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千代田図書館トークイベント 航海秘話(全6回シリーズ)
第2回「大航海時代(2):マゼラン」
平成21年5月22日 神田雑学大学定例講座 No457


マゼラン(1480?−1521)
目次

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はじめに:前回質問の回答&補足
前おき:マゼランに4つの顔
1)出帆まで
2)反乱と処刑、逃亡と発見
3)マゼランの死、エンリケの変心 
4)帰還者たち:反乱者の言い分、逃亡者の主張
帰還者・英雄デルカーノ(1476〜1526)
帰還者の伊人・記録係ピガフェッタ(1491−1534)
質疑応答



講師 中村 孝氏

はじめに 前回質問の回答&補足

(1)コロンブスの時代、天測でどの程度自分の位置がわかったか?
以下専門家 飯島幸人氏(東京商船大学)の説明を引用します。コロンブスの時代、天測が行なわれていた。四分儀で北極星を観測し緯度を把握していたが、この時代の緯度測定は不充分で間違いが多すぎるようです。コロンブスの時代から30年後、マゼランの時代の緯度測定はかなり正確で、マゼラン海峡入り口の緯度は正確に記述されています。ただし航海中は船が揺れるので陸で測定したと思われます。経度という用語はマゼランの航海から使用されるようになったようです。

(2)当時航海に鶏、豚などを積んでいたか?
マゼランの航海では各地で豚、鶏を仕入れた記録がありますが、本格的に船中で飼育したか否かは不明。また白色レグホン種の記述は見つかりませんでした。18世紀後半、英海軍の船内反乱で有名なバウンテイ号は出航時、豚、鶏、羊など積み込み。

(3)コロンブスが新婚生活をおくったマデイラ諸島の補足:
ここへは幕末の黒船ペリーが米国から最初に寄港しています。また西豪州のフリーマントル市とマデイラ諸島のフンシャル市は姉妹都市の関係にあります。

(4)ジェノバの補足:
ナポレオンの生地コルシカ島の領有をめぐっては昔から多々ありましたが、ある時期、都市国家ジェノバが領有。18世紀になり借金に苦しむジェノバはコルシカ島を仏へ売却。その翌年1769年にナポレオンが誕生しています。野次馬としてはコルシカでなしに隣のサルデニア島を売却していたら世界史は、、、、 などと愚考。

前おき:マゼランに4つの顔

映像をご覧下さい。今日の主題のマゼランです。
彼はポルトガル人でポルトガルではマガリャンイス、スペイン語でマガリャネスと呼ばれるそうですが、ここでは日本式にマゼランとします。この写真は1874年に刊行された本からで、千代田図書館の内田嘉吉文庫に納められているものです。ここにピガフェッタという人名が明記されていますが、彼は記録係として世界周航の最後まで乗船していた伊人です。本日の話の出典詳細は配布資料の裏面をご参照下さい。

本題に入る前に私のマゼラン全般に関する印象を一言。彼の40才強という短い生涯は大航海時代の真只中にあったと言えます。彼が20才になるまでにすでにデイアスは喜望峰を発見し、コロンブスは西から新大陸到達、ガマは東からインド航路開拓と東西からの大きな航海は完了しており、遅かれ早かれ誰かが世界一周するのは時間の問題だったと言えます。

千代田図書館河合氏 見方によりますが、彼には4つの顔があると思います。
第1は一般に呼ばれている「初の世界周航者」という顔、
2番目はマゼランが来ることによって大変な被害を被った人がいる訳で、来られた側からみればマゼランは正に「悪魔の使者」という顔であるということ。
3番目は香料諸島を目指した純粋な航海者、兼ビジネスマンの顔です。彼の西の王との契約書には、もし香料諸島へのルートが確立できたら王は彼に10年間の独占取引を認めるという内容の条項があります。即、単なる冒険家でなく商売人の顔も持ち合わせていたであろうと推測します。彼は当然「東方見聞録」も読んでいたでしょうから、必ずやジパングの存在も考慮に入れていたと思います。
4番目は冷酷無比な軍人の顔です。航海中の反乱時、彼は実に手際よく処理します。1504―12年までインドのゴア、マラッカなどへ派遣されますが、そこでの豊富な戦争体験あればこそだと思うのです。ゴアといえば宣教師フランシスコ・ザビエルが思い出されます。ザビエルのゴア入りは1542年。従いマゼランのゴア入りは後年の布教活動の為の地ならし的な面が相当あったということかも知れません。

