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平成20年6月13日
神田雑学大学定例講座N0411




半七捕物帳に関わる女たち


目次

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はじめに
旗本に嫁いだお道の場合
島抜けをして一仕事企んだ花鳥の場合
嫉妬から男を突き出したお登久(「帯取の池」)
可愛さに主人の子供を隠したお福(「河豚太鼓」)
浮気な夫を破滅へと陥れたお竹(「金の蝋燭」)
作品に見える当時の女性
半七の係累と岡本綺堂の係累
質疑応答


プロフィル

今内 孜 講師平成9 年65歳でリタイア。生涯学習として同年JSHC入会。(JSHC: 日本シャーロック・ ホームズ・クラブの概要、会員数約1000人、活動=全国大会 、地区例会、年報「ホ ームズの世界」の発行)。同11年JSHC全国大会の実行委員 長(王子大会)。徐々にSH (シャーロック・ホームズ)から半七へ。平成11年(67 歳)の秋頃から『半七捕物 帳』の研究を始める。平成18年、江戸文化歴史検定2級 取得。現在『半七捕物帳の 事典』を編纂


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1.はじめに


「半七捕物帳」には約230人の女性が登場します。それらは裏長屋に住む女房、大 名の奥方などさまざまです。また、平凡な日常を送っている善良な女性、悪企み を弄する悪女、子可愛さに大胆な狂言を仕組む母親や乳母など、その生き様も千 差万別です。

今回は半七親分をして「女に怨まれちゃあ助からねえ。おめえも用 心しろよ」と云わせた悪女の話。怪談噺を創り出した故に作者をして「浅はかな 女のたくらみの底にも、人の母として我が子を思う愛の泉のひそんで流れている ことを認めないわけにはいかなかった」と書かせた母親など、5人の女を取り上げ 、岡本綺堂の描く女性の心理を解剖してみたいと思います。それぞれの話には実 際に江戸時代に起こった色々な出来事が背景として出てきます。私はそういうの を調べ
ていますのでそれらの幾つかをキーワードとしてあげて説明をしてみよう と思います。

そして後半は「半七捕物帳」は架空の物語でありながら、史実や岡本綺堂の家族 模様などをを巧みに織り込んでいるところも読みどころの―つと云えます。この 辺の私の推理などにも付言したいと考えます。



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2.旗本に嫁いだお道の場合

これは菩提寺の住職に「亭主を持っていると命にかかわる禍が来る」と云われた お道が、怪談話を作って兄のところへ来たという話です。
番町に屋敷を構える300石の旗本、松村彦太郎は、4年前に小幡伊織という旗本に 縁付いたお道という妹がありました。その妹がある日兄を訪ね、「もう小幡の屋 敷にはいられませんから、暇を貰って頂きとうございます」と突然云い出したの です。驚いた兄がその仔細を聞き糾すと、お道はようやく重い口をひらいて語り 出しました。

それによると、「私が寝ていると、枕もとにちらし髪の水でも浴びたように頭か ら着物までびっしょり濡れている若い女が真っ蒼な顔を出すのです。」そして同 時に添い寝をしていた3歳の娘のお春も急に火の付くように泣き出し、「ふみが来 た。ふみが来た」と続けて叫んだと言います。こんなことが4晩も続いたので、思 い切って夫に訴えると、彼は笑っているばかりで取り合ってくれません。このま までは自分は遅かれ早かれ得体の知れない幽霊に責め殺されてしまうかも知れな い。一刻も早く娘をかかえてこんな化け物屋敷を逃げ出すよりほかはあるまいと 、兄に訴えて来たと言うのです。兄の方はそんなことがあるものかということで 、小幡の家にも行って色々聞くのですがなかなか訳がわからない。

この話が近所に漏れ、これを聞きつけたのが小幡の近所に住むKのおじさんと言わ れる人。彼は旗本の次男で年中暇なんです。それで彼は小幡を訪ね、その探索を 買って出るのです。
最初Kのおじさんは口入れ屋、請宿と言うのですがそこでおふみという奉公人の出 入り帳を探してみたのですがなかなか見つからない。そこに顔を出したのがかね て知っていた半七で、Kのおじさんはすぐ半七にこの探索を頼むのです。
半七が色々探索し考えて分かったことは、冒頭に話しましたようにこれは菩提寺 の住職に「亭主を持っていると命にかかわる禍が来る」と云われたので、別れよ うと思ってこういう作り話をしたんだということでした。
なんで半七は分かったのかと言うと、Kのおじさんに色々質問して、お道が貸本屋 から草双紙を借りて読んでいること、そして小幡家の菩提寺は谷中の延命院であ ることを訊き出したからです。

