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神田雑学大学 平成20年10月3日 講座No426


タイトル画像、渥美清は詩人だった!〜風天俳句探しの旅、コラムニスト 森英介

目次

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1、プロフィール
2、はじめに
3、風天俳句探しの旅
4、豪華絢爛の句友たち
5、とっておきの秘話
6、風天句の代表作、話題作
7、渥美清にとって俳句とは何だったか?



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森 英介講師1、講師プロフィール

1939年9月、徳島県生まれ。1963年、早稲田大学卒業、同年毎日新聞社に入社し、大阪社会部、サンデー毎日編集次長、毎日グラフ編集長、出版局次長。(株)東京データネットワーク専務を経て、現在、コラムニスト、NPO法人ふるさと広報センター代表、(社)日本記者クラブ会員。 主な著書に『風天 渥美清のうた』(大空出版、2008年7月)、『優日雅―夏目雅子ふたたび』(実業之日本社、2004年9月)ほか。隔月刊誌『俳句αあるふぁ』(毎日新聞社)にコラム「俳句ちょっといい話」を13年間連載中。

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2、はじめに

映画「男はつらいよ」の主人公、フーテンの寅さんで知られる俳優の渥美清さんが転移性肺がんのため68歳で亡くなったのは、1996年8月4日のことでした。13回忌に当たる2008年の今年、その命日前後には、東京の「葛飾柴又寅さん記念館」と長野県小諸市の「渥美清こもろ寅さん会館」に大勢のファンが集まって献花式が営まれました。

その渥美さんが生前、「密かに」俳句作りを楽しんでいたことが初めて世間の人々に知れたのは、亡くなった直後のことでした。晩年、参加していた朝日新聞の週刊誌「アエラ」句会のメンバーが『アエラ』や『俳句朝日』誌上で追悼特集を組み、渥美さんの詠んだ45の俳句を公表したためでした。
 
この「アエラ句会」の仕掛け人で、渥美さんを句会に誘った当時の「アエラ」副編集長が私の古い記者仲間でした。従って、私は渥美さんが俳句をやっていたことは、渥美さんが元気なころから知っていました。
 
本「風天 渥美清のうた」私は若い頃、暴力団担当の事件記者をしたこともある社会部畑の育ちです。映画などの学芸記者でもなければ、俳句の専門家でもありません。そのただの俳句好きのシニアプータローが何故、会ったこともない渥美清の俳句の本を書くことになったか?「話芸の天才」はどんな俳句を作っていたか? 

私は今年6月末、その取材成果を『風天 渥美清のうた』(大空出版)という本にまとめて出版しましたが、今日はその「知られざる渥美清の俳句人生」の一端をお話させて頂きます。

蛇足ながら、本は発刊3ヶ月足らずで初版を完売し、重版しました。詳しいことは全部本に書いてありますので、是非ご一読下さいますように。

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3、風天俳句探しの旅

世界で一番短い詩型の俳句は「心の日記」とか「人生の履歴書」、はたまた「5・7・5の私小説」などと言われます。「俳句ほど作者を離れない文芸はない。一句一句に作者の顔が刻まれてある」と言ったのは、漂泊の俳人、種田山頭火でした。俳句は素人になればなるほど、過去の実体験を詠みます。俳句には作った人の心の内が自然と滲(にじ)むものです。

渥美清は、生前、公私を峻別し、どんな親しい友人にも私生活を全く明かさないことで有名な人でした。自宅に車で送られても、車は遠く離れたところに止めさせて一人で歩いて帰る。亡くなる前には家族に「オレが死んだら荼毘に付すまで世間には知らせるな」と言い残した。その渥美清が俳句を作っていた!

ひょっとしたら、俳句の中にその秘密が隠されているかもしれない。渥美清が遺した俳句を調べれば、ほとんど語らなかった私生活の思い出や若き日の心の原風景が見えてくるのではないか? そう思った私は、公表されたアエラ句会の45句以外の俳句を探し始めたのです。

最初に当たった映画会社「松竹」の関係者は、全くと言っていいほど、渥美清が俳句をやっていたことを知りませんでした。家族もほぼ同様。俳句をやっていた自体はご存知でしたが「どこの句会で、どなたと一緒だったかは何もわかりません」とおっしゃる。私は一時、途方に暮れました。

