現在位置: ホーム(1)講義録一覧 2007〜2009(2) > 中国の古寺巡礼の旅

WEBアクセシビリティ対応
ページの先頭です

平成20年11月7日 神田雑学大学定例講座NO431


タイトル中国古寺巡礼の旅 講師の名前 田中瑛也さん



田中瑛也さんの顔写真

●石窟寺院篇  敦煌―雲崗―龍門

インドより中国に渡来した仏教は、中国の風土、民族に順応し独自の中国仏教を、形成しやがて朝鮮半島を経由して、あるいは、海路を通じて直接我が国に伝来したのは、周知の事実であり、東アジアの諸国民の精神的支柱を形成するに大いに その役割を果たしたのであります。

今回取り上げる石窟寺院は、日本の寺院に見られない中国独自の世界遺産であります。石の文化・の文化シリーズとしては石の文化編として論旨を進めさせて戴きます。


●中国人の宗教

中国人の思想として我々は先ず思い浮かべるのは、儒家の思想即ち孔子の教えでありますが、より深く漢民族の思想の根幹は、?老思想であります。先歴史時代から古代神話として彼等に伝承されている伏義、神農、皇帝の教えであり、この思想に多大な影響を老子が受け、道徳経なる著を著し後世に伝わった道家の源となりました。

鶏鳴狗盗の故事で知られる函谷関にほど近く太初宮に老子は祀られ、今日に至るも多くの人々が参詣に訪れます。 しかし春秋戦国時代生まれた孔子の思想は、儒教として中国を中心とした東アジア文化圏に広まり、宗教としての儒教としてよりも、学問としての儒家を生み出し、後年宋の時代に朱子学として韓国、日本の思想体系に寄与したのであります。

今回取り上げる仏教は、インドで生まれた釈迦をご本尊として派生した宗教として、玄奘三蔵をはじめとして、多くの名僧に拠って中国にもたらされた宗教であります。と同時に北方民族である鮮卑族、匈奴族等の漢民族との攻防侵略の間を通じて中国へと伝来しました。

なお話題を大きくすれば、景教といわれるキリスト教、回族が信奉するイスラム教も、地域的に信仰されている民俗信仰も あるが、論究の場を今回は外します。仏教の中国人のステイタスは、オリエントに生まれたキリスト教が、西欧人の思想の根幹を形成した史実に好一対をなします。ここで注目すべきは、中国人の包容力であります。

少し話題は本題から離れますが、中国史上国家を支配する皇帝は、漢民族と異民族との政権交代で運営されてきました。しかし中心となる漢民族は、歴史の推移を大きく見て、すべて異民族の文化が漢化して世に広まるとの考え を貫き保持しました。例えばサンスクリットの原典の経文が漢文にされて朝鮮、日本に伝える。他の習俗にも礼儀作法等にその例証は見られます。


このページの先頭へ

●中国寺院の特色

中国寺院の多くは木造寺院が主であり、部分的に粘土、組積造、石造も見受けられますが、北方から伝わる土を主体とした建築様式、南方から伝わる木を主資材とした建築工法に則ったものであります。中国大陸に存在する二面性、交通手段としてよく例に挙げられる南船北馬との普遍性をここに観るのであります。今回取り上げる石窟寺院は、中国文化の相対性を著す最も顕著な例として、仏像に表現された石と木の文化の内、石の文化を顕しています。

中国寺院建築の特色は、石の建築ではその例は顕著に見られませんが、木造建築では、軒先部分を形成する斗?にあり、二斗先、三斗先と豪華さを顕しますが、今回はその例には触れません。その対比を西欧建築に求めるなら、柱頭の装飾、ドリア、イオニア、コリント式の装飾が当てはまる。その建築様式の西と東の区分は、材質、建築本体の土か、木かの材質の問題も絡んで、限 界は大きくインドとイラン、中央アジアの混然とした地帯が分岐点をなしています。

