現在位置: ホーム(1)講義録一覧 2007~2009(2) >百の歌・千の想い―甦る平和百人一首-
WEBアクセシビリティ対応
ページの先頭です

神田雑学大学 平成20年5月2日 講座N0405



百の歌・千の想い―甦る平和百人一首-、講師 大竹桂子 大竹隆一 稲田善樹
   


目次

アクセントの画びょうメニューの先頭です
1.大竹桂子私の略歴
2.星野せい手作りカルタ 平和百人一首
3.祖母の残したカルタと本の出版 大竹隆一
4.私の好きな歌 大竹隆一
5.「百のうたと原画展」紀伊国屋画廊でのこと 大竹桂子
6.原画を担当して 稲田善樹
7.質疑応答


大竹佳子さん1.大竹桂子私の略歴

私は今から25年くらい前にエッセイを書くことをはじめました。それは子供が手が離れ自由な時間ができた時、ああ私はこれでいいのかなと疑問に思ったのが最初です。思い立って子供も家庭も夫も放り出して奈良の室生寺に旅をしました。

なぜ室生寺かと申しますと室生寺は女人高野といわれていまして古来沢山の悩みを持っている女性がお参りに行ったお寺だからでした。それで奥の院まで行きましておみくじを引きましたらなんと凶と出まして、ああこれはいけなかったなと思って急いで東京に帰ってまいりました。

そんなことがあって、最初に渋谷のワープロ教室に行ってワープロの使い方を教えていただき、貸しワープロを借りて「女人高野の旅」という和綴じの本を作りました。それが第一の本でした。その時にたまたま朝日新聞の小さなコラムに「和綴じの本を作った女性」と紹介されましたら、すぐに読売新聞から取材の申し込みがありまして、その時はニュースが無い時代だったのでしょうかね、こんなに大きく写真つきで新聞に載せていただきました。今見ると若かったなあと思っています。

そういういきさつがございまして、木村治美エッセイイストクラブに20年前に入り文章修行を続けてまいりました。会員の方たちはとても書くのが上手なのですが、私は全然うまい文章を書くにはいたりませんでした。ただ自分の興味のあることをこつこつこつこつ調べて、そしてそれをノンフィクションのような形でまとめるのがわずかに私ができることで、今までモンゴルの「みどりの馬」という創作童話を原文から書き写して一冊の絵本にまとめました。

そしてその一年後盲目の父が自分の家の裏山に杉の木を植えた話を書いた「おじいちゃんの山」という絵本を出しました。この2つの絵本の絵を描いて頂いた稲田善樹さんに今回も絵をお願いして、今日お話しする新しい本が出来ました。

現在何をしているかと申しますと「むさしのスカーレットアジアお話の会」という会に属しておりまして、みんなでアジアの事情を日本の子供たちに伝えたいという活動をしています。ここで一番最近書いたのはバングラデシュの民話で「情け深い王子」というものを同人誌に出させていただきましたが、そんな縁もあってバングラディッシュの公使の方の家にお招きを受けて先日行ってきたりしています。

メニューに戻る(M)

2.星野せい手作りカルタ 平和百人一首

手作りカルタというのは、私の夫の祖母にあたる星野せいが、遺したカルタです。このカルタの由来は、今から60年前の昭和23年に新憲法発布の記念事業として企画された世界の平和を祈念すると言う意味での平和百人一首の募集にさかのぼります。その時に募集されたのは百首でした。読売新聞とか朝日新聞にその広告が載っております。その発表は三越でありました。

カルタ募集の新聞広告、三越の発表広告

星野せいはそれに応募して100首のなかの一首に選ばれたのでしたが、彼女は自分の歌が入った百首の歌を、自分の筆で書いて百人一首カルタを手作りしたのです。手作りの取り札、読み札200枚のカルタを子供たち5人にそれぞれ作り1000枚のカルタを書いています。子供で今生きているのは1人だけで、一番末の娘だけなものですから、それがどの家庭に果たして残っているかも分かりません。

