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神田雑学大学 平成19年10月5日 講座No378



講師の山口則彦氏

1.はじめに

皆様こんばんわ。本日神楽坂をご案内申し上げます山口と申します。こういう格好をしていると売れない噺家ではないかと思われますが、案内人でございます。よろしくお願い致します。
お手元に神楽坂付近の地図が入りました資料があります。表に現代の地図、裏に江戸時代の古地図を印刷してございます。今日はこれを参照しながらご案内をさせていただきます。

私どもは神楽坂をご案内するとき、主な集合場所として3箇所を使っております。一つはJR飯田橋駅の西口、もう一つは毘沙門天、三つ目は坂上の赤城神社を拠点にして廻るというものです。今日は飯田橋の西口に集まっていただいたとして、お手元の現代地図の点線で示したルートに沿ってご案内をさせていただきたいと思います。本当は動画を使ってやると分かりやすいのですが、今日はパソコンの状況で使えないということなので、静止画のみを使用してのお話になります。動画についてはインターネットなどで見ることができますので、そちらをご覧になって下さい。

牛込門

2.牛込見附門

飯田橋西口を出ますと先ず左側に「牛込御門」があり、その石垣が現在も残っています。これは「牛込見附門」とも言われますが、「見附」というのは侵入者を見つけるという意味でして、当時は江戸三十六見附門と言われていました。でも現実には江戸城の内郭と外郭を合わせますと57の見附門があったとも言われています。

ちょっと古地図の方を見ていただきたいのですが、この牛込御門から北西の方角へ延びる道、これが神楽坂通りでこの先は上州道に通じております。従ってこの門は江戸城への上州からの第一関門に当たる訳で、門の南東側は番町方、北西側は牛込方と呼ばれていました。この門は年寛永13年(1636)、阿波徳島の藩主蜂須賀忠英が請負い、牛込橋とともに完成されました。御門跡の左側にこういう基石が見えます。石は横になっていますが、「阿波守門」と文字が刻まれているのが分かります。今でも飯田橋では夏に阿波踊りがありますが、これもこのご縁で始まったものと言われています。

神楽坂古地図 当時の御門は桝形門という形式でした。これは江戸城に限らず日本全国で多く見られた城門の形なのですが、牛込橋を渡って最初の高麗門を入りますと中が四角い(桝形)広場になっています。広場に入って右側にある門が渡櫓(わたりやぐら)門です。「櫓」と書くと分かり難いのですがこれは「矢倉」ですから、武器庫のことです。門の上が武器庫になっており、この門扉は大変堅牢な造りになっています。これは有事の際、敵兵が高麗門を押し破って広場の中に入ってくる。

しかし中の渡櫓門は頑丈で簡単には破ることができません。その結果広場は大勢の敵兵で身動きできなくなるはずで、その広場をとり囲む塀には小窓が設けてありまして、ここから鉄砲や弓矢で敵を攻撃するというものでした。逆に攻撃の際には、武装した兵士を桝形広場に溜めておいて、ここから一気に出陣させることが出来るというための構造でした。

ここで不思議なのは、日本中のほとんどの桝形門は入り口の高麗門から入ると広場があって、その右側直角に渡櫓門がある。これは何故なのかという疑問です。もちろん例外はありますがほとんどが右側にあります。この理由の一つは人間の歩行のバランスにあると言われています。例えば陸上のトラック競技は時計の反対廻りの走行ですね。これは人間にとって走りやすい廻り方だと言われています。例えば400mを同じ選手に同じ状況下で時計廻りに走らせると、タイムが随分遅れるらしいです。

ということで人間が曲り難い方向に渡櫓門が設けてあるのだという説があります。ところがもう一つ簡単な理由あります。それは壁の鉄砲窓からの射撃手に敵兵の心臓を向けさせるためというものです。まあ実際に使われた例はないとしても、スパイなどがここを通るときに、「攻め難いな」という気分にさせたような効果はあったのではないでしょうか。

