神田雑学大学 第362回講座 平成19年6月8日

「昭和の英雄(ヒーロー)一代記」


講師:立石一夫




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自己紹介

第1部歌謡曲黄金時代の流れ
(昭和20年代を中心にして33年頃まで)


昭和23年
昭和24年
昭和25年
昭和26年
昭和27年
昭和28年
昭和29年
昭和30年
昭和31年
昭和32年
昭和33年

第2部昭和を駆け抜けた
大相撲黄金時代の英雄たち





 

自己紹介

名前の立石は私の生まれた土地であり、現在も住んでおります。「カズオ」は本名ですが、昭和の和に夫です。何故ペンネームにしたかと云いますと、「和夫」の名がつく人であまり有名な人がいないので、「一夫」にしました。舟木一夫とか長谷川一夫とか、それらにあやかりたいと思いその名をつけました。今年4月末まで会社勤めをしておりましたが、定年で退職しました。

第1部と第2部の構成でお送りいたします。第1部は戦後歌謡曲の年代別ヒット曲の流れを、第2部は戦後の相撲の横綱についてお話したいと思います。



第1部歌謡曲黄金時代の流れ(昭和20年代を中心にして33年頃まで)

 私の生まれた昭和22年から始めます。主な歌は「山小屋の灯」近江俊郎が歌い大ヒットしました。お兄さんは大蔵貢といい、新東宝の社長でしたが、会社は倒産し、その後、大蔵映画を設立しました。近江俊郎はすでに亡くなりましたが、晩年は萩本欽一司会の「家族対抗歌合戦」の審査委員長として活躍しました。

「啼くな小鳩よ」岡晴夫は有名な「オカッパル」の愛称で親しまれていますが、千葉県木更津の出身と聞いています。一世を風靡した人で、ヒット曲もたいへん多く、ある時、この曲を北島三郎がNHK「歌謡コンサート」で歌いました。その時、しみじみと聞きましたが、やはり名曲だなぁ〜と感心した次第です。特にラストの「…帽子振り振り後ふりむけば、暁の野風がただ寒い…」の歌詞のところが情緒あって良いと思います。

岡晴夫は気難しいところがあります。私はブロマイド製作の元社主にインタビューしたことがありますが、ブロマイドを撮る時の注文が煩くて苦労したようです。あまり注文が多いので、最後は「こちらの方が専門家なのだから俺に任せろ」と自信をもって云ったとこころ納得し、出来上がったものを見て感心し、その後は、そこのブロマイド製作者にすべて依頼するようになりました。鼻にかかった特徴ある歌い方で、当時、岡晴夫というと、子供でも知らないものはいないくらいの人気歌手でした。

現在の東京漫才協会の会長は内海桂子ですが、その前の会長はコロムビア・トップでした。彼は岡晴夫のたいへんなファンでした。機嫌が悪いときも、弟子に「青空うれし・たのし」というのがいますが、そのどちらかが岡晴夫の歌を歌うと、たちまち機嫌が良くなって嫌なこともスッカリ忘れてしまうほど激変し、機嫌が直ったそうです。 「夜霧のブルース」ディック・ミネも一世を風靡しました。詳しく話していると時間が足りなくなりますので次に進みます。 「とんがり帽子」川田正子、これは歌謡曲ではないのですが、当時を象徴する歌です。

昭和23年は、「湯の町エレジー」近江俊郎のヒット曲です。 「東京ブギウギ」笠置シズ子はブギの女王のニックネームを持ち、たいへん人気があり親しまれました。美空ひばりが幼い頃、笠置シズ子の歌を歌って喝采を受けました。横浜の国際劇場で人気スターになる切っ掛けをつくった人です。晩年は「あの子に私の歌を歌わせないように!」とねじ込んだこともあります。

「ブンガワン・ソロ」松田トシ。「小判鮫の唄」小畑実は人気歌手で、当時の「平凡」の男性歌手部門の一位を何年も続けて独占した人です。一時、休業してアメリカに渡りホテルの仕事をする、と聞いていましたが、成功したかどうかは不明です。晩年日本に戻ってきてカムバックしましたが、芸能界はそんなに甘くなく失敗に終わったようです。

