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平成20年6月27日 神田雑学大学定例講座No.413


イギリス音楽の楽しみ(その1)、音楽から見えるイギリスの社会と文化、講師、中野重夫




目次

イラスト画像の画像
メニューの先頭です 講師プロフィール
はじめに
1.“BBCプロムス”ラスト ナイトの風景
2.“古くて新しい多民族国家”イギリス
2.1.“イギリス”とは?
2.2.イギリスの現在
2.3.“アングルの国”イギリスの歴史
2.4.“融合と共存”島国に形成された多民族文化
2.5.ケルトの命脈
2.6.アイデンティティとしての民族性
3.変容するイギリスとその音楽
3.1.“プロムス ラスト・ナイト”再考
3.2.“大英帝国継承戦争”の激震
3.3.伝統と革新 激変の時代が生んだ二つの音楽
4.イギリス近代音楽
4.1.イギリス近代音楽を担った人々
4.2.“イギリス音楽ルネッサンス”
4.3.イギリス近代音楽の遺したもの
5.ブリティッシュロックの誕生 ビートルズ
5.1.一枚の写真から “イメージの背後にあるもの”
5.2.「土曜の夜と日曜の朝」からの脱出
5.3.リヴァプールの光と影
5.4.ビートルズの旋律 “揺籃の歌”の反響
6.ブリテン島の民謡の美しさ



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中野重夫講師講師プロフィール

生まれ: 1948年11月、東京都
学歴:横浜国立大学工学部、放送大学大学院(地域文化研究)
職歴:都市ガス会社にて技術開発、国際業務、開発営業等を担当
 
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1.はじめに

今回が初めてのお目見えですので、簡単に自己紹介をさせていただきます。
私は昨年の末までずっとサラリーマンをやっておりまして、定年よりちょっと前に思うところあって退職し、現在、本日お話するようなことを中心に勉強している者です。ですから専門の研究者でもなんでもなく、一介の音楽愛好家です。]

あらためて振り返ってみると、会社生活より音楽との付き合いの方が長く、ずっといろいろな類の音楽を聴き、音楽に関わる書物 などを読み漁るというようなことをやってきました。
皆様の中にも、ひとつの趣味に同様に長く関わってこられた方は多いと思うのですが、その間には、どこかで袋小路に迷い込んだり、行き詰まりを覚えたりしたことが一再ならずおありだったのではないで しょうか?

サラリーマン生活の晩年、私もそういう思いにかなり強くとらわれまして、いわばこれまでの締め括りとして、ここ で一度少しまとまった勉強をして見たいと思うようになりました。
そんな折、たまたま放送大学の大学院に地域文化研究という講座があるのを見つけ、先ずはそこに在籍して会社勤めの傍ら勉強を始めました。ほんの数年前のことです。
入ったときにゼミの担当の先生からお前一体何をやりたいんだと聞かれて少々困りまして 、結局、先ず何よりも音楽が好き、そして次にイギリスという国が大好きなので、これを組み合わせて音楽という切り口でのイギ リスの地域文化研究をやらせて下さいとお答えしました。
われながら何とも薄弱な動機でしたが、始めてみるとこれが大変に面白く興味の尽きない世界ですっかり嵌ってしまい、今に至っております。

講演中の中野講師と補佐役の奥様の風景 さて、今日は「イギリス音楽の楽しみ」と銘打ったシリーズの第一回目として、イギリス音楽全般に関わる概論的なお話をさせていただきます。
思うに、イギリス音楽の最大の魅力はその多様性にあります。
では、この多様性は一体この国のどのような性格に由来するものなのでしょうか? 
今回はそのあたりの事情につき、この国独特の“多民族性”に着目しつつ日頃考えるところをお 話してみたいと思います。その際、この国の過去と現在を代表する音楽として「イギリス近代のクラシック音楽」と「ブリティッ シュ ロック」を、そしてそれら共通の源泉としての「イギリス民謡」を、具体例として取り上げるつもりです。
といってもそれ ぞれが大変に大きなテーマで、とても今日の限られた時間で十分にカバーしきれるものではありません。今回は先ず大掴みな話題提供をさせていただき、次回以降の各論編でこれを受けたより踏み込んだお話につなげてゆきたいと考えております。ご了解いた だければ幸いです。
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1.“BBC プロムス ラストナイトの風景

ある音楽祭に垣間見るイギリスの過去と現在

先ず、イギリスのある音楽祭の一光景をDVDの映像でご覧いただきます。
ロンドンで毎年夏に約2か月にわたって開催 されるクラシック関係の国際的な大音楽フェスティバルで、正式には「ヘンリー ウッド プロムナードコンサート」といいますが 、“BBCプロムス”という通称のほうが世上ずっと一般的です。

BBCプロムス”ラスト・ナイトの風景 1895年に始まった、もう百年以上の歴史を刻む由緒ある音楽祭で、その名のとおり現在はBBC(イギリス放送協会、1927年設立 )が主催者となって運営されています。
開催場所はハイド・パークに面して立つロイヤルアルバートホール。典型的なヴィクトリ ア様式の円形劇場で、なんと収容6,000人を超える大会場です。
出てくる演奏者、演奏団体は超一流ですが、他の著名音楽祭と比 べると大変に気軽な、カジュアルな雰囲気の音楽祭で、チケットも安く、手に入れるのも比較的容易です。

