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平成20年12月12日 神田雑学大学定例講座No.436


千代田図書館トークイベント、神田神保町と本屋仲間、講師 江戸川大学教授 大内たずこ

    


目次

メニューの先頭です イラスト画像の画鋲
1、講師プロフィール
2.はじめに
3.新しい外国の古書街と神田神保町
4.本屋の発生、江戸時代との関係を見る
5.本屋仲間が組織化されてきた理由
6.江戸時代の貸本屋商売
7.物の本屋と貸本屋の関係
8.江戸時代の貸本屋の仕入先
9.江戸の貸本屋の数
10.文化年間(1804年から1817年)の読者



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大内田鶴子講師1.講師プロフィール

生まれ:1951年 東京生まれ
学歴:東京都立大学大学院博士課程中退
職歴:(財)地方自治研究機構などを経て、江戸川大学社会学部教授   
趣味:茶道
著書など 
『大学と地域社会』関東都市学会編『コミュニティ・ガバナンス』ぎょうせい
『神田神保町とヘイ・オン・ワイ』東信堂
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2.はじめに

こんにちは。大内田鶴子です。江戸川大学社会学部で教えています。専門は都市社会学です。なんで社会学者が本の研究をしているかというと、神保町という街に興味をもったことがきっかけです。

本の街を研究すると、どうしても国文学とか書肆学に足を踏み込まざるを得なくなりまして、自分の専門領域ではないところを使って研究をしておりますので、かなり冷や汗を書きながら書いたり話したりしております。ですからご専門の方のご指摘があれば、率直に言って頂き、是非勉強させていただきたいと思います。

それからもうひとつの研究分野としてアメリカのネイバーフッド組織の研究をしております。これは大学ではコミュニティ論ということで講義しております。日本の本の街の研究とコミュニティ論は関係ない様にみえますが、深いところでは繋がっているような気がしております。これから10年後くらいにまたお話しをさせていただければ、繋がった話しが出来るかも知れません。

ヘイ・オン・ワイの本神田雑学大学ではだいぶ昔、7年位前ですか、「神保町の地域力」という題でお話させていただきました。その頃から始めておりました神田神保町の研究の成果を今度「神田神保町とヘイ・オン・ワイ」という本に纏めて出版いたしました。今日のお話はその内容を踏まえ、このもう一寸先の方、この本からもう少し進んだ、まだあまりこなれてはいないお話をさせて頂こうと思います。
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3.新しい外国の古書街と神田神保町

先ず最初に日本の古書街の代表である神保町との比較の意味で外国の古書街について撮ってきた写真を見ながらご説明したいと思います。

ヘイ・オン・ワイ(イギリス)
ヘイ・オン・ワイという本の町へ行ったことがある方はいらっしゃいますか?イギリスの
アクセントボタン出典:http://www.hay-on-wye.co.uk/

地図、ヘイ城

ウェールズとイングランドの境界にある小さな村です。人口が1500人くらいしかありません。今は本当に小さな村ですが昔はもう少し大きかったのです。コリドーと言ってこの辺の交通の要衝だったのです。ですからお城があります。ヘイ城といいます。ノルマン人が要塞として作ったといいますから少なくとも12世紀には出来ていて、そのまま残っているのです。

1971年、リチャード・ブースという本の王を自称する変わった人物がこのお城を買い取ってこの中で古本の販売を始めたのです。上の写真でお城の前に買い過ぎて溢れた本が野ざらしで積んであるのが見えますね。これはオネスティ・ブックショップと言って一冊50ペンス、日本円で言うと100円くらいで、貯金箱のようなものにお金を入れて勝手に抜き出して持ってくることが出来ます。

お城の中には古い写真ですとか美術書とか昔の新聞とか、少し貴重なものが置いてあります。リチャード・ブースさんはこの写真の真ん中の旗が見えている部屋に住んでいますが、どんな人かはこの本「神田神保町とヘイ・オン・ワイ」を見てください。書店で買えますし千代田図書館にもあります。

Hay-on-Wye’s Booksellersと書かれた看板の古書店このヘイ・オン・ワイの古書店街にはホームページがあり、Hay-on-Wye’s Booksellersというサイトに全てのこの街の古書店のデータが網羅され、またそれぞれ独自のホームページを持つ店へのリンクが張られています。世界に向かって情報発信をしているわけです。
もしかしたら英語の古書の集積としてはここが一番世界で大きいのかも知れません。
しかしその場所が辺鄙でここまで行くのに、昔は汽車が通っていたのですが、過疎化が進んだ時代に廃止され、今はヒースロー空港からレンタカーを借りて高速道路を4時間半かかるという遠い所であります。

