現在位置: ホーム(1)講義録一覧 2007〜2009(2) >韓国縦断紀行 

WEBアクセシビリティ対応
ページの先頭です

平成19年11月9日神田雑学大学定例講座NO383



韓国縦断紀行

講師 田中 瑛也



(クリックをすれば該当の項へ進みます。
ブラウザの「戻る」ボタンで目次に戻ります。)

仏教国から儒教国へ

仏教国から儒教国へ(2)

韓国・二つの離島 済州島と江華島

韓国のアスペクト(様相)




講師:田中瑛也さん

仏教国から儒教国へ(1)

韓国は、朝鮮半島の南部に位置し、我が国に最も距離的に近い国で在る。日本文化の根幹を為す仏教をもたらした国でもある。その国の仏教寺院の現在の態に関心を抱き、一部の寺院を訪れた。

主たる寺院は半島南部に集中する。中国から朝鮮に仏教が伝来した流れは、大きく云えば、高句麗にA.D372.百済にA.D384.に伝来し、新羅がA.D574に仏教を公認し新羅がA.D676に三国を統一して、仏教を国教として定め、この世の仏国土の象徴として慶州に仏国寺を創建した。

寺院 その寺の建立目的は、国家の鎮護と衆生の救済、所謂経国済民にあった。初冬の柔らかな日が注ぐ仏国寺の境内は、儒教国である韓国ではあるが、仏に帰依する人々の姿を見かける。

山間の自然の環境に即して建てられた寺院としては、伽藍は整然と配置されている。 日本の寺院(主として奈良時代)と大きく比較して大きく異なるのは五重塔が存在しないことである。そして仏教の一宗派に限らず仏教全体を包括していることにある。
多宝塔
境内に入る門は蓮華・七宝橋を渡り入る安養門と青雲・白雲橋を渡り入る紫霞門とに分けられ、これは安養門は浄土門に通じて、青雲・白雲門は聖道門に通ずる。浄土門は極楽殿に到り、堂内には阿弥陀仏が安置されている。他方紫霞門をくぐると境内には、左に釈迦塔、右に多宝塔と石塔が視界に入る。

平城宮の寺院の東塔と西塔の縮小された印象を強くする。因みに多宝塔は、多宝如来が 釈迦の説法を賛嘆して釈迦に捧げる塔として建てた。正方形の基盤の上に八角形の三層の塔を載せた華麗な塔である。

これらの塔の間を通り直進し大雄殿に詣でる。この殿はこの寺の中核を為し、釈迦の御本尊を安置する。更に無説殿へと続く。この堂は経論を學僧が討議した場であり、韓国仏教が我が国の奈良仏教と同じく信仰としての教えを求めるとともに学問として、真理探究の場が寺院であったことが伺える。更にこの奥が二つに分かれ、左に昆廬遮那仏が安置されている昆廬殿、華厳経の教え、右には観音菩薩が安置されている観音殿、法華経の教えと大きな仏教の国土と深い仏教の系譜が大パノラマを現出し、我が身即身成仏、まさに悦楽の境地になる。

概して寺院の建築は、日本の建築に比べて柱、梁等に塗料が派手に塗布されていて大陸文化の香りを漂わせ、軒先の斗供、屋根の反り等に中国の寺院に比べて洗練さが見られるが、神仏習合を基本として建立され、素を礎に築かれた我が国寺院建築の違いは歴然としている。この仏国寺の創建された年、A.D751年と同年に発願者も同じ金大城により創建された石窟庵は、御本尊に釈迦如来を安置する。

前世紀の韓国の詩人、朴鐘和(1901‐1981) 「大仏」

千年を守れる沈黙

萬劫 つつがあらざり

泰然と在す御像

学ばほしや。


釈迦如来像 沈黙を讃えた詩の一節の釈迦如来像、その釈迦如来との対面を果たす。 本尊仏の身の丈は、3.48m。白亜の石仏は法の光を放ち新羅仏教の他の寺院の本尊が金銅の輝ける慈悲の光を放ち、衆生の心を救済するのに対し、智の教えを説き人間を人間たらしめんと自覚、悟りへの道に誘う。写真撮影に禁止、文化財保全の為ではあるが、ここは参詣者の心に、心(阿羅耶識)で捉えなさいとの勧行として受容する。

