現在位置: ホーム(1)講義録一覧 2007〜2009(2) >―大航海時代 マルコ・ポーロとコロンブス―
WEBアクセシビリティ対応
ページの先頭です

平成21年4月17日 神田雑学大学定例講座No452


千代田図書館トークイベント、航海秘話シリーズ第一回、「大航海時代 マルコ・ポーロとコロンブス」、中村 孝



目次

メニューの先頭です アクセント画鋲
1.はじめに自己紹介を兼ねて
2.「レストラン船旅」
3.ジェノア探訪
4.マルコポーロに関する疑惑
5.コロンブスについて




メニューに戻る(M)
中村 たかし講師

1.はじめに自己紹介を兼ねて

今回のトークイベントでは6回話す機会があるということです。初めの3回は大航海時代をとりあげます。残り3回は幕末時代の密航、留学生の関係の話をしたいと考えています。今日は初回ということで、前おき並びに自己紹介ということで15分ほど、そのあと30分くらいマルコポーロに関する話、そして残りがコロンブスに関わる話という段取りで進めたいと思います。私の生まれと育ちは浅草、上野方面です。

カッパ橋の道具街とか伊能忠敬のお墓、入谷公園などが近所にありました。私の特徴は2つありまして、一つは学生時代にロシア語を専攻したこと、二つ目は通訳として漁業取締船に乗り海上での生活経験をしたということです。

最初にサケ、マスの漁業取締船に乗りましたのは1964年の東京オリンピックの年でした。期間3ヶ月、乗った船は捕鯨船、海域はアリューシャン列島でした。当時の学生の身分としてはいいお金がもらえました。一般的に船の中では金を使いませんから、多少貯まります。私の場合は年間の授業料がそれで払えたということで、私は「こいつは悪くない」と思い、物好きにも翌年また乗りました。古い話ですが日本と旧ソ連との間に漁業条約というのがあって、取締船を双方で出すわけです。

そこにはある程度ロシア語が分かる人間が必要ということで、学生の分在の私が乗ったという訳です。2回乗りましたので色々ありました。例えばサケマス漁船の急病人を引き取り、アリューシャン列島のアメリカの軍事基地アダック島へ緊急入域したり(地理的にはあの大黒屋光太夫が漂着したアムチトカ島の近く)、それから日本の漁船が座礁して、コマンドルスキー島(英語のコマンドからきている島名でベーリング海の名前になっているベーリングを記念し命名)へ救助に行ったりもしました。

社会人になり陸で勤め人の生活に入り、約30年弱やりました。最後の勤務地はモスクワでした。勤めを辞め多少時間ができ、これから何をしようかと考えました。そのときふと「学生時代に乗ったあの船は今どこにいるのだろうか」と思い、もう一度日本の水産庁の門をたたきました。そして30年ぶりに乗船。その時の印象は強烈でしたね。学生時代は15人くらいの大部屋に入れられ、2段ベッド。

ところが30年たって乗ってみると、部屋は全部個室。昔は大部屋の真ん中にドデンと麻雀台があり、毎日やっていました。私は暇人に見られたものですから、メンバーが足りなければ「おい通訳降りて来い」ということで寝ていようがなにしようがたたき起こされたものです。ところが今度は麻雀のまの字も出てこない。話題はもっぱらパチンコで時代が変わったと思いました。

こうして乗り始めたのですが、サケ、マスだけの取締船というのも能がない、ということで蟹とかマグロにも乗りました。マグロの取締船に乗ると地球一周できます。7つの海と言いますが、多少その7分の5は見たかなということです。南北太平洋、南北大西洋、インド洋というところを中心に回りました。

白竜丸とオリビヤ号これが私の乗っていた白竜丸という船です。1200トン、全長78mくらいの船です。取締船というのは日本政府が出しますが、船そのものは2種類あります。日本政府の船を使う場合と民間の船をチャーターして使う場合です。

この映像は日本政府の船です。寄港すると、外国の客を招いてレセプションをするということもあるのです。ですから非常にきれいに船は保たれています。この船には23人ほど乗っていて、うち女性が4人いました。私以外は皆さん公務員。これはオーストラリアのシドニーに入港したときの写真です。

