来ます。ですから私は必ず自分の想いを便箋一枚でもいいからとにかく書いてみるんですね。文章にして。そうして自分の想いを整理することが出来ると、そこからまた新たな考えが深まってくるような気がしたのです。読む、書く、考える、その3つを基本にして青春期はずいぶん沢山の本を乱読しました。

   社会科学から入ったことは確かですが、すぐ文学に傾斜してしまって、愛だ恋だということが大好きになりましたから、やはり夏目漱石の本なんかも夢中になって読みましたし、明治大正の文学作品は17歳くらいで終わりました。18歳からはロシア文学に入ってそれからロマンロランが好きになって、長い長い小説ですね、「魅せられたる魂」なんて本があります。昔はああいう本を結婚式の贈り物でリボンをつけて贈ったものですよ。今時そんなことをしたら、たちまち古本屋に行ってしまうのではないでしょうか。

 今日は神保町でちょっと見たら、古本がいっぱい並べてありまして、ちょっと見ましたら、私どもが1970年代に作ったところの『東京大空襲・戦災誌全5巻』が6000円で出ていました。こんな安い値段で出ているのかと思い、おもわず買おうと思ったのですが、あれを持ってここに歩いて来るのも辛いと思い、残念でしたが見送りました。

 さて、その私がいよいよ文章を書こうと思い立ったのが1950年6月です。この年は朝鮮戦争の勃発の年でした。勿論日本は連合国軍の占領下です。連合国軍といえども主体はアメリカであります。そのアメリカは朝鮮半島におけるこの戦争を座視できなかったのです。なぜならば前年に中華人民共和国が樹立されました。これは東西冷戦のさなかですからアメリカにとってはものすごいショックではなかったでしょうか。あの広大な中国の大地からアメリカは足場を失ってしまえば当然南下せざるをえない。ぐずぐずしているとアジア全体がドミノ倒しのように赤化する。と思ったアメリカはここで極東政策を180度変えて、日本を東西冷戦の前線基地に仕立てるべく、マッカーサーは日本政府に向けて75000人からなる警察予備隊を作れという指令を発します。ここから日本の逆コースが始まりました。その警察予備隊が2年で保安隊、また2年で自衛隊へとエスカレートしていくことは言うを待ちません。

 私がこの朝鮮戦争に大変悩み迷いましたのは、今度はあのB-29が日本をステップにして朝鮮半島に爆撃に行くからです。沖縄から福岡の板付から、その爆撃の下がどうなっているかは容易に想像がつく。そうでしょう5年しか経っていないんですから。たいていの方々は防空壕とか空襲とかいうことを心に残しているはずですよね。それにも関わらずみんな食うや食わずでした。私もそうでした。そしてアメリカが戦争する為に、それまで閉鎖されていた軍需工場へ色々発注してきます。機械がガチャと動きますと万札が転がり込んでくることをガチャ万と言いました。これが特需景気です。これで日本の焼け跡、闇市の時代は終わります。

 私はそれが耐えられませんで、爆撃の下の女性や子供たちのことが目に浮かんでなりませんでした。なにか出来ることはないかないかと考え続けるうちに、ひとつ思いついたのは「文章を書くことなら出来る」と思ったのです。こうして私が手がけましたのは一種の自分史です。自分史といっても今の私が書くのなら皆さんもなるほどと思って下さるでしょう。それを18歳で書くわけです。18歳でそこまでの人生を書いてみよう。戦争と貧困でそんじょ並みの体験ではありません。生きるか死ぬかという体験ですから、同じような体験をした方々がもしかしてそれを読んでくれれば、またまた戦後の原点に戻ってくれるかもしれない。

 そして何よりもそうして時分自身を突き詰めることでもう一歩自分が強くなれるかもしれない。劣等感だらけの私を超えられるかもしれないという想いで書き出しました。そういう時大抵の方は原稿用紙で2,30枚かなんかでお茶を濁すでしょうけれども、私は宮本百合子さんの『貧しき人々の群』を読んでいたのです。あれは17歳で書いていますよね。それを思いますと私にだってとつい思ってしまうのは、怖いもの知らずとはこのことですね。でも300枚書きました。それがある人の目に触れて一冊の本になったのは20歳の時です。

