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現在位置: ホーム(1)講義録一覧 2007〜2009(2) >表参道が燃えた日
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平成21年5月15日 神田雑学大学定例講座No455


表参道が燃えた日、山の手大空襲の体験記



目次

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講師プロフィール
1.はじめに
2.DVD鑑賞
3.東京空襲の概要とカーチス・ルメイ
4.「表参道が燃えた日」山の手大空襲の日
5.体験記を読む
6.山の手大空襲の記録・当時の手紙・新聞から
7.終わりに




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講師プロフィール

長崎美代子 長崎 美代子
生まれ:1931年3月、東京都
学歴:日本女子大卒 
比留間柏子 比留間柏子ひるまかしわこ 
生まれ:1933年2月、東京都
学歴:都立富士高校  
職歴:株式会社アグネ技術センター  

1.はじめに

長崎美代子です。本日は64年前の昭和20年5月25日の山の手大空襲について話したいと思います。昨年『表参道が燃えた日―山の手大空襲の体験記−』という本を出版しました。その時の編集委員の長崎と隣におります比留間柏子とで努めさせていただきます。
話に入る前に短いDVDを見ていただきます。

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2.DVD鑑賞

―DVDが流れる―
これはアメリカ国立公文書館ナショナルアーカイブ所蔵のもので米軍が撮影した映像です。去年シニアエージという集まりでセミナーを開いて下さいました。その時に演出を手掛けて下さいましたのが現役の映像作家小栗謙一さんです。なにか映像を使いたいということで、急遽アメリカから取り寄せて下さり短く編集したものです。

もとのDVDはもっと長く、最初は日本との戦いで傷ついたアメリカ兵たちが飛行機で運ばれてきて、台車に乗せられ病院に搬送されていくという痛々しい場面から始まっていました。次に登場しましたのがカーチス・ルメイなんです。何人かの将校達と大きな地図を前にして作戦会議をしている映像が続きます。このDVDには字幕も音声もありませんので、それぞれの映像が何月何日に何処で撮影されたのか詳細は分かりません。でも東京の空襲が周到に準備され、いかに実行されたかがよく分かります。あの煙の下で何人の方が死んでいったのかと思うと辛いものがございます。戦後写されました焼け跡もずいぶん生々しく映っていました。
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マイク片手に講演中の長崎講師3.東京空襲の概要とカーチス・ルメイ

昭和16年12月8日に太平洋戦争が始まりましたが、東京への初空襲は意外と早かったのです。開戦の4ヶ月後昭和17年の4月18日に、空母ホーネットから飛び立ったノースアメリカンB-25が超低空の編隊でやってまいりました。東京では荒川、王子、早稲田に爆弾が落とされ、機銃掃射もありました。

早稲田中学の生徒が犠牲になり、私どももびっくりしましたけれど、軍関係者はもっと大きな衝撃を受けたことと思います。

それで空母近くの基地ミッドウェー島を我がものにすればと、その2か月後の6月4日から7日にかけてミッドウェー沖海戦というのをしかけたのです。勝つつもりでやったのでしょうが、ご存じのように大敗してしまいました。日本の優位は逆転してしまったわけです。

それから2年半、本土への空襲はありませんでした。そして19年の7月から8月にかけてマリアナ諸島のサイパンとかテニアン、グアムが占領され、そこに飛行場を作られてしまいました。そうするともう空母なんかは使わなくても、そこからじかに日本本土への空襲が可能になったわけです。

昭和19年11月1日初めてB-29が一機来襲しました。それから5日、7日と一機ずつ、これは偵察飛行だったわけです。本格的な空襲が始まりましたのは11月24日でございます。その時の目標は軍需工場ということで中島飛行機なんかが標的にされ、その後も10回以上空襲されたわけです。この当時の空襲は高い高度からの軍需工場目標の精密爆撃ということでしたが、雲がかかって目標が狙えないという時は帰りに市街地に搭載していた爆弾をすべて落としていくということで、実際には市街地にも被害が出始めました。

会場風景

昭和20年に入りますと、爆弾と焼夷弾による攻撃が増えてきました。木と紙で出来ている日本家屋を焼き払うには焼夷弾がより効果的ということで、随分熱心に焼夷弾の研究開発がなされたようです。昭和20年の1月にそれまで司令官だったハンセルに代わってカーチス・ルメイが司令官になりました。鬼将軍と言われた彼は、以後の空襲の総指揮をとりました。
1月27日には銀座とか有楽町界隈が猛爆され、銀座4丁目の交差点あたりも大変な被害が出ました。特にひどかったのは有楽町駅界隈で、爆弾と一緒だったので、ガード下は手足がちぎれた死体などで目を覆うような惨状だったようです。

