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2009年4月10日 神田雑学大学定例講座No451
マッカーサー元帥とグルー大使、そして父 船山貞吉と私、講師 船山喜久弥


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プロフィール
1.はじめに
2.父、船山貞吉という人
3.アメリカ大使館グルー大使との交流(1836年)
4.第2次大戦へ
5.アメリカでのグルー大使と近衛密約秘話
6.敗戦と連合軍の占領
7.USUI文化交換局ラジオプロデューサーの私




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船山喜久弥氏(ふなやまきくや)

プロフィール

船山喜久弥氏 (ふなやまきくや)
昭和5年6月6日生まれ
生地
東京市芝区田村町3T目5番地(港区新橋(3−5)
日本大学芸術学部演劇科卒
昭和29年9月アメリカ大使館USIS文化交換局勤務
昭和46年退職、爾来じらうフリーランス
TVCM男は黙ってサッポロビール(声の出演)
振り向いてくださいお嬢さんエメロンです(インタビュアー)
糸川英夫組織エ学研究所VA研メンバ―に
著書「白頭鷲と桜の木」他、現在新作を執筆中。
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1.はじめに

只今ご紹介いただきました私船山喜久弥でございます。本日は父私共々が敬愛する戦前の駐日アメリカ大使ジョセフ・グルー並びにマッカーサー元帥についてお話させて
いただく機会を与えてくださいました神田雑学大学の皆様に心から感謝申し上げる次第でございます。

いまから半世紀以上の昔、1941年、昭和16年12月8日未明、日本海軍機動部隊が
ハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、爾来じらう3年と8ケ月、日米は血みどろの死闘を続け、ついに昭和20年8月15日日本は敗れ、敗戦を迎えました。

文字通り3年と8ケ月の死闘を繰り返した日米両国でしたが戦後から今日まで憎み合うあいだどころか、ゆるぎない同盟国の友好関係を今日もなお確立しているという国際社会でもあまり例を見ない友好国同士になっているのは皆様ご存じのとおりです。今の時点であの昭和16年12月8日を振り返ると、すでに遠い過去に沈んでいるのか、とも思えますし、つい昨日のように記憶が蘇っても参りますし、歴史の歩みには不忠議な鼓動があるものだと、つくづく思います。

観光でハワイに行かれる方は大勢いらしやいますが、パールハーバー真珠湾に行かれる方はあまり多くはないようですね。こんどハワイにいらっしゃるときは是非真珠湾にお運び願いたいと心から願う者です。あの真珠湾には40名近くの日本海軍機動部隊の若者たちの魂もハワイ真珠湾に眠っています。けっして遠いところではありません。アラモアナのショッピングセンターからバスが出ています。たしか料金は1ドルで行けるはずですから。ぜひ一度お出かけになることをお薦めします。

さて開戦時のアメリ力大使グルーのお話に入る前に父貞吉に少しふれさせて頂きたくおもいます。正直申しまして若いころの私と父、船山貞吉とのあいだは、必ずしも尊敬と信頼で結ばれた愛情溢れる親子関係では決してありませんでした。

戦争中も戦後もむしろアメリカ大使館官邸に勤めていた父の存在を私は鬱陶しく思っていたほどだったのです。父にむかつて「アメリ力の召使いじやあないか」と、口走ったこともありました。父は怒らず、しかし実に悲しげに、寂しそうな表情で押し黙っていたものです。

父貞吉は昭和四十二年にこの世を去りました。そしてその霊前にアメリ力から数多くの弔電が届いたとき、私ははじめて父の大きさに瞠目したのです。わが家ではいざ知らず、アメリ力大使館では要人たちに愛され、重視されていた人物だつたということを初めて認識したのです。そしてたんなる召使いとしてではなく、日米友好を願う日本人として、精一杯に戦前戦後を生きた父への共感は歳を重ねるにしたがつて募つてきました。