ですから夏ロンドンに 行かれる機会がありましたら、ふらっと出かけても聴けるチャンスは十分にあると思います。 しかし今日DVDで見ていただきたいのはそうした全体ではなく、「プロムス ラスト ナイト」という、フェスティバル最終日を飾る特別な催しの情景です。
これは大変に特異な性格のもので、イギリスの人々が非常にナショナリスティックで回顧的な感激、興奮に浸る特別なコンサートです。定番のプログラムがあり、特に終盤に必ずエルガーの「希望と栄光の国」という曲が演奏されます。
第二のイギリス国歌ともいわれる曲で、もともとは「威風堂々」という行進曲なのですが、後にその中間部に愛国的な歌 詞がつけられて出来たものです。これを聴衆全員が声を合わせて高らかに歌うに及んで、会場の興奮はまさに最高潮に達するのです。
ご参考までに、その歌詞の一部を和訳して読んで見ましょう。

「われら自由の民の母なる希望と栄光の国よ 汝をいかに褒め称えよう? 広く、一層広くその国境を定めよう この国に力を授けられし神よ なお更なる力を与えたまえ!」

まあ、大英帝国最盛期のこの国の人々の高揚した気分を臆面もなく歌ったもので、他の国の人達がこれを聞いたら怒り出しかねな いような代物ですね。
今世界が抱える問題の大半は結局お前らの帝国主義が残したツケじゃないのか、ということでしょう。
この国が二つの世界大戦を経て全てを失い、EUの片隅の一島国となった今だからこそなんとか許容される類のものかもしれません。
このコンサートは、そうしたことはこの際ちょっと脇において、皆で盛大に大英帝国の過去の栄光を偲ぶノスタルジックな一夜の お祭りなのです。
BBCプロムス”ラスト・ナイトコンサート風景

このとき盛んに旗が振られます。喚声も口笛もOKです。おまけに聴衆はパンパーンとクラッカーまで鳴らします。
通常のクラシックのコンサートではあり得ない光景です。

このDVDはちょっと古く、2000年の“ラストナイト”の記録なのですが、会場の雰囲気はその後もさらに過激の度を増しているように見受けられます。
説明が長くなってしまいました。それではどうかご覧下さ い。

(DVDの演奏。上記該当部分のみ。)  [DVD情報:“The Last Night of the PROMS” BBC opus ARTE, OA 0851 D ]

如何でしたか? 特に今回初めて“ラスト ナイト”をご覧になった方にはなかなかの見ものだったのではないかと思い ます。
実は、ここでご覧いただきたかったのは聴衆による盛大な旗振りの光景なのです。
特に、イギリス国旗のユニオンジャックだけ でなく、スコットランドやウェールズやアイルランドやイングランドなどの色とりどりの旗が熱狂的に振られているところを見て いただきたかったのです。
何故ならそこに、ユニオンジャックの国から四つの旗の国へと変容するイギリスの姿、「“多民族国 家イギリス”の過去と現在」が象徴的に映し出されていると考えるからです。
このあたりの事情を、以下にこの国の歴史を振り 返りながら少しお話させて下さい。

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2.“古くて新しい多民族国家”イギリス

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2.1.“イギリス”とは?

はなから妙な話題を持ち出して恐縮ですが、思うに、われわれが日頃ごく当たり前に使っている“イギリス”という日本 語はなかなか惑わしに満ちた言葉ですね。
例えば、英語で「ブリティッシュ・ガバメント」、これは日本語では「イギリス政府」 となります。
それでは「イングリッシュ・ガーデン」は、というと、日本語ではこれも「イギリス式庭園」となりますね。もう一 段日本語化された“英国”という表記の場合でも、事情は同じです。
では、そもそも「ブリティッシュ」と「イングリッシュ」は事実上同義なのかといいますと、もちろんそんなことはありません。

それぞれ異なった二つの概念であることは、試しに原語表記の方でこれを入れ替えてみると全く本来の意味を成さなくなることか らも明らかです。
しかしながらわれわれは通常そんなことを殆ど意識することなく、いずれも一様に「イギリスの」と表現して特に違和感を持ちません。
そこには、イギリスとは畢竟アングロサクソンの国であり、すなわち「イングランド」(“アングルの国”)であるとするわれわれ一般の漠然としたイギリス理解が端的に反映されています。
ブリテン島を支配し、その歴史を主導した「イングランド」の圧倒的な存在感を前提とした理解です。
したがってこれは同時に、この国が長い歴史の試練を経て形成された独特の“多民族国家”( 「ブリテン」)であるというもう一方の重要な事実への認識が、一般に大変希薄なことを物語るものともいえるでしょう。
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2.2.イギリスの現在