2月25日、大雪の日、B-29が229機という大編隊でやってきまして、このときも広範囲に大きな被害が出ました。

爆撃の様子、逃げ惑う庶民

焼夷弾による夜間の無差別爆撃が行われ始めたのは3月からです。超低空での空襲です。そしてどなたでもご存じの3月10日の下町の大空襲になるわけです。3月10日の零時8分に深川に第一弾が落とされてから2時間余りで10万人という方が亡くなりました。この1日で10万人という数は世界の長い歴史を振り返っても、世界中どこにも例のないことです。

マリアナ基地の第21爆撃軍司令部で作られました「作戦任務報告書」というのが1970年代に解禁になり、日本でも紹介されました。そこには日本本土への爆撃についての詳細な記録があり、この3月10日の爆撃がいかに具体的に緻密に準備されて実行されたかが書かれています。このカーチス・ルメイ将軍は原爆投下にも関与します。

ところがなんと昭和39年日本政府はこのカーチス・ルメイに勲1等旭日大綬章を贈っているのです。その理由は「日本の自衛隊の育成に尽力した」ということなんだそうですが、東京空襲、原爆投下と、20万、30万という人の命を奪った空襲を総指揮した人に、国として外国人に与えることができる最高位の勲章を贈ったというのは、私としてはなんとしても納得しがたいことでございます。

電車、クラシックカー、他スケッチ画

4月になりますと大規模な空襲は東京の南部、北部、西部にも拡がってきました。4月12日、それから13日から14日にかけては、下町大空襲を上回る340機という数で来襲し、広い範囲に被害が出ました。明治神宮の本殿、拝殿もその時全焼しましたし、大塚、巣鴨、池袋あたりも焼け野原になりました。4月1日にはアメリカ軍はもう沖縄に上陸して、5月7日にはドイツが無条件降伏するという時期であったわけです。

5月に入りまして、5月の23日の夜と認識していらっしゃる方が多いのですが、実際には日が変わって24日の午前1時、B-29は558機という大編隊でやってまいりました。それからまる1日経った25日の夜、それが本日の「表参道が燃えた日」山の手大空襲の日になるわけでございます。

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本4.「表参道が燃えた日」山の手大空襲の日

左が出版した本の表紙です。表紙の絵は後で述べますが被災者の画家木村万起さんに依るものです。この本の後ろに120回ほどあった東京の空襲について表にまとめたものをつけておきました。

これによると3月10日には325機が来襲1665トンの焼夷弾を落としている、それで約10万人の死者が出たとあります。5月24日には562機が来襲し3645トンの焼夷弾が落とされ、5月25日にも502機が来て3258トンの焼夷弾が落とされたとあります。山の手大空襲はそれほど大規模な空襲だったのです。

死者は24日と25日を合わせても4400人強でした。死者が3月10日の大空襲に比べはるかに少なかったのは、下町と山の手の地形の違いもありましたでしょうし、家もそれほど密集していなかったとか、あるいは下町の空襲を教訓として、あちらこちらで強制疎開という家の取り壊しで空き地が作られたこともあったのでしょう。青山界隈でも強制疎開で出来たスペースがあちこちに見られました。

そしてなによりも私が思いますのは、下町大空襲の被害を知った親たちは、もうとても子供たちをこんな危ないところに住まわせてはおけないということで、先を争って疎開させたということです。私も7人兄弟ですが、上は3人男の子で高校、大学で、それぞれ動員で働いていました。私以下4人の子供と母と祖母は、3月下旬、福井県に疎開いたしました。そういう足手まといになるような女子供が少なくなっていたのが、ずいぶん死者の数を抑えたと思います。

スケッチ絵、弁当箱、ポスト、ポンプ井戸、女の子

そんなことで私自身は5月25日を体験してはいないんです。私は今も住んでおります当時の穏田3丁目、原宿駅の竹下口からほんの1、2分のところで生まれ育ち、表参道を歩いて青山通りを渡り、その先の青南小学校に通っておりました。またその後も女学校へその通学路で通いました。80年近く表参道の変化を見てきたことになります。

表参道ケヤキ通り表参道は明治神宮が大正9年に出来まして、その翌年から整備にかかりました。今と同じ道幅ですから当時にすればずいぶん立派な参道が出来たという感じで、道の両側に201本のケヤキの木が植えられました。明治神宮の入り口から青山通りまで1kmちょっとあるんですがその間が表参道、交差点の近くに左右2基の大きな燈籠があります。そのあたりが5月25日の空襲で一番の悲劇の起こった場所になってしまいました。

今、ちょうど青葉の季節で、ケヤキの木が青々と両側から枝を伸ばしてトンネルのようになっておりますから、戦前からの木々だと思っていらっしゃる方が意外と多いのですが、あの夜にほとんど焼き尽くされ、あの当時からの木はわずか10本くらいです。それ以外は終戦後3、4年してから若木が植えられ、これだけ成長したのです。