あと一組は残っているのが分かっておりますが、我が家では母の登き子が大変大事に大事にして、毎年お正月には普通の百人一首とともに平和百人一首をとっておりました。子供達は幼稚園のころからとっていましたから、変体かなで書いてある書は普通なかなか読めないんですけれども、ゲームがとても好きなものですから、「し」とか「う」とか「い」とかたった一字分かるだけで子供はとっていまして、まあそういう風にして受け継がれて代々カルタをとり続けました。

なんでその歌を今回私がこの本にしたかと申しますと、夫が吉祥寺村立雑学大学で昨年1月にこのおばあちゃんのカルタの話をしました。講座の最後に夫は「私はこれを本にして出版します」と1人で宣言したのです。なんでカルタを本にしてみたいかと思ったかといいますと、平和を喜ぶ庶民の姿が本当に生き生きと写しだされている。

それとともになにかとてもつつましい庶民の気持ちが伝わってくるというのです。私もこれにこそ安倍元総理がおっしゃっている「美しい国日本」の清らかな精神が生きていたんではないか、今ではすっかりなくなって日夜すざましい事件ばかり起こっていますけれど、ああこの歌を今の子供たちに「こういう時代があったんだよ」ということを伝えたいと思っておりましたので、へそくりの大枚をはたいて、この一冊の本にいたしました。

講義風景、熱心に話を聞く受講生


このカルタを募集したときに200円の懸賞金と美麗バッチというバッチが頂けたようです。昭和23年の200円はどのくらいの値打ちがあるか皆さん想像できますか?週刊誌が10円、銭湯が10円、大工の日当が百円、2級酒が一升500円、お米一升が5円とあります。お酒なんかがまだ出回らない時代だったのでしょうか?

平和憲法発布ということでこの平和百人一首は募集されたのですが、憲法について少しお話申し上げます。皆さんもご存知のように1946年の11月3日に公布され、翌年の5月3日に施行されていますが、この11月3日の日曜日、貴族院本会議場で午前11時に決まったようですが、それに議員数約1000名と書いてあるのですが、どういう方たちがいたのかというと、皇族、閣僚、GHQ関係者、などが入っているのです。


私は貴族院に何人が属していたか調べたのですが、よく分かりませんでした。このときは吉田首相の時代で全国中継でラジオで放送されたということで、2007年の昨年がちょうど施行から60年、このカルタが募集されてからちょうど今年で60年、そういう区切りに本としてまとめました。

和百人一首については資料がほとんど無い状態でして、わずかにあるのは我が家に残るカルタだけということでスタートしました。まず最初カルタから全文を写したのです。ところがお名前が草書体でなんとも解読が難しく、自信がなくて、これは名前を付記するのは無理かなと思っていましたら、たまたま絵を書く方がインターネットで調べまして、東洋大学の記録文書のなかに印刷した本があるということで、見に行きました。そうしたらその文書は大変貴重な文書で、しかもぼろぼろで、私の身分証明をしてもらわなければ閲覧させられないということで、図書館長さんの許可を得るのに8日間くらいかかりました。

着席している大竹隆一講師、その横で本を片手に説明する大竹佳子講師 これが分かったのはもう校正を出す段階だったのですが、ともかくこのおかげできちんとお名前は確認をとって正しい名前を入れることが出来ました。その本の大きさはこの程度のもので、コピーもしてはいけないというので、とにかくもそこに籠って見せていただきました。藁半紙に印刷してありますから、活字がなかなか読み取れなくて虫眼鏡でのぞきながら2日間6時間くらいかけて調べしました。

