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神田雑学大学 平成20年8月8日 講座N0410


「あの日 この校舎で」、五十年目に制作した原爆映画のこと、講師 吉川 透(フリー映画監督)

目次

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プロフィル
上映に先立ち
原爆を知らない世代への橋渡し
これまでない原爆の映画を作りたい
新興善小学校に招かれるように
さまざまな不安を乗り超えて
いまだに残る放射線障害の怖さ
世界中の人たちに見てもらいたい
レジュメ追伸
『あの日この校舎で』



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吉川 透 講師プロフィル

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略歴

主な作品

吉川 透関係記事リスト

吉川 透とビデオ丸山眞男の感想

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上映に先立ち

これからご覧いただくのは、一介の「映像屋が見た原爆」でして、手探りでようやく
作り上げた作品であります。ある場所、ある局面に目を注いでいますが、原爆についての総論とは異なりますことを予めお断りしておきます。

正直に申しますと、映像屋が映像以外に語るのは邪道で、ご覧戴くのが本命であります。
お手元のレジメも同様ですが、時間がありましたら、あとでお読みください。
今日は、遅刻・早退、居眠りお咎めなしという神田雑学大学の自由な校風に甘えて、
これまでにない交流の時間を持たせて戴きたいと、思います。
映像は必ずしも一方通行ではなく、相互の働きかけが大事ですが、まず、映画をご覧戴いてから皆様から忌憚のないご意見を頂戴し、双方向の対話の時間を持つことができれば幸いです。

最初に、ポイントをお話しておきます。
(1)この映画は、被爆50年後に制作されたものであること。
(2)原爆は一般市民に対する無差別爆撃であったことに、一人の男が異議を申し立てる映画であること。
(3)原爆の怖さを知らない世代に伝える橋渡しの役割を果たす映像であること。
(4)その意味からも、客観的な立場を工夫して制作された映画であること。
(5)被爆体験や恐怖を語り伝える立場の高齢の人達がいなくなることへの、最大の奉仕であること。

講演レジュメ

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原爆を知らない世代への橋渡し

一九九六年六月、私たちは一本の映画を完成させた。
[あの日 この校舎で―五十年前に被爆したナガサキの記憶]。
内容は題名通り、一九四五年八月九日、原子爆弾を投下された長崎の記録映画―いや、題名に忠実なら、【記憶映画】である。

そもそもの制作動機は、プロデューサー坊野貞男さんの心の中にあった。
当時十八歳の坊野さんは、勤務していた長崎市役所の室内で被爆したが、幸いにして軽い怪我程度ですんだために、原爆投下直後市内に現われた地獄図さながらの惨状を、自分の体でじかに触れて歩き回ることになった。

竹の久保町の自宅では、叔母と従兄弟の三人が爆死、その人たちを含め、親戚や知人の火葬に立ち会うこと、二十八回に及んだという。十年後市役所を退職、上京して短編映画を主な業務とする岩波映画製作所(現岩波映像株式会杜)に入杜、以後他のプロダクションに転出されることはあっても、一貫してプロデューサーとして活躍してこられた。

もともと映像製作の仕事を志したのも、市役所に勤務中、十六ミリ映写機を車に積んで市内を巡回映写していた経験から出たこともあって、プロデューサーをしていた中でずっと長い間、自分が被爆した体験や記憶をもとに、【核による大量殺戮兵器への異議申し立て】一原爆のドキュメント・フィルムを製作したい、と考えてきた。

その間、市役所での先輩にあたり、被爆後の長崎を記録する映画の監督だった方から、「その時の撮影フイルムを使って、原爆の映画を作ったらどうか」という示唆を受けた一幕もあった。

ただし、自分で作るとなれば、それなりの製作費がかさむこともあり、いろいろな事情も重なって見送ってきたが、被爆後五十年目という節目を迎えるに及び、「いくら理由をつけてももうこれ以上先送り出来ない」という切迫感が高まったことと、「世界的に見てもいっこうに核兵器の実験がなくならない」という焦りにも似た思いが、ついに製作着手に踏み切らせることになった。

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これまでない原爆の映画を作りたい

初めてこの映画の企画・脚本・演出を引き受けた時に先ず考えたことは、被爆者ではない客観的な立場にいる人間として、【これまでにない原爆の映画を作りたい】という、切実な思いであった。原爆に関してこれまで数多くの作品が作られてきた上に、さらにもう一本の映画をつけ加えるという意味で、五十年目に作る記念碑的な作品にしたいという理由が、先ず一つ―。

次に自分自身が被爆者でないことを逆に活かして、原爆を全く知らない人たちに、原爆を知っている世代から橋渡しをするには、「今までと同じような作り方をしてはいけない」という、ひそかな決意をしたことが二番目の理由であった。
「調査なくして決断なし」を信条とする私は、早速参考資料となる原爆関係の本を読み、関連するテーマの映像やビデオを参考試写することにした。

熱心に話を聞く受講生

中でも特に、坊野さんがそれまでに収集していた段ボール一箱分もの原子爆弾に関する内外の映像は、大いに参考になった。おおよそ製作された時代順に、三十本あまのビデオを集中的に連続試写していくことが出来たことは、[これまでにないもの]を作りたいと狙っている私にとって、非常にありがたいことであつた。

[五十年]と言えば、私たちが少年時代に大人たちから聞かされた、目清戦争や日露戦争のことよりもっと遠い過去のこと。よほど腹を据えて、工夫してかからないと、[自分たちとは関係のない]古くさい時代の、[カビが生えたような話]と敬遠されかねない。
どういう描き方や構成の仕方が、映像として説得力を持ち、どんな描写や語り口が、リァリテイを失ってしまうか、一本一本見る度に自分で自分に問いかけては、最も説得力を持つ描き方と構成の仕方を探っていくことに努めた。

その結果、一つの教訓をつかむことが出来た。「今までの原爆に関する映像は、あまりにも事実の重みに圧倒され、結果として事実そのものの持つ迫力に頼り過ぎてきたのではないか?」と―。結果として、作り方がかなり雑然としたものになってしまう傾向もある。