「東京の屋根の下」灰田勝彦は鼻にかかった甘い歌声で魅了させました。ハワイ生まれの江戸っ子で、江戸っ子顔負けの気っ風の良さで人気を博しました。


昭和24年は、「トンコ節」久保幸江・楠繁夫、「青い山脈」藤山一郎・奈良光枝、「別れのタンゴ」高峰三枝子、「銀座カンカン娘」高峰秀子、「長崎の鐘」藤山一郎、「玄海ブルース」田端義夫などで、当時を代表する歌手が名を連ねております。青い山脈が流行った頃は、私はまだ2歳でしたからリアルタイムでは映画を観たことはないのですが、この頃から日本も段々と明るくなってきましたので、皆さんの中には楽しんで映画を観られた方も多いと思います。

昭和25年、「イヨマンテの夜」伊藤久男、とても声量があり、特に軍歌が得意でした。「暁に祈る」は今聞いても何度聞いても飽きません。たいへん歌の上手い、男っぽい歌手で人気がありました。「イヨマンテの夜」はアイヌの「熊祭り」を歌ったものです。後に井沢八郎が「北海の満月」を歌いましたが、伊藤の迫力にかないませんでした。

「水色のワルツ」二葉あき子、独特のムードのある人でした。 「ボタンとリボン」池真理子、この頃から外国の新しい歌が入ってきました。トップを切ったのが池真理子で、功績がたいへんある人だと思います。 「買物ブギ」笠置シズ子、この頃までが笠置シズ子の全盛期でした。 「東京キッド」美空ひばり、ここにヤッと昭和の歌姫、御存知美空ひばりが登場します。


昭和26年、「ミネソタの卵売り」暁テル子、「私は街の子」美空ひばり、 「江の島悲歌」菅原都々子、この人は作曲家の古賀政男の養女として歌の道に進みました。 「高原の駅よさようなら」小畑実、「野球小僧」灰田勝彦、この頃は、前年にセ・パ両リーグに分裂してプロ野球の人気が高まりました。

「憧れの郵便馬車」岡本敦郎、歌手になる前は中学校の音楽の先生でした。非常に折り目正しい方で、今でもたまにテレビにも出ます。好感の持てる歌手です。 この年にNHK「紅白歌合戦」第一回が始まりました。「桑港のチャイナタウン」(渡辺はま子)、「長崎の鐘」(藤山一郎)。二人がトリを歌っております。

昭和27年、「別れの磯千鳥」近江俊郎、この頃まだ人気がありました。「テネシー・ワルツ」江利チエミ、「リンゴ追分」美空ひばり、三人娘のうち二人が揃いました。「山のけむり」伊藤久男、哀調を帯びた歌を得意としています。最近は、舞台で里見浩太郎が伊藤久男の歌を歌っています。あとは「ゲイシャ・ワルツ」神楽坂はん子、「お祭りマンボ」美空ひばりなどです。 紅白歌合戦では前年同様、「桑港のチャイナタウン(渡辺はま子)、オリンピックの歌(藤山一郎)です。この年の最後に「赤いランプの終列車」春日八郎が顔を出します。

 昭和28年、歌う映画スター・鶴田浩二「ハワイの夜」、「街のサンドイッチマン」鶴田浩二、「ハワイの夜」は岸恵子と共演して当時人気がありました。 「君の名は」織井茂子、NHKのラジオドラマで、「放送が始まると女湯が空になる」、という伝説が生まれましたが、実際はどうだったのでしょうか?ある人が仕掛け、こういうエピソードをつくり、益々人気が出ました。

「思い出のワルツ」雪村いづみ、これで三人娘が揃いました。「毒消しゃいらんかね」宮城まり子、「花の三度笠」小畑実、この頃、まだ人気がありました。 紅白歌合戦は、1月に「マロニエの木陰」松島詩子、東京ラプソディ」藤山一郎、この年だけは変則的で、12月には、また、2回目の紅白歌合戦「あゝモンテンルパの夜は更けて」(渡辺はま子)、「知らない町に雨が降る」(真木不二夫)が行われました。


  昭和29年、「真室川ブギ」林伊佐緒、作曲家としても良い歌を沢山作曲しています。「ダンスパーティの夜」などヒット曲も多く、私が中学生時代、大人気であった藤田まことの「てなもんや三度笠」の主題歌の作曲も林伊佐緒でした。

