神田雑学大学 平成19年5月18日 講座No359

大道芸の粋

講 師

  光田 憲雄 (全般・歴史)
 梅原 白髯 (がまの油)
    今井 重美 (ばなな叩き売り)





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大道芸について

香具師、テキヤ(適屋)ついて

蝦蟇の油、玉すだれ、バナナの叩き売りの発祥

蝦蟇の油売り

バナナの叩き売り

質疑応答



1.大道芸について

先ずお手元にお配りした大道芸通信109号を見てください。江戸の大道芸についての大体の流れを理解していただこうと思いバックナンバーからコピーしてきました。 簡単に申しますと江戸の大道芸人は町奉行配下と寺社奉行配下の二つの流れがありました。町奉行配下には香具師というのといわゆるエタ非人のグループのふたつがございます。

歴史的な話でありますので差別語が出てくるのをお許しください。香具師というのは町人ですがエタの方は被差別人です。エタというのは幕府側の呼び名であり本人たちは長吏(ちょうり)と言っていたようです。ですから長吏の下に小頭(こがしら)がいて、小組頭、小屋頭、小屋主、小屋者と身分が決められていました。それの頂点に居たのが弾左衛門であります。エタ28座といいますが、これは幕府から28種類の職業を認定されていたということであります。

この職業は長吏、座頭、舞々、猿楽、陰陽師、辻目暮、非人、猿曳、鉢扣、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、青屋、壷立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡子、傾城屋、壁塗、土鍋、鋳物師、山守と29ありますが、16番目の青屋と17番目の壷立を一つにして青屋壷立と言って28座にしているようであります。

非人(ひにん)、これは非人頭「車善七」が総親分で、品川の方は品川松右衛門、深川の方には深川善三郎、代々木の方には代々木久兵衛という形で4人の親分が居るわけです。非人には抱非人(かかえひにん)というのと野非人(のひにん)があって、抱非人というのは代々非人小屋に住んでいるもの、野非人というのはいわいるホームレスに近い存在です。時たま抱非人が刈り込みをして野非人を自分たちの仲間に加えたりもしたようです。

それ以外に乞胸(ごうむね)というのがあって、簡単に言えばこれは芸能乞食(げいのうこじき)と申しましょうか、江戸時代は芸能をするにはこの乞胸配下でないと出来なかったのです。 ただ乞胸の変わっているところは、彼等が芸能をやっている間は乞胸として非人配下なのですが、芸能の職業をやめてしまったら身分的には町人なのです。

身分制度のうるさかった徳川時代にありまして、町人と被差別人の間を行ったり来たり出来る特殊な存在が乞胸です。ですから道楽息子なんかが身を持ち崩して、乞胸の仲間に加わりますと、親のほうは体裁が悪いのでしょうか、お金を出したりして、乞胸から引き抜いて町人に戻すということが行われていました。

この中に女太夫(おんなたゆう)と鳥追い(とりおい)というのが描いてありますが、この2つは芸人なんですが、芸人ではないことになっていました。芸ではなく祝い事をするという建前で、非人小屋から出ておりました。普通、非人小屋の若奥さんとか娘とかのきれいどころがこれになっています。鳥追いと女太夫の違いですが、本来は女太夫なのです。 女太夫をお正月の間だけ鳥追いと言っていたのです。

正月の2日から15日まで色々なところに鳥追いがどんどん行っていたわけです。正月のお祝いですから化粧もし、あでやかな服装でやっていたのが鳥追いです。笠も女太夫の時は菅笠なのですが、鳥追いやっている時は編み笠になるわけです。映画なんかで正月でもないのに鳥追いが出てくるのは、女太夫よりも鳥追いの方がきれいで色っぽくて絵になるから使っているわけで史実ではありません。

猿飼というのは猿回しですね。歌舞伎なんかは途中で独立してエタ配下を脱するのですけれども、明治維新まで普通の町人には入れてもらっておりません。以上が町奉行配下のいわいる大道芸人です。 では寺社奉行配下の大道芸人とはなにかというと、願人坊主というのがおりました。願人というのは一般の人が願い事をするとき、水垢離をしたりいろいろな苦労がありますね。