ご存知のように、現在のイギリスという国 の正式名称を直訳すると、「グレートブリテン及び北 アイルランドからなる連合王国」となります。

連合国家イギリスを象徴する国旗

ここで「グレートブリテン」とはそもそもイギリス諸島中最大の島、大ブリテン島(イギリス本島)を意味し、イングランド、ウェ ールズ、 スコットランドの三つの地域から成っています。
これにアイルラ ンド島北部の北アイルランドを 加えた四地域には軍事・外交等の基幹事項を除く大幅な自治権があり、原語で“Nation”と表記されているように、それぞれが殆 ど一つの国家と呼べる体裁を持っています。

一例としてウェールズでは母国ウェールズ語の履修が義務教育化されていますし、ス コットランドではかねてより独自の紙幣が発行され、流通しています。昨今連合王国からの分離独立の気運すらあって、スコットランドでは独立を標榜するスコットランド民族党(SNP)が議会第一党となっています。

イギリスという国は名実共にこの四つの国からなる連合国家なのです。
この連合国家は基本的に“多民族国家”です。
民族系統としては、イングランドは大陸から渡来したゲルマン系、他の三国は先住のケルト系です。
後者は“ケルト三国”と総称されますが、内実はそれぞれに伝統言語や文化や民族気質を異にする、強い個性を 持った国々です。

連合国家イギリスの現状
連合国家イギリスの現状
(1 July 2006 population estimates by UK National Statistics)  
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2.3.“アングルの国”イギリスの歴史

申し上げるまでもなく、この多民族国家の中核をなすのがイングランドです。
紀元五世紀頃この島に侵略的に移住したゲ ルマン人の一派「アングロサクソ」ンを父祖とする人々の国、“アングルの国”です。彼らは、今から約五百年前、父祖の渡来から実に一千年をかけて彼ら自身による真の統一国家を誕生させました。
1485年のチューダー王朝の成立による“統一イングラ ンド”の誕生です。

以降、二十世紀半ばの大英帝国の崩壊に至るまでのこの国の正史 −勝者の歴史− はイングランドの歴史であ ると言っていいでしょう。
その誕生に至る道のりは苦難と波乱に満ちたものでした。先住のケルト人と血みどろの抗争を繰り広げ、また身内の部族同士でも覇権を巡って激しく争いました。
この間、北方ゲルマンのデーン人(ヴァイキング)の度重なる来襲と略奪に苦しみ、一時はその 支配に屈したこともありました。
そしてようようイングランド統一が実現しようかという矢先、今度は北フランスから侵攻したノルマン人に破れ(ヘイスティングスの戦、1066年)、その支配の下に長く雌伏を余儀なくされるのです。

その後、数世紀を費やしてノルマンの支配をみずからの内部に吸収するかたちで解消し、さらに三十年に及ぶ王位争奪の内 戦(薔薇戦争)を経てようやく成立に至った真の“アングルの国”が、このチューダー朝イングランドでした。
現在の国名のイギリス、「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」の成立は1801年ですが、今に続くこの国の基本的なあり方、すなわち“イングランド主導の多民族国家イギリス”(=ブリテン)の基本形はこのチューダー王朝の成立の時点で確立したと考えていいでしょう。

以降、この島国は大陸諸国の絶え間のない抗争、戦乱と一線を画し、しばしば漁夫の利を享受しつつ、右肩上がりの発展を遂げ、十九世紀のヴィクトリア朝の時代に至ってかつてのローマ帝国にも比すべき大覇権国家、「大英帝国」を築くに至るのです。
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2.4.“融合と共存”――島国に形成された多民族文化――

このように、われわれが漠然と“イギリス”と呼ぶ国は、そうした長く複雑な歴史を経て今日ある独特な多民族国家です。
そしてそこには、他に類例のない、とてもユニークな多民族文化が醸成されました。
それは、制度的・人工的に成立した近現代の多くの 多民族国家の場合とは大きく異なるものであるのはもちろん、同じ「先住民族と外来の支配民族」という構図を有する諸国家・諸 地域の例と比べても大変に独特な性格のものであるように思われます。
そのあたりを委曲を尽くしてご説明できるような時間も用意もありませんので、今回は考えるところを次のイメージ図のように極 めて乱暴・粗雑に単純化してお示しすることでお許しいただきたいと思います。

全くの私見ですが、この島国に歴史的に形成され た独自の多民族文化の性格を敢えて一言で表現すると、それは図の[ケース4]のような、“地理的な住み分けによる共存を温存 した融合文化”といえるのではないでしょうか。
ダイナミズムと柔軟性がこの文化の特徴です。
すなわち、「共存」の緊張関係によ ってダイナミックな活力が常に維持され、「融合」のグラデーション(濃淡)の可変性によって時代状況の変化に柔軟に対応し得 るという特性を有しています。
一般的にイギリスの文化は大変保守的であるとされており、そうしたイギリスが、世界が劇的に変化した第二次大戦後、ポップスという新しいグローバルな大衆音楽の分野でいち早く大きな貢献を果たしたことは皆を大いに驚かせる出来事でしたが、これなども「融合と共存の多民族文化」の持つダイナミズムと柔軟性のなせる業だと思います。

イギリスの多民族文化の概略イメージ
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2.5.ケルトの命脈