半七は早速貸本屋に行きお道が最近借りた草双紙を調べると、お文という腰元の 幽霊の絵が物凄く描いてある本を見つけます。三歳の子供もその絵を見ているの で二人とも幽霊が夢に出てきて親子同時に騒ぎをおこしたのです。
また半七は菩提寺の住職については延命院の二の舞だということに気付きます。
後ほど言いますように延命院の坊主というと女犯で評判だということを知ってい たものですからね。

Kのおじさんから詮議のあらましを聞いた小幡はお道を呼んで詰問すると、お道が 菩提寺の延命院へ行った時、住職に別間で「あなたの御相がよくない。亭主を持 っていると命にかかわる禍が来る。独り身にならないと娘にまで災難が落ちてく るかも知れない」と云われ、彼女は幼い娘を思い、災難から逃れるために幽霊噺 の狂言を作り出したことを白状したということです。
お道は無い知恵を絞ってわが子可愛さのあまり作り話をして実家に戻ろうとした のですね。

ここに出てくる「Kのおじさん」は第―話だけに登場するのですが、岡本綺堂には 4人の叔父がいて、最も影響を受けたのは父の弟であった悌吾と言われます。後ほ ど申し上げますがKのおじさんは悌吾を想定しての人物であろうと私は思います。

熱演する今内講師 また「延命院の二の舞」というのは延命院が女犯の坊主を出したことで有名だっ たことを言っているのです。
実は延命院は享和3年と言いますから1803年ですね、ここの住職の日道が女犯で死 罪になったのです。関係した女は町人娘、武家娘、奥女中など60人と言うから大 変な事件でした。そしてその中の女6人が連累処分といいますから一緒に処分され たという記録があるのです。これは『武江年表』という江戸時代の色々な出来事 が書いてある本ですがこれに載っています。平凡社の東洋文庫に入っています。

この事件から、延命院と言えば坊主の淫行を云うようになりました。
事件後延命院は由緒ある古刹であるということで存続が許され、いまも荒川区西 日暮里3T目の「タ焼だんだん」という階段坂の上にあります。私も行って見まし たが静かな境内にある樹齢600年という椎の木は都の天然記念物です。境内には 由緒あるいわれは書いてありますが、こんな話はなにも書いてはありません。


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3.島抜けをして―仕事企んだ花鳥の場合

吉原の女郎大坂屋花鳥は実在の人物です。彼女は自棄半分になって自分の部屋へ 火をつけ、―旦は廓を抜け出しますがやがて召捕られて八丈島へ流されます。本 来なら放火は火焙りの刑なのですが、花鳥は抱え主の虐待に堪えられないので放 火したと巧く云い抜けしたのと、15歳未満であったとかで罪―等を減じられたの です。

そこでおとなしくしていれば良かったのでしょうが、翌年の天保11年そこ にいた男と海を泳いで島抜けをしてこっそりと江戸へ逃げ帰って来たのです。江 戸へ帰って来て隠れているところを捕まって、ついには処刑された女なんですが 、岡本綺堂はこの話を上手く使って、島抜けから、江戸に来て、捕まるまでの間 にこの架空の話を入れて組み立てたのです。

天保12年6月、日本橋北新堀の鍋久という鉄物屋の若主人久兵衛に美しい嫁が来 ました。それから二月ほど経った7月の末に、鍋久に殺しの事件が起きたのです。 風邪を引いて頭痛がしていた嫁が黒髪を長く振り乱して狂ったように駈け出し、 店の若い者や小僧が追う間もなく目の前の新堀川に飛び込んでしまいます。若夫 婦の部屋では久兵衛が何者かに頸筋を斬られて息が絶えていました。検視の役人 らは、嫁が夫の久兵衛を殺害して自分も入水したものと鑑定しました。

そのころ半七は吉五郎という岡っ引の子分になったばかりで、親分の指図によっ て駈けずり回る身分でした。上の事件を聞いた吉五郎は、子分の徳次にその探索 を命じ、駈け出しの半七がこれに付いて行くことになったのです。しかし探索は 思うようにいかず、徳次らは空しく引き上げるのですが、吉五郎の指図で半七は 嫁の実家である山谷の浪人磯野小左衛門宅の出入りを見張ることになります。

