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平成21年8月21日 神田雑学大学定例講座No.469


橘耕斎と新島襄


目次

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メニューの先頭です 1.はじめに
2.橘耕斉、 密出国しロシア外務省に勤めた男
3.多くの人に支えられ超高速回転で生きた男
4.新島襄、密出国を助けた人たち 新島襄の支援者
5.質疑応答



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1.はじめに

中村孝講師 6回シリーズの今日は5回目です。
前回は日本に密入国した男マクドナルドを取り上げました。長崎の牢屋で当時のオランダ語通詞たちが、彼から生きた英語を学んだ。そういうチャンスがあった人、無かった人がいたという話を前回致しました。
今回は日本を密出国した人として、同志社大学を創った新島襄をとりあげます。それともうひとりあまり有名ではありませんがロシアに密航した橘耕斎をとりあげます。
新島襄につきましては沢山の本もありますし、私は研究者でも何でもありませんから、ただ野次馬的に関心のある点をお話しするということになります。
    
最初におさらい方々新島襄はどういう航路で航海したかをさらってみたいと思います。
時代的には1864年、箱館を密出国し上海につきます。上海で次の船に乗り換え香港、次にマニラ、サイゴン、スマトラなどに寄り云々、その後はインド洋、南アフリカ最南端を通り、セントヘレナ島沖を通過、最終的には1年近くをかけて北米東海岸のボストンに着くわけです。
新島襄の密出国と帰国のルート
以後10年近くを外国で暮らし、帰りはニューヨークに出て、当時開通していた大陸横断鉄道でサンフランシスコまで移動、そのあと船で約1か月かけ1874年(明治7年)11月末に横浜に着いています。

奇しくもこの同じ明治7年、ロシアから戻ってきた男がいます。この人物も密出国者です。名前を橘耕斉といいます。今日は前半この橘耕斉、後半で新島襄について話します。
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2.橘耕斉、 密出国しロシア外務省に勤めた男

ディアナ号遭難の背景 左のスライドをご覧ください。
時代背景は米のペリーが来航時の頃の話で、1850年代です。ペリーの後を追いかけるようにロシアの使節団も来たわけです。
プチャーチンという堤督が引き連れてきました。下田において日本とロシアの国境問題とか諸々の案件が幕府との間で討議されました。
その最中に大地震と津波に見舞われるのです。これが1854年のことです。
ディアナ号という船で来たのですが船員を含め約500人のロシア使節団員が船の大破で下田に上陸。大変な騒ぎになりました。
日本側の交渉窓口は川路 聖謨だったのですが、この500人をどうするかという問題が急浮上します。結論から言えば500人を分けて移送するしかないということになりました。

当時すでに日米和親条約が結ばれていましたので、それに基づき早速、米の商船が日本に来ています。
以下私の推測ですが、日本との商売を開始したのは良いが、なにしろ時間がかかって仕方がない。だから交渉期間中、船を遊ばせておくよりはお金をもらってロシア人を運搬する方が効率的ということがあったと思います。
ということで米の商船が第一船となりロシア人150人強が移送されます。
第二船は日本での新造船「戸田号」です。日本の船大工がロシア人と協力して建造したのですが、だいたい3か月くらいで作ってしまったようです。この船は小型でしたから50人程度しか乗れず、これが第二船。
あと280人位が残っていますね。そこにたまたまプロシャの商船が下田に来たわけです。前回の航海秘話で通詞の堀達之助が入牢した話をしましたが、その原因になったグレタ号が正にそれです。そしてこのプロシャ船と交渉が始まり、金銭的にも了解して第三船が出るわけです。
橘耕斎と密航
今日の前半の主人公の橘耕斎はこの第三船のプロシャ船に樽詰になって密航したのです。
ところがこの時代はナイチンゲールで有名なクリミヤ戦争がロシアとトルコ間で行われていた真最中です。トルコ側に英仏が加担し、ロシアに宣戦布告しています。それで橘耕斎が乗った船はカムチャッカ半島に向け出港しますが、オホーツク海で英軍艦に拿捕される。乗っていたロシア人と一緒に橘耕斎も英の捕虜になってしまうのです。
彼等は英軍艦に移乗させられ、箱館、長崎、香港に寄り最終的にはロンドンへ行きます。その間、橘耕斎はずっと捕虜として、彼の密出国を助けたロシア人ゴシケビッチとともに過ごします。