この煙突のマークが水産庁のマークです。これは民間からチャーターした船でした。この船は男所帯で15人。これで世界一周をしました。

漁業取締船に5、6年乗っていましたが、ある時ふと「こうしていてもマゼラン海峡を渡るというのは不可能」と気が付き、マゼラン海峡に行くにはどうしたらいいかを考えました。もちろん時間とお金があればなんとでも出来るのですが、私の場合船というのは金を稼ぐ場所だと思っているものですから、探しました。

そうしたらウクライナの船がありまして、船員は皆ロシア人かウクライナ人、しかし乗るお客さんは日本人という客船でした。オリビア号という1万5000トンくらいの船です。私はこの船でロシア語の講習会を開くということで6ヶ月間乗船。地球一周の船旅ということで南回りと北回りを体験したのです。これでマゼラン海峡を渡ることが出来ました。

メニューに戻る(M)

2.「レストラン船旅」

自己紹介はこのくらいにします。こうして多少海上の経験をつんで、少しばかり海の話をしこんだので、2年前に「レストラン船旅」を開設しました。レストランなるものが最初に地球上に現れたのは1700年代の仏・パリだそうです。その時の能書きは「疲れた方は私どもにいらっしゃい。滋養分のあるものを食べてリフレッシュして下さい」というもので、フランス語の専門家によれば18世紀のレストランという言葉そのものは「滋養分のあるもの」という意味だったようです。

私も願わくば話をすることによって皆さんの脳細胞に滋養分が行きわたり、活性化されるということを願って、食事ならぬお話をメニューにした「レストラン船旅」を開設したということです。お手元の資料にレストランのメニューがあります。例えば漂流民に関する話、大黒屋光太夫とか、ジョン万次郎とか漂流民に関する話です。それから密航。反乱に関する話(イギリス海軍の戦艦バウンティ号の反乱のような船の中の反乱の話)。

海賊の話、使節団の話(九州のキリシタン大名が少年使節団を送ったような船で渡った使節団の話)。運河開拓の話(スエズ、パナマ運河開拓史)。そして大航海時代の話です。これらを「海の人間模様」ということで人間に焦点をあて、私が訪ね歩いた寄港地探訪の話とミックスしてお話したいと考えています。今日は寄港地ではイタリアのジェノアを取り上げ、ジェノアに関係する大航海時代のコロンブスとマルコ・ポーロの話です。

メニューに戻る(M)
勇新丸

3.ジェノア探訪

ある時地中海のマグロ取締船に乗る機会があり、ナポリとジェノアに寄港しました。この画面は勇新丸という捕鯨船ですが、これと同型の船に乗りました。本題に入る前にちょっとジェノアの街を紹介します。(写真)ジェノアという地名はスイスのジュネーブと似ていますね。

語源的には同じで、語源辞典によれば河口という意味だそうです。ジェノアという言葉自体は現地のパンフレットによればラテン語のJANUA 即ち門からきているそうです。人口が6〜70万人。ジェノアを起点にしてミラノにもトリノにもピサにも150kmくらいの距離で行けるので、拠点としては穴場です。これがコロンブスの生家と言われています。

この建物は今日の主人公の一人、マルコポーロが入っていた刑務所があったとされているものです。マルコポーロはこの牢獄に収監され、そこで口述筆記させて東方見聞禄を書いたといわれています。漁業取締船は寄港すると大体3日停泊します。その間燃料、食糧、清水の補給、船員の休養となります。私は何はさておき、マルコポーロだということで探しに行きました。なかなか分かりませんでしたが、ここだと言われ、牢獄とはかけ離れた建物に一瞬おやと思いました。なにせマルコポーロは13、14世紀の人ですから、特に建物の外観が変化しても当然ということでしょう。これが違った角度から撮った映像です。

なんとなく暗い感じがしますが、今日現在は港湾関係のオフィスになっているようです。物の本によればジェノアの市庁舎にはコロンブスの肖像画と一緒にマルコポーロの肖像画が掲げられているそうです。マルコポーロはベネチアの人ですから、ジェノアから見ると当時は敵対者ですが、ジェノア出身のコロンブスに与えた影響があまりにも大きいということで、肖像画を対等に2つ置いていると説明なさっている方がいました。

メニューに戻る(M)

4.マルコポーロに関する疑惑

マルコポーロに関し2点に絞ります。1点目はまず本当に中国まで行ったのかという問題です。2点目はあの世で彼は自分の著作を読めたかという点です。言いかえれば、牢獄でマルコポーロの語る話を筆記したルスティケロ(Rustichello da Pisa)という男、このピサ出身のルスティケロという人はそもそも何者かという点です。