さて、島国という逃げ場のない閉鎖空間で、圧倒的な勢力の不均衡を抱えた全く 気質の異なる民族「アングロサクソンとケルト」の間になぜこのようなことが可能となったのでしょうか?
 この国の文化の 原型がこのような「融合と共存」という形で定まったことに改めて思いを致してみると、何かそこに精妙な歴史の意志のようなものさえ感じざるを得ません。

特に、発祥の地とされる中央ヨーロッパではわずかな痕跡や伝承を残して消滅したケルトの人と文化が、この島国においてのみ、その多様性、「アイルランド、スコットランド、ウェールズの固有性」まで保持されたまま奇跡的に残ったのです。
そして“アングルの国”に形成された融合文化における彼ら島のケルトの寄与は、両者の目に見える勢力関係か ら想像するより遥かに大きく、深いものでした。

熱演の中野講師 いま歴史を振り返ってみると、これが一イギリスにとどまらず、世界にとっても結果として大きな意味を持つ出来事だったことが わかります。
ヨーロッパの北西の端の島国で命脈を保ったケルトの人々は、第二次世界大戦後大英帝国に替わって世界の覇者とな った“難民の国アメリカ”において、大きな社会的、文化的存在感を持って現代世界に復活を果たすことになるのです。

また、ビ ートルズを嚆矢とするブリティッシュ・ロックは、第二次大戦後に形成されたグローバルな大衆社会に躍り出て世界の音楽シーン を席巻、一新しましたが、これは一面において二十世紀における“ケルト・ルネッサンス”とも呼び得る性格のものでした。
この 問題については、後ほど改めて言及したいと思います。  
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2.6.アイデンティティとしての民族性

ところで、ここで話題としている民族性の内実とは一体何でしょう?
純粋な人種的形質としてのアングロサクソン、ケルトなど はもうとうの昔に雲散霧消し、どこにも存在しないのは自明です。
また、イギリスの何処を探しても“アーミッシュ”のような人 々はいません。
今確かなものとしてあるのは、この国の人々の民族的な自己規定(民族的アイデンティティ)のみといっていいでしょう。

これは勝れて個々人の主観的な選択に係るものであり、時代状況によって当然柔軟に変わり得るものです。
そしてその集合が時代の国民感情、民族意識を形成し、文化の色調を決定することになるのです。

この表は現在のイギリスの人々のアイデンティティ状況を示す一参考情報です。
ここで“British”とあるのは連合王国を、 “Home Nations” とはその四つの構成国を意味します。
また“Other”は主として旧英領からやってきて英国籍を取得した非白人 系の人々に関連します。
国籍(国家)をもって自己を規定する人が三割、何らかの民族的帰属意識とともに自己規定する人が残り の七割、という現状がみてとれます。

イギリス国民のアイデンティティ (参考例)
イギリス国民のアイデンティティ

話が少々拡散し過ぎたようです。これでは時間がいくらあっても足りませんので、こうしたお話はひとまずここまでとして、先に 進みたいと思います。
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3. 変容するイギリスとその音楽 “イングリッシュネス”から“ブリティッシュネス”へ

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3.1.“プロムス ラスト ナイト”再考

ここで冒頭ご紹介した“プロムス ラスト ナイト”の光景を振り返って見ましょう。
先ほど、この現在のイギリスの代 表的な音楽シーンの一つに“多民族国家イギリス”の過去と現在が象徴的に映し出されている、と申し上げました。その過去と現在について、少し補足をさせて下さい。

ここでいう“過去”とは、そんなに古い時代ではありません。大英帝国の盛時、つまり今からせいぜい百年ほど前の時代です。
それは先行者イギリスと、その後塵を拝し、これを激しく追い上げる他の列強との間で熾烈な植民地獲得競争が繰り広げられた時代 であり、各国に国家ナショナリズムが激しく沸騰した時代でした。

ですから、もしこのラストナイトの会場をそのまま当時 にタイムスリップさせたとしたら、ホールを埋め尽くして揺れる旗はおそらくユニオンジャック一色となることでしょう。
こ の空前の繁栄の時代は、この国の人々が、民族間の連帯、統合の象徴である連合国旗(ユニオンジャック)のもとに「帝国臣民 」として最も躊躇すること少なく結集し得た時代だからです。     

さて、そこで今一度、“現在”のプロムス会場に戻ります。そこでは各構成国の色とりどりの旗が打ち振られ、民族ナショナリズムが激しく高揚しています。
その中には、ケルト三国のみならず、イングランド内部のケルト地域であるコーンウォール の旗(黒地に白抜きの十字)さえ認められます。
そしてこれらケルトの旗に負けじと、白地に赤十字のイングランドの旗(聖ジョ ージの旗)があちこちで大きく振られているのがとりわけ印象的です。
“盟主”イングランドの地位が揺らぎ、いわば他の三国と 同等の一構成国へと相対化されてゆく過程にある現在のイギリスの姿を象徴する一光景といえるのではないでしょうか。
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3.2.“大英帝国継承戦争”の激震