一方で江戸時代の265年間は非常に平和な時代でしたので、大変美しい門に造ってあります。石垣も「切り込みはぎ」という手間のかかる積み上げ方なのですが、見た目には一番きれいな工法です。また牛込御門は「楓の御門」と当時呼ばれ、となりの市谷御門のことを「桜の御門」と言ったこととあわせ、春秋一対の美しい門だったと言われています。春は桜、秋は紅葉の景観だったんですね。

ここに外堀がありますね。この堀幅は80mから90mでしょうか。この幅はどういう基準で決めたか。当時江戸城は北側の台地から火矢を射かけられるのを一番怖がっていました。何故かと言いますと冬場は強い北風が吹きます。それに火の手が乗りますと、一気に御門内に火事が広がったということで、この距離は弓矢が届かないという距離を想定して造られたもののようです。


神楽坂通り

3.神楽坂通りの由来

古地図で見ますと酒井若狭守忠勝の下屋敷が神楽坂通りを上がった左側にあります。彼は三代将軍家光の大のお気に入りの大老でした。家光はこの大老屋敷に100回を超える頻繁な訪問をしています。若狭守もこの屋敷の中に家光好みの庭を造ることに余念がなかった。

屋敷内には小掘遠州作の江戸の名園と謳われる庭があったと言われています。そしてこの屋敷全体を完全に塀で囲むことをしなかったらしいです。塀の外からも通行人に庭が見えるようにしたかったのか、あるいは中から見た場合にも、塀よりも竹矢来の方が風情があると考えたのかもしれません。

ところが寛永16年(1639)に江戸城本丸が火事になりまして、家光はこの酒井家の下屋敷に避難して70日間にわたり逗留しました。ただその時の警護が大変だったと聞きます。大老は近所の御家人衆を全部集めて、抜き身の槍を持たせて屋敷の周りを囲ませ、夜は松明を焚いて警護したという記録があります。この竹矢来の由縁により、今でもここは「矢来町」という地名で呼ばれています。

神楽坂通りというのはこの酒井家の下屋敷と牛込御門を結ぶ約1kmの道を、酒井大老の登城道として寛永年間に整備されたものです。
今度いらしたら是非見て欲しいのですが、地下鉄有楽町線「飯田橋」の改札を出た辺りの地下道に大きな古地図が出ています。これは幕末の地図で大変見やすいので、ここで色々とご説明することが多いのですが、皆様も一度寄ってご覧になって下さい。


4.軽子坂

続いて私たちは「軽子坂」に向かいます。飯田橋のセントラルプラザという駅ビルの向かいに坂道があります。この名前の由来ですが、それには先ず江戸時代の物流のお話をしなければなりません。当時の物流はその100%を海路と水路に頼っていた時代ですから、廻船問屋が財を成していた理由が分かります。その頃この牛込方、あるいは番町方に入って来る江戸の生活消費物資は、江戸湾から大川(隅田川)に入り、柳橋を左側に折れて神田川を上ってきます。

この川は今のJR飯田橋駅の東口辺りから右の方に曲りまして、井の頭上水道へと続いていました。そして幕府は江戸城の外堀を作るときに、神田川から外堀につながる運河を引き込んでそこを湊としました。かつての荷揚場であったここは今でも揚場町という町名が残っています。ただ船の運航はここまでで、市ヶ谷の方面までは行けませんでした。石垣の段差で行き止まりになっている船溜りが、明治初期の頃に撮られた写真でも確認することが出来ます。

ということでここに物資が揚がってそれを運ぶ人たちがいました。軽籠(かるこ)を背負って坂道を上って運ぶ人足の人たちを軽子(かるこ)と呼んだのがそれです。その軽子たちが行き来したということで、軽子坂という名前が付きました。次に江戸時代の消費についてなんですが、江戸幕府の出来たときの人口は約15万人しかなかった。これが100年後に一気に100万人に増えています。当初は全国から色々な生活物資を仕入れていました。中でも櫛、簪(かんざし)、笄(こうがい)などは、特に京都の物が今でいう高級ブランド品でした。