4−1.本当に中国へ行ったのか
1点目ですが、専門家の間でも議論が分かれるそうです。疑問視する人は、中国の文献にマルコポーロのマの字も出てこないのはおかしいと言います。それに東方見聞録には万里の長城に関する記述もない。また中国の諸々の習慣、例えばお茶を飲むとか纏足とかの非常に西洋人には珍しい習慣についてマルコポーロが10数年いたという割には、全然触れられていないではないか。

纏足に関してはロンドンの人類博物館に宣教師が中国へ行って持ち帰ったきれいな刺繍入りの纏足用の靴が沢山展示されているそうです。如何に纏足がヨーロッパ人に奇妙に映ったかということは明白なのに、そうしたことが東方見聞録には書かれていないのです。

会場風景1

一方それに関しての反論も多々あります。1点目のマルコポーロの記述が中国の文献に出てこないについては、そもそもマルコポーロは隠密だから出てこないのは当然という意見。万里の長城の記述がないという件では、今日現在我々がイメージするあの万里の長城になったのはもっと後の時代で、明の代になってからだから、マルコポーロがいた時代には全然目立たなかったのだという反論。お茶に関しては葉っぱを煎じて飲むというそのこと自体が非常に奇異に映ったので筆記する人が馬鹿馬鹿しくて書くのをやめたのではないか、纏足については当時の女性はあまり外に出なかった云々 といったところです。

ああ言えばこう言うという感じがしますが、具体的な話もあります。当時は元が宋を攻めるのに苦心惨憺していた時代ですが、投石機という新兵器が発明されたそうです。東方見聞録にはマルコポーロがその投石機を製作し、またその取扱いを現地の人に説明したという記述があるそうです。投石機を使って襄陽という重要な南宋の要塞を陥落させたのは事実なのですが、その陥落時期はマルコポーロが中国へ来る1年くらい前だったという反論です。ですから専門家の中でも色々な意見があるということです。

マルコポーロの帰路は、お姫様をイルハーンへ運んでいくという目的でマルコポーロ、彼のお父さん、叔父さんが船に乗り込んで移動したとなっています。13〜14隻くらいの大船団で人数としてはある本では600人、ある本では1000人というような大変な人数で行ったということです。で実際に目的地に着いた時には、海賊とか海難事故にあい生存者18人。その18人の中にマルコポーロの3人組、それにお姫様が入っていたわけですが、これはちょっと出来すぎじゃないかいう感じがしないでもありません。

4−2.イタリアに戻ってからのマルコポーロ、ルスティケロという人物は?
いずれにせよマルコポーロの東方見聞録の原本は今日現在地球上には無いそうです。あるのは写本でこれが100冊とか150冊くらいとか諸説あります。この映像は千代田図書館所蔵の内田嘉吉文庫所蔵の資料から貸して頂いている図柄です。

図柄

左の絵は正にマルコポーロとお父さん、叔父さんが3人、20数年ぶりにイタリアに帰ってきた時の絵です。右の絵は口述しているマルコポーロと筆記者、ピサの物語作家と言われるルスティケロという人です。これは牢獄の中ですね。

よくご覧になれば足枷があります。ご興味があるかたはここに本がありますので、あとでご覧になって下さい。これを見た私の第一印象はずいぶん清潔だなという点です。13、14世紀の頃を書いた本を読みますと、例えばピサとジェノアが戦争をしていて、捕虜が監獄にどんどん入れられるのです。負傷者も来るわけで衛生上不潔きわまりないし、ひどい臭気だったということが書かれていますので、この絵は少しきれいすぎるのではという気がします。

公演中の中村講師ではこのルスティケロという人物は何者か? 本によってはたった一行、有名なガリレオの生地ピサ出身の物語作家としています。人によっては多少詳しく説明していますが資料そのものが非常に少ないということでしょう。言えることは多分2つ。一つは1270年代にこの人が十字軍に参加したこと。

二つ目は1280年代にジェノアとピサの都市国家が戦争し、彼は捕虜でジェノアの刑務所に入れられたということです。そして1290年代にマルコポーロが同じ牢獄へ入れられ合流した。この人はざっと計算して10年強はこの刑務所に入っていた感じです。

