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平成21年1月9日 神田雑学大学定例講座 No439


「岩波ホールの歩み」 講師 岩波律子

目次

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はじめに
1.初期の岩波ホール 1968年〜1974年
2.私の学生時代
3.エキプ・ド・シネマのスタート 1974年〜



講師 岩波律子氏

はじめに

岩波律子と申します。
私は、あまりお話し会などに出たことがありませんので、一生懸命勉強してきまして、どのように着地して時間通りに終われるか頑張りたいと思います。

最初に、皆さんに伺いたいのですが、「岩波ホール」に一度でもお出でくださった方はいらっしゃいますか? 大勢様が挙手されました。
有難うございます。

お話がしやすくなりました。
1年くらい前に、ある大学で講演をしたときに、同じ質問を300人の学生に致しましたら、一人も手を挙げなかったことがありました。
その時は、とても話をし辛かった覚えがありますが、今日は安心してお話できます。

1.初期の岩波ホール 1968年〜1974年

岩波ホールは1968年に創立されました。私はまだ学生でしたが、1969年には安田講堂の東大生の立て籠もり事件がありました。世界各地で学生運動が激しく起こった頃でした。ある意味、時代の変わり目であったと思います。岩波茂雄の息子、すなわち私の父岩波雄二郎が岩波書店の社長を勤めていましたが、岩波書店とはまったく別に、個人で神田神保町にビルを建て、そこに岩波ホールを作りました。

これには幾つかのきっかけがありました。
千代田区から、将来地下鉄が3本も通るので、神保町といういい場所にあるから、文化施設を作って欲しいという要望を戴きました。もう一つは、岩波茂雄はお芝居が好きで、先代の吉右衛門さんや、山本安英さんと親しくて、特に安英さんには劇場を作ってあげますよと、約束していたそうです。しかし、その話は戦争があったりして、一旦お流れになったのですが、その所縁もあってビルの10階に232席(現在は220席)の小劇場を作った次第です。

当時、私の叔母にあたる高野悦子が、映画の勉強がしたくてフランスに留学して帰ってきたばかりでしたから、1968年のホール開きの行事を手伝う形で総支配人になりました。現在も高野悦子が総支配人で、私が支配人としてやっております。

去年が岩波ホール40周年だったのです。岩波ホールの「友」という機関誌の30周年特別号を読み返して見ると、ホールの催し物が全部採録されております。これだけの企画の積み重ねがあってこそ、岩波ホールが存在し得ていることと改めて感じております。
ホール開きの日は、大内兵衛先生と野上弥生子先生が講演をされております。

ホール開きの日講演する野上弥生子先生

野上弥生子先生の題は、「小さなホール」でした。

当時は、広告などでも「大きいことはいいこと」という時代でしたが、この時代に定員が232名で、小回りの効く、手作りのホールでしか出来ないことをやって下さいというお話でした。世の中が変わった今でも「小さいことでいいこと」に立ち返れる激励の言葉を戴いたことは忘れません。このほか、山本安英さんが夏目漱石の「夢十夜」の朗読をされ、また、お能の宝生流の近藤乾三先生に、「鶴亀」などを舞って戴いたことも覚えております。

岩波ホールのビル 初期の頃(1968〜1973年)は、多目的ホールの形の発足でした。つまり映画も上映できる。講演会もできる。民俗芸能、演劇、またコンサートもできるようにグランドピアノも揃っていました。岩波雄二郎社長が高野悦子に、「私は口を出さないから、よい企画なら何でもやってください」と常々言っておりました。これは岩波書店の創業者・岩波茂雄の、「いいことをすれば、皆さんが分かってくださる」という考えに通じております。

アクセントボタン講演会つきの日本映画
フランス映画・イギリス映画シリーズなど

1968年といえば、日本映画が絶頂期を過ぎてやや翳ってきたころですが、高野悦子は映画界出身でもあることから、岩波ホールの企画はまず映画が中心になりました。
<戦後日本映画史><日本映画の思想><映画で見る日本文学史>などの講座を開設し、2週間に1回、講師の先生が30分の講演をしてから、テーマに沿った日本映画の上映をするという企画でした。