他にも灘・伏見の酒などが珍重され、それまでは京都が都でしたから、それらは下って来る物ということで「下り物」と言われました。その他には「下り蝋燭」、「下り油」「下り醤油」なんていうのもあったそうです。ところが一気に人口が増える訳ですから、その需要に供給が追いつかなくなってきて、江戸と江戸の近郊でも生活用品を作るようになっていきます。ところが最初は粗悪品が多かったそうで、品質の良い京・大阪「下り物」に対して、江戸近郊で出来たものは「下らない物」と呼ばれました。これが「下らない」という言葉の語源です。

その他、幕末から明治にかけて、この湊からの芝居見物用の船便もありました。ここから船に乗りまして、神田川を下って柳橋から大川に入り、隅田川を上って吾妻橋をくぐり浅草に着き、そこで行われていた芝居を見物して帰って来るという船があったそうです。これは夏目漱石の随筆などにも出ています。それからこの坂を登った右角、お手元の古地図にも本多修理と書いてある家の脇に「大久保」と書かれた屋敷があります。これは「大久保彦左衛門の屋敷跡」です。

大久保彦左衛門屋敷跡は駿河台の明治大学の前にもありますが、この人は徳川家康が将軍職を退いたあと一緒に駿府に行きます。しかしその後間もなく家康が亡くなったので江戸へ舞い戻りました。その時将軍家から長年の功績を認められこの軽子坂の地を拝領し、晩年住んでいた屋敷だと言われています。 あと、この道の先を行くと大久保通りに出ますが、そこに厚生年金病院があります。道を挟んで本館とリハビリセンターに分かれていますが、この場所には日本で27番目の女医資格を取得の後、東京女子医大を創立して女性たちに医師への道を切り拓いた、吉岡弥生先生の「吉岡弥生病院」がありました。


5.芸者新道

お手元の現代の地図をご覧ください。軽子坂を左に神楽坂仲通りに入り、すぐ右へ折れたところに「芸者新道」という通りがあります。この名前は他の花柳界なんかにもあるんですが、ここは「ロクハチ通り」と呼ばれたこともあるんです。「ロクハチ」というのは料亭の宴席の開始時間で、一回目が午後6時、二回目が8時なんです。

ここは両側が芸者の置屋さんあるいは料亭がズラリ並んでいて、神楽坂の最盛時には650人を超える芸者衆がいた訳ですから、夕方の6時前や8時前というと、お座敷に駆け付ける芸者さんたちで肩が触れ合うくらいに混雑した通りだったようです。それからこの通りの入口は非常に急な傾斜の坂で、階段が付いています。これが昔の神楽坂通りの傾斜だったらしく、古地図にも階段が見えます。これは明治10年頃になだらかに補整されて現在のようになったようです。


かくれんぼ横丁

6.かくれんぼ横丁

芸者新道から「かくれんぼ横丁」に入ります。やはり料亭街のこの名前は、子供たちがかくれんぼをして遊んだからという説もあるんですが、お忍びで遊びに来たような人を後ろからつけていても、横にちょっと入るといきなり目の前から消えてしまうから、というのが本当のようです。


7.うを徳

かくれんぼ横丁から本多横丁に出る手前に、「うを徳」という料亭の勝手口が見えます。これは明治のころからの有名な料亭ですが、尾崎紅葉や泉鏡花など当時の文人たちが好んで宴席を持ったことで知られています。泉鏡花は宴席で桃太郎という芸者と恋仲になって同棲をするんですが、その時に師の尾崎紅葉から修行中なのに怪しからんということで叱責を受けまして、別れさせられてしまいます。ですがすぐ後に尾崎紅葉が亡くなりますと少し時間を置いて、この女性、本名伊藤すヾさんを入籍します。この間の悲恋を彼は小説にしました。有名な「婦系図」がそれです。