このゴシケビッチは後に初代箱館のロシア領事になる人ですが、当時はロシア使節団の中国語通訳でした。彼は9か月の捕虜生活の中で橘耕斎を100%利用し日本語とロシア語の辞書を作った人です。ロンドンで捕えられていた期間が長かったわけですから、その間橘耕斎と単語数にして15000語の辞書をまとめあげています。

橘耕斎の肖像これが橘耕斎の晩年の顔です。18、9年ロシアにいた訳ですから、相当長期です。ロシア外務省のアジア局に勤務していたそうです。
この間彼はロシア訪問の日本人に色々会っています。
例えば初代文部大臣になった薩摩の密航留学生・森有礼はロシアにも行っているのですが、その時にこの橘耕斎に会っています。幕末には幕府は留学生を色々出しており、ロシアにも5、6人出していますが、その留学生も彼に会っています。それから岩倉使節団。またロシア駐在の榎本武揚とは一緒に仕事をしています。

橘耕斎というのは一体どういう人だったのでしょう。
作家の川端康成さんが昭和4年に短い文章ですが橘耕斎ということで書いています。
そこには、岩倉使節団が派遣された結果、米で新島襄を、ロシアで橘耕斎を掘り出したというようなことをお書きになっています。
最近では橘耕斎を主人公にした小説が出ています。山上藤吾著『白雲の彼方へ:異聞・橘耕斎』光文社です。お手元の資料の裏面をご覧ください。彼の資料は少ないので確かなことは不明ですが、出国理由は2説あるかと思います。

一つは宗教的な理由です。これはロシア使節団の方の手記の中に書かれていることですが、それによればある日、一人の日本人が自分たちの船に小舟で寄って来て、しきりに自分の十字架を指差した。彼は朝鮮でロシア正教に改宗し、日本ではそれを隠してきた。しかしなんらかの事情でそれが発覚。もう日本には居られない。そこで致し方なく、これは可哀そうだといって船に乗せたという説です。

2つめは、彼自身が語っている話です。掛川藩士だった彼はある事件に巻き込まれ人を殺す羽目になり脱藩、渡世人の生活に入りやくざの親分もやった。その後諸国をまわり仏門に入り、下田の蓮華寺という日蓮宗のお寺にたどりついたということで、その時に大地震が起こった訳です。蓮華寺に見習い坊主「順知」という名前でいたということは事実です。
この順知なる坊主が何らかの伝手でロシア人のゴシケビッチと接触するようになったのです。

ゴシケビッチは中国語の通訳ですから、漢字にも明るく、多分ゴシケビッチがお金を渡して色々な書物を順知に頼んで買わせていたのではないかということです。
下田の岡っ引きもそれに気づき、乗り込んで行ったようです。当時の韮山の代官江川太郎左衛門の古文書には「蓮華寺に順知なるものがいて、この者は6月1日をもって行方不明になっており怪しい」という様なことが書かれてあるそうです。私はゴシケビッチが手をまわして重要な日本の書物を順知を通じ手に入れていたということだと思います。

ではゴシケビッチとはどんな男だったのでしょう。彼はサンクトペテルブルグの神学校を卒業し、伝道目的で若い時に中国に4,5年派遣されています。そこで中国語を磨き、日本へのロシア使節団の一員として中国語通訳という役割で来たわけです。
野次馬的に私は捕虜収容所という非日常的な環境で辞書を編纂するゴシケビッチの精神力のタフさに感心しています。

前回のマクドナルドも牢獄の中で生きた英語を教えた。また日本人の通詞が最初に生きたロシア語を学んだのも、高田屋嘉兵衛事件の報復で捕えられたロシアのゴローニンからで牢獄の中でした。ゴローニンは2年間も牢屋にいて長崎から来たオランダ語通詞にロシア語を教えたのです。19世紀における日本人、ロシア人の外国語学習は、凄い精神力と熱意に支えられているような気がします。
このゴシケビッチは後に初代箱館領事になりますが、幕府にロシアへ留学生を派遣すべきとの提案をしています。

