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平成21年2月13日 神田雑学大学定例講座No444


今日の人、内田嘉吉、アメリカ視察中での写真

千代田図書館トークイベント、ジャングル探検報告会、講師 千代田図書館サポーターズクラブ会員の4人


目次

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1.はじめに 進行係から
2.菅谷彰 ジャングル探検隊の企画と離陸
3.中野重夫 ハクルート叢書を中心に
4.菅谷彰 コメント
5.臼井良雄 内田嘉吉とはどんな人?
6.菅谷彰 コメント
7.広瀬徹 大いなるディレッタント内田誠について
8.水谷剛 国叢書を中心に
9.菅谷彰 コメント及び質疑
10.菅谷彰 まとめ



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1.はじめに 進行係から

河合郁子進行役 千代田図書館で企画を担当しております河合です。
本日のイベントは千代田図書館のサポーターズクラブの会員が分担して講師を行うオムニバスの形式になっています。 神田雑学大学さんもサポーターズクラブの法人会員さんで、本日の講師のなかには、両方の会員になっていらっしゃる方もいらっしゃいます。
お手元に配布しました資料について簡単にご説明させてください。

一番上の2枚の印刷物は今千代田図書館で企画展示を行っております、「実務家の本棚から見た日本」の案内です。千代田図書館が所蔵する「内田嘉吉文庫」を紹介する展示となっています。

本日のタイトルはジャングル探検隊ということなんですが、今回ジャングルというのは千代田図書館にあります、内田嘉吉文庫を中心とする閉架倉庫中の資料のことを言っています。手がかりが少なくてなかなか整理されていない、まるでジャングルのような資料の山ですが、そこへサポーターズクラブの皆様が探検をおこなった、その報告が今日のイベントになっています。配布しています黄色い表紙の55ページの冊子がその探検成果の報告をまとめた文集です。 では本日の司会を務めます千代田図書館ゼネラルマネージャーの菅谷彰に交代します。
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2.菅谷彰 ジャングル探検隊の企画と離陸

菅谷彰司会者 ご紹介ありました菅谷です。私がジャングル探検隊の発起人ということなんで、何でジャングル探検隊なのかという話を少しして、あと講師の方々をご紹介します。
リニューアル前の千代田図書館のころから長く所蔵されておりここ約20年間は特に眠っていた古い本があります。400年前くらい前から90年くらい前までの本です。これをどうしようかと図書館のみんなで考えたんですが、なかなか良い方法がない。
学会の権威を呼んできてもなかなかうまくいかんだろう。そこで、どうせどうせわかんないんだから、多くの人で眺めてみて、なんか面白いものを見つけようという、極めて大胆な発想で行きました。
もうひとつ、私はずっとボーイスカウトをやっておりまして、昔からジャングル探検とかにあこがれがあったもんですから、同年代の方々にとってちょうど良い青春の思い出になるだろうということで結成をさせていただくことにしました。その話はこの黄色い冊子の一番後ろに乗せました。

やり始めてみたらとても難しい。洋書が約1万冊、和書とか漢書も非常に古いものが多くて困難の連続でありました。 ちょっとだけ見ていても全然歯が立たないことがわかり、3日間にわたる夏期集中調査を昨年夏に企画しました。いま並んでおられる講師さんはその時の主要メンバーの方々です。その時以降の発掘記録ということで今回発表をさせてもらうことになります。 この調査の視点は、まあこれが千代田図書館の精神なのですが、特に何の視点でという注文は一切付けず、自分の趣味でいかに楽しんで発掘をして頂くかというのが一番大事と考えました。対象となる本は昭和8年までに集められた本なので、それに対してどこまで現代のセンスでアプローチできるか、新しい面白さを発見できるかということで行われました。各人の想いが結集されたのがこの黄色い冊子であります。
冊子、サポーターズクラブとジャングル探検隊

今日の4人のメンバーの略歴等については僕はよく知りません。非常に有能なメンバーであるということ以外は何も分からない。しかし文章を読んでいるとおのずと皆様の専門分野バックグラウンドが見えてきます。
本当は今日はもう1名、上野允子さんが講師として登壇願える予定だったのですが、ちょっと御病気になってしまいましたので、上野さんの分は配布冊子でご覧いただくほかはありません。残念です。 今日の発表はこちらから中野さん、臼井さん、広瀬さん、水谷さんという順番でお願いします。最初はイングランドフリークの中野さん、よろしくお願いいたします。
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3.中野重夫 ハクルート叢書を中心に

中野重夫講師中野と申します。今日初めて拝見したのですが、自分が書いた拙い感想文がこのようなきれいな冊子になりますとなんとなく面映くも嬉しい気持ちになりますね。
しかし今回の趣旨はなによりもジャングル探検の結果報告であると認識しておりますので、時間も限られていることから、お手元の冊子の私的感想については後ほどご覧頂くこととして、まずは探検の事実報告を中心にお話をさせていただきます。

今回の探検における私の担当分野は、内田嘉吉文庫の特徴的な資料グループのひとつである「西洋の冒険書や旅行記」でした。なかでも、その中核をなすものとして文庫発足当時よりつとに世評の高かったものが、本日のご報告のテーマである内田の「ハクルート叢書」コレクションです。
耳慣れない方も多数いらっしゃるかと思いますので、先ずこの「ハクルート叢書」について簡単にご説明いたします。
これはイギリスの高名な歴史叢書で、ヨーロッパ世界による地理上の発見の時代、いわゆる「大航海時代」を中心として、関連の航海、探検記録等を広範かつ体系的に編纂したものです。1846年設立のハクルート協会により翌47年に創刊され、以降ほぼ年2回のペースで刊行が続けられて現在三百有余巻を数えるに至った大叢書です。
この歴史叢書の本質を一言でいうと、学問的な良心に貫かれた非常に上質な「英語版の啓蒙的手引書」ということになるでしょう。時々誤解されるようですが、この叢書そのものは必ずしも研究者の直接の研究対象資料ではありません。なぜならそれは、希少かつ重要なオリジナル資料−原典− を採り上げ、これに厳密周到な校訂・注解を施して同時代の用に供する、といった性格のもので、基本的に二次資料だからです。
ここには翻訳という大きな問題も存在します。ご案内のように、大航海時代の輝かしい先駆者はポルトガル、スペイン、オランダといった国々でした。したがって、「ハクルート叢書」にはこれらの国の言葉で記された原典の英訳という形態が多く、内田文庫が保有する1847〜99年刊行の第一期全百巻の場合、実に約六割が他言語からの翻訳版です。
如何に有用なものであろうと、これは二次資料です。原典が存在する以上、研究者はそちらに赴かなければなりません。“偉大なる啓蒙的手引書”たる所以です。