8.三年坂

さてそこに「三年坂」という坂があります。これは京都の清水の三年坂と同じ名前です。これには同じいわれがありまして、ここを歩いていて転びますと、3年以内に死ぬという大変物騒なものです。これが嫌でしたら転んだときに土を3回舐めれば死なないとのことです。京都はこの辺が大変上手でして、坂を上がったところの土産物屋さんで瓢箪を買えば死なないと言っています。
あとこの坂は、八丁掘りから高田の馬場の決闘に行く堀部安兵衛が、ここを一気に駆け抜けた、と言われているんですが、誰が見たんでしょうか?信じられない話ですね。

兵庫横町

9.兵庫横町

次の角を曲がると、ここが「兵庫横丁」と呼ばれて写真によく撮られる場所です。この道は先程の軽子坂からの道なんですが、神楽坂界隈で確認されている最も古い道です。これは鎌倉時代からの鎌倉古道で、時の行政機関でありました国府をつないでいました。武蔵の国の府中から前沢を通り中野、落合を通ってこの地を通り大手町に抜け、千葉の国府台まで続いていたこの道は、当時の要衝だったようです。北条氏綱はその頃に里見、足利と国府台で大きな合戦を二度行っていますが、兵や馬を通すためにもこの道は重要視されていたようです。

この後で参りますが、神楽坂通りの向こう側に光照寺というお寺があります。これは戦国時代の牛込城本丸跡です。そしてその周り半径100mから200mを城下町が取り巻いていたようです。神楽坂ではこの外側辺りに約3mの高さの天然の断崖があって、これを利用して外曲輪にしていました。この兵庫横丁は、鎌倉古道から城下町へ入るための道の一つだったんです。多勢の兵や馬とか大きな武器を通り難くするために、昔は道幅が三尺(約1m)しかなかったと言われています。

この通りに「和可菜」と言う旅館があります。小さな旅館ですが多くの作家たちがここに宿泊したということで知られています。代表的な方は山田洋二さん、野坂昭如さん、今井正さん他の多くの方がここで執筆活動を行いました。女優の木暮美千代さんをご存知の方は多いと思いますが、経営者は彼女の妹さんで、大変行き届いた気遣いが作家たちの筆を進めさせることで評判があります。山田洋二監督「寅さんシリーズ」の脚本は殆どここで書かれたということです。

ここを通り抜けて少し行きますと名物酒場の「伊勢藤」があります。ここは完全天然空調のお店でして、夏は暖房、冬は冷房完備というやつ。夏場は渋団扇、冬は小さな白火鉢が出ます。お酒としては燗酒しかありません。ビールもなければ冷酒もない。しかもちょっと大きい声を出すと叱られます。暑い寒い思いして叱られて何が面白いんだと言われるかもしれませんが、静かな風情を好む人もいますし、外国人などを連れて行きますと非常に喜ばれます。


10.寺内(じない)

この通りを抜けますと「寺内(行元寺跡)」に出ます。行元寺は鎌倉時代からの天台宗のお寺ですが、明治の末に五反田の方に移転しています。徳川家康が江戸に入りました天正18年(1590)、このあたりは七つの村に分かれていて、早稲田・大久保の辺りまでを含めて牛込七ヶ村と呼ばれていました。その中でこの寺内辺りだけが、町家の形態を示していた。つまり当時から町になっていて人が多く集っていたそうです。八代将軍吉宗は享保6年(1721)「享保の改革」を行いましたが、この時に人口調査がありました。