3、4日の間は別に変わった動きもなく、どうにも手のつけようがありませんで したが、8月13日のタ方、店の若いものが小左衛門の家に忍び入ると忽ち女の悲鳴 が起り、徳次らが踏み込むと、小左衛門は行燈の灯を消して暗い中に姿を隠し、 中には店の若い者と女中がいるばかりでありました。徳次と半七は2人を召捕りま す。

天保12年11月、天保の改革で江戸の娘義太夫36人が風俗を乱すものとして捕らわ れ、伝馬町の牢屋へ送られます。このとき半七もその召捕りに向かった1人でした 。彼女らは翌年3月、今後は正業につくことを誓って釈放され、そのうちの―人が 捕われたときに親切にしてもらったとして吉五郎のところへ礼に来ます。聴くと 娘らの牢名主は大坂屋花鳥で、多くの仲間は花鳥に虐められ惨苦を忍んだといい ます。花鳥は8月末に木挽町で団十郎の芝居を見物中に召捕られていたのでした。 この話を聴いて吉五郎と半七の胸にある疑いが湧き出します。そして解明された ストーリーは次のようなものでした。

島抜けをして江戸へ戻った花鳥は、吉原で馴染であった小左衛門に出逢い、彼 の娘を玉に使って浅草観音の開帳に網を張り、一仕事することに相談を決めたの です。その網にかかったのが鍋久の久兵衛たちでした。スリの芝居を打って娘を 鍋久の嫁に送り込むことに成功した彼らは、店の若い者を味方に引き入れ、店の 金380両を2回に分けて盗ませ、その上に花鳥が嫁の服装で忍び込み、久兵衛を殺 して川へ飛び込んだと推理するのです。

暗夜に逃げた小左衛門はその後徳次の執念で2年後の天保14年5月、世田谷の森 厳寺で捕らわれ、娘は北沢村の嫁入り先で、捕り手が向かったことを覚って古井 戸へ身を投げます。花鳥はその1年前の天保13年5月に仕置になります。
花鳥は実在の人物ながら作者の巧みな創作を交え、悪女の限りを尽くした魅力あ る女として描かれています。

「大坂屋花鳥」に関しては江戸時代に色々書かれて発表されています。
彼女の流罪については『流人明細帳帳』に次のように記載されています。「花鳥 (15歳)。文政9年(1828)10月流罪。新吉原江戸町2丁目、伊兵衛店、遊女屋しげ後 見、宇兵衛抱遊女。榊原主計頭吟味。附火の科。天保9年(1838)7月抜船致候。後 、江戸にて死罪。三根村割当」。

落語家の柳亭燕枝はこれを自ら調査して脚色し高座にかけました。この評判がよ かったので、伊東専三が小説化して明治17年に活字組みの草双紙として出版、さ らに歌舞伎『島衛沖白浪(しまぢどりおきのしらなみ)』にも仕組まれました。

実録と脚色の間には年齢や年代などをはじめいろいろの違ぃがあるようです。大 坂屋は新吉原の江戸町2丁目にあった店とされますが、綿谷雪著『近世悪女奇聞( 昭和54年、青蛙房)』によると「吉原の大坂屋という遊女屋も架空であるらしく、 実際の店名は不明」と書いてあります。

また芳賀登他監修『日本女性人物人名辞典、平成5年、日本図書センター)』では 、「文化11年(1814)〜天保12年4月3日。江戸後期の娼妓。本名婦佐。江戸浜町に 生まれる。江戸新吉原江戸町2丁目伊兵衛店の遊女屋しげ(大坂屋か)の抱え遊女。 放火が露見して北町奉行所につき出され、15才未満であったので八丈島へ流刑と なる。文政11年(1828)10月八丈島三根村預りとなる。のち天保9年(1838)7月3日 未明、下総国佐原(千葉県)の博徒喜三郎ら7人で島抜けした。

9日上総大野の荒野浜に漂着し、ともに島抜けした喜三郎と浜町の花鳥の両親を頼 って潜伏。その後両人とも再び捕えられ、花鳥は小伝馬町女牢に入れられて名主 として横暴をきわめたが、引廻しのうえ小塚原で打首となる(以下略)」とあり、 ともに「大坂屋花鳥」の記述と食い違う個所がいくつかあります。

前記『近世悪 女奇聞』には実録本からの引用として「(女義太夫への虐待を記したあと)暴逆日 々つのるゆえ、上にも今はすておきがたしと、その年の4月3日をトして花鳥は斬 罪ときわまりしが‥…」と書いてありますが、娘義太夫36人が入牢したのは天保 12年11月27日でありますから、ここは「その年の」ではなく、「翌年の天保13年 」でなければ辻棲が合いません。ところが前記の『人名辞典』をはじめ他の資料 でもその没は「天保12年4月3日」となっています。とかく花鳥については史実と 創作が交錯し、資料が江戸時代に焼失していることもあって、その見分けが難し いのが現実です。