もちろんこれは、五十年―凡そ半世紀という長い年月を経過した時点だからこそ言い得ることであつて、被爆直後から近々五十年以内に作らなければならなかった人々に対して要求するのは、酷に過ぎる条件かもしれない。しかし映像作りを本業とする私が原子爆弾の映画を作る以上は、事実の重みだけに引きずられず、初めて原爆を知らされる人間にとっても、きちんと事実を受けとめられる、説得力のある映画にしたい。

それは、プロデユーサーの坊野さんが自分で作ろうかと何度も思い悩みながら、「被爆者である自分自身が手がけると、感情移入の度が過ぎて、メロメロになってしまうのではないか」と心配し、結局客観的な立場にいる作家の私に脚本・演出を頼むことになった意味合いを徹底して活かすことであった。また同時にそれは、被爆者でない第三者が、原爆を知っている世代から、知らない世代に二度とあってはならない体験を引き継いでいく橋渡しをする役割に、忠実に従うことでもあった。

度重なる海外の核兵器実験に怒りを覚え、「本当に核兵器を拒否する心を育てるためには、この映画を海外の子供たちに見てもらうしかない」と思いつめた私自身の心情にも、一番ぴったりした姿勢でもあった。
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新興善小学校に招かれるように

そんなある日、読んでいた膨大な資料の中の一節に、私は心を揺すられる思いを覚えた。
「治療室に入った途端に、あの焼き鳥の肉の焼けただれたような異様な臭いと暑さに、思わず息が詰まりそうだったのを今も思い出します。(中略)
病室を診てまわる時も、真夏の暑さで化膿した傷の中にわいた蛆虫のために、まるで便所の中を歩いているようでしたが、一日、二日でその臭いも慣れてしまいました。一列目の患者の手当ても終わり、二列目を逆に帰ってくる時、ついさっきまで言葉を交わしていた一列目の患者さんがすでに死んでしまっていることがよくありました。熱を出し、傷が膿み、そして鼻血を出した患者さんは、かならず一日、二日のうちに、全員死亡しました。それも男か女か、老人か子どもかもわからないまま、もちろん名前などわかるはずがありません。

一人の患者に「このおばあさんは右手を切断手術する」といったところ、その人は「私は長崎医大の学生です。講義の最中にピカ・ドーンにあって、なにがなんだかわからないうちに気がついたら机の下敷きになり、右手首から先が吹っ飛んでいたのです」といわれ、言葉が出なくなってしまいました。」

被爆三日後に当時救護所とされていた市内の新興善国民学校(戦後の新興善小学校)に駆けつけ、押しかけてくる被爆者の方々の治療にあたった一人の軍医からの聞き書きであつた。私はこの一節―中でもボーダー・ラインをした部分を初めて読んだ時に、目の前にまざまざと情景が浮かび上がってくるように感じ、原子爆弾の恐ろしさをあらためて知らされた思いがした。

こういう軍医の方々に、インタビューによる証言をしてもらったらどうだろうか? 着想が頭をかすめた瞬間、私はすでに参考に見ていた被爆後市内を取材・記録した日本映画杜のフイルムの中でも、この新興善国民学校での治療風景が、かなりの長さで収められている事実を思い返していた。では、治療現場で軍医を助けたはずの、看護婦の人たちの聞き書きの資料はないのか?

原爆記の本を片手に講義する吉川講師調べを進めるうちに、当時この校舎で看護にあたった日赤の看護婦や看護学生の方たちの文集が一冊残されていることがわかった。「閃光の影で―原爆被爆者救護赤十字看護婦の手記」(日本赤十字杜長崎県支部発行)―探り当てたこの小冊子は、当時調べた限りでは、長崎県図書館と、東京芝の日赤本杜資料室にしかなく、早速この両所に通っては読むことにした。そこには、被爆当時看護婦であった人はもちろん、看護学生の身分でしかなかったが、緊急の要請で駆り出された人の分まで、夫々実感のこもった言葉で、一人一人の目撃した事実が綴られていた。

「資料というものは、源流に向かつて遡り始めると、そのうち芋づる式に、一つ一つ手繰り寄せられるものだ」という実感を、この時もつくづく体験させてもらうことになった。
こうして私は、眼に見えないなにものかに招き寄せられるように、この校舎―新興善小学校を主な舞台として、現在ここに通う子どもたちの姿と、五十年前の被爆後の校舎の中での状況とを交錯させていきたいという、企画の構想をふくらませていくことになった。

舞台を一か所に絞って、現在の姿と当時の惨状とをモンタージュし、被害を訴えていくという、原爆の映画としては今までに無い初めての構成と語り口を、試みていくことになった。
後日談であるが、若い頃NHK長崎支局に勤務していた大学時代の友人も、「新興善小学校と原爆との関係には、ついにこの映画を見るまで気がつかなかった」と告白している。

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さまざまな不安を乗り超えて

さて、構想はほぼ決まったものの、心の中は不安でいっぱいであった。
何故なら、それは全くのところ、私一個のイメージの中で都合よく素材が料理され、並べられていただけで、そのうちのどの素材一つをとっても、それが実際に取材できるかどうかは、確かめられていなかったからである。

例えば、肝心要の舞台となる新興善小学校にしたところで、資料の中から勝手に引き出しただけで、果たして今もあるのかどうかもわかっていなかった。早速手元の資料―長崎関連の立派な単行本を調べてみると、小学校の統廃合で、ここ二、三年のうちに姿を消すかもしれない、と印刷されてある。巻末の発行年月日から計算すると、もうとっくの昔に学校は無くなっているではないか。これでは企画そのものが、成り立たなくってしまう。果たして構想は無事構想通りに実現できるのか? 心配のあまり、次に長崎に調査に出かけるまで、生きた心地がしなかった。現地に着いた途端、恐る恐る地元の人に尋ねた時に、「もうそんな話は何年も前から聞いているだけで、一体何時になったら具体化するのか、わかりませんよ」という答を聞いた瞬間の、うれしさといったらなかった。

それだけではない。当時の軍医や看護婦の方々の話を聞かせて欲しいとは思ったものの、経過した年月の長さを冷静に数えてみると、今ではもうかなりの年配のはず―。ごく単純に二十五歳の人だったら、今はもう七十五歳。果たして皆、元気でいて下さるだろうか?インタビューの許可以前に、それが可能な肉体的条件にあるかどうかも、保証の限りではない。ひょっとして中に、お亡くなりになった方がいても、何の不思議も無い。文字通り[薄氷を踏む]思いで、一人一人元気でいらっしゃることを確かめ、出演していただけることを確認していき、全ての撮影条件がクリアできるまでの日々の、なんと長く感じられたことであろうか。