本「白頭鷲と桜の木」戦後日本との関わりにはマッカーサー元帥が広く知られていますが、父が敬愛したジョセフ・グルー大使の功績は、その影に隠れているように私には思え、そこでたとえ拙い文筆でも父が十年間仕えたグルー大使を描くことが父へのたむけになると思いはじめ、多くの方々の協力を得て一冊の本をまとめました。題名が「白頭鷲と桜の木」、副題が日本を愛したジョセフ・グルー大使という本です。

4000部で絶版になってしまい今では図書館で見るしかないのですが、今日はこの本を作るにあたって調査したことに従って父、船山貞吉とグルー大使、マッカーサー元帥の話をしてみようと思います。

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2.父、船山貞吉という人

私の父親は船山貞吉と言って明治21年に生まれ昭和42年まで生きた男です。不思議な縁で父親はアメリカ大使館に勤務し、戦後息子の私も勤務することになりました。貞吉は青年の時に英語を覚えたいと独学で勉強していたのだそうですが、その時にたまたまオランダの公使館に勤めていましたパブストという陸軍武官に出会いました。

パブストに信頼され、オランダ公使館の武官付きの仕事をするようになった貞吉ですが、世界恐慌の不景気のさなかオランダ公使館の武官制度廃止に伴い職を失ってしまいます。その時運良く本国に帰り出世して将軍になりオランダ日本国公使になって再来日していたパブストに、昭和7年6月6日にジョセフ・グルーという大使がアメリカ大使館にやってくるんだが君はそこで働く気はないかねと言われまして、それが縁になって彼は大使館に勤めるわけです。

この写真をご覧ください。貞吉が立っているところはアメリカ大使館の応接間の一室であります。

官邸書斎に立つ正装した船山貞吉

彼は紋付きはかま姿です。普通外国の大使館に働く人間はたぶんタキシードですよね。しかし船山貞吉はいつもこの格好を制服として過ごしておりました。
着物に付けた紋は白頭鷲です。これはアメリカの紋章です。
後ろに富士山の絵がかかっていますね。これはグルー大使の奥さんアリスのお母様が描かれた富士さんです。この絵はいまだに大使館に保存されています。

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3.アメリカ大使館グルー大使との交流

貞吉はグルー夫妻と一緒に住んでおりましたから、朝早くから夜遅くまでグルー一家と一緒で公私の区別なく密接に過ごしていました。当時の日本は右翼のテロの時代です。グルーは暗殺ということに非常に注意を払っていました。5.15事件は彼が日本に向かう途中の事件でした。グルーは天皇をとりまく宮中グループが平和を願っていること、しかし天皇が決して決断業務が出来ないという統制権の問題をよく理解していました。

こういう彼に対してワシントンの評価はグルーはちょっと日本贔屓すぎるのではないのかという誤解もあったのです。グルーはフーバー大統領に命令されて日本に来ました。ところがその1年後に大統領はルーズベルトに変わったのです。フーバーは共和党でルーズベルトは民主党であります。本来ならグルーは国に帰らなくてはならないはずです。ところがルーズベルトは高校も大学もグルーの後輩なんです。それでルーズベルトは自分の先輩であるグルーに引き続き日本大使を務めてくれと頼むのです。

グルー夫妻この写真がアメリカ大使館に隣接してあるグルー夫妻が住んだレジデンスですが、この一角に貞吉は住みました。新しい大使グルーの奥さんはアリスといいましてペリー提督の末裔であります。グルーはそれから殆ど10年間昭和17年まで大使として勤務していました。

私はこのグルーという人の存在が今日の日本を生んでいると思っています。この人はボストンの生まれでかなりのお金持ちでした。有名なモルガン財閥に親戚がいるという話でした。

外交官というのはお金持ちでないとやっていけない商売らしいですね。たとえばお客さんがお見えになる時のワイン。一本何10万円もするワインを出す場合があります。そういったお金はアメリカ国務省は払ってくれませんから全部大使の自腹でやるのです。幸いにして彼はモルガンという財閥を背景にしょっているからかもしれませんが、割合に豊かな形で接待したといわれていました。ただし毎日の食事はそんなものではありません。我々の今の方がよほど豪華なほどで質素なものだったと父は言っていました。