その苦労部分を代行してくれるのが願人なのです。水垢離なんかは冷たくて嫌ですから、なにがしかのお金を払って水垢離してもらって、ご利益だけは自分が貰うというものです。ただそういうのもだんだん飽きられてくるので、新しく「金毘羅行人(こんぴらぎょうにん)」をやったり、「わいわい天王」とか色々あるわけですが、もともとは大阪にあります住吉大社から発生したものです。

住吉大社の中に神宮寺というのがあったのです。明治維新までの宗教は大抵神仏混交でありまして、お寺の方が、格が上だったのです。ですから神社を支配していたのは神宮寺の坊主だったのですが、明治維新になりましてそれではよろしくない、天皇制を権威づけるためにお寺の方を廃止しまして、お宮の方の格をあげたのです。住吉神社にも大社という社格を与えて認知したわけです。

願人は神宮寺の坊主が神功皇后の三韓征伐を祝って踊ったのが願人踊りの発祥という伝承があります。この願人踊り、当初は住吉踊りと言っていたのですが、これと願人踊りが合体して出来たのが、「かっぽれ」になるわけです。江戸時代はずっと住吉踊りだったんです。かっぽれを江戸芸とよく言っておりますが、あれは明治になって江戸が東京になってから実際は始まったのです。まして座敷芸になったのは初代桜川ピン助が始めたものですから、早くても大正末期、実際は昭和に始まったものだと思っております。

大道芸に関しては資料が非常に少なく、今でも早く言ったもの勝ちという状況です。10年やっていれば昔からやっていたことにするし、20年やれば親の代からやっていたというふうに、大体歴史を長く作ってきていますので実際のところは分らないというより、わからなくしていることが多いのです。


2.香具師、テキヤ(適屋)ついて

以上のように大道芸の大きな流れが町奉行系と寺社奉行系に大きく分かれていて、そのなかで更に細かく分かれることを申し上げましたが、香具師系とそれ以外の大道芸の一番の違いというのは、香具師系というのは物売り商人なんです。

他のものは芸自体が商品なのですから芸を見た人から投げ銭をもらいますが、香具師の芸はあくまでも人集めの手段ですから芸を見た人からお金はとりません。そのかわり何らかの形の商品を買っていただくわけです。

この商品に色々有りまして、インチキなものを売るようなイメージがあるわけです。香具師を辞書でひきますと「縁日祭礼など人出の多い所で見世物などを興行し、粗製の商品などを売ることを業とする」とあります。テキヤの方をひきますと「いかがわしい商品を売る商人、狙いが当たれば利益を得ることから的(まと)に矢が当たる事になぞらえたもの」といずれも粗製でありいかがわしいものに視点があたっています。(テキヤに的屋の字を宛ててあることが多いが、根拠なし。正しくは適〈当〉屋)

香具師の持ち時間というのは基本的に1時間20分なんです。前締めと芯があって最後に後締めをやるのですが、その最後の10分間で物を売るわけです。1時間20分のうちの最初の15分くらいが導入部、残りの4、50分が商品に価値をつけるたんか口上、この間に騙されないように斜に構えている観客はだんだん欲しくなり最後には買わなきゃ損だという気になる、その話芸が大体1時間続くわけです。最後はいつ買えるのかじりじりして待っている状態にまでお客は追い込まれて来るので、最後の10分でどっと買ってしまうというものです。

家に帰って興奮がさめるとなんであんなものを買ったんだろうとなるんです。だまされたということになるんですが、それは騙されたんではなくて話の聞き賃だと思えば良いのです。商品は聞いたあとの領収書だと思えばよいのです。香具師がなんで無くなったかといいますと、物を買ってあげなくなったからです。

みんなが賢くなったのかゆとりが無くなったのか、面白い部分だけ聞いて後は商品を買わないと香具師は何のためにしゃべったか分らないわけです。粗製の商品は入場料であり領収書だと思ってもらわないと駄目なのです。そういうつもりで皆さん聞いていただければ良いのですが、「ああ面白かった」だけで逃げていくから、どこの縁日に行っても香具師の中でも大締師(オオジメシ=人を円陣に大きく集める所からそう呼ばれた)とかはいなくなって、食べ物やばっかりになってしまったということなんです。 私たちはこの香具師系の真髄をなんとか伝承したいなと思って、色々なイベントでやっておるわけであります。



