現在位置: ホーム(1)講義録一覧 2007〜2009(2) >伝説の映画スター・小史・2・邦画男優編

WEBアクセシビリティ対応
ページの先頭です

2009年2月6日 神田雑学大学定例講座


伝説の映画スター・小史・2・邦画男優編、講師、坂田純治
  


目次

メニューの先頭です イラスト画像の画鋲
はじめに
片岡千恵蔵
渥美 清
石原裕次郎


メニューに戻る(M)

坂田純治 講師はじめに

どうも、私の話はレトロ調というか、古臭いという風評があるようです。
文化、とりわけ芸術の領域においては「今どきそんな古風なものを」と人は言うかも知れません。では「新しさ」とは一体何でしょう。私は映画の歴史を説いているのであって、監督やスター達のプロフィルをなぞっている訳ではありません。映画誕生して百十数年。先人が残してきた、歴史に耐え抜いてきた古典をこそ学び、「新しさ」を探り当てたいと、私は願っているのです。

メニューに戻る(M)

片岡千恵蔵

今日のトップを飾るのは、レトロもレトロ。名前さえもご存知でないかも知れぬ「片岡千恵蔵」であります。「チャンバラ」という音の響きは、我々世代の少年時代、あるいは東映の時代劇華やかなりし頃のなつかしい「ゴロ」として深く胸に残っております。
「阪妻」=阪東妻三郎、「大河内」、「右太衛門」、「嵐カン」、「長谷川一夫」etc・・・・・
終戦後の数年間、GHQ統制化の「チャンバラ禁止令」の時期を除いては、剣豪たちはスクリーンを大いに楽しませてくれました。

「片岡千恵蔵」は1903年群馬県新田郡の水道屋に生まれました。芝居好きの父の影響を受けて、「十一世片岡仁左衛門」の門下に入り、20歳までは歌舞伎の修業しましたが、この世界の門閥制に不安と嫌気を感じ出した頃、奨める人がいて映画界に入ります。

「嵐カン」や「右太衛門」などにくらべて「チャンバラ(殺陣)」はあまり得意な方ではなく、むしろ「ユーモア」とか「センチメンタル」な、新鮮な個性で売り込んだ方がいいと周囲の「ブレイン」が奨めます。当時の彼の周辺には、伊丹万作、山中貞雄、稲垣浩等々斬新で活力のある人たちが揃っていて、「マゲを付けた現代劇」風な路線を敷いて行きました。

膨大な製作本数ではあるが、「嵐カン」の「むっつり右門」「鞍馬天狗」。「大河内」の「国定忠治」「丹下左膳」のような所謂「十八番モノ」が目立たないのは、その故であろうか。(吉川英治の「宮本武蔵」)がベストセラーになった頃の取り組みは別格)。晩年は「現代モノ」とか「ザン切りモノ」にも付き合い、TVでは「大岡越前」で、加藤剛の父親役を演じたりしておました。1983年8月、腎不全のため80歳で生涯の幕を閉じました。


       
(1)「赤西蠣太」(1936年)志賀直哉原作。伊丹萬作監督。
野暮で醜男の間者(赤西蠣太)が、伊達62萬石を狙う原田甲斐の(歌舞伎の先代萩の仁木弾正。戦後、山本周五郎の名作「樅の木は残った」で新解釈が成された。)陰謀を暴く苦心談をユーモラスに描いた。千恵蔵は「蠣太」と「甲斐」の二役を演じた。

片岡千恵蔵4枚の画像


(2)「血槍富士」(1955年)井上金太郎脚本。内田吐夢監督(復帰第一作)。東海道を江戸へ下る道中の人々の多角的な人間模様の明暗を描いている。グランドホテル型式の戦後時代劇の最高傑作と賞せられた。

ストーリーの芯になっているのは、<武士とは何か>。懐疑的で心優しい主人が二人の奴を連れて江戸へ下る。だが、酒を飲むと人が変わったようになり、さる宿場で諍かった五人の侍と斬り合いになり惨殺される。急を聞いて駆けつけた
<槍持奴>が槍術も知らぬ侭、五人の侍を突き伏せ、主人の仇を討つ。

(3)「浪速の恋の物語」(1959年)内田吐夢監督。
千恵蔵も50代半ばを過ぎると、もう激しい殺陣は無理となり、性格的な役柄に落ち着いた風格を引き出すようになる。この作品は歌舞伎で名高い
「恋飛脚大和往来」の梅川・忠兵衛の悲劇を、二人の主人公に熱い情と、やり場のない現実を滲みこませて、如何にしてこの名作を創り上げたか、作者近松門左衛門を力演している。余談になるが、錦之介と有馬稲子のロマンスを生んだ佳作。