当時日本の人口は2800万人くらいだったようですが、江戸が百万人でそのうちの50%が武家・僧侶だったということです。その残りの50%の町人の男女比率が出ています。これが男10に対して女3.5だったようです。まあ武家や僧侶は殆どが男ですから、女性が占めるのは全体の二割に満たなかったと想像できるのではないでしょうか。この理由は幕府の「天下普請」といって、海を埋め立て、道路、運河を造り、城、武家屋敷、町人の家を造る…それら江戸という都市を造るのに必要とされたのはすべて男手だったということです。ですから江戸近郷近在の男は、長男を除いて全て仕事のある江戸へと出てきた訳です。そこで問題になったのは所帯を持てない男性が沢山いたということです。

後で話しますが神楽坂に「わら店横丁」というところがあります。この通りには幕末の頃から寄席がありまして、都々逸坊扇歌という音曲師が都々逸を唄って大変な人気があったことから、都々逸発祥の地と言われています。その都々逸の中で私が名作だと思っておりますのに、「九尺二間に過ぎたるものは 紅のついたる火吹き竹」というのがあります。これは棟割長屋に住んでいた男の女房が持てた嬉しさを表現していて、江戸で所帯を持つことの大変さが偲ばれる秀逸な作だと思います。

まあそんな訳で男の欲望のはけ口をどうするかということを幕府は考え、官許の「吉原」という遊興地を日本橋に設け後に浅草に移します。これが遊女三千人御免の場所と言われ、最盛期にはその倍を超える遊女たちがいたと言われますが、こんなのは焼け石に水、実際には岡場所という私設の遊び場が色々なところに出来ました。まず品川、新宿、板橋、千住の江戸四宿が最初なのですが、その後なぜか寺社の周囲に出来ます。これは宿場町も門前町も、常に集客が期待できる場所だったからなんです。

神楽坂ではこの界隈の岡場所で遊ぶことを「金銀山猫」と称していました。これは何のことかというと、赤城神社の周りで遊ぶには金一分、そして行元寺の周りで遊ぶのは銀七匁五分だったそうです。「山猫」とは「山の手で寝る子」という意味だったらしいです。江戸時代の貨幣価値は江戸の初期、中期、幕末で変わりますが、例として一両を十万円としましょう。金一分は四分の一両のことです。銀七匁五分というのは八分の一両のことです。したがって赤城神社で遊ぶのがおよそ2万5000円、行元寺で遊ぶのが1万2500円です。

これが高いのか安いのか分かりませんが、ただ言えますのは当時吉原で遊ぶ人にはお大尽といって、一晩十両、つまり百万円以上を使う人がざらにいたらしいです。まあそれに比べれば岡場所で遊ぶのは安直だったと言えます。その後時代は明治へと移るにつれ、この遊興地は花柳界へと発展していきます。それと神楽坂通りが罪人の市中引き廻しコースに入っていたという記録があります。昔は十両盗むと首が飛ぶと言われましたが、つまり斬首刑です。

同じ死罪でも重と軽とがありまして、軽罪は首は斬られるのですが、処刑後に首と胴をつないで戸板に乗せて、引き取り手があれば引き渡し、その家では葬式を出すことも許されたそうです。ところが重罪はどうかというと、江戸城の東で起こした犯罪は千住の小塚原で、もう一つ江戸城の西で起こった犯罪は品川の鈴が森で、火あぶりや磔(はりつけ)により処刑されます。これに向かう罪人たちを引き廻したのを江戸五箇所廻しといって、江戸城の周り五箇所を引き廻したそうです。

神楽坂を通る江戸市中引き廻しは同じ死罪でも軽い方のですが、これは小伝馬町の牢の中にあった刑場で処刑されました。これは小伝馬町を出まして日本橋、銀座、虎ノ門、赤坂、そこから外堀通りを四谷、そこから市谷へ、その先の長延寺坂という坂を登り牛込北町に達し、そこを右に曲がって、袖摺坂という小路を上がって突き当たりの横寺町を右に、更に先の通寺町に出たらここを右に曲がって神楽坂通りに入り、そのままずーっと牛込御門前まで下りて、左に曲がり再び外堀通りを水道橋まで行きまして、そこから本郷へ上り、それから上野、浅草を廻って小伝馬町の牢に帰る。なんと歩行距離30kmにも及び、朝出ても帰りが夕方になるという延々とくたびれる引き廻しだったようです。何故こんなことをやったかというと、これはマスコミの発達していなかった頃ですから、悪い事をするとこんな目に逢うんだと市民に知らしめるためでした。