この国の社会にこのような大きな変化をもたらしたものが、二十世紀前半の二つの世界大戦だったことは申し上げるまで もありません。
西欧の視点に立ってみれば、これらは行き詰まった列強の帝国主義を清算するための大戦であり、“第二次ヨーロ ッパ三十年戦争”とも呼ぶべき性格のひと繋がりの戦争でした。
そしてさらに突っ込んだ言い方をすると、この三十年戦争は“大英帝国継承戦争”ということにもなるでしょう。これは国際政治学者の中西輝政さんの著書の中にある表現ですが、まことに見事 な命名だと思います。

講座風景 終わってみれば、世界の様相は一変しました。
荒廃しきったヨーロッパ世界に事実上戦勝国など存在せず、 結局アメリカ一国が大英帝国の継承者として世界に覇を唱えるに至ります。
十五世紀の建国以来常勝を続けて未曾有の繁栄を築い た“イングランドの国イギリス”にとって、これが最初にして最後の“敗北”となりました。
このときをもって、五世紀に亘って 続いたイングランドの時代は一応の終りを迎えるのです。

この未曾有の大事件は、当然のことながらこの国の人々の国民感情や帰属意識に大きな変化をもたらし、結果としてその社会と文 化の色調を大きく変えました。
その色合いの変化を一言で表現すれば、“イングリッシュネス”から“ブリティッシュネス”への 変化、といえるでしょう。
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3.3.伝統と革新“激変の時代が生んだ二つの音楽”

こうした大きな変化の時代に、イギリスは前後して二つの対照的な音楽を生みました。
一つは大英帝国盛時に誕生し、その落日の中で輝きを放ったイギリス近代のクラシック音楽(以下「イギリス近代音楽」と呼称します)であり、もう一つは、大戦による帝 国崩壊後、イングランドの伝統文化とは無縁な地方の若者たちによって生み出され、瞬く間に世界を席巻した新しい大衆音楽、ブ リティッシュロックです。

さきほどの文脈に添って言えば、両者はまさに “イングリッシュネス”と“ブリティッシュネス” を音楽の分野においてそれぞれ見事に体現したものといえるでしょう。
以下、この二つの音楽、大英帝国の遺産、あるいは“イングリッシュネス”の最後の精華ともいうべきイギリス近代音楽と、変 貌を続ける多民族国家イギリスの現在を象徴するブリティッシュロックについて、残された時間の範囲内でお話をしてみた いと思います。
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4. イギリス近代音楽 “イングランドの最後の輝き”

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4.1.イギリス近代音楽を担った人々

この写真の三人の作曲家をご存知ですか? 
いずれもイギリス近代音楽、十九世 紀後半から二十世紀前半のイギリスのクラシック音楽、を代表する人々で、年代順に左からエルガー、ヴォーン ウィリアムズ、そしてブリテンです。
このうち最後のブリテンは主として第二次大戦後に活躍した作曲家で、その意味では現代音楽の作曲家の 一人として取り扱われることも多いのですが、その音楽精神は紛れもなくイギリス近代音楽の本分である“イングリッシュネス”を体現するものです。その系譜に連なり、その最後を看取った人、と位置づけるべきでしょう。

なお、これらの作曲家の名前と顔 が一致する方は、既にかなりよくこの国の近代音楽をご存知の方といえるかも知れません。それほど、この音楽は日本ではまだあまり馴染みのない音楽です。
今日は良い機会ですので、その聴きどころを集めて一枚としたCDを背景音楽としてお聴きいただき ながら、以下のお話をさせていただきます。

[CDの演奏:「イギリスの優しき調べ−管弦楽作品集」(ワーナーミュージック WPCS-21039)]
(収録作品:ディーリアス「河の上の夜」、エルガー「弦楽セレナーデ」、ヴォーン ウィリアムズ「揚げひばり」、ブリテン「 四つの海の間奏曲」、他。A.デイヴィス指揮BBC交響楽団)
イギリス音楽を担った人たち

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4.2.“イギリス音楽ルネッサンス” 国家ナショナリズムと音楽

日頃われわれが“クラシック音楽”と呼んで親しんでいるものは、西洋古典音楽 の長い歴史のうち、おおよそバッハから後期ロマン派までの、十八世紀から二十世紀初めにかけて生まれた音楽といっていいでし ょう。
そしてその作品は、圧倒的にドイツ・オーストリア系の作曲家の手になるものです。
一方イギリスは、この西洋音楽の黄金 時代に長い間自国生まれの大作曲家を輩出することが出来ず、ドイツを初めとする大陸の音楽大国からの“音楽のない国”という 嘲笑的批判に甘んじていたのです。     

これは、ヨーロッパ随一の大国を以って任ずるイギリスの人々の誇りを逆撫でするものでした。
そして西欧列強間の帝国 主義的競合を背景に国家ナショナリズムが高揚したヴィクトリア朝の盛時に至り、いわば国民的なプロジェクトとして自国音楽の 振興を図ろうという機運が盛り上がります。

数々の努力が功を奏し、その結果、十九世紀の終わりから二十世紀の前半にかけて、 ついにこの国に“イギリス音楽ルネッサンス”と呼ばれる自国近代音楽の一大活況期が現出しました。
優れた作曲家が綺羅星のご とく現れましたが、その中でも特に大きな、代表的な存在がさきほどの写真の三人です。     
この時期のイギリスの音楽についてはお話したいことが沢山あるのですが、今日はその時間がありません。詳細は次回の 各論「イギリス近代音楽編」に譲りたいと思います。ご了解下さい。
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4.3.イギリス近代音楽の遺したもの