韓国の仏跡回廊は、三大名刹として名高い全羅南道の松広寺、慶尚南道の通度寺、そして慶州総本山、仏国寺、石仏庵を経て海印寺に辿り着く。この中で総本山は別格で、松広寺、通度寺、海印寺が三大名刹であることをお断りしておく。

通度寺 釜山から慶州に到る道中で、通度寺に立ち寄ったが、霊鷲山の山麓に位置するこの寺は、各堂ごとに建築様式が異なり、韓国の寺院建築の全ての建築様式が取り入れられ、伽藍配置も整然とはしていないのと、御本尊が安置されず、金剛戒檀に仏舎利が奉安されているのが、この寺院の特色である。

三名刹の一寺、松広寺には訪れる機会を得なかったが、八万大蔵経で知られる海印寺は、御本尊との御対面を果たした。海印寺
この寺は、韓国第三の都市大邱の南方の近郊にある。 伽那山標高1430mの南面中腹の存立する。華厳宗の寺院で寺の名「海印寺」は波の立たない鏡の様な海では、全ての生けとし生きる物の相が映し出される。

人の心も悩みが無ければ、真理がそのまま顕れる。との華厳経典の海印三昧から引いた由来を持つ。華厳宗ではこの三昧を根本三昧として、この三昧の力によって一切相応の世界が成り立つと説かれる。

山中に建立されている寺院だけに、石段を登り又登るの参詣である。山門の解脱門をくぐり中には、他の寺院と同じく石塔が視界に入る。正面階段を更に登ると大寂光院と称される本堂、御堂に安置されている昆廬遮那仏の金光が美しい。世界遺産に登録されている八万大蔵経が収納されている建物は、本堂に比べては侘びしい校倉造の建物で一番境内の高所で奥の場所にあった。

この寺は、A.D802年に創建されたが、元の兵火で寺院は灰燼に帰し、大蔵経の初版も同じく失われたが、究境の仏教徒によって江華島で復刻されて、A.D1251年に当寺院に帰還を果たした。貴重な経典は僅かな開口部からしか覗き見ることは出来なかったが、仏教の根幹を為すこの経典が、未来永劫に伝わることを願いつつこの山寺を去る。

今回訪れた寺院群は、韓国の地理的位置が、北は中国、南は日本に挿まれている関係上、幾たびとなく侵略を被り、戦渦を浴び寺院が焼失、破壊された不運な歴史を背負っている。しかしひたすら仏道を歩む人々の勧行により、復興再建されて今日荘厳な相で訪れる人々の心に安らぎをもたらす。

現代の韓国は、国教としては儒教を信奉しているが、仏教が他の文化と共に日本文化の形成に寄与したこと多大であることは、自明の理である。しかし14世紀以降朝鮮半島を統治した李氏朝鮮の遺した建築物に民族の信仰としての儒教に威信が感じとられる。その足跡の一端を仏跡の回廊に続けて訪れる。

メニューに戻る(M)


仏教国から儒教国へ(2)

●水原華城

韓国、仏跡の回廊は、大田を北上するにつれて、李氏朝鮮の威信を誇示する儒教建築と遺跡に、歴史の流れに順応するかの如く路線が受け継がれる。まず最初に訪れたのは、水原華城は首都ソウルの南40kmの場所に位置し、幾多の戦火を被った故に残存している部分は、城郭都市として自然の台地に一部は、抱き込み一部は現代都市水原の息吹の中に融け込んでいる。A.D1793年李王朝22代国王正祖が、父の思貞王の陵をこの地水原に移したが、父の霊の傍で暮らしたいと思う王は、首都ソウルにある行政府もこの地に移すことを、計画しその為の城を築いた。

遷都は実現せず3年足らずの歳月を費やして建造した建造物の中で、遺されている蒼竜門、華西門、八達門、長安門の門を城壁が築かれ、随所は崩壊しているが、最近修復された。朝鮮建築の白眉と云われる華城行宮の規模を知り、栄華であった王朝の面影を偲ぶ。