グルー駐日大使とお嬢さんこれがグルーの写真です。左は御嬢さんのエルシーでこれは日本に赴任する前にハワイに寄った時の写真です。彼女は白州正子さんや麻生総理大臣のお母さんの麻生和子さんなどの日本の上流階級の子女と良いお友達になった人です。グルーはグロトンという高校とハーバードを出まして、自分は外交官になるという想いで外交官になります。

彼は不幸なことに昔猩紅熱しょうこうねつ にかかり耳が聞こえなくなってしまっていたそうです。そういうハンディキャップを背負いながら外交官の道を選んだ人です。そんなことも関係したのか、グルー夫妻は非常に慈善事業に熱心な方で当時聾唖ろうあの少年少女たちを招き、ここ公邸で遊ばせるんです。今は聾唖者ろうあしゃなんて言ったってそんな暗い影はないのですが、当時はご近所からは違った目で見られたり淋しい思いをしていたようです。

彼が日本に来た時はすでに50歳でありました。かれは語学が5ヶ国語も出来ましたが、流石に日本語は習わなかったそうですが、有能なスタッフがおり、日本の情報は誰よりも身につけていた知日派の代表でした。彼にはドーマンという部下がいましてた。彼は大阪生まれで流暢な関西弁で話すという有能なスタッフでした。

アメリカ大使館これはもとのアメリカ大使館の写真です。この建物の左側が霊南坂と言いまして、ホテル大倉が建っている場所です。これは昭和5年に建てられた建物で当時の米国大統領はフーバーでしたが、このときに150万ドルかけて建設し、世界恐慌のさなかでしたから議会で問題になったといういわくがあるものです。この建物を建てたのは帝国ホテルを建てたライトの弟子のアントニー・レイモンドが設計しています。

当時日本では日本とアメリカはいつか戦争をするだろうという議論がありました。元海軍中佐で日本海海戦を書いた有名なベストセラー「此の一戦」を書いた水野宏徳が書いた「次の一戦」という本が、大使館では盛んに読まれていました。この本では日本海軍がサンフランシスコを攻撃します。やがて戦争状態に入り、最後に東京にアメリカの飛行機が大挙やってきて東京中が壊滅するというストーリーなのです。そしてはっと気が付くと夢だったという話です。

グル―が着任する前、すなわち昭和七年三月一日、満洲国の独立が宣言されました。
「日本の塊偶政権だ」と、国際世論は轟々たる非難を日本に浴びせ、アメリカはこの独立を認めず、満洲園不承認の立場をとりました。しかし国際世論の急先鋒にたってはいたが、極東はアメリヵにとって遠隔の地でありすぎました。アメリカ政府の対日政策は、「軍事力を行使するには極東は遠い。したがってアメリカの権益が日本によって直接犯されないかぎり、日本とは事を構えるよりも、アメリカの立場をはっきり伝え、日本が諸条約に違反して中国から奪った権益は認めないが、日本との関係は可能なかぎり維持するよう努めよ」と、いうものでした。

しかしこの基本姿勢は、日本の大陸進出の方法いかんによっては、経済的制裁、さらには武力行使による抑制政策に変わりうるというものでした。
アメリカの国務省はワシントンで大西洋岸ですから直接目に入るのは大西洋、ヨーロッパです。それを越してずっと東に回ってアジアに目を移す。そのはじっこが極東です。日本人はアメリカは太平洋の向こうで隣だくらいに思っていましたが、地理的感覚でいえばそのくらい違うのです。

グルー大使は日本側と和やかに協調路線を模索、日米間の外交努力を重ねました。
特に皇族を含む当時の上流階級の人々との交流は深く、秩父宮妃殿下はよくアリス夫人を訪ね、最新ファッション雑誌ヴォークを見せてもらっていたそうです。
今日は今上天皇の成婚50周年ですが、この天皇が生まれた日の前の晩、グルーは眠れなかったそうです。グルー家では安産であれかし、男の子であれかしととにかく緊張していたそうです。