3.蝦蟇の油、玉すだれ、バナナの叩き売りの発祥

今日は玉すだれ、独楽芸、蝦蟇の油、バナナの叩き売り、これを見ていただこうと思います。 今では蝦蟇の油売り(がまのあぶらうり)の本場は筑波山ということになっていますが、これはもともとは伊吹山が発祥です。大正末期か昭和の初めに落語家の三代目柳好が、関東の人にもわかりやすいように伊吹山を筑波山変えて東京に持って来たのです。ですから筑波山以外は京都の加茂川が出てきたり、嵐山が出てきたり、全部舞台は向こうなんです。言葉の調子がいいですからその辺は気付かれないんですが、その辺が話芸の見事さともいえるのでしょう。

 南京玉すだれは富山県の五箇山が発祥地だということになっておりますが、これも言われだしたのは平成になってからなのです。色々な文献を調べましたが、これまでの所、一番古いものは寛政12年(1800年)の『文鳳麓画 』に掲載の挿絵であり、今で言う「蕎麦屋の看板」です。その後は『金草鞋(かねのわらじ)』(文化10年=1813年)、これは十辺舎一九が書いたもので、伊賀上野の所に掲載してあるこの挿絵です。これは「虹の架け橋」という形です。

ここまでは羅宇屋(らうや)さん、煙草のキセルの真ん中の竹のことを羅宇(らう)といったんですが、羅宇竹で出来ております。ですから丸いんです。この羅宇屋さんが客寄せの手段として演じたのが「玉すだれ」の初めなんです。それを見てこれが人集めに効果があるということを知ったのが乞食でありまして、これは『若山(=和歌山)城下物貰い風俗』(天保4年=1833年)という文献ですが、まさに乞食が真似をしたことが分ります。乞食が真似をしだすと普通の町人は逆にやめてしまうのです。

乞食がやるようなことを出来るかということです。それで廃れてしまったようです。ところが明治年代になりますと、今度は「玉すだれ自体を売る子供の遊び」として復活するのです。この挿絵は明治29年(1896年)に発行された『風俗画報』に「手遊び売り」と名づけられて載っているものす。

続くこちらは『江戸明治風俗図絵』です。これは年代は分りませんがこの作者が大正2年(1913年)に亡くなっておりますので、遅くとも明治の末期までに描かれたものであることが分ります。これは「お魚さん」というか「鯉のぼり」というかこんな形のものですね。「竹からくり」と書いてあります。まだ「南京玉すだれ」という言葉はありません。

「南京玉すだれ」という言葉が使われた最初は、昭和も40年代以降のことです。寄席芸や「諸芸口上集」という文献で紹介されました。「諸芸口上集」というのは三一書房が昭和51年(1976)に出版した『日本庶民文化資料集成』という貴重な本の中に、幕末頃の文献として紹介されてあるものです。

このなかに「南京玉すだれ」という言葉が出てきますが、書かれてある内容を見ますと、とても幕末までさかのぼれるようなものではなく、紹介された時(昭和50年頃)に書かれたものではないかと思います。つまり、明らかに偽書であり、昭和の古文書なのです。

だから、これ以前は勿論、昭和になっても40年代までは「南京玉すだれ」と云う言葉が使われた例は、外にはありません。昭和40年代末か50年代に寄席芸の中でようやく「南京玉すだれ」という言葉が出てくるのが最初です。参考のため、これまで紹介した資料はなんと言っているか書いてみます。

@無名『文鳳麓画 』(寛政12年=1800年)
A無名『金草鞋』(文化10年=1813年)
Bすだれつかい『若山城下物貰い風俗』(天保4年=1833年)
C手遊び売り『風俗画報』(明治29年=1896年)
D竹からくり『江戸明治風俗図絵』(〜大正2年=1913年)
E編み竹『筑子(こきりこ)の起原考』=玉すだれ五箇山発祥説を唱え始めた本(平成=1989〜)等々、外にもまだ沢山あるが、『風俗画報』の「手遊び売り」を使用している例が圧倒的に多い。

