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平成21年6月19日 神田雑学大学定例講座No.461


講座タイトル


目次

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メニューの先頭です 1.Sir Francis Drake(1534?〜1596)の生い立ち
2.奴隷貿易で財をなす
3.人材活用の妙
4.世界周航の成功と英国への寄与
5.日本で最初に世界一周した男たち
6.ロシアにおける日本語学校
7.レザノフの船での人間関係
8.質疑応答


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1.Sir  Francis  Drake (1543 ? 〜 96) の生い立ち

先月話したマゼランが初の世界一周航海者、本日話すフランシス・ドレークが2人目の世界航海者と言われています。
では日本人で世界周航を始めてやったのは誰か、今日は時間があれば最後に日本初の世界一周についても触れたいと思います。

これが千代田図書館の内田嘉吉文庫の本にあるドレークの肖像です。この本は1914年に刊行された本です。
内田嘉吉文庫所蔵ハクルート叢書よりドレークの肖像
ドレークと言う人はいつ生まれたかもよく分からない、怪しげな部分が沢山あるそうです。
大方の書物ではドレークは奴隷貿易で活躍したホーキンズという男と親戚関係にあると書かれています。ただ別の見方もあり、親戚なんてカッコ良い家柄の出ではない。ホーキンズの家の「召し使い」だった、との説もあります。

ドレークのお父さんは大変な苦労人で子供が12人。最初は農業、それから船乗り、その後プロテスタントの牧師になります。
敬虔なプロテスタントの牧師でカトリックの方面から、もろもろの弾圧を受けます。
1549年に大規模なカトリックの反乱があったそうです。カトリックが結束しプロテスタントを弾圧した事件です。
ドレークのお父さんはこのあおりをもろに受けます。
ドレーク自身はそうした父の姿を見て育ってきたのですが、家を追い出され、さんざ苦労したということです。

彼は12歳あたりから船乗りとして働きます。
その船長が彼を非常に可愛がり、5,6年あと亡くなった時に、自分の船を含め一切合財ドレークに渡したそうです。ということで彼は16,17で一つの船の船長になったのです。
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2.奴隷貿易で財をなす

彼は奴隷貿易でまず財をなします。奴隷貿易には先ほどのホーキンズが先鞭をつけているのですが、同乗して彼も航海したというわけです。
講演中の中村孝講師 ここで興味深いのは、何故イギリス人の奴隷貿易がうまくいったのか。どれほどうまみのある商売だったかということです。
スペインは力がある訳だから自分で奴隷を買えば良いではないかと思いますよね。
ところが奴隷をアフリカから持って来るとなるとアフリカの権益はポルトガルが握っている。例の教皇境界線で利権が決まっていたのです。
ということでスペインはポルトガルから買わざるをえない、ところが奴隷価格は非常に高い。それでスペインは原住民を奴隷並みにこき使うわけです。 
その一方スペインの教会筋から原住民を労働力として云々というのは如何なものかという声が出てきたそうです。
教会筋としては布教活動をしてやっとキリスト教に改宗させたのに、その人たちを過酷な労働に駆り立て、病気等で原住民の人口が減っていくのは見るに忍びないということでしょうか。
困ったのは現地植民地の開拓従事者です。安価な労働力が何としてでも欲しい。そうしたニュースを嗅ぎつけたのがホーキンズ、ドレークです。
それで彼等イギリス人がアフリカで奴隷を調達、スペインの植民地にポルトガルより安値で奴隷を売ったのです。この奴隷貿易にはエリザベス一世も一枚からんでいます。

大きな奴隷貿易をドレークは3回やっています。
最初の2回は非常にうまくいきました。3回目は途中まで成功するも、スペインによって散々な目にあいます。地図をご覧下さい。
ここがメキシコ湾で、ユカタン半島ですが、この近辺にベラクルス(旧称はサン・ホアン・デ・ウルア)という港があります。ドレーク一行はここからさて帰路へという時に、スペイン側から奇襲攻撃を受けます(1567年)。
ホーキンズもドレークも命からがらイギリスに戻ります。もともとカトリックの擁護国のスペインには良い感情がなかったのに加え、この事件があってドレークはスペインに対する憎しみを一層強くしたのです。ある方はこの事件を「パールハーバー」に匹敵する大事件と説明しています。
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3.人材活用の妙

