現在位置: ホーム(1)講義録一覧 2007〜2009(2) >チベット紀行 中国の中のチベット
WEBアクセシビリティ対応
ページの先頭です

平成20年8月22日
神田雑学大学定例講座N0419




目次

 メニューの先頭です 講師プロフィール
はじめに
チベットの始まりの神話
チベットの国勢・地図
チベット・ラサへの旅
ラサ〈3650m)で
ヤムドク湖への旅
チベットの歴史について
チベット密教と歓喜仏
中国支配についての私見


プロフィル

臼井良雄講師 昭和16年福島県で生まれる
昭和18年 当時の蒙橿〈現在の内蒙古自治区〉へ両親と移住
昭和20年 終戦とともに引き上げ、故郷の長野県麻績村に戻る
昭和25年 東京へ移住 以後東京在住 
東大原小学校、梅が丘中学校、駒場東邦高等学校、東京理科大学化学科を経て東洋インキ製造株式会社へ 平成13年専務取締役 平成15年6月東洋インキ製造株式会社退社
現在 綜研化学株式会社社外監査役、全日本印刷工業連合会特別顧問・東京都印刷工業組合特別顧問、インデックスフォント研究会会長、NPO神田雑学大学理事


メニューに戻る(M)

1.はじめに


昨年7月に八王子にある実践中国語学院の企画したプライベートツアーに加えていただきチベットに行きました。その後ラサで騒乱が発生し、現在行きにくくなっているようです。そんなタイミングで私の目で見、感じたチベットについて話せと言うことで引き受けました。 たった一回しか行っていない経験でチベットを語ると言うのも恐れ多いことですが、神田雑学大学は真理を語る場でなく自分を語る場だと言う三上学長のお言葉に励まされ、講演に取り掛かろうとおもいます。

メニューに戻る(M)

2.チベット始まりの神話


ちょっと格好をつけて、チベットの神話から話を始めたいと思います。
チベット年代記王統明示鏡冒頭部分よりの抄訳を参考文献1より引用しました。

始まりには何もない虚空があった。
そこに十方から風がおこり、 互いにぶつかりあうと十字形の風輪になった。
この風輪の上に水がたまり水輪ができた。 この水輪の上には大地が生まれた。
その真ん中にはスメール山が生まれた。
スメール山は四角錐の山で、 その四面は正確に東西南北を向き、 南斜面はサファイアからできているため青く、 西斜面はルビーからできているため赤く、 北斜面は金からできているため黄色く、 東斜面は銀からできており白い。
スメール山は高い山脈 (七金山) によって七重にとりまかれ、 さらにその外側の四方には、 四つの大陸 (四大部洲) がある。
大陸の形は南側は三角形、西側は円形、北側は四角形、東側は半月形である。
この世界にはやがて生き物 (有情)が発生した。
生き物は前世の行為の善し悪しに応じて天上、阿修羅、人、畜生、餓鬼、地獄の六つの世界 忌避轍砂)に生をうけ、その後も行為の善し悪しに応じてこの六つの世界をさまよった。

この神話ではチベット世界は原初の虚空からまずスメール山を中心にした世界が誕生し、 そこに生き物が発生したことを説いています。
初めに聖山ありきです。
巡礼の山カイラス山 この世界観は、 全く空想の産物とは思えませんね。チベットの西部にあ巡礼で有名な聖山カイラス山は固形の砂礫層からなり、周囲の山々からははっきりと孤立して単独峰を形成し、その斜面は東西南北の四面にくっきりと分かれており、神々しいばかりの形状で、スメール山とみなされているそうです。
明治の河口慧海も行っていますね。
それと書かれている四方の大陸の形なんかは結構今の地図形にあっていて、当時からこういう世界地図的把握があったのかと思わせます。
仏教が出てきていますから、起源前5世紀頃以降に語られた神話でしょう。

巡礼とまではいかないまでも私もこんな伝説をもつ世界の屋根と言われるチベットには子供時代からあこがれており、一昨年西寧―ラサ間の天空列車が開通したニュースを聞いて、是非、行ってみたい、乗ってみたいと思い昨年の7月ついに念願のチベット旅行に出かけました。

メニューに戻る(M)

3.チベットの国勢・地図

チベット自治区は面積120万平方km、チベット族230万の民族自治区です。
中国とチベットの位置関係 中国全体との比較で見ると、面積で13%前後、人口で0.21%です。ダライラマの亡命政府の発表ではチベット人が約600万人、面積で240万平方kmが独立自治の対象となっています。
四川省や青海省の多くを含み面積で四分の一ですから、中国政府にとっても大変な要求です。
チベット人、チベット語を母国語とする人々は今の地域名では中華人民共和国チベット自治区、四川省の西半部、青海省の南部、インドのラダック地方やスピティ地方の一部、ネパールのヒマラヤ山脈側、ブータンなどに暮らしており、現在チベット人の唯一の独立国はブータンです。
チベット自治区は平均海抜4000m以上、7000m以上の高峰が50、8000m以上が11ある世界の屋根と言われています。いかにチベットが大きいか、そして中国にとっては欠くことができない地政学的存在かを視覚から実感して欲しいです。

