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神田雑学大学 平成20年2月15日 講座No394


知られざる葛飾柴又の魅力

講師 谷口 栄


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はじめに

柴又葛飾はどんなところか

昔の葛飾

葛飾には沢山いた寅さんとサクラ

帽子をかぶった寅さん埴輪

源頼朝と柴又 頼朝が渡ったのは矢切の渡し

相撲の達人

近代から現代の柴又

矢切の渡しから地球温暖化を考える


谷口 栄さん                   

1.はじめに

こんばんわ。ご紹介いただきました葛飾区の「郷土と天文の博物館」に勤めております谷口と申します。今日は東京の下町の話と言うことで、葛飾柴又を中心とした話をします。

柴又というのは全国的に名が知られているのですけれどもどうしても映画のイメージが強すぎまして、本当の柴又の歴史と言うのがあまり知られていないという思いがあります。

柴又だけでなくて、東京の下町地域の歴史と言うのが、天正18年、西暦1590年の徳川家康江戸入府によって江戸が形成されたと一般的に思われているところがあります。

実際、近世都市江戸の成立はそうなのですが、それ以前の歴史、つまり江戸時代以前の歴史についてはあまり見るべきものがないと研究者の方やお住まいになっている東京都民の方が思われているということがあります。

今日の隠れたテーマは実は柴又ではなくて、本当に何も無いところに家康がきたのだろうかということであります。その辺はちょっと頭の片隅においていただき、話しを聞いていただければありがたいと思います。

ところでこの神田周辺の出身の方いらっしゃいますか? さすがにいらっしゃらないですね?東京23区出身の方はいらっしゃいますか?お1人。23区の中でも隅田川から東の地域の方はいらっしゃいますか?いらっしゃらない。今日は応援団がいませんね。

今日は隅田川から東の地域を主な舞台として話をします。はじめに「場所」の話、柴又葛飾というのはどんなところなのかと言う話をします。それから2つの用意した話をします。ひとつは「映画の世界だけではない寅とサクラ」についてです。「最古の東京都民」と「柴又ならではの埴輪」で構成します。

二つ目が「源頼朝と柴又」という話をします。これは「矢切の渡しと頼朝」と「相撲の達人」の話で構成します。 そして最後には意外なことを知っていただきたいと思っています。柴又もしくは東京の下町をきちんと歴史的に勉強すると地球の温暖化のことが分かるのです。そのへんも触れながらまとめてみたいと思います。
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2.柴又葛飾はどんなところか。

柴又へ行ったことのある方は?
あっ全員いったことがある。実は柴又は行ったことはあるけれど葛飾区はどこにあるか分からないという方は結構いるのです。江戸情緒に親しみをもたれている方は葛飾にある堀切菖蒲園に行かれる方も多いようです。

東京は東西に長い地域ですが、葛飾はその東のはずれです。地域的には東京低地といわれている、東京の下町、土地の低いところ、に位置しています。そして葛飾区の東側を江戸川が流れていまして、この江戸川を境にして千葉県と接しています。

今日は東京低地という言葉を使いますが、皆様にはあまりなじみの無い言葉かもしれません。なぜ使うかと言いますと、先ほどどこの出身ですかと聞いたのはそれと関わっているのです。江戸の下町と東京の下町の区別が付かない人が多いからです。これは研究者の人でもつかない人が多いです。

僕は「葛飾は東京の下町です」と言っているのです。すると歴史を研究している人は「葛飾は下町じゃない」と平気で言うのです。それは江戸の下町をイメージしているから違うと思ってしまうのです。

私に言わせれば江戸時代の270年間江戸の町場が固定した町場だったのかというとそうではないですね。一番初めには隅田川から西の地域の日本橋を中心とした地域が町場として開発されたのです。さらにそれがどんどん拡張するのですが、その理由のひとつが参勤交代です。

参勤交代が制度的に導入されることによって、江戸の町は発展するのです。諸藩の大名は妻子を江戸に人質として置かなくてはいけなかった。藩主は国許と江戸を定期的に行き来しなければならなかった。その結果、江戸という都市には単に江戸城があるというのではなく、全国諸藩の屋敷があるわけです。

そこには妻子だけが住むわけではなくて、家臣団も住んでいるわけです。 家臣団だけで生活出来るかというと出来ませんよね。経済的商業的環境が整っていないと生活は出来ない。つまり参勤交代は近世江戸の都市を発達させるのに重要な役割を担っていたのです。