重い雲が垂れて寒さを感じて、城内を巡回する為に華城列車と呼ばれる、小型の搭乗車三輛を動力車が牽引し運転する観覧車に乗る。八達門から華西門に列車は、登り下りの変化のある道を走る。移り往く光景、現代の都市の様相とこの城が築かれた、400年の景観が一つの画面に収まる空間が続く。

八達山の小高い丘の上の茂みの中に建つスマートな鉄筋コンクリート造の観光案内所の建物の前で、列車を降りしばしそぞろ歩きをする。足下の悪い小径を登り頂上で市内を一望するが、生憎の天候で視界は悪い。この城の特徴は豪華な門の存在で、とりわけ屋根の重量観は人民に王の権威の威圧感を持たせる。石と木との材によって構成される朝鮮の建築は、耐震、耐風の配慮はなされいなく、王権の誇示する建築としての印象を強く抱いた。

現代の人々の暮らす市内を一望すると、首都の近郊として居住団地、高層マンションが立ち並び、カトリックの教会の尖塔も眼に入る。今日「冬のソナタ」が上映されて以来、韓国映画ブームが続いている。最近見た「私たちの幸福な時間」は死刑囚への純愛を捧げる映画であったが、罪を懺悔する死刑囚と神父とのシーンが強く脳裏を焼き付けたが、儒教国家韓国もその歴史において大きな変貌を遂げるかも知れない。

●ソウルの宮殿 昌徳宮

朝鮮半島の地理的位置は、ヨーロッパに例えればバルカン半島の地理的条件に極めて類似している。北に中国とロシアと超大国を、東方に日本が前世紀前半まで自国の利益を謀る為に手練手管の外交手段で悩まし、過去に国土を侵略もされ支配された歴史を持つ。 韓国史の中で外から見て安泰であったのは、李王朝(1392-1905)の凡そ500年間である。

その間にも我が国より豊臣秀吉の2度にわたる侵攻、文禄の役(1592)慶長の役(1597)を受けたが、王朝としての体制は維持した。長きにわたる体制の維持はこの国特有の両班体制に依ると云わねばなるまい。

両班(やんぱん)とは、要約する為に百科事典から引用すれば、 朝鮮の高麗、李朝時代の官僚および官僚を出しうる階級。文班(東班)、武班(西班)の総称。両班階級のものは下級官職以外の主要官職のすべてを独占し、兵役・賦役その他の税を免ぜられ、法廷でも平民と異なる優遇をうけ、広い土地・山林・沼沢を占拠した。

平民は両班に対して敬語を用い、両班の前では喫煙せず、道であえば馬や駕籠(かご)からおり、徒歩者は道をゆずり、両班の私的な裁判・処刑をもうけた。(平凡社百科事典)

五代故宮 以下略するが、今日の韓国ではその体制は、崩壊したとされるが、人々の認識としては残存している。この独自の体制は国に平安をもたらしたか、あるいは他の諸国より精神、物質両面で遅れを招いたかは、各人の歴史認識に委ねるとして、首都ソウルの中心にある宮殿の一つ、昌徳宮を訪れる。

李王朝が代々にわたって築いた宮殿、景福宮、昌徳宮、昌慶宮、徳寿宮と王と王妃の位牌を祀る宗廟とを総称して、五代故宮と呼ばれるが、これらの建築群の中でも一際抜きに出て、朝鮮の伝統様式を結集して建てられた宮殿である。

A.D1405年第3代太宗の時代に、景福宮の離宮として建設、その後正宮として改修され第15代光海君から第27代純宗まで約270年間、正宮としての役割を果たした。都心の高層ビルに囲まれた緑地に建つ宮殿見学は、しばしのタイムスリップ感を体験せしめる。敦化門をくぐり仁政殿へ、この宮殿の建物も創建時のたたずまいを遺す建物として、楽善齋、宙合楼等とともに貴重な建造物である。この殿は、国王が執政を行った場所である。

概して朝鮮の建築は、この建物に限らず色彩が鮮やかで、素木を尊ぶわが国の古建築との差違を歴然と見る。色彩が派手では、落ち着いて政治が執れないのではとの穿った見方もする。宣政殿は重厚な青い瓦が象徴、その認識は現代の大統領府の屋根青瓦台に次がれている。