プログラムを今見ると、作家、脚本家、演出家、俳優など錚々たる顔ぶれで、「あっ」と驚くほどです。例えば溝口健二の「近松物語」・勅使河原宏監督の「砂の女」・岡本喜八監督の「肉弾」・山本薩夫監督の「戦争と平和」「真空地帯」・今井正監督の「ひめゆりの塔」・関川秀雄監督の「きけわだつみの声」・・・・・実際に戦争を経験した世代の映画人の作品であるため、迫力と深みのある映画を見ることができました。

<アウトサイダーの系譜>という、いわゆる「やくざ映画」シリーズの企画もありました。鈴木清順監督の「関東無宿」・佐伯清監督の「昭和残侠伝 唐獅子牡丹」・加藤泰監督の「緋牡丹博徒」などをやっていて、普通なら女性はなかなか見に行かれない映画を、岩波ホールの研究的なシリーズの題材として鑑賞することができました。

私が「高倉健さん」や「藤純子さん」(今は富司 純子さん)のファンになったのも、実は岩波ホールだったのです。このシリーズでは、雪駄履きのお客さんが前の座席の背もたれに足を乗せて見ていたということもありました。
特筆すべきは、「映画で見る日本文学史」でした。古典から現代まで映画化された文学史です。
豪華講師つきの上映で、著名な作家や監督が出演されました。日本映画プロデューサー協会と共催企画でした。映画にまつわるお話と、原作にまつわるお話が聞けて、今思うと宝の山の中にいたような経験でした。

当時珍しいのは、“A SEASON OF JAPANESE FILM”という企画で、外国人向けの英語字幕つきの日本映画上映をシリーズ化しました。この上映で私は字幕を読まなくてもよいのに、なぜか読んでしまうという不思議な現象が起きてしまいました。可笑しかったのは、外国の方が字幕を読んで日本人より先に笑ってしまう場面が再々あったことです。

岩波ホール内部

外国映画では「ドイツ」・「イギリス」・「イタリア」・「フランス」・「ロシア」など各国の映画史が、講師のお話つきで上映され、私自身としても大変勉強になり、観客の方にも歓迎されました。特に父が学生時代に授業をサボって見た1930年代のマリーネ・ディートリッヒ主演の「嘆きの天使」とか「会議は踊る」などもあり、父に喜ばれました。当時としては珍しい「ポーランド」や「キューバ」映画祭もありました。

1971年にカナダのアニメーション作家ノーマン・マクラレンが来日して、講演つきの短編の上映会も行われました。数年前岩波ホールで、人形アニメで有名な川本喜八郎(NHKの「三国志」などの作家)さんによる折口信夫原作の「死者の書」を公開したことがあります。川本さんはかつてマクラレンの上映会に参加されて感銘を受け、日本でもアニメーション作家協会を作って皆で頑張ろう、と呼びかけるきっかけになったとお聞きしました。

アクセントボタンクラシック音楽ほか
音楽は、<バロック音楽サークル>といって、数年間チェンバロの小林道夫さんを中心に4人の演奏会をしていました。小さいホールなので、四重奏あたりが丁度いい構成でした。
高野悦子が留学中に知り合った音楽家の方々のアドバイスを受け、ドビュッシー(没後50年)の記念連続演奏会と称して、歌曲・ピアノ曲などの全曲演奏会を催しました。
またフォーレの歌曲全曲の独唱会。ほかに<ジャズ講座>などの企画もありました。
偶々数年前に、音楽大学の先生にこの記録をお見せしたら、「これはすごい企画ですね」と驚かれました。

