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平成21年7月10日
神田雑学大学定例講座N0464

昭和初期は特異な時代だった

目次
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メニューの先頭です 講師プロフィール
1.魔法にかけられた10年間
2.魔法の書「統帥綱領・統帥参考
3.超エリート[陸軍大学学校出身者」
4.軍の組織は縦割りタコツボの「官僚組織」
5.軍令機関と軍政機関の分離
6.統帥権とは何か?
7.なぜ「統帥権」が「魔法の杖」となったのか?
8.なぜ「陸軍参謀本部」が出来たのか?
9.「魔法の書には何が書いてあったのか?」
10.全体を見て総合的に判断出来ない仕組み
11.軍人が権力を握ってはみたが、官僚の壁が・・・・
12.「鬼胎」の時代
13.「逆賊」だった「軍事官僚」
14.軍事官僚、検察官僚、内務官僚に壟断された昭和
15.官僚の卑劣な手口は今も続いている
16.近現代史は教えない
17.戦後間もなく発行された『敗戦真相記』
18.日本国民に戦争を忘れさせたいのである
19.官僚システムというもの
20.「鬼太郎の見た玉砕」官僚システムの戦争とは?
21.誰も責任をとらないシステム!



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講師プロフィール

磯浦康二講師 生生まれ:昭和7年11月東京都
学 歴:上智大学文学部新聞学科卒
職 歴:NHKアナウンサー、国会議員政策担当秘書、     上智大学新聞学科講師、NHK文化センター講師 その他:日本の近現代史研究、健康ヨーガ師範、     ボイストレーナー
著 書:『OLきれいな言葉づかい』徳間書店刊 
『話す技術 聞かせる技術』三笠知的生き方文庫 
『ひとりで出来る気功養生法』実業之日本社刊

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1.魔法にかけられた10年間

司馬遼太郎の『この国のかたち』という本の最初に「日本の昭和10年代、すなわち昭和10年から20年は非常に特殊な時代だった」と書いています。
かなり控えめな書き方ですがこれは大変なことを言っています。今日は、それがいったいどういうことなのかを考えてみたいと思います。
さらに司馬遼太郎はそれ以前の30年間、つまり明治38年に日露戦争が終わった後の30年を加えた40年間は、日本の歴史の中では「非連続の時代だった」とおっしゃっています。
私もそれに全く同感です。特に最後の10年間は、昭和7年生まれの私が、もの心ついてから小学生、そして中学1年生までの多感な少年時代です。それが司馬遼太郎のいう「魔法にかけられた10年間」に当たります。
その魔法とは一体何かをお話しいたします。
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2.魔法の書「統帥網領・統帥参考」

統帥網領・統帥参考 私がここで申し上げたいのは「魔法にかけられた昭和10年代」とは「軍事官僚システム」が暴挙を働いた時代だったということです。
司馬遼太郎は、軍事官僚が「魔法の杖を持っていた」と方々に書いていますが、その魔法の杖とは「統帥権」というものです。その統帥権という魔法の杖を振るう基になった『魔法の書』がこれ『統帥網領・統帥参考』という本です。これは本物ではなくて戦後復刻されたものです。
『統帥網領』は昭和3年に、『統帥参考』は昭和7年に書かれました。
その後、敗戦までは門外不出の「極秘文書」でした。しかも敗戦直後に1冊残らず全部焼却処分されました。ですから、残っていないことになっていたのですが、どこからか1冊出て来て昭和37年に「偕行社」によって、このような形で合本として復刻されました。
偕行社というのは陸軍の軍人のOB会のようなものです。
私もそのような本があることは全く知らず、いろいろ調べているうちに、こういうものがあることを知り本当に驚きました。
この「極秘文書」を誰が読んでいたかいうと、まず陸軍大学校卒業生が見ていました。また陸軍参謀本部でも読まれていました。
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3.超エリート「陸軍大学校出身者」

一口に軍人と言っても、この本を読める「陸軍大学校出身者」というのは、陸軍の中でも超エリートでした。
まず士官学校を出なければなりませんが、卒業してどこかの部隊に配属され、半年経つと少尉に任官します。
それから2年以内にその部隊の連隊長もしくは大隊長の推薦がなければ「陸軍大学校」を受験出来ませんでした。大変な難関だったのです。
そして陸軍大学校を優秀な成績で卒業すれば将軍になるなど将来は約束されました。
また、陸軍大学を出ていないと参謀本部には入れなかったのです。
方面司令官や将官にもなかなかなれません。士官学校だけですと大佐くらい迄で将軍にはなれません。

海軍は陸軍とは多少違いますが、同じように「海軍大学校」があり、やはりエリート軍人の養成をしていました。
そのような超エリートが「軍事官僚組織」の中枢を形成し、中でも「陸軍参謀本部」と「海軍軍令部」は統帥部と呼ばれて特殊な扱いを受け、絶大な権力(つまり魔法の杖)を持っていました。
そして陸軍、海軍共に日本の中の別の国のよう振舞っていました。
彼らは軍人以外を「民間人」と呼び、自分たちより一段下に見ていました。
「民間人のくせに何を言うか!」と怒鳴るのが彼らの常とう手段でした。その軍事官僚組織の頂点が陸海軍の「統帥部」です。
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4.軍の組織は縦割りタコツボの「官僚組織」

明治以来の日本は、大変な「官僚国家」となりました。「官僚主権国家」と言った方が良いでしょう。
官僚の行動様式の特徴は「縦割りタコツボ主義」「形式主義」「前例主義」です。また、全体を考えず、自分と自分の属する組織の利益しか考えません。軍人も例外ではなく、官僚組織の特徴を持った「軍事官僚」でした。
あの3年8カ月続いた「大東亜戦争中」、陸軍と海軍が合同作戦を行ったのはわずか一回だけだったそうです。
更に陸軍内部には「大陸派」と「南洋派」があり、海軍には「軍艦派」と「航空機派」があり、それぞれ対立していました。
当時、空軍というものはなく、陸軍は「陸軍航空隊」、海軍は「海軍航空隊」と別々の航空隊を持っていました。
しかも航空機の開発・製造も、飛行機乗りの訓練もみな陸海軍が別々に行っていました。
ただでさえ、資源も優秀な人材も不足している上に、両者が別々に、しかも絶対に協力はせず、それぞれ極秘裏に開発・製造をしたり訓練をしたりていたのですから、優秀な兵器の開発や人材育成が出来るはずがありません。
そして、別々に作戦計画を作り実施して、次々に負け戦となっていきました。
そうしたことを、国民は「軍事機密」ということで全く知らされていなかったのです。