見方次第で5つ、6つの顔もあるのでしょうが、私が強調したいのは「マゼラン、即世界周航」というイメージがあまりに強すぎて、他の部分が忘れられているのではないかという点です。今回は出来るだけこの「他の顔」の話をしたいと思います。

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1)出帆まで

ここでは1519年の出帆までにマゼランに影響を与えた3人に話を絞ります。
(1)ポルトガル人、セラン
マゼランは貴族の出で13才から宮廷に仕えます。宮廷内の学校の科目に製図、天文学という教科があった由ですから、若年時から航海技術に親しんでいたのかも知れません。彼の青年時代の最大の特徴は豊富な海外での戦争体験ですが、その時の戦友がこのセランです。彼はマゼランの従兄弟で貴重な情報源となった男です。
1494年の「トルデシ―リャス条約」。別名「ローマ教皇境界線」とも言われるポルトガルとスペインとの植民地分割協定です。この境界線から東180度まではポルトガル領、逆はスペイン領と規定した訳です。ここで問題となったのはあの香料諸島が一体どちらの領土になるのか、という点です。セランは従軍時、香料諸島へ遭難しつつも上陸。残留を決め現地の各種情報をマゼランに送っています。その1つが香料諸島の位置で「マラッカからは相当遠方で西の領土に属する」と記したそうです。従いマゼランはこのセラン情報に基づき「然らば東周りよりも西周りの方が早く着ける」と考えた訳です。また「スペイン領」ならばスペインの王様と組むほうが得策と考えたかも知れません。まさか太平洋がかくも広大とは。結果的にはこの誤情報がマゼランを動かした訳ですから、セランという人物は無視できない存在だと思います。セラン自身は部族間の闘争で毒殺されます。

(2)ポルトガル王、マヌエル1世
理由は不明ですがポルトガル王からマゼランは徹底的に嫌われます。アジアから帰国した翌年にモロッコへ従軍するも公金横領の嫌疑をかけられ閑職へ追いやられます。ただこの閑職時でも探究心は失わず、王室内の文献、航海書、地図などを相当研究したようです。そして海峡が存在する地図に注目するのです。

しかし王様は彼の香料諸島への新規提案を無視。「ならば他の王様へ行くかも」とのマゼランの言葉に「勝手にせよ」と突き放す。こうしてマゼランは完全な冷や飯食いに追いやられます。そこへ登場するのがスペインの軍隊に14年も勤務というポルトガル人ディエゴ・バルボサ。「マゼランさん、スペインでは貴方のような優秀な航海者を必要としていますよ」。私の推測ですが、当時はまだポルトガルの方がスペインより航海技術、海外植民地開拓に関する限りずっと上。しかるが故に「お雇い外国人」を雇用していたのではと思います。こうしてマゼランは1517年、スペインのセビリヤへバルボサを訪ね、スペインの王への「香料諸島航路開拓の提案」と展開していく訳です。コロンブスが夜逃げ同然に5才の子連れで(すでに妻は死亡)スペインへ移動したのに比し、計画的と言えます。

(3)副司令官予定のポルトガル人・天文学者ファレーロ
  スペイン王カルロス1世。このまだ17,8才の若き王への提案時に同行したのがマゼランの友人でポルトガル人の天文学者ファレーロです。さらにはマラッカ遠征時に連行した奴隷エンリケも同行。そして香料諸島に残留している戦友セランからの文書も携えての提案説明です。ですから若き王にすれば、なかなか説得力ある提案と感じたのではないでしょうか。好意的に受け取られ、しからば「香料諸島への航路開拓計画」はマゼラン・ファレーロの2人を柱に推進、という骨格が決定されます。

