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神田雑学大学講演抄録 第386回 平成19年12月7日

絵で見る江戸のユーモア

―豊かな発想と遊び心―

講師 川上 千里 


目 次

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1.はじめに

2.世界と江戸

3.豊かな遊び心

4.江戸っ子は世界一の園芸愛好家

5.おかげ参り:旅行者天国?

6.江戸の物売り、リサイクル便利社会

7.錦絵(浮世絵)の誕生

8.江戸の遊び絵

9.江戸のユーモア、反骨精神、言葉遊び

10.終わりに



1.はじめに

講師川上千里さんの顔写真  私は薬に関わる仕事をやってきて健康にずっと関心を持ってきました。免疫力を高めるには笑いが有効だという話を以前させていただきましたが「日本笑い学会」の東京支部運営委員をしており、笑いのネタを色々集めております。江戸時代の絵に面白いものが色々あり、それを笑い学会の研究会で発表しましたところ、あちこちから話してほしいと言われるようになりました。難しい話はできませんが、いろいろな絵を見ながら話をさせて頂きます。

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2.世界と江戸

 江戸時代というのは日本の近代化を遅らせた封建社会として明治維新後は否定的な見方がなされてきました。昭和30年代以降日本が急速に経済発展をしたときに、驚異的な発展が出来たのは江戸時代の社会体制なり文化が関わっているのではないかということで江戸文化が見直されました。その時以来、江戸に関する本が沢山出版されまして、その中には色々な面白い絵が入っているものがあります。

 天下泰平で300年近く戦争が全くなかったという国は珍しく、しかも江戸は世界一の人口を抱える都市でした。江戸中期には江戸の人口が120万人でした。当時のヨーロッパで一番人口の多かったパリでさえ70万人、ロンドンで50万人ということですから、江戸はダントツの世界一の都市、しかも高い文化度を誇りました。江戸の人間の約7,8割は文字の読み書きが出来ました。ちょうどその頃イギリスで産業革命が起きておりましたが、そのときのロンドンでさえ人口の20%から30%の人が読み書き出来た程度と言われています。

 しかもこの江戸の文化は参勤交代で地方にもたらされ、日本全土の文化程度は非常に高い状態になったわけです。文化レベルが高く民衆の知的好奇心が大変高い時代だった。そして天下泰平で治安が良かった。侍が街角で刀を振り回すなんてテレビや映画のようなことはめったに起こらなかったのです。

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3.豊かな遊び心

江戸っ子の趣味一覧図  平和が定着し人々の心にゆとりがあった為でしょうか自然愛好が大きな楽しみの一つでした。江戸の人たちには豊かな遊び心があって、園芸、釣、虫や小鳥の飼育、遊山、旅行などが大変流行しました。例えば上野の山の鶯の鳴く声が悪いというので上方から沢山の鶯を捕らえてきて上野の山に放すというようなことまでやったそうです。

 それから見世物です。芝居が一番高級な遊びですが、寄席や見世物、ご開帳といって有名な寺院などの宝物を持ってきて見せるものなども大繁盛しました。

 知的な遊びも俳句や川柳に始まり、狂歌、草紙、錦絵なども大変盛んで大衆にとけ込んだものになりました。とにかく好奇心が旺盛で色々な遊びをたくみに考えた時代です。 おならで音楽を演奏する人まで現れました。平賀源内は放屁論という本を書いていますが、おならで色々な曲を演奏して江戸中の評判になった人の独創性を絶賛しております。

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4.江戸っ子は世界一の園芸愛好家

江戸時代の庭を描いた書物の図  さて江戸は世界一の園芸愛好国でした。幕末にヨーロッパの人たちがやってきて驚いています。ヨーロッパにも大きな庭園がありますが、あれは貴族がお金を出して作ったもので、庶民の楽しみにはなっていないのです。

江戸では武家、百姓、町人に至るまで園芸愛好家でした。そして巣鴨と染井のあたりは膨大な苗木の産地として世界一の産地だったといわれています。
しかも育種技術が世界一。
駒込駅前には染井吉野桜発祥の地の記念碑があります。