日本にも福島県に「たもかく」という本の街があって、ここも遠いので殆ど類似したような立地です。ただしヘイ・オン・ワイでは古書店がこういう11世紀のノルマン人の作ったお城やチューダー様式の遺跡みたいな建屋に入っているのが違います。

アクセントボタンロンドンチャリングクロスロード(イギリス)
これがロンドンの神保町に該当するチャリングクロスロードという道路沿いの本屋の一つです。神保町の風景と並べてみましょう。色は似ていますね。くすんだ色をしています。ですけれど、このビルはすごく近代的な大きなビルで、その中に棟を割ってブックショップが入っています。神保町の方は色は似ていますが、自分の敷地内に自分のビルがあってそれがくっつきあっています。これは中世的な建て方だと思います。

 ブックショップ

それともうひとつの違いは英語のショップの名前です。「Murder one 」とあります。「殺人のあれ」といったようなショップ名なんです。店にはシャーロックホームズみたいな人物が飾ってあり、店名の脇に「The home of Crime,Mystery,Thriller & Romance Fiction」と書かれた看板が出ています。この店は新本も古本も置いていますが、犯罪やミステリーなどのイギリス人が好きなジャンルを集めた本屋さんです。日本の本屋さんではもっと網羅的に本を置きますよね。チャリングクロスロードでは今本屋さんは10軒あるかどうかです。神保町の規模にはとても比較が出来ないです。かってロンドン全体で20軒くらいの本屋があったと言われています。

ダムアクセントボタンダム(ベルギー)
それからヘイ・オン・ワイに共鳴してヨーロッパの他の国でも何十箇所か本の街作りが行われました。これはその中のひとつで、ダムというベルギーの村ですが、環濠集落というのでしょうか、グーグルの空からの写真を見ると畑と森に囲まれたこんな素敵な村が現在でもあり、世界遺産のブルージュと運河で繋がれ、15分くらいで遊覧船に乗って行けます。

ですから世界遺産を観光して、ダムでまた中世の遺跡を見て、この中で古本屋を何軒か楽しむことが出来ます。とてもチャーミングな街です。ただし英語の本があまりなくて、読める本が少なかったです。ヨーロッパの場合は言語の問題があって、あまり大きな本屋街が出来にくいのかも知れません。

ということで欧米では古本観光という概念の街作りが出てきました。どこでも本だけで観光客を呼んでいるわけではないんです。中世のお城とかの素晴らしい遺産があって、その中に本を入れてもう一つプラスアルファーの魅力を出すような本屋観光になっているようです。

アクセントボタン神保町(日本)
神保町を考察しましょう。
これが神保町の地図です。東洋的な書き方で漢字が縦に並んでいます。すごい情報量です。私は地図はこれにつきると思います。一店一店敷地ごとに全部名前が入ると言うことは

地図

漢字の情報量が大きい、良いところだと思います。全然違いますね。
だいたいオフィスまで入れると170軒あると言われていまして、どう見ても世界最大の本屋街です。

売られている本の内容ですがチャリングクロスロードではMurder one でしたが、この写真は国学、儒教、仏教、哲学に関するものが集められていて、チャリングクロスロードとは集め方の視点が全く違いますね。まさに日本の伝統文化がここに売られていると思います。

短冊形のビラ

売り方もこれは横積みですね。これは和本の積み方です。アメリカでもヨーロッパでもこういう本の陳列をしているところは見たことがありません。そして、この短冊形のビラ、これも日本独特ですね。私は中国やイスラム圏は知りませんが欧米ではこういう売り方はないと思います。

というわけで神保町の歴史の資産というのは、街路や建築物ではなく、むしろその集積そのもの、建物配置ですね。これが歴史的遺跡としての価値を持つというのが、私の考えでございます。前の「神保町の地域力」講座の時、なぜ地上げに抵抗できたのか、あそこに本屋街として残ることが出来たのか、という疑問から始まったのですが、やはりここが歯抜けになってはいけない。ここは本屋がびっしり軒を連ねているという事実が歴史的な価値を持つと考えます。