現在発行されている本は、殆ど「南京玉すだれ」ですが、学者の中には頑として「玉すだれ」を使わない人もおられます。その事から類推しても、「諸芸口上集」という文献が、本物であると認知されていない証しともなります。幕末に書かれたというのは嘘で、実際に書かれたのはこの本が出された昭和51年だかと思っています。 現在玉すだれがどこで発生したかは分りませんが、現在残っている地域は、「金の草鞋(かねのわらじ)」では伊賀上野、和歌山城下は乞食で、どうもあの辺が発生地ではないかと思います。

その後五箇山にも伝搬したとおもいますが、あそこは現在でも交通の便が悪いところですから、古い形態が残ったものと思っています。また似たようなものが青森の方にもあるのです。「豊年玉すだれ」と言いまして、これも羅宇竹みたいな材料を使っています。あちらもどちらかというと交通の便が良くないので、そういう古い形態が残ったんだと思います。古い形態があるからここが発祥だということにはならないと思います。

だから、記録として残っているのは明治38年(『筑子の起原考』)が最初で、その当時のままが未だに伝えられているのです。それはそれで貴重ですが、あとは理屈抜きに平安時代まで一挙に飛んでいるのは如何にも唐突です。 町おこし運動としてなら面白いと思いますが、それをもって歴史的事実であるとすることには賛成できません。

次はバナナの叩き売りの歴史です。日本人とバナナの出会いは、これは東京堂の「事物起源辞典」や「編年辞典」、「下関市史」などに記載があります。最初は日米修好通商条約で太平洋を渡った船の乗員がハワイで始めてバナナを食べたということが「事物起源辞典」に載っております。

面白いのは、「編年辞典」では明治36年8月から9月の間キールンの人が初めて神戸に出荷した。これが当時の人の嗜好にあって以後大量に輸入するようになったとありますし、「事物起源辞典」には明治36年に台湾バナナを大阪の梅谷というひとが最初に輸入したとあります。この両辞典は共に同じ東京堂出版から出しているのに、なんで違うのでしょうね?

両辞典に限らず、どの本もバナナが最初に輸入されたのは明治36年とあります。ところが、私が叩き売りを調べるため、「下関市史」と「門司市史」を見ていましたら、「下関市史」の中に、バナナが輸入されたのは明治35年6月と書いてあったのです。《バナナは明治28年日清戦争の後、日本が台湾を領有してから後輸入されたもので、下関には明治35年6月に初めて陸揚げされたが、商品化されるまでには数年を要した》と。

最近発行された本は、どれを見てもバナナの叩き売りは門司で始まったことになっておりますが、古い本は下関になっているのです。どちらが正しいんだろうと思い、調べて見ました。まず町の歴史を調べてみました。門司は現在北九州市の門司区ですが、以前は独立した市でした。日本で市町村制が初めてひかれたのが明治22年なんです。この時全部で31の市が誕生したわけですが、その中に下関市、当時は赤間ヶ関市がありました。

九州では福岡、久留米、佐賀、長崎、鹿児島、熊本だけでした。その当時の門司は「文字ヶ関村」だったのです。明治24年に九州鉄道が現在の門司港駅よりはだいぶ山よりの方に停車場を作ったのを皮切りに、だんだん発展しまして、明治27年には門司町になり明治32年には門司市になっています。

明治35年台湾バナナが下関市に輸入され、神戸が36年、門司に輸入されたのが38年とずれがあるようです。明治40年には宮崎の人、若山牧水が帰郷の際下関を訪れて、次の歌を詠んでいるわけです。「桃 みかん 芭蕉の実(=バナナ)売る磯町の 露天の油煙 青海に行く」と下関港近くの露天で叩き売りをやっていた風景が詠われています。大正3年に門司駅が現在の場所(=現門司港駅)に新築移転してくるわけですが、そこで海と直結して、ここから門司の実質的な発展が始まります。

昭和17年に関門トンネルが開通し、門司港駅も下関も通過駅になってしまい急激に寂れてくるわけです。ですから叩き売りもだんだん下火になってくるわけです。新しい下関駅は海岸からだいぶ外れたところに移転しましたので先に寂れてしまうのです。門司は少し後まで残り、それで門司が元祖だと主張し始めるわけです。

昭和50年代になりますと「新門司港駅物語」という本が出されているのですが、門司の町の活性化を考える門司港発展気勢会というのが出来まして、門司の郷土芸能の一つにバナナのたたき売りがある、それを復活させようというキャンペーンを張るのです。その当時門司港の自治会長であった井川さんと言う方が、子供の頃見た口上を思い出しながら始めたのが「バナチャン節」で、門司が発生と言われるようになった大きな原因です。