宣政殿は、王が大臣と国政について討議する建物として使われた。主要な建物の中でも、楽善齋は他の建物と比べては、異色の建物で外壁を真壁、柱と白壁で屋根を黒い瓦で葺き、日本建築の詩趣を感じさせる。1847年第24代憲宗の側室金氏が居住した建物である。宙合楼は、天と地との合一を顕した建物、国政を担う人材養成の場として活用された。この昌徳宮で朝鮮は、中国(明、清)からの国賓をもてなす場として使用する為に、室内の装飾には金に糸目をつけずに施した。

他方日本とは江戸時代に、幾度となく朝鮮通交使として政治、文化の交流があり、まさに北方から中国の様式、東方から日本の様式と受容して混淆の建築が宮殿として造営された。同時に国家の隣国との交誼に腐心した思いも見られる。昌徳宮の敷地の大半は、秘苑と呼ばれる草木に覆われた庭園である。この庭園で王族は宴を催し、ただし参加する人々は既に述べた両班の階級の人々であり、平民は塀の外に置かれていたことに着目すると、各国の歴史の共通性が見えてくる。

●ソウルのネクロポリス 宗廟

宗廟は、昌徳宮に隣接する地にあり西欧風に表現すれば、ネクロポリスである。昌徳宮等が生の世界での国王の業績を讃える建物であるなら、死の世界での国王を偲ぶ建物が廟であり、いわば生と死の一対の存在として建物を捉える。儒教で、孔子は死後の世界の存在を否定しない。敬して遠ざけている。

「未だ生を知らずして、いずくんぞ死を知らん。」(論語)宋學(朱子学)の儒教をと尊ぶ李氏朝鮮は、国家の信奉する儒教とともに、庶民はシャマニズムへの信仰が根強く、例えば鬼が霊魂として死後の世界を彷徨う。その霊が現世の人々を悩ますので、祭礼を行い霊を慰めた。

宗廟も王家代々の霊を慰める為に建立された。要は当時李王朝の時代での現世の人々は、この廟に立ち並ぶ霊柱に未来永劫絶えることのない王権の継続を願ったであろうが、王朝は断絶した。21世紀の韓国人は寺として考えるのを聞くと儒教精神も過去に説かれた教訓であると思わせる。

建物は生の世界を象徴する昌徳宮の豪華さに比べると、宗廟は切り妻屋根の単純な建物で、正殿と永寧殿と並んで建立されている。正殿は第19代以前の王と30代の王妃の位牌が、永寧殿は正殿に位牌を祀る場所が足らず、正殿の西側に建立した。

ここには太宗から以前第4代の先祖、正殿から移されて、追善された王と王妃34位が祀られている。敷地の一隅にある望廟楼は、王が先王を偲んでこの廟を訪れた時に、この東屋で憩いをとった場所で、この東屋よりは、その前に面している池、天円地方池の存在に関心を持った。誰しも人は幼年期は、天空は丸く、地球は丸いと考える。

近代科学では、一笑に付する問題であるが、古代中国の人々は真面目に信じていた。我が国に残る陵、前方後円型はまさに和を行く型式で天と地の間に霊は安らかに眠る。しばし思いを巡らせると、この世とあの世の出会い、中国、韓国、日本と一本の線で繋がれる。

メニューに戻る(M)


韓国・二つの離島  済州島と江華島

●済州島

 古代、新羅王朝以降この島は耽羅(たんら)と呼ばれた。属領の扱いで政治抗争での敗者、犯罪人達の流刑地として使われた。東シナ海の北東端に位置して、気候温暖で朝鮮半島とは異なる自然の美しさに今日、観光開発に人々は積極的に取り組み、国際的なリゾート・アイランドとして脚光を浴びている。

竜頭岩

○竜頭岩

済州国際空港にほど近く自然の景勝観光地として、竜頭岩を訪れる。竜頭岩に到る本道から小径との分岐する入り口に、この島の顔、トルハルバンの石彫が対をなして立っていた。島の守護神、子宝の神として土地の人々に愛されている。愛嬌ある笑みを浮かべての歓迎を受け、足下の悪い道なき道を下り、長閑なさざ波が無骨な岩肌に押し寄せる東シナ海の海辺に出た。