この高名な叢書のイメージを手っ取り早く掴んで頂くのに好適な和書があります。岩波書店の「大航海時代叢書」です。明らかにイギリスの偉大な先例に範をとった、「日本版ハクルート叢書」ともいうべき堂々たる叢書で、こちらはよくご存知の方も多いと思います。
実は私は今回の活動で初めてその存在を知ったのですが、本当に素晴らしいものですね。このような壮大にして周到かつ良心的なプロジェクトを企画し、実現する心意気と活力が、かつてはわが国の出版界にも存在したのです。まさに隔世の感があります。
1965年に初刊が上梓され、以降実に30年を費やして第一期、第二期全37巻が刊行されました。千代田図書館の開架にも全巻が揃っています。

さて、ジャングル探検の結果についてです。冒頭言及したように、内田による当該コレクションの存在は早くから関係者に知られており、そういう意味ではそもそも今回ジャングルに分け入って発見するという類の探検対象ではありませんでした。
一方で、そこには一種の「神話」が存在していました。それは今から七十年前の文庫誕生(1936年)と同時に生まれ、その後何の検証も見直しも経ずにそのまま踏襲されて今日ある、と言った態の神話です。
今回の私の「探検」の主な目的は、そうした「ハクルート神話」の経緯を辿り、現時点におけるその有効性を確認することにありました。
講演風景
この神話のそもそもの源が、この冊子の10ページ中段に該当部分を引用した『内田嘉吉文庫稀覯書集覧』序文です。

内田の死後三年を経過した1936年の文庫立ち上げの際に編まれた稀覯書集覧に、故人が敬愛した幸田露伴の実弟で当時慶応大学教授の職にあった幸田成友博士が寄せた一文です。
そのなかで、内田の「ハクルート叢書」は、わが国では他に求め難い希少な網羅的コレクションであるとして文庫が保有する稀覯書の筆頭格の地位を与えられました。
当時の評価として、これはおそらく妥当なものであったと思われます。この集覧は私家版でありながら広く世に流布し、「価値ある稀覯書」としての「叢書」の存在は関係者によく知られるところとなったのです。     
それから三十年が経過した1960年代後半に至ってもなお、基本的に上記と同様の評価が権威ある公的な記述のなかに認められます。同じく冊子10ページの冒頭の引用がそれで、さきほど言及した岩波の「大航海時代叢書」の別巻(資料解題編)中にある記述です。
これを見れば、上記草創期の神話はこの時点においてなお有効であったといえるでしょう。
蛇足ながら、ここに引用した一文はまさに稀代の読書家・蔵書家」内田嘉吉の躍如たる面目を伝えるものです。
“埋もれた人”内田嘉吉への後世からの最大級の賛辞というべきで、このたび縁あって内田の事績の一端を辿ることとなった身として大変嬉しい思いがいたします。

そして「神話」の現在です。結論を先に申し上げれば、残念ながらそれは既に見事に失われた、とご報告せざるを得ません。
この「神話の崩壊」を最終確認する過程はまことにあっけないものでした。それは、いささか誇張して言えば、自室のパソコンの前に半日座ってインターネットを検索するだけですべてがたちどころに明らかとなった、といった態のものでした。
曰く、国会図書館はもとより、国内の主要総合大学図書館のレベルで「叢書」は既に標準装備の文献となっていること、検索したいずれの保有図書館でも、通常図書と同様誰もがいつでも自由に閲覧できる管理状況にあると思われること、“国内では唯一、第一期(1847〜99)百巻の完全コレクションを保有”という「文庫」の従来のセールスポイントについては、同様の網羅性を有する図書館が他にも存在すること、ハクルート協会では既に在庫切れとなったバックナンバーについても、インターネット上の古本市場に十分購入可能な価格で豊富に出回っていること、等々です。「ハクルート叢書」コレクションが「筆頭格の稀覯書」であった時代は既に過去のものとなったと言っていいでしょう。

このまことに実も蓋もない検証結果を受けて、それでは今後当該コレクションをどのように運用し、その活用を図ればよいのか、というのが次の課題でしょう。
なかなか難しい問題で、残念ながら今ここでご提案できるような良いアイディアの持ち合わせはありません。
しかしいずれにせよ、内田の「ハクルート叢書」コレクションはもう後生大事に千代田図書館の書庫の奥に保存し続けるべきものではなくなったのですから、今後は広く一般の方々に公開して利用に供していただくのが適当であると思います。
そもそも内田嘉吉文庫の設立趣旨にも、「その目的とするところは広く一般の読者を利するにある」とうたわれているのです。その方向で然るべき活用を図るのが最善と考える次第です。  

さて、ここまでのご報告で既に持ち時間を大幅に超過してしまいました。
以上の事実報告とは別に、当然今回の「探検」の過程で喚起された私的感想があります。最後に一言これに言及して終わりたいと思います。
今回の調査で、それまで全く知るところのなかった内田嘉吉という人物は、当初の“人の好さそうな本好きの変わり者”から“近代日本の一つの時代精神”へと次第に姿を変えてゆきました。
もっと下世話に、内田という人物がだんだん好きになっていった、と言ったほうがいいのかも知れません。
その際、個人蔵書とはそれ自体所有者の精神と人生の反映ですから、内田文庫を手掛かりとして内田その人や彼の生きた時代を考えるという道筋が当然あり得るはずです。
そうした観点からとりあえず内田の「ハクルート叢書」コレクションを取り上げてみたとき、そこに彼を巡るどんな時代の風景が見えてくるか、というのが、冊子中の拙文(『“祝福された島国”の興亡 〜今「ハクルート叢書」が語りかけるもの』)の主題です。
大変に唐突で言葉足らずな物言いで恐縮ですが、その風景とは、内田という時代精神と、彼がその建設に深く関わった近代日本の辿った運命であり、さらに言えば、内田と近代日本と西欧帝国主義がお りなす時代の姿です 第一回ロンドン万博会場クリスタルパレス キャプテンドレークの乗った船救国の英雄ネルソンの像