大正6年8月、早稲田大学出版部刊行の『近世実録全書』第17巻に「佐原の喜三郎 」という題で収録されてあるというで、綺堂の作はこれに因るとも考えられてい ます。
江戸時代の記録は庶民の評判と事実がごちゃごちゃになってしまっていて何が真 実かは分からないことが多いのです。

またこの事件の舞台になった「浅草観音の開帳」これは浅草寺の秘仏とされる御 本体の前に安置されている「お前立ちの御本尊」の開帳を言います。『武江年表 』天保12年(1841)の項に「3月28日より、浅草寺観世音開帳(奥山にて驢馬を見せ 物とす。又菊川国丸といへる者、同所に出て曲鞠を蹴る。見物日毎に山をなせり 。淀川富五郎といへるもの作りし貝細工の見せ物もあり」とあって、「大坂屋花 鳥」に述べられている菊川国丸の蹴鞠、淀川富五郎の貝細工も記されています。 このように岡本綺堂は創作の背景に史実をいくつも忍ばせているのです。

「娘義太夫36人」の事件も史実です。天保改革の―環として召し捕られた36人の 娘義太夫のことで「武江年表」天保12年(1841)の項に、「11月27日夜、娘浄るり 36人召捕られ入牢、翌年3月落着す」とあります。娘義太夫は天保年間から流行り 出し、明治期後半に最も盛んになったものです。


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4.嫉妬から男を突き出したお登久(「帯取の池」 )

長唄の師匠お登久は将来近所の古着屋の伜と―緒になって、店に入り込む心積 りでいました。ところがこのごろその伜が別の若い女と何か引っ掛かりがあるよ うに思えて気を揉んでいた矢先、彼が突然姿を消してしまったのです。同時に若 い女が自宅で誰かに頸を絞められて死んでいるのが発見されたのです。
この事件を探索した半七は、古着屋の伜と若い女は事情があって心中を図り、ま ず伜が女を絞め殺したあと、急に気が変わって逃げ出したものと鑑定します。
古着屋の伜は若い女を殺して―旦は姿を隠したが、いまはお登久のところに匿わ れていると半七は眼串を差し、子分の松吉を連れてお登久の家に乗り込みます。 そこで半七はお登久に、二人は心中をして男も死のうとしたが決心がつかずに逃 げていると説明するのです。

お登久はこの話を聞くと身を震わせて泣き出し、「 じゃあ、すぐに捉まえてください」と云って、稽古場の床の下の戸棚から男を引 き摺り出します。
「千ちゃん。お前さん、よくもあたしをだましたね。商売上で少し筋の悪い品を 買って、飛んだ引き合いを食いそうになったから、ちっとの間どこかへ姿を隠す んだと云うから、一昨々日からこうして匿って置いてやると、そりゃあまるで嘘 の皮で、市ケ谷の女と心中しそこなったんだって。今まで人をさんざんだまして 置きながら、またその上にそんな嘘をついて……。あんまりロ惜しいから、あた しはお前を引っ張り出して親分さんに渡してやる。さあ、縛られるとも、牢へ入 れられるとも、勝手にするが好い」、お登久は悔し涙の眼を怒らせて男の顔を睨 みつけるのです。

男は半七に催促され、お登久が睨みつけている前で、「正直に申し上げます」と 云って白状します。それによると、半七が立てた推理はちっと違っていました。
男が女の家へ行ってみた。すると女が首をつって死んでいたんだと。私はそれを 見て女が可哀想だから、降ろして寝かせてやって、女がしめていた帯だけを夢中 で持って逃げたんだというのです。半七はどうもそれが本当らしいということに 気付き、この男は罪を犯していないということになったのです。

半七老人が後で述懐するには、「二人は―月ほどのちに仲良く連れ立って私のと ころへ礼に来た。「男が無事にすんだからいいようなものの、いったん犯人とし てお上に引き渡した以上、それが重い咎人になってしまったら、もう取り返しは つきませんよ。女ってのはどんな好きな男でも逆上するとそんな仕打ちをするん だな」と感心するという話です。

この話に出てくるキーワードのひとつ「帯取の池」は「市ケ谷の月桂寺の西、尾 州家中屋敷の下」にこの池があって、なにか池の中に妖怪がいて、女が通ると帯 を取ってしまうんだという伝説があるらしいんです。そこに帯を放り投げて逃げ たんですが、色々調べても江戸には見当たりません。京都には帯取の池というの があって、同じ伝説もあります。だから岡本綺堂はその池と伝説を借りてきてこ の物語を作ったのだと思います。