しかし、残念なことに当時活躍したスタインウエイのグランドピアノは、ホールが映画専門になると共にホコリを被るようになったので、痛まないようにアルバイトの音大生に陰で弾いてもらったりしていました。しかし、結局音楽関係の先生に引き取って頂きました。チェンバロも実は、ごく限られた時代しか使われなかった珍しい型のようでして、やはり専門の方におあずけしました。
1970年代前半には<夏期講座>で、例えば日本文学研究とか、万葉集とか、日本史概説、平家物語、日本文化と中国文化などがありました。「万葉集」は、私も出席しましたが、去年亡くなられた大野晋先生が当時の発音で読んでくださったのが、印象的でした。

アクセントボタン伝統芸術
伝統芸術が広く岩波ホールで紹介されるようになったのは、高野悦子の恩師で社会心理学の南博先生のお力によるところが大きいのです。噂では、南先生はアメリカ帰りなので、授業のときでも机に脚を載せていたということでした。そういう方でしたが、古典に非常に詳しく、「伝統芸術の会」の会長をされていました。例えば鶴屋南北研究とか、義太夫、狂言や、文楽の公演をホールの10階の舞台を使ってやっていました。その他に、地唄舞の神崎ひで女、新内の岡本文弥、平曲の津軽系、尾張系の無形文化財の方などの公演もありました。

1970年代には、門付けとして生まれたという津軽三味線の高橋竹山が演奏会を行ったこともあります。竹山さんが、津軽三味線を伴奏としてではなく、コンサートのように舞台で演奏したのは岩波ホールが最初です。

岩波ホールの機関誌「友」
私が印象深く記憶しているのは、そのとき付き添っていた女性の方でした。おそらく二十歳前後で、高橋竹与というお名前でした。その後、師亡きあと襲名して竹山を名乗っています。去年、紀尾井町ホールで、栗塚旭主演で「高橋竹山」というお芝居があったのですが、かつての竹与さんが竹山として舞台で演奏していたので、感無量でした。

その他「越後瞽女唄」があります。盲目の瞽女さん達が、三味線を弾いて門付けしながら旅していた時代がありました。そのときに歌う哀調に満ちた唄が「越後瞽女唄」です。1973年に、現存する唯一の正統高田瞽女、杉本キクイさんたちが舞台に上り、演奏してお話しされたのは、忘れられない思い出です。

アクセントボタン演劇
演劇は当時、前衛とかアングラと呼ばれた早稲田小劇場の演出家・鈴木忠志さんによる「トロイアの女」「バッコスの信女」というギリシャ悲劇を上演しました。日本の古い着物をまとって演ずる悲劇は、衝撃的な印象を残しました。これに白石加代子さんが出演していますが、その後武智鉄二さんによる「東海道四谷怪談」で、お岩を演じています。伊右衛門役は中村扇雀(現・坂田藤十郎)さんという豪華版でした。

1974年、高野悦子の専門分野である映画を中心とした「エキプ・ド・シネマ」の活動がスタートしました。それから1年余りして、私はフランスに留学したのですが、フランスで学んだことが、後々の活動に有形無形に大きく寄与しました。
私は、日本の大学ではフランス文学を志したのですが、あまり熱心に勉強しませんでした。その後はフランスに留学し、一生懸命学びました。

話はそれるのですが、私が高校のとき、歌舞伎の鑑賞教室がありました。
当時の菊之助をはじめとする、いわゆる三之助の「寺子屋」という出し物でした。それ以来すっかり歌舞伎ファンになりました。母も歌舞伎が好きでしたから、それからはよく連れていってもらいました。能狂言も同様で、水道橋の能舞台へしばしば鑑賞に出かけました。母は中国生まれでした。戦争の影響もあって、若いときにあまり勉強できなかった母に、今のうちに沢山勉強をしておきなさいと、よく言われました。
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2.私の学生時代