この辺を詳細に調べている方がいて、それによれば「この話には裏がある。ゴシケビッチは当時箱館奉行に1万4000両もの借金があった」そうです。それで日本人の留学費と自分の借金を相殺して云々という可能性が残されているそうです。
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3.多くの人に支えられ超高速回転で生きた男

新島襄は「七五三太」というのが本名でシメタと読みます。
これは4人続けて女子出産でやっと長男が生まれたので「これはシメタ」、というので名付けたという説、それからまだ注連飾りの残る季節に生まれたからシメタとしたという2説あるそうです。

新島家の墓と新島襄の書 彼は安中藩の江戸屋敷で生まれ、今の学士会館の中に生誕の碑があります。
これは千代田図書館の内田嘉吉文庫から引用していますが、左にあるのが新島家の墓だそうです。

新島家というのは当初は中島という姓だったようです。文化10年(1813年)に新島襄のひいおじいさんに当たる方が中島姓で、その方が刃傷沙汰にからんで行方をくらましてしまうのです。ということで中島家は押し込めという処分を受け、冷や飯食いになったようです。 その後で苦労したのが新島襄のおじいさんに当たる方で、このおじいさんの奥さんが「新野」という姓だったようです。専門家の研究によると「中島」の島と「新野」の新を組み合わせて新島という姓にしたのではないかということです。
新島のお父さんは安中藩で祐筆をしていて自宅で書道教室などもやっていたそうです。新島は父親の仕事は肌が合わなかったようですが、相当の教育を少年時代受けたのでしょう、達筆な書を残しています。
上の図の右側にありますのが新島直筆の書です。作家の船山馨さんが『蘆火野』という作品を残していますが、この中に新島襄が実名で出てきます。送別会の場面が出てくるのですが、そこで彼は自作の詩を吟じながら剣を抜いて舞ったそうですが、その文句がこの書の内容のようです。

新島襄葬儀風景 これは新島の葬式の場面です。内田嘉吉文庫からの引用です。彼は47歳で亡くなっていますが、私は新島47年の短い生涯は正に「超高速回転の人生」という感想をもっています。

例えば箱館に入ってから2か月以内に密航に出ています。
それから彼は明治7年に日本に帰国しますが、もう翌年に同志社英学校という学校を開校しています
。生徒8人、教師2人ということですが、帰国して短期間で目標の学校を立ち上げるわけです。

開校するに当たってはそれなりにお金が必要ですね。彼はアメリカで学校卒業時にスピーチを行いそのスピーチによって寄付金を集めているのです。実に無駄のない効率的な人生ですね。

新島襄の肖像 最初の20年間は日本で漢学もやったし蘭学もやった。なおかつ英語にも手を出しています。それで外国に密航移動して約10年間。そして戻ってきて17年で一生を終わるのです。
多分彼は海外の10年で自分のなすべきことは何かということをドーンと定めて帰国し、あとの17年はわき目もふらずその目標に邁進したのでしょう。

下が新島に大きな影響を与えた、お茶の水のニコライ堂を建てたニコライです。
新島が箱館に到着した1864年、その時にニコライ神父はもう4年ほど箱館にいました。ゴシケビッチは初代箱館領事になっていました。
ニコライ神父
ニコライはサンクトペテルブルグの神学校を卒業していますから、領事と同窓生という関係です。
新島はニコライと出会って、彼に古事記を教えるのです。
お金のなかった新島はニコライの家に住み込みという条件で教えたようです。与えられた部屋が広さ10畳敷きといいますから、まあまあの待遇かもしれません。新島は英語をロシア人から習います。
新島は自分の密出国の計画をニコライにも話します。会ってから1か月以内で話しています。ニコライも困ったのでしょう。否定的な反応をしたようです。

この時点では彼の出国先は必ずしもアメリカには絞られてはおらず、ヨーロッパへの出国も視野にあったのではという研究者もいます。
新島は箱館から上海に行き船を乗り換えます。

話は飛びますが上海という英語には動詞の意味もあるそうです。その意味は「酔っぱらわせて船の中に押し込んでしまう」というような悪い意味があるそうです。こうした英語が残っているということは、やはり上海という港の性格を表しているものと思います。
昔ですから船員の生活は過酷です。港に着くと脱走して帰らない船員が沢山いた。船の運航者としては、誰でもいいから人手が欲しい、だから誰かれ構わず酔っ払わせて船に乗せてしまう、そういうことが上海は特に多かったのではないでしょうか。
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4.新島襄、密出国を助けた人たち 新島襄の支援者