それからもう一つは古本の売り方、流通システムです。市があるということ。ハードではなくてソフトに伝統が生きているというふうに考えます。だから無形文化財に指定してもらってもいいんじゃないかと私は思います。

そのソフトを支えている組織が古書籍商業協同組合なのですが、これは大正時代に設立されて現在まで続いていると組合史などでは認識されていると思うのですが、そうではなくて江戸時代からずっと続いているんだというのがこれからのお話です。
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4.本屋の発生、江戸時代との関係を見る

この「神田神保町とヘイ・オン・ワイ」という本に、貸し本屋の組合と古書籍商業協同組合の地区組織の作り方が同じだということを論じていますので、今日はその話は後回しにしておいて、江戸時代の本屋はどうであったか、仲間を結成してどんなふうに商売をしていたかという話しをしたいと思います。

江戸時代の本屋は今のように業態が分かれていませんでした。新古本とか雑誌と学術とかそういう区分ではありませんでした。敢て分けるとすると下の三つのようになります。

アクセントボタン一つは物の本屋と呼ばれた本屋です。    
この本屋が一番古くて、1500年代末、16世紀くらいから出てきています。これは京都書林10哲が中心になって上層知識人階級を対象に、歌書、法華書、儒医書、禅書、真言書、一向書、謡本といった専門分野に分かれて、神社仏閣と結びつきながら出版を行っていました。ですから16世紀はまだ経済活動としての出版にはなっていません。ようやく17世紀に入って経済活動としての出版に発展していきます。

会場風景、熱心に話を聞く受講生

そして二つ目が貸本屋です。これも古くて17世紀の半ばから活発になってきます。
17世紀後半に有名な井原西鶴の「浮世ばなし」が大ヒットします。そのほか「重宝記」という簡易百科事典のようなノウハウもの、貝原益軒の「養生訓」、「商人、職人懐日記」だとか「女大学宝箱」とか「女源氏教訓鏡」といった本が売られていました。大阪の豪商の残した蔵書を調べた結果こうした本がぞくぞくと出てきています。

これは17世紀の後半には出版が経済活動になっていて、多くの人が買って読んでいたことを示しています。井原西鶴の大ヒットに続き更に様々な「浮世もの」やポルノ的なものも盛んで、こういう娯楽ものは貸本屋で配達してもらったことがやはり大坂に残っていた「貸本屋のつけの記録」に残されています。本の種類によって、蔵書にするものと、借りて読むものに別れていたことが分ります。

そして最後に現れたのが地本屋です。草双紙屋とも言います。 
地本屋は地方出版です。草双紙とか錦絵ですね。まさに江戸の出版というもので、18世紀以降、上方を上回る出版量になります。蔦屋などは地本屋から始まっています。

話しが逸れますが先ほどイギリスでは殺人とかミステリーが好まれるという話しをしましたね。日本では昔から「好色もの」なんです。先ほど述べた大坂の豪商の蔵書を調べたところ、ちょうど1661年頃の出版物が多かったといいます。

この年はイギリスではピューリタン革命の直後で、おそらく「好色もの」などは表に出せなかった社会だと思うのです。有名な「ピープスの日記」ってご存知ですか?「紳士」の生活記録がつづられています。それは暗号で書かれていて、後で図書館から掘り出されて解読したら非常におもしろかったというものです。この年代、イギリスで一番出版されていたものはトーリー党とホイッグ党の対決した政治パンフレットで、政治議論が溢れるように出版されていたそうです。

日本の場合は同じ時代に江戸で男女のポルノ絵が版画にしてどんどん売られていたという非常に大きな文化の違いがあると思います。日本の場合は西欧社会と比べ、まったく関心の方向性の違う文化のもとに、出版文化が穏やかに深く発展したというのが私の考えです。
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5.本屋仲間が組織化されてきた理由

イギリスにおいても、日本においても本屋仲間を組織化した理由の一つは業界の都合によるものです。まず海賊版の流通を防ぎたかったこと。それから乱売を防ぐための取引ルールの確立ですね。それから、東西どちらも政府の都合と言う理由があります。日本の場合も17世紀から18世紀にかけて何度も禁書令が幕府から出されていますが、これを実現するためにも仲間組織のようなものが必要になったのです。