中でも一番心配させられたのは、最初に構想のヒントを受けた聞き書きのご当人―元軍医の方から取材許可を頂くまでの間―。訊ね当てた時もお元気で、ほとんど現役時代に近い立場の仕事もしておられたが、「趣旨は結構ですが、もう今さら話したくない」というのが、最初の答―。その上、五十年目にあたる催しで再会した仲間内で、「これ以上原爆の体験は話したくないし、お互いに今回を最後に卒業にしましょうや」という約束を交わしたばかりということであった。

確かに、当事者でない私たちがどんなに聞きたい話でも、出来ればもう忘れたいと思っているご本人たちには、話したくないという気持ちも、当然といえば当然である。
そうはいっても諦めきれないでいる私たちを前に、結局その元軍医の方も、最終的には心地よく取材させていただけることになった。

食糧や医薬品が極端に不足した中で必死に行われた救護ぶりを伝える、これら軍医や看護婦たちの証言インタビューは、これまでほとんど発掘されていなかったものだけに、[貴重なもの]という評価をいただいたが、年齢から言っても、また、もうこれからは二度と語りたくないと告白されているご本人たちの心境からいっても、インタビュー取材としては、最後のチャンスといえるであろう。

取材する相手を求めて長崎から諌早まで車を走らせた時に、ようやく探し当てた家の軒先に貼られた「忌中」の文字を、いまだに私たちは忘れられない。被爆当時新興善国民学校で教頭であった先生は、ほんの数日前に亡くなられたばかりであった。
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いまだに残る放射線障害の怖さ

もちろん映画は、ここ新興善小学校で五十年前に治療や看護を受けた側の人たちの声にも、耳を傾けている。爆心地から一・一キロ、三菱兵器大橋工場で瓦礫の下敷きから這い出した、当時女子挺身隊員だった松永須美子さんは、一緒に逃げた友達三人が亡くなった後まで生き延びることが出来たが、担ぎ込まれた新興善国民学校で、ほとんど臨死体験に近いところまで追い込まれた思い出を、当時寝かされていたのと全く同じ場所に立って、涙ながらに話してくれる―。

また、郵便配達中に、背中一面に火傷を受け、新興善国民学校に運び込まれた日から数えて、一年九ヶ月はうつ伏せに寝たまま、三年七ヶ月でやっと退院した谷口稜嘩(すみてる)さんは、何度も皮膚ガンの手術を受けてきたにもかかわらず、五十年後のこの頃になって、ガンでもない腫瘍でもない、石ころのように硬いシコリが背中に出来てきた事実を告げる。

強度の放射線を一挙に浴びた場合、人間にどのような影響が残るのか、人類にとって初めての経験に、現代の医学がまだ何ら答を出せないでいる現実が明らかにされていく―。
さて、このように作り手としては大変意気込んで完成させた映画であるが、ここで、どうしても実現できなかったことにも触れておかなければならない。

それは、被爆当時市内いたるところに立ち込めたと言われる[臭い]のこと―。先に紹介した軍医の方の聞き書きの中でボーダー・ラインをした、あの[臭い]である。監修を引き受けて下さった荒木正人さんに、最初に[これまでの原爆の映画で、一番不満の点はどこですか?]とお訊ねした時、即座に答えて下さった言葉が、「これまでの映画には[臭い]が出ていない」というひと言であった。映画であるから、もちろん現段階の技術では、[臭い]は出せないわけだが、以来私は、シナリオを書く段階から録音仕上げにいたるまで、つとめて[臭い]を感じられるように、努力だけはしてきたつもりであった。

ところが、制作を進めるプロセスで、[臭い]について、二つの話に出会うことになった。
三菱兵器大橋工場で被爆した松永さんは、毎年夏になると、被爆当時の[臭い]がしたという。そして同時に、胸を締め付けられるような、息苦しさを感じたそうである。十年位後に、ご主人の勤務地の移転で、長崎から離れるようになって、初めて[臭い]を感じなくてすむようになった。

もう一つは、新興善国民学校で勤務中の衛生兵の方から、同じ頃新興善にいた看護婦に宛てて四十三年後に書いた手紙の一節―「(前略)この件は今も夢に見ます。あの[臭い]のある夢です。夢に[臭い]があるのは不思議と言われますが、長崎の夢には[臭い]があるのです。(後略)」四十年以上もの年月を経ても、夢の中に居座って消えることのない[臭い]―それを出せたかと言われれば、黙って頭を下げるしかない。
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世界中の人たちに見てもらいたい

「一九三七年からの日中戦争を初め、日本がアジアにしかけた過ち―。
一九四一年の真珠湾攻撃で、アメリカやアジアにしかけた過ち―。
日本にも責任があることは認めなければならない。しかし、何にもまして許されてならないのは、原子爆弾―核兵器を、人類の生命の上に使うことではないだろうか?」と問いかけて、映画は終わっていく―。
核不拡散条約(NPT)にあきたりず、一九九六年には包括的核実験禁止条約(CTBT)を採択、さらに国連軍縮長崎会議が「長崎を最後の被爆地に」との決議を採択している今だからこそ、この映画を世界中の人たちに見せたいと考えている。それも、なるべくなら、子どもたちと一緒に見て、親子で話し合っていただけたらと願っている。

映画「あの日 この校舎で」は、日本視聴覚教育協会が主催し、文部省やNHKが後援する「一九九七年教育映像祭」の教養部門で、最優秀作品賞(文部大臣賞)を受賞し、有楽町.朝日ホールで、新聞で取り上げたために珍しく入場を断る羽目になった満員の観客を前に、上映された。審査委員長からは「良い映画とは、人に見ることを勧めたくなる映画である」というお褒めの言葉まで頂いている。

その後、日本紹介映画コンクールでも優秀作品賞を受賞、映画ぺンクラブ年間ベスト五のノンシァトリカル部門で四位にランクされたが、プロデューサーの坊野貞男さんは、これらの後半のニュースに接することなく、文部大臣賞授賞式の十六日後、肺ガンで逝去された。

