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平成19年7月27日 神田雑学大学定例講座NO369 



フィリッピン・戦争はまだ終わっていない 神 直子




はじめに
―――戦後世代がフィリッピンで初めて目の当たりにした戦争被害


講師の神 直子さん 神田雑学大学にお招き戴きまして、有難うございます。しかし、この席から皆様を見渡して、年配の方が多く私が講師で宜しいのか、若干の不安を覚える空間でございます。今日は皆様から、色々教えて戴きたい気持ちで参りました。

今日のテーマは「フィリッピン・戦争はまだ終わっていない」です。ビデオの中には、元日本兵の方の証言が出てきますが、恐らく皆さんはお聞きになったことがあったり、或いはご存知のことではないかと思います。皆さんは、この若い私が何故こんなことをしているのかにご興味がおありと思いますので、その辺りからお話いたします。

私たちは2000年に、二十代の大学生7人でフィリッピン(雨宮剛現青山学院大学名誉教授の主宰するスタディーツアーに参加)へ行ったのですが、そこで戦争被害者の人たちと出会いました。年配の女性から「何でお前たちフィリッピンへ来たのだ」と言われました。学校で戦争のことは習ってはいましたが、長崎・広島のことばかり。日本軍が、フィリッピンで民衆に大きな被害を与えたという実感が無いまま、スタディツアーに出かけたのです。そして現地の方から被害の様、心の苦しみを直接聞いて、戦争はまだ終わっていないことを感じました。

1.「戦後世代の私に何が出来るか」を考えました。
BRIDGE FOR PEACE 2000年には大学を卒業して、会社勤めをしていたのですが、2003年にある老人ホームで入居していた方が、死に臨んでご自身が戦場でしたこと悔やまれていたという話をある方から聞きました。戦争被害のあったフィリッピンだけでなく、

日本でも戦場の行為で悔恨の心を持った人がいることを初めて聞いたのです。おそらくそのような方が沢山おられるに違いない。その苦しみを持っている人の言葉を、フィリッピンの戦争被害を受けた人々に届けようと思って「フィリピンと日本を結ぶビデオメッセージ・プロジェクト」を立ち上げました。それを遂行するのがBRIDGE FOR PEACEです。

初めてフィリッピンを訪問したのが2000年、その後2005年に再訪しました。その目的は、日本の元軍人も色々な悩みを抱えていることを、ビデオで現地の方に伝えたいということでした。そのビデオを上映したときには、フィリッピンの皆さんに大変驚かれました。
戦後の日本は飛躍的な経済発展をして、戦争のことなどは忘れていると思っていたのでした。苦しみを与えられたフィリッピンの人々も、元日本兵の言葉を聞いて、赦すという心境になってくださった方もいらしたようでした。

2.元日本兵の方々との出会い――ゆれる想いとの対面
フィリッピンの方々も、戦後世代の若い私たちが、戦争の話を聞きたいというと不思議がるのです。電話をして趣旨を伝えても、家族以外には話せない、話すことは無いと電話をガチャンと切られるのでした。私は諦めず、お手紙を書いたりしているうちにだんだん打ち解けて、漸く話を聞くことができたりしました。

レジメに、【――ゆれる想いとの対面】と書きました。
元日本兵の方は、「最初は、戦地に赴きアジア人たちを解放するという目的があった」ということを口から泡を飛ばして語るのですが、でもその後に「あれは本当に良かったのだろうか?」と、ゆれる想いが感じられました。そのようなビデオのメッセージを持ってフィリッピンへ行き、上映会を開催することになりました。

Bridge for Peace http://www.bridgeforpeaace.jp
 インタービュー / interview 神直子のBlogから

Y.Tさん(男性86歳、海軍103軍需部、戦後自力で事業興す)
「英霊が乗り移っているような気がするんや。フィリピンに行くと、どこかで連れて帰ってくれ~と叫んでいるような気がしてな。」 そう言って、戦後行なってきた遺骨収集について熱っぽく語るY.Tさん。

「どんな死に方したか知らない。誰も知らない。一体誰がそれをやってくれるんや、と。ぼくにはそれがたまらなかった。」あと2年早く終戦を迎えていれば、国民がどれほど助かったか。何ではようやめなかったんか…と肩を落とした。 これまでフィリピンに行った回数は300回近い。 その都度、何らかの遺品や遺骨が出てくる。その活動も一筋縄ではいかず、数々の苦労があったらしい。