内地の兵器工場で陸海両軍の兵器を作っている工場でも、入口と出口は陸軍用と海軍用と別々になっていて、双方の行き来は厳重に禁止されていました。
工場の中も厳重に仕切られていて絶対行き来してはいけかったのです。材料なども片方が余って片方が足りなくても絶対に融通しない。工員も片方が忙しく片方が暇でも絶対に融通しないのです。
つまり徹底した「縦割りタコツボ」の組織であり、あの戦争中終始叫ばれていた「一億一心」というスローガンは、単に国民を煽るだけでした。
肝心の戦争指導部は「一心」どころか、全くのバラバラ組織で、日本の総力を挙げた戦争などではなく、「大日本帝国陸軍」と「大日本帝国海軍」が、それぞれ「米英」と戦い、日本国民はそのとばっちりを受けて酷い目にあったのであった、と言うのが実態です。
「日本全体」と「米英」の戦いなどでは全くなかったのです。
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5.軍令機関と軍政機関の分離

更に、あの戦争中の日本の軍隊の分かりにくいところがもう一つあります。 軍の組織が「軍令機関」と「軍政機関」に別れていたことです。
「軍令機関」というのは、「陸軍参謀本部」と「海軍軍令部」を言い、戦略を考え作戦計画を作る組織をいいます。
「軍政機関」は「陸軍省」と「海軍省」で、軍事予算をどのように使うか、兵隊を何人召集して、兵器はどれだけ作るか、食糧をどれだけ徴するかとか、予算に関係するようなことを担当します。
 軍令機関も軍政機関も確かに必要なのですが、当時の日本の軍事組織は極めて特殊でいびつな形であり、その説明は判り難くいと思います。

順を追って説明しますと、まず「軍令機関」である「陸軍参謀本部」と「海軍軍令部」は、当時「統帥部」と呼ばれ天皇の直属とされていました。
それで、参謀総長と軍令部長は「帷幄上奏権」(いあく じょうそうけん)を持っていました。
「帷幄」(いあく)とは「天幕」のことで、戦時の天皇のご座所です。
「上奏権」は直接天皇に意見を申し上げる「権限」ということです。
つまり、この二人は、総理大臣や陸海軍大臣の了解を得ることなく、軍を統帥する天皇に直接、軍の戦略について上奏する(申し上げる)ことが出来る権限を持っていたのです。
その内容を天皇がよいと言えば、それは直ちに天皇の命令ということになり何人も逆らうことは出来なくなります。

当然のことですが「陸軍大臣」「海軍大臣」は、内閣総理大臣の下の閣僚の一員で、軍の中枢を担っています。ですから、軍事組織は完全に二重構造になっていたのです。
つまり、軍をどう進めるかとか日本の軍事方針をどう決めるかということは、陸海軍大臣はおろか総理大臣も飛び越して、参謀総長と軍令部長が勝手に決められるという仕組みだったのです。

これは恐ろしいことです。
「開戦するかどうか」つまり戦争を始めるかどうか、どのように進めるか?その前に「敵国」との交渉をどのように進めるかなど、国の運命を決するような重要な事項が「統帥部」を名乗る二人に委ねられ、外務大臣はおろか、総理大臣も口を挟めなかったのです。

軍人たちの理屈としては「開戦」するなどの軍事大権は天皇にあるが、天皇を「輔弼」(ほひつ)(天皇を助けること)している「統帥部」のオレたちが実際には決める権限がある、というのですが、更に『統帥参考』にあるように「オレたちの方がエライ」というに風にすり替えていったのです。
「戦争は外交の一手段である」と言われますが、当時の日本は「統帥部」を名乗る「軍人」の思うままで、「外交」の担い手である「外務大臣」などはまったく相手にもされなかったのです。
もし文句をつけようものなら「統帥権の干犯だ!」と一喝され、下手をすれば刑務所にぶち込まれるのです。(戦後首相になった吉田茂は、昭和20年2月に和平工作に関わったとして憲兵隊に捕まり4ヶ月間拘束されました)

近代戦は「総力戦」(軍人だけでなく、国の総力を挙げて戦うこと)だということは、第1次世界大戦以後は世界の常識になっていました。
ですから、軍の都合だけでは戦争は出来ないのです。兵器や食料の生産も必要ですし、国民生活も大切です。ですから、総合的に考えなければ戦えないのです。
そういうことが判っているはずなのに「軍事官僚」は横車を押して、勝手なことをやったのです。
いずれにしても、軍事組織が二重構造である上、「統帥部」が「統帥権という魔法の杖」を振りまわしたことが、日本の悲劇でした。
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6.統帥権とは何か?

統帥権とは何でしょうか?
「統帥」とは「軍隊を統(す)べ、率(ひき)いること」と辞書にあります。
そして、明治憲法には「大日本帝国陸海軍は天皇これを統帥す」と書かれています。しかし「統帥権」という言葉は明治憲法のどこにもありません。
熱演する磯浦康二講師 本来、天皇の統治行為は、天皇の政治をたすける「輔弼」(ほひつ)の任に当たる者の進言によって行われることになっていました。
国務上の輔弼は国務大臣が、宮務上の輔弼は宮内大臣と内務大臣が、そして、統帥上の輔弼は陸軍参謀総長と海軍軍令部長となっていたのです。明治以後の日本の不幸は、このように「軍事」が「一般国務」と別立てになっており、しかも一段上に置かれていたことから発しています。
したがって、「統帥部」は、あたかも国の中に国があるという振る舞いをしていました。

「統帥権」という言葉は法律的には存在しません。明治憲法は欽定憲法(天皇が定めた憲法)ですが、三権分立で、司法、立法、行政の三権以外にありません。
明治の初期の政治は「太政官府」が行っていましたが、明治18年に「内閣制度」が制定されました。
明治22年に「大日本帝国憲法」が発布され、明治23年に「帝国議会」が開設されます。その時代、どこにも「統帥権」などという言葉は出てきません。憲法には「大日本帝国陸海軍は天皇これを統帥す」とだけ書いてあったのです。
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7.なぜ「統帥権」が「魔法の杖」となったのか?