熱心に話を聞く受講生

サイレンが鳴って生まれた、これで天皇家は安泰だと大変喜こび貞吉に宮城に行ってくれということで、宮城広場での民衆の喜ぶ姿を報告しますとグルーは「この喜びは日本にいるものでなくては分からない」と言って何度も貞吉に握手したそうです。
グルーは日本は2600年連綿として続く神の国という感覚で日本を捉えていました。天皇制の歴史、重み、それに神道をよく理解していました。戦争が始まりグルーは昭和17年アメリカに送還後、母国で日本人とは何かということを講演などで説明しなければならなくなります。その時に天皇や神道について語っています。
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4.第2次大戦へ

有名なハルノートというのがあります。東京裁判でインドのパール判事が「あのようなものを突きつけられたら小国モナコといえども銃を持って戦うであろう」という言葉を残して判事の仕事を辞めてしまったくらいの一方的な通告でした。グルーはハルノートの存在はもちろん知っています。

しかしアメリカ国務省はグルーは日本贔屓すぎるというので、現実の交渉内容をグルーに教えなかったのです。日米間で交渉は秘密裏に続けられ時間がすぎます。やがて12月7日の深夜ルーズベルトからの電報がグルーに来ます。これは大統領から天皇宛の電報でした。グルーは急いで時の外務大臣の東郷さんのところに持って行きます。渡す時はすでに12時を回っていたのですが、グルーはいまこの時点で天皇に見せてくれというのですが、いや後ほどと言われ、グルーは帰ります。ところがその時点では既に日本海軍の機動部隊はハワイの沖400kmに展開しており、数時間後に奇襲攻撃があるのです。

熱弁を振るってる講師12月8日の戦争勃発と同時に東京在住のアメリカ大使館職員は一斉にここに集結しなければなりませんでした。捕虜ではありませんが、60名ほどいたのですが、全部この建物内に収容されました。貞吉もここに残りました。貞吉の耳にもアメリカ外交団の「なぜ日本は交渉中なのに真珠湾を攻撃したんだ」という非難の声が入ります。

外交交渉というのは目の前の脅しのカードだけでなくもっと奥を見なければならないものでしょう。日本の外交は私のような素人が見ていてもはらはらすることがあります。外国人を相手にする外交はもっとじっくりやってほしいと思いますね。グルーたちの感覚ではハルノートは外交交渉の途中ではないかという考え方です。

ドーマンなどは貞吉に「日本は100年早い。いまやったら負けるに決まっているのに惜しい」とまで言ったそうです。それを聞かされる貞吉の心境はいかばかりでしょうか。しかしそういうことを貞吉は自分の家に帰ってきて私たちに一言も言いませんでした。

話は変わりますが、毎年私たち子供はグルー夫妻からクリスマスのプレゼントをもらうのですが、昭和16年のクリスマスはかなり早く、ボストンに注文して作ったオーダーの革靴が贈られました。私たちは大使館に行き、大使夫妻から贈り物だからと言われ嬉しかったのですが、12月8日になり、一瞬私はうろたえました。私は敵国のアメリカ大使から靴をもらってしまった。まずいと思ってふるえましたね。お巡りさんが家に来るので、その時に靴のことを聞かれたらどうしよう。持っていかれてしまうのかな。と小学校5年生ですから無邪気なものでした。

私は日本の人たちもと思うのです。16年12月25日のクリスマスは大使館に拘束されているグルー夫妻に日本の友人たちから秘かに届け物がありました。確か当時の西外務次官は林檎と七面鳥を差し入れ、皇室からも来て、アリス夫人は涙したといいます。
当時日本としてもメンツがありますから、外交官の食事に不自由があってはならないということで、明治屋とかに注文して取り寄せが出来るようになっていました。業者は集めるのに苦労したようですが、日本外務省のメンツにかけて60人分の牛乳や肉を手配し続けたそうです。

