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平成21年2月20日(金) 神田雑学大学講演抄録

  世界遺産 石見銀山遺跡とその文化的景観



講師 渡辺辰朗



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はじめに

石見銀山を構成した四つの「キーワード」

銀を制するものが覇者に

家康が期待した「石見銀山と人々」

大久保石見守長安

山師・安原伝兵衛

宗岡佐渡と吉岡出雲




渡辺辰朗さんの顔

1.はじめに

石見銀山は東アジアの東辺にあたる日本列島の西部にあり、大陸に面した日本海岸近くに位置します。1526年に九州博多の豪商神屋寿禎によって発見されて以来、1923年の休山まで約400年にわたって採掘されてきた日本を代表する銀山遺跡です。

大航海時代の16世紀、当時ヨーロッパ人に唯一知られた存在でした。それは当時ヨーロッパで製作されたアジアや日本の地図に、石見銀山付近をさして「銀鉱山王国」「銀鉱山」と記されていることからも明らかです。

また石見銀山で生産された銀は高品質で、東アジア交易においても最も信用が高く、石見銀山の所在する佐摩村にちなんでソーマ銀と呼ばれ流通しました。16世紀後半から17世紀前半の全盛期には、世界の産銀量の約3分の1を占めた日本銀のかなりの部分が石見銀山で産出されたものだったと考えられています。石見銀山が銀を機軸にした東アジア交易において重要な役割を果たしていたことは明らかで、今も遺跡として当時のままに残されています。

●世界的に重要な経済・文化交流を生み出した

16世紀、石見銀山では、東アジアの伝統的な精錬技術である灰吹法を取り入れることによって銀の現地生産を軌道に乗せ、良質な銀を大量に生産しました。石見銀山で用いられた技術や生産方式は、この後国内の多くの鉱山に伝わり,日本史上まれな銀生産の隆盛をもたらしました。

こうして日本で生産された大量の銀は、貿易を通じて16世紀から17世紀の東アジアへ流通しました。また、この頃金銀や香辛料を求めて自らの文化圏を越えて世界に活動範囲を広げつつあったヨーロッパ人が東アジアの貿易に参入し、東西の異なる経済・文化交流が行なわれるようになりました。

●伝統的技術による銀生産方式を豊富で良好に残す

石見銀山では、採掘から精錬までの作業が、すべて人力・手作業で行なわれました。このような作業を行なう製錬工房が銀山現地に多数集まることによって、高品質の銀を大量に生産することができました。このことを証明する600ヶ所以上もの 露頭堀跡や坑道跡が今でも銀山山中に残っており、また、これらに隣接して、かって製錬工房や生活の場であった平坦地が1,000ヶ所以上も残っています。

灰吹用の鉄鍋  炉跡

江戸時代の石見銀山では従来の伝統的技術による銀生産が続けられました。しかし、明治維新を迎えた19世紀後半以後になって、ヨーロッパの産業革命で発展を遂げた新技術が導入されましたが、銀鉱石が枯渇したため鉱山活動が停止していきました。 その結果、今日、石見銀山遺跡には鉱山開発の伝統的技術による銀生産の跡が良好に残されました。

石見銀山遺跡のパンフレット表紙

●石見銀山遺跡には、

採掘から精錬まで行なわれた鉱山跡を中心に、これを外敵から守った城跡が周囲の山々にあり、銀鉱石や銀、銀山で必要とされた物資を輸送した二本の街道が銀山から港までつながっています。さらに、かって銀山の操業によって栄えた鉱山町や港町は、今日でも地域住民の生活の場となっています。このように石見銀山遺跡は、銀の生産から搬出に至る鉱山運営の全体像を不足なく明確に示しています。

また、石見銀山遺跡とその周辺では、かって製錬に必要とされた膨大な木材燃料の供給が、森林資源の適切な管理の下に行なわれたことにより、今日でも豊かな山林を残しています。このような鉱山に関係する遺跡と豊かな自然環境が一体となって文化的景観を形成する例は、世界的に極めて貴重です。

(注)製錬と精錬の違い

製錬・・鉱石から金属を取り出すこと

    銀鉱石を砕いて比重の重い鉱石部分を製錬する・・貴鉛(鉛と銀の合金)

精錬・・金属から不純物を取り除くこと(灰吹法)

    貴鉛から鉛を取り除き銀を取り出す。(灰吹き銀)

    (清吹・・銀の純度を上げるために、再度行なう精錬)

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2.世界遺産公式記録DVD映写(省略)

      間歩(まぶ・坑道)の写真

3.石見銀山を構成した四つの「キーワード」

石見銀山がこれほど隆盛をきわめた四つのキーワードがあります。

◎温泉 温泉は宝

温泉があるところには必ず金、銀その他鉱物の鉱脈があります。 温泉は地下に溜まったマグマで温められて地上にあがってきたものです。ところが地上に出れないでミネラルを溶かし込んだ水が地表近くで冷やされ百万年ぐらいのうちに鉱物質が固まり鉱床となったといわれています。