メニューに戻る(M)

4.チベット・ラサへの旅

(1)高地順応の旅 青海省西寧(2275m)からの旅

2007年9月6日成田発 夜北京着、北京で宿泊し翌日便で西寧へ、そして西寧で高度順応をかねて、30時間くらい滞在し、ダライラマの生家、唐の時代の文成公主ゆかりの日月山(3510m)、中国最大の青海湖(3200m)、チベット宗教改革の巨人ツオンカバの開いたゲルク派(徳行派)の寺院タール寺などを見学しました。
ここで幾つかの写真をお見せましょう。
なぜここに生まれた子供がダライラマ13世の生まれ変わりだと分ったのか?
ダライラマ14世の生家 ダライラマ14世の生まれた村 ダライラマ13世が死ぬと、転生者を探すプロジェクトが組まれ、転生者の赤ちゃんを探して高僧たちは旅をするのです。
この山の前で神気を感じた高僧はここで新しく生まれた子供はいないかときく。
そしてさりげない面接をするそうです。ダライラマ13世の使っていた道具や衣服などを他の物と混ぜてさりげなく見せる。
すると当時4歳くらいの赤子が「これは僕んだ!」とダライラマ13世の遺物を指したと言います。ダライラマ14世発見のときの話しだそうです。

7世紀半ばチベット吐蕃王朝建国の祖と言われるソンジェンカンポ王は戦争停止と文化導入のため、唐の国との壮大な政略結婚を計画しました。
はるばると歩いて文化が移動することの実感を写真で見て欲しい。
文成公主を探すゲル大臣 日月山から長安方向を見る 王の右腕のゲル大臣があの手この手をつくして唐の太宗の養女文成公主を連れ帰る話が面白い。
そして日月山にいたる長安からのはるかなる丘陵と川沿いの長い長い道、茶馬古路という延々と高原を続く道を何百人もの文化使節がきたことを実感しました。
文成公主一行は3年かけて長安からラサへ着いたと言われています。

822年の中国―チベットの講和条約ではここが国境線に決まり、ラサと長安とここに条約文面を刻んだ石碑がたっていたと言われています。

(2)天空列車の旅 

いよいよ9月8日の夜20時28分天空列車に乗車です。 標高5千mを越える鉄道を建設する国家プロジェクトの実行に当って、企画当初から資金調達と工事難航が予想されたそうで、実際調査開始以来開通までほぼ半世紀の時を要しています。
青海省のゴルムド(標高2830m)までは比較的早く一九八四年に開通したのですがそこから崑崙山脈を通るのが難工事だったそうです。それが二一世紀に入るや驚異の突貫工事により瞬く間に完成させてしまいました。
真偽は不明ですがガイドの話しではチベット駐留の10万人の軍隊を有効利用したといわれます。
西寧駅を夜八時過ぎに出発して、ラサ到着は二六時間余をかけた翌日の午後10時前後。景観の見所が昼間になるようなダイヤになっています。
列車ホーム風景 このダイヤが二日に一回運行されています。
列車編成は気動車、貨物車を除くと食堂車を含めて15両、乗客総定員数は936名で、一等車の軟臥車2両〈上下2段4人個室〉、2等車の硬臥車8両〈上下3段6人個室〉、座席構造の三等舎が4両連結されています。一等車はなかなか取れません。今回も申し込んだのですが無理とのことでした。
2等の寝台も団体で取ることが出来ず、グループばらばらで分散され、狭く寝るだけのもので、この個室で見ず知らずの言葉の通じない人達と車窓を眺めていくのかと心配になりました。
私は早起きして後方の空いている3等車に移動し、グループ全員が一緒に座れる座席を確保しました。後になりますと大勢が座席者に移動してきますから、朝早く移動するのが楽しい旅にするためのポイントです。ガイドもここら辺のノウハウを知りませんでした。

早朝、コルムド駅に到着した列車は、高山用で馬力の強い機関車に付け替え作業をして、いよいよ標高4000mから5千m級の高地への挑戦となります。
伝説の鳥大鵬が住むと言う崑崙山脈に沿って列車は走ります。
崑崙山脈を車窓右側に見て まだ雪は見えず緑の陰もなく荒涼たる高原と山々が連なります。
最高峰は万年雪の残る玉珠峰(標高6178m)ということで色々聞きましたがどれがそれかを知っている人はいませんでした。トンネルあり、鉄橋ありの難工事だった区間が続きました。崑崙峠(標高4686m)を越え崑崙トンネル(全長1685m)を抜けるとだんだん景色が変わってきます。台地が白く霜が降りたようにみえるようになってきます。
一年中残雪が見られるここらの高地では、当初から工事は難航が予想され、凍土地帯に敷設された線路の道床を、いかに夏の暑い気候から凍土の融解を防止して道床が緩むことを防止するかといぅことが大きなテーマだったそうです。そのために熱棒といわれるアンモニア水を含有した鉄パイプを深さ地中五m埋め、地中の熱を外へ発散させる工夫を凝らしたといいます。