歴史的に見れば、「ハクルート叢書」第一期プロジェクトとは、同時代に出現した巨大な万博パビリオンや救国の海の英雄の記念柱などと同様、大英帝国盛時を象徴する一つの史的モニュメントです。
そしてその「叢書」が顕彰する大航海時代とは、まさしく西欧帝国主義の開幕を高らかに告げる時代にほかなりませんでした。
西欧文明という大文明にとって、帝国主義はまことにその骨肉に絡む宿命的な本質の一つです。
その脅威と開国後直ちに裸で向き合うことを余儀 なくされた近代日本は、俄か普請の近代化の道をひたすら 邁進し、やがて自らも帝国主義の隊列に加わり、必然的に破綻し、前世紀半ばの大戦で清算されて終わるのです。
往時切っての国際派であり、自ら台湾の植民地経営にも携わった内田は、この西欧帝国主義をどのように理解し、これと 向き合い、折り合いをつけて近代日本の激動の時代に身を処したのでしょうか。内田嘉吉という時代精神を巡る、今後の興味深い問題の一つであると思います。
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4.菅谷彰 コメント

ありがとうございました。
ハクルート叢書というのは16世紀に生きたリチャード・ハクルートという人を記念して作られています。菅谷彰千代田区立図書館ゼネラルマネージャー
この人は大英帝国が世界を覇権するというシナリオを描いた人なのです。彼は16世紀にイギリス軍を世界中にガンガン派遣した大資本家でした。
その結果約200年後にハクルート協会が設立されたわけです。
内田嘉吉が生きた時代とは、明治から大正、昭和にかけて、イギリスに追い付き追い越せとをひたすらやった時代なんです。
先ほど中野さんが大事なことを指摘なさったと思うのは、ハクルート叢書は一見専門書のように見えますが、その当時の教養書だったということなのです。これを大いに勉強しながら内田嘉吉は台湾の民生長官なんかをやっていったわけです。
まあ日本の海外進出を支えていった一人なのです。
そういう意味でこういう叢書が教科書になった時代があるということで、それを現在の目から見ると別の面白さがあるというのが今回の話なんだと思うのです。
では次に内田嘉吉というのはどんな人だったんだろうという話を臼井さん、お願いします。
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5.臼井良雄 内田嘉吉とはどんな人?

臼井良雄講師 臼井です。お手元にある資料の裏を見てください。 ここに内田嘉吉文庫における5つの特徴的な資料グループというまとめがありますが、昨年の7月サポーターズクラブでジャングルに分け入った時、凄い本の山で、この中で何を見るのかなと戸惑いました。
最初はいろいろな絵が入っている西洋から見た日本とかハクルート叢書の立派な装丁の本とか、魔女狩りの時代に人間の皮で製本されたという噂のあるキリシタン本を見ていたのですが、時間がたつにつれ、この3番目の「政府刊行物各種調査資料」5番目の「内田嘉吉という人の著作」が非常に面白いなーと感じてきました。

これだけいろいろな分野の本や資料を個人蔵書として集めた内田嘉吉ってどんな人なんだろうと思いまして、私はこのジャングルの中から「内田嘉吉という人物」を探ってみようと決めました。 お手元の黄色い冊子の中には私がその後半年でまとめた「工業立国の牽引者としての内田嘉吉」と「内田嘉吉と後藤新平」「内田嘉吉ってどんな人だったんだろう?」の3点を載せていただきましたが、今日は最後の「内田嘉吉ってどんな人だったんだろう?」に従って概要をご説明いたします。
まず、こんな顔をしていた人でした。
内田嘉吉 内田嘉吉は江戸時代最末期に神田で生まれ、東京外国語学校を出、26歳で東京帝国大学を卒業、高文試験に受かり、逓信省に入省したという、当時の身を立て、名を挙げのエリートコースで育った人です。明治初頭の欧米に追いつき追い越すために、懸命の勉学をした人です。語学力と幅広い教養はこの学生時代に身につけたものでしょう。
逓信省に入ってからは主に海事の専門家として、法律にかかわること、海の事業振興にかかわること、海にかかわる教育振興などにかかわって、日本の海事行政の確立は彼に依ったと後世評価された人です。
逓信省の優秀な官僚時代、彼は後に大きなかかわりを持つことになる後藤新平や渋沢栄一と仕事を通じて知り合い、信頼関係を深めていきます。
彼がいかに有能であったかということは、法律の専門家として伊藤博文が作った、「内閣法典調査会」の委員に若くして選ばれていることからも分かりますし、若い時分から多くの海外視察を命ぜられていることからも推察されます。

優秀な逓信省官僚だった彼は、後藤新平に抜擢され、45歳で後藤新平がやっていた台湾総督府民政長官の後任になります。政治家への転身です。
彼は後藤と密接なコミュニケーションを保ちつつ、後藤が企画していた大きな革新的なプロジェクトをどんどん実現化していきます。
製糖業の確立、山林行政インフラの確立、理蕃事業の確立、水利事業の確立、2大築港による海運業の確立などいまだに台湾でも評価されている事業が推進されました。
台湾の嘉義平野の水利開拓で有名な八田興一も内田が民政長官時代になると同時に台湾に土木技師として赴任しています。

それからもうひとつ、堪能な語学力と識見を買われたのでしょう、海外視察を考えられないくらいの回数、日数やった人です。ここに表を書きましたが、欧米だけでも8回、延べ日数で57ヵ月も行っています。

【嘉吉の海外経験】
33歳 (12ヵ月) 欧米諸国
34歳 (3ヵ月)  香港、清、朝鮮、ロシア
35歳 (期間不明) マカオ、オーストラリア
40歳 (1ヵ月) 清、朝鮮
42歳 (4ヵ月) 清、朝鮮、他
43歳 (7ヵ月) 欧米諸国
50歳 (7ヵ月) 欧米各国
54歳 (7ヵ月) 欧米諸国
55歳 (9ヵ月) 欧米諸国
57歳 (3ヵ月) ヨーロッパ(パリ、他)
62歳 (6ヵ月) アメリカ、イギリス、ドイツ、他
64歳 (1ヵ月)朝鮮、満州、支那
65歳 (5ヵ月)オーストラリア、フィリピン、他
67歳 (6ヵ月) ヨーロッパ

アジア、豪州にも6回、延べ日数で15ヵ月も行っています。
きちんとした仕事をしながら、人生の中でトータル6年くらいの期間、視察旅行に費やしていたというのは普通では考えられませんね。
こうやってまわって見てきたことを、内田は数多くの講演で語っています。海外通として知られた内田嘉吉の講演録がいくつも内田嘉吉文庫には残っています。