韓国人のガイドが、「あれが竜頭岩ですよ。」と指し示す。この島のシンボル漢怒山の神の所有物である玉を盗んだ竜が、神の怒りにふれて岩にさせられたとの伝説を持つ。日光の滝にも竜頭滝との名の滝があったと記憶するが、竜は東アジアの民に共通に愛される動物である。奇岩の一つで足下が悪くより近づけないが、遠景としての眺望を写真に納めてこの地を去る。    

○三姓穴

州都とはいえ田舎風の都市の中心部にある三姓穴を訪れる。耽羅国家を築いた始祖、高乙那、夫乙那、良乙那の三神が大地から現れたとの伝説の穴である。天への信仰と地への信仰は、双輪の如く歴史を形成したが、この三姓穴は、地霊信仰の典型である。公園らしき茂み、芝草の地の一画に囲みを造り、三つの穴を温存している。この場所を毛興と呼び、三神は島に流れ着いた娘と結ばれ、子孫を増やした。

聖書の創生記には、アダムとイヴの男女の名が読めるが、当地の神話は男性のみ男尊女卑は東洋での神話の普遍性であるのかも知れない。因みに済州島の住民の姓に高、夫、梁(良)が多いと聞く。この島の見学を一日で終えるは、忙しい。済州市を離れて車は起伏の激しい道を、島の東端へと進める。

○城山日出峰

朝鮮半島から南に100kmの位置し、東西73km、南北41km、の規模、大阪府の面積にほぼ等しい島で、佐賀県と同緯度にある済州島、その最東端にある城山日出峰は、名の如く島の人々が日の出を拝む聖所である。海岸線は荒々しい地肌を現し断崖、しかしその海浜に到るまでの敷地には、広々として牧草地で牛が草を食む。長閑な初冬の陽光を受けながら、しかし海から吹き付ける風に冬の季節であることを知らされる。

済州島には、韓国で最高の高さを誇る漢怒山(はるら)、標高1950mと呼ばれる火山がある。島はこの火山の噴火によって発生した出来た。火山から溶岩が流れて冷却して冷却し、カルメラ焼きの様に空洞が生じて洞窟が多く出来た。既に眺めた竜頭岩の奇岩も火山噴火の活動によって生じた産物の一つである。

したがって済州島の自然は、火山の噴火で生じた大溶岩が全島を支え、その上に堆積した土が農耕する土地を供しているのだが、溶岩の下には伏流水が多量に流れ、その水が海へと流れ地面と海面との落差によって滝を造る。まさに天地淵湿布はその様相を見せてくれる。

天地淵湿布

○天地淵湿布

  島の東端から海岸線に沿い、南にくだり西に向かい、島を丁度半分に切った海浜に天地淵湿布はある。島の地盤の形成の経過で述べたが、天と地とが合わさって出来たという壮大な名のつく滝は、高さ23mで秦の始皇帝の使者、徐市が秦からこの島に不老草を求め来島した際に、この美しい滝に見とれてたとの伝説が伝わる。

日は水平線に姿を隠す夕刻の東シナ海に面した滝の傍らに、呆然と立っているとえも言えぬ寂寥感に襲われる。しかしこの島は、地理的に中国と日本との中間に位置し、気候温暖の島として古来より人々の羨望の的となった。

中国より秦の始皇帝か使者を使わした話が伝わっていることは、述べたが我が国にもこの島に因んだ話が伝わる。戦中時国民学校で私は国語の教科書で田道間守の忠君の話を習った記憶を思い起こした。田道間守が天皇の命を受け、常世の国へ不死の良薬として橘の実を求めて船出した。彼は橘を得て帰国したが、天皇は既に崩御しておられた。当時は忠君愛国の思想教化の目的もあって、教科書に登場したのであるが、司馬遼太郎説によると、橘の木が植わっていた島がこの済州島である。 