観光キャンペーンで叩き売り発祥の地の石碑も作るわけです。石碑にも大正初期から昭和13年ごろまで不夜城を呈して日本全国の旅行者の目を楽しませた。門司港のこの辺が発祥の地といわれているとありますが、これでも明治までは遡ってないわけです。しかし発祥地であると主張しているわけです。 北九州市のホームページもそのような記載がありますが、では具体的にいつから始まったかというような記載はありません。

わたしの結論は、やはり下関が初めで、だんだん門司にも移っていったものと考えています。但し、今では下関の方でもバナナの叩き売りは門司が発祥と思っている方が多いようですね。それぐらい大道芸なんていうのは言ったもの勝ちというか、あまり歴史の中で重きを置かれていないのですね。

蝦蟇(がま)の油がもう完全に筑波山ということになってしまって、証拠の石碑などもいろいろ作られつづけております。伊吹山は今から主張しても手遅れという状態になっています。玉すだれもたぶん五箇山が発祥の地になって他のところが今更言い出しても手遅れということになっていくような気がします。 では私の話はこのくらいにして、お二方の実演を見ていただきましょう。 まず梅原白髯さん、85歳蝦蟇をやらせたら日本一の方です。お願いいたします。



4.蝦蟇の油売り
  (梅原白髯さん)

大道商人の蝦蟇の油売りでございます。昔の薬屋さんでございます。昔は大道で薬を売っても良かったんですが、今は薬事法なんて法律が大変厳しくなりまして、昭和の中ごろまでは見られましたが、今は絶対見ることが出来なくなってしまった薬屋さんでございます。

まず服装です。白襷(しろだすき)、白鉢巻(しろはちまき)ということになります。 こうやって襷をかけて、後ろ鉢巻をして、股立ち(もも立ち)をこうとりますと、 これが侍の戦闘態勢ということになるのでございます。        

さあさあお立会い、
御用とお急ぎでない方はゆっくりと聞いておいで見ておいで、遠め山越し肩のうち、 近よらざればものの誤り方(あやめりかた)とんとあい分らんのが道理だ。
山寺に鐘エありといえども童子(どうじ)来たりて鐘に撞木(しゅもく)を当てざれば鐘の音色は分らない、 なにごとも聞かざるとき見ざる時、物のよしあし、見方とんとあい分らんのが道理だ。

まずは松井源水こまの芸、ゆっくりと見ていただこう。まずは小手調べ打ち上げ、
『よいしょどっこい』
『ほおおおおおおおよいしょっと』
『黙って見ていないで手をたたけ』 (拍手) 
拍手に応えまして『もう一回よいしょっと』  (拍手) 
『よいしょ。ほらちょいと摘めば初春はやぐら太鼓、よいしょっと』  (拍手)
色々やりたいんだが、時間の都合があるんだよね。
20分でやめてくれというんだから。
こっちも20分でやるとなるとちょっと忙しい。山の中の一本杉、
『よいしょっと』   (拍手)、

一度廻りだすと明けの六つから暮れの六つまで廻り続けるという、
磐梯山は日暮らしの独楽なんて言っているけれども時々おっこちる、
おっこちると前の方2,3人怪我させる。
昨日も3人怪我させて中の一人が今朝息ひきとった。
見ているほうは命がけ。
やってるほうは鼻歌まじり、

『はいかざぐるまー』  (拍手)、
『はい落花の舞』  (拍手)

あまり長くやっていると疲れるからね。
今日は早いところ終わりにしちゃって、『はいっ、刀の刃渡り』。
今こんな長い刀さして大道で刀の刃渡り見せているのは私ひとりくらいになっちゃったなー。
みんな大道は雨が降ったり風が吹いたりするんで嫌だというわけで、舞台の方に行っちゃったね。
むかしから独楽は縁起物とされております。
くるくる廻るのを見ておりますと、頭の回転が良くなって金回りも良くなって、 家が建って蔵が建ってというのが独楽の芸でございます。

『いやっ!』
『達磨大師は座禅の相』『逆落とし』『逆流れ』
『虹の架け橋、切っ先止め、よいしょっ!』  (拍手)
『はい落花の舞』  (拍手)