ヨーロッパの場合は1550年に神聖ローマ帝国皇帝のフェリペ2世が、全ての異端の聖書に関する議論、出版の禁止を行います。それを踏まえベルギー、ルーベンのカソリック大学の神学部が禁書目録を作成します。そしてアントワープのプランタンという大出版業者がその目録をもとに検閲をする役目を担います。要するにカソリックに反対する異端の人は殺される時代ですから、禁書か禁書でないかは命に関わる問題だったのです。宗教戦争が広汎に戦われていたのです。

これに対して日本では禁書というものがヨーロッパのように厳密な形では行われていないと思います。日本の場合禁書目録というものが出されたのは1771年、京都の本屋仲間が自主作成したものです。政府が行うのは個別の本の禁止です。「**という題の本は絶版だ」というふうなその都度個別の規制です。そしてその統制も非常に緩いです。三都と名古屋の4か所が出版都市だったので、取り締まり不可能だったのかもしれませんが。その辺が日本とヨーロッパは大きく違います。

もうひとつ大きな違いは、ヨーロッパで一般民衆が読める自国語で出版された最初の本、ルターのドイツ語訳聖書が出たのが1522年です。ところが日本では母国語でものを書いた本は万葉仮名の7世紀からです。10世紀くらいになると平仮名になります。その時代から日本人は母国語で物を書いていたのです。

一方ヨーロッパではラテン語が物を書くときの文字で、それは特定の大学と教会の知識人しか使えない言葉なんです。ルターは初めて独逸の庶民が読めるドイツ語で聖書を訳して普及させたという本の歴史上大変大きな仕事をしたのです。グーテンベルグが1400年代の末に活版印刷で聖書を印刷しましたけれど、それはまだラテン語でしかも子豚皮紙を使ってのことなのです。要するに普通の人が読めるような本ではなかったのです。

講義をしている大内講師イギリスの場合の本屋仲間について少しお話ししましょう。イギリスは16世紀から17世紀半ばまで、ロンドンでしか出版が出来なくなっていました。ケンブリッジとオクスフォードも許されているけれど、それは大学のラテン語世界なんです。

イギリスはイギリス国教会が設立した後の1557年から1640年くらいまで、ロンドンの本屋ギルド20人が王の勅許を得て、出版の権利を独占しました。言い換えればたった20人で全国の出版が出来る程度の出版量、そして規制できる程度の出版量しかなかったのかな、ということになります。日本でも、同時期は京都書林十哲の時代で、まだ出版が経済活動にはなっていなかったといわれます。

イギリスでは独自のカソリックである英国国教会とヨーロッパのカソリックと新教といわれた清教徒の3つ巴の争いがその後起こり、1640年からピューリタン革命が起こります。その時代になると旧体制のギルドが大攻撃されて破綻してしまいます。本屋ギルドも継続できなくなります。

瓦版のような非合法新聞が勝手に出されます。それから政治パンフレットが爆発的に増加します。この時代にようやくニュースペーパーに流布によって、書いたものを日常に読むということが一般庶民の生活に入ってきたというのがイギリスの歴史です。イギリスでは新聞と雑誌の文化がこのあたりからぐんぐん発達してくるのです。

そのあと1661年に王政復古があり、王様はもう一度出版を統制しようとするのですが、抑制がもう出来ないで言論の自由と言うものが確立されてくるのです。このあたり、言論の自由とか著作権とかはもっと厳密に日本と比較研究すべきだと思います。20人の本屋ギルドが独占していたイングリッシュ・ストックというものが、今日の特許の考え方の源流であるそうです。
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6.江戸時代の貸本屋商売

17世紀半ばの大阪の商人記録で貸本屋の存在が知られています。また17世紀半ばから俳諧グループといういわば学習ネットワークが発展します。文字を使って学習するグループというものが発展してくるのです。そして17世紀半ばから先ほど言いました世話物の小説・浄瑠璃がヒットします。

これらはイギリスで本を読む学習グループ(ブッククラブ)が発生したり、事実小説が現れる時代より半世紀から1世紀早い出現です。1624年から1643年には、それまでのように漢字を使ったものではなく、仮名中心の小説・実用書・娯楽読み物が出版され始めます。まさに大衆化の出発点がここにあります。

