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定例講座平成19年8月31日 講座NO373


写真を楽しむ 酒井憲太郎



マイクを手に話をする講師の酒井憲太郎氏

プロフィル

元朝日新聞社カメラマン。国内海外を取材。全日本写真連盟事務局長。個展「讃 SUN ヨサコイ in 高知」開催。今日は撮る,見る、話す、楽しみ方を伝授しましょう。

はじめに

写真を楽しむには、まず「見る」です。次に「撮る」となります。また撮った作品を「見る」となって巡回する。仲間がいれば、写真撮影の時のことを話す。作品の出来具合について語る。刺激を受ければ、次の撮影の時に思い出す。

まだまだ、「考える」があり、「撮る」につながる動きとしては「企画する」「用意準備する」「予想予測する」「感動する」などがあります。「見る」につながるものとしては、「感動する」「理解する」「分からない」などがあり、「話す」はさらに「聞く」「書く」「思う」と広がります。

見る

目という文字にケンを付けて目の前にある状況を知るという意味の字にしたといわれます。見るという意味の漢字には、「見」「視」「観」「現」「察」「覩」「?(ベキ・斜めに見る)」などがあります。論語為政第二に「人の以いるところを視る」「由るところを観る」「安んずるところを察る」とありますが、人はこの三つの見方をすれば分かるという意味を持っています。これは「見る」ということの意味の深さを示しています。

見るには、色々なレベルがあります。「ボーと見ている」「ジーと見る」という分け方もあります。最初に目を通してと言いましたが、「人がいて、モノがある」という情景は、まず光があることによって「見えることが成立」しています。まず明かりの量がないと、人が見えているという状況にならない。たとえば、この会議室は蛍光灯がついているから、隅々まで見えるけど、蛍光灯のスイッチを切ったら、何も見えない。逆に太陽のように明るければ、まぶしくて何も見えない。すなわち、ある一定の光の幅の中で、人が「見える」という状態になるのです。

光が、人の目に入って見える仕組みが、実は写真機の仕組みに近い。脊椎動物の見える仕組みは、ほとんどカメラのメカニズムと同じです。見える範囲というのは、ひとつの波(電波・電磁波・X線・紫外線)の一種です。その中のある特定の領域が可視光線という目に見える波になっています。目に見えない波もある訳ですが、それだけを感じるフィルムやカメラも開発されています。宇宙の中の星をX線で感じるとか、赤外線や紫外線で感じることによって、星の動きが分かるようになっています。

それらは、人の目には見えないけれども、開発された色々な機器によって、知ることが出来ます。もっとも分かりやすい例は、医療用X線でしょう。

いまこの場では、私が話をしているのを、皆さんが目(水晶体に映った映像を、網膜で)見て、耳で話を聞いた信号が脳に送られて、総合的に判断している状態です。これはデジカメがレンズで受けた画像情報を信号に代えて、CPU(コンピュータ)に送るのと全く同じです。人間が目で見るときの感じ方に、色が分かるレベルの時と、そうじゃないレベルの時がある。色を識別する細胞が3種類あって、これがある明るさの時は、別々に働いている。明るさが少なくなると、機能しなくなる。暗いところでは色がはっきり分からなくなるのは、そのためです。目が元々持っている能力は、ある明るさのところでは色を判別するが、明るさの少ないところでは、モノをモノクロで見てしまう。

色の話をすると、かなり複雑になりますが、人間の目は明るさが足りないと、筋肉を使って、瞳孔を開いたり、小さくしたりして光の量を調節して、モノを見ようとします。カメラも全く同じようにしないと綺麗な絵が出ません。レンズの明るさ、絞りの機能があるのはそのためです。写真を楽しむというのは、自分の目で見ている状態と同じことを、カメラで再現するということです。人間の五感のうち、目(視界)の感覚がもっとも優れていると思います。芸術は、視覚によるものと聴覚による美意識が殆どで、味覚、触覚によるものはありません。