 後々吉村昭さんと対談する機会がありましたが、「君は早くから一冊の本を出していてね。僕はうらやましいと思っていたよ。」と言われてしまいました。早く出るのが能ではありません。中身が問題なんですよね。その吉村さんももうこの世を去りましたが、この自分史が書店に並びますと、当時本を出すなんて人はめったにおりません、だいち紙が配給制ですから。その末尾に書かれてあったアドレスを頼ってある一人の小説家が我が家を訪ねてきました。浜本 浩といって今では知る方も少ないけれど、当時としては大変な流行作家の一人で、しかも直木賞の選考委員でもありました。

 大作家は私をレストランに呼んでくれて、「君の書いた本はなかなかすがすがしかったよ。君は書ける。書かねばならない人だ。」うまいおだてですね。私はまんまとそのおだてに乗せられて、やれば出来るかもしれないと思っちゃいました。それからは怖いもの知らずで20代は次々と長編を書きました。それが次々と映画化されました。東宝、松竹、あるいは東映。今をときめく山田監督はまだ助監督でしたけれども、私の本を読んでそれを松竹に持ち込んで企画を通して自分でシナリオを書いた、それで助監督をして一本の作品を仕上げています。

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5.「そして今日から明日へ」

講演会場風景

 というような日々から早くも歳月が通り過ぎてしまって、私が何時の間にやら東京大空襲の語り部みたいになってしまったのは1970年からです。まだ30代でしたけれども、東京大空襲の都民の惨禍をなんとかして東京都によってまとめてもらうことは出来ないものかということで、東京都知事への陳情書というのを書きました。そのころの都知事は美濃部亮吉さんです。社共両党によって登場した革新都政ですね。都知事は私どもが書いた陳情書を見て、こう言ってくれました。「十万人も死んだ東京都民の惨禍を記録にして後世に残すのは、革新都政の崇高な責務である。幾らくらいかかりますか?」

 これにはぎょっとなりました。私は金のことなんて何も分りませんでしたから。そうしましたらすぐ横にいた加太こうじという紙芝居屋さんがいて、この人は江戸時代からの日本の庶民の文化史が専門です。鶴見俊輔さんととても仲の良い思想の科学の社長もしていたかな、加太さんも入っていたんですが、加太さん曰く「そうですねえ。美濃部さん。一億円がとこでしょう」。今から37年前の1億円と言ったら並みの金ではありませんが、都知事はあまり驚いた顔もせず、一億円はくれなかったがそれに近い金額を出してくれて、そういうことで先ほど6000円で出ていた『東京大空襲・戦災誌全5巻』が4年がかりで完成したのです。私一人で作ったのではございませんで、スタッフは8人いたでしょうか、菊池寛賞になりました。

 そこから後、東京都に向けて、「東京大空襲の平和記念館を是非」ということを歴代の知事に要請し続けてきました。東京都もまた平和祈念館建設計画を進めていたのですが、これが挫折しましたのは、凍結という言葉を使っていますが、1999年です。とうとう凍結という事態になってしまって、私どもが東京都に預けておいた大量の戦災資料が一部が締め出されてきました。一部分といえどもなんとダンボール箱で40箱もあり、まだその他にもあるのですが、それをどうしたらいいのかという難問に出くわしました。

 ダンボール箱は密封されたままで、殆ど開けられることなくそこまで歳月が過ぎてしまったのです。東京都はその品物を全部引き取るか、さもなければ今東京都の管轄する倉庫に預けてあるので倉庫代を払うかどちらかを選択せよということで、やむを得ず一年間は払ってきました。ですけれどこのままの状態ですと一生払い続けなくてはなりません。しかも私もだんだん年齢がかさんで来てしまって、箱の中身がどうなっているのか覚えておりません。その資料も整理が出来ない状態にたちいたって、やむなく民間募金でこれらの資料を活用公開する東京大空襲・戦災資料センターを作ろうということになりました。

 幸いにして江東区北砂に、ある女性の罹災者ですが、そういう平和の為の建物ならば土地をさしあげましょうと申し出てくださった。どのくらいの面積ですかとお会いして聞いたら180坪ですよと。5階建てのビルが建つ土地をただでくれるというのですね。もっともその方は誰も係累がおりません。結婚もしたことがないし、一人ぼっちなんですね。もしもという時があればお父様から受け継いだ遺産などなどは全部国庫のものになるじゃありませんか。と思ったのかどうか、どうぞと驚くような話です。