○城邑民族村

済州島の人々の暮らしに関して興味を持っていたので、城山日出峰から天地淵湿布への道程の中程に城邑民族村に立ち寄った。この村は国の民俗資料保護区域に指定されている。この村は、現在住民が居住しているので住居の中は見学出来ないが、小石を積み上げた村壁で区域が囲まれ、茅葺き屋根、石壁で構築された平屋の凡そ350戸の住居が見た目には乱雑に立っている団地を形成している。ガイドはこれらの住宅の解説でオンドルについて詳しく話した。現代風に表現すれば、パネルヒーティングである。床を暖めて暖を摂る。

朝鮮半島全土で古来より今日に到るまで、庶民の住まいに用いれられた暖房装置である。物理的に家全体を暖かくするオンドルは、心的に家族愛を育み儒教精神、祖父母、父母、兄弟姉妹の秩序を体型づけた朝鮮の民族精神、両班組織と深く関わりがあると言える。 しかし都会の高層マンションの乱立を見ると、近代化の名の下に一家大家族主義の崩壊する相も見える。

「三多、三無、三麗」と済州島文化、三多とは石の建造物、風、海女等の働き者が多い。三無とは、乞食、泥棒、門が無い。三麗とは、人々の心、自然、果物を表現し、住民は誇りとしている。ソウルを始めとして、大都会が国際化され国の特色は失われつつある、今日ここ済州島はリゾートランドではあるが、桃源境でもある。

●朝鮮半島の来し方を語る江華島

首都ソウルの都心から西へ、車で一時間足らずの距離にある江華島、江華大橋を渡り島に入る。東シナ海に流れ込む漢江を挿んで、北朝鮮との南北境界線に面する。韓国での5番目の大きさの離島である。この島に伝わる神話の一つに、この島の一番高い山、摩尼山の頂上に方形の祭壇に国民が朝鮮民族の始祖として崇めている、壇君が祀られている。

壇君は熊の化身である熊女から生まれた女と、天帝を祖神とする男が結婚して壇君が生誕したと伝えられ、その場所が江華島摩尼山であると伝わる。

歴史は下るがA.D1356年高麗王朝は国内から元の軍を追い出したが、拠点をこの島に置いた。 度重なる蒙古軍の応戦の中で護国仏教の経典、焼失した八万大蔵経を当地で敬虔な仏教徒が版の復刻に勤しみ、完成させ海印寺に奉じ、現存の海印寺に蔵されている大経典は苦難の中に信念を持って復刻んだ人々の労苦の賜物である。

A.D1392年高麗の将軍、李成桂が王位に就きA.D1393年国号を朝鮮と改め、李氏朝鮮の500年有余にわたる歴史は始まる。王朝は国教を仏教より朱子学を根幹とする儒教に定め、ソウルの南山に護国祠堂を建て、御本尊として壇君を祀った。壇君は世俗の信仰より人格神として基幹としての国家形成に寄与した。その淵源については既述したので省く。

時代は下ってA.D1871年アメリカの軍艦が江華島の沖に錨を下ろし開国を朝鮮に求め、数日間の両国間の争いで朝鮮はアメリカの軍艦を追い払ったが、朝鮮政府は厳しい鎖国政策を執るようになる。ついでA.D1876年日本政府が朝鮮に開国条約の締結を求め、釜山で難行した交渉を江華島に移し強行に結ばせ、朝鮮政府のとった鎖国政策崩壊の糸口を作った。枚挙に暇がない、無論中国より伝来した仏教もこの島を足がかりとして朝鮮半島に入った歴史を足跡として刻む。この島に遺された寺院、とりわけ伝灯寺は古寺名刹である。

伝灯寺

○伝灯寺

島の南部、壇君の三人の息子達で築いた三郎城の麓に建つ。三国時代(百済、高句麗、新羅)A.D372年高麗忠烈王の王妃がこの寺に玉灯を下賜したことから灯を伝える伝灯寺と称される所以となった。

「自らを灯明とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、真理(法)を灯明とし、真理をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ、」と釈迦の説く阿含経の教え、自灯明・法灯明 の教えに根差している境内は樹木は生え茂り、石段の多く起伏に富んで、静寂な山寺の風情が漂う。

山腹という敷地に拓かれた境内なので、伽藍配置は整然とはしていないが、中心となる大雄殿、頭貫の端の蓮花、梁の端の鬼、隅柱の上部の彫り物、天上面に描かれた極楽鳥と蓮花の絵は鮮やかに堂内を彩る。

