神田雑学大学 平成19年6月29日 講座No364

『本郷の坂道』を撮った写真集 古屋行男

アクセント画像素材 がびょう
目次

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坂道のなりたち
坂道の名前
坂道の写真
私の大好きな坂の町(ふるさと)
質疑応答




講師の古屋行男さん1.坂道のなりたち
台地と谷(川)からなる変化に富んだ町、坂の町本郷で育ち坂道の写真を撮り続けています古屋です。よろしくお願いします。

初めに坂道のなりたちですが、資料−1を見てください。武蔵野台地の東端になる江戸は荒川と多摩川の間にあり、西北にある井の頭、善福寺、妙正寺,石神井池などの遊水地からの流れが台地に谷をきざみ起伏に富んだ地形となっています。

細部を見ますと台地末端からも湧水があり、その細流があつまって台地をおかして谷を形成しております。たとえて言うならば、人間の手を広げた形に似た地形をしております。つまり手の甲が武蔵野で指と指の間は川や湧水で浸食されて出来た谷間の低い土地になり、指の部分は武蔵野が舌状に残った高い台地になります。

写真の大部分はわたしが育った本郷台地を中心に低い土地と高い台地を結ぶ、毎日の生活に利用されている坂道です。お手元の資料―1.2をごらんください。右から藍染川、千川、弦巻川、江戸川と低地には川が流れていて、多くの橋がありましたが、いまは江戸川以外は全て暗渠となり、現在は道路となって橋の無い川が道路の下を流れています。

資料ー1

資料―1の地図のグレーの濃い部分は台地と低い土地の境界を表し、この境界線上に傾斜地や崖があり坂道があります。人が暮らしだしたときから、台地と低い土地を結ぶ坂道ができあがったと思います。またこの境界線上は水のはける湧水があり、水を求めてその線上の台地に人々が住んでいた遺跡が発見されています。

資料ー2

資料ー3

遺跡人たちは武蔵野へ動植物を獲りに行き、東京湾へは漁に、坂道を日々利用していたであろうし、交易品をはこぶ人も坂道を上り下りしていたでしょう。今と風景は違っても、坂道を歩くとき、出逢う人を思う心や、五感を通して感じることは変らないかと思います。
資料―3、低い土地は東京湾が近くにあったことが遺跡の貝塚や、地名からもわかります。たとえば汐見坂、鮫干坂、蠣殻坂、浅利坂などの坂名でもわかります。また春日町にある北野神社(牛天神)縁起に北野神社前の入江にある松に舟をつなぎ風待ちをしたとあります。

坂道の名前
私が育った本郷では行き先をたずねるとき、住所より坂道の名前をいえばすぐに道筋を説明してくれます。この坂道の名前は昔から坂道を利用する人や、土地の人が名付け親で坂の上と下では地形が違うように、同じ坂道でもいくつもの名前があります。特に江戸時代につけられた坂名は実数304に対して別名が218で平均2〜3の別名がありました。

本郷の団子坂には千駄木坂、汐見坂、七面坂、小石川の御殿坂には御殿表門坂、富士見坂、大坂というように四つもの名前がありました。いずれも土地っ子の心情がよく出て、地域性や歴史、そこに住んだ人々の生活が見えてきます。坂名の由来は社寺や大名、旗本などの武家屋敷名のものが最も多くあります。これは知名度が高く、所在がよくわかり、移動がないためで、文京区で名前がある115の内40がこれにあたります。大名屋敷からは壱岐坂、播磨坂などです。社寺から湯島天神坂・女坂、善光寺坂などが有名です。

次が周辺の環境からの命名が35あります。菊坂、茗荷坂、樹木谷坂などです。
そして伝承・伝説からが19、鐙坂、妻恋坂、野狐坂などです。坂の地形からの命名が11、たとえば急坂を胸突坂、立爪坂、はしご坂、そして人の名前からは7つ、実盛坂、服部坂、団平坂、そして坂の上からの景観からの命名が3、富士見坂、潮見坂、夕やけだんだん、などで合計115個になります。