興味深いのは1270年代の十字軍参加時代にイギリスのエドワード一世に非常に気に入られていたという事実があるそうです。彼はアーサー王伝説物語という中世の騎士物語を書いたこともあるようです。フランスのパリ国立図書館にアーサー王の物語という写本があり、それを書いた人はフランス語でルスティシアーンと書いてあるそうです。このルスティシアーンという人と東方見聞録の記述者ルスティケロは同一人物であるというのが専門家筋の定説です。何故ならそれぞれの書き出しが同じだからだそうです。

これは私の全くの想像ですが、このルスティケロは10年近くも刑務所暮らしをして、1290年代になってマルコポーロと接触するわけですね。彼はエドワード一世に気に入られていたくらいですから色々な知識があった人だと思うのです。世の中の動きもそれなりに読んでいた。それでいつまでも俺はこの牢獄にはいないだろう。遅かれ早かれ出られるだろう。だから刑務所の中でマルコポーロとかいう変な男の話を面白くまとめて、自分の手柄にしてやろうと考えても不思議ではないと私は勝手に考えています。即ち、出所後の身の処し方を考慮中であった所に、ちょうどマルコポーロが来たのではと考えています。

言葉の関係から言えばエドワード一世のお母さんはフランス人だそうです。また12、13世紀のヨーロッパの上流社会では一般的にはフランス語が幅をきかせていたようです。従ってこのルスティケロはフランス語も分かるということです。多分牢獄で「お前の話は面白いから皆が広く読めるように俺が書こうではないか。君にしたって自分の話が伝播することに異論はなかろう。ただ君のベネチア語方言だと理解する人が限定されるから、この際フランス語(といっても南部のプロバンス地方のフランス語だそうです)で書くとしよう」というような会話がったのでは。なにしろ場所は牢獄、暇を持て余していた二人だったのではと推測します。

ということであの世に行ったマルコポーロは「これがあなたの話した東方見聞録だ」といって見せられても、フランス語なので彼自身は読めないと私は想像しています。ここらで何かご質問があればお受けします。

講座風景1

4−3.質疑応答
質問:なんでマルコポーロは刑務所に入っていたのですか?
答え:マルコポーロは中国からベネチアに戻ったわけです。それで2、3年いてそのあとジェノアとベネチアが戦争を開始したのでそれに参加。それでマルコポーロはジェノアの捕虜になり刑務所に入ったのです。

質問:マルコポーロは刑務所で死ぬのですか?
答え:いいえ、その後出獄してベネチアで結婚、子供も3人さずかります。

質問:さきほどのジェノアの建物の中に牢獄があったのですか?
答え:そうだと思います。ただ700年以上も前のことですからその形跡が不明瞭なのだと思います。私は「だいたいこの辺だよ」と建物の中で言われただけでした。

質問:私も何かの本でマルコポーロは本当に中国に行ったのか、東方見聞録という本は一人の人間が書いた本なのかという学者の間にも異論があるというのを読んだのですが、彼が中国に行っていた20何年かと東方見聞録に書かれたことの整合性が取られておらず、これは何人かの物語りを組み合わせたものではないかという意見をきいたのですが、どう思われますか?
答え:私もそんな気がしますね。私の印象ではマルコポーロは途中までは行った。しかし色々な話はまた聞きが多く、また聞きのもう一歩また聞きとか、そういう部分も非常に多いのではと思います。人によってはマルコポーロという人間そのものが、名前からして日本で言うと山田太郎のようなもので、こういう名前自体おかしい、いわゆる物語作家なる人が複数集まってマルコポーロという人物を創り上げたのではと言っている人もいます。私も良く分かりません。まあ分からないところが面白いのでしょうか。

質問:ジパングということで日本を紹介しているのですね?
答え:はい、そうです。ジパング金銀島ということでその話がどんどん拡大解釈されて行ったのだと思います。日本近海での金銀島探検者は多いと思います。例えば、支倉常長の船団に便乗して日本からメキシコへ帰ったビスカイノという男がいます。徳川家康の時代ですが、ノビスパン(メキシコ)に来た日本使節一行を日本へ送り返すべく1611年来日。通商の拡大が本来の目的だったのでしょうが、金銀島の発見も重要な任務の一つだった。そこで隠密裏に近海に出て金銀島を探していて事故にあい、船は破損。帰るに帰れず支倉常長の船に乗せてもらって帰国した訳です。