そして次が民間人となった時代の内田嘉吉です。台湾総督府の新しい総督と意見が合わなかった内田は民政長官を依願退職し、民間人になります。
それからは、豊富な知見を生かして、化学工業協会の設立とか、日本産業協会の設立とか、都市研究会の設立とか、安全第一協会とか色々な民間による社会インフラ作りに一生をささげています。
この間は後藤新平と渋沢栄一が常にそばにあって、志を同じくして動いていたのだなということを感じます。
講演風景
たとえば後藤新平が東京市長になったのも、鶴見祐輔の「後藤新平正伝」によれば、内田が動いて固辞する後藤を担ぎ出したことが書かれていますし、国策会社「日本無線電信株式会社」の設立に関しては、渋沢栄一と内田が日米の懸け橋を作ろうというテーマで日米の通信インフラを作るべく、中心になって取り組んだことが、渋沢栄一記念財団編「渋沢栄一伝記資料」(竜門社)に詳細に語られています。

そしてもう一つの顔が教育者としての顔です。彼は日本で最初に夜学生のために設立された「東京商業学校」に27歳から逓信省に勤めながら夜は法律を教えていました。
亡くなる時は校長をやっていました。
また後藤新平が会長をやっていたボーイスカウト連盟の副会長もやって、国際会議なんかにも出席しています。

それぞれの顔の内田嘉吉の詳しい姿は、この黄色い文集のなかの、各論にかきました。興味のある方はご覧ください。
ただ内田嘉吉とはどんな仕事をした人だったのかということは大体これで分かっていただけたと思いますので、最後に彼の人となりと私の感想を述べて終わりにしたいと思います。

『内田嘉吉文庫稀覯書集覧』(千代田図書館蔵)略伝中には「君は資性剛健にして中正、胸中常に燃えるがごとき憂世愛国の精神を有し、その生涯は実に恪勤精励の一語に尽くと称するも敢て過言に非ざるべし。君は一面読書家にして博覧強記、尚判断の敏速、語学の練達を以って聞こえ、また海外事情の精通者として広くしられたり」とあります。  
また前記に台湾総督府時代の上司、佐久間総督は『国民保健論』(千代田図書館蔵)の序文で「頭脳明晰、精力絶倫にして時務を知るの俊傑」と評価していますが、同じような評価ではないでしょうか。
『東京商業学校50年史』には当時学校で主事を務めた渋木直一が「今は亡い人」と題して書いていますが、その中で「内田先生には法律を教えられた。先生は謹厳そのものであって、時間中質問を許さなかった。「一体、講義を熱心に聴くならば、質問などある筈はない。若し判らない所があれば質問しても駄目である。自分自身で研究しなければ何にもならない。」と言われたのである。学校の用件で私は折々台湾総督府出張所に伺った。また大森のお宅にも伺った・・・・。事務所でもお宅でも、平日は勿論日曜日でも、接客が前後して詰掛けて来る。私と対談中、刺を通ずるものがあると、時には「君の話しはゆっくりと聞くとしよう。これは簡単だから、一寸待ってくれたまえ。」と後客を呼び入れられたこともあった。30分もする中に幾つもの用件が片付くのである。「その話しはこの前聞いた。忙しいからその先を話してくれたまえ。そう先から先の話をしても際限がない。今日はこれまでにしておこう。」という調子で、一週間も前か、ひと月も過ぎたこともあろうに、次から次と、種々異なった話しを良く記憶されていて、全く重要な部分を聞かれて、一つ一つ片付けられる、鮮やかさは敬服するばかりであった。・・・それからそれへと用談を順序的に、能率的に、しかも簡明直裁に処理せられる先生の・・・云々」と書かれているのも、彼の実務家としての出来る男の一面を伝えているのではないでしょうか。
それではすごい謹厳実直の堅物だったかというと、台湾で出版された『台湾秘話』(千代田図書館蔵)の中には、赴任当初謹厳であった内田民政長官がだんだんに洒脱になり、台湾花柳界での呼び名が「内田閣下」から「内田の旦那はん」になり、そのうちに「嘉吉兄哥」と呼ばれるようになったという逸話もあり、内々には洒脱軽妙な気持ちを持ちながら、家族や公式の場では謹厳実直に振舞っていた内田嘉吉の顔が浮かんできます。

最後に私の感想です。明治・大正という時代は、進んだ文明の国である欧米に追いつき追い越せという教育をしっかり受けて、建国の気概に燃えた人たちがいたんではないかと思います。逓信省の仲間でも内田嘉吉とか下村宏とか沢山の開明的な知識人がいますし、新渡戸稲造なども同じ年代の人達です。
しかし内田は確かに優秀な官僚だったのでしょうが、もし後藤新平に会うことがなかったら、内田の後半生における民間における大きな活動は出来なかったんではないかと思います。
後藤新平という人は自分より有能な人を自分の周りに引き寄せて使った、人材発掘の名手と言われていますけれど、内田嘉吉は最初に逓信省時代の海外視察の帰りに台湾に寄り、後藤新平民生長官の前で視察の講演をしています。
そこで後藤が沢山の質問をしたそうです。たぶんそこで後藤は内田嘉吉を理解したのだと思います。
その後後藤新平は逓信大臣にもなりますし、最後は内務大臣にもなります。後藤が逓信大臣の時、内田嘉吉は管船局長ですし、内務大臣の時は逓信次官になっています。
そして後藤が内務大臣辞職と同時に内田も逓信次官を辞任しています。
後藤の知遇を得て、地位は人を作ると言いますが、内田嘉吉はこうやって優秀な官僚から、優秀な政治家、国家を考える民間の存在になっていくのです。
しかしこれだけの人物が後藤新平や渋沢栄一に比べ、ほとんど名前が知られていないのはなぜでしょう。彼は台湾から帰っての後半生、ほとんど後藤新平の大事業には中心になってかかわっているにも関わらず、副会長とか副団長とかいう形でひっそりと存在しています。
これは私は内田の性格とカリスマ性の不足があったのかと思います
調べていても彼には自己顕示欲という色彩がまったく感じられません。
それから仕事遂行には一生けん命でも、自分の名前を残すことにはこだわっていなかったような感じがあります。親分肌という感じではないのです。
渋沢とか後藤のように人に担がれて大きな仕事をやるというよりは、自分で企画し自分で仕事をするというタイプの人だったんではないでしょうか。
今回こういう人たちの一群に接して、戦前の日本人にもこんなに状況判断が正しくて、リベラルな、しかも政財界にも強い影響力を持ち、社会的にも尊敬されていた人たちが沢山いたんだということに驚きを覚えました。
たとえば日米関係についても日米のマスコミの新聞販売競争のための過激な論調を指摘し、日米のコミュニケーションを図るためのインフラ整備に尽力し、講演などの啓蒙活動を、工業倶楽部あたりを中心に内田や渋沢はずいぶんしています。
内田は昭和8年の1月、渋沢栄一は昭和5年、後藤新平も昭和4年、亡くなってしまうわけですが、その後日本はあまりにもすごいスピードで、自由に考えも発表出来ない、米英が強いということを知っていても言えない。とても親英米派、知英米派の人たちが存在しているとは思えない社会に変わってしまいます。
今の北朝鮮みたいになっているように見えます。あれだけの知識人やバランス感覚のあるグループが政財界にいたはずなのに、どうしてそう簡単に大政翼賛会みたいな世界に日本は変わってしまったんだろうかと、とても不思議に思いました。
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6.菅谷彰 コメント