この本を作るきっかけになりましたのは、戦後60年という節目の年に、表参道があまりにも華やかなきらびやかな通りになってしまい、戦災の記憶が風化するのではないかという思いから、800人を超える方の署名を集め、港区にも働きかけ、今ここに映っております追悼碑が、これには「和をのぞむ」と書かれているんですが、2007年の1月に、当時の安田銀行、現在のみずほ銀行前に建ちました。

その時に何人かの方から体験記をお寄せいただきました。それをきっかけとしてもう少し幅広く皆さんにお声を掛け、結局37名から体験記が寄せられました。3月10日の大空襲はいろいろ記録もありますし、テレビなどでも報道されますので皆さんご存じなんですが、5月25日の山の手の空襲というのはあまり語られることがない。それをどうしても記録に残しておきたいという思いも強かったものですから、本にしようということになりました。

編集にあたっては戦争を知らない若い世代の方を含め多くの方に分かって頂きたいということを念頭に置き、東京空襲の記録一覧表や昭和11年から昭和20年までの略年表、戦時中の軍事施設の地図、戦時中の言葉の説明なども付録として付け加えました。

そこここに入れさせていただいたカットは穂積和夫さんという現役のイラストレーターの作品です。小学校以来の友達ですが、多方面でご活躍の方ですので名前をご存じの方も多いと思います。

同潤会アパートまた表紙カバーの絵も私の小学校1年からの親友で木村万起さんの油絵です。芸大油絵科卒の評価の高い洋画家です。木村さんは当時、表参道の同潤会アパートの向かい側に住んでいらっしゃり、この5月25日には

お母様とお姉さまと3人して、炎の海となった表参道を横切って同潤会のアパートにたどり着き、そこに井戸がありましたんですが、井戸水を頭からかぶって、同潤会アパートの一室に逃げ込んだそうです。

ケヤキの木は音をたてて燃え上るし、窓ガラスもばりばり割れる、もうこれ以上逃げることはできないと皆さんで死を覚悟したそうでございます。その時の体験とこの絵の説明をこの本の中に「ケヤキの道」と題して書いてくださっています。

表紙カバーの絵も「ケヤキの道」と名付けられており、昨年夏よい機会があり、銀座の画廊で10日ばかり展示され、多くの方に見ていただきました。木村さんは「文章の書ける人は文章で書いて残すべきだし、私は画家だから何としてでもあの日を絵にして残したいとずいぶん早くから思っていましたが、あの日の光景を思い出すのも辛く、どうしても真正面から向き合うことのできない年月が流れ、やっと描けるようになったときには私は白髪のおばあさんになっていました」といっていらっしゃいます。

この絵が出来上がりましたのは昭和56年、戦争が終わって36年も経ってのことでした。
一夜明けたあの日の光景を中央に、その周りに下から時計回りに、のどかで平和だった表参道から、戦争を経て、やがて復興し華やかになってゆくケヤキの道が描かれています。左上にB-29が見えます。炎の中にユニオンチャーチの十字架も。
  
本の表紙を部分的に表示

右下隅にサイコロがひとつ描き込まれています。これはこの絵をすごろくに見立て、愚かな人間は戦争の痛みを忘れて、またサイコロを振って同じ道をたどるのでは、という危惧と、そんなことは絶対にさせてはならないという想いが込められているのです。

この本を出版しましてから、編集の仕方が良い、あるいは付録の資料がとても参考になったという声が多く寄せられ、編集としてはたいへん喜んでいるところでございます。
この後は、実際の体験記の紹介を、弁士交替で比留間さんにお願いいたします。
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マイクをてに講演している比留間講師5.体験記を読む

比留間と申します。私も体験者ではありません。青山通りに面したビルに40年間働いていましたので、すぐ前の銀行や参道の灯籠、山陽堂書店などはいつも窓から眺めていました。戦災の話はよく聞いていましたし、本や資料を調べたりしてこの編集に携わりました。

5月25日の空襲は警視庁の公式記録によりますと夜10時2分警戒警報発令、10時22分に空襲警報が発令しました。駿河湾から侵入したB−29の編隊が青山の上空に現れたのはあっという間だったということを多くの方がおっしゃっておられます。

渋谷、赤坂、麻布方面に火の手があがって、火焔に追われた人たちが青山墓地や明治神宮をめざして押し寄せて来て、青山通りと表参道は人でいっぱいになりました。表参道はケヤキが燃えて火の海となり、表参道の交差点付近はおりからの強風で火の粉が舞い、目も開けていられない、歩くことも出来ない。大きな音をたてて竜巻のような熱風が逃げ惑う人たちを巻きあげました。

写真を見ていただきますと、こちらは米軍が上空から撮影したもので、焼夷弾で燃えている渋谷、広尾一帯です。左下から上にのびているのが青山通りです。写真はあるものしか見ることができません。私たちは犠牲者が多かった表参道とか、交差点の銀行の前とか色々そういったところの写真が欲しいのですが、実際にはこういう写真はどこにもありません。