江戸時代の朝顔について描いた書物の図  この写真は江戸時代に育種をし約二千種あったといわれている朝顔の花です。殆どが消滅し、ごく僅かな品種が愛好家により残されてきたものです。

なぜそんなに園芸が盛んになったのか。まず緑地が多かったからといわれます。江戸の土地の69%が武家地、寺社地を加えると84%、この広い土地に江戸の住民の約半分しか住んでいなかったのですから緑地が多いわけです。そんな環境のなかで将軍家が初代から3代まで非常に園芸好きで、家康は駿府の国から庭師を大名扱いで連れてきたといわれるくらいでした。

ですから江戸の各大名は競って庭作りに励み、例えば肥後椿なんていうのは肥後の殿様が門外不出にして持ってきました。各藩が秘蔵の苗木を藩邸内で育て、他藩に持ち出した侍が打ち首にされたこともあるというくらい大切にされたのです。そういう上屋敷、下屋敷が小石川後楽園や六義園、浜離宮、清澄公園という形で残っているわけです。大久保では鉄砲組がつつじを栽培し、あの辺がつつじの名所になりました。

江戸見物第一に銭と金と書かれた図  春は花見、夏は花火、秋は月見や紅葉狩り、冬は雪見ということで江戸庶民は季節ごとに行楽地に出かけ四季を楽しみました。「江戸見物第一に銭と金」という川柳がありますが文字通りの江戸見物にはお金がかかるという意味以外にも意味があります。

銭というのは寛永通宝のことで、これは上野の寛永寺を指します。金というのは金龍山浅草寺で浅草のことです。江戸見物をするときはまずは上野と浅草に行きなさいという意味もあるのです。こういう言葉遊びが江戸では盛んでした。

江戸の苗木屋の店先図  先ほど染井が苗木の産地といいましたが、そこでは苗木屋が技を競いました。これは一本の菊に百種の接木をしたものの絵です。
菊の品種を100種類も確保できたことも驚きです。しかもそれを一本に接ぎ木をして一斉に咲かせるという技術、今はこんなことが出来る人はいません。
技術だけではありません。儲け仕事をこえた趣味道楽や生き甲斐というものに没頭できる環境、考え方があったということでしょう。そして100の花を名前まで克明にスケッチして絵に描き、それを版画にするという、よくぞまあやるものだという気がします。

 江戸も早い時代は樹木の栽培が主でしたが後になりますと花物が流行します。どんなものが流行したのか。椿、梅、牡丹、つつじ、橘、花菖蒲、朝顔、菊、楓、七草、百合、桜草、なでしこ、それから花が咲かないおもと、まつばらん、せっこく、そてつなんかもはやりました。そして珍しいものはお金になったのです。一鉢2000両の橘も出たという具合です。そういう奢侈が広まるといかんというわけで幕府が高額取引は禁止したそうです。

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5.おかげ参り:旅行者天国?

東海道中膝栗毛の挿絵  この絵は東海道中膝栗毛の中のものです。この本は弥次さん喜多さんでおなじみの江戸時代で一番ヒットした本でした。絵も文も書いた十返舎一九がはじめに大手の版元へもっていっても相手にされなかったそうで小さな出版社がとりあげて爆発的に売れました。江戸時代に物書きで飯が食えたのは十返舎一九だけだそうです。他の作家は他に内職をしないと食べていけなかったそうですが、この本は21年間毎年続編が出版されました。十返舎一九が本を出した時は寛政の改革の後で息がつまったような閉塞感の中なので、軽妙洒脱なこの本が爆発的に売れたとも言われています。これにはおかげ参りの流行も関係しており、この時代江戸は旅行ブームになり、旅行記が盛んに読まれるようになったのです。旅行の名目を神社仏閣の参詣にすると、信仰ということになるので幕府も大目に見て許可をしました。何処何処詣でということを名目にして旅行に出かけることが多かったといわれています。

 おかげ参りとはお伊勢参りの大流行のことです。それには一次二次三次四次とありました。第四次は最も大きな流行となりました。その時は年間450万人、日本人口の15%がお伊勢参りにいったことになります。名目上は信仰だということ、庶民の鬱積のはけ口を押さえ過ぎるのは良くないことから幕府も取り締まらなかったのでしょう。