熱心に話を聞く受講生

撮る

人間は、視覚による情報を脳に送りながら、何が、何処で、どうしてと分析しながら無意識に判断しています。写真を撮ることは、その一瞬を止めて切り取る作業です。写真を見ることも同じようなものです。何が写っているか、どういう状態かを考えるのが、撮った人の脳と同じ手順で考えるのです。また、撮る人は、見る側の手順を意識しならシャッターを押すこともあります。

見るということは、西洋哲学の言葉で観照(theoriaギリシャ語)という表現をします。
究極の見方(真相を究明する)として観照するという言葉を用いています。アリストテレス(BC384-322)が倫理学を論ずる中で観照とは、神のすることである。またそれと同じ行為が出来るのは、人間であると論じています。「見る」ということ自体が、すなわち「楽しむ」ということにつながるのです。

さて、ものの見方ですが、絵画の芸術家が制作した作品を鑑賞する場合は、その芸術家が創造しようとしていた行為を、作品を通じて追体験してみるということが、大切です。なぜ、どうして、どこへで、作品を作ったかと製作の過程を究めていくのです。芸術写真の場合も同じです。この写真は、撮影者がなぜ、どうして、このような写真を撮ったかを考えることが、写真を観賞することになります。すなわち、作品と製作者を考えることになります。

自然、風景、山、川、などの写真観賞については、芸術家の体験を後追いするよりは本人が主観的に感じる感じ方で宜しいと思います。では、創作とは、どこまでのことを言うのか。たとえば、西瓜切って並べた写真があります。バックをブルーにして、横に氷を置いたりして夏の風景を構成した写真が写真誌に載りました。これを真似て写真展に出品した作品を、著作権の侵害ではないかと訴えた裁判がありました。

踊りの映像の横で話をする講師の酒井氏被告側は、あの程度の写真は、何処にでもあるという反論をしましたが、裁判長が何処にでもあるなら、その証拠を出しなさいと言われたのに、提出できなかった。裁判長の判決は、「よりよい写真だったら良かったが、原告の写真に比べて劣る。模倣したが改悪しているので、被告は罰金百万円を支払え」でありました。たとえば、

富士山の写真を撮るとして、場所を選んでも全く同じ写真を撮ることは不可能である。同じように見えても、時間、場所その他、レンズの明るさ、シャッタースピード、シャッターチャンス、フィルム感度、現像条件等が違っており、自然対象の写真は似ているように見えても創作意欲はすべて異なる。「この西瓜の写真が、よりよいものなら創作として認めてもいい」と判決に付記があったそうです。

アリストテレスは観照の働きの及ぶ範囲には、幸福もまた及ぶ。幸福とは、観照の働きでなければならない。また幸福とは、神の働きであるともいっております。見るとは、ものごとの真相を究明していくことであります。写真を見るということには、まず撮影する主体Aと被写体Bと、見る人Cの関係になります。Aは本人として、被写体のBがある。Bには肖像権があります。知らない人に撮られて公表された場合に、Bの肖像権侵害として訴えられることがあります。

写真には、文化財としての側面もあります。撮って残された記録という意味の写真ですね。例えば、幕末の島津の殿様の写真などは重要文化財になっています。写真は重要文化財に近づく早道です。ただし、撮影者名、場所、データ記録があって、100年くらいは残る写真でないといけません。三内丸山遺跡に残っていたゴミ捨て場でも、文化財になるくらいですから、撮影者としては、何でも残るモノとする意識が必要です。

写真は、撮影者が自分を撮るというケースが一般に少ないのですが、女性の場合、最近、色々な職業の服装で自分を撮る作品があります。芸術写真になりきった形で、本人が写っているケースが目立ちます。自分が被写体になる場合、ここでこうなるという計算が上手く行かないことが多いので、かなり難しい領域になります。その例をお見せしましょう。これは、いま話をしている本人です。

