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2008.10.17神田雑学大学定例講座No.428


表題 昭和っ子の詩、心のふるさと


講師名 鈴木一郎
 
神田雑学大学理事長



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はじめに

おいたち

開 戦

戦中の食生活

節米料理

隣組と共同炊事

米の配給制はじまる

野菜の経済的食べ方

戦後の食生活

卓袱台の向こう側

石川光陽さん
(警視庁カメラマン)の証言

新学制開始

少年倶楽部から少年クラブへ

紙芝居を追って

盛り場

夕方はラジオに釘付け

マンガ、絵物語

復興へ

最後に朗読と合唱 




鈴木一郎さんの顔  


17、8年前、吉祥寺村立雑学大学で講座を持って以来自分史や趣味の話を続けています。神田雑学大学発足時の2000年1月21日(講座No.8)「古賀メロディで復活」で、太平洋戦争時の世相を古賀メロディに載せてお届けしました。今回は千代田図書館との協力で昭和期の食と児童文化を回想致します。







・おいたち

…戦色濃い昭和14年5月千葉県木更津に生れ東京世田谷、目黒で育ちました。 昭和13年7月、2年後に開催予定だった東京オリンピックの返上が閣議決定。 13年12月渋谷に銀座線乗入れ。14年1月15日の場所で双葉山が安芸の海に70連勝を阻まれました。 昭和一桁の人々は年齢より若く見られますが、結局は栄養不足で発育が遅れたのではないでしょうか? 日本人の体位(14歳)は昭和28年辺りが最低です。

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・開 戦

グリコ日記

―僕の見た太平洋戦争―
小島吉孝(12歳) 学生社刊より

昭和16年12月8日(月) こつこつと先生が入ってこられたので、僕は組内の者に、気をつけ をかけた。 先生は入るや「日本は英国、米国へ宣戦した」といわれた。 体操の時間に上海にいた米英砲艦の運命をいわれた。我々は皆はくしゅして喜んだ。号外が飛びラジオは叫ぶ。昼、学校のラジオの前にあつまって戦争の様子をきく。夜は警戒かんせいに入った。

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・戦中の食生活

…空襲が激しくなり木更津に疎開しました。美味しかったのは、米の握り飯、夕飯前に釜の底のお焦げ混じりの飯を握ってもらったこと。畑の野菜はもいでそのまま食べました。その頃、野菜は葉まで、果物は皮まで食べました。兵隊さんの携帯食(乾パン、羊羹)を戴き美味しかったです。アイスクリーム、バナナは病気の時だけ。

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・節米料理

斉藤美奈子「戦下のレシピ」岩波書店刊 より

節米とは、米を節約して食べようという意味です。

1.増量法:混ぜ飯、炊き込み飯、粥、雑炊などナンでも混ぜ増量します。

2.代用食:すいとん、団子、パン、麺飯丼(米の替わりにうどん)

3.献立法:いも、かぼちゃ、穀類(蕎麦、うどん)だけで済ませます。

4.興亜パン:メリケン粉に大豆、海藻の粉末、魚粉などに野菜を混ぜた蒸しパン。

5.国策炊き…米1升に水2升。熱湯に洗わない米を入れ再度煮立てる。ちょろちょろと50分炊いて、表面にボツボツ孔があいてふっくらしたら完成です。

6.楠公飯…強火で炙った玄米1升を水2升にいれ、1夜寝かします。水を吸って盛り上がったら、更に水5合で普通に炊きあげます。いずれも嵩が増えるだけ。

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・隣組と共同炊事

…隣組は国民統制に一環として昭和15年に制度化。10世帯前後を1単位とした行政の末端組織。防火訓錬、金属供出、貯蓄奨励、そして共同炊事などを実施しました。共同炊事は、食材を持ち寄り炊事を当番制で数世帯分を週3、4回夕食を主体に炊事します。

献立の例(婦人の友 昭和18年10月号「共同炊事の手引き」より)

1.田園調布:のしいかと野菜の塩煮。胡瓜の餡かけ。

2.江古田:ライスカレー。茄子の煮つけ。塩こぶ。

3.練馬南町:じゃがいもボール。末広ごぼう。茄子と茗荷の塩もみ。

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・米の配給制はじまる

昭和15,6年配給制が実施されました。16年配給量1日当たり330g。 17年白米禁止、5から7分焚き、混ぜ飯奨励。18年玄米食。 19年軍隊でも混ぜ飯。終戦後、20年収穫量昭和期最低、5月米よこせデモ。都内19日遅配。 京浜地帯で1,300人餓死。21年は21日遅配、または欠配。庶民は、食料買い出しに必死でした。