しかしこのファレーロが突如乗船拒否。理由は占いのようで「航海に出れば生きて帰れない」と出たからと言われています。困ったのがマゼラン。逆にチャンス到来と意気込んだのがスペイン王の決定に不満の貴族連中だったのでしょう。結論としてマゼランが総司令官、副司令官にカルタヘナというスペイン人が任命されます。そしてこのカルタヘナが中心となり航海中に反乱計画が実施されます

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2)反乱と処刑、逃亡と発見

反乱5隻の概略。
船の手配、船員の確保に1年を要したと言われています。船は全て老朽船、船員はあぶれ者が大部分だったようです。老朽船の理由は「香料諸島に到達しても誰の領有かは不透明」との認識がスペイン王にあった為との説もあります。乗員280人、但し人数は諸説あります。内訳はスペイン人約8割、ポルトガル20、伊23、仏10、フランドル4、独・英・ギリシャ各1人という資料があります。大きな船で全長23m程。指揮官は3船がスペイン人、2船がポルトガル人ですが、多々考慮した結果の配分と推測します。
    トリ二ダット号  110トン  提督・マゼラン      香料諸島で修理
    サン・アントニオ 120    船長・カルタヘナ    マゼラン海峡で逃亡
    コンセプシオン   90    船長・ケサーダ      セブ島で焼却
    ビクトリア     85    船長・メンドーサ     世界周航を達成
    サンティアゴ    75    船長・セラン弟     マゼラン海峡で遭難
講演会場風景

マゼランが殺害されるまでの大きな事件は2件。初回は反乱というよりはマゼランの一方的な権力行使、2回目はスペイン側が結束した完全な反乱です。

1回目は出航後2か月あたり、カナリア諸島を出てからで状況は概略以下の通りです。男色行為の船員の処罰をめぐり軍法会議が開催され、船長全員が旗艦に集合。その席上カルタヘナがマゼランの針路を非難し「アフリカの海岸に近すぎる針路をとってスペイン王の船を危険にさらした。もはや従うつもりはない」。対するマゼラン、即座に「君の行為は反逆、逮捕する!」スペイン側の船長達は虚をつかれ、カルタヘナは監禁される。但し、あとで釈放との表現もあるので「まだ航海は始まったばかり、自分の威力を見せつけるだけで充分」としたのかも知れません。

2回目はそれから半年後、今度は本格的な反乱が海峡発見の前にサンフリアンで勃発。カルタヘナの後任のポルトガル人船長が監禁され勢力図は再度3:2とスペイン側優勢に。伝令がマゼランの船に来て「降伏されたい」との書状を渡すがマゼランは伝令を逮捕、時を移さず腹心の部下を派遣しスペイン人船長を殺害、船乗っ取り、形勢を再逆転。そして1人を処刑(遺体は四つ裂きにされ、さらし台にくくりつけ)、カルタヘナは無人島への置き去り措置に。反乱時の描写については諸説ありますが、ここで興味深いのは聖職者1人が同様に置き去りにされたことです。反マゼランの陰謀の黒幕としてこの司祭が相当関与していたということでしょう。さらに興味深いのはこのサンフリアンという場所そのものです。というのは次回取り上げる英国ドレークの5船団も反乱が勃発し、処刑場所がこのサンフリアンなのです。  

反乱失敗の原因の画面をご覧下さい。(1)腹心の部下の欠如 (2)油断 (3)出身地では動かずの3点をあげました。スペイン人船長が殺害された時、彼は武器庫の鍵を後生大事に保持していたそうです。 即、信頼できる部下がいなかった故に自分で鍵を持っていた、誰かに渡せば自分がやられると危惧したからではないか。

ヴィクトリア号 また出身地で船乗りは動かなかった。例えば言葉です。ある人によれば「スペイン語」という言語は無いそうです。ただ便宜的に存在しているだけで現在でも公用語は4つあり(カステイリャ、カタルニャ、バスク、ガリシア語)、時にバスク民族の独立運動が報じられます。ましてや時代は16世紀、スペイン人の船乗りが徒党を組むとしても決して一枚岩にはならなかった。そして何よりも彼らを引き付けたのは「航海の腕」だと思います。下手な船長なら生きて帰れないからです。初めに申し上げた総員280人中、約8割がスペイン人というと、いかにもポルトガル勢が弱い印象を受けますが、決してそんな単純な状況にあらず。団結したのは一握りの貴族連中だけ、その他は我関せず静観、というのが実情だったのではと推測します。