やがて昭和17年の4月東京に空襲がありました。よもやと思ったのでしょう。日本側は全く防戦していませんね。このとき貞吉はクレスウェル陸軍武官と大使館の屋上に上がって被害を確認したそうです。その晩彼らはささやかな乾杯をしました。その時グルーが言うには「船山君、君は家に帰ったら必ずシェルターを作りたまえ、かならず米空軍は東京を襲うであろう」と言ったそうです。そのとき貞吉は水野宏徳の本は本当だったのだなと思ったそうです。

桜やがて昭和17年になりまして彼らもアメリカに引き上げていきます。このときにグルー夫妻は一本の桜を植えていくのです。もちろん貞吉が手配をしました。「この桜が咲くときには戦争は終わっているだろう平和は蘇るだろう」と言いながら植えた桜です。

そこには「1942年6月10日グルー大使夫妻これを植える」というプレートがおかれました。確かに戦いが終わって数年にして桜は咲きます。そこで貞吉は桜の花を封筒に入れ、桜の幹を糸で測り、桜が見事に咲いたことを知らせています。

グルーの家には当時東京に赴任する要人がよく表敬に行ってから日本に来たようなのですが、そのうちの一人が、「グルーさんの家に桜の花びらがきれいに飾られていて、これは東京の貞吉さんが送ってくれたものよ。よろしく言ってね」と夫人が話していたと聞かされ、密かに貞吉は涙したということです。

戦争中のことですが大使館にデモがありました。バルコニーにたって大使館員が群衆に向かって手を振るのです。すると民衆が意外なことに折り返し手を振ってくれたんだそうです。そこには「憎きアメリカ畜生」という話はなかったようです。逆に警護するお巡りさんから手なんか振らないでくださいという注意があったくらいと言います。この民衆が手を振ってくれた行為は、その後米国でグルーが日本を擁護する講演をしたときの材料になっていきます。

グルーたちがアメリカに帰っていったあとアメリカ大使館は封鎖され、貞吉はどうなったかということです。グルーさんは日本に来る前はトルコで大使をしていました。その時トルコの外務省にいたテッドという人がちょうど昭和17年当時トルコ大使になって東京にいたのです。
貞吉は当時もう50歳を超えていました。年をとりアメリカ大使館にいた男をどこの誰が雇ってくれるでしょうか。

その時にグルー大使はテッド氏に手紙を書きまして、うちに船山貞吉という人間がいるがおたくの方で引き取ってくれないかと頼むのです。幸いなことにトルコは中立国でありましたので、身の安全は保障されます。そこで貞吉はトルコ大使館に引き取られます。貞吉は今度はテッドさんとともに住み込みで勤めるという生活を戦争中送るのです。

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5.アメリカでのグルー大使と近衛密約秘話

グルーは引き上げてアメリカにつきますとアメリカの報道陣に取り囲まれます。「ジャップはいつごろやっつけることができるのか。半年もあればやっつけることが出来るか?」
そこでグルーが思ったのは日本人というのはそんなにやわではないということでした。

昭和16年9月6日御前会議のあと。近衛首相とグル―大使は秘密会談を開いていました。近衛さんはルーズベルト大統領との直接会談を望み、行き詰まっているワシントンでの日米会談打開に積極的な姿勢をみせていました。それは日本陸軍の中国大陸とインドシナからの撤兵、満洲国の今後、日独伊三国同盟などの根本的な日本の姿勢を盛った交渉内容をグルーに明かします。この提案ならばヮシントンは飲むだろう。いや絶対に飲むはずだ。

グルーは近衛の会談にかける誠意を深く受け止めます。しかし近衛はこの内容は会談の際テーブルに置く。そのときまで絶対にワシントンには伏せて欲しいと、グル―に頼みます。例え暗号文でも外部に漏れる可能性は否定出来ません。確かにこの内容が日本の右翼に漏れれば近衛の命は保証できません。今は一刻も早い頂上会談の実現でしたが、近衛内閣は解散に追い込まれてしまいました。そして太平洋戦争への突入でした。