地蔵菩薩、十王、鬼王等が安置されている冥府殿、薬師如来が安置されている薬師殿と仏教の宗派を越えて、仏国寺参詣の時に感じた思い、自己の信仰する宗派から仏教を観るのでなく、仏教全体から自分信仰する宗派の教えを観るとの思いを強くした。

概して日本の寺に比べて、斗供、軒先、堂内の色彩が派手で中国色、外観は日本の寺院の薫りが漂い、まさに大陸と島国の調和を保ち、朝鮮は日本への仏教伝来への架け橋の勤めを担っていると言える。しかし既述した如く儒教国である韓国は、仏教の信者も存在するが寺院は総じて學僧の場であり、聞覚(修行して悟りに到る僧)達の灯を伝える勤めに人間としての尊くて厳かな境地を感じる。

○江華支石墓(巨石墓) ドルメン

江華支石墓(巨石墓)  伝灯寺から島の狭い道を迂曲して北上すると枯れた芝草の広野に出る。その野の中心に低い鉄柵に囲まれた区画があり、その中にΠ型の形の岩が置かれている。この島に30余の石墓が存在すると云われ、青銅期の古墳の一つでこの古墳が一番規模が大きい。高さ2.6m、長さ7.1m、幅5.5m、机状の形で安立する。韓国には半島南部に遺された和順支石墓群(光州近郊)と高廠支石墓群と併せて、世界遺産に登録されている。

英国南部のストンヘンジと比べれば、規模の点では見劣るが、紀元前にユーラシアの東端と西端(英国は大陸ではないが)いずれも海の幸、山の幸に恵まれた土地、類似した営みを人類が行って史実に興味を抱く。今にも泣き出しそうな厚い雲、車は高麗人参畑を眺めながら、帰路に就く。冬季であるので畑は、一面に白いビニールに覆われていて異常な景観を呈している。この高麗人参を得んが為に明が朝鮮に圧力をかけたと聞くが、現在でも韓国の人々には、日常生活を円滑に過ごす為に活力源になっていることは間違いのない事実である。

メニューに戻る(M)


韓国のアスペクト(様相)

●韓国の顔

韓国第二の都会釜山は、我が国からの最も近い都会である。下関から出る関釜フェリーのジェットホイルのビートルに乗れば、3-4時間で到達する。成田からの航空機は搭乗時間は2時間15分だが、空港までの所要時間、搭乗手続きの時間を考えると、西日本の下関近郊の人にとって格段に近距離である。

かって日本統治下であった頃は、この都市の日本人の居住者の人口は、各国人の人口を上回ったと云われる。港湾都市として高速道路の建設等、今まさに都市改造中交通渋滞は首都ソウル以上で、高低の激しいく幅員の狭い道路状況はより交通の条件に、拍車をかける。都市一望が出来る釜山タワーに登り、視界には対馬海峡の海面を、高度成長期を経た韓国経済の産物である高層ビルが、自然の景観を遮る。

ここ釜山の都市の高台にあり、市民憩いの場である竜頭山公園のシンボルは、なんと言っても李舜臣将軍の銅像である。戦国時代豊臣秀吉が朝鮮に侵攻した文禄の役(1592)に見事我が水軍を打ち破った功績を讃えて立てられた。銅像の眼は対馬海峡を凝視し、永久に日本からの侵略を阻止する相にとれる。その後彼は慶長の役(1597)で戦死した。しかし韓国国民の持つ日本への侵略国としての批判精神は根底に流れ続け、その一つ顕現がこの銅像である。

●工芸芸術の粋陶磁器

韓国の誇る工芸品に陶磁器がある。11世紀末高麗王朝には青磁器が高貴の人々の間で用いられたが、13世紀元の来襲、高麗王朝の衰退とともに粉青沙器が14世紀ー16世紀に陶磁器として人々に多く用いられる。その工芸としての芸術性に気品を感じさせるが、李王朝に入ると磁器は白磁が製陶の中心となった。中国からの明の朱子学を受け入れた朝鮮は、装飾を廃して華美を嫌う儒教道徳観に沿って白を主体として磁器を焼いた。