鉄道に平行して一木の国道、青藏行路がずっと続いています。中国国内からチベットへの物資輸送路です。
鉄道に沿って走る青蔵行路、昔の茶馬古路 7世紀に建国されたチベット王国のソン・ツェン・ガンポ王の許へ嫁いだ、文成公主が長安からラサヘ三年の時をかけて辿った当時の道といわれています。
昔は茶馬古路と呼ばれ、チベットから馬を中国に運び中国からお茶をチベットに運んだ道でもありました。きれいに舗装された道ですが延々と続くこの道を車窓から黙ってみていると、この道を通って起こった色々な昔の歴史が思われて感慨に浸ります。

やがて、長江の源流に近いトト河(標高四五四セm)を渡りました。 車窓から見る揚子江の源流 あの揚子江の源流です。
池というか河というか広大な水溜りが続きます。延々と東シナ海にいたる揚子江がここに始まるんだとロマンチックな気分になりましたね。

二時半ごろにはこの旅行のハイライトであるタングラ峠駅(標高5068m)を通ります。
何と言っても自分が標高5千m地点にいるといぅのは、感動的で、みんな車内の高度表示の前で記念撮影です。
列車高度5000mを超える 気圧を2000m程度の高さに調整してあるということで、車内には吸引用酸素も設置してありますが、高山病が苦しいと言うような人は見当たりません。

やがてまだ太陽の明るい中にチベット遊牧民のチベット自治区最初の停車駅であるアムド(標高4702m)を通過して、やがて標高四五九四mの湖、澄明なツオナ湖が見えてくる。
琵琶湖の三分の二の大きさの「聖なる湖」では湖水20mまで近づいて湖畔を20分かけて走ります。

ココシリ自然保護区の伸びやかな高原 ここからが標高4600mのココシリ自然保護区で北海道とほぼ同じ面積を有するといいますが、草原とたおやかな丘陵と美しい空、雲の饗宴で素晴らしい景観が続きます。
ヤクや羊が放牧されているのんびりした光景も散見しますが人間の姿が全く見えないのと人家が見えないのには驚かされます。
ガイドによると人間は放牧の群れに囲まれて見えないだけでバイクに乗って放牧しているのだそうです。草原をバイクで走るのでしょうかね?
動くものは放牧の群ればかり
だんだん日が傾き、壮大な夕焼け雲が発生します。どうしてチベットの空はこんなに高くチベットの雲はこんなに大きいのでしょう。
上昇気流が多く、空気がきれいで、紫外線が沢山届くなど色々理由はあるのでしょうが、日本では見られない空です。

日が暮れてお弁当を食べて寝台車にもどって一休み、列車は夜10時にラサに着きました。
標高3650mですから富士山の8合目くらい。
壮大なチベット高原の夕焼け 深呼吸しながらゆっくり歩け、今晩は風呂に入るな酒は飲むなの指示がガイドから出ました。
それでも意外となんともないのにみんな驚いていました。

高山病にはまず高地順応が大事だそうで、今回は西寧での日月山行きが結構苦しかったが良い順応だったと思います。
それとゆっくり歩くこと深呼吸をすること、血液さらさら薬〈例えばセデスやバッファリンなどの頭痛薬〉を予防に飲むなどが効いて、誰も高山病にはなりませんでした。


メニューに戻る(M)

5.ラサ〈3650m)で

  (1)ポタラ宮

日本でいうと江戸時代の初め、ダライラマ5世は1642年ゲルク派が最強の宗派になるや自らを観音菩薩やソンチェンガムボ王になぞらえる行動を積極的に採り始めました。
1647年にポタラ宮築造に着手、1658年からはここに常駐するようになります。
ポタラとは仏典にかかれる観音菩薩の聖地「ふだらく」を意味しこの宮殿が建てられたマルボリの岡は太古に観音菩薩がチベットを見守るために立ち、その後その化身であるソンチェンガムボ王が宮殿を営んだとされる地でありました。
ポタラ宮での記念撮影 ポタラ宮中心部にひときわ目立つ赤い建物、赤宮はポタラ宮の中核です。
中の西集会殿の広間の東西南北も壁は東が青。南は赤、西は金。北は白に塗り分けられており、神話のスメール山の色と関連があるのだと思います。
ポタラ宮は立体曼荼羅と言われており、そこの祭られている諸仏、諸菩薩は曼荼羅を形成しています。
時計周りに礼拝の順番も決まっています。赤宮の最高処は曼荼羅の中心で観音菩薩の化身のダライラマの瞑想する場所でポタラ宮は単なる宮殿でも政庁でもなく、チベットを守護する力の発信源と位置づけられているのです。

(2)水葬と火葬と風葬

甘丹寺(ガンデン寺)はゲルク派の創設者でチベット仏教最高の僧侶と言われるツオンカバが創設したお寺で多くの巡礼者を集めています。
しかし観光地ではないので旅行者は遠くで巡礼者の礼拝を眺めるだけで参加は出来ません。
ここからチベット独特の葬送、風葬の場所が眺められガイドの説明がありました。
ガンデン寺から見る風葬場 水葬をするというラサ郊外の川 チベットには木が殆どありません。表層土が薄く木の根が張れないからです。したがって遺体を焼く燃料がありません。
それと輪廻連鎖の思想が重なって風葬、水葬の葬儀が根付いています。
火葬もありますが大変高いそうで、高僧等は火葬だそうですが、チベット人の60%は風葬儀だと言われます。もっと安いのは水葬で遺体は河に流されます。