アクセントボタン留学
私は、先輩とも相談して二種類の選択肢を考えました。一つは実務を勉強する。もう一つは文化関係の勉強です。最初は、フランスのパリ商工会議所が作った学校で、「高等秘書養成センター」(CPSS)に入学しました。大学を卒業したフランス人が、就職が難しいので、より高度な技能を修得するための1年間の実務学校でした。秘書といっても重役秘書ですから、経済・法律・英語・速記・作文(ビジネスレター)などの講座を受けました。(速記は、重役の手紙は口述したものを文章化するため)日本語でも速記をしたことがない私が、よくフランス語の速記が出来たものだと、今更ながら不思議に思っています。今見ると、自分で書いた速記はすっかり忘れてしまって、読むことができません。

そのセンターの入学試験はまったくフランス式で、白い紙に試験問題は1題だけ。
「その人の意思に反して、その人を幸福にできるか」。
ビジネスの養成センターなのに、試験問題は文学か哲学系です。よく判らないまま、2ページくらいの論文を書きましたが、合格点ではありませんでした。しかし、特別に聴講生として入学を許可され、そして、なぜか無事に卒業できました。フランス語の授業はうまく聞きとれず、友達からノートを借りるのですが、その筆記体が読めない。が、タイプライターと、数字だけは万国共通ですから、会計学では良い点をとることができました。

アクセントボタン 留学時代の体験
印象的だった先生の言葉があります。
「会社の重役は数年で立場が変わるから、すぐいなくなる。あなた達は秘書だから、その場に残ります。したがって、あなたが新しい重役に仕事を教えることになる。重役や社長の仕事を乗っ取るくらいの気持ちでやりなさい」 ついで、不思議なことを言われました。
「ズボンをはかないで下さい」
「走らないで下さい」
この学校はちゃんとしており、免状を貰って企業に面接に行くときは、
「給料は幾ら以上を希望している。それ以下はダメということをはっきりいうこと」
「入社して半年が勝負だから、この学校はこの半年を助けるために存在している」と、生徒に強く言うのでした。

この学校は、スパルタ教育で、朝8時半から夕方5時までみっちり仕込まれました。この学校を通れば、会社での仕事は楽です、といわれました。
日本に帰ってから一番役にたったのは、フランス語のビジネスレターの書き方でした。
思い出すのは、卒業試験の問題の一つです。
「会社を作るためにどういう法律が必要か」という問題でしたが、ほとんど書けませんでした。でも、卒業できました。
多分、みんなよく出来なかったのでしょう。

パリに「東洋言語文化研究所」があって、そこではヨーロッパの人が日本・中国・韓国・イヌイット語などを含めた東洋の言語を広く研究できます。秘書学校を卒業した翌年、この研究所で、フランス語で日本文化を学びました。フランス語の勉強も出来ると同時に日本文化の研究ができ、一挙両得になります。フランス語を勉強しにきて、秘書学校では毎日フランス語づけになっていても、先生が冗談を言っているのに、全然判らなかったことがあります。フランス語はもういいか、日本のことをもっと知りたいという心境でした。この研究所では、大江健三郎先生の小説をフランス語に訳す、などという難しいこともやりました。私は「日本における婦人雑誌」というテーマでフランス語の論文を提出しました。幸い、このテーマの研究は他に誰もいなかったと見え、合格しました。日本文化を外国に紹介したいという思いは、当時から私の心の中に生まれていました。
顧みまして、外国へ行ったら戦いの連続だということが、よく判りました。

秘書学校の1年目は忙しいばかりで、他に何もできませんでしたが、2年目からは余裕ができて、映画や演劇を鑑賞できました。
幸い、高野悦子がカンヌ映画祭に行くというので、一緒に出かけたこともあります。
その頃学校で習ったことよりも、自分で痛い目にあって体験したことが、肌身に残っていたように思います。例えば、フランスでは、下宿の大家さんに、あれはいけない、これもいけないとしつこく言われました。しかし、だんだん緩くなってくるのです。日本人の場合は、恐らく初めはあまり言わないのですが、これをするとダメ、あれをしたらダメと小出しに禁止事項が出てきて、フランスとは逆だと思います。一番違うことは、ヨーロッパの人は些細なこと以外は、謝らないということです。謝ると責任が生じるからでしょう。些細なことでエクスキューズ・ミーというのは、その程度のことでは責任云々にならないからかもしれません。

