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平成21年3月6日神田雑学大学定例講座NO447


伝説の映画スター・小史・洋画女優編、講師 坂田純治、キャサリン・ヘップバーン、ヴィヴィアン・リー、グレース・ケリー、三人の顔写真



目次

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キャサリン・ヘップバーン
ヴィヴィアン・リー
グレース・ケリー


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坂田純治講師キャサリン・ヘップバーン

私は、2002年〜2003年にかけて「アカデミー賞物語」という講座を持たせて戴きました。これは1927年の第1回から2002年に至る75年間の「アカデミー賞」を紐どいていったものです。そこでも最も話題に満ちたスターは、本日の「キャサリン・ヘップバーン」でした。

彼女は、コネティカット州の著名な外科医を父に、婦人運動家を母に、インテリの名門の家に生まれ、12歳でアマチュア劇団の舞台に立つという演劇志向の強い少女でした。名門ブライアン.マウア女子大でもその意欲は益々高まり、やがてブロードウエイでも小さな役にありつくことになりますが、元来気が強く、ズケズケ物をいうタイプなので、リファサール中にクビになることが多く、この気性は映画界に入っても消えることなく、大体がハリウッド人種とは付き合わず、社交界に顔を出すことも嫌ったので、周りからも嫌われたり、マスコミからは「最も非協力的スター」にされたこともあります。

彼女の素晴らしいキャリアは、4度のオスカー(主演女優賞)受賞、12度のノミネートの実績なのですが、(イングリッド・バーグマンでさえ主演2度、助演1度)もし、もう少しハリウッド人種と交際していたら、まだ2〜3個のオスカーを受賞できただろうと言われています。そして、決してアカデミー式典に出ることはなく、毎度の欠席。一度だけ義理で<プレゼンター>として登場したことがあるが、裏口へ車を待たしておいて<15分の滞在>と話題になりました。「大勢の人間の集まるところは嫌いなの」と言って普段のファッションも宝石も気にかけず、<スカート>は一切穿かず<パンツ>ルックで通しました。

21歳から23歳までの2年間、学友でフィラデルフィアの名門の倅と結婚しましたが、あとは名優S.トレーシィとの<プラトニック・ラブ>で通しました。
2003年6月、パーキンソン病で亡くなりました。86歳でした。

以下名場面のビデオの上映。

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勝利の朝、若草物語、フィラデルフィア、アフリカの女王、旅情、キャサリン・ヘップバーン(1)1933年≪勝利の朝≫
映画界デビュウ三作目、2年目にしてアカデミー主演女優賞に輝く。演劇界を志す娘の屈折した心理。劇中「ハムレット」「ロミオとジェリエット」

(2)1933年≪若草物語≫
(ルイザ.M.オルコット女史作のベストセラー)
南北戦争時代、北軍の父を戦場に送り出した牧師家庭の四人姉妹の物語。キャサリン・ヘップバーンはお転婆で小説家志望の次女ベスの役。姉妹愛。母への敬愛。隣家の富豪ロレンス家との心温まる交流。

(3)1940年≪フィラデルフィア物語≫
1939年フィリップ.バリーの舞台劇がブロドウエイで上演されました。キャサリン・ヘップバーンは舞台でも成功したのですが、映画化権を獲得して、映画製作に及んだものです。

1956年グレース・ケリーと共に≪上流社会≫としてリメークしました。この映画でジェームズ・スチュアートがアカデミー賞を受賞しております。大富豪の長女が二度目の結婚式を迎える朝、≪欠点のある人間にこそ、真の人間性を見出す≫人生の逆転劇。

(4)1951年≪アフリカの女王≫
ジョン・ヒューストン監督、第一次大戦下、アフリカのコンゴ地方。奥地で宣教師の兄を殺された妹が、呑んべいでぐうだらな船長(ハンフリー・ボガート)と奥地を逃れる。ところがドイツの砲艦にスパイ容疑で捕らえられ、絞首刑が宣告される。しかし、ボロ船<アフリカの女王>号の船首に取り付けた魚雷が砲艦に衝突。奇しくも危機を脱する。ボガードはアカデミー賞を受賞した。

(5)1955年≪旅情≫
デヴィッド・リーン監督、アメリカのオールドミスがコツコツ金を貯めてベネチュアに旅行する。そこで出合った骨董屋のイタリヤ人(ロサノ・ブラッツイ)。儚く燃えた夏の恋の数日間。このままでいたら別れられなくなると彼女は突然旅立つ。詩情にじむ「主題曲」がまた素晴らしいと評判になった。