昭和5年、ロンドン海軍軍縮条約をめぐって、野党の政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎は衆議院で「海軍軍令部の意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」と民政党の浜口雄幸(おさち)内閣を攻撃しました。
政友会の目的は、海軍の強硬派と連携して統帥権干犯を口実にした倒閣運動でしたが、 海軍軍令部の不満分子や右翼団体を刺激し、浜口首相狙撃事件や、軍の「革新運動」などを起こすキッカケとなりました。

この「統帥権の干犯」が叫ばれた頃から「統帥権」と言う言葉が独り歩きをし始めます。 その後は、下級将校までが、民間人ともめると「統帥権干犯だ!」と怒鳴り散らすようになりました。
この言葉は、北一輝が考えたという説もありますが、昭和初年に「統帥権」と言う「魔法の杖」が出現したのです。鳩山一郎がそれに同調していたというのは、今、考えると皮肉な話ですね。
そして、昭和3年に『統帥網領』が書かれ、昭和7年に『統帥参考』が陸軍の内部で密かに書かれて、トップレベルのエリート陸軍将校にだけ読ませて、それに基づいて昭和12年の日支事変、昭和14年のノモンハン事変、昭和16年から始まった大東亜戦争、すべてがそれによって遂行されてきたのです。
そういうまさに「魔法の書」によって動かされて来たのが、「昭和10年代」であり、まさに特異な時代だったのです。
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8.なぜ「陸軍参謀本部」が出来たのか?

日本の禍(わざわい)の基となった「陸軍参謀本部」というものが何故出来たか?経緯をご存じでしょうか?これは明治初期に山県有朋が作ったのです。
明治7年に江藤新平の「佐賀の乱」が起きました。この頃、山県有朋は陸軍卿でした。 佐賀の乱が起きて、内務卿の大久保利通が平定を命ぜられましたが、陸軍卿の山県有朋は「何でおれにやらせないんだ」と思ったわけですね。
講座風景
というのは、当時は文民優先で、現役軍人は「太政官府」に入れなかったのです。今風に言えば、制服組は閣僚にはなれなかったのです。それで大久保が命じられたのですが、そこで山県は一計を案じて、辞表を出し陸軍卿を辞めるのです。
辞めて自分はなぜか第6局の局長になるのです。
そして若い宮様、嘉彰親王を総督に奉じて自分が参謀として佐賀へ行ったのです。
そして殆ど平定していた大久保に代わって自分が治めたことにして帰って来たということらしいです。

第6局が後に参謀局と名前を変え、さらに明治11年に参謀本部と改称し、陸軍省から独立し、ここに「軍令」と「軍政」が分離し、のちのちに禍根を残すことになりました。
山県有朋の「権勢欲」もありますが、もうひとつの理由は、明治11年8月に起きた近衛兵の反乱「竹橋事件」があります。
山県はこの事件で「軍隊の叛乱」の危機感を募らせ、「軍人勅諭」を制定し、憲兵を設置し、「参謀本部」を政府から切り離して「天皇直属」にして「天皇絶対の軍隊作り」を急いだのです。
ここに「軍令」「軍政」の分離が行われ、このことが50年後に「統帥権」という「魔法の杖」を生むという「副作用」を起こしました。
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9.「魔法の書」には何が書いてあったか?

ここまでご説明したことを参考にして「魔法の書」に何が書いてあったかを司馬遼太郎の『この国のかたち』の中からみてみましょう。
「機密の中の国家」というところです。

     ーここから引用ー
「かつて、一冊の古本を見つけた。『統帥綱領・統帥参考』という題の本である。
復刻されたもので、昭和三十七年、偕行社(註・旧陸軍の正規将校を中心ヒした親睦団体)の刊行となっている。
原本は敗戦のときに一切焼却されて、この世には存在しないとされていた。偕行社が奇跡的に残った本を入手したらしい。
もとは二冊だったそうである。
統帥綱領のほうは昭和三年、統帥参考の方は昭和七年、それぞれ参謀本部が本にしたもので、無論公刊の本ではない。
公刊されれば、当然、問題になったはずである。内緒の本という以上に、軍はこの本を最高機密に属するものとし、特定の将校にしか閲覧をゆるさなかった。
特定の将校とは、統帥機関である参謀本部所属の将校のことである。
具体的には陸軍大学校に入校をゆるされた者、また卒業して参謀本部で作戦や謀略その他統帥に関する事項をうけもつ将校をさしている。
『統帥参考』のなかに、憲法(註・明治憲法)に触れたくだりがある。おれたちは・・・という言葉づかいではむろんないが・・・じつは「憲法外なのだ」と明快に自己規定しているのである。
「おれたち」とわざわざここで卑俗に意訳したくなったのは、秘密結社のようなにおいがするからである。
当時、日本国民のだれもが憲法下にあったことはいうまでもない。天皇でさえ、憲法によって規定されていた。憲法によって天皇は政治に対し、個人として能動的な作用をすることはいっさいできず、例外的にそれをおこなったのは、敗戦のときのいわゆる"聖断"だけである。
であるのに、この本が閲覧できる“メンバーズ・クラブ”の会員たち――参謀本部の将校――だけが『われわれの職務だけが憲法外におかれている』と言いかわし、それを秘密にし、そのことを明文化した本を"最高の機密、門外不出の書"(復刻本の編者のまえがきの用語。筆者名なし)とし、国民にはむろん洩らすことがなかった。
しかも敗戦のとき、敵にも後世にも知られぬように配慮したのか、かれらの手で一冊のこらず焼きすてたのである。