時代別にみると江戸時代の坂名が88%、明治時代が6%、大正時代が2%。昭和になってからの名前が4%となっていますが、それ以上に多いのが無名の坂道です。歩きながら坂道の変化と心象風景を思いながら名前を考えるのもおもしろいです。写真で☆マークがあるものは私が名前を付けた坂名です。

土地柄が山の手でもない下町でもない境界人といっていいのか、住んでいる人たちも実に様々です。そんな変化にとんだスリリングな町に育ったせいか平らな土地に行くと同じ町並みが続いているように思えてとまどいます。梅雨がうっとうしいこのごろですが、文人久保田万太郎が湯島天神の下に住んでいて、「梅雨明けや さて 女坂 男坂」と詠んでいます。梅雨空があけて、どちらの坂を上がって青空を感じようか。万太郎の気持ちがわかります。

2.坂道の写真
写真の説明はしないで画面を見ていただきそれぞれに感じていただければ良いのですが、坂の町とそこに暮らす人を知ってもらいたいのでできるだけ説明をしていきます。全ての写真を掲載することはホームページの都合で出来ませんでした。太字の番号以外は掲載しておりません。

1. ☆一人坂 文京区白山2丁目 2000年

鷲坂 2.鷺坂 文京区小日向2丁目 2004年
おじいちゃんとうっとうしい梅雨が明けた久世坂の急な坂道を上がる。江戸時代下総国久世大和守の屋敷が崖上にあって、土地の人は今も久世山と呼んでいます。昭和の時代、佐藤春夫や堀口大学らがこの付近に住んでいて山城国の久世の鷺坂と結びつけて名付けた昭和の坂名です。

3.夕やけだんだん 荒川区西日暮里3丁目 2005年
私の大好きな坂道です。本郷台地へ夕日がしずむ空の色が変るころ、坂上から急ぎ足で帰る人や谷中銀座で買い物を終えて上る人たちを見ていると時間を忘れていきます。

夕焼けだんだん 3. 夕やけだんだん 2005年
上りは自転車が重い。

4.夕やけだんだん 2005年
ネコが主役

5. ☆わかれ坂 文京区本郷4丁目 2006年
しっかりおねえちゃんと 坂下は5差路

7. 富士見坂 豊島区高田1丁目 2000年
富士山が見えるのは細い路地の角だと教えてくれた坂道と直角の路地があり、その方向が西で坂上から見ても富士山は見えないと教えてくれました。

8. おばけ階段 文京区根津1丁目 2000年
子供達が階段数を当てっこして遊ぶ階段坂。最後の段差が少なく上りと下りでは数え間違いをしたことから、この名が付きました。現在は坂道が広がり最後の段差もなくなり、おばけ階段の表示もなくなりました。

9. 切支丹坂 文京区春日2丁目 2002年
春近し。たんぽぽを持って下ってきたので花を撮らせてくださいとお願いしました。頭の中では桜の花がちっていましたので、花びらが下りてくる人のかたのあたりにのってくれないかと思っていました。

10.切支丹坂 少女 2000年
11.切支丹坂 たのしい帰校 2000年

12. ☆花見坂 文京区本郷4丁目 2000年
なかよし兄弟

13. ☆清和坂 文京区本郷4丁目
ネコをつれた少女

花見坂 14.☆花見坂 2000年
この坂がある右京山は富田常雄の小説「姿三四郎」昭和17年の主人公三四郎 が果し合いをする右京が原のモデルになった場所です。町会の長老に聞くと、

かっての右京山は赤土のハゲ山ですべって遊べば泥んこになって家に帰ると 親にこっぴどく叱られたことを懐かしそうに話してくれました。私の父、私、 娘も遊んできたし、そして2歳の孫も遊ぶだろう右京山は、町の子供たちにと って、昔も今も走りまわり歓声をあげられるワクワクする場所です。