“イギリス音楽ルネッサンス”の時代はとりもなおさず、この国を長く主導してきたイングランドの分厚い伝統文化が爛熟の極に 達し、その後急速に衰微してゆく時代でした。
上記のエルガーらに代表される“イングリッシュネス”の精華のようなその音楽は 、十五世紀の建国以来五世紀に亘ったイングランドの文化の最後の輝きを体現するものです。
したがってそれは基本的に新しい音 楽への道を開くというような性格のものではなく、ひとつの時代の幕を引く音楽でした。

長い雌伏の時期を経て漸くこの国に花開 いた自国音楽の“ルネッサンス”がそうした運命を担ったものだったのは、まことに皮肉な巡り合わせというべきでしょう。
ここでいうイングランドの文化の特質、イギリス近代音楽に反映された“イングリッシュネス”の内実等の問題については、やはり次 回の各論編で考察してみたいと思います。

[お知らせとお願い]  本章につきましては、既にHPに掲載済の第二回講座講演記録「イギリス音楽の楽しみ(その2)―イギリス近代音楽編(講座 No.437)」の中により詳細な記述が存在します。ご関心に応じ、適宜そちらをご参照いただければ幸いです。
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5.ブリティッシュ ロックの誕生、ビートルズ、“音楽大国”の建国神話

さて、いよいよビートルズのお話です。
二十世紀後半、大戦により一島国となったイギリスを新たな“音楽大国”として世界に復活させた最大の功労者についてです。
ロック ミュージックという現代のグローバルな大衆音楽における“ブリティッシ ュ ロック”の存在感にはまことに大きなものがありますが、それは象徴的にビートルズの出現をもって誕生した、といえるでし ょう。
そして彼らの音楽はまさしくこの国の新しい“ブリティッシュネス”の中から生まれたものです。
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5.1.一枚の写真から、イメージの背後にあるもの

BBCプロムス”ラスト・ナイトの風景 ビートルズは1960年、イングランド北西の港町リヴァプールで誕生し、62年、首都ロンドンに進出して吹き込んだレコードにより衝撃的なデビューを飾ってあっという間に世界中の若者たちのアイドルとなりました。


そしてそれから二年後の1964年には初めての全米ツアーに打って出て大成功を収めます。
この写真はその折、エド サリヴァン・ショーという当時大変人気の高かったCBSのショー番組に出演した時のショットです。
ちなみに、この全四回に亘った連続放映を当時の全米総人口の約六割にあたる七千三百万人が視聴したといれています。
沸き起こった様々な議論も含め、疑いもなく社会、文化史上の一事件だったといえるで しょう。


ビートルズの出現は、大戦後急激に世界に拡大,普及したレコード、ラジオ、テレビといったマスメディア抜きに語ることは出来ません。
さて、先ずみんな本当に若かったことに改めて驚きます。このときジョンとリンゴが23歳、ポールは21歳です。一番若いジョージ などまだぎりぎりの20歳でした。ご存知のように、ビートルズはこの六年後の1970年には解散します。したがって活動期間はデビ ューしてからわずか8年。30歳になるかならないかのうちにあれだけのことを成し遂げて終わった訳です。音楽史上のひとつの奇 跡のような気さえします。


そして、この時代の彼らの音楽そのままに、なんと明るく屈託のない四人の姿でしょう。
これから二年後の1966年、今では伝説となった日本公演のあった年、にはすべてのコンサート活動からの撤退を宣言し、以降、彼らはレコーディングスタジオに篭り、実験的な音楽作りに沈潜してゆきます。
そうした過程で後期の数々の傑作が生まれるわけですが、個人的には、歌の 喜びがストレートに聴き手の心に飛び込んでくるような初期の作品にもとても魅かれるものを感じます。
しかし、そうしたデビュー間もない頃の彼らの明るく健康的なイメージとその音楽の背後には、これとはまた全く別の物語があるのです。


この写真に写っているのは、イギリスのパブリック・スクールの制服を思わせる出で立ちの、いかにも育ちの良い子弟といった四人の姿です。しかし彼らはいずれも、これとは正反対の出自の若者たちでした。
リヴァプールという、首都ロンドンから北に遠く 離れたあまり柄の良くない港町の労働者階級の出身です。
ケルト系(アイリッシュ)で、高等教育とは無縁、また家庭環境は皆かなり複雑で、ジョンなどは札付きのワルガキでした。


もちろん音楽は見よう見まねの独習で、ポールが出会った頃のジョンのギタ ーは、まだ子供の頃に親しんだバンジョーの奏法を引き摺っていたといわれています。
レコードや放送で届けられる新世界アメリ カの黒人系音楽、リズム&ブルースやロックン・ロールにしびれ、十代の頃からバンドを組んで怪しげな酒場に出入りし、酔客相手のライブ演奏をしながら腕を磨きました。
もちろん、中央イングランドへの進出を夢見てのことです。
転機は、マネージャーとして彼らの夢物語を共に実現することとなるブライアン エプスタインとの出会いでした。