ではこの本に書かれている体験記の何編かについてご紹介します。

当時の安田銀行と現在の、みずほ銀行

最初は当時中学3年生で安田銀行、いまのみずほ銀行の裏手に住んでおられた方です。母親とお姉さんを先に避難させて、父親と二人で消火に残っていましたけれど、父親がちょっと町会の様子を見てくると言ってそこを去ったのです。その後この少年は自分の家が燃え始めて、もう耐えられなくなってしまって逃げ出してしまいました。

代々木の練兵場の方に行ったのですが、表参道の坂道で立ち往生してしまって、また青山通りまで戻ります。今度は青山墓地を目指すんですが、もう行かれませんでした。青山通りをちょっと外苑の方に行ったところに、そのころ青山警察署がありまして、その隣に強制疎開の空き地があったのでそこに避難しました。

明け方自分の家の焼け跡に戻って間もなくしてお姉さんが、しばらくして手と胸にやけどを負いながら山陽堂の本屋さんに助けられたという母親が戻ってきましたが、お父さんは戻ってきません。それで中学生は道端の防空壕や安田銀行脇の真っ黒焦げの焼死体の山や、蝋人形のような裸の死体が入っているマンホールの中まで捜したのですが結局見つかりませんでした。

スケッチ絵、モンペ姿の少女二人

父親ははぐれた私を探すために命を失ったのではないかと、今でも自分を責めておられます。ビルマで戦死されたお兄さんは杉の板に書かれた名前だけが遺骨として戻ってきました。この戦争と空襲体験がその後の私の哲学になったと最後に書かれています。

山陽堂書店は今も表参道と青山通りの交差点の交番側の角にあります。左の絵は当時の山陽堂で、昭和の初めに建てられ当時としては珍しい鉄筋3階建で地下室もありました。空襲のとき山陽堂の方は猛火に逃げ惑う人たちを地下室に入れて、隙間から入る火炎を必死になって防いで100名余りの方の命を救いました。この写真がオリンピックで三分の二削られた今の山陽堂の写真です。

山陽堂書店の今と昔

次の話は、当時19歳の女性で安田銀行の向かいの青山通りに面したところに住んでおられました。空襲警報が鳴ったと思ったら外が騒がしくなりましたので家族8人で家を出ましたが、すぐばらばらになってしまったそうです。足の悪かったおばさんと一緒に墓地の方に向ったのですが根津さん、今の根津美術館ですけれど、その横のドブのところまで来ましたら動けなくなってしまって、二人でしゃがみ込んでいたそうです。

もうここで死んでしまうのかとじっとしていたそうですが、しばらくすると火の勢いが止んでどうやら助かることが出来ました。夜が明けてから煙の立つ焼け野原を家のほうに戻りましたけれど、家は焼けてなくなっていました。みんな戻って来たのですが、やはりお父さんだけが帰ってこなかったんですね。

朝早く安田銀行の前に山のように積み重ねられた焼死体を軍のトラックが来てスコップで車の中に投げ込んでいるのを見て、本当に震えるような思いでしたといわれています。みんなで手分けをして街じゅう父親を捜しました。日赤まで行きましたがどこにもいませんでした。
29日になって青山警察の人が、父親らしい人がいると言って知らせてくれました。青山通りから入った路地の奥に消し炭のように黒焦げになっていた死体が、水晶の印鑑を持っていてその名前がお宅のお父さんではないかといって知らせてくれたのです。

お兄さんがみんなは来なくてもいいからと言ってどこからか甕(かめ)を拾って来て、その中へ拾えるだけのお骨を入れてきました。戦争は2度とやってはなりませんと、80歳になられたこの方はおっしゃっています。

一夜明けて安田銀行の正面扉の前には、銀行の二階の窓に達するぐらいの焼死体が折り重なっていました。今もそうですが正面扉の前は少し広くなっていて避難所にもなっていたそうです。初めからそこなら安全と言って座り込んでいた人もいたし、なかに入れてもらおうと思って、殺到した人たちがいたのですが、扉はついに開きませんでした。そこに突風で巻き上げられた人たちが積み重なったのではないかと思われます。

石灯籠銀行の外壁には人の手の跡や死体から出た脂や血がこびり着いて、その後何度洗っても消えなかったそうです。しかし銀行の建て替えや地下鉄工事でその跡もなくなってしまいました。

表参道は焼死体で埋まり、青山通りの脇に作られていた簡単な壕の中にも死体が詰まっていました。その死体の一部は墓地やお寺の空き地に埋められ、一部はその場で荼毘(だび)に付され、一部は都電の青山車庫に移されました。
              
上の写真は最近撮ったものですがこの石燈籠の周りでも多くの方が亡くなりました。この灯籠の台座には今でも焼夷弾で欠けた傷跡が残っています。ここも長らく血と脂が滲みこんで黒くなっていました。