まだ色々あるんだけれど時間の都合でこのくらいにして、さて独楽を回して見せたからといってわしゃ芸人ではない。
庶民救済のために薬を売っておりますので、これに書いてあるように陣中膏蝦蟇の油、 蝦蟇蝦蟇と申しますると皆様方はうちの台所や縁の下に沢山おるとこう思う御仁がございましょうが、 あれは蝦蟇ではないぞ、お引きがえる、玉がえる、あんなものに薬石の効がある訳がない。

しからばこの蝦蟇はどこにおるか。花のお江戸は西に離れること130里、 江州は伊吹山の麓に乳母子(おんばこ)という薬草を食ろうて育っているのがこの四六七面相(しろくひつめんそう)の蝦蟇、 四六五六(しろくごろく)はどこで見分ける、前足の指が四本、後足の指が六本、 これを称して四六は七面相の蝦蟇という、

『さあお嬢さん前足何本?』
『急にきかれても分んないよね。後足何本?』

この蝦蟇を捕らえるには5月8月10月の満月の晩、 木の根草の根踏み分け奥山深く分け入って捕らえて参りましたのが伊吹山名物、 五八十(ごはっそう)は四六の蝦蟇だ、

さあてお立会い、蝦蟇の油の製法は、まず捕らえましたら蝦蟇をば、 四面鏡を貼りつめたる金網の中に追い込む。
蝦蟇は鏡に映ったおのが姿に驚いて、せなかより脂汗をたらーりたらーりと流す。この脂汗をば金網下に設けたる器に受けまして、

京は加茂川のほとりに生えておりまする柳の小枝を集めまして、これを1尺2寸に切りそろえたものをば燃料と致し、三七は二十一日間とろーりとろーりと煮詰めまして、赤いのが辰砂、黄色いのがやし油、さらに南蛮国はオランダより取り寄せましたテレメンテーカはマイテーカをば調合いたし、練りに練って練り合わせて出来ましたのが、この陣中膏蝦蟇の油。

しからばなんに効くかと申しますると、蝦蟇の油の効能は、まず金創、切り傷、刀傷、鉄砲傷、ひす、がんがさ、ヨウバイソウ、今様にいうならば梅毒のことだが、そちらの色男、遊びに行ってもてるからといって喜んでばかりはおられんぞ。変な病気が移ると鼻が欠けて大切なヘノコが溶けてなくなる、今のうちに蝦蟇の油をつけて直しておきなさい。寒さに向かってひび、あかぎれ、しもやけ、ひぜん、田虫、いんきん、後ろにまわれば、で痔、いぼ痔,脱肛、痔ろうの方、このような方はお尻の周りをきれいにして蝦蟇の油を一、二度塗れば、出血が止まって痛みが止まる。

蝦蟇の油の効能はまだあった。大の男が畳みの上を転がりまわって痛がるという虫歯、歯の痛みだ。このような方は小指の先ほどの蝦蟇の油を白紙に包んで痛い歯の上にそっと乗せて軽く噛んでいただきますと、熱いよだれがだらだらだらと流れ、煙草一服する間の時間に、熱と痛みが流れさる。

蝦蟇の油の効能はまだある、刃物の切れ味をとめる、こう言っても信用がないな。実際にお目にかけよう。とりいだしましたるは我が家に伝わる重大なる家宝、無銘ながら相州物、切れ味はたしか、抜けば玉ちる氷の刃、南蛮鉄でも真っ二つ、まず切れる、切れないは白紙を刻んでご覧にいれる。白紙というからただの白い紙だ。なんのしかけもない。まずこうやって一枚とやるとね、この頃のお客さんてのは頭が良い、計算が速い。

私より先に一枚が二枚、二枚が四枚、四ん枚が八枚、八枚がにはちが十と六枚、十六枚が三十と二枚、三十と二枚が六十と四枚、六十と四枚が一百と二十八枚だと私より先に言うやつがおる。
これじゃ私の方は商売にならない。
ただしあれは落語家が高座で見せる芸、大道ではそんな切り方はしていなかった。
ではどうやって切っておったか。
まず一枚切る時は人間の皮膚一寸切れる。
二枚切る時には肉まで切れる。
四枚切る時には骨まで切れる。
八枚切る時には腕一本切り落とすことができる、十六枚切る時は人間の胴体真っ二つ、ひとつ胴だ。
吹き上げますれば嵐山は落花の舞、比良の暮雪は雪降りの景、『ふーっ。』  (拍手)