アメリカへ行くと、アメリカでは・・・・アメリカでは・・・と、すべての基準がアメリカになってしまう方があります。
ヨーロッパへ行ってよかったのは、フランスではこうだけれどドイツでは違う。またイギリスでは別の反応をするという比較ができ、フランスがすべてという考えにならなかったことです。また、日本はアジアが近くて、アジアの情報はすぐ入りますが、ヨーロッパは中東やアフリカが非常に近い感覚があります。そう言う人達が周りに沢山いるのです。私もイスラム系の友人がたくさんできましたので、日本に帰ってきてからも、中東の人達に親しみを持つようになりました。このようなことが、目に見えない肥やしとなって、映画の活動にも役立っているのではないかと思っています。

講演会場風景1

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3.エキプ・ド・シネマのスタート 1974年〜

 (2009年は35周年)
ここで、「エキプ・ド・シネマ」の話に戻ります。
この活動が1974年に始まったきっかけは、マダム・カワキタと呼ばれる紫の着物で、世界中を飛びまわっていらした高名な映画人の女性にあります。当時は「フィルム・ライブラリー協議会」、現在は「川喜多記念映画文化財団」の前理事長の川喜多かしこさんです。ある時、インドのサタジット・レイという巨匠の映画を高野のところへ持ってこられました。「大地のうた」三部作の中の三作目でタイトルは「大樹のうた」です。一緒に上映しませんかというお話から出来たのが、映画の仲間という意味の「エキプ・ド・シネマ」でした。以上のような経緯で「エキプ・ド・シネマ」を作ったのは、川喜多かしこさんと高野悦子であり、映画好きの人々であることが、お分かり戴けたと思います。

インド映画から始まったことは、とても象徴的であります。ここから世界の埋もれた映画を上映していくという方針が生まれました。日比谷とか新宿の映画館は、収容人員は500人とか1000人位で、そこでアメリカ、ヨーロッパの商業的な作品が上映されていました。岩波ホールではアジア映画からスタートして、アフリカ、中東、中南米の作品、日本であまり見る機会の無いもの、それから独立プロダクションが制作した芸術的な作品、社会的意義があっても中々上映されない作品など、採算が合わないようなものを上映してきました。最初に始めた高野悦子本人がここまで続くとは思わなかったと述懐しています。岩波ホールが出来た当初から、座席数200位では、採算が取れない、いずれ行きづまると言われていましたが、皆様のご支援のお陰でエキプは今年35周年に辿り着いた次第でございます。35年の間に43ヵ国の映画を185本上映しております。

かつては映画の製作国は、例えばフランスとかスペインなど1カ国でしたが、昨今では何処の国の映画と特定できないような合作が多くなりました。イギリス・フランス合作どころか、ドイツ・イタリアが加わるとか、3カ国〜5カ国による合作まであります。ですから、カンヌ映画祭のプログラムではどこの国の映画というより、使用されている言語が明記されています。このような時代の変遷があるのです。

岩波ホールの入り口 岩波ホールが出来た後、1970年代後半から、シネマスクエアとうきゅうをはじめとする、ミニシアターがどんどん増え、多様な映画が上映されています。

「岩波ホールでは、どのように映画を選んでいるのですか?」という質問をよく受けるのですが、このようにお答えしています。
「どんな基準で選んでいるか」ということについては「私たちスタッフが感動した作品」、そして、「小さなホールならではのもの」です。
「どういうルートで供給されるか」については、制作会社や配給会社を通じてです。配給会社からの提案や、あるいはカンヌ映画祭などに出向いて探すということになります。東京でも東京国際映画祭をはじめ色々な映画祭が行われるので、幅広く目配りします。日本映画などでは監督さんやプロデューサーの方から直接お話があるケースもあります。