現地の協力を得るためにも、反日感情が湧き上がらぬよう、幼稚園にオルガンを寄付したり、様々な支援活動を独自に行なってきている。政府の援助やODAが決して届かない地域での草の根の活動である。 誰もやってくれないから自分でやる、と決意したY.Tさん。 同じ体験をした同世代に向けたメッセージをくださった。

「軍隊の組織は逃亡したり、命令に背けば銃殺というひどい状態だった。お互い戦争だから、非戦闘員も殺す。それはある意味仕方のないことかもしれん。だから、自分の国がされた話ばっかりするのではなく、悪いことも含めて、体験したこと伝えなあかん!」

T.Tさん(女性83歳、婚約者を戦争で亡くした)

インタビューに証言している現地の婦人 私のこのプロジェクトは、バーバラさんという結婚後すぐに旦那さんを日本兵に連れ去られ、その悲しみを58年間、胸の奥底にずっと携えて生きてこざるを得なかった女性に出会ったことから始まりました。 ある時、バーバラさんと同じような苦しみを味わっている日本人女性もいるのではないか…と思い、T.Tさんと巡り会いました。

このプロジェクトの趣旨は、フィリピンの方へのメッセージを頂くという目的で進めていたのですが、今回は改めて戦争は双方にとって苦しみをもたらす惨いものである、と心に刻むことができました。

T.Tさんの婚約者であったKさんは35軍司令部の大尉でした。戦後待てど暮らせど帰国しないKさんのことを、軍に問い合わせたところ、致命傷を負ったので兵隊2人をつけて洞窟に置いてきた、というのです。戦友も置いてきたという負い目があるからか、口を閉ざしたままそれ以上のことは話してくれませんでした。それなら、自分の目で見てこようと何度かその洞窟を探しに戦後フィリピンへ渡ったというT.Tさん。戦後60年、未だにどこで亡くなったのかわかっていません。 「待ってたのに…」と嗚咽すると、緊張の糸が切れてしまったように細い身体を小刻みに揺らして涙を流されました。 戦後数年経って両親に進められて一度は結婚したけれど、娘を身ごもって半年後には離婚したというT.Tさん。

「戦後は遠くなったとか、すでに終わったとか言われます。しかし、日々悲しみ、怨念の炎を燃やし続けております残された者にとって、どうして素直にそんな言葉が受け入れられましょう。残された者も老いました。いずれ私の生命が果てたときは、フィリピンに骨を埋めてもらおうと思っています。そのとき、私の戦後は終わるのでございましょう…」

元日本軍人(ビデオから)
個々の発言の要約


元日本軍人


●教育というものは恐ろしいものです。一度染み込むと、なかなか頭から消えない。戦争反対を叫んで監獄へ入った男がいる。家族が迫害を受ける。私は、その時の世の中の流れに反抗することも出来なかったし、その気持ちもなかった。皆さんと同じ流れで軍隊に入った。軍隊では私的制裁が天皇の名において上級者から行われた。何かというと、「天皇の命により」となった。馬鹿げたことと心では思いながら、それを否定するは絶対に許されない。それが日本軍隊の姿だった。

●天皇のためという世の中であった。そういう挨拶をして私も遺書を書き、兵隊へ行った。
そして、そのことを不思議とも思わなかった。それが当たり前の世の中だったから。
お国の為なら何を言われても、従ってやらなければならないと、皆思っていた。

●戦争中、戦争に反対する人は一人もいなかった。軍隊だけでなく、マスコミも国民も全部がそうだった。表面に現れない。反対することは即、警察に捕まることだった。

●現地人の家畜を獲って食べることなどもあったが、当時は全然悪いことだとは思わなかった。お母さんが死んで、干乾びている乳房を赤ん坊が泣きながらまさぐっている光景をたくさん見た。

●討伐に出て、徴発命令による略奪をした。給与係りだったから、豚を集めるのが仕事だった。家を焼いてしまうのだから、目ぼしいものがあれば、持って帰った。強盗の親玉のように。ゲリラに襲われて、戦友がやられた。隊長が村を焼き払えと命令した。ニッパの家だったから、軒下に火をつけると村中がいっぺんに焼けてしまった。