小諸寅さん会館 寅さん像ある時、小諸の「寅さん会館」や板橋区の渥美清の出身小学校などゆかりの地を方々訪ねました。そのどちらにも渥美さんが作ったと記された俳句があって大喜びしましたが、その俳句がどこで作られたのか? どんなルートで入手したのか? 10年という時間の経過もあって、詳しいことを知っている人がだれもいません。

期待と失望の繰り返しの中である時、ひょんなことからその糸がほぐれました。渥美清が参加していた句会が一つ、二つ、三つと次々判明し、170を超える未発表句に行き当たったのです。見えない糸をたぐるようにして歩いた、この「風天俳句探しの旅」の経緯は本に詳しく書きましたが、このくだりを「推理小説でも読む思い。筆者と一緒にワクワクしながら楽しんだ」と評してくれた人もいました。

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4、豪華絢爛の句友たち

関係者の話によると、渥美清が初めて句会に参加したのは1973年3月、45歳の時でした。結婚して4年目。映画「男はつらいよ」シリーズで最も人気の高かった浅丘ルリ子扮するリリーが初めて登場する第11作「寅次郎忘れな草」が公開された年です。

その句会は、当時、若者を中心に熱狂的に支持されていた雑誌『話の特集』の執筆者を中心にした句会でした。1965年に創刊、全盛期には20万部の部数を誇ったこの雑誌は30年目の95年に「休刊」になりましたが、句会だけは今も延々と続いている。その事務局にワープロで打たれた渥美清の在籍中の135句が残っていたのです。


句会に参加してる渥美清さん


主宰者の矢崎泰久元編集長によると、創刊メンバーのイラストレーターの和田誠さんらとともに「何か面白いことやろうよ」と始めたもので、渥美さんは、友人の永六輔さんに連れられて入会しました。「俳句をやる以上は俳号がなければ!」と言って、みんなから“フーテンの寅”だからやっぱり“風天“だな」と俳号が出来たそうです。

この句会のメンバーがすごい顔ぶれでした。今やプロ俳人と言われる小澤昭一さんを始め、黒柳徹子、山本直純、草森紳一、岸田今日子、冨士眞奈美、浅井慎平、山藤章二、岩城宏之、中村八大、吉永小百合、色川武大などの各氏。もっとも新しい俵万智さんや黛まどかさんまで含めると累計5〜60人にも及ぶ豪華絢爛な会員です。

著名人の句会では、落語家の入船亭扇橋さんを中心に小澤昭一さんや永六輔さんも参加する「東京やなぎ句会」が有名で、『友あり駄句あり三十年』(日経新聞社)という抱腹絶倒の共著がありますが、「話の特集句会」にはこの手の俳句本は一冊もありません。出版社から何回も声がかかったそうですが、何しろ個性派の大物ぞろい、なかなか意見がまとまらないんだそうです。

一般的に言って、句会には、宗匠と呼ばれる指導者を中心に切磋琢磨する真面目句会と宗匠なし、会員横一線で遊びの性格が強い句会に大別されます。「話の特集句会」はもちろん後者の「遊俳」お遊び句会でした。

私はこの「話の特集句会」と「アエラ句会」の主要メンバーのほか、渥美さんの人生の節目、節目の人たちを探し出して片端から会いました。小学校時代の同級生、若い頃結核で入院していた病院の仲間たちなどに、集めた風天俳句のコピーを事前に送り「あなたの記憶にある情景や事柄が読まれた俳句はありますか?」と質問をして回ったのです。皆さん、遠い記憶を探りながら思い出話をたくさん聞かせてくれました。中には「あ、これはあのときの情景に違いない!」と叫ぶ人もいて、私の予測が的はずれでなかったことが証明されました。
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5、とっておきの秘話

国民的人気俳優だった渥美清に関する本は、これまで数多く出版されています。寅さんファンにとって資料的価値の高いバイブル的存在は、井上ひさし監修の『寅さん大全』(筑摩書房)、初期のテレビ時代から親交が深く、渥美清の綿密な評伝として評価の高い小林信彦著の『おかしな男』(新潮社)はよく知られています。

私の本は、これまでほとんど書かれなかった俳句とその周辺を追ったルポルタージュですが、新聞記者的に言えば本邦初公開のささやかなスクープもあります。今日はそのうちの二つだけを紹介しましょう。