その後また、稲田画伯が国際日本文化研究センターにも本があるということを調べて下さり、コピーを取り寄せまして、最終的にはそれでちゃんとチェックをすることが出来ました。カルタの字は平仮名が多かったのです。ところがもとの印刷されたものは漢字を使っていて、しかもとても難しい漢字も使われていて、またルビが人によって違っていてそういう訂正が多かったのです。編集者の方と画家の方が頑張って最後にきちんと訂正していただきましたので、これは非常に幸運であり、貴重な資料を残せたなあと思っております。

この平和百人一首の募集をしましたのは、「平和の鐘楼建立会」という組織で、仁木三良さんという方が編集と「平和の鐘楼建立会」の事務室になっていました。この方か関係者の方に何かを聞きたいと思って、本には久我山2丁目600番地と書いてありましたので伺いました。そこは玉川上水のほとりなんですが、その家はもう見つけることが出来なくくて、おまわりさんに「そこにはないです」と言われたんです。隣近所の家のブザーも押して歩いたんですがだれも出てこなくて、私は仁木さんの調べはそこで断念しました。

原本には英語の訳が入っています。今回私が出した本では、武蔵野国際交流協会で会員として活躍されております野崎斐子(あやこ)さんが、自分が英訳をつけるわとおっしゃって、ボランティアで100首つけて下さったのです。そんなことでこの本には新たな英訳もつけることも出来ました。私が思うに、この中は旧仮名使いがいろいろ混ざっておりまして、全部ルビをつけたのですが、現代の若い人には状況が理解されにくいものが沢山あるようです。

ある方が私にこの歌はどういう歌なの?って聞いてきたことがあり、本当にそれは普通の言葉で書かれた歌だと思うのですが、やっぱりなかなか理解が出来ないようでした。それなら英文の方が理解できるという若い世代がいるんじゃないかと思いまして、野崎さんの英語訳部分には期待もしているのです。また後ほど語っていただきますが、今までご一緒に絵本を作ってきた魂の画家と呼ばれている稲田善樹さんに今回も一首一首に絵を描いていただきまして、単なる歌集ではなく素敵な絵本になったと思っています。

本の表紙写真


これからは出来ればあの時代の女性の生き方、戦地から帰ってきた方の色々な想い、そしてなんにも無い時代にただただ幸せだというだけですごい充実感を感じていたその人達の生活を、今の時代の子供たちにも伝えていきたいなとも考えていて、どうやったそれをしたらよいか考えているところです。

資料調べのときに行き詰っておりましたときに、画家の仲間で大学図書館の司書をやっておられる高橋隆一郎さんとおっしゃるかたなんですが、実に細かい調べをしてデータを教えていただきました。先ほど話した昭和23年の新聞記事などもみんな高橋さんの資料によって調べることが出来ました。結局この庶民の歌は国立図書館にも都立図書館にもなくて、さっき申しましたように2箇所にしか現在はないということです。

この場を借りて感謝したいと思います。本当にたいへんな作業で、どうして私がこんなことをしなければならないんだと思うこともしばしばでしたが、そういう時はこの歌を詠みかえしますと、「やっぱりこの人達の気持ちは伝えていかなければならない」と思うのが原動力になっております。

百の歌・千の想いという題はどういう意味でつけたのか。実はうちの息子が編集者なんですけれど、この「想う」はどうして「思う」ではないのと聞かれたんです。私は100人の歌だけれどこれは限りなく多くの日本の人達の想いが籠った歌ですよという意味でこの「想い」を使ったのよと言ったのです。この当時の人口は大体8000万人だったらしいですけれど、その中の23000人強の応募があったそうです。そういうことを考えますといかに多くの人達がこの歌によって自分たちの想いを伝えようとしたかということが分かると思います。

メニューに戻る(M)

大竹隆一さん3.祖母の残したカルタと本の出版 大竹隆一

皆様こんばんは。大竹隆一です。まず私の自己紹介をさせていただきます。私は社会人になりまして金融関係の仕事を長くやっておりまして、そのあとその子会社で情報産業、今でいうIT産業関係の仕事に現在でも携わっております。