雪が少ない?今年は暖冬なんだよな。あまり細かく切ると掃除するのが大変。このくらいが丁度いい。 まずこのように切れる刀に蝦蟇の油を一塗りする。まずは切っ先から鍔元まで、さし表、さし裏、蝦蟇の油一塗りした。さあ切れない。叩いて切れない。引いて切れない。押して切れない。叩いて引いてしごいても切れない。お客さんの中には「なんだお前握った指先に力が入っていないのではないか」とお疑いの方がいらっしゃる。

それではこうしよう。てぬぐいで固く結ぶ。私が結んだんじゃお疑いの方がいらっしゃろうから、こちらの力の余っている旦那さん、力いっぱい結んでください。
「色男金と力はなかりけり」だって?もっと力いれて。
『そらっ』。
なにもそう言ったって、なにも力いっぱい縛ることないでしょう。
正直な方でございます。

さあこれを引き抜く。
『それっ、これ、どっこいしょ!』抜けないよ。
本当に結ぶんだもん。さあ困った。困った時はどうする。
こうする。
『よいしょ!』さあ抜けた。
手ぬぐいを取る。5本の指がばらばらと落ちる。
落ちた指を蝦蟇の油をつけて元通りくっつける。
そんな馬鹿なこと出来るわけないわな。
まあ手ぬぐいをとる。はいこの通り。
傷跡ひとつついておらん。
さあどうだ。   (拍手)    

お立会いの中には「なんだお前のところの薬は刃物の切れ味を止める薬か、あるいは名刀をなまくらにする薬だろう」とおっしゃる方がいる。そんなことはないぞ。蝦蟇の油の効能は血止めだ。皆様方ご家庭において子供さんが庭先や往来で滑って転んですりむいて血が出た、あるいは子供さんどうしが喧嘩をして棒でなぐられて額から血が流れた、

あるいはお母さん方お勝手で包丁の取り扱いを誤って、指先を切った、こんな時血が止まらないで困った経験お持ちの方が多いと思いますが、この蝦蟇の油ひと貝ありますれば、もうご安心、傷口に一塗りいたしますれば、流れる血潮がぴたりと止まるという、このようなこと如何に口上で申し上げましても納得いかないのが人情、これより我が二の腕切って流れる血潮ぴたりと止めてご覧に入れる。

まずは蝦蟇の油を拭き去ります。さあ蝦蟇の油拭き去りました。さあ腕を切ってご覧にいれる。さあ切るぞいいか!このあいだ見ている人が「おまえ二の腕というのは肘から上肩から下、ここが二の腕だと」。今の若いやつは知らんからここを二の腕と盛んにここを切るとしている。ここは血管が細い。切ってもたいして血が出ない。おまえそれでは内側を切ってみろ。内側は大変だよ。血管が太い。切り損なうと血が止まらなくなる。だけど今日は内側を切ってご覧に入れる。

『さあ切るぞ。いいか!』
君が切られるんじゃないんだから、私の方が痛い思いして切るんだから、こっちを向いて。
『さあ切るぞ。いいか!』本当にいい?切れば痛いんだよね。
こうやって昔はなかなか切らない。
小半時というからだいたい1時間くらいは切らない。
なぜ切らないかというと体勢が悪い。
こんな遠く離れているところで、はい、切った、血が出た。
蝦蟇の油一塗りした。血が止まった。
痛みが去った。というとお客がさーとみんないなくなっちゃう。
みんな行かれてしまっては私の方は商売にならない。そのためにはお疑いのある方はずっとこちらまでいらっしゃい。
こちらまでいらっしゃい。
なるべく近くに寄せ付けて2重3重人垣を作らせて、動けないようにしておいて、おもむろに切る。