別の例では小笠原諸島のオランダ人の例があります。記録によれば小笠原諸島の父島は1639年オランダ人によって発見されたそうです。このオランダ人は蘭・東インド会社が金銀島を探して来いという指示を出したので父島まで来たということのようです。さらに北方4島のうちの択捉島も記録では1643年オランダ人発見です。東インド会社はマルコポーロの金銀島情報を信じ懸命に探していた ということだと思います。

メニューに戻る(M)
コロンブス

5.コロンブスについて

コロンブスは東方見聞録のラテン語版を携えて新大陸発見の旅に出ました。そこには255か所の書き込みがあったそうで、彼がいかに東方見聞録を読みこんでいたかということをうかがわせる話です。コロンブスについてはアメリカのワシントンDCのCがコロンブスのCを採っているが如く、スーパースターのような存在ですから私のような素人が語ることは無いのですが、野次馬的な観点から今日は2点取り上げます。一点はマディラ諸島での出来事。このマディラ諸島でコロンブスは新婚生活を送っています。2点目はコロンブスの計画を拒絶したポルトガルの王様ジョアン2世の話です。

5−1.マディラ諸島総督の娘と結婚
では一点目のマディラ諸島です。この画像も千代田図書館所蔵の内田嘉吉文庫の資料です。これがモロッコでこれがサハラ、これがカナリア諸島で、マディラ諸島はここからちょっと北です。一番大きな町はフンシャルという港町で人口が現在約10万人。今日現在ポルトガル領です。ここへはコロンブス自身は砂糖の買い付けで何回も寄っているということです。アイスランドの方にも若い頃航海をしたという話があり、諸々の土地勘があったのでしょう。

地図まず野次馬としての興味は彼の結婚です。彼が結婚した相手のお父さんはこのマディラ諸島の総督だったのです。それで彼はここで新婚生活を送ったのです。総督の娘ということで身分差がありすぎるということで、専門家筋でも、なぜ彼がそういう結婚が出来たのか疑問として残っているそうです。それはそれとして、彼はこのマディラ諸島にいる間に大変な実地の勉強をしたということは事実のようです。なにせ総督ですから、諸々の資料文献があったようです。

彼が特に興味があったのは、気象条件ですとか地理上の文献などで、この時期彼はこれらを読み漁り大変なノウハウを蓄積したようです。そして彼はポルトガル国民の一人に変身するのです。総督の娘婿であるということによって、この男はよそ者ではないというお墨付きを貰ったのではないかと思います。

1470、80年代の話ですがこのポルトガルとスペイン、当時はカスティーリアと言いましたが、両国間にはいつも悶着がありました。1479年にアルカソーバス条約という条約が結ばれます。カナリア諸島は現在スペイン領ですが、それはこの条約によって決められたのです。そしてマディラ諸島はポルトガル領になったのです。さらにカナリア諸島以南の利権は全部ポルトガルのものだという確認もこの条約によってなされています。そうした時期にコロンブスは奴隷貿易で有名なギニアまでポルトガル船に乗って航海をしています。

ある人に言わせるとこのカナリア諸島の南へ航海するということ、それ自体が当時としては国家機密であったそうです。そういう船にコロンブスが乗れたということは彼が大きな信頼を受け、よそ者ではなかったということの証ではないかと思います。ひとつの結婚を契機にして、彼はマディラ諸島で各種資料、文献を読み、秘密事項を頭に入れ、なおかつギニアの南まで行ってポルトガルの要塞を築く部隊にもいた。そして南方の気象条件、航海術を実地体験として学習したということです。

5−2.無名航海士の帰還
コロンブスが新大陸を発見する10年くらい前にすでに新大陸に到達した人がいたという話です。そういう話が当時まことしやかに話されていたそうです。今日現在その無名航海士の銅像がマディラ諸島にはあるそうです。その船団は西へ西へと向かい新大陸に到達したのですが、帰路悪天候でほとんどの船員が死亡。しかし一人だけ生き残りマディラ諸島に漂着。その時たまたまコロンブスが居合わせた。コロンブスはそこで大変なマル秘情報を仕入れたという話です。