「高原列車は行く」岡本敦郎、「青いカナリヤ」雪村いづみ、「愛の賛歌」旗照男、「吹けば飛ぶよな」若原一郎、「お富さん」春日八郎、春日は本当は歌う予定がなかったのです。キングレコードの大先輩・岡晴夫の予定でしたが、岡晴夫が直前にキングレコードからマーキュリーレコードに移籍したために新人の春日八郎にまわってきて大ヒットしました。子供でも知らない子はいなかったくらい有名でした。春日八郎はこの歌は好きでなかったのですが、会社の命令で止むを得ず歌ったものです。 紅白歌合戦は、東京の薔薇(渡辺はま子)、石狩エレジー(霧島昇)、この年、映画では「七人の侍」「二十四の瞳」が大ヒットしました。「ゴジラ」も封切されました。日本映画がこれから全盛期を迎える年でもあったようです。


昭和30年に入りますと、「白鷺三味線」高田浩吉、映画では御存知戦前からの大スターです。いろんなヒット曲があります。「伊豆の佐太郎」など映画でも観たことがあります。歌う映画スターではトップクラスでした。この人の弟子が鶴田浩二です。浜松の出身ですが、高田浩吉が巡業で浜松に来た時、楽屋に押しかけ弟子入りを志願しました。芸名も高田浩吉から二字をもらい、鶴田浩二としました。本当は「高(たか)」からヒントを得て「鷹田」を名乗りたかったのですが、恐れ多くて「鶴田」にしました。

高田浩吉は非常に規則正しい人で、どんな映画や巡業に出て遅くても毎晩酒は一合で止める、食事は決まった時間に三度三度摂る、芸能人としては珍しい存在でした。ある胃腸の弱い人が高田浩吉と一緒に巡業に出かけましたが、1ヶ月経って東京に戻った時はすっかり良くなっていた、という話もあります。 「この世の花」島倉千代子、「田舎のバスで」中村メイ子、「おんな船頭唄」三橋美智也、「逢いたかったぜ」岡晴夫などがあります。

「東京アンナ」大津美子は東海の美空ひばりと言われており、デビュー前から歌の上手な少女でした。人気を得ておりました。愛知県豊橋の料亭の娘として生まれました。一時、くも膜下出血で倒れ、再起不能かといわれましたが、奇跡的に復活を果たし、その後、元気でコンサート活動を行っています。 この年、石原慎太郎が「太陽の季節」でデビューしました。昭和30年に書き、翌年芥川賞に輝きました。


昭和31年は「若いお巡りさん」曽根史郎、たいへんヒットし、日活で映画化されました。劇場でも曽根史郎が警官の服装で歌い、そのまま表へ出ても本物の警官が敬礼をした、という話もあります。歌謡曲の歌詞は良く言えば面白い、悪く言えば少し変な箇所があります。若いお巡りさんの4番の歌詞ですが、 「……もしもし タバコをください お嬢さん 今日は 非番の日曜日 職務尋問 警棒忘れ あなたとゆっくり 遊びたい 鎌倉あたりは どうでしょか 浜辺のロマンス パトロール…」、 警官がタバコ屋の娘を口説いている光景です。公務員が娘を軟派していて、よく問題にならなかったものです。一世を風靡したユーモラスな歌でした。

「好きだった」鶴田浩二、「ケ・セラ・セラ」ペギー葉山、ドリス・デーが歌ってヒットしました。この頃からアメリカの歌が徐々に日本に入ってきました。 「ああダムの町」三浦洸一、今でもたまにテレビに出てきます。神奈川県三浦半島の出身で、芸名の由来です。お寺の住職の子息で、律儀正しい歌い方です。東洋音楽学校出身で歌唱力も定評があります。

「男のブルース」三船浩、この頃から低音の魅力がブームになりました。フランク永井、少し後になって水原弘などが出てきました。低音の魅力をもじって、牧伸二が「低脳の魅力」をキャッチフレーズに売り出しました。 「ここに幸あれ」大津美子、結婚式の定番です。 「哀愁列車」三橋美智也、この頃から怒涛のように歌謡曲の黄金時代を代表する歌が流れてきました。


昭和32年になりますと、「逢いたいなア あの人に」島倉千代子、昭和29年「この世の花」でデビューしましたが、この歌は初代コロムビア・ローズが歌う予定でした。当時は人気歌手が映画に出るのが流行っていました。コロムビア・ローズが東京を1ヶ月離れて全国興行に出ていました。レコーディングに間に合わず、新人の島倉千代子を起用しました。松竹映画で「この世の花」の製作に入っており、主題歌も併せて発表しなければいけならなかったのです。島倉千代子はこの歌のお陰で人気歌手の仲間入りをしました。