私は集団疎開の第一期生なんです。最初は長野県の上諏訪温泉というところの旅館に分散して泊まらせていただいて、毎晩毎晩お風呂に入って騒いでいたという思い出があるのですが、ところがあの近くに岡谷工機という会社がありまして、そこをめざしてB-29が飛んでくるようになった。

それで危ないということで、それから山梨県との境に信濃境という駅があるのですが、そこに移りました。これは上諏訪からくらべると環境の悪いところで、まあお寺の本堂にべたべた布団を敷いて寝た思い出があります。毎日おなかをすかせながらそれでも元気で無事に帰ってきて、社会人になったというところです。

私の祖母は子供心に見ても大変美人なおばあちゃんで、さきほど妻が申しましたように、平和百人一首の応募のときに私の祖母の歌が一首入選したわけです。これが私の自慢の祖母です。これが私の祖母です。美人でしょう?

巻頭 星野せい

何せ物の無い時代でしたから写真の台紙を切ったりノートの切れ端を使ったりして、みんなカットして千枚の紙をまず作ったらしいんですよね。それに台紙をつけて貼って回りに赤鉛筆で枠を作って1000枚作って自分の子供たちに渡したのです。
私が祖母の家に遊びに行きますと、特にお正月はまず小倉百人一首をとらされたのです。そして最後にこの平和百人一首をとらないと帰してくれなかったんです。ところが私たち子供は全然分からなかったんです。取り札も下の図のような草書によるものですからね。

でもこの歌を詠んでみますと、確かに現代に生きる我々が忘れてしまってはいけないというような、どのような気持ちでその人達が時代を過ごしていたのかというようなものが、如実に現れているわけです。時間の関係もあり、100首全部ご紹介できないのは残念ですがこれから何首か私の好きな歌をご紹介いたします。

人に対する気配りとか人を思いやる心、それから家族愛ですね、それから美しい自然を愛する心、こういうものが大変よく現れていると思います。現在の人達が忘れてしまっているものを、鮮やかに詠んでいる、私がいなくなってしまったときに、このカルタが無くなってしまったらこの歌は永遠に世の中に現れないだろうというふうに思いまして、これは本を作ろうと思い立ったわけです。

一番ここで気になったのは、この本には歌を詠まれた方の名前をそのまま転載したことです。このお名前を出すべきかどうか、ということを妻と一緒に考えました。ご本人の了解がとれないまま載せるわけですから、本来は問題なのですが、まあ60年経っていることでもあるし、ご勘弁いただけるかなということでお名前を出させていただきました。個人情報のうるさい時代なのでご本人はいらっしゃらなくても、ご子息や関係者の方がなにか言ってこられるかも知れません。そういう場合はその時に対応して行こうと思っております。

それからこの歌に絵を描いていただいた稲田さんという方ですが、今回の本は妻とコンビを組んで作った三冊目なのです。大変暖かい絵を描かれる方でありますし、私も大好きな絵なのですが予算の関係もあってとりあえず20枚の絵を描いてくださいとお願いしましたら、いやこれは100枚描かなくては意味ないとおっしゃって、100枚の絵を新潟県の十日町の廃屋に籠って描いて頂きました。要するに歌と絵の組み合わせなのですが、歌を詠んで、

忠実にその歌の意味の絵を描くというのは、大変行き詰ってしまうものらしいですね。彼が言うには、この歌の根底に流れている人を愛する心とか、自然を愛する心だとか、人を思いやる親子の情愛を感じるままに描いたんだということで、私が見ても「えっ!なんでこの絵がこの歌についているの?」というのもあるんですが、それは彼の話を聞いていただきたいと思います

メニューに戻る(M)

4.私の好きな歌 大竹隆一



われら選ぶ 人のおさむる新しき 国輝けと一票を投ず 東京 小川登子

民主選挙に対する想いを書いています。これに英語で[We can choose the person to rule our new country. I cast a vote for a brilliant new country.]と野崎さんが入れてくれています。