また雑司ヶ谷の鬼子母神も舞台になっています。「すすきの木蒐」というような 当時の江戸時代の土産物が出てきます。これは雑司ケ谷鬼子母神近辺特産の郷土 玩具で薄の穂で3寸くらいの木菟を作り、笹竹の先に提げたものです。木菟には竹 と紙で作った蝶が付いていて、昼と夜を表しているといいます。
そのほか風車、 麦藁細工の角具衛獅子、川口屋の飴などがここの名産であったことが『江戸名所 図会』に記され、木菟や風車、麦藁人形などが巻藁にさしてある絵があって、角 兵衛獅子売り出しの経緯が添えてあります。

私は行ってみたんですが、いまはこれらも絶えてしまい、木菟のみが鬼子母神東 脇の音羽屋で売られているだけです。ここでは80過ぎのおばあさんが作っていま した。そろそろ娘におしえなくちゃねなんて言っていましたが、今から間に合う んでしょうかねえ。


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5.可愛さに主人の子供を隠したお福(「河豚太鼓 」)

湯島天神の社殿改築が成り、60日間のお開帳があるというので、神田明神下の葉 茶屋菊園の家族も参詣に出かけます。境内は非常な混雑で、その中を潜って社前 に参詣し、作り物などを見物しいる間に、7歳のひとり息子玉太郎の姿がみえなく なります。一緒にいたのは母親のお雛と乳母のお福、それに隣の菓子屋の女房と 娘らでありました。
その夜ふけに菊園の番頭が半七を訪ね、ことの次第を説明して息子の探索を願い 出たのです。

江戸では安政6年に神田のお玉ケ池に種痘所が出来、物は試しだから植疱瘡を遣 つてみようという人がぽつぽつ出て来ます。菊園の若夫婦も植疱瘡の噂を聞いて 、子供可愛さに玉太郎にこれを植えさせようということになつたのです。老人夫 婦は反対するわけにも行かず、渋々ながら同意します。しかし乳母のお福は牛の 庖瘡を植えれば牛になると信じて手強く反対するのですが、所詮主人には勝てず 、悩んだ末に占いに見て貰うのです。

学習風景彼女は 仔 細らしく簸竹をひねっていた占い者から、植庖瘡をすれば主人の子供は7日の うち に命を失うに決まっていると聞かされ、真つ蒼になってしまいます。さらに 相談 をすると、玉太郎をどこかへ隠してしまえば植庖瘡もお流れ……、無期延期 にな るに相違ないと教えられます。お福はその足で根岸の実家へ廻って両親に打 明け ると、彼らはむかし者でやはり反対の組、彼女の弟も加わって湯島参詣の時 を待 ち、玉太郎を連れ出すという段取りを作つたというわけです。

「女の浅はかな考えと一口に言ってしまえばそれまでですが、お福としては―生 懸命、先代萩の政岡といったような料簡で、忠義―途に玉太郎を守護しようとの 決心でしたのですから、簡単に笑える話ではありません。考えてみれば可哀想で あります」と岡本綺堂は書いています。占い者は悪い奴で、玉太郎の隠匿を云い 出しながら、のちにお福を脅して手籠めにしてしまったが、天罰覿面というのか 、河豚に当って死んでしまいます。

この話のキーワードは「湯島のお開帳」、ここに参詣に行ったときに主人の子供 を隠してしまうのですね。この開帳は史実で『武江年表』文久2年(1862)2月の項 に、湯島天満宮開帳(本社土蔵造にて此のたび壮麗の美作成れり)。とあります。

そして「種痘所」これは種痘が始まったとき神田に種痘所というものを作って普 及させたのです。これが後に本郷に移って、明治になってからそれは東京大学の 医学部に発展したのです。

それから「先代萩の政岡」というのは、芝居の話です。伊達騒動を扱った芝居な のですが、足利家の正統な後継者である鶴喜代(つるきよ)の乳人(めのと)政岡 は、若君毒殺を恐れて食事のすべてを手作りにするという話があるのですが、そ れを引用してお福の心情を述べているのです。
岡本綺堂は元来が劇作家ですから こういう芝居からの引用が沢山出てくるのです。私もその都度調べるのですが、 これを調べるのがまた大変でどういう芝居の何処に書いてあるかなかなか分から ないのです。