じっとしていたら死んでしまうからとお父さんに言われて、ゲートルに火がついたのを消すために転がりながら石燈籠のまわりをぐるぐるまわっていたという九死に一生を得た方の話を聞いたことがあります。地面が熱くて、あつい鍋の中を転がっているようだったとその方はおっしゃっていました。

つぎは当時22歳で横浜の高射砲連隊に兵役中でいらした方ですが、留守宅が善光寺のすぐ裏にありました。3月10日の空襲で京橋の家を焼かれて、青山に移って来られてすぐの空襲だったのです。家にはご両親と妹さん2人がいました。後に母親から聞いたその夜の状況です。家のすぐ隣に焼夷弾が落ちたので父親は母親と妹さん2人を連れて表参道の方に出たのですが、すぐ離れ離れになってしまいました。

母親は逃げ遅れているところを山陽堂の人に助けられて建物に入れてもらいました。翌日朝早く近所の方が表参道の方に見に行きましたら、燈籠と燈籠の間のところに明治神宮の方に向かって座って頭を下げている人がお宅のご主人ではないかと教えてくれました。それで母親が見に行った時にはもうその姿は無くて、その場所に父親の鉄兜がありましたので、それを持って帰りました。

タンカーに乗せられてる女の子、傍らに悲痛な顔の母親妹さんたちは青山警察署前の青山通りの真ん中でうつぶせになって倒れていました。道路は焼夷弾の油で滑るようだったそうです。下の妹さんはすでに息がなくて、母親は髪を切り取って名札を付けてきました。上の妹さんは日赤に運ばれましたが、その時の怪我がもとでしょう、破傷風で6月11日に亡くなりました。下の妹さんの遺体は梅窓院の裏に空き地があってそこに仮埋葬され、時々お墓参りにいらしていたようですが、昭和32年ごろ行ってみましたらその場所が野球場になっていました。何の知らせもなかったそうですが、東京都から横網町公園に犠牲者追悼のモニュメントを作るという通知が来たのはそれから43年もたった後のことだったそうです。

穏田川次の方は当時中学4年生で原宿を流れる穏田川、その穏田橋の近くに住んでいた方です。焼夷弾が何十発も落ちてきて、自分の家が燃え始め、消火も手に負えなくなってきました。避難先と決めていた明治神宮や青山墓地に行くどの道も火と煙が吹きまくって、一寸先が見えなくなり絶望しました。その時穏田川に通じる下水道を伝って行けば助かるかも知れないと思って、その狭い水路に入りました。

けれどたどり着いた穏田川は炎で明るく、燃えた障子や畳などが落ちて来てまさに火の海でした。鉄兜で川の水を頭にかけて手拭いに水を浸して鼻や口を押さえ、浅くそうっと息を吸い込むような極限状態が長く続きました。穏田川の水量が急に増してきて、深みに流されそうになったとき、上流に助け綱が降ろされて、やっと生き延びることが出来ました。
空襲の5、6時間前に穏田交番の前で友達と楽しく語り合ったのですが空襲のあとその友達とは2度と逢うことはありませんでした。

ここに映っているのが穏田川ですが、そのちょっと先の方に穏田橋が見えます。穏田川の下流を渋谷川と言って渋谷の方に流れていくのです。この川もオリンピックの時に埋められて暗渠になって今はキャットストリートと言って非常に賑やかな通りになっています。

最後は原宿駅竹下口のすぐ近くに住んでおられた当時中学2年生の方です。東京への空襲が始まった昭和19年の11月29日に50mほど離れた家の庭に250kgの爆弾が落ちて土に埋まっていた水道管が吹きあげ、その破片がこの少年の家を直撃して、天井に大きな穴が開いて妹さんが負傷しました。このことがあって妹さんと弟さんは疎開されました。20年の5月24日の未明に原宿の皇族駅にB-29が空中分解して大音響とともに落下炎上しました。幸いこの中学生の家は延焼をまぬがれました。

原宿駅竹下口の兵隊―平林晃氏提供しかしすぐ次の日25日の夜B-29が来襲して家の中にも焼夷弾が大変な密度で落ちました。両親と消火に努めましたが火の手があがってきてどうにも手が回らなくなりました。外に出てみるともう一面火の海で逃げ場を失いました。

その時母親が少年の手を強くひいて、家の裏手にちょっと高くなっている台地があるのですが、そこを泥まみれになって攀じ登り、地続きになっている家の庭を駆け抜けて、原宿駅正面に出て、明治神宮の森に達することが出来ました。もちろん家は焼けてしまったのですが、家族無事だったということです。この日小学校同期の友人二人が犠牲になったということを後で知ったそうです。
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6.山の手大空襲の記録・当時の手紙・新聞から