それともうひとつは災害です。災害によって復興が行われ、町場はまた広がっていきました。そうするとどんどん江戸城を核としながら放射線状に町場が広がっていきました。例えば隅田川の対岸の向島とか深川と言われる地域も江戸時代に江戸の町場に取り込まれています。

江戸のはじめと中ごろ、それに江戸の終わりでは下町の範囲が違っている。このことをよく分かっていない人が多いのです。 要するに頭の中では概念的には分かっていても口に出すと隅田川の東は江戸じゃないんだというふうな意識が強いのです。 私なんかはよく言われました。大学時代、浅草橋に住んでいた友人がいまして、おまえのところは鬼が住むところだと言うのです。川向こうということです。

しかしそれは江戸のはじめの頃の町場の意識なのです。近現代になると町場はさらに広がってきて、明治44年から昭和5年にかけて造られた荒川放水路が東京の境界として意識されるようになります。

さらに今ではそれを超えて葛飾方面が町場に取り込まれるようになりました。近現代の町場の拡大は災害による影響が大きいのです。ひとつは関東大震災です。もうひとつは東京大空襲です。これによって東京の中心部が壊滅的な被害を受け、周辺地域に移り住むことによって町場の拡張が促されたのでした。

葛飾が下町的な雰囲気をかもし出すようになったのはいつか?これは高度経済成長の後からです。戦後、それも高度経済成長によって下町的な景観を整えてきたといいう言い方が出来ると思います。いまお話したかったのは江戸の下町、東京の下町というのは時期によって範囲が違うのだと言うことです。

ですから下町といっても、時代、時期によってその範囲が異なるわけです。その混乱を避けために、今の東京の下町の範囲と同じ広がりを地理学では東京低地と呼んでいますので、私はこの用語を使って歴史研究をしています。
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関東地方の地形分類図

3.昔の葛飾

これが関東の地形分類図ですが、個々に武蔵野台地、下総台地、そして大宮台地があります。この点々になっている網がけのところが平野なわけです。関東平野の最南端が東京なのです。赤くここにマルしているところが葛飾区の位置です。
  
これをCGで見ていただきたいのですが、これは三浦半島の上空から見ていると思ってください。葛西と書いてありますが、ここで是非知っておいていただきたいのは葛西というのは、現在江戸川区に葛西ってありますから、すぐ江戸川区と思ってしまいますが、もともとの葛西は葛飾、江戸川、墨田、江東区、この4区を合わせて葛西と呼んでいました。

古代に葛飾郡というのが出来ました。葛飾郡は江戸川の両岸地域、千葉県、東京、埼玉、それから上流部の茨城県の古河まで含めて、南北に長い領域が葛飾という地域だったのです。その遺称は今も残っています。埼玉県にも埼葛という呼び方がありますし、千葉県には東葛という呼び方が残っています。これは葛飾郡の名残です。

葛飾郡が平安時代に荘園が開発されて解体されていく中で、葛飾郡の南のほうが江戸川を境にして東と西に分かれます。今の千葉県の松戸とか市川とか船橋は葛飾の東で葛東郡と言う名称になります。

西の方はさきほど申しました葛飾、江戸川、墨田、江東区で葛飾の西で葛西郡になりました。葛西といったときはこういう面的に広い地域を連想してほしいのです。

江東区の航空写真 これはまた違う角度、関東山地のほうから東京湾の方を見ています。鎌倉があってここが葛西です。東京湾がここにあります。そしてこれが江東区の上からみた航空写真なのですが、この葛飾だけで人口43万、江戸川区が60万ですから両方で100万を越えてしまいます。恐ろしいくらい23区は人口が集中しているのです。さて、この葛飾には川が何本もあって川に囲まれた地域です。それから今日話す柴又はこの江戸川沿に位置します。
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4.葛飾には沢山いた寅さんとサクラ

映画の寅さんは皆さん見たことがあると思うのですが、僕は寅さんの映画は嫌いでした。これは高校時代なのですが、高校になりますと今まで同じ地域で友達が出来ていた小中学校と違って色々な地域の人が集まってきます。

例えば板橋区の友達が出来たのですが、彼が「お前のところは田舎だな」というのです。「なんで田舎なんだよ!」て言いますと「寅さんの映画みれば分かるじゃないか」と言われるのです。寅さんの映画で江戸川の流れとそこにかばんを持って寅さんが帰ってくる風景を見てそう思うらしいのですが、