一握りの人間たちが、秘密を共有しあった以上は、秘密結社としか言いようがないが、 こまったことに参謀本部は堂々たる官制による機関なのである。
その機関が、憲法を私議し、私的に合意して自分たちの権能を"憲法外"としている以上は、帝国憲法による日本帝国のなかに、もう一つの国があったことになる。(むろん日露戦争のころの参謀本部はそぅいぅ鬼胎ともいえるような性格のものではなかった)。
そのことについては統帥参考の冒頭の『統帥権』という章に、以下のように書かれている。

『・・・之ヲ以テ、統帥権ノ本質ハ力ニシテ、其作用ハ超法規的ナリ。』

超法規とは、憲法以下のあらゆる法律とは無縁だ、ということなのである。
ついで、一般の国務については憲法の規定によって国務大臣が最終責任を負う(当時の用語で輔弼する)のに対して、統帥権はそうじゃない、という。

『輔弼ノ範囲外二独立ス』と断定しているのである。

『従テ統帥権ノ行使及其結果ニ関シテハ、議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。議会ハ軍ノ統帥・指揮拉之ガ結果二関シ、質問ヲ提起シ、弁明ヲ求メ、又ハ之ヲ批評シ、論難スルノ権利ヲ有セズ。』
統帥要領中身

すさまじい断定というほかない(日露戦争のときは、議会はむろん統帥を軍にまかせたが、軍のへマについては議員たちが大いに論難した。軍もまた議会を国民の代表としてこれを見、論難に対しては低姿勢だった)。
国家が戦争を遂行する場合、作戦についていちいち軍が議会に相談する必要はない。このことはむしろ当然で、常識に属するが、しかし統帥参考のこの章にあっては、言いかえれば、平時・戦時をとわず、統帥権は三権(立法・行政・司法)から独立しつづけている存在だとしているのである。
 さらに言えば、国家をつぶそうがつぶすまいが、憲法下の国家に対して遠慮も何もする必要がない、といっているにひとしい。
いわば、無法の宣言(この章では超法規的とぃっている)である。
こうでもなければ、天皇の知らないあいだに満洲事変をおこし、日中事変を長びかせ、その間、ノモンハン事変をやり、さらに太平洋戦争をひきおこすということができるはずがない。

『然レドモ、参謀総長・海軍軍令部長等ハ幕僚(注・天皇のスタッフ)ニシテ、憲法上ノ責任ヲ有スルモノミアラザルガ故に…』
天皇といえども憲法の規定内にあるのに、この明文においては天皇に無限性をあたえ、われわれは天皇のスタッフだから憲法上の責任なんかないんだとするのである。

さらにこの明文にはおそるべき項目がある。戦時や“国家事変”の場合においては、兵権を行使する機関(統帥機関、参謀本部のこと)が国民を直接統治することができる、というのである。
『大日本帝国憲法』においては、その第一条に『大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス』とあって統治権は天皇にある。しかしながらこの『統帥参考の第二章統帥ト政治の章の非常大権』の項においては、自分たちが統治する、という。

『・・・兵権ヲ行使スル機関ハ、軍事上必要ナル限度ニ於テ、直接ニ国民ヲ統治スルコトヲ得・・・』

とあって、この文章でみるかぎり、天皇の統治権は停止されているかのようである。 天皇の統治権は憲法に淵源するために――そしてその憲法が三権分立を規定しているために――超法機関である統帥機関は天皇の統治権そのものを壟断もしくは奪取する、とさえ解釈できるではないか(げんにかれらはそのようにした)。

要するに、戦時には、日本の統治者は参謀本部になるのである。しかもこの章では『軍権ノ行使スル政務ニ関シテハ、議会ニ於テ責任ヲ負ハズ』とあくつよく念を押している。

憲法に関するこのような確信に満ちた私的解釈が、国家機関の一部でおこなわれているということを、当時、関係者以外は知らなかったにちがいない。
いまふりかえれば、昭和前期の歴史は、昭和七年に成立したこの"機密"どおりに展開したのである。」
     −ここまで引用ー

このように司馬遼太郎は書いているのですが、皆さんはご存知でしたか?
昭和3年に書かれた『統帥網領』は軍をどういう風に運用するかということなど、比較的常識的なことが書いてあるのですが、昭和7年に書かれた『統帥参考』が酷いのです。
「軍事官僚」たちは、天皇の大権を、軍事ばかりでなく、天皇の統治行為までも「簒奪」(奪い取る)して勝手なことをやっていたのです。
昭和7年は私が生まれた年ですが、私の少年時代はまさに、この「魔法の書」によって翻弄されたのです。
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10.全体を見て総合的に判断出来ない仕組み

アメリカの最高意思決定機関の一つ「国家安全保障会議」は大統領が主宰し決定権は大統領にあります。
その下に副大統領、国務長官、国防長官、そして統合参謀本部議長とかCIA長官とかがいます。統合参謀本部議長と言うのはメンバーの一人に過ぎません。この統合参謀本部議長の下に陸海空三軍の司令部があって、その下に各軍があるのです。 これが普通の国のやりかたですね。
しかし、日本の昭和時代は、いわば統合参謀本部議長が一番上でした。『統帥参考』で、天皇の代理であるが天皇より「統帥部のおれたちが一番偉いんだ」と言っていたわけですから、大統領より上の存在ということになりますね。統合参謀本部議長の方が大統領よりエラいというイメージです。
しかも、「統合参謀本部議長」は1人ですが、日本の最高意思決定者は、陸軍、海軍別々で2人いたのです。まあ、国民は「軍事機密」の壁に阻まれて、何も知りませんでしたが、今から考えると、メチャクチャなことを大真面目でしていたんですね。
とにかく、日本には、全体を見て総合的に物事を判断し決定するという仕組がなかったのです。