再び弁士交替で長崎です。これは64年前に書かれた山の手大空襲を伝える貴重な手紙です。当時60歳の越(こし)三千子さんから新潟に疎開していたお孫さんの英夫さん宛に出したものです。善光寺のすぐ裏に住んでいた方です。その日の様子を「便箋を皆焼いてしまい妙な書き方をしました」と、原稿用紙の裏表7枚にこまごまと書いていらっしゃいます。当時の状況が手に取るように書かれています。以下に抜粋して掲げさせて頂きます。

原稿用紙に書かれた手紙

「英夫さん、残念にも甘五日夜半、戦火のため原宿宅は全焼してしまいました。一同無事に立退く事が出来ましたのが不幸中の幸で御座いました。どんなにかあなたが一同の安否をお気遣いの事かと気に懸りながらおしらせの術なく、今に打電をゆるさるるかとまちにまちましたが、今以て私用電報ゆるされずもっと早く―層手紙さし上げればよろしかったのにと申訳なく存じます。(中略)

御所は、宮城も青山御所も皆御炎上、実に赤坂見附から渋谷迄全部焼野ケ原に成りました。是では逃れる術も無いとあきらめもよろしう御座いますが、越の地内だけにて焼夷弾実に三十発、伊藤病院は四十発といぅ有様、何ら防ぎようも御座いませんでした。相憎(あいにく)その夜の風速、一時は六、七十メートル、先年の大阪の暴風の風速以上にてまるで大旋風、竜巻の中をもえひろがる中とて、消防も手の下しよぅもなく、自然にもえ止るのをまつのみでした。

そばに表参道がある故、逃げるに安心と皆信じて居りましたのに、その表参道と元の三島に行く途中の玉屋工場前大通 (熊野神社から環状線に通ずる道)の死者何千人、風上の伊藤病院、越宅のもえ出したのが―時半頃、それから風下の奥へ奥へと広がった事とて、青山通りからも東南風にてもえ下り環状線に行くにも川の橋は皆木橋とて火に成り、川に飛び込むか、熊野神社の方へ逃げるより道なく、貯水池 (道の真ん中の)にて死せる者五百人、殆どあの通りに集まりし人数の内二人を余して全滅したとの事で御座います。

長崎講師、比留間講師

表参道は、安田銀行の建物が大丈夫とてその蔭にて火を逃れんとした人々皆死に盡くしました。翌日、兵士がトラックにて二台運びてまだ運び切れず、あそこにて火葬にして二、三日はそのまま置いてありました。伊藤病院の角の壕などギッシリ人にて埋まり皆其のまま死んで居りました。日頃の想像も及ばぬ事で御座いました。

私共は地理に通じ、足手まといの無かりしが仕合わせでした。あの四十五群の隣組中、八十人の中から十人の行くえ不明を出しましたが、皆罹災者が引き移って来たため土地不案内に手持ちの荷物を再び焼くまいとして自転車などにつけ、大方は安田銀行のかげが一番安全と過信した為にてあそこに自転車の焼けのこりが大変でしたよし。門の向こう角の平出という歯医者さん―家と若者の弟子さんと三、四人も安田銀行のかげに自転車が残り、全部焼死されました。

ああいう道は油脂焼夷弾が流れて一面火と成りましたので、勇気を出して其の中をつっきった人は助かりましたが、荷物や家族の足手まといのありし人は助かりませんでした。恐ろしい光景で御座いました。完(まった)く戦場に成り、私共も戦ったわけですもの。

其の日、夜十時半か十一時かと思います。警報発令、数目標との事で風も強く皆充分に身ごしらえをしました。初は房総方面より入り、東南から一、二機ずつ入り、何(ど)うも遠からぬ頭上を通ります。(中略)

やがて静岡方面から入りましたのからますます頭上を通るように成り、皆地下室、防空壕から出たり入ったりして只只火を気を付けました。庭の壕に入って久美子と居りますと、一つ脇の下水の外にひどい音がしてザーザーズシンと壕の羽目が二、三枚飛びましたので、すはと折りを見定め出ますとたん、屋根の上にバラバラと火が落ちて来ましたとたん、ママの声がして焼夷弾落下とさけびつづけました。(中略)

声のする湯殿の口ヘ行きますと、裏の山田炭屋がもえ上がったところ、隣家堀田さん垣根からも火が見えます。風呂に一杯の水をバケツにくんでは、きよに渡し、かけました。風下故これは防ぎさえすればコンクリートの塀故延焼は大丈夫と思いました。ますます火が強く、風も吹きすさびますので、きよが、幾度か奥様もう駄目ですと申すのをはげまし運びつづけましたが、夢中の中にもザーザーズシンと音がしつづけますので家中を見廻りますと、いつもの段梯子の下 (食堂の入口)に一尺五寸位の焼夷弾が落ち油が流れ、段の四、五段の所にもえ出しておりました。