アクセントボタン四角尾崎放哉をやりたがった本当の理由

一つは、渥美清が俳人尾崎放哉を演じたがっていた本当の理由です。これは長年、仕事を離れた親友でもあったNHKドラマ「夢千代日記」の脚本家、早坂暁さんの証言です。

 早坂さんは「男はつらいよ」が大ヒットして10作を超えたころから「渥美ちゃんは役者としてすごい鉱脈を持っている。当たれば当たるほどやめられなくなる。寅さんから早く逃げろ!」と言い続けていました。その「忠告」に一度も耳を貸さなかった渥美清が、シリーズが40作を超えたころ「尾崎放哉をやりたい」と自分から言ってきた。

驚きながら理由を聞いた早坂さんに渥美清はこう答えたそうです。
「放哉の晩年を描いた作家、吉村昭の小説『海も暮れきる』を読んだ。放哉は結核患者だった。自分も結核で苦しんだ。放哉には“咳(せき)をしても一人”という有名な句がある。結核患者の咳は普通の咳ではない。経験者でなければ分からぬ「音叉」(おんさ)で響くような咳だ。この役には自信がある」
音叉とは、鋼鉄で出来た棒をU字型に曲げ、中央に柄を付けた発音体。たたくと振動数の一定した音を発するので音の実験や楽器の調律に用いられる道具です。

熱心に話を聞く受講生

早坂さんはNHKに話を持ち込み、渥美清と一緒に放哉終焉の地である香川県の小豆島までロケハンに行くのですが、あっと驚く事情が待ちかまえていてドラマは実現しませんでした。「それでは」と早坂さんが持ちかけた同じ漂泊の俳人・種田山頭火のドラマ企画も半月に及ぶロケハンを終えて、ロケ本番の一週間前に渥美清からドタキャンがあってこれも実現しませんでした。

渥美清が山頭火や放哉を演じたがっていた、という話は漠然と知られていましたが、「音叉のような咳」という具体的な話は初めて聞くエピソード。私はまずもって渥美清の役者魂に驚きました。そして寅さん以外の役に挑戦すべきかどうか? という役者としての悩み、苦しみ、葛藤を強く感じて胸を打たれました。

アクセントボタン四角寅さんと山頭火が出会ったら?

もう一つは、山田洋次監督の話。
渥美さんが俳句をやっていたことをほとんどの人が知らなかった松竹の関係者の中で、山田監督だけは、それを早くから知っていた。さすがでね。山田監督は撮影の合間、次の物語の構想についてよく話し込んだ渥美清に、あるとき、寅さんが旅先で山頭火みたいな放浪のお坊さんと一緒になったらどうなるかな、と言ったことがあります。

寅さんはそのみすぼらしいお坊さんを哀れがって、なけなしの金をはたいてご馳走したりするが、旅を続けるうちに坊さんが自分の句を披露する。寅さんが「そんなのダメだよ」と言ってけなすと、坊さんは「じゃあどんなのがいいんだ」と聞き返すと寅はその場で思いつきを口にする。実はそのお坊さんは、俳句の大家なんだけれども、寅さんの句に感心して「あんた俳人になれるよ」と言う。

「そんなときに寅が口ずさむ句はどんな句かな?」と山田監督が聞くと渥美清は「そりゃあ、こんなんでしょうね」と即座に一句作ってみせた。山田監督はその句を正確に覚えていなかったのですが「飲み過ぎて下痢をしたら夕べ食べたトマトの種がウンコの中にいっぱいあった」という内容だったそうです(笑い)。

この話にはまだまだ続きがあって最後のオチも面白いのですが、山田監督は「ウンコ俳句」のくだりで笑いが止まらなくなって、私のインタビューはしばらく中断したほどでした。

「男はつらいよ」には、寅さんが一流の芸術家と出会って繰り広げる楽しい物語がいくつかありました。ちなみに、私のご贔屓は、マドンナが芸者ぼたんの太地喜和子、ゲスト俳優が日本画の大家役だった宇野重吉の第17作「寅次郎夕焼け小焼け」です。山頭火との出会いはさぞ面白く、寅さんファンならずとも「見たかった」と思うだろう愉快な思い出話でした。

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6、風天句の代表作、話題作

それでは、渥美風天はどんな俳句を作っていたかという話に移ります。
以下は話題作と著名な句友たちを中心にそれぞれ選んでもらった代表作です。数字はその句を作ったときの年月と渥美清の年齢。黒丸ボタン印のお名前はその句の主な推薦者。私の好きな句は「お遍路」の句です。


   さくら幸せにナッテオクレヨ寅次郎=1973年3月、45歳
   (話の特集句会に初めて参加した日の作。妹さくらが季語でもある)