ドレークの世界周航は1577年11月に出港しています。
全部で5隻、総人数164人、船のトン数は15トンから100トンですからマゼランの艦隊より小規模です。
一つの理由は当時の英国が財政的にも貧しかったせいかも知れません。
マゼランは航海中、人を処刑していますが、ドレークも同様です。しかも前回お話したように、両者が処刑した場所が全く同じ場所だった(サン・フリアン港)という因縁があります。

当時の海の世界は国際法など全く関係なく、「力が正義」という時代です。
慣習として「報復特許状」というのがあったそうです。つまりある船が襲われて荷物を取られた場合、お上に報告を出し被害総額を申請します。
大創産業発行世界地図
それに対し当局が「報復特許状」を出すのです。
この「合法的な報復特許状」をもらうと、損害を取り戻すべく出帆します。略奪した船をまずは捜索しますが、当該船を発見するのはほぼ不可能ですから、めぼしい船ならどれでも襲って略奪です。
本来なら特許状は「行為」が終わるとお上に返すべきなのですが、それは名目だけ。返す人などおらず無法状態が加速された時代です。こうした時代背景下、1577年、ドレークはイギリスを出帆しました。
画面 「人材活用の妙」をご覧下さい。例として3件、概略を説明します。
講師使用パワーポイント人材活用の妙南下して、西アフリカ方面へ行き、そこでポルトガル船を捕獲します。興味深いのは、ここでドレークがこの船の船長を同乗させ水先案内人として活用する点です。
しかもその期間が1年強の長期。如何にこの船長が大西洋航路の実情に詳しいとはいえ、襲った敵を雇い、狭い船内で寝起きを共にするのですから、大胆不敵というか、有能な人材は誰でも使うというか、非常に面白いと感じました。
因みにこの船長はメキシコのアカプルコ付近まで航行した時に釈放されます。

2つ目は1572年、世界周航に出かける前の話で、パナマ地峡での強奪事件です。これでドレークは男をあげるのですが、成功した理由は何か? 
一つの大きな要因は「情報」だと思います。正確な情報を彼は逃亡した奴隷のボスから取ったのです。
スペインの植民地には沢山の奴隷がいるわけです。奴隷の中には当然逃げる者もいます。逃げた奴隷は仲間と集団生活をします。そこにボスが生まれます。その人たちは逃亡者ですからお尋ね者で、パナマ地峡でのスペイン当局の動きに敏感なわけです。
当時のスペインはご存知のようにポトシ銀山等を始めボリビア、ペルー等どんどん征服していますから、そこには沢山のスペイン船が出入りしていました。
当時パナマ運河はありませんから、ポトシ銀山で取った銀は船で北上して運び、このパナマ地峡の入り口で荷を降ろす。そして陸上ではラバに積んでゆったりゆったりパナマ地峡を超え大西洋岸まで行くわけです。そこで荷を下ろし再度船積み。スペインへ向かう。これがルートです。

このラバ隊が通過する通り道に先ほど言った逃亡奴隷の集団村落が点在していたそうです。そこからドレークは種々情報を取ったと言われます。
例えば、金銀財宝は倉庫に保管されていること、スペインに運ぶ船は一年に一回か二回であること。そうした情報に基づきドレークは部下70人程をひきつれ山道でラバ隊を襲撃するわけです。
そして大成功、大変な金銀財宝を獲得し、イギリスへ帰還します。この1572年の略奪は後世に残る語り草になっているそうです。
このようにポルトガル人の船長を活用したり、逃亡奴隷のボスと接触したりと、実にドレークは人使いが上手という感じがします。3つ目の例を次に説明します。
講座風景
ドレークの船でも反乱が起きます。詳細は省きますが、その時彼は下積みの水夫の側に立ちます。
貴族階級の肩ではなくて水夫の肩を持つのです。
貴族階級の連中も乗船しており陰謀を企てます。それに対し一般水夫はドレークに味方。ドレークは最終的にはこの貴族を処刑しますが、その時彼はその首をつるし「残りの貴族よ、水夫と一緒に働かないとお前たちもこういう目にあうぞ」と宣言したそうです。
いずれのエピソードも人心のコントロールにたけていたことをうかがわせる話だと思います。
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4.世界周航の成功と英国への寄与