以下はスペイン語の専門家の話ですが、コロンブスは新大陸への航海の提案をポルトガルの王様に蹴られスペインの女王のところに行き、協定書を結んでいます。その前文に「コロンブスなる男は新たなる大陸を発見した」と、まだ航海に出ていないのに、動詞が現在完了形で表現されているのだそうです。この専門家によればコロンブスはマル秘情報を得ていたため、120%確実な話だ、行けば絶対に到達するという大変な確信をもってスペインと交渉した、その結果としてこの「現在完了形」が思わず使用されたのでは といった感じの説明をなさっています。

スペインの王に彼が提案したとき、彼の奥さんはすでに死んでいます。ですから悪く言いますとコロンブスは奥さんを利用するだけ利用して、死んだら「はい、それまでよ」と、そういうこともありかなと野次馬としては感じるのです。死因は私が読む限り不明ですが、ある人はこう指摘します。「コロンブスはある時点で西へ行けば必ず到達するという確信を得た。しからばそれをどう実行するか。まずは金。金の出所は王室。ならば王室とのコネをどうするか。王室を取り巻く関係者が出入りする場所はどこか。その一つは教会である。しからば攻めるべきは教会。そこでコロンブスはリスボンの教会に頻繁に出入りし、そして、その教会でマディラ諸島の総督の娘をしとめたのではないか」と。

5−3.ポルトガル王ジョアン2世の決断
コロンブスの提案を蹴ったポルトガル王ジョアン2世は3つの大きな決断を1487年にしています。まず一つは世界史の年表に必ず出てくる喜望峰発見のディアスの派遣。そして2番目が海ではなくて陸路、コビリアンという男の派遣です。ポルトガル語にするとPero da Covilliaoだそうです。そして3番目がコロンブス案の流用です。つまり王様はコロンブスにNOの回答はしたが、内心どうもこの話は悪くはないと思ったのですね。

そこで金は出さないが、もし行きたい者がいれば許可は与えるとしたのです。すると一人が手を挙げた。これはフランドル地方の船乗りだそうです。彼は許可をもらい早速航海に出たそうですが、ものの見事に失敗。やはりいかに金があっても気象条件のノウハウなど人、物、金、情報がそろっていないと新大陸へは行けないのですね。

以下2番目のコビリャンの話に絞ります。結論から申し上げますと、あのバスコダガマという人が1498年にインド航路を開拓したと言われますが、実際にはそれより10年ほど前にこのコビリャンがインドの西海岸に到達しているのです。この事実は詳しい書籍には勿論載っていますけれど、学校の教科書、授業ではコビリャンの話はまず出てきませんね。

講座風景2

この人は若い頃スペインで働いていて、スペイン語を習得。その後ポルトガルの宮廷に仕えます。ポルトガルの王様は常にカスティーリア(スペイン)の動きが気になるということで、この男をスパイとしてカスティーリャに派遣したこともあったようです。ですから本によってはカスティーリャのイザベラ女王にも仕えていたという表現をしているのもあります。いずれにせよカスティーリャの内情をスパイすべく派遣された時期もあったのです。次に派遣されたのがモロッコ。外交官として派遣され、そこでアラビア語を習得。それでイスラム商人に変装して陸路インドへという使命を受けるのです。

つまりポルトガルのジョアン2世の考えは海と陸の両面作戦です。まず海路で南下させ香料貿易の実態を探る。それがディアスの派遣による喜望峰発見です。部下の反対にあい、このデイアスは喜望峰から先のアフリカ東海岸へは到達出来なかった。とはいえ喜望峰発見、大変な成果となった訳です。そして海路だけでは物足りず陸路もということで、このコビリャンを派遣したのです。彼の行程概略を説明します。ポルトガルを出てバルセロナへ、それからナポリ、そのあとロードス島へ。そこで大量の蜂蜜を仕入れます。これは変装したイスラム商人としては必須の商品だったのだと思います。

以後アレキサンドリア、カイロへ。カイロでイスラムの巡礼団に出会い、その一員になりすまして紅海を渡ります。そして最近時海賊問題で何かと話題になるアデンまで来て、そこからインドへ海路渡ったのです。インドでは西海岸のカリカット、ゴアに到達。それがバスコダガマより10年ほど前のことなのです。

ポルトガルの王は宗教的な問題も相当気にかけ、プレスタージョン伝説を信じていました。当時まことしやかにプレスタージョン伝説というのがありました。東の方に必ずやキリスト教の一大王国が存在するというものです。そこと結託してイスラムを挟み討ちしようではないかと当時の教会や王は考えたようです。ところがどこにあるか分からない。王はそのプレスタージョンを捜して同盟を結んでこいと別の命令も出していて、コビリャンと一緒にパイバという男が派遣されています。