私が「男はつらいよ」をちゃんと見るようになったのは30歳を過ぎた後です。定職について寅さんの映画も仕事の素材になるのではないかということで、勉強のために見出しました。はじめはあの映画のおかげで葛飾人は田舎者と言われてしまうので嫌でしたね。

この寅とサクラというのは実は実在していたのです。これは私が1990年頃から色々なところに書いて、テレビからも取材が来たこともあるのですが、どういうことからそんなことが分かったかと言いますと、「養老4年下総の国葛飾郡大嶋郷戸籍」という史料を見ていてです。

この戸籍は奈良の東大寺にある正倉院に保管されていた戸籍なのです。721年ですから奈良時代です。当時、大嶋郷には1191人の人が住んでいたということが記されています。さきほど私は葛飾だけで43万と言いました。この赤く示したところが大島郷の範囲です。

ここには甲和、仲村、嶋俣という三つの里名が書いてあります。大嶋郷はこの3つの里から構成されていたということです。今までの研究では地名の転訛から、甲和里はどうやら江戸川区の小岩を中心にした地域ではないかと言われています。

嶋俣里は、葛飾の柴又を中心とする地域だろうということです。仲村里と言うのは分からないと言われました。それが昭和60年代になって、この地域の遺跡調査が行われるようになり、奈良時代の戸籍があったころの遺跡が見つかるようになりました。

それから地名の研究も盛んになりまして、小岩だけでなくて篠崎とか南の臨海部を含めて甲和里に含めていいだろうと推定されるようになりました。甲和(こうわ)って言うのは「かわわ」つまり「河曲」から転訛したもので、川が曲がったところという意味です。

それから嶋俣ですが、葛飾の柴又を中心に北部の水元まで広がりがあったのだろうと考えられます。嶋俣というのは島状の高まりを持ったところで、川が分流したり合流したりする地域を指します。これも地形的なことで名前が付いているのです。

そして仲村というのは甲和と嶋俣の間と言う意味らしいです。この里の名前は戸籍を作るときに無理して作っているような名前なのです。葛飾区の立石とか奥戸とかいう地域には奈良時代の遺跡がみつかっておりますので、現在この地域を仲村里に推定しております。

先ほど申し上げました葛西と言う地域は、もともと大島郷という形でくくられていた地域だろうということが分かってきました。それでは戸籍を見てもらいましょう。これは今の戸籍と違って第一の目的は税金の台帳なのです。ここには戸主と書いてあって、孔王部荒馬(あなほべのあらま)と書いてあり、家族の名前が続きます。

そして年と税金の対象になる人なのかならない人なのかが書いてあるのです。よく見ていただくと文字のところに判子が押してありませんか。今の役所と同じで後で都合の良いように改ざん出来ないようにちゃんと判子が押してあるのです。これは奈良時代に地元で作られて朝廷に提出されたものです。それがたまたま正倉院に残っていたのです。

平成3年に葛飾区郷土と天文の博物館が開館したのですが、その準備の時にこの史料を使った展示をしようということであらためて読んでいたのです。そうしたら男孔王部刀良(おとこあなほべのとら)という名前を発見、トラさんという人が奈良時代に実在していることが確認できました。万葉仮名ですからひとつひとつの漢字には意味が無く音を表わしています。

なんと面白いのは女性にもトラさんがいます。たぶんトラという名前はポピュラーな名前で男も女もつけていたことが分かります。この戸籍の中にトラさんは男だけで7人います。そしてもうひとつサクラがいます。佐久良と書きます。トラさんサクラさんは古代の葛飾の時代から名前の定番だったのです。ただ映画と違うのは兄妹ではないのです。

私は山田洋二監督がこれを知っていたのか確認したいと思いました。もしかしたら戸籍のことを知っていてトラとサクラという名前をつけたのなら、すごい人だと思ったのです。それでうちの広報課にお願いして問い合わせしてもらったら、知らなかったという返事だったそうです。本当に偶然なのです。
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5.帽子をかぶった寅さん埴輪

それからもうひとつ柴又ならではの埴輪ということで、柴又八幡神社古墳の話をしましょう。お手元に資料があります。柴又八幡神社古墳というのは古墳時代後期、今から1400年くらい前のもの古墳です。東京の下町にも古墳があるのです。なかでも今のところ東京の下町唯一の石室という遺体を安置する部屋のある古墳です。

古墳の石室といえば例えば飛鳥の石舞台のようなものが有名で、みなさん石室は当たり前と思うかもしれませんが、東京の下町はデルタ地帯ですから石がない地域なのです。石材のないところで石室を作るということは大変なことなのです。この古墳では、わざわざ千葉県の鋸山の海岸部から石を持ってきていたことが分かっていています。