(6)1967年≪招かれざる客≫
スタンリー・クレーマー監督、娘が結婚の承諾に両親のもとに帰ってくる。連れてきたのは黒人の医師である。かねてより新聞社を経営し、強い人種差別反対運動家の父。当初は呆然としていたが、だんだん黒人青年の魅力に惹かれていく母。結局はメデタシメデタシ。親友役はスペンサー・トレイシー。9作目の共演でしたが、同年心臓発作で急死しました。キャサリン・ヘップバーンは二度目のアカデミー賞を受賞しました。

黄昏、キャサリン・ヘップバーンとフンリー・フォンダ(7)1981年≪黄昏≫
アーネスト・トンプソン作、マーク・ライデル監督、「老いたる夫婦の愛情と父と娘の和解」のテーマ。ヘンリー・フォンダの娘ジェーン.フォンダはこの戯曲の映画化権を獲得しました。名優と言われながらヘンリー・フォンダは一度もオスカーを取っていない。

(舞台寄り)(政治的)にも(リベラル)であったため、かのマッカーシーは一時パスポートを取り上げたり、数々の嫌がらせをました。ジェーンは父にアカデミー賞を取らせたく、妻の役にK.ヘップバーンを懇望したり、P.Rし、遂に父フォンダに栄光を贈ったのであります。キャサリン・ヘップバーンも四度目のオスカーを受賞しました。しかし、ヘンリー・フォンダは5ヶ月後の1982年8月12日心臓の病で他界しました。77歳の人生でした。
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ヴィヴィアン・リーヴィヴィアン・リー

ヴィヴィアン・リーといえば≪風と共に去りぬ≫のスカーレット.オハラ。それほど強烈な因縁・結びつきであります。彼女は印度のダージリン生まれ、父は裕福な株商人でした。幼くしてロンドン、イタリヤの名門校で、教育と躾を受けました。小学生のころから演劇に憧れ、19na歳で弁護士のハーバート.ホルマンと結婚したのですが、夢は捨てきれず、三本ほどの映画に端役で出演しました。

1937年、24歳でイギリス映画大作≪無敵艦隊≫に出演し、本格的映画女優の仲間入りを果たしました。このときの相手役がローレンス.オリビエで、二人は夫も妻もある身ながら、運命的な激しい恋に落ちるのでした。1938年、偶々オリビエがハリウッドに招かれ、ウィリアム・ワイラーの≪嵐が丘≫の撮影に入りました。彼を追ってハリウッドへ渡った彼女は、まだオハラ役が決まっていないまま撮影に入っていた≪風と共に≫の大プロデュサー、デビット・O・セルズニクとの伝説的な出会いが、彼女にスカーレット・オハラ役が割り振られ、不滅の伝説を生み出すことになります。

しかし、≪哀愁≫≪美女ありき≫等々の名作、そして夫オリビエとの数々の舞台で最高の演技を発揮したリーも、もともと持病の肺結核に悩まされ、身体までか神経まで冒され、夫オリビエの献身的看病も空しく、遂に二人は離婚(20年歴)。1967年ロンドンのアパートで一人寂しく人生の幕を下ろしたのであります。享年53歳でした。

ビデオ

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風と共に去りぬ、哀愁、美女ありき、欲望という名の電車、ヴィヴィアン・リー(1)1939年≪風と共に去りぬ≫
マーガレット・ミッチェル夫人作、ビクター・フレミング監督、南北戦争とその後、アメリカ西部を舞台に、美しく、誇り高い。情熱の女性スカーレット・オハラの半生を描く超大作。12個のアカデミー賞に輝きました。オハラ役はヴィヴィアン・リー。聖女メラニー役はオリビア・デ・ハビランド。

(2)1940年≪哀愁≫
ロバート・E・シャーウッドの舞台劇「ウオタルウ橋」より第一次大戦下、ウオタルウ橋で出遭った軍人
(ロバート・テーラーと踊り子の悲劇。日本では1949年初公開。世の女性の紅涙をしぼったのであります。

(3)1941年≪美女ありき≫
ヴィヴィアン・リーとロレンス・オリヴィエが結婚した翌年に共演した初の作品。イギリス海軍の英雄ネルソン提督にも愛人がいた。在ナポリ英国大使ハミルトン夫人の美女エマ。波乱に満ちた二人。 ネルソン亡きあとのレディ・ハミルトンの零落。意思は強いが、終わりは薄倖の女性を演じて、彼女をおいて他に役者はいません。

(4)1051年≪欲望という名の電車≫
テネシー.ウイリアム作。名演出家のエリア・カザン監督。ニューオリアンズの駅から≪欲望≫と呼ばれる市内電車に乗った、フランス系の名門出身だが、今は零落したブランシュ・デュポアが妹(キム・ハンター)の家に訪ねてくる。