石見銀山の仙ノ山は150万年ぐらいたっているといわれますが高さ300M付近の釜屋間歩、大久保間歩から上の鉱床が福石鉱床と呼ばれています。 ここで採れる「福石」は銀鉱石としては極めて品位の高いものでした。そして下の方の鉱床が「永久鉱床」で広範囲に広がっており、海面下250M位まで採掘されています。

◎水 水を制せよ

鉱物の製錬には大量の水を必要としますが石見銀山が栄えた理由のひとつは、ここに豊富な水があったということです。反面、坑道を掘ると大量の水が湧き出します。鉱石を掘り出すということは水と闘うことでもありました。

石見銀山では、ほぼ一定方向に存在する多数の鉱脈に対し、直角に水平方向に坑道を掘る「横相(ヨコアイ)」という方法がとられ、飛躍的に産銀量が増えました。また、この横相により湧き水を巧みに排出することが可能になりました。この方式を確立したのが初代銀山奉行であった大久保石見守長安であったといわれています。

◎自然との共生

石見銀山では全ての鉱山活動が人力で行なわれ一切機械化が行なわれていないという特徴があります。もうひとつは資材供給システムが非常にうまくいっていた点が挙げられます。金属の精錬には炭、木材が大量に消費されます。これらの資源が枯渇しないように巧妙に管理して操業を継続させる知恵がりありました。

32のお囲い村というのを作り、そのうち6ヶ村を炭村として木炭の生産にあたらせました。いわゆるトヨタの看板方式に似たシステムがすでに出来上がっていました。

◎暮らしと祈り

DVDで見ていただいた龍源寺間歩の入り口(四ッ留)の上には必ず祠が祭ってあります。人々は山が神様によって守られていると信じて熱心な宗教心を持っていました。 

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4.銀を制するものが覇者に・・・石見銀山を領有せよ

地図を見ながら説明をされている渡辺さん 石見銀山は1526年に発見されて以来大内氏、尼子氏、毛利氏によって血みどろな領有権争いが繰り広げられ、結局毛利氏が勝利し莫大な軍資金を手にしました。

それまでの日本は地下資源国家でありました。鉄や金、銅の産出国で朝鮮半島に輸出していましたが、銀は輸入国でした。 弥生時代には多くの銅剣、銅鐸がありましたし、7世紀には東北でゴールドラッシュがありました。マルコポーロの東方見聞録はこれをもとにしていますが、明の時代になるとヨーロッパ諸国との交易は銀が基準となっています。

その後、明は鎖国をしたため勘合貿易以外の密貿易が盛んになります。ヨーロッパでは極めて高価なコショウなどの香辛料が欲しかったポルトガルが、日本にやってきた遠因も銀にあり、鉄砲の伝来もこれと無関係ではありません。 この頃が、第一次シルバーラッシュで、石見銀山が隆盛するときと重なります。

その後、豊臣秀吉が覇権を握ると毛利氏から石見銀山を取り上げようとしたのですが、当時毛利氏は朝廷と結託していたので実現はしませんでした。しかし共同経営を申し出て、その利益で朝鮮出兵をやったわけです。 徳川家康が覇権をにぎると、真っ先に天領として幕府直轄の鉱山にし、江戸幕府の財源として使われました。

石見銀山が佐摩村にあったことから「ソーマ(soma)銀」といわれ、海外にも数多く輸出され、中国や朝鮮半島などのアジア諸国とポルトガルやスペインなどのヨーロッパ諸国を結ぶ役割の一端を担いました。

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5.家康が期待した「石見銀山と人々」

1600.9.15. 関が原の戦いに勝利した家康は、石見銀山を接取のため代官頭大久保十兵衛(後の石見守長安)と彦坂小刑部元正を派遣しました。両名が到着したのは10日後の9月25日のことです。素早い対応でした。

甲斐金山の山師(鉱山経営者)は金山衆といわれ、武田家に従属した家臣団でしたが、石見銀山の山師は領主には従属せず、大内氏以来ずうっと独立した関係を持っていました。支配者(領主)に対し、運上銀を収めることで義務を果たしていたといえます。

徳川体制になってもその関係は継続されました。
財政基盤が弱かった徳川は、石見銀山に対する期待は非常に高かったわけで、その後、全国の金銀銅鉱山もすべて、徳川幕府直轄領とし支配いたしました。「吉岡文書」によれば、1600.11.18に、毛利家銀山付役人の今井越中、宗岡弥右衛門、石田喜右衛門、吉岡隼人の連署で「石見銀山諸役未進付立之事」なるものを提出、この報告を基礎に石見銀山直轄化による上納分の確保を計ったとされています。