反乱後、海峡の探査時一番活躍したのが小型船サンティアゴ号ですが、これは座礁事故で放棄されます。さらに1船が行方不明となり捜索、最終的には占い師の見解も聞くという行動にマゼランは出ます。占いの結果「逃亡」と出ますが、実際無断での単独帰国でした。これについては後述します。結局当初の5船は遭難と逃亡で3船となり、いざ太平洋へと展開して行きます。

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3)マゼランの死、エンリケの変心 

時間の関係でマゼランの死は省略し、彼の従僕エンリケにまつわる話を2つ。1つはフィリピン群島でエンリケが原住民の言葉を理解し皆が驚愕。マゼランもこれで確かに地球を一周したと実感する話です。しかし考えてみるとこのエンリケをマゼランはマラッカで捕獲し連行したのです。専門家の話ではマラッカの言葉(マレー語)と、マゼランが殺害されたマクタン島近辺の言語では相当の違いがあるとか。従いマゼランをテーマにした比の映画では「エンリケは比からマラッカへ連れて行かれた」という設定だそうです。

2つ目はマゼランの死に伴うエンリケの変心です。マゼランは2度遺言状を書いています。初回はインド・ゴア方面へ従軍した時でそこには「土地は妹に与える、水葬での処理を希望、ミサは年12回実施せよ」が主内容だったそうです。

マゼラン航海地図

2度目の遺言は世界周航時でそこには「死んだら従僕エンリケは自由にするように、また何がしかの金銭を渡すように」と書かれていたそうです。新規の指導者はそんなことは知らずに奴隷として(犬よばわり)、また言葉を理解するので通訳として便利に使う。これに嫌気がさしてエンリケはセブ島の王に「スペイン人の暗殺」をもちかけ、宴席を設定した際に参会者を皆殺しに。これで生存者は115人となるが優秀な人材も殺され3船の操縦は不可と判断され1船が焼却されます。証拠隠滅という目的で、この時マゼランの日記など一切が処分されます。西人による航海日誌には「マゼラン死亡」という事実すら書かれていないということですから、如何に反マゼラン派の憎しみが大きかったかということでしょう。

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4)帰還者たち:反乱者の言い分、逃亡者の主張

反乱者の言い分
反乱に失敗、置き去りにされた西人・副司令官カルタヘナについて、以下私の推測です。彼は責任感の強い愛国者であったと思います。自分は副司令官、即スペイン王の権益を守る義務がある。取りあえずあのポルトガル人マゼランを提督としているが、本来ならば自分がその地位につくべき者と考えていた。スペインはすでにコロンブスというお雇い外国人を雇用した訳で、3回目の航海では足枷でコロンブスを犯罪人として送還しています。このことは何を意味するのでしょうか? 「お雇い外国人は要らない、トラブルの原因にこそなれ得るものは無い。もう西は一本立ち出来る」ということを自分達の王にアピールしたのではないか。

そうした過去の経験がありながら「何故今回もお雇い外国人が」という点で賛否両論ぶつかったと思います。あのコロンブスとの契約以来、西とすればすでに30年弱の時間が経過しています。その間、人も育っただろうし、各種ノウハウも蓄積したはずです。前人未踏の新航路とはいえ「俺達に出来ないはずがない、何故ポルトガル人を総司令官に」と考えたのではないか。然るに王はマゼランを雇用。ならば致し方なし。まずはマゼランのお手並み拝見、適当な時期に彼を孤立させ西側が主導権をとり香料諸島へ行くべしと身内の貴族だけで取り決めていたことでしょう。この反乱首謀者のカルタヘナは、ひたすら母国へ香料を持ち帰るという強い意志と名誉欲に燃えていたのではないでしょうか。