この発掘調査を博物館のボランティアの方々とずっと行なっていました。この古墳の上には社殿がたっています。これは柴又の鎮守です。柴又と言うと帝釈天が有名ですが、地元で鎮守と言えばこちらなのです。この石室の岩質は凝灰岩でして東京層といわれるところから産出するものと言われています。

どうやら房総の鋸山というところからもたらされてきたことが分かってきました。この石を良く見ていただきますとぶつぶつ孔が有るのが分かります。この孔は貝が住んだ痕なのです。それでこの石が鋸山の海岸にあったことが分かるのです。

2000年の第4次学術調査で初めて出土した人物埴輪の写真 この古墳の調査で2000年の第4次学術調査で初めて人物埴輪が出ました。明治のころ立石で壊された古墳から人物埴輪が出土したといわれていますが、この時、発掘調査によって初めて人物埴輪が出たのです。 このスライドが出たときの様子です。これは女性の埴輪です。これが出たのでまだまだ出るのではないかと勇気付けられたのですが、

帽子をかぶった埴輪の写真2001年8月4日、第5次学術調査帽子をかぶった男性埴輪の頭部が出土した写真 次の年2001年8月4日、帽子をかぶった男性埴輪の頭部が出土しました。どんな埴輪か、これです。帽子をかぶっているでしょう。これを掘ったとき、だんだん顔が出てくるではないですか。はじめ鼻だけ出たのですが、だんだん出てくるうちの帽子をかぶっているので誰言うとも無く「寅さんに似ているね」という話になりました。

その時に新聞記者がいて、その様子を見ていたのです。そして「寅さん埴輪が出た」と言う記事が全国版に出てしまったのです。私は寅さんとは全然言っていないです。私が困ったのはあとで研究仲間から「本当に寅さん埴輪というのか」と言われて、私は「男性の埴輪だ」としか言っていないとだいぶ弁解しました。

帽子と言うのは正装ですね。正式な場でこういう帽子をかぶるのです。最近韓国のドラマで王様に使えている人が帽子をかぶっていましたね。あれと同じです。日本では少なくてこのタイプの帽子を模った埴輪は、東京や千葉で2・3例しか出ていないです。それが柴又から出たと言うのがミソです。私は「寅さん似の埴輪」とは最近言いますが一般には「寅さん埴輪」と言われています。

寅さんは耳飾はしていませんが、この埴輪は耳飾りと首飾りをしています。 お守りはブル下げていません。そして一番先に発掘された女性埴輪、これはサクラと呼ばれています。私が面白いなと思ったのは発掘日の8月4日が渥美清さんの命日だったことです。そういうものが重なり合ってこんな話になっているのです。
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6.源頼朝と柴又 頼朝が渡ったのは矢切の渡し

先ほどまでは古墳時代や奈良時代でしたが、これからは鎌倉時代の話です。何で矢切の渡しと頼朝が関係しているのかということなのですが、頼朝は治承4年、西暦1180年の8月17日に山木の館を襲撃して打倒平家ということで立ち上がったのです。

緒戦は上手くいったのですが、ご存知のように石橋山の戦いで負けて真鶴のほうから船で房総半島に逃れました。そこで再起をかけたわけです。 房総半島の安房から上総、下総という形でどんどん北上していくのですが、その間に上総介とか千葉氏という有力な武士団がどんどん参集してきて勢力を盛り立てて鎌倉を目指すのです。

しかし鎌倉に入るには陸路では東京の下町を通らなくては行けません。通るにあたって障害があったのです。それは隅田川西岸の千代田区あたりに蕃居していた江戸氏がなかなか言うことを聞かなかったのです。

川を渡るとき頼朝だけではなくて何万の軍勢が渡りますから、その渡る手段を確保しなければならない。当時橋をかけることは大変でしたから舟を並べて綱で繋ぐ舟橋を作るのですね。そういう算段をしなければいけないのですが、江戸氏はなかなか言うことを聞かなかったのです。

何故聞けなかったかというと、石橋山の戦いに間に合わなかった三浦氏のことがあります。三浦氏は間に合わなくて別の敵勢と戦うのです。それは畠山重忠の軍勢で、重忠が負けるのです。勝った三浦氏は自分の衣笠城に帰るのですが、負けた畠山氏は悔しいので同族の江戸氏や河越氏を従えて衣笠城を攻めます。そして攻め落すのです。