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・野菜の経済的食べ方

1.生で食べる…燃料節約、煮減りをしない。

2.乾燥させる…保存可能、水で簡単に戻る。

3.すべて食べる…野菜、雑草、昆虫、茶殻、魚粉まで、食べられるものはナンでも食べる。

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・戦後の食生活

…G.I.から貰った食パンが真っ白で甘くてお菓子みたいでした。サツマイモはご飯、お菓子として戦後の主役、いろんな地方の味を食べわけました。 蒸かしパン、すいとん、魚はアラまでキレイに食べました。 マルハの船員の小父さんが届けてくれた鯨肉は最高の部位でご馳走でした。

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・卓袱台の向こう側

…昭和21年朝日カメラマン影山さん宅の食事風景です。自家 菜園で収穫した麦を混ぜたご飯(久しぶりのご馳走)ですが、この時赤ん坊 だった末っ子の男子はその後栄養失調と病気で亡くなりました。 いちばん弱いものが犠牲になる戦争の悲惨さがにじみ出ています。 10年後の昭和31年、成長した家族が囲む食卓には、果物、ケーキ、コーヒー など、電動ミキサーも見えます。

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・石川光陽さん(警視庁カメラマン)の証言

 「昭和の東京―あのころの街と風俗」(朝日新聞社刊)より
昭和20年7月13日(金)

食糧事情の緊迫度愈々深刻となってきた。配給は1割減となり、おまけに食われもせぬとうもろこしやわけの判らぬ粉大豆などの代替が7割以上という状態。 何も分からぬ子供達にだけはせめて充分にとおもふ親心より欲するままに与えておるが、それが忽ち親達へ影響してこちらが頂こうと思ふ頃は精々茶碗に軽く一杯だ。

朝は漬物だけ、昼は塩味の雑炊、夜は野菜のスープがそれも油気も塩気もない屁みたいなもの、全く情けない限りだ。いつかの新聞に蛇、とかげ、かたつむり、なめくじもおいしく食べられますという調理方が書いてあった。大抵の奴は下痢している…下痢はあたりまへだと皆すましている。餓死するまでにまだ間があろう。一度腹いっぱい食はぬことには一寸死なれない。

昭和21年冬

このころは、食糧も衣料も燃料も配給制、それだけでは食べていけないので遠くまで買い出しに歩きました。友人をたよって信州の松本まで出かけました。訪ねると、皆に連絡してくれまして、たらいに一人づつお米を入れてくれるのです。嬉しかったですね。 それを袋にうつしかえて帰るのですが、上野駅で闇米の取締りをやってましてね。車掌室にかくしてもらったのを覚えています。

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・新学制開始

学齢に達し昭和21年4月、国民学校の門をくぐりました。 まずやらされたのは、教科書の墨塗り。修身社会などは全面真っ黒になりました。 新教科書といっても、新聞紙大のわら半紙を切って、糸で縫って造りました。 2学期から新学制となって小学校となりました。給食の時間が待ちどうしかったのを覚えています。コッペパンに脱脂乳、野菜スープなどが多かった記憶があります。

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・少年倶楽部から少年クラブへ

鈴木一郎さんの顔 はじめて読んだ記事は知恵の豆記事ダイヤモンドです。
少年倶楽部 昭和12年8月号(講談社刊)より
「大根にこのはたらき」(医学博士 有本邦太郎)

食べすぎ等に消化を助ける大根は、ビタミンCを含んでいます。ビタミンCは赤ちゃんの発育を助けたり壊血病になるのを防ぎ、虫歯を予防するはたらきもします。 大根のビタミンCは、皮に近い部分に多いのですから、大根卸しには皮ごと卸した方がよろしい。

又皮をむくにしても、ごくうすくむくようにして下さい。 こういった記事が付録にもついていて、自分も大根卸しを食べて元気になろうと努力しました。その他、新年号は15大付録など胸をときめかして待ったものです。 その他の付録の実例を写真で紹介。

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・紙芝居を追って

夕方拍子木や太鼓で子供を集め、紙芝居屋が辻々で店を開きます。飴とせんべいを買って見るのですが、衛生に悪いと買ってもらえず、最後列で只で見ておじさんに睨まれていました。小学校の帰りに紙芝居のハシゴをしました。

昭和14年から22年までが黄金バット(鈴木一郎作)の全盛時代、他には西部劇、探偵もの、妖怪もの、御涙ものなど多彩な内容でした。因みに紙芝居は、江戸時代のあやつり人形が大衆化し、紙人形で演じられのが、紙(人形)芝居といわれたのがはじめで、 その後人形が紙の絵に替わったそうです。活動弁士がトーキーで職を失ったため 紙芝居屋に転向した人が多かったと云われます。

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・盛り場

都電が走る昭和30年代の神保町、銀座4丁目角を闊歩するG.I.と背景はP.X.となった服部時計店、焼け野原の渋谷道玄坂、そしてハチ公銅像前。 忠犬は、ハチ公とタマ公がいました。タマ公は新潟駅コンコースに銅像があります。