すぐバケツの水三、四杯運び消しとめました。また、中庭の縁の下が火を吹き始めました。これも横から縁の上からと、きよと水をかけつづけ消し止めましたが、内玄関の外にも火がもえ、電話室の裏口ももえ出し次の洗面所の窓も、はや火がうつりました。もう手に及ばぬとかんねんしましたものの、また奥へ行きますと同時にザーザーズシンと頭の上にて凄い音がしておもわず腹ばいに成ってしまいました。

家が頑丈なので、二階にて焼夷弾が止まったと見えます。隣家の二階に上がり、焼夷弾をつまみ出し消火に懸命になっていられた父上もとんで来てもうだめだとさけび出しました。私も最後だと急ぎ未だ火のまわらぬ地下室に行き、例のおイハイの箱を抱えて、せめて地下室の食料だけなりと助けたいと思い、戸を固くしめ上にはい上がりました。(中略)

其のまま米はすてて、おいはいだけかかえ裏の廊下から表玄関に出んとしますと押入れにも煙りと火が吹きおり、そこで父上とぶつかり、一緒に表に飛び出しました。庭のさかえの柴垣は―面火の海に成っていました。先に縁の下に投げ下ろした鞄を誰か防空壕に入れたかいろいろ心にかかりましたが、見定める事が出来ません。

参道迄行く道の魚屋、材木屋が盛んにもえ、通り抜けが其後むずかしいようでした。ようように抜け、参道に出て母上と久美子ときよと一緒になりほっとしました。其の時はまだ伊藤病院は煙だけ窓から出ていました。四十五群の申し合わせ通り代々木原へ行きましょうとするには、アパート前から下まで油脂が流れ一面ローソクの火のように点々と燃え上り通られませんので青山墓地へと急ぎました。

父上と母上とていと墓地にて一緒に成り、(中略)此処が一番安全地帯との事に此処にて夜を明かしました。やがて長谷先生も、もう火が近く望みなければとてお見えになり、病人も先生のお宅のお墓の中に寝かせてありました。ますます風は樹木も飛ばんばかり強くなりますし、青山通りも一面火に成り墓地の高台からは実に四方共あかあかと天を焦がすばかりにますます燃え広がりどう成り行くかと心細く成りましたが、さしもの火も、はや焼き尽くし自然に止まってしまいました。

一応焼跡にと、群の申し合わせにて五時過ぎ家に帰りましたが、はや跡形も無く地下室だけが盛んに燃えて居りました。まず心にかかる防空壕はいかにと走り込みましたら、あの猛火の中に不思議と無事、事なきを得ました。まったく私の大切に抱えていた祖父上、紀美子の御魂のおかげとふし拝みました。(中略)

戦災前と現在の善光寺

この荷物を失えばいかんとも致し難く、着た切りにて消火に懸命にて皆手に手にバケツ、桶をもちて逃げた有様、着物は水びたしでした事とて実に嬉しう御座いました。(中略)
町会の事務員は焼夷弾にて腕を失いました。宅には二、三十発も、しかも大きな元の入れ物まで落ちて居りました。よくも一同の身に当りませんでした。寮に五日居りまして開通をまち、江の島廻りの電車にて被災者として鎌倉宅にたどりつき
ました。(後略)

すごいです。遠くに疎開しているお孫さんに一刻も早く家族の安否を伝えたいが、電報も出来ない。はやる気持ちを抑えつつ書かれた手紙は、非常にリアルで、その迫力に圧倒されます。非常に貴重な資料だと思います。

葉書

これは私の上の兄が三番目の兄に出したはがきなんですが、これも64年前のものです。2通あります。23日と書いてありますが先ほどの体験記でもありました実際には24日早暁、頭の上でB−29が撃墜されて3つに分解してぐるぐるまわりながら落ちてきた、その時の恐怖を書いております。我が家の7、80mくらいのところに一部が落ちましたので、さぞかし怖かったと思います。「腰が抜けて地面へへばりついたのも無理はなかろう」と書いてあります。
最後のところに「沖縄は愈々不利、敵の本州上陸も近日中かと思われる。お互いに粘って粘って粘り抜くまでだ。お元気で」と結んでいます。

もう一通は25日の報告です。ちょうど25日に長兄は母親の郷里に出かけていて、父親一人が家におりました。それで戻りましたら見渡す限りの焼け野原、その驚きと父親の奮闘ぶりが書かれております。このはがきはどちらもですが、表に2銭切手、乃木将軍の図柄なんですが、それが頭を逆さにして貼り付けられているんですね。なにかその時の兄の思いが込められているのではと思うのですが、兄は早く亡くなってしまい、そのことを聞くことはできませんでした。

これは昭和20年5月27日の共同新聞です。

昭和20年5月27日の共同新聞の一部

紙面右下に「共同新聞を發行。戦災により印刷工程に支障あり、廿七日附は東京五社の共同新聞を発行いたします。右御了承願ひます」というコメントがあります。当時は一枚裏表2ページだけの新聞でした。