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6.浮気な夫を破滅へと陥れたお竹(「金の蝋燭」 )

岡本綺堂が「女にうらまれちゃあ助からねー」と登場人物に言わせた、夫が昔や った人殺しをばらしてやろうと、女房がやけになって、両国橋から証拠品を抱え て飛び込んで死んでしまう話です。

安政2年4月2日の夜、修繕工事を進めていた両国橋の仮橋から何者かが飛び込み自 殺をします。それから6日目の朝、子分の幸次郎が半七の家に来て、昨日の昼過ぎ に女の死骸が沈んでいるのが見つかったという報告をします。女は風呂敷包みを 大事そうに抱えていましたが、その中には芯が金無垢の大きい蝋燭が5本あったと いいます。
半七らは現場を見て橋番の親父に女が飛び込んだときの様子をひと通 り訊いたが、彼も暖味なことしか答えられません。
しかし橋番は、その後に1人の 男が仮橋の上に立って水面を眺め、それが2日も3日も続いたので変に思っていた と言います。

半七らはそ一月前に江戸城本丸の御金蔵破りがあって小判4千両を盗まれたので、 気負い立っていました。
半七らは橋番の詮議を終えて帰りかけると、ひとりの女が両国橋の方へ歩いて行 き、やがて川に向かってそっと手を合わせて念仏でも唱えているのを見ます。女 は幸次郎がかねて知っている浅草奥山の宮戸川という茶店の女でした。半七らは 橋番小屋へ引っ返して女を詮議すると、彼女は宗兵衛という浅草田町で金貸しを している男を旦那にしているということが分かります。身を投げたのは宗兵衛の 女房のお竹で、夫婦は喧嘩が絶えなかったというのです。それから捜査は進展し て次のようなことが分かるのです。

宗兵衛夫婦は以前、大井川の金谷宿から少し距れている峠の麓に休み茶屋を開い ていた。
ある日の午過ぎに武家の中間風の男がこの店へ来て酒なぞを飲んでいる うちに急に気分が悪くなり、夫婦は親切に看病をしてやった。男はあくる日のタ 方に、快くなったと云って出て行ったが、別れ際に礼をしたいが路用が薄手なの でこれを置いていくと云って、1本の大きい蝋燭を置いて行った。

その時に、「す ぐに使ってはいけない。半年ぐらいは仏壇の抽斗へ仕舞って置くがいい」と云っ て立ち去った。夫婦が不思議がってそれを眺めているうちに蝋燭が落ちて金の芯 が出たので、夫婦はまた驚いた。

亭主の宗兵衛はこんな物を貰って何かの係り合 いになっては大変だから追っかけて返してくると、男のあとを追って出た。行っ てみると男は峠の途中に倒れて苦しんでいた。宗兵衛は介抱をしているうちに、 気が変わって、腰に下げている手拭で男を不意に絞め殺し、残りの蝋燭を引っ攫 って戻って来た。夫婦は1本が6本になった蝋燭を抱えてその晩のうちに旅支度を して夜逃げをした。

江戸へ出て金貸しをはじめた宗兵衛は、江戸の水に浸みて奥山の茶店女に熱く なった。女房のお竹は嫉妬に燃えて亭主を礫刑か獄門にでもしてやろうという料 簡で、意趣返しのために蝋燭を抱えて身を投げたのであった。

キーワードのひとつ「金の蝋燭」というのは岡本綺堂が中国の物語から引っ張っ てきたものらしいですが、この物語ではその蝋燭は何処かの大名から江戸の役人 達へ贈る品で、つまりは―種の賄賂です。表向きは金を贈るわけにも行かないの で、菓子折の底へ小判を入れたり、金銀の置物をこしらえたり、色々の工夫をす るのが習いでしたから、この蝋燭も一つの新工夫で、恐らく九州辺の大名が国産 の蝋燭を進上するなぞと云って、金の伸べ棒入りの蝋燭を持ち込む積りであった のだろうと思われます。

それから「両国橋の修繕エ事」これはしょっちゅうやっていまして、その時は横 に仮橋をかけるのですね。これも『武江年表山安政2年(1855)の項に、「3月より 両国橋御修復始まり、南の方へ仮橋かける」とあり、11月の項に、「同23日、両 国橋御修復この修復成就によって、老人の渡り初めあり」とあって、修復に足か け9ヶ月かかったことになります。
ちなみに江戸時代に隅田川にかかった橋は全部 で5つありまして、最初に出来たのが千住大橋、次が両国橋、その後が新大橋、そ れから永代橋、吾妻橋でした。