葬儀を取り仕切る人達は特殊な人達で一般人とは別のところにグループで住んでいます。
風葬現場には一般人外国人は入れないとのことで、入り込んで殺されそうになった外国人がいると聞かされました。
盆地であるラサを取り巻く山には7箇所の風葬場があり、そこには取り仕切る僧侶と職人が一緒に住んでいます。
人が死ぬと家族は山の上まで遺体を運びお願いして下山する。風葬師は遺体をさいころ状に切断し鳥が食べやすいように処理するそうです。
さいころ状に切断するのは水葬の場合も同様。水葬はお金のない人達が使うといいます。
ちょっと残酷なようですが、転生思想で遺体と精神を分けて考えれば、とても自然でよい感じ。空気が乾いているせいか、清潔感さえただよう。食物連鎖に組み込まれる遺体はすばらしいとさえ思えます。

(3)大招寺(ジョカン寺)周辺と五体投地する人、論争する僧侶

ジョカン寺は7世紀ネパールから来たチツン王妃が王の菩提を弔うために作ったと言われ、チツン王妃の持仏11面観音と文成公主の持仏釈迦牟尼像を祭っています。
ジョカン寺付近と五体投地する巡礼者 ここはラサでも一番大勢の人達が集まる広場兼繁華街で観光客も巡礼客もごちゃ混ぜで沢山の人が歩き祈っています。
チベットの人達はすごく信心深い。マニ車を回してお百度を回る庶民、ひざまずき頭を地に着けて祈っている庶民たち、五体投地を繰り返し徐々に前進する乞食のような僧侶、こんな風景を沢山見かけます。

僧は一日の朝と夕方の2回、僧院の中庭に出て論理学の修行をします。
正装して論争する僧侶たち グループ毎に車座になって座り、一人が輪の中に立って、座っている対論者に対して論争をしかける。論理的に矛盾した答えを発したり、口ごもった方が負けになるそうです。
伝統的な衣服や帽子をかぶって論争している若い僧侶を見ると、観光パーフォーマンスにも見えますし、しかしこういう元気の良い若者たちが先日のラサ暴動を起こしたのだなと言うことも感じます。

ここには多くの土産物屋さんが集まっていて、観光客は皆買い物を楽しみます。私はここでガイドの薦めもありチベットの霊石「天珠」を買いました。
天珠(てんじゆ)とは西蔵(せいぞう),つまりチベットにおおよそ2500年以上前より伝わる霊石(パワ―スト―ン)です。ジ―ビーズと呼ばれ、糖瑠(めのう)という石に特殊な腐食加工で宗教的図案を施したものです。
霊石天珠 夫珠にまつわる伝説も数多くあり、その―つをご紹介すれば「その音、ヒマラヤ―帯には悪神が住んでいて、人々に災いをもたらし、疫病を流行させていた。
人々を哀れんだ金剛亥母(バジュラ,ヴァ―ラーヒー)が天上で修法を行い,法珠を地上に降ろした。これが天珠で,この天珠を持った人だけが災厄や病魔から守られた。」とあります。
この説でも明らかなように「天珠は天から降ってきた」という話が古来よりたくさん伝わっているのです。
こうしたことから天珠は今日でも神の霊石、聖なる石と呼ばれ、この石を持てば厄難や罪障から救われ,生命や健康が守られ、無眼の福連や財運が授かるとされています。
天珠を手に幸せそうなガイドの胡さん 天珠は中華航空の事故で一躍有名になりました。
名古屋空港での申華航空機事故は平成6年4月26日,名古屋空港で台湾の申華航空機が着陸に失敗し、墜落炎上するという悲しむべき事故で、台湾の乗客としては二人しかいなかった生存者の内の―人である楊(よう)さんとぃう方が、テレピのインタビュ―で「天珠を身につけていたおかげで助かつた」と証言したことから,台湾はもとより世界中で俄然「天珠」に注目が集まりました。
ガイドによれば天珠は「買う」と言ってはいけない「頂く」というのだということで初めは120万円というものを金庫室で薦められましたが、とてもそんなお金がないということで12万円のものを「頂いて」参りました。
ガイドの胡さんは真剣に効用を信じており、ガイドになってはじめてチベットに来たとき、お母さんのお守りにこれを買ったんだとうれしそうな顔をしていました。
信じれば救われると言いますので、今は私の部屋の入り口に飾り毎日その下を通っています。


メニューに戻る(M)