ソウルの近郊にある著名な利川陶器村を訪れ、窯を見学したが白磁が焼かれ、売られている。余談ではあるが。韓国大統領府の建物は、青瓦台と呼ばれ、青色が用いられているが、古代朝鮮の伝統を維持しているのか、矛盾が生ずる。陶磁器の話題に関連するが、韓国民は食器を夏季は陶磁器を用い、冬季はステンレス製の食器を用いる。この習わしの発端は、宮廷では夏季は陶磁器、冬季は真鍮の食器を用いて食事をとったことに依る。しかしステンレスの食器では、学校給食を摂っているかのようだの声も聞かれる。

●韓国人の自然観

朱子学を取り入れた李王朝以降茶道は仏教との関連が深いので忌み嫌う。韓国では良いお茶が飲めないし、人々はウーロン茶等あまり飲まないので購入すると高い。しかしお茶を漢方に倣って韓方として薬という名目で飲用する。人参茶、ナツメ茶等を伝統茶と呼び、日常飲用する。

茶道と双輪をなす華道も韓国人は、植物を切ったりしないで自然まま茂生して愛でるのが、自然の理に叶い日本人の愛好する盆栽などを「縮みの文化」と称して蔑視するが、半島を縦断して車窓から見える山々は禿げ山の連続である。古来から使用したオンドルの燃料と家の屋根瓦を焼く燃料に消費し、植林を怠ったのが因であり、鳥や動物を見かけないのは、山に草木が繁茂していないからからで、一抹の寂寥感と矛盾を感じる。

●ハングル文字

日本民族と朝鮮民族とは同じツングース族を祖として女真族、モンゴル族と同じ範疇に入るとの定説がある。ところで朝鮮族は母語であるツングース系の語を捨て、漢語を取り入れ、使用していたが李王朝期14世紀以降ハングルを用いる様になった。つまり二回国語の形態を変えた。ここで問題なのは、漢語は孤高語であり一文字で意味がある表意もじである。

ハングル文字は表音文字である。日本語は漢語を用いた膠着文で、中国語とは異なるが、表意文字である漢語に依って意味を理解する。何故儒学の朱子学を取り入れ中国以上に儒学精神を尊んだ李氏朝鮮が東アジア民族共通の表意文字による言語を捨て、表音文字による言語を国語としたかその因を求むれば矛盾を感ずる。

●今後の課題

近くて遠い国韓国として、本文で随所に述べたが、根底に流れる血は同じ祖を有するとは云え、対馬海峡を隔てての地理的環境に加えての人為的に辿った道が、そこに暮らす人々に価値観、ライフスタイルに共通点も見出すが、差違点も数多く見る。

二千年の歴史に及ぶ文化、外交、経済等の交流の中、永遠の相の下で、古代朝鮮史上の白村江の戦いを緒として、豊臣秀吉に朝鮮の役7年、前世紀日本帝国主義の領土拡張を因とする36年にわたる日韓併合と怨念と罪過の歴史が、両国民の上に大きく負の遺産としてのしかかる。

ともかく過去は、過去として歴史の教訓に学ぶことは、当然であるが今日、各国民の持つ固有の文化が、例えばキムチとお新香という様な両国固有の食文化が、やがて文明という名の下押し寄せる国際化の大きな波に泡の如く消えるであろう。

国際化か、国粋化か。Quo va tes?(汝 何処か)の生ずる問は各国独自の立場で決断しなければならない。文中韓国と朝鮮の国名の使用に混乱をきたした点もあるが、南北朝鮮が統一を果たし、半島に一つの国家としての姿を見せる時に、初めて真の民族としての在り方の文化が語れるのである。終わり

メニューに戻る(M)




文責:田中 瑛也  写真撮影:橋本 曜  HTML制作:上野 治子

本文はここまでです

このページの先頭へ(0)



現在位置: ホーム(1)講義録一覧 2007〜2009(2) > 韓国縦断紀行


個人情報保護方針アクセシビリティ・ポリシィ著作権、掲載情報等の転載、リンクについて連絡先

Copyright (c) 2005-2007 kandazatsugaku Organization. All rights reserved.