関東緋櫻一家 片岡千恵蔵、画像二枚

(4)「関東緋櫻一家」(1972年)マキノ雅弘監督
東映の時代劇路線も漸く下火になり、代わって「任侠路線」が台頭する。その屋台骨の一人となって健闘してきたのが、緋牡丹お竜こと藤(現富司)純子。だが、彼女は歌舞伎界のプリンス尾上菊之助(現七世菊五郎)と結婚することとなり、東映オールスターで送別の作品を作ることになる。千恵蔵も東映の重役の一人として呼応し、渋い貫禄を見せる。もっとも、その千恵蔵もあと二本、付き合い程度の作品に出演したが、事実上これが遺作同然となった。

メニューに戻る(M)

渥美 清

「俳優渥美 清」と呼ぶより「風天の寅さん」の名が通りのよい、まさに国民栄誉賞スターであります。26年間で48作の寅さん映画を撮り、独りの主役で48連作の功績はギネスブックにも記録され、永く謳われております。彼は東京・下谷の生まれ。貧しい棟割り長屋で、暗い家庭。学校の成績も悪く、リーゼントスタイルの不良グループの兄貴分で、周囲の鼻つまみ的存在でした。

テキヤ(香具師)の世界を知ったのも、この頃のことでした。
父の友人の誘いで軽演劇界に入り、幕引きをはじめに素地を作って行きます。様々な劇団を渡り歩き、漸く落ち着いたのが、ストリップと寸劇の浅草フランス座でした。
当時の仲間には、谷幹一、関敬六、八波むとし等がおり、裏方の筋書き作者には井上ひさしも籍を置いておりました。徐々に人気も高まり、顔も知られるようになってTV局から迎えられるようになり、中でもNHKの「若い季節」などは好評でした。

拝啓天皇陛下様、渥美清TVの人気に目をつけた映画界でも、脇役の三枚目として次第に使われるようになります。そして、遂に1963年「拝啓天皇陛下様」で主役の座を獲得、愛嬌があって憎めない人物の個性を好演します。

1968年、渥美が自分の不良少年時代の思い出を語ったのを聞いた山田洋次監督は、イメージを膨らませて脚本を書き、フジTVでドラマ化して評判を呼んだ「男はつらいよ」を映画化することを決め、遂に1969年、スクリーンに「風天の寅さん」が誕生します。1996年8月4日、病苦(肺ガン)と闘いながら、48作目を撮り終えた直後に68歳で生涯の幕を閉じます。



(1)「拝啓天皇陛下様」(1963年)棟田 博原作 野村 芳太郎監督
拝啓天皇陛下様、急行列車昭和6年から、大戦終結後の昭和25年頃にいたる間。作者と人の良い兵卒「山ショウ」との長くて暖かい戦友同志の友情を描いた佳作。渥美の初主演作。

(2)「急行列車」(1967年)瀬川昌治監督。
急行列車(ブルートレイン)の専務車掌の悲喜こもごもの奮闘談。検札の折に難癖をつけて中々チケットを見せないのがいる。横須賀線の車掌時代に毎日出逢った思慕の人も乗り合わせている。

(3)「あヽ、声なき友」(1972年)有馬頼義作(遺書配達人)今井 正監督。
南方の戦線に赴き、全滅した部隊の一兵卒。辛くも戦病のため内地に送還されるが、別れの時に託された戦友たち遺書を八年掛かりで、全国に配達して歩く。今井 正が渥美をシリアス作に起用した意図の是非を問われる問題作。

(4)「男はつらいよ・フーテンの寅」(1969年)第一作。山田洋次脚本・監督
葛飾柴又帝釈天の門前横町のだんご屋「とらや」。その店の甥っ子で、今はテキ屋稼業の「寅さん」が十数年ぶりでひょっこり帰ってくる。叔父の「おいちゃん、そしておばちゃん」。

二人に育てられた妹の「さくら」、やがてその夫になる「ひろし」、二人の間に生まれた「ミツオ」。「ひろし」の勤務先の社長「タコ」。帝釈天の「御前様」。寺男の「源公」等々、レギュラー・メンバーが醸し出す下町人情。疎外された人間の悲しさ、善意の中から笑いとペーソスを生み出す山田洋次の脚本の創作力、そして渥美の好演と相俟って26年間に48作の記録的連作を成功させる。