6.ヤムドク湖への旅

ヤルツアンポ川を遡り高度を上げるバス チベット高地の美しさ、空気の薄さ、空の美しさ、人が住むにはあまりにも過酷な環境、などを感じるヤムドク湖への旅でした。
ラサからバスで3時間ほど、ヤルツアンポ川に沿って西へ行きますと標高4749mのカムパ峠があります。
そこからチベット4大聖湖のひとつ、ダライラマの就任儀式を行う聖なる場所ヤムドク湖が眼下に見下ろせます。
カムバ峠よりヤムドク湖の眺望 そしてヤルツアンポ川をどんどん遡り沢山の沢を見ながらバスは高度を上げていきます。
土地はコケが表面に生えたような薄い表層土だけの土地でたまに数頭のヤクが放牧されているのを見るのと、道路工事の人達をみるくらいで、人気のない景色です。
この大峡谷のどこかに人が住んでいるのでしょうが、なにかこの道路を修理するのが唯一の生活手段のように見えます。ですからのんびり仕事をしています。
カムバ峠の頂上まで登り思わず万歳
頂上につくと素晴らしいヤムドク湖の眺望です。こんなきれいな湖の色、空の色、雲の色をいままでみたことがありません。
感激です。頂上の苔の上に横たわり、動く雲を飽かず眺めていました。
ここからもっと奥地にいくとまだまだ素晴らしい湖があるそうです。
そしてそのまま行くとエベレストの北を通りインドのカトマンズやカラコルムに至る道です。いつかこの道をたどってカイラス山に行って見たいと思います。


メニューに戻る(M)

7.チベットの歴史について


せっかくチベットに行くのでチベットの歴史を知りたいと思い何冊かの本を読みました。
チベットの歴史は大きく5つに分かれます。

(1)伝説のチベット王時代 紀元前からの建国神話の時代から7世紀まで チベット年代記「王統明示鏡」によると初代チベット王はインド王家の末窩で川に流され庶民に拾われ、成長して後それを知り世をはかなんで、ガンガーを遡りチベットの高山に降り立ったと言われています。そこでチベットの人々から王として冊立されたと言われます。インドからの建国だったのでしょうか?2000年以上前のことと言われています

(2)古代チベット王朝と国家仏教の時代〈7世紀から9世紀半ばまで〉

建国の父と言われるソンツェン・ガンボ王はチベットに始めて統一国家を実現し、文字を作り、唐とネパールと政治的・文化的に深い関係を持ちました。
王は唐から文成公主をネパールからティツゥンを王妃として迎え、彼女たちとともに唐からは中国仏教が、ネパールからはインド仏教が別途に請来されて、王朝がそれを保護し仏教で国家の統一を図った時代です。
この時代の仏教は顕教が入ったようです。

ティツゥンを王妃 文成公主王妃 ソンツェン・ガンボ王

文成公主とティツゥンはそれぞれ数百人の文化使節グループを帯同、吐蕃王国の政治的文化的基礎を固めたようです。

8世紀の前半に王位についたティデ・ツクツェン(在位704年から754年)の時代に「金光明経」がもたらされ、今までの顕教の隆盛から典型的な密教、現世利益仏教の時代になります。

その次の王ティソン・デツェン(在位754年から796年)は古代チベット王国の全盛期で、755年に唐で安史の乱がおきると、ティソンデツェン王はウイグルとともに唐の都長安を占領します。
この占領自体は短時日で終わりますが、唐とチベットはその後も抗争を繰り返したため、この事態を打開するために783年と821年の二回にわたって唐とチベット間で会盟がもたれます。その席上では日月山を国境とする画定が行われ、会盟の決議文は碑文に刻まれて長安とラサと日月山の3カ所に建立されます。
碑はラサのジョカン寺の前にしか残っていませんが、その碑文にはこう記されています。

「チベット、中国の両者は現在支配する領域を守って、東方すべては大中国の地に、西方すべてはまさに大チベットの地にして、これより後は互いに敵対し争うことなく、領域を侵犯することなく、チベットはチベット国において安らかに、中国は中国において安らかになさん」
中国は、チベットが過去を通じて自国の一部であったことを公式に主張しているのに対し、この碑文はチベットがかつては独立国であり、中国と対等に国境の画定をしていたことを明示しているため、現在、碑文は丈高い塀で囲まれ、碑面が読めないようにされています。それでも壊してしまわないところが中国人の偉いところかも知れませんね。

その後ダルマ王(841−846) ボン教復活にかけ廃仏運動を実施、中国インドから渡来した前期仏教は終焉し経典は山の洞窟などにいわいる埋蔵経として隠されたと伝えられています。ダルマ王はこの混乱の中暗殺され、王家は分裂しそれ以降チベットは貴族や有力僧侶などの土地を支配しているものたちが割拠する時代に入ります。

(3)教団仏教の時代 (9世紀後半から17世紀半ばまで)

ダルマ王によって滅ぼされた仏教を再興しようと有力な貴族はインドから新たな導師を招きます。
彼等は瞑想や性的ヨーガによるチャクラ開発密教を導入、また乱れた時代には必ず出てくるすぐれた民間の宗教家が土俗宗教ボン教と密教を融合させ、色々な宗派が乱立します。
そのような宗派は互いに競い合い戦う時代が続きました。スポンサーである貴族は各地に存在していましたし、中国、モンゴルなどの外国勢力との関係もそれぞれの教団の勢力に関係していました。
元朝と組んだ その後吐蕃王国は内紛を繰り返し分裂、蒙古の伸張とともに元朝と組んだ教団サキャ派が1239年元朝の支配下に入り勢力を増します。そしてモンゴル族にチベット仏教はラマ教として深く入り込むわけです。
玉印 金印 政治的に見ると元朝皇帝や清朝皇帝から下賜された印綬の写真に見えるようにように、この時代から中国の支配下に入ったと言えるのではないでしょうか?
現在の中国政府は元、明、清時代の700年間の実効支配を、現在の支配の根拠にしているようで、うえの写真の印璽なども西蔵博物館のまんなかに麗々しく飾ってあります。