外つ国の 人も愛づらむ咲きたりて 日傘に舞い散るさくら吹雪は 東京 星野せい これが祖母の歌です。

幾千万の いのちやすらぎおほらかに 新憲法は史をかぎるなり 千葉 角田博子
これは新憲法が発布されたときの歌ですね。あの時代の実感が出ていますね。


戦いの 日々に見上げてものおぢし ことも忘るる清き大空 東京 秋元輝

この「清き大空」皆さんもご記憶あると思うのですが、私は疎開学童中で、山寺で天皇陛下の放送を聞いた思い出があるのですが、あの日は日本全国大変よい天気だったですよね。お寺の前に釜無し川が流れていてちょっと小高い山が沢山あるのですが、あのとき確かに戦争に負けたという悔しさはあったのですが、日本の空はこんなにきれいだったのかと思ったのはあの時ですね。つくづく感じましたね。あの空の色を見て、ああこれで両親の元に帰れると思いながら、こんなにきれいな空の色があったんだなとつくづく思ったことをいまでも思い出しますね。

人類が たたかいの爈に投げ入れし さちの価はいくばくならむ 東京 関根京平

実際に世界全体を見ますとこういう状態は続いていますね。こういうような歌を終戦直後の人は実感として詠まれているのですね。私は個人的には好きな歌です。

新しき 日を迎えたりいまさらに 世界につづく海のひろさよ 茨城 小神野藤花 
まあ日本の国は海に囲まれた島国ですがこれから世界に広がっていくということを詠われた歌だと思います。

かがやける 光を見れば草も木も 人の子もみなめぐまれてあり 滋賀 井上肇国

これは詠った方の優しい心が出ているんではないでしょうか。

おほらかに 蒼穹の地球を包むごと 人も垣せずむつみゆかまし 東京 市村宏

仲良くしていこうじゃないかという感じの歌ですね。この蒼穹はそらと読むのですね。カルタにはそらと草書でかいてありましたが、この本には原本に忠実にこの漢字を入れました。

うらうらに照る陽を浴びて思うこと つつましくしてみちたらひたり 神奈川 塩崎アキ

あの頃は贅沢は出来なかったのですが、いかにも贅沢はしないでも平和な暮らしで満足しているという気持ちが出ている歌じゃないかなと思います。

ただ祈る 世界の人のおほらけく こころひとつにむすばるる日を 東京 近藤英治

これの挿絵が稲田さんは蝋燭の炎を描かれています。どういう解釈なのでしょうか、稲田さん独特の感性です。
 
ただいのる世界の人のおほらけく こころひとつに結ばれる日を 東京 近藤英治


やすき世に生きて働くよろこびに みなみち足りて思うことなし 大阪 中山勝代

いわいる労働の喜びですね。この歌の挿絵のもんぺをはいた女性の姿がとても可愛らしくて私はこれを表紙に使いたいなと思ってずいぶん迷いました。

いささかの善きことありて始まりし 日はひねもすも楽しかりけり 東京 前田良治

これも平和な日を心から喜んでつつましく楽しんでいる姿を詠っていますね。

かえり来ぬ人のいのちの恋しきに なお祈らるるいくさなき世を 秋田 高橋園子

これは戦争でなくされた方を想っての歌でしょうね。

刈り入れも事なく終えて炉を囲む 秋の夜長は楽しかりけり 滋賀 廣瀬徹夫
いかにも一日の労働が終わって親子で炉を囲んでいろいろ話をしている状況が浮かびますね。

水ぬるむ信濃の川をよぎる汽車 はなやぐ子等の声を盛りゆく 新潟 岡田勇五

この解釈は色々あると思います。私は河原に子供が水遊びかなんかしていて、「ああ汽車が通るよ」と賑やかに言ってるのかなと思ったのですが、列車に乗っている子供たちが「ああ川だ川だと」騒いでいる情景だというのと両方ありますよね。みなさんはどんな風に解釈されるでしょうか?とても調べのいい歌ですね。