日本での新島襄の支援者たち密出国までということで3人をあげました。
ニコライはとりあえず置いておいて2番、3番の沢辺琢磨と福士卯之吉に触れます。この人たちの理解がなければ新島の密航は成功しなかったであろうと思います。
沢辺琢磨は土佐藩士です。坂本竜馬の従弟だそうです。なぜ箱館くんだりまで沢辺が来たのか?? 
彼は若いころ浅草で、友人と一緒に盗品と知らずに時計を質屋に入れたそうです。それが発端で、武士にあるまじき行為ということで問題になり江戸にいられなくなり、箱館へ逃げてきたそうです。
当時の箱館はお上の目も充分には届かずに、自由奔放に生きられる雰囲気があったのかも知れません。

沢辺琢磨は剣術の達人で、箱館で宿屋に泊っているとき盗賊が入り、それを取り押さえたことで男を挙げ、それがきっかけで神社から娘を貰ってくれと言われ奥さんが決まってしまいます。
それから彼の剣術の腕を見込んでロシア領事の方から声がかかります。領事のゴシケビッチが自分の息子に剣術を教えてくれという話に展開したそうです。それがきっかけで沢辺はロシア領事館に出入りするようになり、ニコライとも会うわけです。

彼はニコライのロシア正教はけしからんということで論戦を臨みます。何かあればたたき切ってやるという意気込みで臨むのですが、ニコライに一本取られてしまいます。
「ニコライさん参りました」ということで彼はロシア正教に改宗します。彼の奥さんは神社の人ですから、大変な家庭争議がおこったという話もありますが、いずれにせよニコライとのつながりも出来、沢辺はニコライを大変尊敬するようになります。

3番目の福士卯之吉は船山馨の小説によれば、親父さんが造船の大家で、日本で初めて洋式の船を作った方だったそうです。
卯之吉は二男で回船業の家に養子に出されて、福士という姓を名のります。
彼は箱館のアメリカ領事館で英語を習い、新島が来た時は何不自由なく英語を話していたそうです。彼は英の商館勤務です。当時の箱館は人口が1万2000人くらいですから、こういう人たちの情報は知れ渡っていて、新島も沢辺経由で容易に卯之吉と知り合い、友人になり、密航の計画を話すわけです。

ただ私が不可解に思うのは、ニコライにも卯之吉にも新島は知りあって1か月か2ヶ月で秘密を打ち明けている点です。
最悪処刑されるかもしれないのに、何故簡単に自分の計画を漏らす気になったのか?? 
多分、新島はこれはという人物に目星をつけたら誠心誠意、己を曝け出し、そうすることによって相手も自然に新島の魅力に引き込まれて行った、ということでしょうか。福士卯之吉は密航の手伝いのOKを出します。
これには箱館の独自の雰囲気もおおいに作用した、と考える方が良いのかも知れません。
当時の箱館は皆が皆、外に出たがっているような独特の開放性があったとも書かれています。「外国に行きたい奴がまた来た」くらいに受け取られていたのかもしれません。

千代田図書館での講座風景

野次馬の関心としては、「新島の密出国の決心は一体いつか」、というのがあります。
彼は品川の港を出て一か月半程かけて箱館に着くのですが、品川を出る際、安中藩からは1年間の箱館遊学ということで15両を出してもらい、友人は送別会もし餞別10両を出しています。
ですからその時点では内心はともかく、目的は箱館の五稜郭の設計で高名な武田斐三郎の塾へ行くということで出発したのです。

彼は箱館着後すぐ古い友人を2人訪ねます。ところが2人とも不在。一人は江戸へ帰った。もう一人は英国へどうも行ったらしいとの情報を得ます。
そのあとで彼は武田塾に足を運びます。ところがそこでも塾長は江戸に行って不在。
そうした箱館情報を分析し、更には沢辺、福士卯之吉などとの理解者に巡り会った結果、彼の密出国の決心は急速に固まったのではないかと私は推測しています。
ただ先ほど話しましたひいおじいさんが出奔しているように「新島家には行方不明になる血がそもそも流れていたのかも」という感じも私は持っています。