グル―は大使館抑留のあいだにまとめた東京大使館の見解や近衛の提案をハル国務長官に報告のため、ヮシントンに向かいます。グル―は東京在任中、3千通以上の報告書を送っているのですが、その全てが大統領や国務長官に読まれてはいません。グルーは翌日国務省のハルに会いに行きます。途中で誰かがいて取捨選択していたわけです。

当時ホーンベックという男がハルの腹臣として国務省にいたのですが、この人はグルーと毛並みが違うのです。父親が中国で宣教師をしていて中国で育ち、中国で教師の経験もあり、中国を助けたい、日本を排除したいという考え方の男だったようです。ホーンベック自身はすべてグルーの情報を目を通して日本情報は仕入れるけれど、それがハル国務長官やルーズベルトまで上がっていったかというとそうではなかったのです。ですからグルーたちの真意がかならずしもアメリカ側のトップに正確に伝わっていなかったということが言えると思います。

グルーはハルにあなたは日本人的感覚で外交を見ていたといわれ、そこでグルーとハルは大げんかするのです。あなたはなぜ近衛密約が出た時、飛行機に乗ってアメリカに来なかったのかとまでハルは言ったそうです。そんなことは物理的に無理ですよね。グルーはそこで思ったのです。ここでケンカ別れして終わると自分の日本に対する発言権はなくなってしまう。それでグルーは屈辱を抑えてハルに和解を申し出るのです。そして近衛密約のことはその後一切口に出さず、全米を日本の状況説明のために講演して回るという行動をとります。

戦争が終わるちょっと前、シカゴのイリノイで聴衆を前にして話をします。そこでグルーは日本を弁護しています。アメリカでは政府高官までが日本人をジャップと言っていた時代、グルーはちゃんとジャパニーズと言って話します。日本の皇室に関する考えから、神道に関する考え方を説明しています。そこである男が質問します。大使はそういうけれどジャップは悪い奴だというのです。するとグルーはあなたはそういうけれど日本人にあったことがあるのかと。なぜ決めつけるのか。そして大勢の聴衆の前で「神はご存じだ。私が日本を弁護する最後のアメリカ人であることを」と言うのです。

この思いがやがてポツダム宣言になってくるのです。グルーが言うには、日本が銃を置くには天皇の命令が必要だ。天皇が銃を置けと言われれば絶対に日本人は銃を降ろすだろうというのですが、残念ながらアメリカ人たちのほとんどはグルーほどの身の入れ方はしていないのです。そのうちにグルーは国務次官になります。運が良いことにハル国務長官が抜けてステテニュアスという人が国務長官になるのです。この人は外交があまり得意でなくグルーに外交を任せてしまうのです。

ですからグルーは国務次官だけれど国務長官のような振る舞いで丁々発止やることが出来るようになります。ポツダム宣言の時にも、アメリカでは日本なんてどうでもいいのでカルタゴのようにしてしまえという議論が出るのです。カルタゴは紀元前ローマにやられて影も形もなくなってしまうほどに滅ぼされた国です。この由緒ある日本という国をカルタゴにしてなるものかというのがグルーです。

やがて7月のポツダム宣言が出ます。ところが日本側がうまく受け入れてくれればよいものを日本は無視します。一応受け取ったよと言えば外交です。日本はそれを無視して、こともあろうにソ連に和平の仲介を申し込んでいるという情報がグルーに入ります。ワシントンではらはらしながらそれを見ているのです。グルーはなんで日本は分からないのかという思いだったでしょう。そして8月、ソ連は日本に参戦し、原爆が落とされという状態になってしまうのです
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6.敗戦と連合軍の占領