春は花 秋はもみじ葉山河の 美ましき国に事なあらせそ 東京 前田依子

これは詠んでどうということはない、ただ調べの美しい歌なんですが、最後の事なあらせそ」という争いごとなんかがないようにという平和を祈念している点で効いているなと思いました。これは原本ではトップに出てきている歌です。稲田さんがとてもきれいな絵を描いてくださいました。
たらちねの母のひとみを見るたびに いばらの道に光さしそふ 東京 橋本薫

いかにも親子の情愛を詠っているいい歌ですね。稲田さんが母は子供にとって道しるべの灯台のようなものだとおっしゃって、海に屹立する灯台の絵を描いてくれました。

わが明日の命なりけりみどり児に 頬おしあてて憂きは思わず 東京 今井田清子

新しい生命が生まれてきた喜びを詠っていますね。解釈の難しい絵が付いています。みどり児になぜ孵化する蝉なのかと聞きましたら、稲田さんはほんわかした温かみを出したかったと話していました。

還り来し 父に抱かれ眠る子の やすけき見れば思うことなし 兵庫 井上弥生

これは戦争からお父さんが戻って来れれたのでしょうね。子供を抱いている姿をみるとこれ以上の幸せはないなという感じで詠まれた歌ではないかと思います。

たたかいに 死なざりし命還り来て 桜狩する春に逢うかも 和歌山 橋爪 啓

戦争から引き上げて日本のちょうど美しい桜が咲いている情景のときに帰って来られて詠んだ歌でしょうね。このお地蔵様の絵もとてもいいですね。編集者の方がとても気に入って彼はこれを表紙に使いたいと言いました。表紙を最後に決めるとき100枚の絵を座敷に全部並べまして3人で選んだのですが、私も迷いにまよって、最後に決まったカンテラの絵を選んだのですが、編集者は最後までこれがいいと言っていました。

さむざむと舗道に孤児の佇つ見れば ふたたびかかるいくさなからしめ 新潟 南雲末子

終戦直後はこんな風景が街に見られましたね。

これで100首のうちの21首です。あとの79首になかにももっともっと良い歌、皆様の心に触れる歌があるだろうと思いますが、それが全部紹介できないので残念ですがこのくらいにします。

メニューに戻る(M)

5.「百のうたと原画展」紀伊国屋画廊でのこと 大竹桂子

今まで彼が選びました歌は彼独特の視点で選んだ歌でして、ちょっと偏っているむきはありますね。なんでこんなことを申し上げたかといいますと、今、新宿紀伊国屋4階の紀伊国屋画廊で「百のうたと原画展」というのをやっています。その会場にいらしている方々の歌の好き好きにはさまざまな違いがございます。自分の好きな歌に赤い印をつけていただいていますが、そういう数字とは関係がなくこの歌が好きですという方は沢山います。一昨日車椅子で大学生の方がいらっしゃいました。大変高いところに飾りつけがしてあって、申し訳ないなと思いながらずっと見ていたんですが、かれは本当に丹念に一首一首詠まれまして、「僕はこの歌が良いよ」といって必死で書いたメモを残してくれたのです。

その方が選んでくれたのがこれです。

手毬唄のどかに子等の遊びゐて 平和の春はありがたきかも 福岡 花田静枝

彼のコメントは「僕はこういう立場ではないけれど、もし母のことを考えると母はこの歌を選ぶのではないか」と思ったと。私は大学生の方がこういう歌を選ぶのかなあと別な意味で感激しました。精神面では実に健全できちっとした方だなあと思いました。
皆様が多く選ばれる歌は心が休まるようなほっとする歌が多かったんですね。やっぱり今はそういう時代、気持ちが休まることが少ないのかなあというのが感想でした。