せめてもの慰めは、その後国際交流基金-からの委託により、英語・ドイツ語・フランス語・イタリア語・スペイン語・ポルトガル語・アラビア語・インドネシア語・タイ語・中国語の十ヶ国語版が作成され、「海外の人たちにも見てもらいたい」というプロデューサー坊野さんの遺志が、少しでも実現できるように運ばれていることである。

二〇〇六年四月に、日本記録映画作家協会の創立五十周年記念映画察が行われることになり、半世紀に及ぶ数多くのドキュメンタリー映画作品群の中から、特に二十本の上映作品を選び出す段階で、映画[あの日この校舎で―五十年前に被爆したナガサキの記億]も、その中に取り上げられたことは、誠に作り甲斐があったと、感謝しなければならない。関係スタッフからの内報によると、獲得票数が第二番目だったという。

ちなみに、完成から八年後、映画を見た高校生たちからもらった、感想の言葉を紹介しておきたい。「長崎の原爆は五十八年前の出来事ですが、そこから始まった原爆の問題はいまだに終っていないと思います。」

「この映像が訴える[戦争はあってはいけないもので、人々は平和を求める]ということを胸に刻み、来月の学習体験旅行に行こうと思います。」
「原爆なんてものは一もう絶対に使ってはいけないと思いました。」

二〇〇八(平成二〇)年一月四日から「あの日 この校舎で」の短縮版(一八分)が、新年早々オープンの長崎市立図書館の一角に用意された被爆時救護所再現教室で大型画面に拡大して映写されている。

「あの日 この校舎で」が取材の舞台とした新興善小学校がいよいよ小中校の統廃合によって姿を消すことになり、被爆時に臨時救護所として使われた歴史を記念して、跡地に新設される市立図書館の中に、再現教室が創られたためであった。
訪れた人が教室に入ると自動的に映写が始まり、英語版で見たい人にもボタン一つで切り替えられるようになっている。
               
また、同じ二〇〇八(平成二〇)年の八月二日には、日野原重明氏のお引き合わせにより、来日した核戦争防止国際医師会議の前議長で、ノーベル平和賞の受賞者ラハラン・フオロー博士に、映画「あの日 この校舎で」のDVD版(英語版・日本語版)を贈呈することになった。

制作年代は古くても、内容は古くなっていないと、伸間たちに励まされて、完成直後から十年越しの宿題をやっと果たしたという現状である。
これからも、一人でも多くの人たちに、口コミから口コミで、観客の輸を広げていっていただきたいものと、念じている。
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レジュメ追伸

忘れられないのは、短縮版製作を担当された長崎市役所側の若い女性が、打ち合わせのときにふと口にされた一言「これでこの映画は永久にこの場所にかかります」であった。
制作した監督にとってこの上ない励ましの言葉であったことは確かだが、同時に、核兵器への異議申し立てが、「永久に」続けられなければならないほど根深い、人類にとっての「業(ごう)]でもあることを、ささやかれた気がしたからである。終わり
                                 監督   吉川 透

画面展開が克明にわかる映画「あの日 あの校舎で」のシナリオ決定版!
吉川透監督提供。

○漆黒の画面に浮かび上がる、
スーパーインポーズー(1)


〔長崎市新興善小学校は、原爆を被爆した時にも、爆心地から遠く、
コンクリート造りであったために、校舎の形がそのまま残されていました。〕
それにシンクロして、ナレーションが語られる。
「長崎市新興善小学校は、原爆を被爆した時にも、爆心地から遠く―
コンクリート造りであったために、校舎の形がそのまま残されていました。」

○校舎の俯瞰画面に、メイン・タイトル
○スーパーインポーズ―(2)

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『あの日この校舎で』

―五十年前に被爆したナガサキの記憶―

○画面いっぱいにひろがる、
夏の陽射しを浴びて、遊びころげる子どもたちの姿―。
その無邪気な表情―。
明るい瞳―。
嬉々とした声―。
すこやかな皮膚の輝き―。
陽射しに光る、汗の滴り―。
平和な現代の、長崎市新興善小学校の校庭である。

○校庭の片隅の向日葵や日日草の花―。
鳩舎の中で羽根を休める鳩、水槽では水草の蔭につと身をひるがえす金魚―。

スーパーインポーズ―(3)[一九九五年夏・長崎市新興善小学校]

○教室の中では、
授業が始められている―。
先生の声に耳を傾ける子どももいれば、仲間とのヒソヒソ通信に夢中な子の姿も―。
どの子どもも、見るからにのびのびとし、生き生きとしている―。
カメラは、そうした児童たち一人一人の屈託のない表情をクローズアップしてゆく―。
多目的集会室で、長崎くんちを踊る子どもたちの姿が、突然ストップモーションし―。

○原子爆弾が空中で爆発し、
真っ白な閃光が弾ける―。
爆煙が雲となってまいあがり、巨犬なキノコのような形にもりあがってゆく―。


「一九四五年八月九日午前十一時二分、長崎は、当時戦争の相手国だったアメリカ軍により、原子爆弾を投下されました。」

原爆のきのこ雲 ○山端庸介を初めとする当時の報道班員や写真家たちにより記録された被爆直後の写真、 深水経孝が描いた原爆絵巻、市民が描いた記憶による絵、山田栄二のスケッチ、あるい は日本映画社が撮影した原爆記録映画などの中から、なるべく被爆直後の、それもこれ まであまり紹介されていない惨状を彷彿とさせるショットをモンタージュしてゆき、

ど んなに描写しても措写しきれず、再現しきれない地獄絵図の様相を、できるだけ忠実に 演出してゆく―。 特に馬や牛など、人間以外の生き物の焼け死んだ姿を強調して取り上げて。 そして、その上に、簡潔なことばによるナレーションで、原爆による被害がいかに凄惨 で破壊的なものであったかを、表現してゆく―。


「原子爆弾の熱で、一瞬のうちに真っ黒に焦げて、焼け死んだ人々―。
髪の毛が焼きちぎれ、焼かれた皮膚が体からはがれ、垂れ下がって、地べたの上を引きずりながら、助けを求めてさまよう人々―。
爆風で道路に吹き飛ばされ、体が裂け、手足が吹き飛んでしまった人々―。
身体中にガラスや鉄や木の破片が突き刺さったまま、うめき声を出している人―。
崩れて倒れてしまった家々の下敷きになって、助けを求めて叫んでいる人々―。