1678年の「吉原恋の道引」という本のなかに、遊女にみとれている貸本屋の姿が描かれておりまして、そのほか長友千代治氏の紹介している貸本屋の絵はなかなかハンサムに描かれ、当時スマートでかっこいい商売だったことが推察されます。笈箱や大風呂敷に沢山本を入れて、家から家を回って歩いたというのですから、今で言うとヤマト運輸や佐川急便のお兄さんに当たりますかね。ただ運んでいるものが当時は本(知識)だったという違いがあります。貸本屋の一番の大得意が吉原だったといいます。花魁や芸能人たちが自分を磨くために読んでいたのです。
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講座風景27.物の本屋と貸本屋の関係

書肆とか本屋というのは出版、新本の販売、古本の販売、貸本、写本全て行うんです。出版が経済活動として成立するようになると、大きな会社は出版専門に移ってくるわけです。そしてどんどん参入してくるベンチャー企業は貸本屋として入ってきます。つまり身体ひとつで大きな包みを持って行商するという形で、小さい経営で出来るからです。

貸本屋をやり、たまには本を売るという形で参入してくるわけです。つまり本屋の業界の裾野を形成しているのが貸本屋です。そして本屋の大口販売先が貸本屋でもあります。出版したものを貸本屋に卸して貸本屋が貸すなり売るなりするわけです。貸本屋の大得意先が吉原であるというのが注目すべき事実であります。
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8.江戸時代の貸本屋の仕入先

貸本屋の仕入先は今説明したように出版した版元から直接仕入れる方法がありました。そのほか他の貸本屋から購入するというのもありました。つまりお客の間を一巡して用が無くなった本を別の本と交換するのです。それから江戸の後期になると貸本類仕入所という古書売買所からの購入が行われました。こういう拠点が各地に設けられたのです。

大阪では貸本屋が互いに寄りあって古本を売買、交換しあっていたという記録が残っています。1773年頃には貸本を仕入れる組織作りが確立していました。つまり古本を交換する市、今の神保町のやり方がもうこの頃からあったということが分かります。

それからもうひとつ、1835年に大阪心斎橋筋に四五十軒の本屋が軒を並べていたという記録があって、そこには「江戸にはそういうものはありやせん」という記述があります。ということは1835年の江戸は日本橋、京橋のあたりに本屋が発展してきたわけですが、四五十軒の本屋が軒を並べていたというのはまさに神保町の姿だと思うのですが、そういったものが江戸には無くて、大阪にあったということなんです。

この貸本屋が寄り合い古本を売買交換するという、小さな商いが寄り合ってネットワークを作るというやりかたは、江戸時代はいたるところでやっていたんだけれど、たぶん江戸はもう大出版社の時代に入っていて、小さな本屋が都心に軒を数十軒並べるというほど密集することはなくなり、一方大阪には軒を並べるくらいあったと私は考えます。今の神保町の古本街の源流の姿がこのあたりにあったのではないかと思います。

講座風景3もうひとつの貸本屋の仕入れは自家製作をしてしまうのです。写本、書本(かきほん)と言います。禁書や絶版類は全てこのルートで入手が出来たそうです。こういうところが日本の出版統制の巧みさと言えるのではないかと思います。私は江戸時代には公的な情報ルートと私的な情報ルートの二重構造が形成されたと思います。表情報と裏情報がこのあたりからはっきりと分かれてくると思っています。
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9.江戸の貸本屋の数

貸本屋がどれくらいあったかということですが、まず本屋と貸本屋の区分が不明確ですからはっきりしたことは言えないのですが、1699年の大阪に37軒、これは書肆の数という記録があります。それが約50年後の1747年には100軒余となり、更に1777年には200軒になります。文化6年(1809年)には世利子といって貸本屋らしいのですが190人という数字が出てきて、翌年の文化7年には350余人に突如増えてしまいます。これは無株という登録しないで営業していた人が一挙に登録した結果であろうと、長友千代治先生が述べておられました。つまり大阪には1810年に350余人の貸本屋がいたということです。

アクセントボタン江戸の方はどうか?
1808年、文化五年ですね、貸本屋組合12組、世話役33人、総数656人という正確なデータが残っています。このころ江戸は世界でも大きな都市になっていたのですね。そして1832年、天保3年、800軒が貸本屋として登録していたとされ、この数は現在の東京の古本屋の数に近いです。今、古書籍商業協同組合の東京都での加入会員は800人前後ですよね。
江戸時代貸本屋は住宅地立地なのです。それは顧客のそばに店を持つということです。ですから日本橋、京橋にはあまりいないのです。こちらには大出版社があるのです。芝とか三田、市谷のような住宅地に貸本屋は立地していたのです。