話は変わりますが、幕末の咸臨丸とマゼランの航海には「お雇い外国人」という1つの類似点があるような気がします。当初勝海舟らは自分達で操船し太平洋を渡るつもりだった。オランダの専門家、即お雇い外国人から理論、実習を学びその成果を今こそ見せる時、と考えた。ところが実際に指揮をとったのはアメリカ人ブルックです。勝海舟にしても日本近海で実習したが太平洋の大海は一抹の不安が残った。そこで致し方なく譲歩したのでしょうか。洋上では勝海舟、福沢諭吉らは船酔いで大変だったそうですから、助っ人に任せて正解だったかも知れません。ブルックにしてみれば、測量目的で日本へ来たが船が遭難、帰る船を捜していたという事情があって、正に渡りに船だったようです。

この航海では飲料水の件で日米が対立します。ある武士が書き残したものに「まさか大海にでて飲み水に苦労するとは」というのがあるそうです。航海経験が無いために水など無制限と思って生活していたのでしょう。これはマズイと感じたブルックは飲料水の制限措置に。腹をたてた武士はブルック船長にくってかかり、挙句の果ては刀を抜く。対するブルックはピストルをということで相当緊迫します。空砲でけりをつけたようですが、あのジョン万次郎はさぞかし両者の間で苦労したことでしょう。

逃亡か、勇気ある撤退か
画面、逃亡者の主張をご覧下さい。マグロの取締船でインド洋航海時、私は肺炎になり苦労したことがあります。医者はいないし困ったのですが、その時2つのことを考えました。1つはインド洋上の軍事基地の有無、必ずや医師がいるだろうと考えた訳です。しかし航路上に島はなく落胆。2つ目は如何に恵まれているかということです。何といっても入港日が予め分かっている。当然といえばそれまでですが、何月何日何時入港という運航日程に基づき全ては動いているわけです。大袈裟にいえばベッドでうなっている身としてはこの日程だけが心の拠り所。あと何日待てば豪州の医師に診てもらえる!!

マゼラン海峡  さてマゼランの時代、船乗りはどんな心積もりで乗船していたのでしょうか。何しろ新規航路の開拓、不確かな地図を根拠に、悪く言えばただやみくもに操船しているだけ。一体いつ香料諸島へ着くのやら皆目不明、加えて劣悪な船内環境。ウジ虫だらけのパン、ビスケット、腐った水、油虫、ネズミが貴重な食物云々。トイレはといえば船尾にある籠での用足し。悪天候時は危険で船底で。死にかけた病人もゴロゴロしていたことでしょう。正に想像を絶する航海だったはずです。船長などの貴族連中には名誉欲、出世欲などあって何とか折り合いがついたでしょうが、一般の船乗りにしてみれば、いつ帰れるか、生きて帰れるのかということだけが頭にあったのではないでしょうか。

こうした中「逃亡」という不名誉な烙印を押されるのがサン・アントニオ号です。しかし果たして本当に「逃亡」と言えるでしょうか。主犯のゴメスの主張は2点:(1)食糧が底をついている。このままでは危険 (2)海峡の存在は確認できた。即、当初の目的は達成。然らばこれで良しとし次回を期すべし。つまり彼は正論を吐いた訳です。そしてマゼランは反対しゴメスは針路を勝手に変更した。しかし、ゴメスは「勇気ある撤退」を選択し、マゼランは「無謀な航海継続」を選んだとも言えるわけです。

あの喜望峰発見のデイアスの航海ですが、彼自身は東アフリカ方面への航海継続を望んだそうです。但し船員の決を採ったところ全員が帰国すべしとなり止む無く針路変更したそうです。これはマゼラン以前の1488年の出来事なのです。仮に当時航海者仲間の暗黙の掟の様なものがあったとして、「決を採る」という民主的な方法が一般的だったとすればゴメス逃亡という表現はちと不適当ではないかと私は思います。このゴメスは半年後にスペインへ無事帰り、「マゼランはスペイン人船長を処刑し艦隊をポルトガルのものにしようと画策」との観点で当局に陳述した由ですから、後世「怪しからん奴」とされても仕方ありませんが、一方的な「逃亡非難」は如何なものかと思います。

 
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帰還者・英雄デルカーノ(1476〜1526) 