15.善光寺坂 文京区小石川3丁目 2004年
慈眼院より眺める

16.鷺坂
夏のあつい日、家族で鷺坂をのぼっていきました。

17.駿河台男坂 帰校 2000年
急な坂道を明大付属高生が御茶ノ水駅へ上がる。

18.曙坂 文京区西片2丁目 2000年
急いで上る自転車の人
鶏声暁に時を告げることから名付けられた縁起の良い坂名です。近くの町で金 の鶏を掘り出した伝承から鶏声と曙をかけた坂名です。

19.S坂 (権現坂)文京区根津1丁目 2001年
森鴎外の小説「青年」明治43年の中で「Sの字をぞんざいに書いたように屈 曲している坂」と書かれており、この小説を読んだ人たちが、「S坂」と好んで 呼んだ坂道です。写真の坂上の家は明治時代からありました。

20.炭団坂 文京区本郷4丁目 2000年
布団干し日和

21.夕やけだんだん 荒川区西日暮里3丁目 2000年

22.ねずみ坂 文京区音羽1丁目 2000年
車も通れる鼠坂。江戸時代のころは細長く狭くねずみの通るような坂道でした。

23.☆葛坂 港区三田4丁目 2001年
清久寺前

24.炭団坂 文京区本郷4丁目 2001年
年寄りの話では勾配は東京一で雨のときなどにはよく転び落ちて泥まみれに なり、炭団のようになるので名付けられたといいます。坂上の崖淵の家には正 岡子規が住んでいたそうです。

25.蛍坂へあがる横坂 台東区谷中5丁目 2005年
横坂は急坂で遠回りすればゆるやかな坂があるのになーと少女たちが心配そ うにしています。かって坂下にあった清水の沢は蛍の名所だったことから蛍坂 と呼ばれていて、蛍は他所よりは大きくて光も明るい蛍が生息していたそうで す。

26.☆峠坂 文京区本郷4丁目 2004年
坂道の右側の傾斜地は私が子供のころから利用されずに空き地になっていま した。その側道に美しい吉野桜が咲く桜坂がありかっては春になると遠回りし ても歩いた坂道です。

27.鐙坂 文京区本郷4丁目 2000年

28.夕やけだんだん 2005年
ここも右側にビルが建設中で風景が変ります。

29.☆一葉坂 文京区本郷4丁目 2000年
樋口一葉が利用した露地の共同井戸が今も現役で坂の下にあります。

左)日無坂、(右)不死身坂 30.左)日無坂 文京区目白台 2004年
自転車で上がるには大変な階段坂、昔は狭くて樹木におおわれ一人がやっと通 れる坂道でした。

(右)富士見坂 豊島区高田1丁目 2004年
自転車で下ると全身に風を感じられる坂道で明治百年の富士見坂の 標識を立 てた昭和の人々によって付けられた坂名

31.鐙坂(あぶみざか) 2003年
回覧板を届ける少女、高麗の人が武蔵に移って以来このあたりで代々武蔵鐙を作っていたことから 名付けられたといわれています。

32.鷺坂 日傘 2000年

33.鷺坂 少年 2000年

34.異人坂 文京区弥生2丁目 2000年
明治時代坂上に東京大学の外国人教師の官舎があり、外国人がこの坂を行き来 したことから誰いうことなく異人坂と呼ばれるようになりました。



異人坂

35.☆切支丹坂 2003年
1643年(寛永20年)の鎖国令後、キリスト教宣教師ジョセフ・カウロー 一行は九州から江戸送りになり、この坂下の反対側の坂上にあった切支丹屋敷 の牢に入れられました。本来はその切支丹屋敷へ上がる坂を切支丹坂と呼びま すが、雰囲気はこの坂のほうがあります。改撰江戸志にも切支丹屋敷へゆく坂 なれば俗に切支丹坂というとあり庚申坂の坂名が本当の坂名です。「とぼとぼと老宣教師のぼりくる 春の暮れがたの切支丹坂」(金子董園)