これでだいぶ人物像が見えてきたと思うのです。
実は今日上野允子さんが急病で休まれてしまったのですが、上野さんにはこの黄色い冊子の中に「内田嘉吉文庫との出会い」という寄稿をいただいています。
その中で内田嘉吉が亡くなった時、2万余冊の蔵書があったということですが、内田誠の『父』(千代田図書館蔵)を読むと、無類の本好きだった嘉吉の姿が浮かび上がります。
誠氏は嘉吉の言葉として「書物は読みたいのであって、集めたいのではない」と繰り返し書いています。と上野さんは書いていらっしゃいます。私は内田嘉吉文庫を考える上でこれは大変大事なキーワードだと思いましたので、上野さんにかわりまして、付け加えさせていただきました。
さて次は内田嘉吉の息子さんの内田誠の研究をなさっている広瀬さんのお話です。
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7.広瀬徹 大いなるディレッタント、内田嘉吉の息子内田誠について

広瀬徹講師広瀬です。これまでご紹介のように嘉吉という人は立派な人であり、高級官僚でありますし、そういう人が家に帰ってくるとなかなか家族は窮屈な面もあったようです。
そういう父親を持った息子はだんだんと柔らかくなっていくようでありまして、一人息子の誠という人は親父さんとはまるで違って、文芸の方に興味関心を持っていた人であります。
そもそも私が内田誠に関心を持ちましたのは、演劇評論家として名をなしました、戸板康二さんの本を読んでからです。
戸板さんは随筆をかなり多数残されていますが、その中で内田誠について触れている箇所が複数個所あります。
そして内田誠を調べていく過程で、親父さんというのはどんな人なのかなという興味が湧いて、千代田図書館にもお邪魔したという経緯でございます。
この千代田図書館には内田誠の著作物が数冊蔵書としてあります。全国の図書館の中で内田誠の本を複数所蔵しているところは千代田図書館だけであると思います。

まず系譜をたどりますと、内田誠は内田嘉吉の一人息子で、子供が二人いました。内田嘉吉から見るとお孫さんにあたる、隆(たかし)と洋(ひろし)です。
この隆という息子さんが14歳で亡くなります。 内田誠プロデュース内田隆作文集
昭和8年に誠は父嘉吉、それから子供の隆の両方を亡くすわけです。もう一方の洋さんはご健在で、現在85才でいらっしゃいます。
この昭和8年、親と子をなしくた誠が『父』(千代田図書館蔵)それから『内田隆作文集』(千代田図書館蔵)『隆に賜へるの書』という、計3冊の本をプロデュースするわけです。この本を創り上げる過程でいろいろな作家や、挿絵家であります小村雪袋等々とのつきあいが深まるわけです。
この『隆に賜へるの書』というのはかなり貴重な本でありまして、私が見る限り、自費出版図書館というところが人形町にありますが、そこにただ一冊だけ保存をされている本です。この『隆に賜へるの書』に文章を寄稿した人たちは、久保田万太郎、佐藤春夫、北原白秋、秦豊吉等々で文芸家として高名な方々も含まれています。

誠本人は高級官僚の一人息子として育ったのですが、本人は明治製菓という会社に終身奉公した会社員であります。
親父が官僚で、自分自身は会社員で一生を過ごした人です。
本業は、明治製菓の広告宣伝を担当する会社員でありながら、余技として、幅広い領域で活動した人です。
親父さんの嘉吉さんも、教養というものを獲得するために、ディレッタント的に色々な分野に関心を持つわけですが、息子であります誠の方が本来のディレッタントとして呼ぶにふさわしい人間ではないかと思います。
この誠の生きた時代は、10代が明治時代、20代が大正時代、30代40代が昭和前期、50代が終戦後というふうに区分けをすることが出来ます。
この明治26年生まれというのは久保田万太郎から見ると5歳若い、芥川龍之介から見ると2歳若いという年齢です。特に20代、30代を、大正、昭和前期の東京という町でかなり豊かに暮らした人間です。
この時期地方ではかなり経済的に疲弊する状態が続くわけですが、関東大震災以降昭和5年くらい迄の間に東京は復興します。その中でかなり活発に文化活動も行われるわけです。
その時流に乗る格好で、なおかつ親父さんの遺産も継承しながら幅広く文化活動をしたのがこの内田誠だと思います。

学歴を見ますと府立一中出身で徳川無声と同期です。
これは推測ですが無声とかなり一中時代に遊んだじゃないかと思います。本来なら親父さんのように府立一中から帝大に進むのが一般的なコースだと思いますが、この人はどういうわけか東京農大に入学をします。
洋さんから伺った話ですが、誠は非常に植物が好きだったそうで、そういう意味で農大なのでしょうが、帝大に入る学力がなかったのかもしれませんし、そこらへんは闇の中というところです。内田誠については『徳川無聲の世界』という本を三國一朗さんがお書きになっていまして、その中にも誠が登場します。夢聲とはかなり深い関係にあったのだと思います
。 誠は親父さんの威光を受け明治製菓に入ります。嘉吉は台湾総督でありますから、台湾で事業活動をしていた明治製糖と非常に深いつながりがあります。
明治製菓は明治製糖の子会社であります。いわゆるコネ入社で誠は入社をいたします。
ずっと明治製菓一筋でなおかつ宣伝分野だけで会社員生活を送った人です。 講演中の広瀬徹講師
大正時代から森永製菓がかなり活発な宣伝販促活動をやっていまして、それに対抗する意味で明治製菓は、広報誌の『スヰート』という冊子を出版します。これがその創刊号で、のちに復刻されたものでありますが、冒頭エッセイを載せておりますのが、木村荘八という画家でありエッセイストであります。
この『スヰート』は戦争中いったん廃刊されますが、その後昭和26年に復刊されて昭和30年代まで長らく続く広報誌です。
内田誠はこの『スヰート』を編集する際、たとえば内田百聞、川端康成等々文芸界の大御所に寄稿してもらうため、文芸家との緊密なネットワークを広げていました。