春の野をわが恋ひくればみなし児の くろき方手にれんげ匂へり 埼玉 町田知世子

これなんかも多くの方から赤印がつけられました。終戦直後はこういう情景がありましたね。蓮華がとても効いていますね。

メニューに戻る(M)

稲田善樹さん6.原画を担当して 稲田善樹

稲田です。私は生まれは満州、父が満鉄の職員でしたので5歳まで満州にいました。家財道具は全部失って鍋釜だけを持って帰って、いまだもって大陸マークのアルミのコップで毎日歯を磨いています。満州から引き上げて両親の里である広島県の御調(みつき)郡くい村という山深いところで子供時代を過ごしました。子供ながら都会にあこがれまして、高い山に登ると海と尾道市が見えるのです。そこから眺めていつも、ああいうところにはどんな人が住んでいるんだろうかと思っていました。

小さいときから絵が好きで紙とクレヨンがあればおとなしく絵を描いている少年だったそうです。今稲城市に住んでいます。女房は、夫は元気で留守が良いというタイプですから、私はしょっちゅう外に出て、最近はひょんなことで十日町の廃屋を借りてそこをアトリエ代わりにして、制作をしています。

なんでもいいから絵を描くということをやってきたのですが、なんか物足りない。やっぱりテーマを決めて絵を描きたい。こういう気持ちになり、今はテーマを決めて描いています。その時々の思いつきでテーマを決めています。最近ですと「60年目を迎えた日本を振り返ってみよう」ということで、「消せない記憶」というテーマで激戦地を周って描いてきました。

色々行きましたがまずロシア、60万人の方がソ連に抑留されて1割の6万人の方が亡くなったと言われている、非常に過酷な環境で苦しんだところなのですが、この人達の記憶を放置できないなと思って、抑留者の運動をしている人達に手紙を出し、「絵を描きたい、墓参りに行くときに一緒に連れて行って欲しい」とお願いして同行させていただきました。モンゴルも行きました。

韓国も行きました。何故行ったかというと従軍慰安婦の問題が新聞で色々言われて、「従軍慰安婦ってどんな人達なんだ、自分の目で見てみた」というんで、その人達が入っている「南雲の家」という老人ホームへ2日間同居させていただきました。おばあさんをスケッチしたんですが、なかなか描かせてくれなくて大変でした。精神的に後遺症を持っていらして、喜怒哀楽がすごく激しいのです。今日は良いけど明日は駄目かもしれない、約束しても駄目になるかも知れないという中でなんとか描かせていただきました。その他フィリピンに行き、パプアニューギニアのラバウルにも行って、そこを見ると本当に涙が出ましたね。

私は涙を流さないと絵が描けないのです。今回の百人のうたについても、歌を詠みながら十日町のアトリエで涙を流しながら、おお涙の量がだいぶ増えたから、これはいい絵が描けるぞと思いながら、描きました。是非6日まで紀伊国屋画廊でやっている展示会で原画も見ていただきたいし、歌もたっぷり味わっていただきたいと思います。

百首を全部詠んで回ると大変疲れるのですが、それでも60年前の人達が憲法をどういう気持ちで迎え入れたのかということに私はすごく関心があって、今9条論争がありますが、原点に返って今一度その当時の人達がどういう形で受け入れたのかということに立ち返って「あらためてじゃー9条どうするか、憲法どうするか」ということを一人ひとりが考えていただくことに、私は今回の展示会、この本の出版が大きく貢献するんじゃないかと思っているわけです。

メニューに戻る(M)

7.質疑応答

質問:これはどこが募集してどういう人が選者になられたのですか?
大竹桂子:これは平和の鐘楼建立会というところが募集したのです。それで私も平和の
鐘ってどこにあるのかと思い探しましたが、見つからなかったのです。この会には色々な団体の代表者たちが集まって、お金を出し合って作ったらしいのです。建立会のクラブが銀座にあったということしか分かっておりません。編集者の方は先ほど申しましたが久我山の2丁目600番地に住んでいらした仁木さんという方が、この鐘楼建立会の代表者になって書かれておりました。その他は分からない状態なんです。