 大流行のときは、通行手形はいらない、親も勤務先も一切文句が言えない。途中の宿場なんかでは喜捨の炊き出しをしたりして無銭旅行を助けたといいます。まあ江戸時代は旅行中行き倒れが出ると藩が責任を持って生まれた国まで届けなければならないという幕府の指導があったそうです。これを逆用してお金がなくなると仮病を使うという者もいて、各藩は迷惑がってともかく隣の藩まで何とか出て行ってもらおうとしたという話があります。なにしろ庶民、それも女性だけでも安心して旅が出来るという社会は、世界中でこの時代にはなかったそうです。

 明治維新直後にイギリス人女性作家が東北地方を通訳をつれて旅行した手記を読んだ記憶があります。「女が安心して2人で旅が出来る国があるとは驚きだ。こんな幸せな国が開国し欧米の文明を取り入れて本当に幸せになるのだろうか」とまで書いたように思います。

広重の東海道五十三次客引きの図  有名な広重の絵で旅館の前の客引きの絵です。

お客をとる秘訣は4,5人群がっていたら、一番弱そうな人の荷物を引っさらって客引きが旅館の中に逃げてしまう。
すると仕方がなくそのグループはその旅館に泊まるようになるという話です。

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6.江戸の物売り、リサイクル便利社会

 江戸時代は横丁の中で何でも手に入る時代でした。車を使わないでボテフリで細い路地裏まで入ってきました。あたかも動くコンビニが家の前にやってくる如き便利な社会でした。単品をひとりで担いで売って歩くわけです。そば、うどん、稲荷寿司、うなぎ、汁粉、雑煮、おでん、茶飯、煮しめ、ところてん、白酒、枝豆、八百屋、魚、納豆とあらゆる物売りがありました。縫い針なんかも売りにきますし、吉原細見というようなものまで売りにきます。

講師川上さんの写真  吉原細見とは吉原のどの店に行けばどんな女郎がいて、幾らくらいかかるというような詳しい情報を書いたもので、吉原細見を買うときは家の前で「おーいそれくれや」というのが恥ずかしいので、やりすごしておいて、追っかけて買うというような川柳が残っています。
いろいろな物を格付けする番付も売られていて、今のレストランのランク付けなんていうのは江戸では、東の大関は何処の料理や西の大関はどこ、関脇はどこと言う具合で番付が出ておりました。

その他宝船の絵、七草、福寿草、野菜苗、朝顔、松虫、稗蒔き(ヒエまき)売りなんてのもありました。宝船の絵は正月の二日に枕の下に入れて寝ると良い初夢を見られるというものです。
ヒエ蒔とは今で言えばイチゴのパック程度のなかに土を入れて、そこにヒエを蒔いて緑色の芽が出てきたのを買う。ただ緑が芽吹いているだけのものを「緑はいいなー、春だなー」と楽しむ、ヒエの苗の緑だけを楽しむ余裕は今の人間にはないですね。

 江戸時代は工業生産ではないので可能な限りリサイクルされます。横丁を回ってくる修理屋は提灯張り、鼻緒のすげ替え、下駄の歯入れ、鋳掛、鏡研ぎ、羅宇屋、これはきせるの竹を替える人ですね、臼の目立て、眼鏡直し、算盤直し、桶直し、焼き接ぎ屋などもあります。

 焼き接ぎ屋というのは割れた瀬戸物をくっつける商売です。「焼き接ぎ屋夫婦喧嘩のわけを聞き」という川柳がありますがこれは壊れた瀬戸物だけでなくて夫婦仲の壊れたものまでなおしたという川柳です。「焼き接ぎ屋己が娘は直しかね」というのは娘の傷物は直せないという意味です。江戸以前までは欠け茶碗などは漆で接いでいました。江戸時代に熱をかけて接ぐ方法が開発されまして、ガラス質の成分の粉で仮つなぎして後で熱をかけるとガラスが熔けてくっつくというものです。