彼の特徴は2つ。1つは航海経験が豊富で運送業を営んでいたらしいこと。問題があって自船をジェノバの銀行に差し押さえられ、投獄の一歩手前。それを恩赦で釈放されマゼランの船団に、という男です。推測ですが優秀なるが故にマゼランの航海への乗船が条件で恩赦が出たと思います。コロンブスの航海でも2回目はなんと1200〜1500人が新大陸行きを希望。初回の90人の人集めの苦労を考えれば驚異的な数字です。しかし以降は希望者も激減。要は一時のブームで増えたが現実は甘くないと皆が認識したわけです。その雰囲気がマゼランの出帆時までも継続していたが故に人集めに苦労した。当初ポルトガル人は5人に限定との説もあったが、なにせ自国民から集まらず、最終的にはポルトガル人は20人位になったし、ましてや優秀な人材は徹底的に不足。そこで恩赦を出しても是非取りたいという人材だったのでしょう。なんでも左右が分からない船乗りもいた由で、舵取りにはニンニク、玉ねぎをぶら下げ「ニンニク舵」なら右、「玉ねぎ舵」なら左と指導したそうです。

2つ目の特徴はあの反乱軍の一員だったことです。但し処刑するには勿体ない人材で免れたようです。それにしても香料諸島から母国スペインへ無事帰還した(18人)、それも過酷な条件下で。即、ポルトガル領へは近寄らず、彼らに見つからないように細心の注意を払っての操船というのは正にデルカーノの腕の見せどころだったことでしょう。香料を大量に持ち帰った(26トンと32トン説)こともあり、経費を差し引いておつりがきたということで一躍英雄に。王様は2度目の航海を促し、7船団が1525年出帆。但し太平洋へ出られたのは2船のみで、デルカーノも太平洋上で病死、完全な失敗と言われます。コロンブスの航海とは単純には比較できませんがヤジ馬的にはコロンブスは一次方程式、マゼランは高等数学という感じがします。距離、日数、ともに全く比較にならないという印象を受けます。

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帰還者の伊人・記録係ピガフェッタ(1491−1534)

彼は貴族の出で、1519年スペインへ行くことがあり、そこでマゼランの計画を知り乗船を希望します。マゼランとの個人面談も受け通訳兼地図製作者として乗船。ここで興味深いのは条件として高額の申込金を払った様子であること。著者によっては伊のスパイ説をとる人もいます。航海の最後まで毎日記録を取り続け、アフリカ西岸での食糧補給時、水曜なのに陸上では木曜と知り、不審に思ったこの1日のずれが今日の日付変更線へと発展します。

彼の最大の功績は犯罪人マゼランの名誉を回復させたということでしょう。それまでは逃亡者と帰還者がすべて口裏を合わせてマゼラン即犯罪人としていた。死人に口無しということでマゼランの妻も「犯罪人の妻」という烙印をおされ禁足にされ、1522年以前に死亡しています。こうした「マゼラン即罪人」、という現状をひっくり返した男がこのピガフェッタと言えるかと思います。ただ具体的にどのようにしてマゼランの名誉が回復されたのか。この点未確認ですが、私の推測では現在の「マゼラン海峡」の名称が出現したのは1534年で、またピガフェッタの航海記は1525年パリで出版とありますので、この間に何らかの修正がなされ、それにポルトガル、西の両国が不本意ながらも同意したということではないか と考えています。

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質疑応答:

講演中の中村氏

(1)先に帰った「逃亡者」の帰還日は?
1521年5月6日。約半年かけて帰還しています。但しあのデルカーノが帰還するまで監禁状態に置かれます。逃亡者達の中で証言に食い違いが見られ、当局に怪しまれた為だそうです。

(2)大砲、小銃が積載されていたか否か。
大砲は反乱軍の鎮圧時使用したとの記述があります。小銃の使用実態についてはわかりません。宿題とします。

(3)マゼランに来られた側の証言について、レジメに記載がありますが、、、、
時間の関係で次回説明とします。

(4)マゼランの人生をみるに結婚が38才、このあと出帆し、41才で死亡という劇的な後半生です。彼の成果というのは現在どのように評価されているのか?
しかとは返答できません。私も今日現在ポルトガル人、スペイン人がどのようにマゼランを評価しているのか興味深いのですが、そうした点に触れた書物に出会っていません。これも宿題とします。

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終わり

文責:得猪 外明
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:大野 令治

本文はここまでです


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