それから物語に出てくる「江戸城の御金蔵破り」の話は実際にあった話で『武江 年表』安政2年(1855)3月の項に、「同6日夜、御本丸御金蔵内の金子、小判にて 4000両紛失す。上横町清兵衛地借藤岡藤十郎(39歳)富蔵と共謀し、木を以て合鍵 をつくり盗みとりしが、安政4年2月26日、露顕して召し捕へられ、5月13日両人引 廻しの上、千住に於いて裸刑に処せらる」とあります。

半七はもしかすると4000両盗んだ犯人が小判を鋳潰して蝋燭に隠したんじゃない かと勇み立って犯人探しをするのですが、結果としては関係がなかったという話 になるのです。

御金蔵がどこにあったかといいますと、今の皇居の東御苑に行く と天守閣の跡がありますね。その左側に御金蔵があったらしいです。犯人は田安 門の方から入ってきて、堀を泳ぎ渡って侵入したという記録があります。2人は2 月21日、矢来御門の柵を乗り越えて侵入、乾濠を泳いで向う岸に着き、大奥の戊 亥櫓に近い御金蔵の鍵型を蝋燭で取ろうとしたが落雷で失敗、3月4日に同様に侵 入して鍵型を取ることに成功した。そして6日の夜、2000両箱5つを運び出したが 、重くて濠を泳いで運ぶことができず、3箱を濠に沈めて2箱だけを盗み出したそ うです。本丸の役人がこれを知ったのは2力月も経ってからだといいます。


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7.作品に見える当時の女性

岡本綺堂は作品の中で坊さんが修行するときに女性は外面は菩薩のような顔をし ているが内心は夜叉のようで怖いよと言っています。作品では「外面菩薩内心女 夜叉」という言葉から「如夜叉のたとえのような女」と言っています。
今回は5人を取り上げましたけれども、半七捕り物帳の中には長屋のおかみさんも いるし、色々な女性が出てきます。

長屋のおかみさんは総じて人が好いというか、半七に嘘をついてまで隣の人をか ばってやるとかします。そして半七が調べに言ってもなかなかしゃべってくれま せん。
これは理由があります。長屋のしきたりというか長屋の人というのはあまりおし ゃべりではいけないんですね。なにせ長屋の社会はまず大家さんのいうことは聞 かなくてはならんということがあります。
それから長屋の壁は薄いですから両隣のことはみんな分かっているわけです。夫 婦喧嘩も分かるし夜の生活も分かるし、それをべらべらしゃべることはやってい けないんです。そんなことがあるので長屋の女性には半七も苦労して聞き取りを するのです。

江戸時代女が外でしゃべり歩くことを金棒を引くと言うのです。これは金の棒の 上に丸い輪がついていて、これで地べたを叩くとガチャンガチャン鳴ります。夜 回りの時なんかに使ったそうなんですが、うるさくてしょうがないという意味だ そうです。
作品のなかには「この引摺り阿魔め」なんていうセリフもありますが、これは着 物の裾を引きずって歩く女で、遊んでばかりいて仕事をしないという意味です。


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8.半七の家系と岡本綺堂の家系

半七の両親と女房の係累図はこうなっています。
半七は半兵衛とお民の間に生まれた子供で、お粂という妹がいます。本当は半兵 衛の跡をついでお店の番頭かなんかをやるつもりだったんでしょうが、半七はそ れを嫌って、岡っ引きの吉五郎のところの子分になるわけです。
働いているうちに一人娘のお仙と結婚して俺の跡を引き受けてくれと吉五郎に言 われるわけです。

この半七とお仙の年齢差がどこにも書いてないのです。これを 推理すると私はお仙は5つくらい違いの姉さん女房ではないかと思っています。

半七の係累図これは「白蝶怪」の事件というのがあって、それはお 国が24,5歳の時でした。それは半七の生まれる11年も前なんです。
「白蝶怪」の事件の時にはお仙の話は出てきませんから、たぶんまだ生まれてい なかったと。半七とお仙がもし同じ年だとすれば11年前ですから産んだ時お国は もう35、6歳になってしまうのです。その年で子供が産めたかどうかという話があ ります。
当時では30歳で出産しても遅い子供ですね。ここら辺を勘案するとお仙 は半七より5つくらい年上ではないかと思うわけです。
半七とお仙の間には子供がいなくて養子を貰っています。

岡本綺堂は本名は敬二といいます。お父さんは敬之助ですが7人の兄妹がいて2人 のの姉妹は若くして死んでしまうのです。
男の兄弟の子供では男の子は敬二しか いないわけです。敬二にも実子はいません。そんな自分の周辺を考えて、こうい う子供のいない半七の家庭にしたのかなと思うわけです。