ドレークの旗艦の名前は「ペリカン」で、陰謀貴族の処刑後「Golden Hind」と船名変更します。
船を出すにあたってはエリザベス女王以下貴族階級の人がお金を出しているわけです。
このスポンサーの一人にHattonという貴族がいたのです。先ほどの処刑された貴族は正にこのHattonの友人なのです。それで色々あり処刑したが、Hatton卿には申し訳ないという思いでしょうか、Hatton卿の家の紋章である「Golden Hind」(黄金の雌鹿)に船名を変えています。
1580年、世界周航から戻りますが、この時の最大の収穫物はスペイン船を追跡して奪った財宝です。
当時のスペイン側の海上での防備体制について少し説明します。
スペイン側はペルーの銀山発掘など色々な人が出入りしていたわけですが、全く無防備だった様です。つまりマゼラン海峡を渡って敵が来るなど思いもよらない。天下太平、言うならば一種の「平和ボケ」だったと思います。
なにしろ自分たちの天下であり、俺達に戦いを挑む奴などいる筈がない。ですから船が来ればこれは100%仲間の船と判断。ドレークの船が近づいても、全く疑わずという状況だったそうです。
ドレークにしてみれば相手は大砲さえ装備していないので、たやすく略奪出来たわけです。勿論当たり外れがあり、財宝を積んでいた船も、いなかった船もあるわけです。

大当たりは「これには必ず財宝が満載」との情報を得て、大西洋上を実に1200km追跡して略奪した船です。
ドレークが追いついた時、この船はどういう行動をしたか? 船長は自分への連絡文書運搬の飛脚船が来たと勘違いし、ご丁寧にも接近し易いように船体の位置を変えたと言われています。そういうこともあり簡単に略奪します。
当時の通信手段ですから、イギリスの海賊情報などがスムーズに届くことはなかったようで、こういうことが往々にして起こったようです。
熱演する中村孝講師の風景 ドレークの世界周航には偶然の助けがあったとも言われます。
当初彼はマゼラン海峡から帰還する予定でしたが、敵が待ち伏せしていて危険と感じ針路変更。
更なる略奪を継続している中、一隻に正確な地図を発見します。その地図を頼りに彼は香料諸島へ行き、さらに喜望峰を周って帰還したのです。この地図を見つけたという偶然が世界一周の成功の一因とも言われます。

ドレークはよく「海賊」と言われますが、エリザベス女王の許可状を持った船の運航者であり、いわいる個人的な利益集団の海賊とは一線を画した海賊だと思います。
マゼランの航海を「新たな海峡を探す冒険者としての純粋な世界周航」と仮に考えれば、ドレークのそれは「海賊行為をやりつつの世界周航」で、ある意味不純と言えるかも知れません。

彼は出帆前にエリザベス女王から4つの使命を授かったそうです。
乱暴な表現になりますが簡単に言えば、第一が略奪行為。
2番目が新しい植民地の開拓。
3番目が金・銀の産出地域を探ること。
4番目が北西航路という新規航路の探索だそうです。南の航路はスペイン、ポルトガルの権益ですから必ず血をみるので、彼らのいない北方航路の発見も大事なテーマだったようです。
結果として4つのうち略奪のみ大成功を収めたわけです。 経済学者のケインズが言うには、ドレークがイギリスに持ち帰った金銀財宝等が次の時代のイギリスの東インド会社設立の基になったということで、その後の大英帝国の繁栄の基をドレークは築いたと言えるようです。それだけドレークの略奪行為は歴史的に意味のある行為であったと思います。