二度にわたり主人一行を雪崩の下から血まみれになりながら救った名犬です。 ハチ公は東大教授のご主人を何時までも待っている姿は教科書にも載りました。 でも、ご主人を待っていただけでなく、近くの焼鳥屋の肉を人々がくれるから 待っていたんだという噂もあります。

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・夕方はラジオに釘付け

テレビ放送のない20年代はラジオ放送の全盛時代でした。「街頭録音」「素人のど自慢」「二十の扉」「とんち教室」など、それに放送劇が待ちどうしかったことを覚えています。 おラァ、三太だ!ではじまる「三太物語」、徳川夢声と七尾玲子の「西遊記」、阿里道子と久米明の「えり子とともに」、黒柳徹子がデビューした「やん坊にん坊とん坊」、「ジロリンタン物語」、北村寿夫作「新諸国物語」は、笛吹き童子、紅孔雀などその後、東映時代劇で復活しました。

なかでも、「鐘の鳴る丘」は、昭和22年から25年まで790回の放送で、作者菊田一夫は昭和27年からはじまった「君の名は」で大ブレーク。内容はガード下の浮浪児たちを信州の「少年の家」に住まわせる努力をする青年の話です。

古関裕而のパイプオルガンに載せて、「みかんの花咲く丘」の川田正子が音羽ゆりかご会の子供達と歌う主題歌は「とんがり帽子」です。昭和23年から24年に三度松竹で映画化され、主役の青年は佐田啓二です。「三太物語」も昭和26年井川邦子の花荻先生で映画化されました。

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・マンガ、絵物語

戦後朝日新聞連載「ブロンディ」の夫ダグウッドが就寝前、眠れないからとキッチンで、特大サンドイッチを食べるシーンに涎が出ました。フクちゃん、サザエさん、いじわるばぁさん、不思議な国のプッチャー、のらくろ、あんみつ姫、リボンの騎士、河童天国、ちびっこギャングなど楽しいひとときが思い出されます。

紙芝居師が転向して、「冒険王」「面白ブック」などに連載された絵物語はその後現在のアニメに発展致しました。「少年王者」「少年ケニヤ」「大平原児」「砂漠の魔王」その他 時代ものなどなど。手塚治虫は、「新宝島」「失われた世界」など一世を風靡しました。

熱心に聞き入る皆さん

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・復興へ

貧しい終戦直後を生きぬいて昭和26年朝鮮戦争の特需景気をきっかけに復興の兆しが出てきました。 私の小学校6年の日記です。    昭和26年9月5日(水)晴  今日僕は日直だった。朝早く家を出て学校にいった。席の入れ替えなどあり、午後掃除をして帰った。今日の一番のニュースは講和条約ちょういん会議の開会式が海の向こうのサンフランシスコであったことだ。新聞やラジオはそのことでもちきりだった。


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・最後に朗読と合唱

幼年クラブ(昭和21年7月号講談社刊)に載った大仏次郎作「小猫の見たこと」 小猫は風に吹かれていて、急に鼻をピクピク動かしました。「人間だな?たばこの匂いがする」人間は小猫が思ったよりもゆっくりと歩いてきました。

この人はしげしげと路地を見ました。そして塀の上の小猫を見ると「猫か」とひとりごとを言いました。そして、なにを思ったのか、猫の鳴き声をまねました。なんとなく、小猫はその人が気の毒になりました。猫のまねなんかして、心の優しいよい人に違いないのでした。

右側の一軒の家の門口に立ち止まると、「おおい」と大声で呼びました。小猫が聞いていても嬉しそうな声でした。 「どなたです?」「千代か?俺だ。やっと、帰ってきた。開けてくれ」家の中から女の人が気でも違ったように甲高く答えました。 「あなた、あなたですって。初男、美代子、みんなお起き。御父さんだよ、御父さんの御帰りだよ」

女の人の泣く声がしたかと思うと、家の中がどたばたと、まるで喧嘩でも始めたように騒々しくなって、ぱっと電灯がついたのが窓に映りました。「御父さんだ。御父さんだ」戸がガラガラと開きました。兵隊さんは黙って入っていきました。家の中でしっかりというのが聞こえました。

「泣くな、泣くな。泣いたら、帰れなかった人にすまない。しっかりしなけりゃいけない。 悪い世の中はもうおわったんだから。もう、いい」 月明かりの道を小猫は帰ってゆきました。さあ、わたしも寝ようと目をつぶりかけた時、いまの兵隊さんが「にゃあお」と嬉しそうに泣く真似をしたことを思いだしました。その猫の真似は、実に下手でした。

しかし、如何にも嬉しそうだったのです。小猫はやはり人間って悪くないもののようだと感心するのでした。 そして、うとうとと眠って、ひらひらするちょうちょの夢を見始めるのでした。

さぁ、最後に懐かしい「とんがり帽子」を皆さんで合唱致しましょう。     

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おわり

(文責 鈴木 一郎)    


 写真撮影:橋本 曜 ・ HTML制作:上野 治子

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