それからおかしな話なんですが、作品の中に一箇所、半七に甥がいるという話が あるのです。妹のお粂は半七と8つ違いで、最後の事件が慶応3年なんですね。そ の時に37歳でまだ独り者で母のお民とふたりで暮らしていると書いてあるのです 。
それから仮に結婚したって高齢ですから子供が生まれたかどうか分からない。 甥が突然出てくるのはひとつの謎なのです。

なぜこんな甥が現れるのか、私は岡本綺堂の係累から考えたのですが、岡本綺堂 はお栄という奥さんに子供がいない。
岡本綺堂のお姉さんにうめという人がいます。この人が石丸常次郎という人と結 婚して英一という男の子を産むのです。もう一人女の子も産むのですが女の子は すぐ死んでしまいます。
石丸夫婦は福島県に行って学校の先生かなんかをやっていて、途中から岡本綺堂 は英一を引き取って面倒を見たんです。ところが英一は綺堂の家にいた時、大正9 年18歳で死んでしまうのです。

おそらく岡本綺堂がこの甥の出てくる作品を書いたときに、この死んだ英一を思 い出して、甥が突然出てきたのかなと私は推理するのです。それしかないんです 。
敬二と栄には養子がいて、今年3月で99歳になっています。先月白寿のお祝いを贈 りました。2月に脳梗塞をなさったそうですが、お元気でした。私は半七をやり始 めたときにこの方に手紙を出したりして色々教えていただいています。

それから蛇足ですがさっき作品の中でKのおじさんというのが出てきましたね。こ のKのおじさんはたぶん綺堂の父のすぐ下の弟である悌吾おじさんのことだと考え られます。この人はイギリスに行って帰ってきた人で、敬二はこのひとから英語 を習ったり色々な怪談話なんかを聞いているのです。

半七捕物帳というのは半七老人のところに私という岡本綺堂が行って聞いた話を 小説にしているのです。ところがKのおじさんの出てくる話だけは、私は半七老人 から聞くのではなくて、Kの叔父さんから聞く形になっているのです。これは第一作です。

これは悌吾おじさんから自分は若い時に色々な話を聞いたんだということをそれ となくアッピールするためにKのおじさんとして出したのではないかなと思います 。
そんなことで半七と奥さんとの年齢差が分からない。半七老人の甥が突然出てく る。なぜ第一話にKのおじさんが出てくるのかという問題を推理してみました。( 拍手)


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9.質疑応答

(質問)失礼ですが先生の半七捕物帳に関する著作について教えてください。

(応答)じつは約6年くらいかけて、分厚い半七捕物 帳事典というのを作りまし た。シャーロックホームズ事典というのはあるのです が、半七捕物帳の事典はな いものですから、中身が厚すぎて普通の本にすると800 ページから1000ページく らいになってしまうのです。本屋さんに持って行っても そんなに厚い本で半七で は売れなというのでなかなか出版してくれないんです。 やっていることは楽しい んですがお金にはなりませんね。(凄いですねー)

(質問)岡本綺堂はヨーロッパ小説に詳しいと言われますね。やはりこの物語はシ ャーロックホームズが基本にあるのでしょうか?
(応答)岡本綺堂は英語ばかりでなく中国語も達者で色々な本を原書で読んでい ます。半七捕物帳はシャーロックホームズを読んで自分でもこんなものを書いて みたいなと思って始めたと自分で随筆に書いていますが、英国の話もそうですが 、中国の話も沢山取り入れたようです。当時丸善で原書を買いに来る岡本さんと いって有名だったようです。

(質問)岡本という姓はどこからきたのですか?
(応答)これは分からないのです。祖父の姓は武田です。
(質問)半七はどこにすんでいたのですか?
(応答)神田三河町です。今の地番では内神田1丁目の御宿稲荷あたりですね。

(質問)私の推理では半七というのは音でいうとhとSが入りますね。シャーロッ クホームズのSHから名付けたんではないですかね?(笑い)
(応答)半七の名前をつけるとき岡本綺堂は「何回も何回も書かなくてはいけな い字だ。なるべく字画数の少ない字にしよう。(笑い)もうひとつは色気がなく てはいけない。半七という名は江戸時代に多くあったようで、落語の「宮戸川」 にも半七が隣のお花という娘と結ばれる噺があります。

終わり


文責:臼井良雄
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:臼井良雄

本文はここまでです



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