そしてこういう状況が生まれます。
マッカーサー元帥と天皇陛下これは昭和20年の9月27日の写真で新聞に出たものです。 占領され、天皇が占領軍の司令官に会うにはどうすればよいか、天皇は迷うのです。どうすればよいか。マッカーサーの方も天皇家の出方を見ているのです。それで陛下は自ら大使館へ行こうということになるのです。訪問の朝、皇后陛下はよもやわが君は2度と帰らじという悲痛な思いだったと話していらしたと、筧さんという宮内庁のお役人が話してくれました。筧さんは天皇と一緒にアメリカ大使館に来ていますから。陛下は戦勝国に会うのですからその思いやいかにですね。

会談が決まると初めは宮内庁側と司令部側は綿密な打ち合わせをしまして、マッカーサーは陛下をお迎えするときにどうやって立てばよいのかを考えます。初めは自分の副官達をずらっと並ばせてお迎えしようということも考えリハーサルもやったそうです。どうも納得いかないというのでマッカーサーとしては自分だけでお迎えしようということで一人でお迎えしたのです。

それで玄関のところに貞吉がいつもの紋付き袴で立っておりまして陛下をお迎えし、陛下のお持ちになられたモーニングコートと帽子を受け取ります。その時にある感覚を貞吉は感じたそうです。なにかその時貞吉は陛下の体から出てくる霊気ではないかということをメモに残しています。そして貞吉が見たものは陛下の帽子の内側がほつれていて、それを丹念にきれいに縫った後があったということです。わが国の陛下の帽子がこんなにも質素なものかと感激をしたといいます。

それを貞吉はジェーン夫人に言ったそうです。するとジェーンは元帥の軍帽もそうでしょうと言ったということです。このときの話はいろいろな本に色々な人が書いていますが、たとえば当日陛下がお見えになるのだから日本人スタッフは隠れていろとジェーン夫人は言ったということが書かれた本があります。理由は陛下に失礼になるからだというのです。そんなことはありっこないのです。そんなことがあったなら貞吉が玄関に出迎えるわけがないですから。マッカーサー側は戦前からこの大使館に勤めてきた男が出迎えるのがよいという判断だったと思います。

またしばしば問題になるのはここで陛下がたばこを喫ったか喫わないかという話です。マッカーサーは確かにパイプをくわえていましたが、貞吉は家の中でマッカーサーがパイプをくわえているのを見たことがないそうです。ただ時々息子のアーサー少年がいると葉巻を咥えるのだそうです。そうするとアーサー少年はさっとマッチを擦りまして火をつけるんだそうです。それが楽しみのようで、火をつけて一服するとすぐ火を消してしまったそうです。
貞吉に言わせるとこの会議室には灰皿は置いてなかった。もし陛下がたばこはいかがですかと言って陛下が喫うでしょうか?いやたしなみませんといって丁重にお断りするのが普通ですよね。

またこの時貞吉は会談の部屋に入って暖炉に薪をくべたと言います。9月ですから寒くはないのですが、長い間使わなかった部屋ですから湿気で変な匂いがする。それで部屋を乾燥させてなくそうということで貞吉はジェーンと二人で事前に暖炉に薪をくべたのでした。
その時に貞吉がみたのは陛下が端然として微動だに体を動かさない姿勢でした。さすがわが国の天皇であると非常に誇りを感じたということです。さてそこで陛下が自分の命はどうでもいいからといったという話があります。それはその通りであります。

奥村さんという方の書いた手記があるのですが、それによりますと何事もない、やあやあこんにちわくらいの話しかないのです。それから奥村さんが聞いた話として日露戦争時代の逸話をマッカーサーが話をしたという記録があります。ところが陛下とマッカーサーの具体的な対話には全然触れていません。奥村さんから船山貞吉に手紙がきています。これも秘密メモみたいな手紙でお互いに黙っていてよかったなというふうな走り書きがノートがあるのです。肝心なことは秘密にしたのだと思います。

マッカーサーは自分の回想記に陛下がこのように言われたといって感激したことを書いています。マッカーサーの文は文章的に重複していると思うところはありますが、彼をして陛下のお人柄をそういうふうに記述しているということは素晴らしいことだと思います。
それで会談は終わりました。会談が終わりますとマッカーサーは陛下の腕をとって玄関まで送りにきます。