三浦氏はもともと頼朝に従っていますから、頼朝としては鎌倉に入るために江戸氏に味方に入れと言うのですが、江戸氏にしてみれば敵対している三浦氏がいる頼朝の軍勢に加わることが出来なかったのです。最後は従うのですけれども、10月2日に東京の下町を通って4日後の10月6日に鎌倉に到着したわけです。

頼朝というとこの神護寺にある肖像画が有名ですが、今ではこれは頼朝ではないという説が有力になっています。教科書からも削られてきています。一番頼朝に近いのはこちらの像だと言われています。これは甲斐の善光寺にある木造で、製作年代が頼朝の生存期に一番近い年代の像といわれています。神護寺のものは精悍なかんじですが、こちらは骨太な感じで、『平家物語』や『吾妻鏡』などに記されている頼朝のイメージに近いのではないかという気がします。

古文書 頼朝に従って積極的に行動を起したのが葛西三郎清重という人物です。清重は頼朝がこの地域に入ったときに活躍をします。『吾妻鏡』の治承4年10月の1日に武衛(頼朝)のいる「鷺沼の御旅館」に色々な軍勢が集結していると書いてあります。

そして10月2日に武衛は上総広常と千葉常胤を従えて太井・隅田川を渡った。そして渡った時、武蔵国豊島権守清光、その子供の葛西三郎清重が頼朝の前に参上して礼を尽くしたと書いてあります。

10月2日に太井川、これは今の江戸川です。それと隅田川を渡って頼朝は武蔵の国へ入ったことが分かるのですが、従来の説では千葉県の習志野に鷺沼という地名がありまして、その鷺沼の施設に頼朝が泊まったので御旅館と言われていますが、宿屋ではありません。頼朝が泊まったので御旅館というのです。この鷺沼の御旅館はこの習志野ではないかと言われていたのです。

しかし「鷺沼の御旅館」は本当に習志野でいいの?という疑問があったのです。習志野と言うのはそこに鷺沼と言う地名があると言うだけで江戸時代から比定地とされてきたのですが、地名だけなら実は葛飾にもあるのです。最近では、頼朝は市川まで来ているのになんでそれから習志野まで戻るのか、葛飾は葛西氏の勢力下ですから危険ではないので戻る必要がないのではないかということが問題となったのです。

もうひとつ『保暦間記』という資料がありまして、これは14世紀に書かれたものですが、ここに「須田、八切を渡って滝ノ河原にて御勢云々」と書いてあります。須田は隅田のことです。頼朝の軍勢が隅田、八切を渡って滝ノ河原、つまり滝野川、これは北区ですね、そちらに集結したと書いてある。そしてこの八切は矢切の渡しの矢切なんです。

要するに地名は漢字で考えては駄目なのです。後から幾らでも変わってしまいますから。音で判断しなければいけないのです。「やぎり」は「八切」だったのが「矢切」になったのです。「やぎり」という地名は戦国時代に北条氏と里見氏が江戸川の河原で国府台合戦と言う戦を起すのですが、その時につけられた新しい名前だと言われているのです。しかし、それよりも古い14世紀の文献に「八切」という名前が確認出来ることが重要なわけです。

古文書 さきほど紹介した葛飾にある鷺沼と言う地名ですが、地図に古録天神社があって、そこに新宿鷺沼と書いてありますね。これは葛飾区柴又一丁目にあります古録天神社の境内にある石碑なんですが、「当町は古より地名鷺沼と称し」とあります。つまり鷺沼という地名は柴又にもあったということになります。

それで今では「御旅館」の場所は習志野の鷺沼より葛飾柴又の鷺沼にあったというほうが面白いのではないかという説が強くなってきています。つまり頼朝は市川まで来て習志野まで戻るのではなく、葛西清重がいる柴又まできて、矢切の渡しのある江戸川筋を渡って、葛西の鷺沼に入ったのではないかということです。

ここで整理をしておきたいことが2つあります。まずひとつは源頼朝が東京の下町を通って武蔵から鎌倉へ入っていくということです。そしてその経路上に鷺沼の御旅館と言うのがある。そうしたときにそれは柴又の鷺沼の可能性が高くなってきたということがあります。

それともう一点は矢切の渡しというのは江戸時代に出来た渡しだとよく近世史をやっている方などは言いますが、少なくとも14世紀の南北朝の時期には渡しとして渡河地点として矢切が意識されていたことが分かるのです。これは地元では「コウジ道」もしくは「コクフ道」と呼んでいるのですが、この先のところに神社がありまして、これが古い街道なんです。もしかしたら頼朝の軍勢はこの道を通って武蔵の国を目指したのかも知れません。
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7.相撲の達人