ある酒場のラ イブで彼らの発散する不思議な魅力に捉えられたエプスタインはすぐさま契約を交わしますが、一方で彼らのあまりに柄の悪いス テージマナーに辟易します。
「演奏しながら酒を飲むな、煙草もやめろ、ステージに唾を吐くな、客と喧嘩するな」これがエプ スタインが先ず四人に下した厳命だったそうです。当時の彼らのステージを髣髴とさせるエピソードですね。
ですから、この写真にも残されたデビュー当時の“パブリックスクール”ルックは、彼らが中央進出を目指す際にとっ た周到な戦略のひとつだったことがわかります。
こざっぱりとした、清潔なイメージで保守的な世間との無用な軋轢を避けるため 、そしてその一方で、中央イングランドの既成の権威、英国伝統のパブリックスクールは疑いもなくその象徴の一つでしょう、に向けての痛烈な皮肉と挑発。
当時のビートルズのファッションは、この相反する二つの狙いを見事に体現する、まことに鮮 やかな戦略だったのです。
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5.2.「土曜の夜と日曜の朝」からの脱出、縁辺の若者たちの世界制覇

「土曜の夜と日曜の朝」という映画をご記憶の方はいらっしゃいますか?
製作は1960年、名優アルバート・フィニーのデ ビュー作となった、もう半世紀も前の作品です。
第二次大戦後すっかり衰退し、沈滞しきった地方工業都市の工場で働く若者の希望のない、刹那的で荒んだ日常を、ヒリヒリざらざらするような白黒の映像でリアルに描いたものでした。
原作は、いわゆる“ 怒れる若者たち”を代表する作家アラン・シリトーの同名の小説です。
映画の舞台はノッティンガムですが、イギリス中どこの町も似たような状況で、特に、マンチェスターやリヴァプールをはじめと する産業革命以来栄えたイングランド北辺の商、工業都市の大戦後の凋落と停滞は目を覆うばかりでした。


“犬のように働き、丸太のように眠る”毎日、 ビートルズの「ア ハード デイズ ナイト」の一節です、を繰り返してやっと手にした週払いの 給金を握り締めて盛り場に繰り出し、酒や博打や喧嘩の乱痴気騒ぎに使い果たして憂さを晴らす土曜の夜と、二日酔いと虚しさと自己嫌悪で迎える日曜の朝。
映画に描かれた主人公のこうした鬱屈した日常が、ビートルズがデビューした60年代前後の、この国の労働者階級の若者たちの現実でした。

ブリティッシュ ロックは、こうした沈滞と閉塞の時代の鬱屈したエネルギーが堰を切って溢れ出して生まれたこの国の新しい若者文化を代表するものでした。
今振り返って、ビートルズの出現前後のその草創期がいかに密度の濃い、凝縮された一時期だった かに改めて驚かされます。
シャドウズ(1958)、ヤードバーズ(1962)、ローリング ストーンズ(1963)、アニマルズ(1963) 、ザ フー(1964)といったブリティッシュ ロック第一期の他の代表的なバンドのデビュー年をみれば、これらが必ずしもビートルズの出現に促されて生まれたようなものではなく、彼らすべてを巻き込んだ大きな時代のうねりの中から、それぞれが現れるべくして現れたものという印象を強く持ちます。

こうした音楽を担った若者たちの多くに、ある共通性が認められます。下層労働者階級に属する、ケルトの民族系統を引いた地方出身者、という特徴です。
そして彼らの創造した音楽のルーツは、桎梏からの救済と開放への願いを痛切にうたうアメリカの黒人 音楽でした。
中央イングランドの伝統的なエスタブリッシュメントに対する、抑圧された若者たちの異議申し立ての音楽、ブリティッシュ ロ ックの誕生は、明らかにひとつの時代の、大きな広がりをもった社会的な出来事でした。そしてその出現と瞬く間の世界制覇は、数年後に世界に吹き荒れたスチューデント革命へと繋がってゆく当時のグローバルな時代の潮流と無縁なものではないでしょう。
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5.3.リヴァプールの光と影、里帰りの音楽が生んだビートルズ

ビートルズの音楽は出身地リヴァプールという土地に強く結びついたものです。
リヴァプールと言うと、かつてイギリス随一の繁栄を誇った港町であるとともに、一方でまさにそれゆえの、この国の暗い、負の歴史が色濃く影を落とす難民、移民の町 です。
そうした意味で、これほど見事に大英帝国の光と影を映す都市は他にないのではないでしょうか。

暗い過去のひとつは、言うまでもなく悪名高い奴隷三角貿易です。
アメリカは“難民の国”といえますが、その最大の難民が黒人 奴隷、すなわちこの取引によって供給された西アフリカ系の黒人といえるでしょう。そしてその最盛期には、リヴァプールは全ヨーロッパの黒人奴隷ビジネスの実に四割を占める大中心都市として空前の繁栄を謳歌したのです。