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大久保石見守長安

1601年・・・石見銀山初代奉行として着任します。
石見守長安が、元武田家家臣時代に培った金山、河川などの技術や知識は、徳川家臣として遺憾なく発揮されたと推測できます。 従来の鉱脈に沿って採掘する坑道掘りを改め、組織的な水平坑道掘り(横相)を高度な測量技法を使って促進、精錬技法の向上や土木造成工事、租税免除などの優れた行政手腕を発揮しました。

徳川支配以降の石見銀山第二次シルバーラッシュは、このような革新的総合政策の成果でした。徳川の財政基盤の確立は、いつに石見守の功績といえます。毛利家支配下の銀山付役人・宗岡弥右衛門(後の佐渡)と吉岡隼人(後の出雲)を切り米(江戸時代、給与として渡した米)200俵で召抱えます。 両名は鉱山技術を熟知した実務型官僚で、大久保石見守を支え全国各地の金銀鉱山の見立てなど開発経営に手腕を発揮しました。

:幕府直轄領(天領)に赴任する代官は、将軍に拝謁する「お目見え」以上の旗本で禄高150俵以上でしたが、それより低い者には、赴任中は150俵の待遇に増やして支給した(足高制度)。

石見銀山下向は・・1600、1601、1602、1608年の4回のみ
  佐渡金山奉行には1603年に就任しながらも、佐渡下向は1604、08年の2回
  佐渡金山開発には石見銀山の主だった5人の地役人たちと各地の山師にさせる
  ・・・宗岡佐渡、草間庄米兵衛、吉岡出雲、三島清右衛門、岩下惣太郎・・・
  1606・・伊豆金山奉行
  1607・・院内銀山奉行
  石見銀山(温泉津)〜佐渡〜院内・・海上流通機構を掌握・・18世紀北前船のさきがけとなる。  

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山師・安原伝兵衛(後に、備中因繁ヨリシゲ)

備中の国、早島(現在の岡山県早島町)の出身。清水寺の観音の霊夢により「釜歩間歩」を開き、第二次シルバーラッシュの口火に。大久保石見守と伝兵衛が初めて水平坑道掘りを採用したもので、同じ頃の大久保間歩(石見銀山最大の坑道)にもこの技術を応用して採掘が始まる。

1603年、一年に3600貫(13.5トン)の運上銀を産出し家康大いに喜ぶ。伏見城で拝謁の折、「備中」の称号(官位ではない)と胴服(辻ヶ花染丁字文胴服・・・重要文化財)、扇子を拝領する。後に、清水寺に奉納する。
1614年、大阪冬の陣に銀堀300名と参戦、お堀の水抜きを指揮する。


熱心に聞き入る聴講生

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宗岡佐渡と吉岡出雲

1601年11月、大久保石見守に随行した両名は江戸表で家康に御目見えを許され「佐渡」と「出雲」を名乗る名誉を得た(官位ではない)。銀産出を切望する家康の期待が如何に高いか二人は御目見え直後から家康の命で佐渡(この頃不振)や伊 豆など全国の鉱山の見立てに派遣された。

その際、特別に伝馬と御朱印(家康の印鑑を押したお墨付き)を認め、吉岡には江戸滞在中15人扶持(15×5俵)を支給された。この両名の手にかかると、飛躍的な増産をもたらし、幕府財政を潤した。
注、一人扶持とは一人が一年間で消費する米の量で5俵のこと

・宗岡佐渡

銀山方地役人組頭、銀山の順勝寺墓地に眠る。佐渡開発に当たり、石見守長安の目代として町並み形成を指導するなど、優れた行政手腕を発揮した。相川に港を建設、高台には町並みを集め、職業別に町を分けたりした。高台の突端に「佐渡奉行所」を鶴子銀山から移転させた。

また、石見から連れてきた漁師や海士(男の海女さん)による漁法を伝え、新たに漁師町(姫津や相川大浦)を開いた。石見と同じ漁法として、右櫓(一般には左側で櫓をこぐ)や干物の背開きなど、今日でも続いている。その他の職人も移住させ、石見の文化を導入した。お目見えの折、家康から羽織など拝領する。
「山中文書」や「佐渡国略記」に記されている。

・吉岡出雲

銀山の旧極楽寺に眠る。「お目見えの折、家康公手垢の羽織を手ずから拝領」とあり感動振りがうかがえる。拝領した胴服「銀杏葉雪輪散辻ヶ花染胴服」は重要文化財(東京国立博物館蔵)である。江戸滞在中の役料支給などから、技術官僚として、各地の鉱山開発指導に期待が寄せられていたのでは。1601年の伊豆 湯ヶ島銀山調査の記録が残っている。

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(了)


石見銀山資料館のHP

文責 得猪外明


写真撮影:橋本 曜 ・ HTML制作:上野 治子

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