身体中を焼かれて暑いのと、喉が渇くために、水を求めて川べりや水たまりに這いより、
そのまま飲む気力もなくなり、水中に首を突っ込んで死んでゆく人々―。
救援列車にすがりつく被爆者―、
猛火の中を逃げてゆく人々―。

原爆投下直後の風景 真夏の暑さでまたたく間に死肉が腐り、蛆虫がわき出ているような道端の遺体―。
火葬場もなくなり、市内のあちこちで、家族や知り合いを次々に火葬にする人々の姿―。
人間を初め馬や牛など生き物の肉が焼け焦げた臭い―、住宅や電車など、あらゆる物が燃え尽きた臭い―、その上さらに死肉の腐った臭いまでがにおってきて、市内はどこに行っても、思わず鼻をつまむほどの異様な臭いがたちこめていました。」

○壊滅した長崎医科犬学の状況を記録した映画フィルムをモンタージュしてゆく―。
「長崎医科大学物療科の婦長として永井隆博士と一緒に被爆し、その直後から救護にかけまわった久松シソノさんに、当日の様子をうかがってみました。」
○長崎医大グビロガ丘の上、原爆慰霊塔の前でインタビューに答えてくれる久松さん(長崎大学看護学同窓会会長・当時長崎医科大学物理的療法科婦長)―。

スーパーインポーズー(4)〔久松シソノー当時婦長]

久「もう赤ちゃんがですね、赤ちゃんはまだ生きているんですよ。それで亡くなったお母さんのおっぱいにすがっているんですね。赤ちゃんを抱っこして一応安全なところに連れ出しはしましたけど、それからあと支えておくことも出来ないので、あんな状態を考えますと、本当に申し訳なかったことだと思います。

それから腸が飛び出している人もいたりですね、それにもうみんな真っ黒焦げです。
そして唇だけが飛び出しているんですけどね、息が出来なくて苦しがってごろごろ泥の上を裸で転げ回るんですよ。もう真っ黒に焼け焦げて、身体中ばりばりになって注射の針も入らないくらいなんです。

若い人たちがお互いの名前を呼び合ってですね「岡本ー」「林、頑張ろうー」「おー」その悲愴な声がだんだん途絶えてゆくんですよー。一人絶え、二人絶えして―。
なんとも言えませんね、もう思い出しますと―。」

○日本映画社の撮影による、瓦礫と化した長崎市の長い航空撮影ショットを見せてゆく。
「この原子爆弾で、長崎市全体で死んだ人は、およそ七万四千人―。
体に傷害を負った人が、年内でほぼ七万五千人と推定されています。」
航空撮影ショットが、焦土の中に焼け残った新興善国民学校の上空にさしかかったとこ ろでストップモーションし、白い輪でその姿を指し示す―。

スーパーインポーズー(5)〔新興善国民学校〕


「新興善小学校・・・当時は国民学校といっていましたが、ここの児童だけでも、自宅やその近くで、十三人が幼い命を落としました。」

○校庭に白骨が転がっている城山国民学校の被害状況を伝える写真、或いは一面の焼け野原の中に鉄筋コンクリートの校舎だけが焼け残っている山里国民学校の記録写真などをそれぞれ現在の城山小学校、山里小学校の外景と対比させて見せてゆく―。

スーパーインポーズ―(6)〔現在の城山小学校〕


「新興善国民学校よりはるかに爆心地に近かった城山国民学校では、二十九人の先生のうち二十六人が爆死、家庭にいた児童およそ千四百人が命を奪われ、生き残った児童はわずかに五十人ほどでした。」

原爆投下直後の風景 スーパーインポーズ―(7)現在の山里小学校]

「同じよう爆心地に近かった山里国民学校では、校長先生や教頭を初め二十八人の先生方を一度に失い、被爆前に三十もあったクラスが、わずか六クラス分しか残りませんでした。」

○記録映画や記録写真で、被爆当時の新興善国民学校の様子を映し出す―。
スーパーインポーズー(8)[現在の新興善国民学校]


「新興善は、爆心地から遠かったために、校舎の形がそのまま残りましたが、その
当時、国民学校は救護所とされていたので、負傷した人々が、次々に運びこまれて
きました。一階を外来の人の治療にあて、動けない負傷者を二階、三階に入ってもらうように
しましたが、コンクリートの床に筵を敷いただけの、粗末な病室でした。
被爆三日後にここに駆けつけた軍医の見明健治さんが、当時の様子を話してくれました。」

○インタビューに答えて、当時の佐世保海軍病院武雄分院救護隊の軍医見明健治さんが、 話し始める―。 話の合間に、当時の記録映画や記録写真の中から、話の内容にもっともふさわしい画面 を抜き出し、インサートしてゆく―。

スーパーインポーズ(9)〔見明健治―当時軍医〕


見「もうとにかくその時には、全身焼けただれておって、男か女か年寄りか子どもか、もちろんわかりません。あっちこっち挫滅されたものもいれば、手足が取れたものもいます。
目玉が飛び出したものがいる。腸が飛び出したものがいる、というわけですね。
なにか衣服で体を覆ってあると思って、それを取り除くと、顔を覆っているものを取り除くと、耳が取れてくる、鼻が取れてくる、眼が飛び出してくる、唇が裂けてくる。やけどで焼きついてしまっているわけなんですね。自分で痛いものだからおさえつけていたあとなんでしょうね。

手足はもちろんもがれてしまっている。それからここらあたりについている布をはぎますと、それだけでもう皮膚がついてくるわけですね。ですからもう何と言ったらいいんでしょうか?ちょっと言いようがないというか、あんなひどい症状はもうございませんですね。治療する器材・器具はなんにも無いもんですから、長崎の港から海水を汲んできて、それをドラム缶で煮沸消毒して、ジョウロでかけてまわっていただけ―。そういう状態です。

患者 例えば、十三、四人並んでいますでしょう。こっちの一番最初から治療して、こういって帰ってきてみますと、もうさっきの列の人は死んでしまっているわけなんですね。もう「痛い」も「つらい」も言う能力も無いわけなんですね。その力も無い。
ただ一つ、言っていたのは「のどがかわく!」ということだけだったですね。」