36.鐙坂 残暑 2000年

37.七面坂 荒川区 西日暮里3丁目 2006年
ガレージセールの少女、坂上の北側にある日蓮宗延命院の七面堂にちなんで付けられた坂名です。

38.炭団坂上 文京区本郷4丁目 2000年
桜木町会祭礼 真砂上町会

39.赤字坂 台東区谷中2丁目 2001年
お諏訪様祭礼、坂上に住んでいた渡辺銀行の渡辺治右衛門が昭和2年の財界恐 慌で破産したことにより土地の人が呼んだ坂名となっています。渡辺氏も歩 いただろう夢の跡坂です。坂上を赤字ガ原といっていたことや、赤字銀行が近 くにあって、同じく破産しており、誰いうことなく決まった坂名か?

菊坂 40.菊坂 文京区 本郷5丁目(旧菊坂町)2001年
江戸時代、坂上一面に菊畑があったことから名付けられました。写真は樋口一 葉が夜あわただしく走って利用した質屋、伊勢屋前。祭りが終わると秋です。 一葉がわが屋の衣装はお倉に入れてあると話したことが伝わっています。

41.一葉坂 文京区本郷4丁目 2006年
日だまりの露地、一葉の井戸が左下にあります。



胸突坂 42.胸突坂 文京区関口2丁目 2000年
なんとなく人恋しい日、名前のとおり険しい坂道なので中ほどに足休めができ るベンチがあります。

43.三浦坂 台東区谷中2丁目 2002年
臨江寺より塀を越えて家路につくねんねこ屋の猫(猫グッズのお店)

44.駿河台女坂 千代田区神田駿河台2丁目 2005年
文化学院生の校外授業


45.鳥尾坂 文京区関口3丁目 2000年

46.湯島天神坂 文京区湯島3丁目 2000年
一人で帰宅するタヌキ?

47.横浜 本郷とはちがった雰囲気があります。

48.☆一人坂 文京区白山1丁目 2003年

49.☆井戸坂 台東区谷中1丁目 2000年
井戸修理 上野の森のめぐみの水
東京の地下はさばく、雨水が入らず蒸発もできず

50.☆質屋坂 文京区本郷4丁目 2004年
私の父をはじめ家族みんなが知っている明治生まれの隣のおばあちゃん。質屋 坂と呼ぶきっかけとなった元質屋さんの玄関前で

51.胸突坂 文京区関口2丁目 2001年
句会。関口芭蕉庵。松尾芭蕉がここに居住して神田上水工事にかかわっていま した。坂上をむかし椿山(つばきやま)といい、現在椿山荘があります。

52.神田明神男坂 千代田区外神田2丁目 2001年元旦

53.☆一葉坂 2006年

希望坂 54.☆希望坂 荒川区西日暮里2丁目2005年
第一日暮里小学校前で雪合戦。東京の雪はすぐとけてしまい、雪集めが大変で す。

55.富士見坂 荒川区西日暮里3丁目 2005年
夕日においかけられて。東京23区で富士山が見える坂はここだけになりまし た。

56.湯島天神女坂 文京区湯島3丁目 2005年
よく当たると評判の易者さん。梅咲くや湯島の社頭春浅し(高浜虚子)

57.鐙坂下 2004年

58.播磨坂 文京区小石川4丁目 2006年
常陸国松平播磨守上屋敷があったことから名付けられました。1978年(昭和 53年)地元の人たちが協力して桜の木を植え始め、今では立派な桜並木となっ ています。花見のときは鼓笛隊のパレードやイベントが企画され、それはにぎ やかな花見坂です。