ですから、当時、軍の予算を減らすなんて言うと大変なことになったのです。
しかも「陸海軍大臣現役制」というものもあって・・・これは何回か廃止になって復活し、廃止になって復活したという、いわくつきのものなのですが・・・昭和11年の「二二六事件」の後で復活してしまいました。
つまり「陸軍大臣と海軍大臣は現役軍人でなければならない」ということなのですが、例えば軍事予算を削ろうとすると、この現役の陸海軍大臣が辞任してしまうわけです。
すると内閣は倒れてしまいます。こうして昭和10年代は軍事予算に手がつけられなくなり、軍が国力を考えずに次々に勝手な要求を出して来ても、誰も逆らえなかったのです。
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11.軍人が権力を握ってはみたが、官僚の壁が・・・

そして、昭和16年10月、東條英機が現役軍人のままで総理大臣になりました。遂に軍人が政権を握ったのです。東條は当初から陸軍大臣と内務大臣を兼任しました。
昭和16年12月8日、日米が開戦し、その翌年の昭和17年9月、外務大臣を兼任、昭和18年、文部大臣、商工大臣・軍需大臣を兼任しました。権力は握ったものの思うように官僚組織が動かないので兼任すれば何とかなると思ったのでしょう。
更に昭和19年2月には、遂に「軍令機関」である「陸軍参謀総長」も兼任し、ここに、責任者だけは「軍令」「軍政」が一元化したことになりました。
皮肉なことに、軍事官僚としてのし上がってきた東條も遂に「縦割りタコツボ」の官僚組織、それも自分の出身母体である軍事官僚組織を最後まで掌握することはできませんでした。陸軍と海軍の統帥の統合も遂に出来ませんでした。つまり、陸軍と海軍は、最後まで別々の戦争をしていたんです。
この「官僚組織」と「統帥権」の問題は、同じ敗戦国でも、ドイツやイタリアと違い、他の国々とも全く違うところから、戦時中を知らない若い人に説明のしにくい、厄介な問題であります。
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12.「鬼胎」の時代

当時の統帥部である「陸軍参謀本部」に所属する人たちは超エリートでした。
幼年学校を出て士官学校を出て陸軍大学校を出て純粋培養されたエリート達です。
全国から選りすぐった頭の良いエリートが、憲法自体を否定し、自分たちが信奉する天皇さえ否定するようなことが書いてある『統帥参考』を読んで、変だと思わなかったのでしょうか?
私はそれを不思議に思います。やはり、教育の恐ろしさでしょうか?

司馬遼太郎はこれを「鬼胎」、鬼っ子と書いています。
こういう存在は日本の歴史を見ても全くありません。
平安や奈良時代までさかのぼっても、こんな風に個人ではなく組織として「秘密結社」のようなものを作り、それも国の中に国を作るような形を作り、しかも、テロやクーデターなど暴力を使って国を動かすというようなことはなかったのです。
この純粋培養されたエリート官僚というのが「曲者」です。敗戦後も、東大法学部を出たエリート官僚たちが、相変わらず日本を実質的に統治し壟断(利益や権利を独り占めにすること)しています。
この『統帥参考』は秘密にされ、しかも戦後はないことになっていたのですが、昭和37年に復刻され、更に昭和57年になって田中書房というところがまた復刻して出版しました。ところが肝心の天皇より上であるというあたりが、全部削除してあるのです。軍事官僚の残党の誰かが気付いたのでしょうね。
ということは、彼らは「ヤバイことをしていた」という自覚があるのです。
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13.「逆賊」だった「軍事官僚」

明治憲法下では、天皇は直接行動をしませんでした。
敗戦のときの詔勅と二二六事件の時が数少ない天皇の直接的な動きと言われていますが、それ以外は天皇は個人的な考えで、何かをやれとか、やめろとか言わないというのが明治憲法下での考えでした。
ところがどうとち狂ったか、軍事官僚たちは天皇の万能権限を「俺たちが代行している」だから俺たちも天皇と同じように万能だ。なおかつ「輔弼の範囲外に独立す」とありますから、俺たちは独立しており、天皇より上だと言っているわけです。
恐ろしい話ですね。

こうしてみると「秘密文書」を回し読みしていた「陸軍参謀本部」と「陸軍大学校」は、まさに天皇に対する反逆を図った秘密結社、そのものではありませんか!
明治憲法を無視して、秘密結社をつくったのですから、彼ら軍事官僚の行為こそ「治安維持法違反」(国体変革を目的として結社を組織したるもの)に当たるはずです。
戦後それを追求されないために全部を焼き、また戦後復刻された後も、危ない部分を削除して2度目の復刻版を出版して後世に追求されないよう防衛策をこうじたのでしょう。いかにも官僚のやりそうな小細工です。バレなければ何をやっても良いと彼らは思っているのです。
このような行動をみる限り、彼らが戦時中叫んでいた「大義」なんてものはどこにもなく、ただ自分たちの利益を図っただけだったことがはっきりわかります。
本当に「大義」のためにやったことなら堂々とオープンにやればよいのに、こそこそとやるところが官僚の本質を表しています。
皆さんは、多分そういう話をお聞きになったのは初めてかもしれませんが、私はありもしないことを言っているわけではありません。
ただ、巧妙に隠されてきただけで、今は、情報はいろいろとありますから、何を調べてもこの通りなのです。
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14.軍事官僚、検察官僚、内務官僚に壟断された昭和

皆さんのお手元に年表をお配りしました。これは保坂正康さんの「若い人に語る戦争と日本人」(ちくまプリマー新書)から頂いたものですが、昭和3年に「張作霖爆殺事件」とあります。
これは河本大作と言う関東軍の陸軍大佐が仕組んだと言われ、本人も認めていました。
田中義一首相は天皇に「軍法会議を開き厳罰にする」と言いますが、閣議で賛成を得られず、再び天皇に会い「うやむやにしたい」と言うと、天皇が「前の話と違う。辞表を出したらどうだ」といわれ田中内閣は総辞職します。この辺から軍の怪しい動きが始まるのです。
その前の大正14年には「普通選挙法」と同時に、悪名高き「治安維持法」が公布され言論統制や政治活動が一層厳重に規制され、また厳罰化が進みました。
この頃から、検察官僚、内務官僚が軍事官僚とならんで、一層の猛威を振るい始めたのです。
これも悪名高き「特高」は「特別高等警察」の略で、内務省警保局に属す政治警察で、政治犯、思想犯を取り締まりました。
『蟹工船』の小林多喜二の虐殺も「治安維持法」と「特高」によるものでした。