あと調べたことでは、もう死ぬことが決まってる罪人ですから、引き廻しの最中にあの店のあれが食べたいなどと所望すると許されたそうですね。それで引き廻しがやって来る時間になると、店の食べ物を食べられたら困るというので食べ物屋は店を閉めたなんて話があります。

行元寺の話に戻りますが、この辺は芸人さんが多く住んだところで、落語家の柳家金語楼さんや息子でロカビリー歌手の山下敬二郎さんも住んでいました。柳家金語楼さんは当時この辺に何軒もありました寄席ではスーパースターでした。あとこの人は有崎勉という名前の落語作家でもありました。それからいろんな物の発明家でしたね。ただこの人の発明で駄目だったのは毛生え薬だったそうです。(笑い)このすぐ脇に住んでいたのが神楽坂はん子さん、その他には長唄の杵屋勝東治とその息子兄弟の若山富三郎と勝新太郎、あと花柳小菊さんもいました。


11.地蔵坂

ここを出まして光照寺に行く道を「地蔵坂」というのですが、これは「光照寺」の子安地蔵が江戸時代大変に信仰を集めまして、その由来でそう呼ばれるようになりましたが、鎌倉時代の快慶の作と言われています。その他、光照寺の境内に住んでいた狸の家族が、この通りで夜な夜な石の地蔵に化けて人を騙したからという楽しいお話もあります。別名「わら店横丁」とも呼ばれましたが、通りに藁を商うお店があったからです。

それからここは今出版クラブ会館になっていますが、講談や歌舞伎でお馴染みの番随院長兵衛が風呂場にて槍で殺された、水野十郎左衛門の屋敷跡といわれます。これは水野姓の屋敷があってそこに大きな湯殿があったということかららしく、あまり信憑性には乏しいお話のようです。
なお昔はここに天文屋敷がありました。江戸時代の天文台があった場所です。さて光照寺に入っていきます。

熱心に話を聞く受講生


12.光照寺

ここが戦国時代の牛込城の本丸跡です。城主は群馬の赤城南麓にいた豪族の大胡氏でしたが、一族は14世紀頃に南関東に進出していました。時代は太田道灌が江戸城を開きます長祿元年(1457)の頃からのお話ですが、道灌は自分の主君の扇谷上杉氏に殺されてしまいます。この後から戦国時代の幕開けとなる訳ですが、その中で小田原の北条氏が勢力を広げ、北条氏綱は上杉氏を破ります。そのときに大胡氏は北条氏綱側にあって戦の功績が認められて、彼はこの地と桜田、日比谷、赤坂辺りまでを領有したといいます。その大胡氏が重行、勝行、勝重という三代に渡る居城をここに築きました。その後戦国時代はまだ続きまして、豊臣秀吉が全国制覇をして北条氏は滅び、徳川家康が江戸へ入って来ます。そして大胡氏はどうなったかといいますと、なんとこれが徳川家の家臣になっています。

北条氏は氏政、氏直と切腹、流刑で滅亡するのですが、武士の忠君の精神から見ると大胡氏は随分変わり身が早いもんだと思われるかも知れません。でも実際に戦国時代では次に誰が天下を取るかということを、いつも侍たちは鵜の目鷹の目で見ていた時代だったようです。政界のなんとかチルドレンみたいな人たちにとっては、今の世も戦国時代なんでしょうか。