更なる野次馬の関心は「その後新島家はどうなったか」という点です。遊学先から突如行方不明、公金横領云々、大事件です。
ただこの点に触れている著者は私の知る限り1人で、「両親は息子の脱国後、安中へ引きこもりひたすら息子の帰国をまちわびていた」と表現されています。

岩倉使節団との出会い 新島の後半生を考える上で大きな転換点は岩倉使節団との出会いでしょう。
次回とりあげる薩摩の森有礼が岩倉使節団の来る前年、1871年に日本の外務員ということで米にいます。
その時点で森と新島は接触します。森は「あなたは正規の明治政府の留学生として扱われなくては後々困りますよ」ということを話し、新島も納得して、正規留学生という書類を作ってもらい、正規の日本人としてのパスポートも出してもらっています。

そして翌年、岩倉使節の訪米。そのとき副団長を務めていた木戸孝允との出会いが新島には大変強烈だったと推測します。
司馬遼太郎さんによると「木戸孝允の本質は書生である。 木戸の政治思想には哲学がある」と書いています。
木戸が嫌悪したのは軍事に従事する者が国家の方針を決めることで、西郷隆盛が陸軍大将でありながら参議職を兼務したことに大不満。木戸は終世西郷を嫌っていたそうです。
いずれにせよ、木戸と新島の波長はぴったり合った、と思います。
新島は木戸に会った感想を正に旧友に会ったようだと書き残しています。帰国後、学校を開設するにあたっても、まず木戸を訪ね相談しています。

田中不二麿は文部省関係の役人で、彼の役目は欧米の教育制度の実態調査です。
田中は言葉の関係もあり、新島が調査員として加わってくれれば一番ということで、新島を説得し教育制度調査に一緒に出ます。
ヨーロッパへも主要国は皆訪問し、米を含め合計8カ国、時間にして1年数カ月調査しています。しかし実際問題、新島はヨーロッパで身体をこわし半年くらい現地でリューマチの療養をしています
。その療養生活に入る前に、教育制度に関する報告書を、資料の翻訳を含め、ベルリンで三ヶ月間で書き上げたそうです。この調査結果がその後の日本の文部政策の基本になったそうです。

新島はヨーロッパでリューマチの治療を終えアメリカに帰ります。
そして神学校に復帰し明治7年に卒業するわけです。

スピーチによる寄付募集 神学校の恒例で卒業生は全員ではないのでしょうが、スピーチをするのだそうです。ここで彼は大変なスピーチをします。
「これから自分は日本に帰るのだが、日本に足りないのはキリスト教主義に基づいた学門の場で、そういう学校を帰ったら設立したい。アメリカに比べると今の日本はひ弱い妹みたいなものだ。この妹をぜひ助けて欲しい。ついては皆さんに寄付をお願いしたい。寄付金が集まるまでは私はこの壇上から退かない」というスピーチをしたのだそうです。
その時の聴衆の数が3000人と言われていますが、皆あっけにとられ一瞬シーンとなったと言われています。そしてやおら一人が立って「俺は1000ドル出す」と手を挙げたそうです。大変な高額です。引き続き我も我もと寄付を申し出たと伝えられています。

しかし別の説もあります。
それはこれには事前にちゃんとした打ち合わせがあったのだというものです。
彼を助けた外国人として船長Savory、米人船主Hardyが有名ですが、この時はこのHardyさんに助けられます。
Hardyさんはそもそも宣教師志望だったそうですが病弱でそれを断念せざるを得なかった。それで方向転換してビジネスの世界に入り、ボストン地域では大変富裕になった人です。そういう人がこの神学校の理事も務めていたわけです。
このHardyさんの勧めで新島はこの神学校に入るのですが、スピーチに関してもあらかじめHardyさんに相談していたそうです。
「自分はこういうスピーチをしようと思うがどうかと」。それに対しHardyさんは「そんなことは今まで誰もやったことがない。それはやめた方が良い」と最初は言ったそうです。
しかし新島があまりにも固執するのでそれならば他の理事に自分からも話をしてみようということになったようです。
それでHardyさんの根回しが功を奏し、スピーチが終わるちょっと前に1000ドルの声がかかったそうです。その研究者によれば、それは心理的に非常に大きな効果を上げたとお書きになっています。
合計約5000ドルが集まったということですが、いったい誰が出したかというのを詳細に検証していますが、そのほとんどは理事の方だったそうです。ということはやはりHardyさんの根回しが効いたということでしょう。