次に、これは相撲の達人が柴又にいたということが『吾妻鏡』という史料に書かれているのです。この『吾妻鏡』安貞2年、西暦1228年の2月19日の条を見ますと葛西清親、かれは葛西清重の次、2代目です。この清親が芝俣平次三郎を召し出して、将軍の九条頼常の御前で相撲を取らせるということがあったのです。これが『吾妻鏡』の記事です。

ここに葛西左衛門尉とありますが、これが清親です。そして芝俣平次三郎と書いてありますね。ことに相撲の達者なものとして葛西の柴又に住んでいた平次三郎をわざわざ鎌倉まで呼んで将軍の御前で相撲を取らせるということです。

これによって鎌倉時代に葛飾柴又に相撲の達人もいたのだということが分かります。両国国技館より早く、柴又に相撲の達人がいたことを地元の人は知らないのです。こうやって調べて新しい歴史を発掘しているのですが、いずれ広まってくると石碑とか出来てくるかもしれません。

以上大きくは2つのお話をしました。映画のトラとサクラだけじゃないと言う話、奈良時代にもいたし、埴輪にもそんな名前がついていると言う話、そして鎌倉時代の柴又は頼朝との関係があるということ、そしてそこには相撲の達人も住んでいたという話です。今までの柴又のイメージから想像されていなかった柴又の歴史の姿を少しはご紹介出来たでしょうか。
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8.近代から現代の柴又

下町情緒を残す柴又が注目されるようになったのは40年代の映画が作られてからですね。もし機会があったら映画を良く見てほしいのですが、山田洋二監督は柴又や帝釈天をどうもっているのかなと思うことがあるのです。帝釈天は日蓮宗です。どういうわけか寅さんの行動を見ていると本当に信者なのかと疑わせるような行動があります。このことは私の知り合いもよくおっしゃっているのですが…。

例えば、寅さんが題目を唱えないで念仏を唱えているシーンがあってあれいいのかな?ということです。映画は50本近くあって20年近く撮影にかかっています。山田洋二監督が柴又をどう見ているのかというのも深読みしていくと面白いですね。

僕は映画を教材として見るのも面白いと思っています。例えば、映画から柴又の経済状況を見ることができるのです。必ず団子屋さんが出てきて団子幾らとかビール幾らとか出てくるでしょう。それが年代とともに違ってくるのです。それは遊びというか、映画の見方としてすごく面白いと一人楽しんでいます。

よく葛飾柴又を下町の代名詞に使うのですが、それはそれで僕は異議を唱えるつもりは無いのですが、あの映画を見て本当に柴又は下町なのかなと思うのです。下町の風景は全然描写されていないと思います。帝釈天、団子屋さんがあって、門前町の風情ですね。門前町は下町風ですかね。

講演をされいる谷口さん 私はあの映画には下町の風景は描かれていない、描かれている人情が下町なのだと思います。その辺が整理されていないで色々な人があの映画は下町を描いているなんて平気で言いますがそうではないだろうと言いたいです。

映画の前、柴又が文学的に注目されるようになったのは幸田露伴からです。幸田露伴の「付焼刃」という作品があるのですが、それに葛飾柴又が舞台として登場するのです。その中に出てくる柴又の情景の基本は江戸川です。

江戸川の大きな悠々としたうねり、これが素晴らしい。それはどこから見て素晴らしいのか。土手から見て素晴らしいだけではなくてある場所から見た素晴らしさなのです。それは川甚という料理屋さんの座敷から見たロケーションなのです。そういう文学的な設定を露伴の作品が形作ったのです。

それを受けて、例えば夏目漱石は「彼岸過迄」でも、料理屋が出て来てその座敷から見た江戸川の情景を描いています。谷崎潤一郎も「羹(あつもの)」で同じような描写をしています。面白いのはそういう作品を読んでも柴又の帝釈天は出てこないのです。出ても名前くらいで、その境内の状況なんて全然触れられていません。柴又はある時期までは帝釈天よりも川魚料理屋さんの方が文学的に重要だったようです。