その後14世紀になって偉大なる僧ツオンカバ(1357−1419)が創立したゲルク派が顕教と密教を両立させた戒律厳しい宗教で隆盛を誇るようになり、ゲルク派はその後モンゴル族と組んでダライラマの時代を作ります。

(4)僧王ダライラマの時代(1642年ー1949年) 

チベットと言えばダライラマと言われますが、歴史的には浅く日本で言えば江戸時代から始まったものです。
元朝崩壊後蒙古高原に戻ったモンゴル族の王アルタン・ハンはフビライに習いチベットから高僧を招聘することを決意し、1571年ゲルク派の長老ソナムギャムツオを招聘し、ダライラマという称号と金印を与えます。
これがダライラマ3世の誕生です。ソナムギャムツオは自分の前と前の転生者をダライラマ1世、2世とし、自分は3世を名乗ったのです。
次の4世はアルタン・ハンの曾孫が転生者として選ばれ、モンゴルとチベットの関係は強化されたのです。
1643年満州族が明を倒し清王朝を立てますが、チベットもこの同時期西モンゴルの後援を受け、ゲルク派がカルマ派を破ってチベットを制圧します。9世紀以来のダライラマ神聖統一国家の誕生です。
ダライラマ5世(1617年―82年) は1642年ゲルク派が最強の宗派になるや自らを観音菩薩やソンチェンガムボ王になぞらえ僧王としての行動を積極的に採り始め1647年にポタラ宮築造に着手、1658年からはここに常駐するようになります。
ここからを僧王ダライラマの時代と呼ぶのです。
講座風景 政治的には初めはモンゴルが支配していましたが1720年清朝がラサに侵攻ダライラマ7世を擁立し、支配権をモンゴルから奪います。それ以降は清朝が玉璽を与え支配します。

しかし西欧帝国主義の波はチベットにも押し寄せ、1904年にはイギリスがロシアとの帝国主義競争で侵入、ラサ条約で通商の優先権を確保します。
ダライラマ13世は外モンゴルに脱出しダライラマ不在になります。清国とイギリスの交渉の結果、チベットの通商権を英国に与えるが宗主権は中国とするという条約が結ばれます。
そして1911年辛亥革命で清は滅亡し中華民国が成立しますが、中華民国はチベットに干渉する余裕がなく放置します。
この機を捉えて1911年ダライラマは帰国し、チベットから中国人を1人残らず退去させ、チベットの独立を宣言、1949年まではチベットは事実上独立状態にありました。
ただ内部的には近代化を進めたいダライラマ13世と近代化反対の貴族や大僧院勢力が争い、たいした進展もないうちにダライラマ13世は他界してしまいます。

(5)中華人民共和国による支配の時代〈1949年以降現在まで〉

1949年新生中国はチベットの開放を宣言し、農奴制の廃止を行います。
1935年生まれのダライラマ14世は幼く、打つ手がないまま、中国から17か条の協約が突きつけられ世界の各国もどこも異議を申し立てない中でチベットは中華人民共和国のなかのチベット自治区に組み入れられました。
1953年にはチベット騒乱がおき、ダライラマ14世は民衆にまぎれてインドに亡命、ダラムサラに亡命政府を樹立します。
アメリカのCIAが亡命政府を助けます。
しかし米国と中国が国交回復した時点でCIAの亡命政府援助には予算がつかなくなり支援活動は縮小されているようです。

ダライラマ14世亡命後、中国はもう1人の転生権力者パンチェンラマ10世の時世をたてて協力する政策をとりますが、1989に年パンチェンラマ10世は他界し、1995年インドに亡命中のダライラマ14世はさまざまな検討の結果チベットに住む6歳の童子ゲンドンチェキニマをパンチェンラマ11世として公表しました。
この発表がなされるやいなや中国政府はこの童子を拉致し、この少年の認定に関係した僧侶を処罰します。
同年11月中国政府はゲンドンチェキニマを除く複数の候補者をラサの大昭寺に集め金瓶儀礼(くじびき)を実施、ゲンツェンノルプという童子を認定しパンチェンラマ11世として即位させます。

現在も拉致されたゲンドンチェキニマの消息は不明で世界最年少の政治犯としてその行方が懸念されています。


メニューに戻る(M)