● ある討伐に出たとき、小さな村だったが、村民が皆逃げてしまっていた。ニワトリ
がいたり、豚も残っていた。フィリッピンはどの村にも教会がある。教会の中に黒衣を着た五十代くらいの神父がいた。同行した准尉がN二等兵に銃剣で突けと命令した。ところが、ガタガタ震えて出来ない。すると私に「Y!見本を示してやれ!」と叫んだ。
私は黒衣の人を銃剣で突いた。血が噴出して、その人は虚空を摑んで倒れた。
上官の命令は天皇の命令とは言いながら、今でもイヤな残像として脳裏に残っている。

● 日本軍に身内を殺されたフィリッピンの人が、恨みを持つことが多いと思う。しか
し、我々の方も、この人が敵なのか味方なのか、判らないまま対応せざるを得ない状況に置かれている。疑心暗鬼の中、顔を見たらゲリラに思えるのだ。

●向こうも抵抗している訳だから、いつこっちがやられるか分らない。戦争ってそんなもんや。なんにも関係ない原住民もその環境の中で殺されていたに違いない。襲撃もあったから、見張り当番がいた。憲兵が怪しい奴を捕まえて、それに逃げられると、村長を拷問して隠れ場所を白状させるとかやっていた。

●食料調達が仕事だった。村へ出かけたとき、みんな逃げてしまったが、子供を連れた奥さんがいた。何を尋ねてもブルブル震えるばかりで答えない。同僚のHは少し離れた場所で、奥さんを強姦した。私も子供を抱いている奥さんを同じように強姦した。強盗、強姦、放火、殺人という四つの重大犯罪を全部行ってしまった。フィリッピンには慰霊に行ったが、民衆には謝罪するすべがなく行っていない。強姦のほかは軍命によるものであったが、私は実行犯であった。罪の意識、心の傷はいまだに消えない。

●戦場という殺し合いの場にいると、ある種の無常観に支配される。冷静に人を殺すことも抵抗なくできるようになる。いくさに正義の戦ということが、果たしてあるのか。


● 私は90%の戦友を失った。何十万という戦死者のほとんどが餓死だった。累々と
した死体を辿ったあとから、絶対にこんなことがあってはならない。戦争というのは戦場だけで戦いが行われるのではない。銃後の人も犠牲になるのだ。

● 戦争ぐらい罪深いことはない。神・人ともに許されぬ行為だ。命はいったん失われ
たら、泣いても叫んでも帰ってこないのだ。

● すべての人は、戦争とは人間が死ぬことだ。それが分かっていながら日本の指導者
は戦争へ、戦争へと進んだ。結果、東京大空襲で無抵抗の女、子供まで犠牲になった。自分が死ぬと思っていないから、そのような道を進んだ。今の政治家も同じ道を歩んでいる。戦争というのは勝ち負けではないのだ。

フィリッピン現地の人々
(お断り 登場する現地人のタガログ語・英語は、ビデオ上では翻訳字幕で表現されました。訳文は神直子さんのBlogから転載。)


フィリピン現地の人々


(ビデオから)
● 日本兵は米などの食糧を全て私たちから奪っていきました。そして、しまいには家も焼かれてしまい、私たちは逃げ惑うしかありませんでした。

● 私は父親、義理の兄、そして妹を日本兵によって殺されました。辛い気持ちをずっともっていましたが、映像を見て、彼らも来たくてフィリッピンへ来たのではないということがよくわかりました。軍の命令で、拒否する事ができなかったのです。

● 村人が皆、後ろ手に縛られ、殺されているところを見てしまいました。怖くなり、私たちは必死で逃げたのを覚えています。ゲリラの容疑がかけられたフィリッピン人は殺されました。

● 女性は顔に泥を塗ったり、子どもと一緒に歩いたりすることで(日本兵は未婚女性を対象としていたらしい)日本兵に強姦されないようにしていました。日本兵に女性が強姦されているのを男性が助けようとすると、銃剣で刺されました。だから、男性も助けに入れないのです。

● まずは、証言してくださった元日本兵の方々に感謝したいと思います。私は戦争が人を悪くすると今は思っています。もし、私が彼らの立場だったら同じことをしたでしょう。でも、実際は逆で私は被害者となり、親戚十数名が殺されました。二度と同じようなことを繰り返さないために、私たちは過去から学ばなくてはいけません。