そういう風景イメージが変わるのはやはり映画なのです。映画が出来て川甚ではなくて帝釈天がベースになって映画が展開して、それによって柴又のイメージは大きく変わってきたのです。僕らが冗談で言ったのは、団子屋さんの裏が映画では印刷屋さんではないですか。本当は、今はなくなってしまったんですがある時期まではその団子屋さんの裏は風俗関係の店だったんです。たこ社長の工場は無いぞと地元ではよく言っていましたね。やっぱり柴又のイメージは映画の影響が大きいですね。

しかし文芸から柴又を読み解くと言うのも面白いことがあります。有名な「野菊の墓」では、矢切の渡しなんかも登場してきますが、だいたい目線が柴又からではなくて千葉県からの目線で書かれており、矢切の渡しは惜別の場所として描かれているのです。

伊藤左千夫の「野菊の墓」は一連の柴又を取り上げた文学作品とは別格の作品だということです。おそらくこの作品を踏まえてあの歌謡曲の歌詞は作られているのです。あの歌詞は「連れて逃げてよ」ですね。惜別の場所として描かれていますね。

もし行かれることがあったら矢切の渡しを遠目から見て欲しいのです。『伊勢物語』の「東下り」の段に「すみだの渡し」というのが出てきます。そこで在原業平がおいおい泣くのです。こんなに遠く東くんだりまで来ちゃったのだと言って泣くんです。渡守は日が暮れてしまうから早く舟に乗りなさいといって、乗ったら乗ったでまた泣いちゃうのです。なんで泣いたかと言うと渡守が一緒に伴走する鳥の名前を「あれは都鳥」というのだと言うのを聞いて、泣いたのです。

この地域ではこんな鳥を都鳥というのか、おれが知っている都の鳥は違うぞという落胆で泣くわけです。あの「東下り」の段のなかですみだの渡しはやはり別れの場所として描かれているわけです。今は隅田川には渡しはないですね。唯一残っているのは柴又の矢切の渡しなのです。

矢切の渡しにもこちらの都鳥が伴走します。東京都の鳥、ユリカモメです。是非皆さん方が行かれたときに是非『伊勢物語』のすみだ渡しの風景をトレースしてみて欲しいのです。そうすると業平が泣いた姿が見えてくるかも知れません。柴又はそういう意味で色々な楽しみ方が出来るので是非足を運んで見てください。

それから色々な団子屋さんがありますが、皆さん一軒の団子屋さんで買っちゃうのです。ああいうものは一軒が一人勝すると周りが廃れてしまいますから色々なところで買っていただいて地域を盛り上げていただけたらと思います。もちろん団子も店によって味が異なりますから、それを舌で確かめるのも楽しみの一つだと思います。
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9.矢切の渡しから地球温暖化を考える

矢切の渡しのある場所は、戦国時代、国府台合戦が行われた場所なのですが、それは単に二つの勢力がたまたま刀をまじえたと言うことではなくて、渡河地点というのがキーワードなのです。それはただ渡るというだけでなく何故ここが渡れるのかという意味があるのです。

急にへんな話しをしますが、皆さん方が住んでいる地域について歴史的に環境の変遷を勉強すると言うことは地域だけの話だけではなくて、日本という国、もっと言えば地球と言う惑星についても色々考える材料を提供してくれることになるのです。

みなさん縄文海進ということを聞いたことがありますか?地球には寒い時期と暖かい時期が交互に訪れています。何万年というサイクルでやってきます。今から1万2000年くらい前から地球は暖かいサイクルに入り、そして時代は縄文時代になってきます。それ以前は旧石器時代といって寒い時代です。旧石器時代が氷河期で、それから温暖化に向かい縄文時代になってきたわけです。

なぜ海水面が上昇するのかというと温暖化によって南極や北極それに高い山に閉じ込められた氷が解けて海に注ぎ、最終的に海水面を上げていく訳です。それも1年や2年で上がるのではなくて12000年から6000年かけて海水面が上昇しピークに達するわけです。

ピーク時には関東の奥地にまで海が入り込みました。この状況はこれからの温暖化を考えるときにも大切な素材になるだろうと思っていまして、これをちょっと見ていただきたいのですが、これは矢切の渡しのそばの江戸川の河川敷を掘った時に出てきた岩盤なのです。

東京湾岸の沖積層基底の埋没地形図 葛飾とか東京の下町には岩盤がないと言われていたのです。デルタ地帯ですから。 しかしここを掘ってみると岩盤があったのです。なんで岩盤があるのかということが問題なのです。これは貝塚爽平先生が作られた図なんですが、今の岩盤がでたのはAというところです。この緑色の線が入っているところは岩盤の埋まっているところです。つまりもともと岩盤だけではなくて、その上に関東ローム層が堆積していたのです。