さあ切るぞ!『やあーー!』切れたー。
あまり血が出ないわなー今日は。
時期が悪いんだな。引き潮の時だからな。
でも切れて血が出てる。だが驚くことはない。吃驚することはない。
落ち着いて蝦蟇の油一塗りする。さあ、蝦蟇の油一塗りして上を柔らかい布で覆う。 10えているうちに血がぴたりと止まるという。 さあ数えていただきましょう。『ひとおつ。ふたつ。みっつ。四つ。五つ。六つ。七つ。八つ。九つ。十。』さあそれでは手ぬぐいを取って紙を取っていただきましょう。

どうだこの通り傷跡一つ残らない血止めの妙薬蝦蟇の油、皆様家庭の常備薬として是非お供えいただきたいとはるばる江州から取り揃えた品物にございますれば、皆様にては大貝十二文、小貝八文をもってお分けしておりまするが、ご当地初の出張っての宣伝でございますので、小貝八文、大貝十二文あわせまして二十文でお分けすることになっております。数に限りがございます。お早い方10名だけ、後になって欲しいと申しましても絶対この値段でお手に入る品物ではございません。はいはいはいはいありがとうございます。ありがとうございます。   (拍手)


次はバナナの叩き売り今井重美さんです。

4.バナナの叩き売り。
  (今井重美さん)

はいいらっしゃいませ。
いらっしゃいませ。
見てのとおり身長155cm血圧180出身地新潟だよ。血液型A型。最終学歴は少年院。国立だよ。(笑い)
さあ銭があるやつは銭を出して買った。銭のないやつはしょうがないから汗ぐらい出せや。 なあ銭もなくて汗も出ないやつはしょうがない、知恵ぐらい出してよ。
なかにはいるんだわ、なんにも出したくねーっていうの。そういうのはしょうがない、家に帰って小便して布団かぶって寝てや。

さあまずどうだい。
味よし香り良しおまけにスタイルがいいねえ。 小野の小町か楊貴妃かてんだよ。
クレオパトラか家の母ちゃんかってなあ。娘18花盛りはたち過ぎれば色盛りだよー。
このバナちゃん食べ盛りといこうか。
さあどうだい先ず最初スーパーで買えば300円くらいだけれど今日はそんな値段はもらわない。
まず最初1000両でいこう。
どした。
お客さんお通夜じゃないんだよ。何とか言えよ。
高いとか安いとかいうんならこっちもやりようがあんの。
ただ黙って黙秘権使われたんじゃ困るんだよ。
ここは刑務所じゃないんだよ。 
1000両の銭がないのか? 

   (中略)

はいこれみんな揃えましてひっくるめて1000両だ!
これでどうだ!これならいいだろう。
どうしたの。
お客さん。
これ全部で1000両だ。
1000両銭がないの?嫌だね。
高崎のだるまとおんなじで手も足もでねえのか今日の客は!なさけないなあ。

『買った』
買ってくれた。
ありがとうよ。
初めがあれば終わりあり。
尾張名古屋は城で持つ。
城の周りに堀がある。
堀の中には蓮がある。
蓮の中には穴がある。
とっつぁん穴で苦労する。
わたしゃバナナで苦労する。
最終最後の泣き別れ、浪子と武雄は列車で別れた。
貫一お宮は熱海で別れまして、この重ちゃんも今日はこれでちょうど終わりでございます。
馬鹿で始まって馬鹿で終わった重ちゃんのバナナの叩き売りでございました。
ありがとうございました。




5.質疑応答

(質問)だれがそういうやり方を教えるんですか?先生みたいな方はいるんですか?

(答え)私たち3人がだいたい教えているメンバーでございます。原則第3木曜日に烏山のほうで教えております。

(質問)南京玉すだれと言いますが南京から来たのではないですか?

(答え)南京というのは江戸時代は南京だまとか南京あやつりとか可愛いとかいう意味で使われています。都市としての南京が日本人に伝わるのは中華民国政府が南京を首都にしてからの話で、それまでは南京というのは唐人とおなじように向こうのものというような漠然と中国を指すような言葉だったと思います。

(質問)南京玉簾というのは特許とか商標登録がとられているのですか?私の友人で玉すだれやりたいんだがあれうぃやると家元みたいなものがあって文句が来るというので、文句を変えたりしてやっている人がいるものですから。

(答え)南京玉すだれというのは一般語でそれはもう商標登録なんかはとれないはずです。

終わり

(文責 臼井 良雄)
写真撮影 臼井良雄  HTML制作 上野治子