それから映画とのタイアップを始めた宣伝広報マンの一人が内田誠です。
成瀬巳喜男監督の映画に「チョコレートガール」(昭和7年)という作品があり、これは明治製菓のチョコレートを映画の中に取り込んで、タイアップという形式をとった映画であります。こういった映画と企業とが、広告宣伝を通して初めて結びついたのも内田誠の時代です。
また小津安二郎とも誠は親交がありまして、小津が出征し中国の南部に行っていた時に、内田誠との手紙のやりとりがあります。
小津家にはこの手紙が残っておりまして、小津安二郎展などが開かれると出品される場合があります。誠は映画関係者ともかなり深いネットワークを作っています。

自分自身の広告宣伝に関しては技術的な研究書を残しておりまして、『實際廣告の拵え方と仕方』という本が残っています。
部下を育てるのもかなり巧みでありまして、最前申しました戸板康二とか、藤本真澄というこの方は後に東宝の有名プロデューサーになった人ですが、一時期明治製菓の宣伝部に在籍していました。藤本さんは銀座の並木座、今は無くなりましたが、あの映画館を作る時に、尽力をされた方です。

これまでが本業なのですが、余技として、この資料にありますように随筆、俳句、書物の編集、雑誌の編集、浮世絵収集、小唄、古書収集という7つの分野で目覚ましい活動、功績を遺しました。
随筆書は合計11点残しています。お菓子に関する随筆というジャンルで、かなりの数の文章が遺されています。
大正から昭和初期にかけて日本では随筆ブームが起きまして、いろいろな出版社から随筆に関する叢書、単刊本がかなり頻繁に発行されました。
この随筆というジャンルは研究対象になりにくい分野でありまして、それこそ作家が余技として書いているものですから、国文学研究者が本格的に取り上げる研究対象にはなりにくいわけです。
図書館の書架を見ますと、随筆のコーナーには、まず枕草子、徒然草、方丈記と並び、その次に大部の江戸期「近世随筆」があり、一足飛びに『日本の名随筆』という作品社から出ている百巻本のコーナーがあるという風になっていて、近代の随筆についてはまとまった書架配置が無く、作家別に配架されている状況であります。
しかしながら大正から昭和にかけては、叢書・全集としてかなりの数の随筆本が出版されています。
話が随筆そのものになってしまいましたが、内田誠は雑誌『三田文学』にも長期間にわたって随筆を寄稿しています。
また個人句集を2冊、それから歌川広重に関する批評書も出版しています。
誠は晩年露伴フリークになります。幸田露伴の追っかけになって、露伴の自宅まで押し掛けて行って聞き書きをします。その成果が『落穂抄』という聞き書き書一冊になって遺っております。
幸田露伴との関係については、露伴全集の月報に戸板康二が小文を載せていますので、それをご覧いただけるとよろしいかと存じます。

次のジャンルが俳句です。
「いとう句会」という句会を坂倉得旨という人と一緒に内田誠は立ち上げます。
句会の模様は、『春泥』という雑誌を中心に発表されています。
発会時の会員を見ますと、面白いことに会社員で構成されています。久保田万太郎は当時NHKの職員でしたし、演芸課長です。大場白水郎は、俳人としても有名ですが、宮田自転車の役員、それから秦豊吉は東宝の役員、森岩雄は東宝の前身でありますPCLの役員、坂倉得旨は銀座の3丁目にありました玉屋時計店の役員、それに徳川夢聲と内田誠が加わって、このいとう句会が発会するわけです。
このような「二足の草鞋」的な余技の句会という形式については、九九九会(つくもかい)という里見敦と水上滝太郎が中心になって発会し泉鏡花を宗匠とした句会がありますが、ここら辺がモデルになっているように思われます。余技句会についてはこの後文芸春秋中心の文壇俳句会,その後銀座俳句会、それから今はやなぎ句会というのがありますけれど、このように有名人中心に余技の句会を構成するという動きが始まったのがこの時代であります。
最終的にこの「いとう句会」は会員が拡がりまして、誠と親しかった五所平之助や高田保などが参加、師範役として水原秋桜子、富安風生なども参画しています。
五所平之助は素晴らしい俳句を残しています。彼の句集は「日本の古本屋」で手に入りますので、ご関心のある方はお読みになるとよろしいかと思います。
なお「いとう句会」は、渋谷の「いとう旅館」というところで開かれた句会で、「いとう旅館」の館主は先ほど触れました坂倉得旨の奥さんであります。     

さきほど父親と息子が死んだときに、誠は三冊追悼書を編集したといいましたが、『父』という嘉吉を偲んで作った本は「双雅房」という出版社から出ています。
この「双雅房」は、斎藤昌三の「書物展望社」に勤めていた岩本和三郎という人が、斎藤を嫌って飛び出し立ち上げた出版社です。この経緯はかなり面白いのですが、斎藤昌三のがさつなところ、下品なところ、衒学趣味なところを嫌いまして、岩本はかなり高尚な趣味に生きたわけです。
彼については「古通豆本」シリーズ中、今村秀太郎著「双雅房など」という本に紹介されています。

雑誌の編集については、『春泥』をプロデュースしました。基本的に月刊で昭和5年から12年にかけ、計89号を発刊しています。
小村雪岱デザインの表紙が特徴の一つで素晴らしい本です。国会図書館と神奈川近代文学館で閲覧できます。この『春泥』を中心にいろいろな俳句関係の人が寄り集います。
増田龍雨・長谷川春草・伊藤?二・小泉迂外というような人たちが集うわけですが、今では忘れられたこういう大御所たちです。
この4人については、加藤郁乎さんが、毎日新聞刊行の雑誌『俳句α』に「忘れられた俳人たち」という題の連載の中に取りあげておられます。
小村雪袋7デザインの内田嘉吉文庫稀覯書集覧表紙左の写真は小村雪岱が装丁した『内田嘉吉文庫稀覯書集覧』(千代田図書館蔵)の表紙です。素晴らしさの一端が分かっていただけるかと思います。

内田誠は浮世絵も集めていました。広重中心に多数の作品を集めたのですが、終戦直前全部売り払います。
内田誠の浮世絵収集活動の高い水準については、谷川正巳著『フランク・ロイド・ライトの日本:浮世絵に魅せられた「もう一つの顔」』(集英社新書)に引用されていた「浮世絵収集番付」(昭和13年発表)で、誠が前頭に位置づけられていることからも推量されます。

もう一つの趣味が小唄です。さきほどお話しました木村荘八と一緒に小唄を習っておりましたし、『高橋お伝』という小説で有名な作家邦枝完二と一緒に荷風に対し小唄界の現状について、ご進講したこともあります。
荷風の『断腸亭日乗』昭和5年7月13日の項に、内田と邦枝の名前が出てきます。