この町が深く関わった第二の難民は、十九世紀に出現した、ケルト系の人々を主体とする“国内難民”でした。
その最大のものが 、1847年から51年にかけてアイルランドを見舞い、百万人が餓死したといわれる“ジャガイモ大飢饉”によって大量に生まれたアイリッシュ難民です。
このとき、困窮した人々が糧を求めて大挙して海峡を渡り、この本土の港町に流入しました。その数は二百 万とも、それ以上とも言われています。
そして最下層の労働者となって何とかここに居つくことの出来た人々が、いわばビートル ズの祖先です。

それも叶わなかった人達はこの港からアメリカへ渡ったのです。やはり百万人を超える数の人々です。
新天地を求めて、といえば 聞こえはいいのですが、実情は万策尽き果てた人々の、生存を賭けた最後の選択だったのでしょう。
有名なケネディ一家もそうし た経緯で“棺桶船”に乗って大西洋を渡り、アメリカに逃れた移住者の一員でした。
このように、リヴァプールとは一面でイギリスが最も繁栄した時代における難民、移民の積出港だったといってもよいでしょう。

さて、あらためてビートルズの音楽の源流とは何でしょう? 
直接的には、1950年代後半にアメリカで生まれた、チャック ベリ ーやエルヴィス プレスリーに代表されるロックン ロールです。
それではこのロックン ロールのルーツは何かというと、それはこうしたアメリカの難民の音楽です。
概略図に示すように、ニグロ スピリチュアルを源とする黒人の音楽であるリズム&ブル ースと、ケルト系移民の音楽であるカントリー ウェスタンやブルーグラスが融合して生まれたものなのです。
そうした経緯を持 つアメリカ生まれの新しい音楽が、ちょうどこの頃グローバルなメディアとして確立された放送やレコードを通じてリアルタイムでこの国の若者たちに届けられ、熱狂的に支持されるに至ったのです。そしてその中からビートルズが出現したのでした。
そこ には、かつてここリヴァプールから新世界アメリカへと送り出されたものがやがて変容を遂げて里帰りし、そして二十世紀に再びこの地から新たな装いのもとに世界へと発信された、とでもいうような、奇しき因縁を感じます。
難民の国アメリカの生んだ音楽
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5.4.ビートルズの旋律 “揺籃の歌”の反響

お話ばかりが長くなってしまいました。ここで一曲、ビートルズの曲を聴いて締めくくりとしましょう。
[CDの演奏: ビートルズ 「イエロー サブマリン」]
皆さんお馴染みの「イエロー サブマリン」でした。なぜこれをかけたかというと、何となく不思議なメロディだという 気がしませんか。
ビートルズの旋律はどれもとても個性的で、必ずしも西洋音楽の八音階で作られてはいません。

この曲は民謡に 特徴的な、典型的な五音階で出来ているとてもわかりやすい例です。
例えばソーラン節も、スコットランド民謡の“蛍の光”も五 音階ですね。
彼らは色々な試みをしていて、例えば「プリーズ プリーズ・ミー」の場合は七音階が主体です。これもスコットラ ンドやアイルランドの民謡によくみられる音階です。
勿論、ビートルズの用いた音階や旋法の問題はそれほど単純なものではあり ませんが、その音楽の深いルーツに、彼らの“揺籃の歌”、ケルトの民謡があることをお話したくて聴いていただきました。
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6.ブリテン島の民謡の美しさ、時の試練に磨かれた宝石

さて、いよいよ時間が無くなってしまいました。
冒頭でお約束した手前、最後にほんの一言だけ民謡についても言及させ ていただき、詳細については第三回に予定されている各論、「イギリス民謡編」に譲りたいと思います。

民謡とは、文字通り人々の日々の歌です。そしてあらゆる音楽の底流にあり、その源泉をなすものでしょう。それはまた 、時の試練に磨かれた宝石です。
何千何万と生み出される流行り歌のなかから長い時の試練に耐え、今に残ったものが民謡です。
そうした歌がいずれも素晴らしいものであるのは当然です。
そして一方、民謡とは過去の遺産ばかりではなく、今現在も日々生ま れつつあるものだといえるでしょう。
そうした意味で、例えばビートルズの歌のいくつかはやがてわれわれすべての民謡となって いくような音楽かもしれません。     

最後に、そのようにして今に残り、しかも民族や国境を越えて世界の人々に広く共有され、愛唱されるに至った歌のひとつをご一緒に聴きながら終わりたいと思います。
「ダニー ボーイ」というタイトルで広く知られるアイルランドの民謡で、イングランドの圧政に苦しむ祖国のために立ち上がって斃れた息子を愛惜する母親の歌です。

しかしそうしたことを全く知らなくても 、このまことにシンプルな一節の歌には聴く人の心をたちどころに捉え、強く、深く揺さぶる力があります。
世界中の人々の愛唱 に磨かれて輝き続ける、稀有な、珠玉のような歌といえるでしょう。
器楽演奏を含め、あらゆるジャンルのアーティストによるそれこそ星の数ほどの名演がありますが、その中から今日はジャマイカ出身の名歌手、ハリー ベラフォンテが残した絶唱でお楽しみ下さい。  
[CDの演奏: ハリー ベラフォンテ「ダニー ボーイ」
本日はご清聴いただき、まことに有難うございました。


文責:臼井良雄
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:臼井良雄


本文はここまでです


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