「おいら 炭鉱夫」三橋美智也、「東京午前3時」フランク永井、「ごめんよかんべんナ」春日八郎、「青春サイクリング」小坂一也、「港町十三番地」美空ひばり、「船方さんよ」三波春夫、「喜びも悲しみも幾年月」若山彰、「有楽町で逢いましょう」フランク永井、「十代の恋よ さようなら」神戸一郎、「錆たナイフ」石原裕次郎などが続きました。


昭和33年、「嵐を呼ぶ男」石原裕次郎、人気絶頂、映画館に行かなかった人でもこの人の名前は知っていました。当時、この映画を上映した映画館は、超満員でドアーを閉めないで入れるだけ入れて上映しました。当然ドアーを開けっぱなしで上映しているので、「嵐を呼ぶ男」の歌が始まると表に聞こえてきます。映画を見ない人でもこの歌を覚えてしまいました。時代を象徴する出来事でした。

「銀座九丁目水の上」神戸一郎、「夜が笑っている」織井茂子、「星はなんでも知っている」平尾正晃、「お〜い中村君」若原一郎、大ヒットしました。「こいさんのラブコール」フランク永井、「無法松の一生」村田英雄、「からたち日記」島倉千代子、「赤い夕陽の古郷」三橋美智也、「ダイナマイトが150屯」小林旭、「銀座の蝶」大津美子、「西銀座駅前」フランク永井、代表的なヒット曲です。

ここで代表的な歌謡曲の一部を聴く

※無法松の一生 村田英雄
※上海帰りのリル 津村謙
※赤いランプの終列車 春日八郎


津村謙 大正12年12月12日生まれ、昭和36年11月28日自宅の車庫で一酸化中毒死、非業の死を遂げました。もっと長生きすればヒット曲も沢山出たことでしょう。残念です。「上海帰りのリル」は非常にヒットしました。渡久地政信の第1号のヒット曲です。その後、「待ちましょう」「お富さん」「吹けば飛ぶよな」など限りなくヒット曲を生み出しました。

三波春夫と村田英雄の関係
永遠のライバルと世間では言われていますが、果たしてどうなのでしょう?人気を煽るための演出だったのでしょうか?三波春夫は大正12年7月19日生まれ、新潟県出身。村田英雄は昭和4年1月17日生まれ、佐賀県出身です。

年齢は三波春夫が上なのですが、浪曲界に入ったのは村田英雄で5歳の時、酒井雲に弟子入りしました。従って芸能界入りは村田英雄が早く周囲が、ライバル、ライバルと煽ったものと思われます。

村田英雄の芸名は酒井雲坊と名乗り舞台に上がりました。新人ですから足袋が買えず、裸足の足に墨を塗って高座に上がったようです。昭和26年に上京して古賀政男に見出され、歌謡曲に転向しました。昭和34年に「人生劇場」が大ヒットして一流歌手の仲間入りをしました。だだ、人生劇場は村田英雄のオリジナルではないので、本人は自分のオリジナル曲を出したい思いが強かったようです。この歌は楠繁夫が昭和13年にヒットさせたものです。

 「無法松の一生」は昭和38年にミリオンセラーになりました。「王将」も大ヒットし、レコードの売上げも150万枚突破しました。これで不動の地位を築きました。その後、三橋美智也・春日八郎及び村田英雄の3人は晩年に「三人の会」をつくり、定期的にコンサートを行いました。村田英雄は晩年、糖尿病で大酒飲みのこともあって、足を切断し非常に気の毒でした。

 一方、三波春夫は南条文若と云う芸名で浪曲界へデビューしました。父親が事業に失敗して、一旗あげるということで上京しました。米屋や魚河岸で働いて昭和14年に日本浪曲学校を出てから浪曲の修行をしました。

歌謡曲全盛時代に入り、昭和32年に三波春夫に改名して、「メノコ船頭さん」でデビューしましたが、あまりヒットしませんでした。次に出した「船方さんよ」が大ヒットして歌謡曲の一流歌手として認知されました。 その後、「チャンチキおけさ」などを出し、名セリフと美声で一世を風靡しました。「お客様は神様です」のキャッチフレーズは、本人が作ったのか、周りの人が作ったのかは不明ですが、これで益々人気が出ました。