このページの先頭へ


                                      雲崗 石窟 外観 雲崗 石窟 外観の写真

●石窟寺院

中国での石窟は、数多く存在しますが、今回 取り上げる石窟寺院は、世界遺産にも登録されている敦煌、雲崗、龍門に限定します。

西欧のキリスト教のローマ帝国に公認される過程での、支配者に蹂躙、抑圧との史実に類似性を見いだす、異教徒の宗教としての漢民族の受容、秘教としての仏教の立場は、都邑に寺院は建立出来ず、密かに岩窟に隠り、ひたすら仏を彫り、岩壁に仏絵を描き祈りを捧げたのであります。

岩窟が掘られた要因の一つに鉄の製造技術があります。中国は、森林地帯は四川、雲南省等を除いて概して言えば、文化の発達した地帯には、丘陵地帯には森林は少ない。

                             雲崗 第2号室 主尊  雲崗 第2号室 主尊の写真
その理由の一つに、鉄の製造に木としての燃料資源に当て、乱伐を行いその後に植林作業を怠ったからであります。因みに鉄により鑿が作られる以前は、石の中でも最も硬度の高い黒曜石の尖りをもちいて石灰石等の柔らかい岩肌に仏を刻んだ。

敦煌石窟は、岩が礫岩で硬度が高いので石仏は掘れず、石室空間には粘土で作られた仏が遺され、岩壁にはフレスコ画と呼ばれる手法によって描かれた仏画か描かれていることに注目したいと思います。

トルコの中央高原に遺されたカッパドキアの岩窟群、その岩窟内の壁に描かれたギリシャ正教としてのキリスト教の宗教画、信仰対象は異なりますが、歴史的過程と芸術的価値に東西文化の普遍性の一つを見いだすのであります。


このページの先頭へ

●敦 煌

莫高窟 修行で創る芸術画像 敦煌市の南東25Km、鳴沙山の山腹に開削した、あるいは自然の洞窟を改修して莫高窟と名付けられた石窟群は、A.D366年に当地の修行僧楽伝が山肌を開削したのを祖としています。

悠久の歴史を持つ中国は、四方を異民族に包囲されている地理的条件によって、絶えず異民族の自国への侵略に対する防衛、と同時に自国民が持つ領土拡張 への野望とで、歴史の大半を戦乱の史として費やしました。シルク・ロードの地では、西北異民族、ウイグル、匈奴、大苑、大月氏国等多民族との抗争が繰り返されました。

熱心な仏教徒は、市中に仏寺を建立し仏像を安置し、仏門に入り仏に帰依することを願ったのですが、度重なる戦乱で寺は焼き払われ、誓願は果たされなかった。そこで僧達は、山を開削し窟に入り菩提心をもって壁面に、この世ならぬあの世、極楽浄土、釈迦の前世話仏の御姿を描き、室内空間には、粘土による塑像を制作して安置して、人々への安心立命を願いました。

熱心に聞き入る聴講生 我が国の文豪夏目漱石の門下生で、久米正雄の名作「破船」に登場する主人公のモデルといわれる松岡譲が著した「敦煌物語」などの著作を通じてかすかに日本人の心の中に莫高窟の中の壁画は、飛鳥法隆寺壁画のルーツであるとの思いを秘めております。

今シルク・ロードへの観光ブームで、世に莫高窟は世界遺産にも登録され、脚光を浴びています。この窟が有する石室の数は、735室の多くを数える。4世紀後半から壁画は描き始められ、北巍、随、唐、五代、元と描き続けられました。壁画は描かれた石室の規模は、長さ1.8kmの範囲、壁画の総面積4万5000Km2、塑像は2000体を数えます。

修行僧が、仏に祈る心を筆に託して創作した壁画だけに、内部に入ると現世の悪に汚された心も、次第次第に清浄心に浄化される思いに浸るのであります。印象に残る壁画は枚挙にいとまがないのですが、とりわけ第130窟に安置された高さ26mの大仏、15mの脇侍の菩薩像、天井に描かれた飛天の舞姿は、三次元芸術と二次元芸術との見事なコポレーションが感じられます。

ついで57窟の菩薩像のアルカイックスマイルの和やかな笑み、画家平山郁夫氏推奨の壁画、275窟の交脚弥勒菩薩との出会い、思わず稽首、頭を垂れさせる神々しさを感じさせられます。他にも心に残る壁画、塑像は無数にあります。