8.チベット密教と歓喜仏

チベット仏教は7世紀中ごろの古代チベット王国(吐蕃)のソンツェン・ガンボ王(在位593年〜638年)に始まりましたが、その後ダルマ王の廃仏政策で衰え、現在の仏教は9世紀以降インドから導入された後期仏教が文化遺産としても主流です。
チベットへの後期仏教伝来は偶然にもインドで密教が成立しつつあった時期であるため、顕教と密教はほぼ同時に伝えられています。
しかも大多数の人々には、理屈っぽい顕教より、実践的な密教の方が魅力的に映ったにちがいないのです。特にチベットに伝えられた密教は、性的ヨーガをともなうものが中心だったから、人々の好奇心を引きやすく、チベットでは初めから密教優位であったようです。ですからチベットの仏像は日本で見る仏像とずいぶん違ったものです。
今回西蔵博物館を中心に男女交合の仏たちの写真を何枚か撮ってきました。なんで戒律を重んじ妻帯を禁止する仏教の仏がこんなにあからさまなセックスの姿なのでしょう。
石に浮き彫りされた仏たち タンカに描かれた仏たち
後期仏教の密教はそれまでの顕教などが性欲に代表される生命エネルギーを抑制して寂静たる解脱の境地を目指すヨーガを行っていたのを、むしろ生命エネルギーを活性化し、さらにそのエネルギーを浄化することで解脱にいたろうとするヨーガへの転換を図ります。
異形の仏たち像 異形の仏たち像2
8世紀後半に秘密集会タントラが「仏陀は女性たちと性的ヨーガを行じておられた」と発表、チベットの密教に大きな影響を与えたといいます。
特にカギュウー派はキュンボ(990年〜1139年)、マルバ(1012年〜1097年)がはじめたものですが、女性密教行者(性的パートナー)から教えを受けた無上ヨーガタントラは身体にあるチャクラや脈管を特殊なテクニックを駆使してめざめさせ、おのれと仏の一体化をもくろむもので、性的ヨーガもいとわないものだったと言われます。

そんな密教の仏様は日本人の我々がみるとぎょっとするような様子ですが、不思議と下品でなく静けさを感じるお姿をしています。


メニューに戻る(M)

9.中国支配についての私見

中国は1950年、チベットに武力侵攻し、完全支配下にいれました。
中国側は、これをチベット解放、つまり僧侶と王族に支配されていた封建社会を覆し、農奴を平和解放した、としています。
実際に、チベットが僧侶と王族に支配され、それまでが封建社会で、厳しい農奴制があったのは本当のことで、これはチベット人学者も認めるところといいます。
日本での進駐軍による農地解放のように、長い間続き、習慣にまでなってきた古い体制を壊すのは、外国の圧力でしか難しいということも過去の歴史が示していると思います。

私はチベット問題を考えるとき、一般国民の物質的幸福を追求すること、チベット民族が独自に政治をするということ、チベット文化を守ること、の3点をきちんと分けて考えて今なければならないと思います。

(1)一般国民の物質的幸福について。

チベットの旧体制での一般国民の状況は、物質的には世界でも有数のみじめな状態だったようです。
日本のチベットというと山奥の貧しい村のことを言った様に、チベットという言葉は物質的貧困と同義語だった時代が戦前まではありました。
解放前のダライラマの神聖政治時代は土地を始めほとんどの生産手段は役人、貴族、高位のラマ僧、3種類の地主におさえられてきたといいます。そして彼らは人口の5%にすぎず、チベット人の大半は農奴や奴隷であり、1951年には100万にものぼったと言われています。かれらは貧困にあえぎ、主人の領有する土地の付属物とされ、一切の権利がなかったそうです。
ガイドの話ではつい50年前まではポタラ宮の階段は奴隷の背におぶわれて登ったものだそうです。
要はいったん貧しく生まれたならば敗者復活戦のない世界で教育も受けられない、「死を人間世界の苦しみからの解放」とする転生思想が彼らの精神的支えだったように思えます。
これは中国側の方の意見ですが1959年のダライラマの亡命以降の中国主導による民主革命により、農奴制と地主至上主義は廃止され、社会主義制度が導入された。多くのチベット人は1961年から1965年を物質的生活の黄金時代と言っているといいます。
人間の意見には色々あります。チベットに圧倒的な数の貧しく敗者復活戦のない人々が旧体制ではいたことはたぶん事実でしょう。
開放され物質的な欲望達成の楽しさを知ってしまったその人達は現体制から旧体制への後戻りは出来ないと思います。

(2)チベット文化を守ること

講演中の臼井講師 しかし解放後のしばしの幸せのあと1966年から1977年の文化大革命は特にチベットには物質的のみならず精神的にも大きな損害を与えてしまったというのは定説です。
何百年骨にしみこんだ仏教文化を否定され、チベットのアイデンティティが否定されるような時代にチベットの支配階級ばかりか、庶民までが中国に対して怒りを示すようになりました。
これは中国の大失敗で、今では中央政府のその失敗を認めています。
特にトウ小平、胡耀邦、江沢民はいずれも中国の西部開発を重視しチベットの文化の回復、経済の活性化に力を入れています。
中国の中で独自の文化をもつ少数民族の自治区としてチベットを位置づけようとしているようです。
データで見ても実際に現在チベットの経済は急速に発展しています。2006年の経済成長は13.2%で前がひどいので中国全体の成長率より高い数字です。
ま生活水準の向上とともに人口増加が顕著で、教育の充実もかなり急ピッチで行われているようです。
私たちもいたるところで学校とそこへ通う子供たちの列を見ました。