 廃品買いにもいろいろあって、紙くず、鍋釜などの古金買い、古箒買い、古傘買い、印肉、古腕、空き樽、灰買い、ろうそくの流れ買いなどがありました。「竈の灰まで俺のものだ」といって威張る亭主の話がありますが、化学薬品のない時代ですから灰汁としての用途があり本当に灰は売れたのです。 古傘買いの絵  これは古傘買いの絵です。傘の油紙をきれいにとって、折れた骨は取り替え、新しい紙に張り替えて再生させるのです。古い油紙も魚屋などに売れたのです。水にぬれても破れない紙はそれなりに使えます。「古傘にいつも越後が二、三本」という川柳があります。越後屋は三越の前身ですが、雨が降るとお客様に名入りの傘を貸したのに、返さないで使い古し、それを古傘買いに売った人がいたという川柳です。「四、五人に当たり古骨伊勢屋売り」という川柳もあります。昔から伊勢出身の商人はけちで名高かったのです。その伊勢屋は古傘さえ4,5人見積もりを取って高いところに売りますという川柳です。

 けんざん屋というのは年賀扇の古物買いですが、年が明けるとこれらはもう使いませんからけんざん屋がすぐ買いに来るということだったようです。

 長屋の下肥、これはずいぶんお金になって大家さんの収入源になったのです。ひとり幾らということで農家と交渉して年末の餅代にしたといわれています。店子は大家と喧嘩すると「うちの便所で用をたさないぞ」といったというくらい下肥は大事なリサイクル品だったのです。江戸の職人というのは食事は贅沢でしたから、田舎のヒエ飯と沢庵だけを食べている人よりずっと下肥の質がいいんだそうです。渋谷の道玄坂には車押しのおもらいさんがいて、近在の農家の肥やし運びの車を押し稼いだそうです。

 「ひやかし」の語源をご存じでしょうか。紙くずは集めてきて釜で煮ます。すると墨や汚れが水の中に溶けるので、パルプをきれいに洗いすくい取り再生する。女郎屋の遊んだ紙まで再生に使ったそうです。 紙くず再生屋は上野の近くに多く、煮ると熱くなるので冷えるまで時間を待たなくてはいけない。その間職人は吉原まで散歩に行く。仕事中ですから女郎を買うわけにいかないから、ただただ歩いて眺めて帰ってくる。ここから「冷やかし」の言葉が生まれたのだそうです。

 放し鳥というのは雀を売り歩くのですが、この籠の中には雀が入っています。これを買って放してやるとその人は殺生を防いだことになる。功徳を積んで極楽に行こうとする人が雀を買って放してやるのです。放し亀というのもあって、このほうが採りやすいから安かったようです。

 判じ物を配って歩くおもらいさん(乞食)です。朝のうちになぞなぞを配って歩いて、夕方は答えを配って歩いて一文か二文貰うというのです。これは千両箱を担いでいる絵です。景気づけに「大阪の浪速屋さんから千両箱が届きましたー」といって大声を出して商店の中に入ってゆきます。やはり一文か二文貰うのです。江戸時代は乞食といえども唯もらいはしなかったそうです。こんな事でおもらいができたということは助け合いの精神で福祉政策を商店なんかが支えたんではないでしょうか?

お千代舟の絵  吉原の太夫さんの格好をしたおもらいさん(乞食)もいました。一寸一服おあがりなんしといっておもらいに歩く。
この絵はお千代舟というおもらいさんで、船とお千代の絵看板を肩からかついでいます。
一番低級な春を売る女性は夜鷹といってムシロ一枚小脇に抱えて橋の下なんかでお客をとった。
それよりちょっと値段が高いけれど、船でお客をとる舟まんじゅうと言われた女もいて、その中で売れっ子で有名なお千代という女を看板にしました。「ポチャポチャのお千代だから寄っていきねーなー」とお千代の絵を抱えて歩きお金を頂戴したのです。

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7.錦絵(浮世絵)の誕生

 浮世絵が出来る前に版画はあったのですが、墨一色でちょっと後から色を塗るという程度の版画だったのです。鈴木春信という人が明和2年に暦の多色刷を始めました。それが普及したのです。これは企画する版元、下絵描き、版画を彫る人、刷る人の分業ではじめてあの繊細な版画が出来るのです。普通は16文から24文、春信の絵は評判が高く100文くらいで売れたようです。