播磨坂、湯島天神女坂

62.湯島天神女坂 2004年
望遠200mm

63.文京シビックセンターより本郷台地 2004年

4.私の大好きな坂の町(ふるさと)
2000年から東京文京区本郷を中心に坂道を撮り続けてきました。本郷の大通りは高層化が進み連続したビル壁が形作られ、見慣れた近代都市の大通りといった景観が、ここにも出来つつあります。一方で大通りの内側は、車が通れない坂道や狭い横丁路地が入り組み、学校や、社寺が数多くあります。また旅館や風呂屋、商店街などもあり、昔の町並みが残っています。

この内側もゆっくりではありますが、旅館や下宿屋、風呂屋がマンションに変り、木造の家やアパートがビルに建て替えられつつあります。きつい傾斜地などは、かっては利用されず眺望が広がる場所でしたが、今では大型のマンションが建設され、風景が変わってしまいました。それとともに若い人は郊外に行き、過疎化が進み、私が通った小学校も中学校も統合化されました。


講師と並べられた沢山の写真


昼間の人口は多いけれど、夜は静かな町に変わっています。そんなふうに本郷の町も変ってはいますが、色々な歴史や伝説を秘めたまま、日常の中に溶けこんでいる路地・寺院・昔からのお店などがあり、特に坂道を歩くと、出逢う人と話したり、写真を撮りたくなります。ついさっきまで歩いていた大通りでは、すれ違う人を気にもとめなかったのになぜでしょう。 この町で暮らしていた人たちや、暮らしている人たちが感じている思いは。私が体で感じ取っている思いと同じだと思っています。これからも私の好きな坂の町を大事にして、撮り続けていきます。次作の発表は私の好きな本郷を中心として昔からあるお店と人のいとなみとする予定です。

5.質疑応答
質問:さっきS坂のところだったですか、「権現坂」という名前だと言われましたが、名前はいつごろ正式に付いたのですか?
答え: 明治に開発された坂で根津権現(根津神社)から名前が付けられました。

質問:これらの坂道は立派に整備されていますがこれの整備は誰がお金を出したのですか?
答え:坂の整備はお金がかかるので表通りはともかくお役所では手がまわらなく、写真の鳥尾坂などは、平行してある鉄砲坂が急坂で人力車にしても自動車にしても急坂すぎるので、鳥尾子爵が私財を投じて坂道を開いたそうです。このことに地元の人たちは感謝して鳥尾坂とよんだ明治の坂があります。

質問:むかし駕籠屋は坂道割り増しなんてあったんですかね?
答え:江戸時代のことはわかりませんが、明治の末、坂下には「立ちん坊」とよばれる人達がいて、下町から荷物を積んで帰る車を待って荷主に車のあと押しを申し出て5銭から10銭の駄賃を得ていたとありますから、おそらくあったと思います。

質問:江戸時代は本郷一帯はどんな町だったのですか?
答え:大名屋敷が多く、中仙道ぞいに町屋がひらけていたと思います。「本郷もかねやすまでは江戸のうち」という古川柳がありますが、享保15年大火で町奉行大岡越前守は本郷3丁目から江戸城にかけての家は塗屋、土蔵造りを奨励し、屋根は瓦で葺くことを許したとあります。江戸の町並みは瓦葺きが本郷まで続き、それから先は板や茅葺の家で、境目のかねやすは大きな土蔵造りで目だっていたので川柳に詠まれたと思います。かねやすは、芝明神前の兼康と歯磨粉販売の元祖争いがあり、本郷はかねやすを仮名とする粋な判決を町奉行がしたとあります。


熱心に講義を聞く受講生


本郷は火事が多く夜いごしの金を持たないでなく、持てないほど大火がありました。昭和になり消火栓と火災報知器の普及により火事は激減しました。

質問:愛宕山は山だったのですか?
答え:鉄道唱歌にも歌われていますし、私が登っても山だと感じます。長野のひとには笑われるかもしれませんが、東京の人間には山です。ちなみに愛宕神社男坂は東京で一番の急な石段坂で、上から見るとその勾配を感じます。江戸時代間垣平九郎という人が馬であの坂を上がったという信じられない話があります。