実際には27、28、29、30と4日間この形で発行されました。といいますのは朝日新聞は当日はあまり問題がなかったのですが、他の4社は猛烈な被害を受けまして特にひどかったのが東京新聞と読売報知で、全焼したようでございます。読売報知と東京新聞は終戦後9月末まで朝日新聞、毎日新聞の印刷機を借りて印刷するという状態が続いたようです。

記事を見ますと「昨暁B-29約二百五十機帝都を無差別爆撃、四十七機撃墜、宮城、大宮御所に被害」「三陛下、賢所は御安泰」と書かれております。下に「全區に亙る被害」とありますが、そこに具体的な市街地の被害状況などは書かれておりません。ここにも宮家の名前が7つ並んでいて「いずれも全焼」という記事でございます。

皇居も燃えました。アメリカ軍は皇居は爆撃禁止区域にしていたようですが、何発かは皇居に落ちましたし、その周りの官庁街は猛爆され瞬く間に火の海になりました。当日は強い南風が吹いていまして、その火の粉というより火の玉が皇居の方にどんどん流れて行ったのでした。

東京駅はみるも無惨に全焼いたしました。渋谷駅、千駄ヶ谷駅、神田駅も全焼。官公庁は猛爆され、海軍省、外務省、運輸省、官邸、官舎等が焼き尽くされました。慶応義塾大学が、青山学院が、日比谷図書館が、・・・と挙げればきりがありません。
毎日のように戦災の現場を撮り続けていた警視庁カメラマン石川光陽も「まあよくもこんなにきれいに焼いてくれたものだ」とため息をつくほど東京は見渡す限りの焼け野原になりました。青山からも渋谷からも迷彩色に黒く塗られた国会議事堂がよく見えました。

とどめの大空襲といわれますが、文字通り東京は息の根をとめられ、すべての機能を失いました。米軍はこの空襲を最後に東京を「焼夷弾攻撃リストからはずした」とされています。実際にはその後も空襲はあり、被害も出ましたが、大きなものはありませんでした。

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7.終わりに

5月25日の空襲で亡くなった方は東京全体で3651名と言われております。渋谷区で900名。赤坂区で551名。麻布区で66名。芝区で120名と記録されていますが、青山赤坂地区に限って言いますと、被災率が最も高いところと言われておりまして、焼けた割合が90%を超えるんではないかといわれるような場所でした。

この空襲によって多くの人が家や財産、それより何より尊い人命が失われました。
この民間人を対象とした無差別爆撃は国際法上、人道上も許すことの出来ない行為です。でも日本軍は昭和13年12月から18年にかけ、国民政府の首都重慶を無差別爆撃しているんですね。200回くらいの爆撃で2万人近くの市民を殺してしまったわけです。それからピカソの絵で有名なゲルニカ、あれはドイツ軍が昭和12年スペインのゲルニカを無差別爆撃したときの絵です。

日本が先鞭をつけてしまった無差別爆撃ですが、戦争は一般市民を巻き添えにするものです。国際法があっても、人道上云々といっても、それを越えたことの起きるのが戦争です。こうして考えますと、五月二十五日は、より広くより正確に記録されなければいけない日だと思います。正確な史実を知ることが、平和な世界を作ることにつながると思います。

最後になりますが、この『山の手大空襲の体験記』の最後に児玉昭太郎さんが書いていらっしゃいます。児玉さんは編集委員として一緒に仕事をしてくださった方です。5月25日にご実家は全焼いたしました。そのことはお姉さまが書いていて下さいますが、ご本人と弟さんとは広島に疎開なさったのです。そこで原爆に遭ってしまいました。幸い後遺症は少なくお元気にお過ごしだったのですが、去年の夏すい臓がんを発症なさり9月の初めに亡くなられてしまいました。体験記の一文が遺言のようなことになってしまいました。

その文章の終わりに「核兵器の使用は第1級の戦争犯罪である。次に原爆が使用されれば、世界人類の滅亡につながる。戦争を無くすことが大切である。戦争放棄を掲げた日本国憲法がわが国の繁栄の土台であることを心に銘記したい」と結んでおられます。その思いは私どもの思いと重なるものでございます。児玉さんのご冥福を祈る意味で付け加えさせていただきました。

なお毎年5月25日には青山の善光寺で空襲犠牲者の法要が営まれます。今年も1時からございますので、お気持ちのおありの方はいらして下さいませ。ご静聴ありがとうございました。(静謐せいひつなる拍手)

本の表紙

「表参道が燃えた日 ―山の手大空襲の体験記―」
2008年6月15日2版2刷発行  
      
制作・発行 
「表参道が燃えた日―山の手大空襲の体験記―」
編集委員会

連絡先:〒107-0062 
東京都港区南青山5-1-25北村ビル
TEL/FAX 03(3409)0371

定価700円






講座企画・運営:吉田源司
文責:臼井良雄
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子

本文はここまでです


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