そして最後が古書収集で、反町茂雄さんの『一古書肆の思い出』にも数か所言及されています。
これまで縷々述べましたように、本業以外の余技でも鳴らした内田誠であります。父親の嘉吉の生涯に比べて非常に特徴のある、性格の異なった人生を送った方であります。

話は変わりますが、誠の散歩する回遊路を調べてみますと、まず三菱ビルの中にありました籾山書店、帝劇、帝国ホテル、宝塚と、丸の内周辺をブラっとして、京橋の明治製菓本社にもどり、そこから銀座を歩いて、三田の明治製菓の売店に至ります。
この明治製菓の売店では『三田文学』の編集会議なども行われていたようです。
帰りは大森の入新井町であり、そこに誠、嘉吉が暮らした家があったのです。東京が、東西に発展する前の、南北に遊ぶコースです。
最後にまとめとして誠の交友圏が非常に広かったということを強調しておきたいと思います。
いとう句会の面々を見ても、また斎藤昌三を嫌った岩本和三郎と懇意になったり、どうも誠には東京人の持っている肌合いというのがありまして、ここら辺はひょっとしたら嘉吉から受け継いだものかもしれません。
嘉吉があくまでも補佐役の官僚として働いたという点は、江戸人、東京人の含羞といいますか、一種のテレみたいなところもあるのかもしれませんし、その性格が前面に出たディレッタントとして生きた人が、この内田誠でありましょう。
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8.水谷剛 異国叢書を中心に

水谷剛講師 私の父は内田誠の勤務した明治製菓のライバルの森永製菓に40年奉職していました。ご縁を感じますね。
ところで皆さん、内田嘉吉文庫は2万冊といいますが、2万冊というとボリュームにしてどんなイメージが浮かびますか?
丁度5,6年前に私は大阪郊外の司馬遼太郎記念館に行ってきました。司馬さんが亡くなったあと、奥様が司馬の蔵書を保存出来るように市に寄付をして新たに保管の建物を作ったのですが、そこの蔵書が2万冊あったのです。
これは安藤忠雄さんの設計ですが、11mの高さの壁面全部が入り口出口を除いて全部本棚になっている。これが2万冊のイメージです。
その本を司馬さんはどうやって集めたのか。司馬さんはあるテーマで本を書こうとすると神田の行きつけの店に、こういう関係の本を全部貰いますという買い方をしていたようです。100とか200冊を一括して買ってしまいます。
これに近い蔵書家がもう一人います。立花隆さんは地上3階地下1階の本棚ビルを建てました。3万5千冊保管の建物すべて本棚です。
外壁に大きい猫の絵がかいてあります。だから通称猫ビルといいます
。蔵書保管では、命の危険があります。木造建築では2階には置けませんね。

仕事をしながら2万冊を集めた内田嘉吉の凄さが分かります。
内田嘉吉がどういう形で何を集めたのか、ということの原点からいきますと、図書館で展示してありましたように5グループの視点に分かれます。
私はそのうちの「海外と日本」という観点から、「異国叢書」(千代田図書館蔵)を発見し、日本は海外の異国とどういう交流をしたか、を探検の対象に選んでみました。
内田嘉吉が何故海外交流の歴史本に興味を覚えたのか?
彼は台湾総督、海事協会の経歴を持ち、これは海のロジスティックですね、そういう背景があったと思います。
それから書籍(本)への見る目が違うのです。
内容ばかりではなくて、初版本を集めるとか、サイン本を集めるとか色々ありますね。
内田嘉吉は完全に内容で集めています。収集家ではなく読書家だと自分のことを言っています。
実は異国叢書はこの実際の聚芳閣出版社のカタログに書いてありますが、予約締切が大正15年11月10日、です。
異国叢書の内容について、細かに述べる時間がありませんので、配布された黄色い冊子の15ページから21ページを後でご覧になってください。
その中で私は3人の異国人をとりあげました。その名前はケンペル、ツンベルグ、シーボルト、です。
この中でシーボルトが多分一番有名、次がケンペル、ツンベルグが一番知られていないと思います。

今日は私にとって大変懐かしい、ケンペルに焦点を合わせて話をします。
私が懐かしいといったのは実は、18年前にケンペル来日300年記念のイベントがありました。
場所は横浜開港資料館、これがその時のパンフレット(個人蔵)です。 横浜開港資料館ケンペル来日300年記念のイベントパンフレット
そしてその時日本IBMが自社のPR誌「無限大」(個人蔵)でケンペル特集をしました。『ケンぺルの見た徳川ジャパン』と題するものです。
私は当時日立にいましたが、IBMの本社に行って、この本をくださいと言ってもらってきたのがこれです。私にとっては貴重な本です。
この本の裏に小さな印鑑が押してあって、「堅不留」とあります。これはケンぺルが自分の名前を漢字で表わしたものです。この名前には意味があるのです。
これは彼の探検家魂(キャラクター)を表しています。「しっかりと大地に立って、留まらずに、広く歩くこと」を意味しています。
多分日本人の誰かがこの名前を付けたのでしょう。
今回のイベントに合わせて、皆様に配布した年表を作りました。年表を作ることは実に楽しいです。
過去の世の中では次から次へと森羅万象の事象が起きています。それを私の選択眼で色々なところからピックアップして、起きていることの関連付けをするために私流に作り替えました。タイトルは江戸時代の欧米人の交流年表です。
江戸時代だけに絞ってヨーロッパ人たちが日本に来てどんなことをしたのかをピックアップしています。
1600年に初めてイギリス人のウィリアム・アダムスという人が来ています。この人は家康に外交顧問として重用されます。
日本に来てたった4年で旗本にまで引き上げられ、横須賀市に逸見(へみ)というところがありますが、そこに領地までもらった不思議な人です。
1602年東インド会社、これはイギリスとオランダの両方が作りました。 IBM社のPR誌無限大,ケンペル特集、ケンぺルの見た徳川ジャパン
さて江戸幕府は鎖国政策を実施しました。