そして昭和6年柳条湖事件による満州事変が起こります。
これも関東軍によるフレームアップですね。これをきっかけに関東軍が中国東北部へ侵略をしました。
文部省は「進出」したと言いたいのでしょうが、まさに「侵略」をして満州国を作りました。昭和7年、満州国建国。同じ年に五一五事件が起きます。
それから昭和11年に「二二六事件」が起き、昭和12年「盧溝橋の一発」と言われる事件から「日中戦争」が始まります。
政府の不拡大方針にもかかわらず、関東軍は中央の言うことを聞かずに軍を進め、12月には南京が陥落します。
例の南京大虐殺があった、なかったと色々言われていますが、まあ、無かったはずはないのです。中国側は30万人と言っているが、そんなに殺していないという人がいます。
じゃー何人だと言うと4万人だと言うのです。
4万人でも大虐殺ですよね。30万人ではなくもっと少ないから「大虐殺はなかった」不思議な論理です。
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15.官僚の卑劣な手口は今も続いている

最近、同じような話がありました。「沖縄での民間人集団自決は軍の強制によるものなのか、そうではなかったか」ということで、11万人が抗議集会を行ったと言われているのですが、ところが「あれは4万人だった」という人がいるのです。
4万人だって大変な抗議行動だと思うのですが、なぜかそういうことを過小評価したいというか、なるべく問題にしないようにしたいという人たちが今もいるのです。
彼等は密かに文部省に力を及ぼして、教科書のその項を削除させたり、卑劣な手を使って密かに書き直おさせたりしていました。
それに沖縄県民が怒って立ち上がったのです。
これは官僚の卑劣な常とうの手口なんです。

私はNHKを定年退職した後、平成5年から10年まで国会で仕事をしました。
平成5年に細川護熙さんが日本新党を立ち上げて、細川さんは同じ大学の後輩だったということもあって応援していました。
その後、日本新党から当選した参議院議員の小島慶三さんという方に「暇だったら手伝ってくれない?」なんて言われて、秘書になり、よく話題になる「政策担当秘書」になったのです。
それで永田町で5年仕事をして、色々と体験し、永田町と霞が関の関係など、これまで判らなかった多くのことを知ることが出来ました。

かつて菅直人厚生大臣の時、厚生省OBが薬品会社に天下りするのはよくないというので、菅厚生大臣が「天下りは、もうさせない」というコメントを記者会見で発表したのです。
その時、記者が配られたペーパーを見て「大臣、ここに当分の間天下りはしないと書いてありますが、当分の間ってどのくらいですか?」って聞いたそうです。
すると管さんは「えっ、当分の間なんて俺は言っていないぞ。誰が入れたのだ」とカンカンになって怒ったそうです。後で調べたら総務課長がこっそり入れていたのでした。
そういうことを官僚は平気でやるんです。よく官僚にも「良い人」もいるし「悪い人」もいるなんていう人がいますが、官僚はシステムですから個人の問題ではなく、組織の利益のために活動しているので、個人を問題にしても何の意味もありません。
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16.近現代史は教えない

また、今から4年前の8月14日。戦後60年でした。
その夜、NHKが終戦記念特集を組みました。色々な人を呼んで戦争について話し合ったのです。
中国や韓国、インドネシアなど海外からの方も参加していました。
日本の若い人も年寄りも、元軍人も色々の人が80人ほど出ていました。
そこに町村信孝外務大臣(当時)が来ました。数年前までは文部大臣だった人です。
そこでいろいろな話をしているうちに「どうも日本の若者は日本の近現代史を知らない」という話になりました。
その時、町村は「日本の学校では先生がイデオロギー的に偏向しているから、近現代史は教えない」とはっきり言ったのです。
元文部大臣が言うのですから間違いないです。教えないように仕向けて来たんですね。
教えられては官僚組織の旧悪が暴露するので困るのでしょうね。
それで、日本の若者は文部省によって「自国の歴史」を奪われてきたのです。
とにかく自国の歴史を教えない「国」があるでしょうか?
独裁国家ならいざ知らず、一応「民主主義国家」と言っているのに、日本を壟断している卑劣な「官僚組織」によって、日本国民は自国の歴史を奪われているのです。

戦時中猛威を振るった「軍事官僚」「検察官僚」「内務官僚」は今も生きています。
「軍事官僚」は一応解体されましたが、「検察官僚」はそのまま残り、「内務官僚」は「自治省」「警察庁」「厚生省」「労働省」「建設省」などに分割されて生き残りました。隙を見ては昔の栄華をもう一度と思っているのでしょう。
年代は変わってもDNAは、ちゃんと残っているのです。「軍事官僚」は戦後処理のため「厚生省」の「援護局」に巣くい、引き揚げ業務などを行っていましたが、軍人年金のお手盛りとか、A級戦犯を秘密裏に靖国神社に合祀など、裏へまわって、こそこそと悪事を行ってきました。
また「防衛省」にもDNAは受けつがれているようで、例の「田母神論文」などが出てきたのは、その証拠です。国民としては「油断も隙もならない」のです。
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17.戦後間もなく発行された『敗戦真相記』

先ほど陸軍と海軍が別々に戦っていたという話をしましたが、実業家、政治家で戦時中から衆議院議員をしていた永野護さん(有名な永野兄弟の1人で、戦後は参議院議員、岸内閣の運輸大臣)が戦後間もなく広島で講演した時の速記録をもとにした『敗戦真相記』という本があります。
「なぜ我々は破れたのか」という話です。これを読みますと、永野さんは「陸軍と海軍は別々の戦争をしていた」「科学的なことを重要視しなかった」「官僚的な運営による悪弊が原因」と言っています。当時から気が付いていた人がいたんです。

官僚の悪弊、すなわち官僚の三大欠点とは「縦割りタコつぼ」「形式主義」「前例主義」です。形式が整っていれば、例え現実に合わなくてもよい。前例のないことはしない。
例えば、特攻隊の出撃命令が、何日の何時何分出撃と決まると、目標の近くの天候が悪くても形式が整っているからと出撃させる。悪天候で目標に達しなくても、途中で墜落してしまって構わないのです
。全く犬死でも、形式的には「名誉の戦死」として終わりです。
攻撃の効果があったか無かったかなんていうのは関係ないんですね。これでは、戦争に勝てるわけがありません。