データ2007年7月31日11:34の撮影。
u780S780ノーマルプログラムf3.31SO8064mm JPG3.07MB3072×2304

筑波山頂上にて酒井憲太郎氏 場所は極めて分かりにくい。岩が見えます。白い紐があります。人物はカメラを持っている・・・・・場所は筑波山の頂上。女性と男性の神様が祭られており、女性の神社の方が少し高い位置にあります。岩の上にカメラをおいて、セルフタイマーによる撮影です。自分はこんな風に写るだろうと思ったようには写っていません。

もう少し、いい男だったのではないかと思っていました。実際に写ってみると、なるほどこんなものかという感想です。重いカメラを持って、急勾配を登ったのは大変だったなと、いま思い出します。

語る

どうしてこんな写真を撮ったか。
自分で自分を撮っていなかったことから、自分しかいない場所で撮ってみようと思いました。これが自分で自分を写してみようと思った最初の写真です。このあと、度々自分一人の写真を撮りました。

凄い形相のヒヨドリ この 写真は「ヒヨドリ」です。
口を開いて、私を威嚇しています。場所は我が家の庭です。巣を作っていたのですが、雛が上手く飛び立てなくて、まだ庭にいた。そこで、親鳥が傍に寄るなと、私を威嚇している情況だったのです。雛は庭からは飛び立ち、小さい木の枝に移ったのでした。飛ぶ訓練をしていたのでしょう。

かなり長い時間でしたから、私はカメラを持ち出して、怒る親鳥の表情にシャッターを切ったというわけです。それはこちらに対しては怒りですが、ひな鳥にたいしては愛だったでしょう。何枚か撮って私は家に戻りました。

2005年に高知の「ヨサコイ踊り」を写真に撮りました。2006年に写真展をしたのですが、これはそのときの絵葉書に使った一枚です。何百枚も撮ったのですが、これが撮れたので、写真展を開く気持ちになりました。私が参加したときは炎天下の暑い盛りでしたから、踊り子たちは汗だくでした。「ヨサコイ」の写真は踊っている人物を写すのが圧倒的に多いのですが、

わたしは首筋に汗が流れているその汗を主題に踊り子を撮りたかった。しかし、中々難しかった。一瞬光が首筋にあたらないと、汗が光らない。待機している場所で瞬間を追う。踊る人は大音響とともに、踊りながら移動する。手と脚と体が踊りの振り通りに変化する。その中一瞬に光る汗。撮れた!

首筋に汗が光る踊り子


「ソーラン踊り」は「ヨサコイ踊り」を見て感動した北大の学生が札幌で始めたと聞いています。「ヨサコイ踊り」の現場で激しい動きの中から、首筋に光る汗を撮れたのは幸せでした。レンズは200mmです。写真の方から見ると、かなり近づいて撮っていることになります。撮影の場所が決まっているから、踊り子さんが順番に通ってくる中から選んだシャッターチャンスでした。この一枚があったので、「ヨサコイ踊り」の写真展を開くことを決めた次第です。


写真を楽しむ

何国語で話しているか、分からないような講演の展開ですが、もともと、写真は言葉ではありません。それを言葉で喋ろうとすることには無理があります。ですから、写真を見ながら、あるいは想像しながら、思いを共有できれば幸せです。写真自体についていうなら、一枚の写真を隅から隅まで見るのが写真の見方です。しかし、今日の主題は「写真を楽しむ」ということです。楽しみの行き着く先は「幸福」ではないでしょうか。

「幸福」とは、欲求が満たされ不安や不足を感じず、安心している心理状態のことであります。しかし、それは極めて主観的なもので、個人の数だけ様式が存在します。例えば見たいと思っている人は、見るだけで楽しいし、撮りたいと思った人は、撮るだけで楽しい。幸福を追求することは万人に認められた権利であります。憲法にも幸福追求権という条項があり、基本的な人権です。写真を楽しみたいという願いはその一部です。写真のクラブなどで耳にするのですが「写真なんかやっちゃって・・・・・」というセリフがありますが、そのレベルで写真を楽しむことは、堂々とやって頂きたい。