講義する坂田純治講師 一部の批評家には、パターンが定例化してしまってマンネリだと誹謗する風潮もあったが、このスタッフ・キャストの並々ならぬ総合力には頭が下がると、知らぬ間に反旗を下ろして行った。このシリーズに花を添えるのが<マドンナ>である。今日の第一作の光本幸子を初めとして、毎回第一級の当代美女スターを寅さん片想いの相手役として登場させる。48連作中、39人の<マドンナ>が登場するが、差し引き9名はダブル登場である。(例、浅岡ルリ子4作。竹下景子3作。吉永小百合2作etc・・・・・・である)

「おいちゃん」も森川 信から三代替わり、甥の「ミツオ」も赤ちゃんから幼年期の中村はやと、そして吉岡秀隆の三代目となり、42作目頃からは温和になった「寅さん伯父さん」から、恋の手ほどきを受けるほどに成長する。まずは、本日の第一作をご覧頂き、これをもって48作のすべての通(つう)になることを請合いたい。

メニューに戻る(M)

石原 裕次郎

少し若いジェネレーションに接してみましょう。
戦後の生んだ空前の大スター「石原裕次郎」です。裕次郎は兄慎太郎と2才違いの兄弟。父の勤務先の都合で小樽、そして逗子などで幼少年期を過ごします。慶応高から慶大法科へ進み、兄が芥川賞を受賞した「太陽の季節」で生まれた太陽族の流行語を地で行くような生活に明け暮れます。「太陽の季節」は直ちに日活が映画化権を獲得し、慎太郎自身出演も希望しますが、彼は既に東宝と三作の出演契約を結んでおり、この話は不成立。

代わって弟の裕次郎が日活との契約を済ませていたので、「太陽の季節」の方は長門裕之・南田洋子のコンビの端役ながら、まずまずのデビューを果たします。
続いての「狂った果実」では、北原三枝とのコンビを組み、遂に主役を張って裕次郎ブームを惹き起こします。

裕次郎画像、出演映画写真5枚


映画化に先駆けてテイチクレコード専属の第一回吹き込み「俺は待ってるぜ」も大ヒット。映画に歌に裕次郎ブームは衰えを知らず急上昇する一方で、他社をして、手の施しようもないと嘆かせるばかりでした。1967年の芸能人高額所得番付では、美空ひばりを抜いてトップに躍り出ました。日本人離れした脚長のスタイル、物おじしない風格、そして歌。裕次郎ブームは何時果てるかも知れぬげに続きます。

1970年代に入ると、漸く映画界の方も下火となり、TV「太陽に吠えろ」などに新生活路線を見出す。しかし、好事魔多し戸申しますが、肥満した体系と黒ずんだマスクには既に昔日の面影は消え、1973年作品「反逆の報酬」を最後に主演作には登場しなくなりました。
1987年7月、かねて痛めていた肝臓ガンで52歳の幕を閉じました。



(1)「狂った果実」(1956年)石原慎太郎作 中平康 監督
兄慎太郎の芥川賞受賞後の問題作。裕次郎は主役を張り、太陽族ブームを巻き起こす。

(2)「乳母車」(1956年)石坂洋次郎作 田坂 具隆 監督
小説に映画に大ブームを惹き起こした太陽族の名は、一部良識派から糾弾を受け、日活は大慌て。裕次郎の資質を広げようと新しい路線を敷いて批判者の好感を受け、裕次郎の魅力が再認識された記念碑的作品。

(3)「愛唱歌集」
  (1957年)「俺は待ってるぜ」(1957年)「嵐を呼ぶ男」
  (1962年)「銀座の恋の物語」(1964年)「赤い ハンカチ」
  (1967年)「夜霧よ今夜も有難う」・・・・・・・・・・。
  未だに脈々と歌い継がれている裕次郎の魅力。

終わり


                 

参考文献
参考文献出版社 ビデオ上映作品の制作配給会社
中央公論社 松竹
創元社 東宝
白水社 大映
岩波書店 新東宝
秋田書店  日活(新)(旧)
近代映画社 近代映協、ほか
キネマ旬報社他 ーーー




文責:三上卓治
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


本文はここまでです


このページの先頭へ(0)

現在位置: ホーム(1) 講義録一覧 2007〜2009(2) >伝説の映画スター・小史・2・邦画男優編

個人情報保護方針アクセシビリティ・ポリシィ著作権、掲載情報等の転載、リンクについて連絡先

Copyright (c) 1999-2009 kandazatsugaku Organization. All rights reserved.