大胡氏が徳川に下った後、牛込城はどうなったか?これは逸話として言われていることですが、あるとき徳川の家臣たちの訪問があった。この城は神楽坂では最も高台の海抜28mの地に建ち、昔ですから空気がきれい、高い建物が何もない、干拓地がなく海が迫っている、誰も皆視力が良かった、そういう条件下でここに立ちまして南の方角を眺めますと、江戸湾を航行する船が手にとるように見えた。そして江戸城の全容が一望の下に見渡せた。驚いた家臣からは「上様のお城を見下ろすとはなんたること」、ということで即刻取り壊しの命が出たそうで、それが牛込城の最期だったようです。

光照寺には「羽後松山藩主酒井家歴代の墓」があります。大変に古いお墓が45基くらい残っています。その墓地の逆の方に行きますと、「諸国旅人供養碑」というのがあります。これは神田松永町の旅籠屋の主人、紀伊国屋利八という人が、自分の旅籠で亡くなった人をその墓に葬ったものです。亡くなった人の名前、生国、没年が刻まれていて、旅客が全国から来ていることが分かります。当時は関所手形や往来切手を携えて旅をしたのですが、ここに一通の見本があります。土地の年寄・庄屋が発行した関所手形で、全国の関所役人宛に書かれたものです。

今のパスポートと同じ内容ですね。それから個人用の往来切手というものがあり、何の誰兵衛で何の用事でどこそこに行くからお通し下さいという内容のもので、これを見て利八は旅人を葬ってあげたのでしょうね。それからそのすぐ脇には「便々館湖鯉鮒の墓」というのがあります。江戸時代は平和な時代でありまして、御家人など武家から多くの狂歌師が出ていて、便々館湖鯉鮒と親交のあった大田南畝(蜀山人)もその一人です。

13.毘沙門天善国寺

次は「毘沙門天善国寺」です。ここは昔も今も神楽坂の中心でして、日蓮宗のお寺で山の手七福神の一つに数えられています。文禄4年(1595)年、徳川家康の命によって日本橋馬喰町馬場に建立されましたのが最初です。これが寛文10年(1670)に火事で焼け、その後で麹町に移転するのですが、更にそこが亨保12年(1727)またも火災に遇い、この神楽坂の地に移ったのが寛政4年(1792)のことです。以来神楽坂の毘沙門様ということで親しまれています。これは池上本文寺の末寺になります。祀られていますのが毘沙門天、これは別名で多聞天、北の方角を守って民に福をもたらすと言われています。

狛虎 江戸城は北側の守りを重視していました。特に搦め手の側に屋敷があります徳川御三卿の田安、清水、一橋のうち、善国寺は田安家と一橋家の祈願所になっています。

それと「狛虎」。ここのは狛犬ではありません。何だかヘンな虎ですね。これは当時の絵師や彫像師が実際に虎を見るということがなかったからなんです。もちろん写真もありませんでした。彼等は輸入された虎の敷物を木で組んだ台に架けて描いたり、ネコの動きを参考にスケッチしたりしたようです。

このすぐ脇には小さな祠がありまして、これが出世稲荷という稲荷神社です。江戸時代は神仏が同じ場所にあるのが普通でして、今の狛虎も普通は神社にあるものです。明治元年の神仏混淆禁止令でこれが分けられることになるのですが、実際には慣れ親しんだ神仏を簡単には分けられなくて、こうして小さくして残った訳です。


14.大手門通り

ここは昔、「大手門通り」と呼ばれていました。奥の方には牛込城の土塁の跡が石垣になっています。この上には湧水があり籠城などの際にも重要な水が確保できる場所だったようです。この豊富な水は一尺巾の水路に流れ込んで、あとでご案内する小栗横丁を通って外堀まで達したようです。

この角には「松ヶ枝」という大きな料亭がありました。これは明治から昭和の40年代までありました。経営者は有力政治家だった三木武吉の二号夫人のお竹さんという人です。このあとで経営は妹のお梅さんという方に代わりました。料亭の名前が松ヶ枝ですから、これで「松・竹・梅」が揃ったことになります。