 土地があればあとは上物だけで済む。それではなんとか民間募金で出来ないかということでマスコミを通じて訴えましたところ、およそ4000人から一億円が集まりました。これで鉄骨3階建ての小さな戦災資料センターが立ち上がったのです。ところがいつの間にかそれが話題になって、東北から関西からと修学旅行の生徒が特に4月5月はすごいのです。グループ訪問も入れて年間100校も来ます。それなのに会議室は50人しか入れないのです。それじゃどうにもなりませんので、主として修学旅行生への対応に悩んだ結果、会議室を倍にしたい、もちろん展示室も倍にしたいということで、今度は増築募金に踏み切りました。それも目標額は一億円ですが、今のところ目標までもう一歩というところまでたどり着いて、この3月9日増築が完成し、リニューアルオープンしました。


なお、戦災資料センターの電話番号は 03-5857-5631です。

 今年の3月9日というのは、それまでの東京大空襲の同じ3月9日と違います。東京大空襲の遺族の方たちが、日本政府に戦争を始めたその責任の謝罪と補償、軍人軍属なみの補償を求めて集団提訴に踏み切りました。全国からの原告は112人ですが、弁護団は原告とほぼ同数の110人です。よくもそんな沢山の弁護団がついてくれたものです。だって無報酬、手弁当ですよ。自分で弁護士は金を出さなくてはいけない。それでも社会正義の先頭を進んでいる弁護士さんたちは、その原告の志に打たれたんではないでしょうか。原告の皆さんはほぼ私よりも年上です。この後の人生は幾ばくもございません。泣き寝入りしたまんまこの世を去るのか、それとも歴史に一ページを残すのかという岐路に立ったんだと思います。泣き寝入りはしなかったということを歴史に残すべく、集団提訴はことし3月9日東京地裁に行われました。

 同じ日にセンターがリニューアルオープンしましたから、いわば相乗効果を起しまして、ずいぶんマスコミにも取り上げられたと思います。ともかく次から次へと人々がやってくる状況の中で、残念ながら空襲の体験者の方で支援してくれるとても大事な方が、次々とこの世を去っています。センターの増築が完成した時点でどうしても見てもらいたかったと思えるような、そういう悲痛な体験をお持ちの遺族の皆さんは次々とあの世に旅立って行く時代になってしまいました。当時は人の子の親だった方々ですね。私みたいに子供だったものはまだ少しは余命がありますが、それでも男性の平均寿命にもう3年しかないんですからね。

 いつどうなるか分らないということで、今私の心に去来するのは「知っているなら伝えよう、知らないなら学べ」の一言であります。そうして空襲、戦争の惨禍を2度と繰り返すまじのバトンを、必ずや子供や孫たちに手渡したい。子供たちはなんの発言権もないけれど、どういう社会のあり様を望んでいると思いますか? まさか戦争の出来る世の中がいいよという子供が一人でもいますか? そう考えると私は体験者として、まだまだ訴え続けねばならぬと思っております。今日は神田雑学大学でお話しするチャンスを頂きまして私の想いの一端をお話しましたが、ご関心のある方は北砂町1丁目5番地にあります東京大空襲・戦災資料センターの方へお越しいただければ幸せであります。

 最後は一篇の詩をご紹介して丁度時間となるんではないかと思います。これは石垣りんさんの詩であります。著者に了解を得ていないので発表してしまうのはどうかなあと思うけれど、今日はそれを活字にして販売するわけではないし、営利を目的にしないNPO神田雑学大学の場ですから、お許しいただけるんではないかと思いまして。

題名は「弔辞」。サブタイトルがついています。
「職場新聞に掲載された百五名の戦没者名簿に寄せて。石垣りん」
(『石垣りん文庫2』花神社版より)

ここに書かれたひとつの名前から 一人の人が立ち上がる
ああ あなたでしたね あなたも死んだのでしたね
活字にすれば四つか五つ
その向こうにあるひとつの命
悲惨に閉じられたひとりの人生
例えば海老原寿美さん 長身で陽気な若い女性
1945年3月10日の大空襲に
  母親と抱き合ってどぶの中で死んでいた
私の仲間
あなたはいま どのような眠りを眠ってっているだろうか
そして私はどのように、さめているというのか
死者の記憶が遠ざかるとき
同じ速度で、死は私たちに近づく
戦争が終わって20年
もうここに並んだ死者達のことを、覚えている人も職場に少ない
死者は静かに立ち上がる
さみしい笑顔で、この紙面から立ち去ろうとしている
忘却の方へ 発とうとしている
私は呼びかける 西脇さん 水町さん みんな、ここへ戻ってください
どうのようにして戦争に巻き込まれ どのようにして死なねばならなかったか
語ってください
戦争の記憶が遠ざかるとき
戦争がまた私たちに近づく
そうでなければ良い
8月15日。眠っているのは私たち 苦しみにさめているのはあなたたち
行かないでください、みなさん、どうかここに居てください