スペインにすれば、やられっぱなしということで当然抗議します。
イギリスとスペインには外交関係がありましたからロンドンにはスペインの大使が駐在。大使を通じ文句を言うわけです。
ところがエリザベス女王の回答は「フェリペ2世、貴方は私にとっては義理のお兄さんです。なんで私がお兄さんの権益を荒らすようなことを考えましょうか。仮にそういうことがあったとしても、私には全く関係のないことです。フェリペ2世、貴方がそ奴を処分したいのならどうぞ勝手に処分して結構です。私には何も異論は御座いません」というものだったそうです。
その裏でドレークの帰還時には彼にナイトの称号を与える。こうした状況下、歴史はスペインの「イギリス攻略」へと展開していく訳です。
講師使用パワーポイント 無敵艦隊出動の背景有名な1588年の無敵艦隊の出動の背景には3つの要因があると言われます。
一つがドレークの略奪、二つはオランダのプロテスタントによる独立運動へのイギリスの加担、三つは女王暗殺計画の発覚です。
無敵艦隊との戦いでドレークは中心となって戦いますが、この時日本でもお馴染みの三浦按針がこの戦いに参加しています。
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5.日本で最初に世界一周した男たち

お手元の資料に1793〜1804とありますが、10年ほどかけてこの4人の日本人漂流民が結果的に世界一周したという意味です。
彼らは石巻の漁民の方です。時代背景としては、あの大黒屋光太夫の一行が根室に戻ったのが1792年ですからその頃の話です。
石巻の漁民が16人、約5か月漂流し、アリューシャン列島に着いてロシア人に捕獲され、詳細は省くとして、シベリア送りとなりサンクト・ペテルブルグまで連行されます。

当時ロシアは海軍の強化を考えており世界周航という計画が進行していたのです。
日本のマーケットもロシアにとっては魅力的でしたから、なんとか日本に接触したいということで、漂流民を伴って日本へ行き交易を開始したかった訳です。
講師使用パワーポイント 日本人初の世界一周航路概略はサンクト・ペテルブルグを出て大西洋のカナリー諸島へ、そこから南下、マゼラン海峡の南のドレーク海峡を渡ります。
話が前後しますがドレークはマゼラン海峡を2週間程で通過してしまいます。マゼランの時は5週間強ですから半分です。ところが太平洋に出ると大変な荒天で、船はどんどん流され、その結果このドレーク海峡が偶然にも発見されることになったそうです。

石巻の一行はこのドレーク海峡を渡ってハワイに寄ります。そのあとカムチャッカ半島へ。そこで一息ついて長崎に談判に行くのです。
形としてはロシアのレザノフが国書を携えて江戸幕府訪問ということです。
このロシア使節団と日本の漂流民が長崎に来て交渉が開始されますが、何せアメリカの黒船より50年も前の話ですから、来るのが早すぎたんでしょうか。日本側に相手にされません。
レザノフと4回交渉した人物は、あの有名な遠山の金さんのお父さんです。結論としては、半年も待たされた上に「2度と来てくれるな」と言われてしまうのです。

では一緒に来た漂流民4人はどうなったか、彼等も長崎にとどめ置かれて、紆余曲折はありますが一年後解放され石巻に1805年戻ります。
ですから彼等は全く自分の意志とは関係なしに、結果的に初の日本人世界一周になったわけです。
この航海の最大の特徴の一つは「人間関係最悪の船内事情」だと私は思います。以下それに関する補足です。
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6.ロシアにおける日本語学校

記録に残るところでは1695年大坂の伝兵衛という商人が漂流してアリューシャン列島で捕まりシベリアへ連行され、首都で日本語学校の教師にならされます。それが1705年。

当時ロシアは香料ではなくて毛皮が狙いでした。それでシベリア開拓を加速して行くのですが、司馬遼太郎さんによれば毛皮は大変な資金源だったようです。
また東方見聞録などの影響で日本という国も気がかりな存在だったのです。ロシアの皇帝にしてみれば、日本をオランダだけに独占させておくことはない。「日本人が来たら連行せよ」との命令を出していたようです。
日本語学校がそういうことで設立されたのですが、なにしろ先生は漂流民ですから大変だったようです。

先生が死ねば授業が続きませんから、石巻の漁民もこれ幸いと学校に送られます。
国書はロシア語、日本語、満州語と3語で書かれていたそうです。しかし幕府はロシアがせっかく作った日本語の国書は参考にはしなかったそうです。
その日本語は役に立たなかったのでしょう。たまたまレザノフの船内ドクターがオランダ語を理解し、それでロシア語をオランダ語に訳し意思疎通をはかったそうです。
ロシアの日本語学校は多分世界でも一番古い日本語学校ですよね。ところが実際にはその学校による日本語の国書は役に立たなかったというのは、なにやら滑稽ですよね。