質問:稲田画伯は歌を一首づつ詠まれて、絵を考えられ描かれたとのことですが、なにか代表的な作品を、どういう思いでこのような絵にしたかを語っていただけませんか?
稲田善樹:一杯あるんですが、私自身が満州引き上げで広島育ちですのでこの歌と絵は印
象深いです。大陸の野戦にひとり病みし日を 吾子抱きつつ夫は語りぬ 愛知 瀬尾文子
この詠んでいてどんな想いで帰ってきたのか、この人は野戦病院に入院していたのですよね。やっとのことで命からがら帰ってきて、その思い出を時間を気にせずに子供をひざに抱いて妻に語って聞かせている、これをイメージすると私も満州引き上げですのでそれと重なってしまうのです。

この感情を表現するのに人間を描くというのは大変なのです。人間ではなくてなにを描こうか。それで時計を思い出したのです。それは時間を気にしないで子供を抱きながら、妻につらい思い出を妻も夫も涙しながら語り聞かせているんじゃないかなあ、私の母も95歳の母親がいまだに満州引き上げの話になると涙を流しながら話しますからね。そういう戦争体験というものは消えない。大事に大事にしてもらいたいなという想いがあります。この絵はそういう想いを時計で置き換えたという例です。

質問:この歌になんで干し柿の絵なんですか?
 明け暮れを清水乏しく湧く島に おごらぬ人ら住みていそしむ 宮城 島田白虹
稲田:作家冥利につきるといのはこのことだなと思うのです。多くの人が見るわけです。絵から歌に入る。歌から絵に来るというふうに行き来するわけです。そして頭をかかえるんです。なんでこの歌が干し柿なんだ。他には分かりやすい絵が何枚もあるんですが、分かりにくいのが何枚かある。

それを見ると私はほくそ笑んじゃって、「そらみろと誰も分らんだろう」と有頂天になって遊んでいるのです。なんで干し柿が湧いてきたのかといいますと、干し柿を見ますと白い粉がふいている、その粉の奥に柿の黒みがあってその奥に赤みがある、この色が白とマッチしてなんともいえない味があるのです。この歌の「おごらぬ人ら」にかけたのです。この歌で「おごらぬ人」をどう表現するか。それで素朴で目立たなくて美味しい干し柿なんです。独りよがりなので納得する人はいないでしょうね。

質問:くしくも憲法記念日が明日ですが、この日にこの講座、紀伊国屋画廊での展示会を合わされたのですね。
大竹桂子:そうなんです。この本今日5冊くらいは持参しましたので、もしご希望の方おいででしたら後でお申し出ください。1人でも多くの人にこの歌を詠んでいただきたく、是非みなさまからもこういう本があるよということを周りの方々にも伝えていただきたいと思います。私どもも小さいな子や若い人達になんとかしてこれをお話していきたいなと思っています。そういう機会があればどこにでも参ります。

私のグループの方々も音楽なども添えてこれからそういう語り部になっていけたらいいなって申しておりますし、女優の草村礼子さんも戦時中お父様が獄中でなくなられたということがあって、すごく関心を持ってくださっています。私は武蔵野市に住んでいますが、今日も市長が時間を割いて展示会にいらして、是非この活動を武蔵野市でもやっていきたいなとおっしゃってくださいました。是非色々な方の力を借りて、私たちの世代でなければ伝えられないことを多くの若い方々に伝えていきたいと思います。 (拍手)               終わり




文責:臼井良雄
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子

本文はここまでです



このページの先頭へ(0)

現在位置: ホーム(1) 講義録一覧 2007~2009(2) >百の歌・千の想い―甦る平和百人一首-



個人情報保護方針アクセシビリティ・ポリシィ著作権、掲載情報等の転載、リンクについて連絡先

Copyright (c) 2005-2007 kandazatsugaku Organization. All rights reserved.