   コスモスひょろりふたおやもういない =1973年8月、45歳
  黒丸ボタン金子兜太(俳人)、大串章(俳人)=(朝日新聞「朝日俳壇」08年7月21日朝刊)

   好きだから強くぶつけた雪合戦 =1973年11月、45歳
  黒丸ボタン矢崎泰久(話の特集編集長)、小澤昭一(俳優)

   ゆうべの台風どこに居たちょうちょ =1974年8月、46歳
  黒丸ボタン小澤昭一(俳優)、村上護(作家)=08年9月4日愛媛新聞他

   蓋あけたような天で九月かな =1975年9月、47歳
  黒丸ボタン和田誠(イラストレーター)

   朝寝して寝返り打てば昼寝かな =1975年ごろ、47歳
  黒丸ボタン中村裕(俳人)(文春新書『俳句鑑賞450番勝負』)

   村の子がくれた林檎ひとつ旅いそぐ =1991年10月、63歳
  黒丸ボタン山田洋次(映画監督)

   赤とんぼじっとしたま明日どうする =1991年10月、63歳
  黒丸ボタン清水哲男(詩人)(インターネット「増殖する俳句歳時記」)

   やわらかく浴衣着る女のび熱かな =1992年6月、64歳
  黒丸ボタン早坂暁(シナリオライター)

   お遍路が一列に行く虹の中 =1994年6月、66歳
   (講談社『カラー版新日本大歳時記』掲載句)
  黒丸ボタン村上護(作家)、黒柳徹子(女優)(毎日新聞08年7月24日夕刊)

   花道に降る春雨や音もなく  =1995年1月、67歳
   (亡くなる1年前の作。付き人にがんを打ち明けた時期と重なる)
  黒丸ボタン読売新聞「編集手帳」子(08年6月24日朝刊)


7、渥美清にとって俳句とは何だったか?

風天俳句の特徴は、難解な言葉は一つもなく、句意が明快であることです。プロ俳人の中には「素材だけを投げ出してあるかに見える」と技術的な問題を指摘する人もいます。しかし、ストレートに気持ちをぶつけ、心の内を吐露した句の数々に私は胸を打たれます。

よく出てくるフレーズは、おでん屋、植木屋、豆腐屋、げんのしょうこ、打ち水、新内流し、ラムネ、ボート屋、竹馬など古きよき時代の昭和の下町文化のキーワードが多い。「げんのしょうこ」は「現の証拠」と書きます。古い方なら子供のころ何かの病気でお世話になったこともある薬の名前です。

そこに「いつだって/誰もいない/どこへゆく/しかたない/これからどうする/ぽつんと」など風天流の孤独と寂寥がない交ぜになった表現がかぶさります。「男はつらいよ」でお馴染み、得意の啖呵売(たんかばい)を思わせる自由奔放、巧みな比喩、ユーモアとペーソスなどサービス精神あふれる寅さんの顔も散りばめられています。

講演風景、森 英介講師

「渥美さんの句はぽっかりして大きい句。その空間や景色が目に浮かぶ句が多い。妙にひねくり回していないのがいいですね。諸行無常を感じさせる句もある。でも寂しいけれどさわやかな風が吹いています」こんな感想を述べてくれたのは、句友だった声優の白石冬美さんでした。

渥美清は本名・田所康雄。1928年3月、現在の東京台東区東上野の生まれ。学校にも弁当を持って行けなかった極貧の小学校時代、肺結核で片肺を失った下積み役者の20代。国民注視の人気者・車寅次郎を演じながら人知れずがんと闘っていた晩年。無類の読書家で芝居や映画の「見巧者」だった渥美清にとって、俳句は唯一とも言える趣味であり、気の置けない仲間との句会は心の安らぎの場だった。

風天俳句を探す旅の途中で出会った小澤昭一さんに私はこんな忠告を受けました。
「句会は友達と茶話会をやる感じ。よけいなお世話だろうけど、俳句を使って渥美清論をやろうというのは、砂上の楼閣みたいなもの。寅次郎は出てきても渥美清は出てきませんよ」
ひとまずの旅を終わった今、私は「確かにその通りでした。でも、田所康雄の素顔も見えましたよ。集めてみてよかった」と申し上げたい気持ちでいっぱいです。

写真説明
1、アエラ句会でメモを片手に作句する渥美清さん。
2、玄関前に寅さん像がある長野県小諸市の「渥美清こもろ寅さん会館」。前に立つのは、渥美さんと親しかった井出勢可館長。





講座企画・運営:吉田源司
文責:森 英介
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


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