ケンペルは1990年から1992年の3年間しか日本にいなかったのです。その間に長崎の出島から江戸まで2回も往復の旅をしています。
その旅で綱吉将軍に会っています。この時代は元禄ブームに浮かれていた時代でした。いわゆるバブルです。鎖国をしたのに何故バブルか?それは内需を拡大したからです。
ケンペルは2年間ちょっとの日本滞在経験をもとに『開国奇譚』と『日本誌』という立派な本を書いています。
その英語版がグラスゴーというイギリスで発行されたものが嘉吉コレクションにあります。
それを見るとケンペルの凄さがわかります。彼は好奇心と監察眼という目を持っていろいろなところを歩いています。
ドイツから出て、ペルシャで1年滞在し、日本に来るまで7年間かけています。
ケンペルが死んだのは65歳、1716年ですが、このとき8代将軍吉宗が亡くなっています。
ケンペルが亡くなってからは長い間ケンペルの名前は忘れられていました。
自分で集めてきた何万点もの日本の資料を使って記述されたあと、1727年に日本誌の英語版が出版されるまでにずいぶん時間がかかっています。
これは残念ながら親族がそれを隠していたのです。ケンぺルは甥にすべてを託していたのです。
それをスローンという大英図書館、大英博物館の創立者が買い取ります。
今ケンペルが集めた日本関係の資料は大英図書館、大英博物館など4か所に分散されて置いてあります。

そろそろ時間が来ましたので結論ですが、ケンペル一人とっても江戸時代の来日異国人のあれこれで喋りきれないことが沢山あるということです。
ケンぺルは“好奇心満載男”でしたが、このような来日異国人はシーボルトなど他にも沢山います。 講演中の水谷剛講師
本当に本は面白い。本のジャングルに踏み込んだらもう帰れません。
ここで、私がおすすめする本を何冊か紹介します。
荒俣宏さんが翻訳したゴードンスミスの『日本仰天日記』なども面白くて読みだしたら止まらない。
イギリス人のゴードンスミスが日本に明治の半ばから末期に来て、それを日記に書いている。そして10年前にそれを荒俣さんが見つけて出版されたのです。
また、これは竹井出版の『私の書斎』です。書斎を見れば人格が分かります。書斎の蔵書内容次第で持ち主の考え方の遍歴などがある程度わかります。
『新長崎街道』これはケンぺルが出島から江戸参府の途中経路である長崎から小倉までの長崎街道を通りますが、その経路をケンペルの眼で再度見てみようという本です。
最後にナショナルジオグラフィック、これは私のコレクションです。
1888年アメリカで創刊されました。これはその歴史を特集した巻です。
私が持っている一番古い号は1923年の10月号、関東大震災(1923年9月1日)の翌月発行号です。
中を見ますと大震災や日本の特集がちゃんと入っています。あれ、そんな速いスピードで異国の現場取材特集を組むことは当時では出来ないのではないかとちょっと吃驚しますね。 以上です。
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9.菅谷彰 コメントおよび質疑

皆様も4人の探検隊員の話を聞いていて感じられたと思うのですが、いかに本のジャングルの中で混乱するかということが分かっていただけたかと思います。
本来なら一人1時間づつしゃべりたいような内容だったでしょうが、無理無理15分にまとめていただきましたので、お分かり難い点もままあったかと思います。
もうひとつはジャングル探検隊ということをお分かりいただけるように、皆さんある種勝手な切り口で全然話が完結しないことを前提に書かれているほど、特殊な魅力の本棚だったということをご理解いただきたいと思います。
最後にちょっとその中で大事なテーマがありました。
内田嘉吉文庫を見るとある種、昭和のはじめという時代がよく分かるのです。
昭和初めの繁栄がはじまっていた時代、国際交流が大変にあり、これだけよく海外が見えていたという時代の流れの中で、どうして戦争に行ってしまったんだろう。
内田嘉吉文庫を見れば見るほど、当時の人が世界の情勢がよく見えていたんだということに気が付きさせられます。それなのにどうしてああなってしまったんだろうということです。
これについて臼井さんのコメントを少しください。

臼井です 私もそういう風に思ました。
内田嘉吉文庫に入って気付いたのですが、私たちは大正から昭和の歴史を知らない。
学校でも教わらなかったし、本を読んでもせいぜい2.26事件ものか軍部独走に心を痛めつつ何もできない天皇の物語くらいです。
それで急遽10冊ほど集め読んでみました。私が感じたのは以下のような背景です。
箇条書きにしてみましたので読み上げます。
●まず大正末期から昭和初期にたて続いて起こった日本での金融不安、その後の世界大恐慌で日本経済の破綻、農村の疲弊、貧富格差による不公平感が長く続き、民衆は政財界を信頼しなくなり、軍部による満蒙独立の夢に閉塞感の浄化を見出すようになったこと。
●明治憲法下の天皇制の真髄である統帥権問題が2.26事件以降陸軍によって現役武官を内閣に出すことに拡張され、内閣のシビリアンコントロールが効かず、陸軍独走を許したこと。また天皇が最高責任者として統帥権を行使するには、昭和天皇は優柔不断だったこと。
昭和天皇が統帥権を持つ元首らしさを発揮したのはたったの2回、2.26事件と終戦の詔勅だけだった。
●在郷軍人会、大日本国防婦人会など民衆レベルでの小さな権威をもつ人々の声高なリードで新聞の不買運動や、市井の人々への干渉、陸軍の独走支持がなされ、国論を形成するようになっていったこと。
●暴力を伴う外力に屈し、また販売部数競争のために大衆の興味に迎合、戦争記事を載せるために軍部に屈服し、主張を転換し、より民衆を戦争へ煽った大新聞の存在。
●日本の拡大・膨張を望まないソ連、英、米などの戦略にはまっていったこと。その結果日中戦争は泥沼化し、米国の誘いにのって米国に戦争をしかけてしまう。
●欧米に追い付き追い越せの合理的教育を受けた内田嘉吉世代が退き、国際感覚がない、忠君愛国一点張りの教育勅語教育世代の新しいリーダーたちの時代になったこと。
2.26事件の精神的支柱北一輝や軍部統制派の親分永田鉄山、戦争を率いた東条英機がちょうど教育勅語発布の同時期または1年後に小学校に入学している年代であることがその象徴ではないか。
こんな世の中で、分かっていた人たちも口を開けば、民衆からも新聞からも軍からも睨まれ非国民扱いされる、物言えぬ時代に時代に急速になっていったものと考えています。彼らが再び表舞台に出てくるのはポツダム宣言の受諾以降となります。 
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10.菅谷彰、まとめ

ありがとうございます。内田嘉吉が生きた大正末期から昭和初期は、今の日本に似ているような気がします。
今の世界を襲っている100年に一度と言われる不景気の時代に、逆に内田嘉吉文庫を勉強するとなにか見えるんじゃないかというのが実は総合論的な感想です。


文責:臼井良雄
会場写真撮影:橋本 曜・河合郁子
HTML制作:臼井良雄


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