(blogから)
*2005年10月にフィリピンを再訪した後にblogに投稿された感想。
(2005年12月8日付け)

現地の人々 フィリピンから戻りました!今回のフィリピンでのビデオメッセージ上映会。どの会もとても心に残る 会合となり、たくさんの収穫と出会いがありました。

お伝えしたいことは山ほどありますが、今後時間をかけて私自身も体験してきたことにじっくり向き合いながら少しずつご報告していきたいと思いますので、今日は簡単なご報告にとどめておこうと思います。  元日本兵のビデオメッセージを見た戦争の犠牲者の方が口にしてくださった言葉。今日はこれだけのご報告にします。

「60年経っても、元日本兵もいまだに苦しんでいる。そのことを知ってびっくりしました。彼らが口を開いてくれたことに感謝します。」 「彼らも犠牲者だったんだ。為政者に言われるままに戦地に赴いた。本では読んでいたけれど、実際に聞くことができてよかったです。」

「私たちはクリスチャンだからもう彼らを許している。元日本兵の人にも、ぜひ一度フィリピンに足を運んでほしいな。」 「未亡人になったのはフィリピン人だけではなかったんだ。日本にも同じような人がたくさんいたんですね。同じだと感じました。」(婚約者を亡くした日本人女性のビデオメッセージを見て)

もちろん、好意的な反応ばかりではありませんでした。
「市民かゲリラかの区別がつかなかったというけれど、無抵抗の子どもを銃剣で殺したのはなぜ?」こう泣きながら質問してきた方もいらっしゃいました。

今回うかがったことを元日本兵の方に届けると同時に、幅広い世代の方々にも見ていただき、平和を模索する糸口にできればと思っています。今日は記しませんが、当然のことながらお金を要求してくる方もいらっしゃいました。戦後補償のことなど向き合わざるを得ない状況にもありましたが、帰国して数日が経ち、今振り返ってみてもたとえ地道な作業であったとしても、必要なプロセスは何かということが見えてきたような気がしています。

ビデオメッセージプロジェクトを通して気付いたこと
(1) 世代間のすれ違いとそれぞれの世代ができること
(2) 実体験を聴くことで育まれる想像力


私は、このような活動を2004年から始めています。
多くの方からメッセージを戴きました。元日本兵の方々は、いま80代、90代になっています。Yさんは、「実行犯は私です」と言われましたが、あの方もフィリッピンの人々に申し訳ないと思いながらも、それは(謝罪)国が行うものだという気持ちもあるままに、実現できなかったといいました。去年、NHKが「おはよう日本」でこの活動を放映しました。すると、すぐYさんから「自分もフィリッピンの方々に伝えたいことがある。旅費は負担するから是非、愛媛県まで来てほしい」という連絡がありました。


熱心に話を聞く受講生

元日本兵の方々が共通しておっしゃることは、「同じ経験を二度と誰にもして欲しくない」ということでした。私は、そのことを若い世代にもっと伝えてくださいと申し上げるのですが、「戦後世代に言っても、解らないのではないか」と答えるのでした。お孫さんに戦争の話をしたら「おじいちゃん。そんな化石みたいな話はしないで」とたしなめられたこともあるそうです。元日本兵ご自分も戦争の話をするのは、かなり辛いことだと思うのですが、聞く側にも聞く姿勢がないと、話が展開しません。しかし、残念ながら若い世代でも、おじいちゃん、おばあちゃんから戦争の話を伝え聞いたという話題はほとんどないのが原状です。

この活動をしているなかで、色々な世代の方々との出会いがあるのですが、元日本兵を祖父や親に持つ方々には、自分の祖父や親は戦地で何をしてきたのかという思いがどうしてもあって、受け入れたいのだが、つい批判的に見てしまうと述懐する人もあります。しかし、私は立場として、それらの行為を追及するつもりはなく、今率直にどういう気持ちでいるかを聞かせて戴いているだけです。戦争というものは、こういうものだ。そこへ行かないように何をしたよいか、問いかけをしているのです。

元日本兵の方々には、20代の私がお話を聞きに伺うと、当時自分が戦場に赴くときの年齢に近いので、お話をされたあと、「こんなに戦時中のことを話したのは久しぶりだ。学生時代に戻った気分で、すっきりした」と言われる方もいます。戦後世代の若い人が聞きに行った方が、話易いのかも知れません。それぞれの世代で、出来ることがあるのでなないかと思うのです。