ゴッホの絵  見て楽しむ、壁にはる、長屋の節穴隠し、江戸土産などとして売れたようです。今のように芸術品の扱いではなく、そんなに価値のあるものではありませんでした。

ところがこれを輸出陶器の包み紙なんかに使っていたところヨーロッパで非常に注目されて、そして芸術家の間でジャポニズムの文化として取り上げられ、ゴッホやモネに影響を与えたのです。これは今だったら著作権侵害になりそうな浮世絵そっくりさんのゴッホの絵です。

夕立の絵  これは鈴木春信の夕立という絵で、浮世絵の始まりと言われている有名な絵です。

これは暦なんです。遊び心のある暦です。どこが暦か?浴衣に大二、三、五、六、八、十、そしてメイワ二と描いてあります。江戸時代は大の月が30日、小の月が29日で、大の月さえ分かれば後は小の月だと分かります。明和2年の大の月は2月3月5月6月8月10月でそれ以外の月は小の月ですよということがこれで分かるのです。

こういう知恵比べのように工夫した暦を俳句の会なんかで大店の主人とか旗本なんかが新年に集まって交換する。お金に糸目をつけないで面白い珍しい暦を希望したものだから、絵師が更に工夫をしてこういうものが流行ったのだそうです。

 歌舞伎の絵暦ですが文政6年のもので七代目市川団十郎の暫くという題です。刀の柄に大は正月、3、7、9、11,12月と書いてあります。

 筆・墨・すずり問屋がの大筆の初荷という題でここに2,5,7,9,12とありますね。また明らかに暦に違いないがどこに数字があるかわからないような凝ったものもあるそうです。

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8.江戸の遊び絵

 浮世絵の中には遊び心を刺激する絵がいろいろあります。 寄せ絵  これはいろいろな姿態の人を寄せ集めて顔の絵が出来ている人間の寄せ絵です。色々な人が寄って私の顔を立ててくれて、人様のおかげでようよう人らしい顔になりましたと描いてあります。猫を寄せ集めて猫を描いたものなどいろいろあります。

 有卦絵といって、今年からは何年生まれの人が有卦に入りますよということを教える絵です。叶福助の絵を描いていますが、筆、ふぐ、房、袋、など全てふの付くもので構成しています。十二支を寄せて描いた絵で、ねずみが目、牛が髪、ウサギが鼻、背中の牙が猪ですね。  逆さ絵というものでこれは福禄寿ですが逆さにすると狸ですね。鞘絵といいまして、こういうところに刀の鞘をたてて鞘に映った絵を楽しむというもので誰が買ったのか、こんなものが商売になったのかと不思議に思います。

 これは地口絵といわれるもので、もじりの意味です。江戸時代は冗談とかもじりとかが流行っていました。こういうものは語彙が豊富でないと分かりませんね。語彙を豊富にするにはどうしたかというと年寄りと会話して覚えたといいますね。大家さんに習っているのが落語の始まりにも関係するという人がいます。

地口絵  これは東海道五十三次の地口絵ですね。藤沢はおじ様なんてかいてありますね。欄外に「気のきかぬ人をおじいといいおじさんなんぞというはいずれも馬鹿にされる言葉なり。とかく人は馬鹿にされぬよう心がけるが肝心なり。よってこれを名付けて間抜けな人をおじさまと言う。」女をおちょくった絵もあります。平塚をひらつら。「いくら小言を言われてもいけしゃあしゃあと平気な面をしているやつがあるものなり。平気な面の両面を描いてひらつらというなり。」

伝法院通りの写真 伝法院通りの地口行灯
 地口は現在でも見ることが出来ます。地口はよく行灯に書かれておりました。浅草に伝法院通りというところがありますが、そこに地口行灯の名残で蛍光灯に地口を描いたものが沢山あります。

 「はだかでかっぽれ:はだかでたっぽれ」「縁の下の力持:閻魔舌の力持ち」なんていう地口を見ることが出来ます。また静岡の三島は地口で有名で全国から募集しています。千住では秋祭りのときこういう地口の蛍光灯を駅前や町中にずらり立てています。