15.若宮八幡神社

ここにはお客様をご案内しないこともあります。というのもここがまったく新しい建物になってしまったからです。しかし歴史的にはここら辺では一番古い神社です。源頼朝が奥州藤原氏を討伐する際ここで下馬して祈願をし、奥州討伐が叶った後、鎌倉の鶴岡八幡宮の御霊をここに勧請したということです。


神楽坂散策マップ



神楽坂という名前の由来は神社の奉納神楽が聞こえる坂道というところから来たと言われていますが、どこの神社が起源なのかは色々な説がありまして、市ヶ谷の亀岡八幡宮が牛込御門橋の上で神楽を奏でたというのや、早稲田の高田八幡の御旅所、築土八幡神社、赤城神社などもありまして、言ってみれば方々から聞こえてくるんです。私は色々なところから神楽が聞こえてくるから神楽坂という名前が定着したのだと思っていますが、古文書をたどった結果、ここ「若宮八幡神社」から聞こえたのが最初だというのが、今では有力説と言われています。


16.小栗横丁

それから出て「小栗横丁」に入ります。この横丁の入り口と出口に「小栗」姓の旗本の屋敷があったということから名前が付いたらしいんですが、両家の姻戚関係は分かっておりません。そして最後に見番です。

見番

17.見番

当時は「待合」「割烹」「置屋」を三業といいましたが、今は待合と割烹が一緒になって料亭となり、二業形態をとっています。昔は本多横丁に旧見というのがありました。こちら側は新見と呼ばれていまして、こちらが民政党、あちらが政友会ということでお互いにイデオロギーの食い違いから、相手のシマでは遊べなかったという時代があったらしいんです。

今のこの見番は一階が経理事務所、二階がお稽古場になっています。神楽坂が一番栄えましたのは昭和12,3年、その後戦争中は営業できなくなりますが、戦後の昭和37,8年も大変栄えました。今では30名くらいの芸者さんの数になっています。それでも芸事の好きな方、着物を着るのが好きな方が今でもいらっしゃいます。25歳までの女性の志願者の方なら面接をして下さるようです。

山口則彦氏 最後に今日私は着物姿ですから、「左褄をとる」という話をお土産に致しましょう。「褄」と「辻」という和裁用語があります。「辻褄が合わない」という言葉の語源ですね。これは着物を着る場合、先ず前を合わせます。背中の線を真直ぐにするためです。褄というのはこれから下の裾まで、これを言います。よく左前、右前という着方をしますが、この着方は右前です。左が前になっているのに何で右前というのか変ですね。これには意味がありまして右足の前に褄が来る、これが右前です。左前というのは左足の前に褄が来る着方を言います。

左褄を取るというのは前を互い違いにして褄を持ち上げるんです。これが「左褄を取る」です。これはどういう意味かというと、中の襦袢がありますね。これも当然右前になっておりますから、これを完全に密封してしまう、つまり手が入らないということで、これは「私は芸を売っていますが女を売っていません」という意味なんです。もう一つ関連しますが芸者衆の名前でよく男名前というのがあります。芳太郎とか勝吉なんて言うでしょう。これは深川の方から来たんですが、これも「芸は売りますが女は売りません」という芸者の心意気を表しているという意味のようです。
右褄をとる例もあります。

これは昭和初め頃花魁を撮った写真ですが右褄を取っています。これはここから手が入る訳ですね。これはお色気を売っているようです。横に写っているのは禿(かむろ)ですね。私の友達でこれを「ハゲ」と読んだやつがいました。(笑)もう一つの右褄を取る例としてはお嫁さんがいます。新婦が入場するときは必ず右褄を取っています。これは旦那様のお手が入りますようにという意味です。

今日はこんなところでおしまいにしたいと思います。ありがとうございました。

(拍手)




文責  山口 則彦
会場写真撮影  橋本 曜
HTML制作  和田 節子


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