初めは天皇、英語でエンペラーと言っていた彼が、最後は陛下、英語でヨアマジェスティという言い方に表現が変わっていました。これは奥村さんもうちの親父も言っていたことです。煙草を吸ってふらふらするような陛下だったり何気ない世間話しかしない対話ではそのようなマッカーサーの態度の変容は起きなかったでしょう。そこにマッカーサーにグルーとの共通点があるように思います。不思議なことにグルーもマッカーサーもニューイングランド出身で、二人とも聖公会といってイギリスの国教です。政党も共和党でお互いに頑固者です。筋は通すところは通すというタイプでしょうか。

マッカーサー左はマッカーサーの写真です。霊南坂を下りてくる写真です。色々な人が親父にマッカーサーへの紹介を頼んで来ていた時期、ふと親父は「自分もマッカーサーの写真がないな、サインももっていないな」と気がついて、サインと写真を手にしたのがこの写真です。

みなさん忘れてならないのはあの占領中は日本は独立国家ではなかったのです。なぜか今の日本人は戦争が終わった瞬間に日本は民主国家として始まったように思っている人がいますが、そうではないのです。占領軍に征服されていたのです。

ソ連と違ってアメリカは巧妙にやったので被害意識があまり残っていないのでしょう。サンフランシスコ条約が結ばれてそこで初めて日本の占領が終わったのです。だからその時憲法を変えようと言うんではないかとアメリカ側は思っていたんです。

ところが吉田さんはここで軍備を持つよりも経済の方に行こうじゃないか、軍備の方はアメリカを傭兵みたいに考えて任せておいていいんではないかと考えたのです。また当時から戦争の放棄は日本側の発想提案だったという説も強く残っています。そのようにして占領が終わり今日日米安保条約はいまだに続いています。

私はこれは不思議だと思います。こういう国は世界でもあまりないんではないでしょうか。私は親米とか反米とか言っている訳ではないんです。私にも小学校に上がったばかりの孫がいます。彼らが育つのにあと20年くらいかかると思うのですが、その間日本が平和であってほしいと思います。

私は50周年記念式典の時講談社から依頼されてハワイに行きました。その時式典のコーディネーターをやっている男と話しました。僕は当然言いました。あなた方は広島への原爆投下をどう見ているのかと。彼らは絶対に謝罪はしません。外国では謝罪のあとには賠償金がつきものだからです。ですから過去の問題を論争するよりも現在をどう生きるか、これからの日本をどうまとめ維持していきかを我々は考えなければいけないと思っています。

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7.USUI文化交換局ラジオプロデューサーの私

私はその後親父の縁もあって、昭和29年にアメリカ大使館のUSIS,これは占領行政の一貫の流れとして文化交換局というのですが、ここでラジオのプロデューサーをしていました。そこでラジオ番組を作っていました。当時は民放なんてありませんでNHKだけなんです。それで民放に番組を提供するにはどうしたらよいかというので、アメリカ大使館の中にUSISがVOA(ボイス オブ アメリカ)という番組を作りまして日本の民放さんにあげていたんです。

三木鮎朗とロバート・ワイズこの写真はジェーシー高見山さんの番組、この番組は横山道代さんですね。これは三木鮎朗とハリウッドのロバート・ワイズでウエストサイド物語を作った演出家です。こんな人々を呼んでラジオ番組を作っていました。これには文化的な面でアメリカ的な民主主義を導入しようというアメリカの政策があったのでしょう。

ケネディになって宇宙開発が叫ばれるようになると糸川先生をはじめそうそうたる方々にお願いして、アメリカ大使館では科学番組を制作していました。私はその後に友人から頼まれてテレビコマーシャルの仕事にかかわり「男は黙ってサッポロビール」や「お嬢さん振り向いてエメロンです」のコマーシャルなどにかかわりました。
以上ご静聴ありがとうございました。(拍手)




文責:臼井良雄
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


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