写真がここにあるとしたら、それに対する自分がいる。それを撮った自分を語る。あるいは自分を語って写真を重ね合わせて見る。というのが写真の楽しみ方の基本です。少なくとも写真について言うなら、写真がまず、この一枚が「確定的にある」ということです。

目に見えるものは、どんどん消えるが、写真については何年の何時、何処で、誰が、撮ったというデータと記録が残る。それについて調べようとすることも出来るし、自分はどうしいう風に考えたか、綺麗で良かったとか、何の歌のときのどんな時の表情だったかを思い出すこともできる。

エデット・ピラフのチラシ エデット・ピラフのチラシ見ると、47年の人生と書いてある。するとこの写真は、47年のうちのどの辺りだったのか、とか色々考えたり、見て楽しんだりすることができます。写真はなるべく大きい方がいい。何が映って、どんな風になっているかが見えやすいからです。

最近、街中でジャッキー・チェンと黒人スターが顔負わせしているポスターを見かけました。傍へ寄って見ると、顔の大きさは同じくらいですが、顔の写り方の度合い、皮膚の感じ、目の輝き、精密さなどが全然違っているのです。ジャッキー・チェンはしっかりしたカメラで撮っているのに、片方はややいい加減です。しかし、サイズを合せないといけないから、無理やり合わせたような感じに見えるのです。

写真というのは、街中にあるポスター類でも、じーっと見ると面白いことが次々に見えてきます。日々自分が撮った写真でなくても、観察材料にはこと欠きません。これらは、写真の楽しみ方としては主要な地位にあります。この楽しみを求める権利は、幸福を求める権利と同じです。

では、これから実際に

ヨサコイ写真展

の写真を見てもらってお話し致しましょう。
最初は、坂本竜馬の写真です。土佐の竜馬の銅像から写したものです。竜馬の時代にヨサコイ踊りがあったかどうか不明ですが、ヨサコイは高知城が造られたときの人足たちの唄と伝えられております。ヨサコイ踊りの形になったのは、戦後です。当初は寂しい踊りだったようですが、いまは全国的に盛り上がりを見せているようです。竜馬が見てるぞヨサコイ踊りという意味で、冒頭に飾りました。


4枚の踊っている写真です。左上から衣装がゆらゆらゆれてる写真、野外の大きな舞台の前で揃いの衣装で踊ってる写真、下左から笑顔の踊り子、カメラ目線の踊子を捉えた写真


写真展はオリンパス社のショウルームを使いました。その際、同社のホームページに使った写真を数枚紹介します。最初は踊っている人たちが向こうに向かっている後ろ姿です。写真展は分かりやすい写真だけで組み立てると退屈します。また、いい写真だけでやっていると、これも退屈します。音楽と一緒で、単調なリズムが続くと眠くなります。写真展も色々な性格の絵を展示して変化を付けるようしています。これは優勝したチームのフィナーレの場面です。舞台の上のマークが構図に入るように構成しました。全体は一眼レフで撮りましたが、これはコンパクトカメラです。

これは踊り子の一人ですが、ピントが合っていないように見えますが、スローシャッターで動きが感じられるように撮ったものです。しっかり止まって綺麗に写っている写真だけでなく、このような絵も見て戴こうと出品しました。少女の表情。美しい踊り子の表情。チームの一列目の中央にいる子は、大方綺麗な娘さんでした。鳴子を持った踊り子。踊り子を持ち上げている大学生チーム。今までの「ヨサコイ踊り」の写真は、全体像が多かったようなので、このような切り口の写真展にしてみました。

世界的なんですね、これは黒人の人。子供たちの群れ。シャッタースピードを遅くした写真。タレントさん、確かに素人離れしていました。疲れた踊り子。真剣な眼差し。踊りに陶酔した人。気合一杯の人・・・・・・・・。
                       
終わり



講座企画・運営:吉田源司
文責(三上卓治)
会場写真撮影(橋本 曜)
HTML制作(和田節子)



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