外国映画の場合は資料を取り寄せて翻訳し、ポスターやチラシも制作し、字幕をつけて試写をします。試写はマスコミ用に六本木や銀座などの業務用試写室で行います。宣伝のために日本映画の場合、監督さんにインタビューをいくつも受けて頂きます。グルジア映画「懺悔」は20年前に製作されたものですが、俳優さんが健在だったので、来日して頂き記者会見も行いました。
2月に上映する「シリアの花嫁」の監督エラン・リクリスさんにもイスラエルからお出かけ願い、たくさんインタビューを受けてもらいました。

映画のチケットはホールの窓口で販売するほかに、プレイガイドやぴあなどで売っています。また、関係者の集まり、例えば中国の映画ですと中国と日本の文化友好協会の集まりなどに持ち込んで売らせて頂いたり、折をみてチラシを配ったりの活動をして、映画を広めて行くのに必要な宣伝をすることが、私たちの仕事になっています。

アクセントボタン 巨匠の時代
インドのサタジット・レイという巨匠の映画は、合計14本上映しました。同一の監督の作品としては一番多い本数であります。次が「灰とダイヤモンド」で有名なポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の12本、スエーデンのイングマール・ベルイマン監督の8本、イタリアのルキノ・ヴィスコンティ監督4本・・・・などがあります。当時は作家の文学全集・選集のような形で、巨匠の作品を沢山上映できました。いまは、そういう形になっていません。

「シリアの花嫁」の監督エラン・リクリスと高野悦子さん

シリアの花嫁」のエラン・リクリス監督と高野悦子
(08年12月 岩波ホール)

ところで、私が岩波ホールに入社したのは、留学から帰国した1978年のことでした。ぶらぶらしていたら高野悦子が「ちょっとあなた、手伝いに来ない?」と声を掛けてきました。それからずーっと岩波ホールに勤めておりますが、その私が入って暫くの頃でした。イタリアのルキノ・ヴィスコンティ監督の「家族の肖像」が大ヒットになり、事務室の2台の黒い電話が鳴りっぱなしで、お手洗いにいく暇もないくらいでした。
なぜ、そんなに巨匠の映画を上映していたかと、疑問を持たれるでしょう。
それは、さしもの巨匠でも成功しなかった映画があったので、その次が上映できなくて、私どもにお話が来たからでした。巨匠の作品でも、大劇場では見られなくなっていた時代であったとも言えるでしょう。

アクセントボタン 国際女性映画祭と女性監督 1985年〜
東京国際映画祭が立ち上がった1985年に高野悦子がプロデューサーとなって国際女性映画祭がスタートし、女性監督の映画を上映し続けて23年になります。各国の女性監督が来日されまして、連帯が広がっております。この頃から、私たちも目が開かれ、岩波ホールでの女性監督映画がだんだん増えてきました。1980年代後半から2000年頃まで、年間の上映の半分以上が、女性監督の作品だったことが何回かありました。2000年には、全作品が女性監督のものでした。岩波ホールの上映期間は2ヶ月程度ですから、全部といっても5、6本ですけど・・・・。時代の流れで、そうなったといえます。

ある日、男性のお客さんが怒ってらっしゃいますとホールから、事務所に連絡がありました。
対応に出た私に「最近は女性監督の映画ばかりやっているが、昔のように巨匠の映画をやって欲しい!」というご意見でした。
私は思い切って答えました。
「お客様。時代は変わりました。今いいのはアジアの映画と、女性による映画です」

第21回東京国際女性映画際記者会見

第21回東京国際女性映画祭 記者会見
(08年10月20日 東京ウィメンズプラザ)