しかしスピーチが終了し寄付金が集まった時点で、一人の老人が駆け寄って一ドルか二ドルを彼に手渡したそうです。老人いわく、「あなたのスピーチに感銘しました」。これは根回し外で、米のキリスト教精神の根を張った素晴らしさを教えられる話です。

講演中の中村孝講師 学校そのものの中身については意見が対立したそうです。
米側のイメージする学校は単なる宣教師の養成校でした。ですからそこで学ぶ科目はバイブルであり神学というイメージだったそうです。
一方新島は「とんでもない。そういうことでは日本人はついてきませんよ。要はキリスト教主義的な思想のもと政治、経済、科学、医学など全般を学ぶ大学が必要なのだ」と主張。こ
の意見の相違は帰国後も尾を引くことになります。この時の新島はすでに日本で漢学もおさめ、米で学び、ヨーロッパで教育制度を調べ、長期療養生活も経験と非常に視野が広い人間に成長していたのでしょう。
それに比べ米の神学校の関係者の視野の狭さが対照的に出ているように思います。
レベルの違う議論が行われていたと思います。
時間ですのでひとまず打ち切り、質疑応答で補足をしたいと思います。
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5.質疑応答

質問:新島襄を助けた人物として福士卯之吉、沢辺琢磨、船長のSavoryさん、船主のHardyさんが出てきましたが、どういう形で彼等は知り合ったのですか?
答え:これらのアレンジは福士卯之吉がやったようです。彼は英の商館の番頭格で各船の出入港状況には通暁していたようです。たまたまベルリン号という船が上海に行くということ、その船長も非常に信用のおける人物であるということを知り、福士はSavoryというベルリン号の船長を口説くわけです。「こういう男がいるのだが是非乗せてくれ」と。
SavoryはOKを出し、上海まで移動します。後日この件が発覚しSavoryは船長をクビになります。その後どうなったかは記録がないので分からないのですが、新島は後でそのことを聞き嘆き悲しんだということです。
上海からは米船で行くのですが、船長がテイラーさん。やはりキリスト教の方で非常に信用のおける人だったそうで、この船に乗せるのが米行きには一番とのアレンジをしたのも福士であると、船山さんの小説では書いてあります。
ただ、私が思うに福士は箱館にいて、そういう世界の船の運航計画が当時、本当に把握出来たのかと疑問に感じます。ひょっとして、上海では全くの偶然で Savoryが米船を捜し出したのでは とも思います。
また福士は箱館の出港時、大変な冒険をして新島を助けています。
夜陰にまぎれて新島を連れ小舟でベルリン号に乗せに行く時のことです。そのとき箱館奉行の役人が「おまえは誰か」と誰何するのです。
それに対し福士は動ぜず自分の身分を明かし「明日出港するベルリン号に届け物」と説明して事なきを得たと言います。
翌朝、船が出ます。ところが箱館奉行から荷物検査の手続きがあり役人が乗船。そこも新島は無事潜り抜けています。

質問:新島襄は何を勉強したのですか?
答え:彼は25歳でカレッジに入り、自然科学に大変興味をもったそうです。
卒業後、神学校に入っています。神学校時代、岩倉使節が来て一時休学しています。
また明治新政府からあなたは明治政府の正式な留学生だから留学費用を払うと言われるのですが新島は一銭も受け取っていません。
何らかの機関に束縛されることは自分の理想実現に良くないと考えNOといったようです。

質問:新島襄は初めから学校を作るという目的のために渡米したのでしょうか?
答え:そうではないと思います。
新島はヨーロッパ、アメリカの文明の土台になっているものはそもそも何か、どうもキリスト教がその土台のようであると考えていたのではないでしょうか。
欧米の文明を取り入れるためにはその土台のキリスト教精神を理解しないと新国家建設も出来ないくらいに思っていたかもしれません。そして10年間も海外にいて、やはり教育機関の充実で人を育てることの重要さに目覚めたのではないでしょうか。

本日はご清聴いただき、まことに有難うございました。


文責:中村孝・臼井良雄
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:臼井良雄


本文はここまでです


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