                                  敦煌 莫高窟 九層楼 敦煌 莫高窟 九層楼の写真
ただ石窟内は撮影禁止、スライドも販売しておらず、見る人の心に御仏の御像を刻めておけとの仏教根本の教えなのか。販売されている写真集等にも、石室の全ての壁画は網羅されていません。その要因は。

十九世紀後半から二十世紀前半にかけて、中国政府の国力衰退期に乗じて、未知なる土地シルク・ロードへの探検隊をヨーロッパ先進諸国が組み、壁画をはぎ取り、塑像を略奪し持ち去った苦い歴史の体験が壁画を鑑賞する人々への厳しい態度となりました。

無論壁画の保存への配慮も考えてのことでもあります。その根拠は一般に公開されている敦煌石室は、40室に過ぎないとは、如実に現実は示しております。「砂漠の大画廊」と呼ばれるに相応しい莫高窟も石窟中央に築かれた九層楼外観のみの写真を納めて寂しく立ち去ったのでした


このページの先頭へ

●雲 崗

雲崗石窟 北巍の威信誇示  既述した敦煌石窟はこれから述べる雲崗、龍門石窟に比べて規模、石窟の室数ともに格段に勝るものがあります。中原の土地から遠く離れていて中国人自体が現在は世界遺産を保持していることに、誇りを持っています、石窟の開削当時は、人々に知れ渡っていませんでした。
                                雲崗 第18号室 主尊  雲崗 第18号室 主尊の写真
しかしインドを源として西域を通じて、敦煌で開削された石室、仏像信仰は河西回廊を経て中国の中枢地帯に到るのであります。雲崗の地名の由来は、ユーラシア大陸の内陸モンゴル砂漠の乾燥した空気と東シナ海の湿潤な空気が太行山脈、燕山山脈の混交し雲が発生する頻度が高く、この山脈に連なる武周山の丘陵に因んで名付けられた地名であります。

開削された時代背景は三国志が遺す中国史上画期的な巍、蜀、呉の三国時代末期、A.D265年司馬炎が西晋として国土を統一はするのですが、北方異民族の侵入で国土は、大きく分裂、いわゆる南北朝期に入ります。即ち江南に拠を構える東晋等の王朝(南朝)、華北に群雄割拠する異民族を主とする国家群13国、江南の3国と併せて五胡十六国の時代であります。

A.D316年、この北方13国の中での鮮卑族の小国がこの雲崗石窟の開削、中国本土への大乗仏教の布教に寄与しました。A.D386年北巍は、都を平城、現在の大同に築き、A.D439年には北方の諸国を統一し、南朝、東晋と拮抗した勢力で対立し中国の国土を二分し統治しました。

     雲崗  第20号室 大仏 
      雲崗  第20号室 大仏の写真
A.D466年太后が摂政となり国家最盛期を迎え、A.D493年に都を河南の地洛陽に遷都しました。その後A.D534年北巍は、東巍と西巍に分裂し北齊、北周と統治者も替わる。北巍の国として統治したのは149年間、14人の皇帝が在位しました。現在の鮮卑族が多く居住する大同市には、華厳寺等の著名な仏教寺院が存在します。

この大同市より更に西16km、武周山の南麓およそ1kmの規模53の石室を有する雲崗石窟が現存する。A.D460年北巍の沙門僧、曇曜は岩肌に石室を開削した。彼の開削した曇曜五窟と名付けられ第16−20窟の仏が該当します。これらの窟に彫られた石仏は五人の北巍の帝位に在位した皇帝をモデルとして刻まれました。

換言すれば王権神授説ならぬ皇帝仏授説に基づく皇帝の人民に対しての威信を誇示しているのです。石窟の前の広場からこの石窟全体を概観すると一際大きな光を放つ第20号の大仏、この仏像は毘廬舎那仏、光明遍く照らす大日如来像、我が国奈良東大寺の大仏様と同じ仏様、華厳宗のご本尊、華厳経を奉じ蓮華座世界なる北方天空の浄土にある仏国土の祖であります。この仏像の高さ13.7mです。朝の陽光を浴び微笑みを微かに顔面に讃える、そのお姿に今生の悦びが自ずからわき上がり合掌しました。