永野さんはこんな例も書いています。
「軍の動員計画なんかも実に非科学的なもので、その技術者がいなければ工場がいっぺんに止まるというような重要な者を引っ張って行って、馬を洗わせたりする。もっとひどいのは工場から熟練工を召集したためにその工場の能率が落ちると、応援に兵隊を派遣する。熟練工が新兵になって壕掘りをしているのに、壕ほりのうまい古参兵は工場に応援に来て粗悪品を作っている。
こういう例をあげれば数限りありませんが、これが日本が負けた見えざる原因だと言える」と書いています。
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18. 日本国民に戦争を忘れさせたいのである

戦災者慰霊塔建立陳情への東京都長官官房渉外部長磯村英一名での通達 先ほど、文部省が「近現代史を教えない」という話をしましたが、戦争の記憶を消そうという力が、戦後づっと働いているのです。
皆さまにお配りした、この文書のコピーは、昭和22年2月24日に東京都長官官房渉外部長磯村英一名での通達です。
敗戦から2年後のことで、米軍の占領中です。
この少し前から「戦災者慰霊塔」の建設をやろうという動きが東京で始まりました。
とに角、3月10日の東京大空襲では、東京の下町の、台東区、墨田区、江東区、江戸川区、などが火の海となり、12万人以上が焼き殺されたのです。
ですから、「慰霊碑建立」は当然のことでした。計画は、隅田公園の言問橋のたもとに、高さ約10m、敷地が160uのものを作りたいというものでした。戦災者救済会と言う組織が出来ていて、そこが計画したんですね。
昭和22年といいますとまだ東京中が焼け野原でした。まだまだいたるところに焼け跡があって、人々はそこに焼けトタンを組み合わせたような家に住んでいました。
そこで、東京都は占領軍にお伺いをたてた。その回答がこの文書なんです。
東京都は「戦災者慰霊塔を建立する具体案があり渉外部に問い合わせがあったので、占領軍にお伺いを立てた。
すると以下のような返事が来たからそれを伝えます。徹底的に守りなさい。」という前書きがあります。
そして、「司令部の指導方針には2つあります。
1.日本国民に戦争を忘れさせたいのである。
2.戦災者慰霊塔を見て再び戦争を思い出させることがあってはならない。だから慰霊塔の建立は許可しない。」

この方針は、今も守られているのです。いまだに東京都も厚生労働省もアメリカ軍の手先となっています。
これは昭和22年、今から62年前のことです。それがいまだに生きているのです。
これは占領軍だけでなく日本の「官僚システム」にとっても「日本国民に戦争を忘れさせたい」のです。
アメリカと日本の官僚システムは一体となって「日本人から戦争の記憶」を消そうとしています。
ですから、私は何としても「戦争体験」を語り継つぎたいのです。
日本国民は戦争の記憶を絶対に忘れてはならないし、官僚どもの悪業も決して忘れてはなりません。
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19.官僚システムというもの

先ほど軍事官僚がシステムとして戦争を起こしたという話をしましたが、実は、検察官僚、内務官僚も車の両輪なのです。
内務官僚は戦後生き延びました。自治省、警察省、厚生労働省、建設省の一部に分割されましたが、以前のDNAは生きています。
怒りに燃えて語る磯浦講師 金子仁洋さんという元警察官僚の方がお書きになった『政官攻防史』という新書版の本があります。
もし機会があったらお読み頂きたいのですが、明治以来、国政は官僚と政治家の戦いだった。明治の元勲がいた時はいちおう国の体栽は整っていたのです。
日清日露の戦争はちゃんと総理大臣がいて、その下で軍は戦争をやったのです。
戦争は外交の一手段でした。
ところが昭和の軍事官僚の時代になると、戦うこと戦争すること自体が目的になったのです。そして、一億玉砕を叫んだのです。
一億玉砕とは何か、それは日本民族滅亡ということでしょう?
彼等は日本民族滅亡をたくらんだ「極悪人」「国賊」です。
それがバレないように秘密にしていたのです。それには検察官僚、内務官僚も噛んでいたのです。
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20.「鬼太郎の見た玉砕」〜官僚システムの戦争とは?〜

官僚の特徴は3つあると言いました。
「縦割りタコつぼ」で横の連絡なし。
それから「形式主義」そして「前例主義」です。
この官僚主義を嫌と言うほど感じさせたDVDがあります。
以前、NHK特集でやったドラマですが、パソコンで再生出来ないようですから話でご紹介します。
このDVDは「鬼太郎の見た玉砕」という題名で、漫画家の「水木しげるの戦争」という副題がついています。水木さんは、ラバウルのある島、ブーゲンビル島に行ったのです。

話しはこうです。島にアメリカ軍が上陸してきて密林の中で戦いますが、島の半分くらい占領されてしまいます。
そこで、ある部隊の血気にはやる若い大隊長が「よし、これから玉砕突撃だ」と言うのです。それはラバウルの司令部に報告されます。
司令部は「よく言った!頑張ってやれ!」と言うのです。そして、司令部は東京の参謀本部に報告します。
それで、水木しげるの部隊は「玉砕突撃」をかけるのです。
ワーと攻めていくと米軍に横から攻撃されて部隊は分断され、ばらばらになります。
しかも突撃した正面には敵がいません。
部隊はちりぢりになって進むうち、大隊長は戦死しましたが、何十人かは死にきれず海岸まで来てしまいます。「玉砕突撃」は失敗に終わったのです。2人の小隊長と部下数十人が生き残りました。