アクセントボタン 「老い」のテーマ
特筆すべきは、岩波映画製作所出身の方で、岩波ホールで11本の作品が公開されたという監督さんがいらっしゃることです。
羽田澄子監督がその人ですが、欧米の巨匠の上映記録に並ぶ上映本数で、しかも岩波ホールのテーマとなった「女性監督」「日本映画」「老い」のほとんどをカバーする監督であることを今回発見しました。岩波映画でドキュメンタリー映画を100本位作っています。80歳過ぎと思えないくらいお若い方です。最近作は「終りよければすべてよし」という老いをテーマにした問題作でした。以前、羽田さんは先代の片岡仁左衛門を収録した5巻の映画を作りました。一挙上映すると8時間もかかるので、どうなるかと心配しましたが、公開の1週間満席でした。歌舞伎ファンの方は午前午後通しの8時間には、なれていらっしゃるからでしょうか。皆さんの熱心さには、頭が下がりました。
仁左衛門さんは、車椅子で来場されて舞台で挨拶して戴きました。直にお話し、握手までして戴いたのですが、ほんとうに後光がさしていました。この仕事に携わっていたればこその、大切な思い出です。

羽田監督は「平塚らいてうの生涯」という素晴らしい女性をテーマに映画なども作っていますが、1986年制作の「痴呆性老人の世界」というドキュメンタリー映画は岩波ホールにおける、「老い」のテーマの走りになりました。当時は映画の世界で老人問題があまり取り上げられてない時代であったのに、男女を問わずご高齢の観客も大勢来られました。映画には、人間はたとえボケてしまっても、プライドだけは残っているから、その人の気持ちを大切に介護しましょうという訴えが込められていました。 そのあと、「安心して老いるために」という作品では、岐阜の特別養護老人ホームを取材しています。また、オーストラリアとかスエーデンなどの介護先進国の取材を通じて「どうしたら安心して老いることが出来るか」を問いかける映画でした。

羽田さんは2007年、「終りよければすべてよし」で、人はどうやって最期を迎えるかというテーマに挑戦されました。公開のときには、この問題の専門の先生方をお呼びして講演も行いました。私自身も、羽田さんの映画を見たお陰で覚悟ができた思いがあります。例えば、介護は家族だけで引き受けないで、プロの方に手伝って貰うこととか、自分の父の入退院を繰り返した介護体験を通じて、思い当たる部分が多くあり、羽田さんにお礼を申し上げました。ところで、羽田さんは「終りよければすべてよし」の後、「嗚呼 満蒙開拓団」の撮影のため、中国まで行かれたくらいお元気です。

アクセントボタン 「老い」のテーマと中国映画
このように「老い」をテーマにした作品は沢山ありますが、不思議なことに「お婆ちゃん」が主人公になる映画は、ほぼ成功しています。去年の「胡同の理髪師」の90歳になる理髪師本人が出演した中国映画が、お爺ちゃんを主人公にした映画として初めての成功例でした。

中国映画では、岩波ホール20周年記念に謝晋監督が文化大革命を描いた「芙蓉鎮」を20週間連続上映しました。また同じ監督の「乳泉村の子」「阿片戦争」も注目されました。 岩波ホールの最大のヒットは、半年間上映した香港出身のメイベル・チャン監督の「宋家の三姉妹」です。私たちは上映前に期間を決めるのですが、これは6ヶ月上映をしたのち、改めて6ヶ月上映し、合計1年間上映しました。岩波ホールの観客数、上映期間とも最高の記録です。メイベル・チャン監督にそれを報告したら、非常に喜んでいました。

最後になりましたが、今年もグルジア、イスラエル、イランなど、さまざまな国の映画を上映いたします。これらの作品が皆様の心の糧となりますよう、心をこめて上映してゆきたいと思っております。

アクセントボタン 今後のラインアップ
会場風景2懺悔」2008年12月20日〜2009年2月20日
シリアの花嫁」2月21日〜4月17日
子供の情景」4月18日〜6月12日
嗚呼 満蒙開拓団」6月13日〜
下記のホームページをクリックして下さい。↓
http://www.iwanami-hall.com/

写真提供 岩波ホール
他に転用不可

終わり

講座企画・運営:吉田源司
文責:三上 卓治
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:大野 令治

<本文はここまでです>



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