○記録映画や記録写真で、被爆当時の新興善国民学校の様子を映し出す―。
「同じ軍医で見明さんより五日後に新興善国民学校の救護所に入った中田和彦さんは―。」
○インタービューに答えて、当時の針尾海兵団派遣救護隊の軍医中田和彦さんが、話す―。

スーパーインポーズ(10)〔中田和彦―当時軍医〕

中「原爆で放射線を浴びますと、白血球はバイ菌を殺す力の上で一番大事なものですけど、その白血球がこわれてうんと減ってゆく。
なにぶんにもバイ菌を殺す力が無くなっているわけです。
そうすると、肺炎とかをじきに起こしやすくなる。
そのあとは、気力が無くなって、脱毛する―。斑点が出る―。
そういった状態で力が完全に無くなる。
火が消えてゆくように。ロウソクの火がふっと消えてゆくように亡くなられてゆく。
(頭の毛が抜けつるつるになった、あどけない子どもの白黒写真がインサートされる) 頭の毛が少し抜けた子の写真がありますけど、あれは九月の初めだったと思います。 その後、出血斑が出てですね、そういった白血病で、いわゆる原爆症の中の血液の異常でもって亡くなっている。消えるように亡くなってゆきましたね」

○再び、記録映画や記録写真で、被爆当時の新興善国民学校の様子を映し出す―。
「五十年前の看護婦さんたちが、当時の面影を残す校舎にやって来て、看護の思い出を話して
くれました。」
○インタビユーに答えて、当時ここで看護にあたった日赤の看護婦たちが、口々に当時の様子を話してくれる―。
先ず角町一枝さん(主婦―旧姓末永・当時看護婦)が、当時患者さんを受け付けていた新興善小学校入口の床に立って、話し始める―。

スーパーインポーズ(11)〔角町一枝―当時看護婦〕


焼け野原に横たわってる患者角「患者さんが列をなして待ってましたけれども、どこからどう処置をしていいか、わからないし、煮沸した海水をもってきて、からだにしゃーっとふりかけて、そしてウジを早く落とそうと思って、そんなことをやっておりました。」

患者さんには申し訳ないけれども、そんな処置しか出来なかったんです。それは今の人たちにはぜったいにわかりません。ウジというものを知らない子どもたちがたくさんいると思うからです。でもそのころは、原爆で傷ついた人たちはみんなウジをわかせた状態だったんです。そしてウジの下にはガラスの破片がくいこんで、くいこんでもくいこんでも取れないガラスを、私たちは本当に一生懸命に取っていました。

患者さんをムシロの上にごろ寝させて、そして水もあげたいけど水も無いようになって消毒したいけど消毒液も無い。それに網場(あば)の水族館の近くから水を汲んできてそれを熱湯に沸かして、かけて消毒するということは、本当に今の時代に誰ができましよう。

私ももう体が悪くなって、足はよたよたになるし、骨はボロボロになってますけれどもそれでもやっぱりね、皆さんに本当に原爆なんて、核実験なんて絶対にあってはならないことをね、世の中の人たち、子どもたち、孫たち全部に教えてやって、そうして死にたいと思っているんです。
(角町さんは、思わず声涙共に下ってしまう―。)
それだけが私の最後の皆様に対するご奉仕だと思い、頑張ってここに来ました。」

次いで、三島玉恵さん(主婦―旧岸川・当時看護婦)が、当時外来の診療室に当てられていた部屋―現在の職員室に入ってきて、「なつかしいですねえ」と、思わずつぶやき、ぐるりと見回し、今も残像として消えない患者の思い出を話し始める―。

スーパーインポーズ(12)〔三島玉恵―当時看護婦〕


三「当直として夜勤務しています時に、小さな男の子がおりまして、柴田中尉がとても可愛がって、大事に毎日お世話をしておられたんですけれども、父親も母親も無くて、どこから来たのかわからなくて、本当にこの子どうなるんだろう?って心配しておりましたのです―。
もう可愛がって可愛がって、みんなもう一生懸命、本当にどうしょうか?どうしたらいいんだろうか?って育てていたんですが、ある日の朝、急に亡くなってしまったものですから、みんなもうガッカリして、なんて恐ろしいことだろうねえ、外の傷も無いのにと、みんなで悲しんだことがありました。」

さらに、吉田敦子さん(主婦―旧姓井上・当時看護学生)が、当時原爆による死者の解剖に当てられた部屋―現在の教育相談室で、話し始める―。

スーパーインポーズ(13)〔吉田敦子―当時看護学生〕
吉「亡くなられた息者さんをすぐ連れてきて、ここに寝かせて解剖なさったんですけど、まだ触ったら温かいんですよ。それをもう亡くなられたからということで、すぐ解剖して、いろいろな検査ですね、原爆が原因でどんなふうにして亡くなったか?を、検査するための解剖でしたので、もうローソクを持って、黙って見てました。
(吉田さんは、当時の位置関係と、ローソクを掲げていた姿勢を見せてくれる)

三人ぐらいで、足元と頭と、こう両方で、ローソクを持たせられて―。電気がなかったんです。もう真っ暗だったんです、この部屋は―。
そしたら、腸の中から回虫が、その当時は回虫の多い人が多かったものですから、回虫だけが束になって、まだ生きていて、こう出てきた記憶だけは、忘れきれません。」

その次に、北村ミヤ子さん(長崎保養院勤務―看護婦・当時看護学生)が、二階の病室
に当てられていた部屋―現在は教室として使われている場所で、話し始める―。

救護所の様子 スーパーインポーズ―(14)〔北村ミヤ子-当時看護学生〕

北「病室の方をまわっている時に、国民学校六年生の男の子でしたが、たった一人の妹さんを、あちらこちらの救護所をさがし求めて、やっとこちらの方にいることがわかり、そして妹さんのそばに手をついて、じーっと見つめておりました。話を聞いたら、お父さんもお母さんも亡くなって、自分が火葬をしてきたと話をされておりました。

あまりにも無惨に変わり果ててしまった妹さんは亡くなってしまいましたが、あのお兄さんはどうしていらっしゃるでしょうか?と、手記に書きましたところ、後になってあの時のお兄さんの消息を手紙で教えてくれた方があります。ちょうど同じころ、この新興善小学校で衛生兵をしていらっしゃった方で、あのお兄さんは、妹さんの死後三日目に、急に亡くなってしまったというのです。こ両親の火葬をすませてきた子どもさんが、妹さんを亡くし、自分も息を引き取ってしまったとすると、おそらく子どもさんのご家族は、全滅してしまったことになるでしょう。」