この人の凄いところは歌舞伎座を1ヶ月間借り切って興行したことです。いまは普通になりましたが、その当時は、歌舞伎俳優からは「歌手に1ヶ月も貸すなんてとんでもない」と猛反対がありました。しかし、成功したお陰で後輩の歌手、美空ひばりや北島三郎なども座長公演が出来るようになりました。この人の成功がなければ、その後の歌手の1ヶ月公演は多分出来なかったと言われています。

「東京五輪音頭」は昭和39年の東京オリンピックのテーマソングです。その後、1970年の大阪万博の「世界の国からコンニチワ」を歌い、この2曲がヒットして国民的歌手のレッテルを貼られるようになりました。 晩年は「聖徳太子憲法は生きている」という本も書き、文筆家としても活躍いたしました。長男は三波豊和といい映画俳優ですが、親ほどの知名度はなく、それでも元気でやっているようです。




第2部昭和を駆け抜けた大相撲黄金時代の英雄たち

4年4ヶ月ぶりに横綱が誕生しました。これまでは朝青龍一人の横綱から二人横綱になり、多少活気が出て相撲ファンとしては嬉しい状況になりました。ちなみに、大関の月給は234万7千円、横綱になりますと282万円で50万円くらい多くなります。本場所中の特別手当ても15万円から20万円に増えます。付人は大関の場合5人ですが、横綱になりますと10人になり倍増します。

白鵬が所属している宮城野部屋は小さいので一門から借りないと付人は足りないと思います。付人の給料は、幕下以下は養成費として相撲協会から親方宛に支給されており、本人には小遣い程度しか支給されていません。昔も今も関取になるまでは大部屋住まいですが、最近は入門する子ども達も自宅で室育ちのため、個室を要求する者もいます。

白鵬は第69代横綱になりますが、現在の総理大臣は安倍さんで第90代、比較は難しいですが、総理大臣になるよりも数字的に難しいです。 これから戦後の横綱のエピソードを簡単にお話いたします。 戦後の第1号は第39代前田山英五郎(高砂)愛媛県出身で、親方になってから力士高見山をハワイからスカウトし、一人前にしました。横綱になったのが昭和22年11月、引退が24年10月です。優勝は1回で、横綱としての実績はパッとしませんが、双葉山との死闘で根性の横綱として印象に残っています。

新十両を前にして右腕が悪性の病気に罹り、当時ペニシリンがなく、相撲人生を諦めなければならない状況になりましたが、慶応病院の前田和三郎博士の執刀で治り、出世街道を歩みました。この時の恩義を大事にして、博士の前田の名を貰って前田山と名付けました。それまでは出身地の佐田岬を名乗っていました。

引退は大阪場所を休場して東京に戻り、当時サンフランシスコシールズが来ており、休場中ですから部屋で静養もしくは病院へ入院していなければならないのに、野球が好きで、それで後楽園球場(現東京ドーム)で試合を観戦してしまいました。観戦程度ならそれ程話題にはならなかったのですが、相手チームのオドール監督と握手している写真が大々的に報道され、協会の幹部を怒らせてしまいました。これが引退の真相のようです。

次が第40代東富士欽壱(富士ヶ根―高砂)東京都出身の江戸っ子で、あっさりした横綱でした。全盛期は鼻息が荒く、桟敷席まで聞こえてきたことで有名です。羽黒山・照国、戦前派の横綱の後を支えて戦後の一時期を支えました。 昭和26年9月場所では、吉葉山との「引き分け預り」という名勝負が残っています。二番取り直しして、それも決着がつかず、東富士は風邪を引き40℃の熱を出し、相撲どころではなかったのですが、優勝をかけた一番でしたので無理をして取りました。相手の吉葉山も全力を出し切り、東富士の「傷み負け」となるところでした。しかし、吉葉山は先輩をたて、自分ももう取れないということで、両者預りという形でケリをつけました。