BRIDGE FOR PEACEのチラシから戦後60年。
私は20代ですが、戦争を経験した世代がいなくなってしまったら、語り継いでいくのは「戦争を知らない私たち」という意識があります。だからこそ、いろいろと知る必要があると思い、このプロジェクトを始めました。

現地会場写真 6年前の2000年2月、私はフィリッピンに行き、まだ戦争の傷が癒されない人々の苦しみをぶつけられました。夫を亡くした未亡人は、「日本人なんか見たくなかったのに、何であんたはフィリッピンに来たんだい!」と泣きじゃくりました。60代の男性は「自分の親戚、全員殺された。父親は自分の目の前で日本兵の銃剣によって突き殺された。と静かに涙を流しながら、震えていました。

なぜ、このようなことが起こってしまったのか、私は日本人として知る必要があると思っています。また、私は色々と資料や書籍を見る中で、軍人としての自分の行為を悔やんでいる元日本兵がいるということを知りました。自分が関わった残虐行為を、亡くなる直前まで老人ホームでうわ言のように嘆き続けた方もいたと、知人から聞きました。

ぶっつけるところのない怒りが未だ渦巻いているフィリッピンへ、元兵士の想いをビデオメッセージとして届けたい、いつしか私はそう思うようになっていました。ビデオ撮影のために元日本兵の方々に過去の体験を語って戴く中で。私は多くを学ぶことができます。
フィリッピンと日本をむすぶメッセージが少しでも人々の心をなぐさめ、平和が広がっていくことを願って活動をしています。(拍手)

質疑応答
Q.あなたはまだ若いのに、非常に立派な仕事をしておられており、敬服します。
私の父も戦争に行きました。中国大陸を転戦して、生きて帰還したのですが、夜中にすごい勢いでうなされるのです。驚いて起こすと、「イヤーな夢だった」というので、どんな夢かと尋ねても絶対に言わなかったのでした。今日のインタービューを見ていて、ホントに良く聞きだしたと思います。父もそうでしたが、二度と言いたくないという人が大勢いるのではないでしょうか。そういう人を探し出して、話を聞くという作業の成功率はどの位だったでしょうか?

A.夜うなされるという方はたくさんいらっしゃると聞きます。誰でもそうですが、自分にとって辛かった経験は、中々人には話せないものです。心から信頼している人か、よっぽど、解ってくれる人でなければ話せない。その苦しみをずーっと心に貯めて、老人ホームで亡くなる直前に、うわ言のように話したその方の人生は、どんな人生だったんだろうという気持ちからプロジェクトを始めました。人間死ぬときには、ああいい人生だった、良かったなぁと思って死にたいですよね。でも、元日本兵は自分の責任でないかもしれない戦争中のことを老人ホームで亡くなる直前に、思い出して死ななければいけなかったのだろうと心が痛みます。

ご質問の、話を聞く作業の成功率は、50人のうちお一人を残して49人ですから100%に近い。その人はバターン半島の「死の行進」に参加された方です。まだOKを戴いておりません。

Q.あなたは勇気のある行動をしている。赤裸々の過去を話すことも勇気がいるが、それを話させる人にも勇気がいる。ある意味では癒しの効果がある仕事です。戦争に行ったかなり多くの人が神経障害を持って戻ってきている筈です。話を聞いてあげるだけではなく、何か次の活動もあるのではないでしょうか。

A.神経症になられた方はたくさんいらっしゃいます。お話の中に、戦後どのように生きて来たかという内容もあるのですが、皆さん混乱期の中で、自分の家族を食べさせていくことに精一杯であった。定年退職後に当時のことをまとめる手記を書いたりしている。戦後60年経って、元日本兵の皆さんはいま80代後半~90代ですが、話すことで変わるということもあると思います。

私は2005年にフィリッピンにこのビデオを持っていき、終わりにしようと思っていました。しかし、戦争が終わってもう50数年も経っているのに、当時を思い出して、涙を流して訴える様を見て、ある種の責任感を感じ、もっと続けなければと思ったのです。日本人として何か出来ないかと思って始めたのが、このプロジェクトです。フィリッピンで上映したら、こういう映像なら毎年でも持ってきてくれと言われました。