その後、佐々木みつえさん(日本赤十字社福岡県支部勤務―家庭看護教師・当時看護学生)が、二階踊り場―当時看護婦詰所として使われていた場所にやってきて、思わず、
佐「こんなに廓下が長かったかなあ、と思うんです。このへんは、衛生材料がいっぱい置
いてありましてねえ」
と感慨深げに当時の様子をしのび、一生忘れられないという思い出を、話し始める―。 スーパーインポーズー(15)〔佐々木みつえー当時看護学生〕

死体の前で線香をあげ手を合わせる婦人佐「八歳か十歳だったか忘れましたけれども、深堀ちよ子ちゃんとおっしゃっていましてここで亡くなられたんですけど、ここに入院した時には、まだ髪の毛があったと思うんです。

ところが、朝あった髪の毛が夕方にはもうバサッと抜けるということで、最初は可愛い女の子でしたけれども、もう四、五日の間に、男の子か女の子かわからなくなってしまうぐらいに髪の毛が抜けてしまいました。

悲しかったと思いますけれども、それ以上に指先もやけどでつぶれて、人指し指は骨が見えていましたし、まぁ苦しいのと、それからお母さんとも急に別れたらしくて、「母ちゃん、母ちゃん!」と呼び続けていました。ですから、「母ちゃん、来るからね!」って、「がんばろうね!」って、本当に空しいようですけど、それしか、言うことはございませんでね。

で、また思い出しては「母ちゃん―」っていうんですけれども、どうにもしかたがなくて、そのあいだにもだんだん弱られて、最後はお亡くなりになったわけなんです。私たちはここにいまして、場所は向こうでしたから、もうそこは本当に私の一生忘れられない、いっかくてことになリますね。
(佐々木さんは、自ら持ってこられた花束を、深堀ちよ子ちゃんの亡くなった場所に捧げ、あとはただもう合掌―。)
そして最後は、お化粧道具もございませんし、ですけれどもやっぱり女の子ですから、ちょっと綺麗にしてあげたいと思って、シッカロールでお化粧して、マーキュロで口紅と頬紅とかをつけて、そして「ほら、女の子よね」って、「可愛くなってね」って言いながら、むしろごと下の死体安置室にお運びしたんです。」

○原爆記録映画の中から、爆風で破壊された出島付近の民家の様子を見せてゆく―。
「当時新興善国民学校の六年生で、自宅で被爆―。しかし、爆心地から三・二キロ離れていたために、幸い軽いけがだけですんだ方から、その後の体験をお聞きすることができました。」

○インタビユーに答えて、当時新興善国民学校に通っていた児童のうちで生き残った立場のお一人―鈴木一郎さん―(長崎県教育委員・当時六年生)が、ご自分の被爆体験を話される―。

スーパーインポーズ―(16)〔鈴木一郎―-当時新興善6年生〕


焼け跡の死骸 鈴「一週間か十日ぐらい後だったと思うんですが、親父が経営しておりました搾油工場がちょうど爆心地の駒場町というあたりにあったのですが、そこの工場長が家族ともども住んでおりましたので、そこに行って安否の確認をし、もし亡くなっておれば骨を拾いたいということで、それに私もついてこいということで、親父と一緒に行ったわけなんです。そして骨を拾うために焼け跡の灰をひっくり返すということを、私も一緒にやったのですが、その作業の中でおそらく相当量の放射能を浴びたと思います。

したがって九月ごろになって、いやもう少し早くからかもしれませんが、ものすごい下痢症状が続き、そういうことの中でほとんどの髪の毛が脱毛してしまうというような症状にあいました。
その当時は、まだ原爆放射能による症状がどういうものだとはっきり医学的にわからない状況の時点ですから、お医者さんも主として赤痢ということで治療にあたってくれたようです、

いずれにしろ、ほとんど助からないような状況だと医者から言われながら、かろうじて生きのびたということなんですが、大変な下痢・脱毛という、今にして考えれば原爆症状そのものであると思うのですが、大変ひどいめにあいました。」
○原爆でほとんど壊滅状態になった三菱兵器製作所大橋工場の記録フィルムから抜き出した場面をモンタージュしてゆく―。
「そしてもう一人、爆心地から一・一キロの三菱兵器製作所大橋工場で被爆し瓦礫の下から這い出して脱出一 一緒に逃げた三人の友達も間もなく亡くなった中でたった一人生きのびましたが、やがて歯グキから出血、戸板に乗せられ新興善小学校に運びこまれた方が、当時病室に使われた教室にやって来て、ここでの体験を話して下さいました。」
○インタビューに答えて、松永須美子さん(主婦―旧姓志水・当時は女手挺身隊員)が、
松「たしか、二つの部屋になっていて、ここに間仕切りがあったんですけど、私はここに寝かされていました」
と、かって軍医や看護婦たちの治療を受け臨死体験した場所を説明し、話し始める―。
スーパーインポーズ―(17)〔松永須美子―当時女子挺身隊員〕

松「九月一日に病院に入りまして、本当は外来からそのまま帰るところだったのですが、あるお医者さんがとめてくれまして、この病院に入りました。
それから何日かたって、鼻血が突然出まして、缶詰の空き缶で何回かとりかえるくらいに出血しまして、なかなか止まらないんです。止血剤を打っても止まりません。でもうお医者さんも困り果てたと思いますけど、鼻にぎゅーぎゅー綿花で栓をしたんですね。

で、その時の出血多量だったと思うんですけど、とにかく暗闇の中に吸い込まれてゆくんです、自分の体が―。闇の中にものすごい速度で、自分の体が落ちてゆくんですね。
それで、あぁ怖いなぁと思って、ちょっと眼を開けましたら、みんなまわりにたくさんの顔がありまして―。
先生が眼をつぶりなさいと言われたものだから、つぶったら、またとにかく吸い込まれてゆくんです、とこか、奈落の底みたいに―。