(3)ダライラマ亡命政府の扱い

今チベットが亡命政府をかついで独立するというのは国際関係から言っても難しいと思います。
どこの国も少数民族の問題をかかえており、真剣に賛成する国はひとつもないのではないでしょうか?
人材的にも国民の支持からいっても現実には難しい問題が多すぎる。
亡命中のダライラマ14世も「独立を要求するのではなく統一中国の主権下における『自治』という要求」に変わってきています。 亡命政府は亡命していて世界中の支援者に助けられ、チベット文化の維持とチベット民族の自主を訴え続けるべきでしょう。そうすれば中国もその世論への影響を無視できず、現在のチベットの文化の尊重、チベット人自治の流れを減速させることはないのではないでしょうか。
そういう意味で亡命政府の存在はチベット文化をささえるための力になり続けるような気がしますし、個人レベルですが応援をしていきたいと思います。

(4)チベットの世界的価値

封建制度のもとで庶民の犠牲とあきらめの気持ちの上に花開いたとはいえ、チベットの仏教はいまや世界をリードし、持続可能な社会を目指す国際社会の中で、価値転換の理論的よりどころにもなろうとしています。
特にチベットに色濃く残り広く信じられている、転生の思想、人間の死にたいする考え方は今後世界中に広まり影響を与えるのではないでしょうか。

チベットには仏典で「バルド・ドドゥル(チベット死者の書)」というお経があります。
埋蔵経と言われます。奥書によればは紀元8、9世紀にインドの僧パドマサンバァが著しダルマ王の迫害時代に埋蔵され、これをパドマサンバァの5回目の再生者である、カルマリンバという修行者がガムポリ山から発見したと伝えられています。

このお経は死に直面している人の枕元で読まれ、魂が転生すると言われる死後49日間読み続けられるもので、人間が死ぬと光に導かれ「バルド」という別の状態に入っていくこと、バルドの状態から次の転生のために死んでから49日間の死者の魂が注意すべきことを書き記したものです。
現実にチベットではこのお経が枕元で現に読まれているとのことです。庶民はもちろん自ら転生者とするダライラマも信じているのです。
転生、霊魂の永続性を説く本の例 ダライラマ14世は「生の連続性を受け入れるならば、死はひとつの出来事にすぎず、服を着替えるのと変わりありません。死は単に人生の一部というだけでなく、より深い経験を試みるまたとない機会になります。こうした観点から死を見ていると、私は死に対してわくわくするような感情を味わうことさえあります。」と言っています。

この本はアメリカのエバンス・バンツによる翻訳で英訳され、世界中の人に読まれるようになりました。これを読んだハーバード大学元教授のT・レアリーはその死後の記述があまりにも臨死体験やLSD体験の内容と共通することに驚きました。
世界には臨死体験をした人がたくさん居ます。そして自分が転生し前世の記憶を持っているひともたくさん知られています。そしてこの事実を研究してまとめている学者もいます。チベット死者の書の内容はこれらに酷似しているのです。

私はこの夏、淺川嘉富の「生まれ変わりのメカニズム 人間死んだらどうなるの?」という本を読みました。臨死体験や前世の記憶をもつ人たちの証言を詳しく分析した本です。
科学的に証明はできないけれど、科学的に否定もできない、むしろ死後の意識が存在することを信じなければ信じられないような事実がたくさん述べられています。
宗教が「死への不安を取り払う」ためのものならば、なぜ人はこのような事実から目をそらすのでしょうか?
私は今後の世界中の人たちの精神生活へチベットの思想は恩恵になると思います。
こういうものは世界の宝として残していかなくてはなりません。

それとチベットの高く美しい空、すばらしい雲、山々、高原の景観です。これも世界の宝です。
俗な感想ですが観光資源では最高レベルのものがあります。
こういうすばらしい宝を持つチベットは、それを統治する中国にとっても大事な宝のはずです。
チベットの文化を残すことが価値を生むことになることに中国政府は気づいているはずです。
10年後訪れたとき今途上にある教育制度や農業の近代化、放牧の近代化などが完成し経済的にも豊かで、独自の精神的幸せを発信できるすばらしい自治区になって繁栄している姿を見たいと思っています。

参考文献 1.石濱裕美子著 永橋和雄写真 図説チベット歴史紀行 河出書房新社発行
2.ツルティム・ケサン/正木晃著 チベット密教 ちくま新書
3.山口瑞鳳 チベット 上下 東京大学出版会
4.近藤節夫 知研フォーラム チベットの旅とデモ騒乱事件
5.塩崎哲也レポート チベットの政治問題
6.河邑厚徳・林由香里 チベット死者の書 NHK出版
7.淺川嘉富 生まれ変わりのメカニズム 人間死んだらどうなるの? 中央アート出版


終わり


文責:臼井良雄
会場写真撮影:橋本 曜
現地写真撮影:臼井良雄
HTML制作:臼井良雄

本文はここまでです



このページの 先頭へ(0)

現在位置: ホーム(1) 講義録一覧 2007〜2009(2) >チベット紀行



個人情報保護方針アクセシ ビリティ・ポリシィ著作権、掲載情報等の転載、リ ンクについて連絡先

Copyright (c) 2005-2007 kandazatsugaku Organization. All rights reserved.