                                      雲崗 第3号室 主尊    雲崗 第3号室 主尊の写真
第197窟の仏は、北方不空成就仏、高さ17m、幅15.4m足の長さ4.3mとこの曇曜五窟最大の仏、脇侍は横の小さな洞窟に安置され、文殊菩薩、普賢菩薩と併せて華厳三聖と呼ばれています。因みに我が国で呼ばれている釈迦三尊、釈迦を中心に普賢、文殊菩薩の立像を中国では釈迦を中心に藥師、阿弥陀として、奉じる。処替われば信仰する仏の位置も替わります。

巨大な曇曜五窟の仏像群は西域地方にその淵源がある如来像信仰、巨大なるものにすがる人心、その人心を昂揚し重ねて国家安泰を誓願する行が合体し起こった今日の東アジアの民の精神の支柱となった大乗仏教の基幹をなすもので、この五窟はその一つの顕現であります。

第十三窟ー第九窟は、五華洞と称され、後世清代の彩色が施された華やかな室ではありますが、時代が下がることによる歴史の香りは薄れます。心に留めた数室は、第十二号室の音楽の石室、伎楽天の琵琶を奏でる姿、音と色のコポレーション、第六窟の釈迦を生涯を彫ったレリーフ、第五窟輝く釈迦像、高さ17.7mの雲崗最大の仏との出会い、残念ながら石窟内の写真撮影禁止、露仏である像のみの撮影、心に仏像を刻めとの仏の諫言と思い雲崗に別れを告げたのであります。


      龍門 奉先寺 毘廬舎那仏 
      龍門 奉先寺 毘廬舎那仏の写真

このページの先頭へ

●龍 門

龍門石窟 北魏様式の漢化 河南省北端を流れる?河の支流伊河に沿った丘陵の岩肌に龍門の石窟の仏像は彫られました。中国の古代史に登場する伏義、神農、黄帝の伝説上の統治者は、国の統治の基調をなす治山・治水に力点を置いたる一例として神農は、藥師であると同時に農業の神でもあります。

農業を基本として生を営む漢民族は、作物を栽培するに不可欠な水資源を大切にして、その管理を行うに土木工事を行い河川の改修に人血を注がました。今目前を静かな流れ伊河も、遠き来し方は急流であった。「波しきりに作なり。諸の魚、波の処を過ぐれば、必ず竜と成す。故に龍門と云うなり。」(正法眼蔵随聞記1−8)今日巷間でよく用いられる登竜門の語源ともなった処である。

古都洛陽より南12kmの地に北魏は首都を大同から洛陽に遷都すると雲崗石窟に倣って龍門石窟を開削しました。洛陽は、B.C770年東周が都を定めてから、後漢、三国の魏、西晋、北魏が都と定めた史実に基づいて歴代九朝の古都と呼ばれます。龍門石仏はA.D493年に開削以降400年に及び造像が行われた。換言すれば北魏の国が滅亡後も隋、唐時代に造像は続けられました。

       龍門 宝陽北洞 阿弥陀仏
     龍門 宝陽北洞 阿弥陀仏の写真

規模およそ1km伊河の西岸の丘陵の岩肌を主として、仏塔40基、造像10万余、窟の数2345窟、制作年代は、北魏期30%、唐時代60%、その他の時代10%と云われます。龍門の石で築かれた表門をくぐりと、右手の岩肌に蜂の巣の如くまさに無数という形容が当てはまる光景を目にします。既に訪れた雲崗に比べて格段に石窟の数が多いとの印象を持ちました。

遙か西トルコ共和国カッパドキヤの光景を思い起こさせたのでした。河に沿って造られた歩道から外れて細い急な石段を登り石室を見学しました。先ず注目すべきは、宝陽三洞、北洞、中洞、南洞と巡る。この洞の原型は雲崗石窟より伝わり、安置する本尊は、北洞は阿弥陀仏、中洞は釈迦仏、南洞も阿弥陀仏として伝わっています。その作風は、北魏時代の豪放剛健さを顕しています。続いて、数センチの小仏が15000体