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9.江戸のユーモア、反骨精神、言葉遊び

判じ絵の例  判じ絵というものもあります。たとえば独楽がごみごみしているから駒込とか、牛が若いので牛若とか、これはは(歯)、ねこ(猫)が逆さになっていますから、はこね(箱根)とかです。
 この絵は放屁を対でしていますのでへっついですね。この判じ絵は地図や物産紹介などいろいろの分野に亘り沢山あります。

美人絵  これは寛政の改革で贅沢が禁止されたときの美人絵です。どこの誰と本名を描きますと禁止令に引っかかるものですからどこの誰かというところを判じ絵で描いてあるのです。角の方に「たつみ ろこう」という名前を、竜、蛇、そして舟の艪、お香で示しているのです。これで「たつみ ろこう」と分かります。これで取締りの目をくぐったのですね。

 それから鯰絵というものがありますが、日本では余り注目されていなかったのを北欧の収集家がこの研究で博士号をとって大きな本を出して、日本でもにわかに注目されるようになったものです。安政二年に江戸が直下型地震にあい、大きな被害が出たのですが、余震が続いているうちにもうこういう絵が出たそうで、400から500種類くらいの鯰絵が出回って、最後には幕府があまりにも災害をおちょくっているというので版木を打ち壊したといわれています。

鯰絵  火事や震災で困るのは商店や家主などの家持で、長屋に住んでいる庶民はあまり困らないんですね。職人なんかは手間賃が倍くらいに上がるので喜んでいる。それをおちょくっている絵が沢山あるのですね。ここに「着物も要らない、金も要らない、命が欲しい」といって逃げ出す人がいるかと思うと、持丸(金持ち)は小判をにぎって「金が欲しい、金が欲しい、命がなくても金がほしい。助かることなら命も欲しい。」とありますね。

 そして擬人画。これは割れ鍋と綴じ蓋の夫婦で、割れ鍋がどこかで金の釜を拾ってきて、押入れに隠しておいたら女房が見つけて夫婦喧嘩になる、これをすり鉢だとか薬缶だとかシャモジなどがとりなしているところです。これが全部ストーリーになっているわけです。

 それからぽちぶくろ、これはここが切り抜きになっていまして、例えば女の人の顔のところに切り抜きがあってそこをちょっと引っ張ると顔がどくろになるというようなものです。いろいろあります。こういうのは遊び道具でしょうね。

鯰絵  この絵は意味深な深夜のベッド図です。ポチ袋の裏と表で、亥の刻、子の刻、丑、寅の刻の図です。男女が寝ている頭と足の方から見た物です。

 川柳に「女房に惚れるとあの世が近くなり」とありますが、老人を笑った川柳や絵も沢山あります。

「くどくなる、気短になる、愚痴になる、心はひがむ、身は古くなる、聞きたがる、死にとうながる、淋しがる、でしゃばりたがる、世話をしたがる、またしても同じ話に子をほめる、達者自慢に人は嫌がる」とまあ昔も今もあまり変わらないような老人を書いています。こんな絵が誰に売れたのか分かりませんが、今だったら差別だと騒がれそうです。社会全体がこのようなユーモアを許す環境が羨ましいですね。

 これは東海道五十三次を書いた十返舎一九の最後の辞世の句です。「この世をばどりゃおいとまとせんこうの煙とともにはいさようなら」線香、灰を掛詞で読み込んでしゃれていますよね。

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10.終わりに

講演会場風景

 江戸文化は奥が深いのでいろいろの面から眺めることが出来ます。そのごく一部ですが絵を通して豊かな発想やユーモアの一端を味わって頂けたら幸いです。今日使いました数々の絵は全てを私が持っているわけではありません。色々な本から私が面白そうなものを引用してきたものです。体系的に集めたものではありませんので話があちこち飛びました。引用文献を掲げておきますので皆さんも読んでみて下さい。絶版になっている本もありますが、江戸に関する書籍は都内の区立図書館にはかなり揃えてあります。

 今日はどうも有り難うございました。(拍手)

絵で見る江戸の笑い参考文献1 絵で見る江戸の笑い参考文献2


おわり
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文責:臼井 良雄
会場写真撮影:橋本 曜 HTML制作:大野 令治

本文はここまでです

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