そのことを知ったラバウルの司令官は「すでに大本営に「玉砕」と報告したのに生き残りがいるとは、何たることだ!」と怒ります。
司令官は部下の参謀に「統帥のすべてを君に預ける。あの部隊の始末をつけてこい」と命令するのです。
生き残った兵隊の中に軍医がいました。その軍医は、司令部を訪ねます。
司令官に会い「生き残ったのは申し訳ないが、もう一回突撃をやり直させて欲しい」と陳情しようとするのです。
司令部に着いて司令官に会いたいというのですが、参謀が出て来て「なんの用だ!」と咎めます。
司令官に会いたいと言うのですが「その必要はない。何の用だ!」と問い詰めます。
「戦況説明です」
「戦況説明は分かっている。何を説明するんだ」と参謀に言われ「生きている兵隊はまた突撃すればいいんだし・・・。」と言いかけますが「うるさい!」と参謀は一喝します。
軍医は「あなたたちは、やたらに人の命を粗末にする」と抗議するのですが、「きさま日本人か!非国民!」と怒鳴ります。
それでしかたなく軍医は後ろを向いて帰ろうとするのですが「どこにいくんだ!」と言われ振り向いた途端、参謀の手のピストルが「バーン」。軍医はあっさり殺されてしまいます。

次のシーンは生き残った兵隊のいる海岸。そこに白布で包まれた軍医の遺骨を持った参謀が来ます。
みんなが「軍医は処刑されたんですか?」と聞くと「いや自決した」と言うのです。
そして「きさま等、どういうつもりなんだ!」と怒鳴ります。
生き残りの兵隊たちの中に、小隊長が2人ました。中尉と小尉でしたか・・・。
小隊長は「兵たちを、まずい立場に落とした責任をとって自決します」と言うのです。
参謀はほっとして「そうか。よくわかった。自決しろ!」
そこで2人は海岸に行って並んで座ります。ピストルをそばに置いて何か話をしているのです。
参謀がやって来るのです。 「まだか!何やってるんだ!」と怒鳴ります。
2人は立ち上がって「参謀殿。自分たちがここで死んだことは遺族にはどのように知らされるのでしょうか。戦死と伝えられるでしょうか?」と聞きます。
参謀が「戦死と伝えられるであろう」と言います。
二人はうなずき、また座り込んで「バーン」。
海岸に2人の遺体が転がります。参謀はほっとした表情で司令部に帰ります。

DVDが見られれば、参謀が「統帥権」という「魔法の杖」で3人の自国軍兵士を殺すシーンを是非見て頂きたかったのです。
自分たちの体面を守り、形式が整っていれば、兵隊の命なんて関係ないのです。
玉砕したと参謀本部に報告したのだから、生き残った兵隊がいることが判ると、自分たちの面子がつぶれるわけです。ですから、自国軍の兵であろうと平気で殺すのです。

このようなことは、昭和14年の「ノモンハン事変」の時にすでに行われていました。
司令官や参謀の戦略や作戦の失敗は棚に上げて、現地で戦った大隊長を形式的な「軍法会議」にかけて、ピストル自殺を強制したのです。
そして負け戦のことは秘密にしました。
そういいことが判ったのも戦後もしばらくたってからです。都合の悪いことは、全部「軍事機密」ということにして、国民の目から隠していたのです。

その後、水木しげるさんは、戦後、片腕は失いましたが、何とかうまく帰ってきました。
だから、私たちは知ることができました。こういう例は他にも沢山あったと思います。
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21.誰も責任をとらないシステム!

官僚組織の暴挙によって、310万人が無駄に死んでいるのです。
日中戦争から大東亜戦争まで、約700万人が戦地に動員されました。
そして軍人の戦死者250万人、民間人死者60万人ということになっています。アジアでは2000万人が犠牲になりました。

負け戦になって本土が猛爆を受け、東京を始め全国の都市が焼け野原になっても「軍事官僚」は戦争を止めようとしませんでした。
兎に角「一億玉砕」とヒステリックに叫んでいました。私は中学1年生でしたから、当時の異様な雰囲気をはっきり覚えています。
後で判ったわけですが、外務省関係者など和平工作をしようとした吉田茂などは、憲兵隊に引っ張られて牢屋にぶち込まれました。
結局、軍事官僚は、戦争を終結する「知恵」も「判断力」も「勇気」も持っていなかったのです。

お断りしておきたいのは、私が「軍人」とか「軍事官僚」と言っているのは、「統帥部」で「魔法の書」を読んでいた人たちのことを言っています。
「赤紙」と言われる召集令状1枚で召集され、戦地で戦った将兵のことではありません。それを間違えないで頂きたい。

「軍事官僚」は職業軍人ですが、召集された将兵はいろいろの職業を持つ普通の市民です。いわば「将棋の駒」に過ぎません。
しかし「軍事官僚」は、将棋の「差し手」だったわけで、戦争を企画し命令し実施した張本人です。
それは、あの時代の「陸軍大学校」卒業生のうち、参謀本部などで枢要の地位にいた、せいぜい数十人程度が「魔法使い」の親玉だったのです。
本来、天皇が持っている「統帥」を彼らが「簒奪」した以上、彼らに責任をとる義務があるはずです。
しかし、誰も責任をとっていません。
そうですね『統帥参考に』「参謀総長と軍令部長は、憲法上の責任はない」と自分で決めていたんでした。
しかも秘密にして、全部隠して、なかったことにした
これが、彼らの「論理」なんでしょう。要するに「バレなきゃ何をしてもいい」ってことです。

私は子どもの頃「天知る、地知る、吾知る」と習いました。中国の古書『十八史略』に出てくることばです。
いつまでも隠し続けることはできません。
しかも百万人単位で人が死んでいるのに誰も責任をとっていないのです。64年たった、今も、です。
そして去年の田母神論文です。
皆さんお読みになりましたか? 今になって、あの戦争は「正義の戦いだった」などと言っているのです。
あれは「いい戦争」だったからまたやりたい。それを5万人のトップの航空幕僚長ですよ。恐ろしいことです。
戦争中、私たちが偉い人たちから言われたのは「恥を知れ」「無責任なことはするな」ということです。
今、その言葉を、当時の指導者たちと「官僚組織」にそっくりそのままお返しします。

今日はこの辺で止めたいと思います。ご静聴有難うございました。(拍手)




文責:臼井良雄
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:臼井良雄


本文はここまでです



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