    龍門 万仏洞 阿弥陀仏
    龍門 万仏洞 阿弥陀仏

余彫られている万仏洞は、本尊阿弥陀仏を囲む聖空間を現出し、天井の蓮の花が心を捉えた蓮華洞に入る。この鮮やかな色彩の蓮華の花を見入るに、この花弁の中心に人の智、種子が宿るのかとの思いが湧く。

次いでこの龍門石窟の主寺院、奉先寺の毘廬舎那仏との対面、中国史上唯一の女帝、則天武后をモデルとして造像された像が無数に存在する龍門の石仏群を引き締めるのであります。主像である則天武后の生の軌跡は、太宗の時代に後宮に入り、太宗が崩じた後、尼僧になり仏門に帰依したのですが、三代黄帝高宗の時代に還俗し、地位を得ると自ずからの野心を遂げるために、皇后を惨殺し高宗の皇后武后となりました。

A.D683年武周革命を起こし、都を洛陽に定め、満を持して聖神皇帝として君臨し、国号を周と改めました。皇帝としてはA.D690−705年の間、中国を統治しました。中国人はよく中国史上の四悪女として、則天武后、楊貴妃、西太后、江青夫人と数えるのですが、甚だ不名誉なことですが、その先陣を切るのはこの則天武后であります。則天武后も北魏の皇帝が自己の形姿を仏として岩肌 に刻んだ行為を踏襲しました。既に述べたが王権神授説ならぬ皇帝仏授説の継承であります。

     龍門 薬方洞 主尊
    龍門 薬方洞 主尊の写真

と同時に武后に異を唱える人々の論は、儒教の教えに従えば、義母が血の繋がりがないとは云え、一等親族である息子と婚姻した皇帝を統治者としては、仰ぎ難しの論理を基調としています。なるほど武后は仏教を布教した功績は一面では讃えられますが、ここに歴史の大きな矛盾を人々は抱えることになります。形に顕れた仏を求めるよりは、自己の心に仏を求めよとの諫言が聞こえてくるのであります。

現実におはします毘廬舎那仏の気高き仏顔と邪鬼を踏む天王像を拝観し、その邪鬼は何処かの疑問を抱き、薬品の処方を説いた薬方洞、既述したが当時は中国古来の神農信仰とインドから仏教とともに中国に入った藥師信仰との混交の期であったと云うことが、ガイドの説明による岩壁に刻まれた拓本を通じて伺われました。

古陽洞は、龍門石窟の初期に開削された洞で北壁の観音菩薩像をはじめ、顔立ちが面長で北魏の人々の顔立ちに摸し、唐代に彫られた豊和な丸い顔立ちとの差異が見られる。概して雲崗石窟と比較して龍門石窟は、彫られた仏の数が多いのと、安置されている仏像が小型化されていることが特徴として挙げられます。


このページの先頭へ

●結 語

インドより西域を経て中国に伝わった仏教の足跡を偲ぶ敦煌、雲崗、龍門石窟の旅、ここでお断りしておくことは、敦煌を訪れたのは2005年10月、雲崗と龍門を訪れたのは2008年9月と二回にわたり訪れたので本文中の解説に重複があることをお許し願いたい。

仏教信仰で心を清めるのか、仏像に拝顔して誓いを立てるのか、古来より論争に絶え間が今回のテーマの枠を超すので、あえて論及しませんが、仏教での悟りと輪廻、キリスト教で全能の神と自由の問題までの論に及ぶものです。

いずれにせよ中国の石窟群に人の持つ形而上での信仰、形而下での美に融合を求め、他の文化遺産にも人類の普遍性と差異性の調和を求めての生の営みを続けるのでした。

 終わり


(文責 田中 瑛也)



写真撮影:橋本 曜  ・ HTML制作:上野 治子



現在位置: ホーム(1)講義録一覧 2007〜2009(2) > 中国の古寺巡礼の旅


個人情報保護方針アクセシビリティ・ポリシィ著作権、掲載情報等の転載、リンクについて連絡先

Copyright (c) 2005-2007 kandazatsugaku Organization. All rights reserved.