つまりここの場合はこの緑から黄緑のところまで下総台地が張り出していたのです。これは武蔵野台地でも同じです。このB2地点は上中里で岩盤が出ています。それからこれは汐留遺跡、昔の新橋駅です。ここも岩盤が出てきています。

つまり今の台地はもともとの形ではなくて削られて残った形なのです。もとの形はずっと緑から黄緑の方まで張り出していたのです。なんで削られたのか。それは海が6000年かけて関東に入り込むときに波蝕してしまったのです。波で削ってしまったのです。その結果、柔らかい関東ローム層は削られてしまって、岩盤だけが残ったというわけです。

これは今の江戸川の国府台のところです。これは今の状況ですが、もともとは江戸川はここを流れていなくて、ずっと台地が柴又の方まで延びていたのです。はじめにお見せした写真ですが、ここで大きく蛇行していますね。この蛇行は下に岩盤があるのでそれをよける形で蛇行しているのです。つまりここの部分までずっと下総台地が延びていた。こんなに1km近くも海が入ってくるときに削ってしまっていると言うことです。

今は温暖化というのは海水面が上昇して低い土地が水没してしまうということが言われていますけれど、水没してしまうだけではなくて、長い目で見ると土地を削っていくということも温暖の影響のひとつだということも考えていかなくてはいけない。それをこの地域の歴史が物語ってくれているということです。もし機会があれば大潮なんかで引き潮のとき、今でも掘らなくても岩盤を見ることができます。

こういう岩盤があるので渡りやすい渡河地点になっているのです。軍勢なんかも潮が引いたときには渡りやすかったはずです。矢切の渡しが昔から渡河地点だったということも偶然ではなく、その土地の地形や地理的な状況が関わっていることを見ていかなくてはいけない、そしてこういうところだからこそ戦国時代に合戦があったのだということも分かってくるわけです。

今回は柴又に絞りましたが、下町には色々な歴史が潜んでいるのです。しかしそれを江戸東京という化け物が、それを覆い隠してしまっているのです。徳川家康が入る前は寒村でさびれた場所だったというイメージで片付けられてしまうのです。でも考えていただきたいのは家康ほどの人間が何も無いところにいきなり入ってくるはずがないですよね。

今日はお話しできませんでしたが、東京近郊の下町地域の地名には戸がつく地名が多いです。江戸もそうです。花川戸、青戸、亀戸、今戸、奥戸、松戸など、戸が付いており、川沿いに位置しています。面白いのは、今戸は江戸時代になっての地名で、永禄2年、1559年の史料には今津と書いてあります。青戸も本土寺という松戸にある寺の過去帖に青津とかいてあります。

葛飾の奥戸も応永33年だから1426年の文書に奥津と書いてあります。亀井戸も昔は亀井津でしたね。つまり津が戸の変化しているのです。それはどういうことかというと、東京の下町は南北方向に川が流れています。そして、東京の下町はこの川が海に注ぐところでもあるのです。つまり、東京の下町は内陸と海をつなぐ結節点ということができます。

ただそれは南北に川が流れ、水上交通が盛んだということだけではなく、昔から東京下町の東西には陸路が貫いていました。南北の水上交通と東西の陸上交通が交わるところに津が形成され、大きく見るとそのような津が集中しているのが東京の下町なのです。

古代東海道って知っていますか?東海道と言うと日本橋が起点だと思いますが、あれは江戸時代になって家康が作った日本橋を起点に作った東海道ですね。それ以前の東海道は都が起点ですから東京の下町を通って常陸の方面に行くのです。奈良時代、771年には葛飾や北区、荒川区辺りを東海道が通っていたのです。

今の人は東京の下町に古代の東海道が通っていたことも知りません。家康は水上交通と陸上交通が交わる関東の玄関口としての江戸に入ってきたという事実をもっと掘り下げて研究する必要があると思います。

江戸は鎌倉と全く同じ語り方がされます。鎌倉も1180年の10月6日に頼朝が入るのですが、それ以前は何も無かったと言われています。鎌倉は頼朝が造ったと言われている。中世の鎌倉を造ったのは事実です。しかし何も無かったわけではない。そこにはちゃんとその前身となる歴史、営みがあった。そういうことが忘れられてきてしまっているのが問題かなと思っています。(拍手) 終わり
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文責:臼井良雄  ・ 写真撮影:橋本 曜  ・ HTML制作:上野 治子


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