王は陸路2人を派遣したのです。パイバという男はアデンまで一緒ですが、そこで別れ、エチオピアへ出かけ、コビリャンは香料貿易の実態調査つまりアラブの商人がいかにインドで香料貿易をやっているかという今で言う市場調査をやりにインドへ行ったわけです。ところがパイバはエチオピアで死亡。一方コビリャンはインドでの実態調査を終えアデンに戻り、またアフリカを南下します。ここがマダガスカル島ですがその対岸まで南下。このアフリカ東海岸からインドへ行くという航路が可能かどうかを調査して来いというのも王からのさらなる宿題だったのです。

それで調査し可能との確信を得て彼は戻ったわけです。そして先ほどのパイバとの合流予定地点であるカイロへ。そこでパイバを待ちます。ところが2人のユダヤ人が王の使いとして現れ、パイバがすでに死んだこと、お前の次の任務はパイバに代わりエチオピアへ行くことだと言われるのです。彼はやむを得ずエチオピアへ。そしてなんと52年間、4代の皇帝に仕え、結婚もしてエチオピアに在住し、そこで亡くなったといわれています。

彼自身は国に帰りたいと言ったけれど、エチオピアの王は許さなかったとか。徳川家康と三浦按針の関係に似ていますね。ただ彼のおかげか、ポルトガルとエチオピアの関係はそれ以降続き、使節団が往来したようです。エチオピアはコプト教という古いキリスト教が盛んな国だそうです。コビリャンはバスコダガマ以前にインド航路は可能性ありとの報告書をポルトガルの王に出していますので、私はバスコダガマという人はレールが殆ど敷かれたところをただ走って行った ということも言えるのではないかと思っています。
持ち時間がきました。ご質問があれば受けたいと思います。

5−4.質疑応答
質問:当時緯度経度という概念がはっきりしていて、天測なども出来たのでしょうか?よく出かけた港に帰ってこられたものだと思うのですが。
答え:これには答えられる知識がありません。すみません。

質問:コロンブスが船出したとき船に鶏と豚を積んでいたかはどうでしょうか?私が聞いているのではイタリアにレグホンという港があって長い航海に出る時はそこで鶏を食料のために積んだというのです。今でも白色レグホンという鶏の品種がいますが、あれは船が積んであちこち行って増えたのだと聞いているのです。江戸時代の文献でも船には食糧として生きた豚と鶏を積んでいるようなのです。
答え:これも宿題として調べてみます。

質問:コロンブスはジェノアで死んでいますが、ある本で読むとユダヤ人だと書いてあったんです。彼は初めポルトガルの王のところに行って断られ、次にスペインのイザベラ女王のところに行き、ここでも何回か断られたようですね。その時に当時のスペインの大蔵大臣の助言で船が出せるようになったということを読んだことがあるのですが。

答え:そのユダヤ人の関係については色々説があり実に興味深い点だと思います。今おっしゃったのはサンタンヘルという男のことで、コロンブス自身スペインの王様からNOと言われ今度はフランスの王様のところに行こうと歩き始めた。そこへ追手が来て肩をたたかれたという話しです。サンタンヘルというお金を扱っている高官が、この件は面白いから私が一時お金を立て替えるからやるべきだと言ったのが定説ですね。

彼サンタンヘルの伯父さんが異端審問を受け、火あぶりの刑で処刑されているのでいくら改宗したといっても俺の先は短い、この際コロンブスの新大陸に活路を求めるかと考えたかも知れません。コロンブスは最初の寄港地カナリア諸島からこのサンタンヘル宛てに手紙を出していますら、二人の親密度というか、同一民族意識が強く働いたとも考えられるかもしれません。

以上で終わります。(拍手)



文責:臼井良雄
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


本文はここまでです


このページの先頭へ(0)

現在位置: ホーム(1) 講義録一覧 2007〜2009(2) >―大航海時代 マルコ・ポーロとコロンブス―

個人情報保護方針アクセシビリティ・ポリシィ著作権、掲載情報等の転載、リンクについて連絡先

Copyright (c) 1999-2009 kandazatsugaku Organization. All rights reserved.