私はその理由の一つをこう考えます。
漂流民で最初に来たのは大坂の方。次が紀伊半島の方。三番目が薩摩。4番目が南部藩の漂流民。5番目が大黒屋光太夫で伊勢の方。
この伊勢の方は教養レベルが高かったようで、この日本語はおかしいからと訂正したという記述が司馬さんや吉村昭さんの本にあります。
最後に来たのが石巻ですから、相当ロシア側も混乱したのではないかと思います。
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7.レザノフの船での人間関係

人間関係は最悪の船内と先に申し上げましたが、日露双方がそれぞれ問題をかかえて出帆したということです。日本側は宗教の関係でもめます。画面をご覧下さい。
講師使用パワーポイント 最悪の人間関係この善六さんはまっさきにロシア正教に改宗し日本語学校の教師になります。
彼は通訳として乗船。ところが非改宗の4人も「漂流民外交の先駆け」として同乗している訳です。
両者のいがみ合いが航海記に残っていますが、「俺はお前に必ず復讐してやる」という強烈な言葉が残されています。

そしてロシア側の人間関係も大変でした。
レザノフが総司令官ですが、軍人のクルーゼンシュテルンがいて、この人は生粋の海軍軍人です。
彼はイギリスに4年か5年留学し、当時としては彼がロシアで世界の動きを一番知っていた男という評価だったようです。
それである時留学先から、「ロシア立て直しのため帰国されよ」と呼び戻されたのです。彼は出身地がエストニアです。
このクルーゼンシュテルンは当然自分が使節団のボスになると思っていたのですが、毛皮商人で政治的にうまく動いたレザノフが使節団長になってしまったからです。
私の話はここで切ってご質問を受けたいと思います。
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8.質疑応答

●ドレークはハワイにも行っていますか? オーストラリアはどうですか?
ハワイはキャプテン・クックですから18世紀ですよね。
ドレークの時代にはハワイの存在は知られていなかったと思います。それからオーストラリアはオランダのタスマンが行ったのは17世紀ですから、地図上にはおぼろげに書かれていたでしょうが認識はなかったと思います。

●善六さんは日本には戻るのですか?
善六はカムチャッカ半島入港時、下船します。
推測ですが、ロシア側としてはたとえ通訳でも、改宗した男を連れて長崎へというのはまずい、との判断があったのではないかと推測します。
善六はその後ロシアに住むのですが、高田屋嘉兵衛が捕えられた事件(1812年)、彼の釈放に黒子として活躍します。善六の息子が通訳で日本に来るという記録も残っています。

●アメリカの捕鯨船が太平洋に来たのはいつ頃ですか?
19世紀の中ごろだと思います。ジョン万次郎が乗った頃が最盛期だったようです。

●当時のロシアでは日本はどう見られていたのですか?わざわざ日本語を習いたいような魅力的な国だったのでしょうか?
サンクト・ペテルブルグという町にはヨーロッパの最新の情報が入って来ていたはずです。
先ほどドレークの航海の目的の一つに「北西航路の開拓」という話をしましたが、これには他のイギリス人もチャレンジしています。多くが厳冬の海で病死し、またある者は船を捨て命からがらモスクワまで行き、ロシアの皇帝に会って、イギリスへ帰還ということもあったのです。
当時のモスクワ、あるいはサンクト・ペテルブルグはそれなりに最新情報が入っていたということだと思います。
ですから、日本の存在、その関連情報はオランダ等から来ていたと思います。
またこれは司馬遼太郎さんがお書きになっているのですが、ロシアは「走るダイヤモンド」と言われた黒てん、即最高級の毛皮を求めシベリアを探査します。その時の最大の問題の一つが食料確保だったようです。
ならば日本から食料を補給すれば、という趣旨のことを司馬さんは書いています。そんな諸々の思惑があったのではないでしょうか?

本日はご清聴いただき、まことに有難うございました。


文責:中村孝、臼井良雄
会場写真撮影:臼井良雄
HTML制作:臼井良雄


本文はここまでです


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