気品を装い、泥にまみれた過去の生活の汚れを、虚飾の影にヒタ隠そうとするが、粗野で、単純で、スネ者である妹の夫コワルスキー(マーロン・ブランド=デビュウ作)は、それをひん剥こうとして、暴力で彼女を犯す。崩壊寸前の彼女の神経は完全に狂ってしまう。精神病院の医者が迎えにくるが、ブランシュは彼をパーティのエスコートにきた紳士と思い、貴婦人らしい優雅な態度で、連れ去られていくラストシーン。 
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グレース・ケリー

小国とは申せ、ヨーロッパの歴史ある国、モナコの公妃となったグレース・ケリーは、1928年11月、フィラデルフィアの建築業者で名士の父に、ドイツ系美人で若い頃モデルをしていた母との間に生まれました。ダンス、バレエ、ピアノなど、お嬢さん教育にしつけられ、彼女自身、女優を志していました。偶々小さな役で舞台に立っていた折に、20世紀Foxのスカウトの目に留まり、直ちに契約、映画界にデビュウします。

そして二作目がゲイリー・クーパーの若妻役の≪真昼の決闘≫です。それまではハリウッドの女優には無い気品と美しさと、初々しさで大スターの道に入って行きます。特にアルフレッド・ヒッチコックは彼女を可愛がり、≪喝采≫≪裏窓≫≪ダイヤルMを回せ≫≪泥棒成金≫の四作に起用します。エレガントは彼女の個性を曲げた唯一の異色作は、アル中の夫で辛酸をなめる人妻役≪喝采≫で、アカデミー主演女優賞を獲得し、名実ともどもの大女優になります。

熱心に映像見入る受講生

偶々、カンヌ映画祭で、モナコのレーニエ国王と知り合い、国王から強烈なプロポーズアタックを受けて、遂に彼女は国王の希望を受け入れ、モナコプリンセスとしてシンデレラの伝説を実現します。全11作のうちサヨナラ作は≪上流社会≫(前述フィラデルフィア物語、キャサリン・ヘップバーン主演のリメーク)。しかし、好事魔多し。国王との間に生まれた、一男二女のジャジャ馬二女が運転する車の粗暴運転の事故を起こし、ケリーは脳内出血のため、53年の余りにも短い生涯を閉じたのであります。

ビデオ上映
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(1)1953年≪真昼の決闘≫フレッド・ジンネマン監督 カール・フォーマン脚本(マッカーシー旋風で非協力的証人とされイギリスへ逃げていた)。

真昼の決闘

西部のある町。ゲイリー・クーパー扮する保安官が任期を終え、結婚式も挙げて町を出て行こうとする直前、昔捕らえた殺し屋がお礼参りに、三人の仲間を連れて襲ってくるという。町の人は誰も味方しようとはせず、結局1対4の孤独な争いになる。D.テイオムキンの主題歌もヒットし、西部劇のエポックメーキングの作品となった。

裏窓、ジェームズ・スチュアートとグレース・ケリー(2)1954年≪裏窓≫
コーネル・ウールリッチ作、アルフレッド・ヒッチコック監督。ヒッチコック監督はご贔屓のグレース・ケリーを起用しています。足を挫いて、家で静養しているカメラマン。

これもご贔屓のジェームズ・スチュアートが退屈しのぎに、「窓」から向かい側の部屋を見ているうちに、殺人事件らしい事態を目撃し、推理をいかせて行く。グレース・ケリーは彼の恋人で、向う気の強いアメリカ娘を演じ、なお優美な雰囲気を醸し出すのでした。

(3)1954年≪喝采≫ジョージ・シートン監督

喝采、三枚の画像

息子が事故死してから、酒びたりになった舞台俳優(ビング・クロスビー。共演ウィリアム・ホールデン)に献身的な妻(グレース・ケリー)を演じてアカデミー主演女優賞を獲得した、唯一の汚れ役。

上流社会、ビング・クロスビーとグレース・ケリー(5)1956年≪上流社会≫
チャールズ・ウオルターズ監督。舞台劇フィリップ・バリー作。1940年の同名作品のリメーク(キャサリン・ヘップバーン。ジェームズ・スチュアート。ケーリー・グラント)。

グレース・ケリーの最後の作品。今回は≪音楽映画≫に仕立てた。 大富豪の長女トレーシーは完全主義者でありました。駆け落ちした前夫ビング・クロスビーにも未練があって、フンギリがつかない。結局は???
前作ジェームズ・スチュアートの記者役をフランク・シナトラ。ルイ・アームストロングの共演も懐かしい。

映画の終わり画面、ザ・エンド
終わり



参考文献
参考文献出版社 ビデオ上映作品の制作配給会社
中央公論社 松竹
創元社 東宝
白水社 大映
岩波書店 新東宝
秋田書店 日活(新)(旧)
  近代映画社 近代映協、ほか
  キネマ旬報社他 M.G.M
  20C.FOX
  R.K.O
  W.B
  PARAMOUNT
  COLOMBIA
  SELZNIK他




文責:三上卓治
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


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