終わり(拍手)


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6.質疑応答

質問:福島と申します。私は先生より少し若いのですが疎開をしていて命を奪われるのをまぬかれました。最近アメリカの下院でマイクホンダさんなどが南京事件などを取り上げ、無差別攻撃だということで日本政府に謝罪を要求していますよね。これには河野談話とかなんども謝罪していると思うのですが、ただ日本政府はこの無差別攻撃というのは国際条約違反なのに、広島とかこの東京大空襲とか、私の記憶ではアメリカに対して一度も謝罪しろとか言っていない気がするのですがその点いかがでしょうか。またどう早乙女先生はお考えになりますか。

答え:ええまったくそのとおりでして、日本政府がアメリカにこれら無差別攻撃について謝罪を要求していないのは、ひとつは戦争を始めた側の責任というのもあるのではないでしょうか。アメリカに言わせればリメンバーパールハーバーといつも言いますね。これが口実になってしまっていますので敢えて無差別爆撃に対する謝罪ということになっていませんね。今回の訴訟も爆撃したのはアメリカではないか、それなのにどうして日本政府を訴えるのかという原告団への批判がありました。これはもっぱら戦争を始めた責任ですね。戦争を始めなかったならそういう爆撃もあり得なかったということで、アメリカを訴えないわけではありませんが、当初は戦争を始めた責任の方を第一弾として追及して行くんだという、弁護団の方はそういう考え方で集団提訴に踏み切っております。

質問:臼井と申します。先ほどの話で1999年に東京都の倉庫から出されてしまったという話がありましたが、私たち東京都民の感覚では東京都というのはわりに国に対しても言いたいことを言っているしけっこう強い主張をもって頑張っていると思っていたのですが、被害者に損害賠償とかという話ではなくて、東京都民がこういう目にあったということをきちんとしたモニュメントにして残すということには誰にも抵抗はないと思うのですが、なんで東京都は凍結状態になってしまうのですか。1999年の都知事は誰ですか?

答え:99年は石原都知事の登場です。といって石原都知事が平和記念館建設計画をやめるといったわけではございません。そうではなくて生活文化局が予算の計上を最初からあきらめてしまったんですね。そういう状況を迎えたのがこの年ではないかと思います。なんで原爆に次ぐほどの大被害なのに戦後ずっと社会問題化してこなかったのかという疑問をよく突きつけられますが、色々な理由が混ざり合っているのではないかと思います。そうですね、私が思うところ5つぐらいの理由があると思うのです。まず一、一家全滅の家が多かった。だから語り部がいません。告発者がいないということです。二、そこに住んでいた人たちは家を焼け出されて地方に行ってしまった。三、そうして地方に行った方々はほぼ招かれざる客だったんですよね。やむにやまれず色々な伝手をたどって行ったのですが相手側も食うや食わずの状況ですから、そういうことは充分ありえたと思います。そこで戦後は生きるのに精一杯という状態に置かれていたということです。そして四番目は戦後7年間はアメリカ占領軍にうらみつらみになるような事柄を制約されたのです。プレスコードです。それで無差別爆撃の解明が遅れててしまった。ただ広島・長崎に限って言えば核兵器ですから、世界の注目の的だからこれを隠すわけにはいかなかったと思います。5番目、そういう民間人の弱者を置き去りにしたまま戦後の政治がスタートしてしまったということが、挙げられるのではないでしょうか。ですから今に至るもなんの保障も償いもなされておりませんし、東京には平和公園ひとつあるわけでないという異常事態が今日も続いているわけです。そういうことで言えば、誰かが語り続けていかない限り民間人の戦渦は消えていってしまうんじゃないですかね。

司会:今日は、本当に意義深い話を有難うございました。(拍手)

おわり
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文責: 早乙女勝元
講座企画・運営:吉田源司 会場写真撮影:橋本 曜 HTML制作:大野 令治

<本文はここまでです>


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