横綱を引退した後はプロレスラーに転向し、力道山らと一緒に活躍しましたが、あまり成功はしませんでした。年齢的な問題もありました。太鼓腹で有名で、劇的に減量したのが良くなかったのかも知れません。体重を落とさず、筋肉だけを付けてデビューした方が多分成功したのではないかと思っています。 プロレスを止めてからは民放テレビ局で大相撲の解説で活躍しました。周りから煽てられて、多分消費者金融会社の社長をやっていましたが、長続きせず直ぐに倒産してしまいました。晩年ガンに侵され若死にしました。

第41代横綱には千代の山雅信(出羽海)です。優勝はあまり多くありません。北海道の出身です。6回です。この人の実力からすれば、10回以上あっても不思議ではありません。引退してからは、北の富士や千代の富士をスカウトし横綱に育てました。功績は大です。横綱になって一時成績が悪い時がありました。真面目な人なので、横綱を返上したいと申し出ました。後にも先にも横綱返上問題で話題になった人は千代の山以外おりません。協会からも慰留され、その後、何回か優勝し引退しました。

第42代横綱は鏡里喜代治(粂川―双葉山―時津風)です。青森県出身です。東北生まれのため記者のインタビューの答で、非常に言葉が分からなかったというエピソードがあります。美しい土俵入りとか太鼓腹が有名でした。安定感のある横綱でしたが、地味なため人気が出ませんでした。 千代の山とは15勝8敗、後輩の朝潮には15勝7敗、吉葉山には10勝11敗、栃錦に16勝14敗、若乃花に15勝9敗、圧倒的に勝っています。強い割には人気が無かったのは何でしょうか?人間味はあったと思いますが、性格的に地味な人であったため印象が薄いです。

第43代は吉葉山潤之輔(高島)北海道出身です。非常に人気がありました。昭和29年1月場所に初優勝しましたが、千秋楽に大雪が降りました。幕下から十両に上がる前―相撲が一番強くなる時―に兵隊にとられました。兵隊では足に大怪我をし、復員してから横綱まで上りつめましたが、回り道したため年齢的に高く、悲運な横綱でした。美貌横綱で名高い、映画でいうなら市川歌右衛門のような人でした。

吉葉山になる前は北糖山(ホクトウザン)と名乗っていました。入門前は北海道の製糖会社に勤めていました。北糖山から吉葉山に改名したのは、悪性の病気に罹ったからです。命を落とす寸前でした。前田山の場合は相撲を辞めるかどうかの瀬戸際だったのですが、吉葉山の場合はもっと重病でした。吉葉博士に巡り会い、無事治り、順調に出世して吉葉山として横綱になりました。その恩義を厚く感じて、吉葉の文字をとって四股名としました。たいへん心温まるエピソードです。

吉葉山は親方になってから割りと恵まれ、栃錦が理事長の頃、巡業部長まで出世しました。巡業部長は相撲協会のナンバー2です。

第44代は栃錦清隆(春日野)です。後年、協会の理事長として手腕を振るいます。若乃花と一世を風靡した人です。身体は小さいが目つきが鋭く、負けても負けても相手に飛び掛かっていく、負けん気の強い根性ある人でした。やはり江戸っ子ですから非常にアッサリしたところがありました。

横綱になってからある時、後援者からタンマリご祝儀を貰いました。当時ではたいへんな金額だったようです。普通5千円とか1万円貰えばたいへんな時代でしたので、本人も1万円と思い暫らく神棚に上げていたようですが、後で開けてみたら10万円入っていて、ラーメンが1杯30円くらいの時代ですから、当時の10万円は大金でした。普通ですとビックリして自分で使うのですが、豪放磊落の人ですから新弟子やお供を連れて飲みに行き一晩で使ってしまった、というエピソードがあります。

栃錦の銅像がJR総武線小岩駅に建っていますので、機会があったら訪ねて見てください。小岩の出身で、実家は傘屋をやっていました。 引退してからも順調に協会でも出世して理事長にまで上りつめました。理事長になると自分の一門の親方を理事にします。そうすると不協和音が出て上手く運営出来ないのですが、他の一門宮城野の吉葉山をナンバー2にしたり、自分の同門でない親方も引き立ててバランスを上手く取りました。

自分の後にはライバルの若乃花を後継に選び、友情以上のものをつくりだす、美談として知られています。 第45代は名力士若乃花幹士(二所ノ関―芝田山―花篭)ですが、残念ながら時間の関係で次回にまわします。

付 録

終わり

(文責:桑垣 俊宏)


会場撮影 橋本 曜  HTML制作 上野治子