その時に、まぁ死ぬー死ぬのかなってー(思わず、ことばにつまる―。)
自分でそういうふうに感じて、で、とっても怖いっていう感じがしたんですね。それでもう、このまま死にたくないっていう気持ちで―。
でも、涙が出るんですよ。涙が出ると「また鼻血が出るから泣くな!」っていわれたりして―。
それで先生が綿花を詰めて下さって、そうしたら今度は血がノドの方にまわるんですがそれも気持ちが悪かったんですけど、「自分の血だから飲みなさい!」って言われて、で、それもコクコク飲んで、そのうちになんとなく鼻血の方もおさまったみたいで―
とにかく暗闇に吸い込まれて、あぁこれが死んでゆく時のあれかなぁって思ったりしてでもやっぱり眼を一生懸命に開いていまして、それで、今現在に死ななくてすんだようなことだったと思います。」

○谷口稜嘩さん(長崎原爆被災者協議会副会長・当時郵便局員)が、朝自宅から車を運転 して、長崎原爆被災協会館に出かけてゆく―。 その中に、被爆直後背中一面に火傷を負って、うつ伏せになったまま治療を受けている 時の、生々しい記録写真をインサートしてゆく―。 スーパーインポーズ―(15)[谷口稜嘩―当時郵便局員〕

「谷口稜嘩(すみてる)さんは、被爆当時、郵便局員でした。ちょうど自転車に乗って配達中に、ほぼ真後ろの側から被爆し、背中一面に大変激しいやけどを受けました。背中をやられたので、仰向けに寝ることが出来ず、新興善小学校に入院した日から数えて、一年九ヵ月はうつ伏せに寝たまま過ごし、三年七ヵ月で、やっと退院することが出来ました。」

○被災協会館に到着した谷口さん―。

スーパーインポーズ(19)[被爆者会館〕
スーパーインポーズ(20)〔中国・フランスの核実験に抗議する〕


「(画面オフから、聞こえてくる)・・・放射線によって後ろから焼かれ、秒速二五〇メートルから三〇〇メートルと言われる爆風に、自転車もろとも四メートルほど飛ばされ、道路に叩きつけられました。
会館内で、修学旅行でやって来た高校生を前に自分の被爆体験談を話す谷口さん―。
谷「・・・・・私の背中は、今でも痛み続けている―。夜でも、昼でも痛む―。寝る時には背中を下にして、体は真っ直ぐのばして寝るのが一番だといいます。しかし時間がたつにつれて、岩の上に寝ているみたい・・・・・」「背中中にひろがるケロイドを残したまま、やけどの痕は一応おさまりましたが放射線の影響でしょう、その後に出来た皮膚ガンの手術を何度も受けることになりました。ところが、それだけではすまなかったのです。」

診察を受ける患者○谷口さんが診察室で、医者に診てもらうためにシャツを脱いで、椅子に座る―。
胸にも当時受けたやけどのひどさを物語る深くえぐれた傷痕がありありと残り、背中を向けると、背中中にケロイド状のやけどの跡がひろがっている一。

「五十年もたっているのに、その背中にガンでもない腫瘍でもない。つまり医学的にはなんとも判定のつかない、まるで石ころのように堅いシコりができるようになったのです。
強度の放射線を一度に浴びた場合に、人間にどのような影響が残るのか?人類がまだ経験していないことなので、五十年後になっても、医学的にまだ正確なことはわからないでいるのが、放射線障害のおそろしいところです。」

○同じ被災協会館の部屋で、インタビューに答えて、今の心境を話す谷口さん―。
谷「今でも本当にいつになったら楽になれるのか、生きてる間楽になることはないんだと
毎日思って―。
そんな中でも五十年前にとばされて道路に伏せている時に、死んではならないと、自分
で自分を励ましてきた、そのことを五十年たって、今でもそうしなきゃならないと―。
ま、ほんとに苦しいわけですねえ―。」
話し続ける谷口さんの声だけをしぼってゆきながら、ナレーションが語り続ける一。
「谷口さんだけではないかも知れません。人類にとって初めての異常な症状が、これからも多くの被爆者の体に現れてくる危険性があります。」

○被爆後に撮影した長崎の俯瞰画面と、五十年後の現在の同一場所とを、オーバーラップさせてゆく―。
「たった一個の原子爆弾が、これほど根の深い傷痕を人類の生命の上に刻みつけたのです」
○五十年前の新興善の校庭や教室と、現在の同じ場所の情景を、交互にカットバックさせてゆく―。
「五十年前の夏のあの日、この校舎で起きたことを、長崎に起きたとを、私たちはどう考えたらいいのでしょうか?平和に恵まれ、自由に生きていられる、五十年後の人間として―。」

○日中戦争の記録映像がインサートされる―。
「一九三七年からの戦争を始め、日本がアジアでおかした過ち―。」
○真珠湾攻撃の記録写真がインサートされる―。
「一九四一年の真珠湾攻撃で、アメリカやアジアにしかけた過ち―。
日本にも責任があることは、認めなければならないでしょう。」

○再び、新興善小学校の授業中の教室に帰る―。
「しかし、何にもまして許されてならないのは、原子爆弾・核兵器を、人類の生命の上に使うことではないでしょうか?
私たちは、十万あまりもの、長崎の原爆で死んでいった人たちの声なき声に、耳をかたむけたことがあるでしょうか?

被爆五十年後になり、核兵器を地球上からなくそうという声が、今ようやく世界中で高まりつつあります。人類が本当に核兵器をなくせるかどうか?それは私たち一人一人のこれからの生き方にかかっています。五十年後の私たちは、どんな世の中を作り、何を考え、どう生きているでしょうか?それをきめるのも、私たち一人一人の力です。」    終わり

画面フェードアウトし―。
○白抜きのクレジット・タイトルがロール・アップしてゆく―。

スーパーインポーズ―(20)



 
企画・製作
  ー 坊野貞男
  ー 小口禎三
  ー    諏訪 淳 
脚本・演出 吉川 透
撮影 西尾 清
録音 久保田幸雄
音楽 加古 隆
ナレーション 山根基世
演出助手 三戸宏之
撮影助手 中山憲一

映像資料
(財)長崎平和推進協議会
米国国立公文書館
米国フーバー研究所
山端祥吾
松本栄一
林重男
NHKサービスセンター
毎日新聞情報サービスセンター

協力
長崎市教育委員会
長崎市立新興善小学校
荒木正人
福嶋行雄
福重外科医院

製作・著作
(株)映像社
岩波映像販売(株)




  


文責:三上 卓治
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子

本文はここまでです



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