質問:この「鐙坂」の老婦人と少女を両方写し出したテクニックは何ですか?
答え:プリントする露光時間を少女に合わせると暗部の老婦人はつぶれて見えませんので、老婦人の部分を短く、かつ印画紙の号数を少女に合わせると老婦人の部分はねむくなりますのでマルチ印画紙を使用、号数を上げています。境目はためし焼きプリントを行いバランスを取りました。

質問:写真はどこで学んだのですか?
答え:私は50歳になって始めました。現代写真研究所という写真学校に夜学で週2回、昼間は働いて通いました。若い20代の方から50代まで男女の区別なく写真の好きな人たちが通っています。

質問:カメラの機種はなんですか?
答え:私は一眼レフでなく、撮られる人にあまり威圧感を与えない、コンタックスG2レンズファインダーのカメラに広角21mmから35mmレンズを付けています。

本郷の坂道 古谷行男写真集の本質問:「夕焼けだんだん」という名前は定着しているのですか?「だんだん」という名前はよくあるのですか?
答え:定着しています。「だんだん」とついている坂名は私が知っている限りではここしかないですね。なんで「夕焼けだんだん」なのかは夕焼けの時に坂上に立つと分ります。西の空に日が沈むころメロディが流れて坂名通りの風景になります。

質問:地図には「壱岐坂」なんては載っていますが載っていない名前もある。どうやって区別されているのですか?
答え:私もわかりませんが国道の坂には代表的な坂名は付いていると思います。
地域の地図でも名前を載せていない坂もありますし、どう区別しているのか分かりません。  

質問:お話を聞いて是非行ってみたいと思ったのですが、先生の独断で3つほど挙げるとお勧めはどこですか?
答え:まず雰囲気で。1.鐙坂 2.夕焼けだんだん 3.胸突坂
そして名前で。1.鼠坂 2.切支丹坂 3.赤字坂
地形では。1.異人坂 2.鷺坂 3.坂上から右、日無坂、左、富士見坂

質問:さっきの善光寺坂のお寺で面白い話が別にあるとおっしゃった話はどんな話ですか。
答え:善光寺坂の途中に慈眼院(沢蔵寺稲荷)があります。坂上伝通院前に屋号「いなりそば」があり、380年ばかり前、伝通院の学寮に沢蔵司(たくぞうじ)という学僧がいて、よくこの店へ来てそばを食べていました。ところがある夜伝通院の極山(ごくさん)和尚の夢枕に「そもそも余は千代田城内の稲荷大明神なるが、浄土宗の法味を学び得て多年の大望をここに達せり。今より元神にかえりて永く当山を守護し云々」といって消えたという。

かねてから、沢蔵司が店に来た日は売上金のなかに木の葉のあることを不思議に思っていた主人は沢蔵司という学僧は稲荷大明神の化身であったかと驚き、その後まもなく建てられた沢蔵司稲荷へ、毎朝初そばを供え、屋号も「いなりそば」としたといいます。沢蔵司稲荷は霊窟があり、古来から白狐の穴として信仰する人があつまります。

そばやといえばやぶそばの屋号が有名ですが、これは文京区千駄木に藪下通りがあり、そこの蕎麦屋がそばにやぶをつけた元祖です。

司会:今日は有難うございました。ありがとうございました。


(拍手) 


参考文献

ぶんきょうの坂道
文京区教育委員会

文京のあゆみ
文京区教育委員会

文京区の歴史
東京ふる里文庫

文京区史跡散歩
滑w生社

文京の歴史を訪ねて
読売新聞




文責 古屋行男
写真l提供 古屋行男
会場写真撮影 橋本 曜
HTML制作 和田 節子