その先に何があるのかというご質問ですが、フィリッピンの方々も感想としておっしゃるのは、「元日本兵の気持ちを伝えてくれるのはすごく嬉しい。その声を聞くことで考え方も変わるので、有難いプロジェクトだ。しかし、やっぱり国としての謝罪が欲しい」ということでした。

講師の神 直子さん 私として、現在のところ国の謝罪までもっていく力はありませんので、国内の上映会を開くことを続けることで、精一杯です。実は、最近上映会をして感じることですが、高校生・大学生で留学をする学生が非常に増えています。その留学生が外国へ行って、「何で自分の国の歴史を知らないの」とよく言われるそうです。そこで、自分の国の歴史を知らなければいけないんだという、国際感覚を身に付けている若者が増えているように感じます。

国同士の外交も大事ですが、これだけ国際交流が自由な時代ですから、民間外交の面からも希望が持てると思います。国に頼っていても、あまり変わらないのではないでしょうか。NPOでやっていて、本当に草の根交流の大切さを感じています。自分の個人の仕事としては、外国から日本にくる留学生のケアをする活動をやっております。

Q.どのようにしてビデオに出演する人を選んだのでしょうか?

A.知人、友人をたよりに、おじいちゃんで戦争時代の話をできる人を知らないかと探したのが、きっかけでした。あるとき、フィリッピン戦友会の方と知り合いになり、そのグループを通じて紹介を戴いた方と接触しはじめたのでした。80代、90代の方がほとんどで、ビデオに出演されていたお一人が去年亡くなりました。いま80代というと、戦時は初年兵、一等兵などの下層階級であった皆さんです。それより上級の方は90代になっており、記憶も薄れ表現力に問題があり、家族の方が反対されます。

フィリッピンでは、戦時には小学生だった方や、高校生だった方が話してくれました。
その方は、私に会うまで日本人は怖い人種だと思っていたそうです。フィリッピンでは家族が同居していますから、世代間で話がよく伝えられていたのだと思いました。
ゲリラの方にも、話を聞くことができました。

感想.
神さんの素晴らしい活動報告を聞きながら、自分は何ができるかを思っていました。自分の父も戦争に行っています。正月の家族の集まりなどで、孫に戦争の話をしますが、神さんのビデオに出演を奨めたら、頑強に断るのです。肉親になら話しても、それ以外の人にはとても喋れないということでした。しかし、肉親になら話せるということは一つの救いです。そのように働きかけていくことが、大事ではないでしょうか。

二つ目に、ビデオの中で、フィリッピンの人が、日本人を赦すといっていました。有難いコメントですが、これは状況がこのようにさせたという意味のことの表現でしょう。日本のNGOが海外で信用ができると、評判が非常にいいのは、植民地経営が長かった欧米諸国に比べて低開発諸国に優しく、誠実だというのです。この評価をどこまで維持できるかが、今後の日本にとって大切なことです。

現地会場写真 三つ目は、ビデオに出演されているYさんの日記の出版物の後がきを読み上げます。「私の青春時代は戦争の時代であったと言えるだろう。21歳で入隊、復員したときは25歳であり、我が青春はフィリッピンにあった。

毎日を戦争の流れの中に身を置き、彷徨ってきた。国家のためにも、人のためにも、役立ったとは思えない。多くの人たちも私と同じように、流れ苦しみ、そして死んでいった。実戦に華々しさなんかない。

勝つも負けるも悲惨さだけが残る。そのことを知って欲しい。私が誓う不戦の意味を考えて欲しい。もともと自分の家族に向けたこの記録だが、今は私が兵士だった年齢の若者たちに、まず、第一に読んで欲しいと思っている。

現在(平成5年)PKO問題は国を挙げた論争の中心にあるが、私は軍隊を出すことに絶対に反対である。他国へ行って一方の陣営に加担することは、もう一方の陣営を苦しめることである。しかも、行った自分の身にもどのような災難が起こるかも知れない。海外派遣を主張する政治家は、戦争の実態を知らない若者を行かせる前に、本人が紛争地の砲弾の下に立ってみるとよい」

終わり



講座企画・運営:吉田源司
文責 三上 卓治
会場写真 橋本 曜
HTML制作 和田 節子


本文はここまでです


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