今回出した本に、江戸から東京への移行期における本屋の地域分布というテーマで、今田洋三さんの「江戸の本屋さん」にある文化五年の江戸の地域別本屋分布と、脇村義太郎先生の「東西書肆街考」に出てくる明治期の東京書籍商組合員の分布のデータをあわせて検討したデータを載せていますが、両者の地域割りは時代が変わってもそのままほとんど受け継がれているのです。

東京書籍商組合員になって行ったのは貸本屋からなったり、あるいは草双紙屋からなったり、この時代は新本、古書も貸し本屋と出版社の区別も明確ではないですから、みんな東京書籍商組合員へ移行していったものと思われます。まあ栄枯衰勢はあって特に蔦屋とか須原屋のような大出版社がつぶれ、小さな草双紙屋などは内容を変えてこちら(東京書籍商組合)に移って行った可能性が大きいです。なお、福沢諭吉は福沢屋という屋号で江戸の本屋仲間に入っていたそうです。

そして明治20年には、文化五年に合計655軒もあった組合員総数が130軒と激減しています。そして経済が発展し、明治39年には再び総数384軒と増えてくるわけですが、その時はもう神田が組合員数でトップになります。要するに新しい時代の本屋の出現です。蔦屋とか須原屋という大出版社がつぶれ、丸善、有斐閣、博文館のような本屋が出現してきます。
従って地域分布の体制は受け継がれているが、中身は変わったということだと思います。
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10.文化年間(1804年から1817年)の読者

では読者の方はどうかというと、貸本屋の得意先は一軒あたり170〜180軒という記録があります。それを江戸全体で掛け合わせると約10万軒の貸本購読世帯があったということになります。一世帯ではおそらくまわし読みします。そうすると数十万人の貸本の購読者がいたであろうと思われます。

江戸の地図さもありなんと私が感じるのは、福沢諭吉が「学問のすゝめ」の合本版序(明治13年)で、自分の出した1篇から17篇までの「学問のすすめシリーズ」が合計70万冊売れたと言っていることです。2007年に、鈴木俊幸先生の経典余師に関する研究が出されておりますが、これが「自学自習の参考書」としてものすごく版を重ねて売れていたということです。

そういう意味では「黄表紙」とか「往来物」ですね、これが幕末の社会の中で貸本ネットワークを通じて全国津々浦々まで行き渡り、村人が漢文の素読をやったと言われています。
というのが幕末の読者の姿なのです。ですから福沢諭吉が70万冊売れたと言っているのはたぶん本当で、受け入れられたのではないかなと感じます。

最後に江戸の地図を見てください。どのように本屋の場所が移行して来たのかを見てほしいのです。ここに神保小路と書いてあります。今のすずらん通りがこれです。京橋、日本橋の本屋とは十軒店辺通町と万町青物町辺ですが、ここです。現在の中央通り、この付近に大出版社がありました。蔦屋は通り油町(大伝馬町三丁目)にありました。ちなみにここが北町奉行所で、ここが出版を初めとする経済統制をやっていたのです。

その当時出版とか文化に関する色々な分野で有名だった馬場文耕というジャーナリストがこの辺で公開講座を開き、それが過激な内容なので捕らえられて処刑されたのですが、その場所もこのあたり、高島屋の裏あたりだそうです。とういうわけで京橋、日本橋地区から神保町地区に本屋は移行したのですが、それは文明開化と近代化の潮流と関係が強いと思います。以上で今日のお話しは終わります。なお、この発表内容は、江戸川大学紀要『情報と社会』第19号、2009年3月に「古書と出版の比較文化論―比較出版都市論のための試み 日本編」として掲載されます。〔拍手〕



     
   主な参考文献
   今田洋三『江戸の本屋さん』
   今田洋三『江戸の禁書』
   長友千代治『近世貸本屋の研究』
   鈴木俊幸『江戸の読書熱』
   橋口侯之介『続和本入門―江戸の本屋と本づくり』
   大内田鶴子・熊田俊郎・小山騰・藤田弘夫編
   『神田神保町とヘイ・オン・ワイ』





文責:臼井良雄
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


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