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2009年9月11日 神田雑学大学定例講座No472


北前船の活躍と抜け荷・時規物語、得猪外明(とくいそとあき)


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アクセント画鋲
1.北前船
2.加賀藩の事情
3.薩摩藩の事情
4.長者丸の遭難(1836年)




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1.北前船

得猪講師北前船は江戸時代、主として日本海を通って大阪から蝦夷を結ぶ物資の輸送を担った帆船で、加賀越中には、その地形上の有利さから多くの廻船問屋がありました。以前から加賀と蝦夷の関係は深く、加賀から米、塩、味噌、醤油、むしろ、縄などを運び帰りには鰊、昆布などを大量に持ち帰っていました。

北前船は大阪〜江戸を結んでいた菱垣廻船、樽廻船と似た構造ですが、17世紀幕府の鎖国令によって外国への渡航を禁止する目的で大きさは400石以下、帆柱は1本に制限され造船技術,航海術の進歩は止まってしまい、外国に大きな差をつけられていました。舟磁石によって方角はわかりましたが六分儀で自分のいる場所を測定できず沿岸を陸をみながら航行し順風が吹くまで湊で風待ちすることも多く、遭難も頻発していました。

北前船加賀・越中の北前船の乗り組みは3月ごろに徒歩で大阪に行き、つないであった船に雑貨、砂糖、木綿、銅、古着など積みこんで途中の湊々で交易しながら松前、函館まで行き、昆布、鰊、数の子などの海産物を仕入れ、途中で木材、大豆、米などを積10月頃に大阪に帰るのが普通で、冬は海が荒れるので航海は困難でした。
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2.加賀藩の事情

加賀藩は支藩の富山藩をいれると110万石の大藩ですが外様であったため対幕府政策が難しく、度重なる工事の下命や御用金の要求、参勤交代の費用などで財政は火の車で財政難にあえいでいました。加賀藩は数度にわたって将軍の息女は藩主の正室に迎えるという政略結婚を繰り返し、財政的には利潤の大きい廻船問屋から御用金を調達するという方法をとっていました。

代表的な例は天保時代に一代で財を築いた銭屋五兵衛で、江戸城西丸焼失による御用金10万両の要求を一人で負担し、代わりに加賀藩お手舟裁許を認められ大規模な抜け荷に乗り出しました。もともと加賀の商人・船乗りは蝦夷と早くから交流があり高田屋嘉平以後函館の海産物の商権をほぼ独占し、松前藩の場所(漁場)の請負人とも密接な交流がありました。

熱心に話を聴く受講生

当時、抜け荷は死罪で厳しく禁じられていましたが莫大な利益が得られるため藩としても、それを黙認し利益を還元させていました。お手舟は藩主の船のことで船印、満幕、提灯などすべて加賀藩の家紋をつけ、許可された者以外は乗船できない治外法権で渡海免許もいらないという、要するに何処へ行ってなにをやってもいいということで、この盲点をついて大胆な抜け荷をやったのです。幕府もうすうすこの仕組みに気ずいていましたが政略結婚によって姻戚関係にあるため厳しい態度をとることができず黙認していたといえます。

富山藩は加賀藩の支藩ですが、やはり財政的に苦しく江戸時代初期から営々と築き上げてきた売薬業が大きな収入源となり藩をあげて支援していました。売薬は最盛時3500人ほどの売薬人が全国に散って訪問販売を行っていましたが信用を維持するため、商品の品質維持には気をつかい原料の唐薬の確保には多大の努力を払っていました。反魂丹、六神丸など全国ブランドの薬は朝鮮人参、甘草、龍脳、麝香など、日本には産しない原料が使われ、その調達は長崎に来るオランダ船、唐船に頼っていましたが大阪道修町の薬問屋に牛耳られ、一部を危険な抜け荷に頼らざるを得ない状態にありました。

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3.薩摩藩の事情

黒板の図を説明する得猪講師薩摩藩は19世紀に入ると島津重豪の近代化政策で西欧の技術を取り入れ軍備の強化、各種工場の建設などを行ったものの、多額の出費から藩の財政が疲弊し200萬両もの負債にあえいでいました。これを立て直したのが重豪の茶坊主だった調所笑左衛門でした。笑左衛門は財政再建の責任者となり、のちに家老にまで出世しますが、彼のやったことは商人を集めて負債を200年均等、無利子で返すことを強行し、他方清の支配下にあった琉球が薩摩の支配もうけていたことから外国船との取引を行い、本州で販売しました。

当書、取扱品は禁制品を除く僅かなものに限定されていましたが、なし崩し的に拡大し大量の砂糖、唐役などを取引していました。代わりに中国向けの昆布が大量に運ばれていました。薩摩藩は鹿児島から地理不案内の蝦夷まで昆布を仕入れにいくのは大変でしたし、
蝦夷と関係が深く、唐薬を必要としていた加賀・富山藩と利害が一致したのです。薩摩藩の抜け荷は確信犯で、何度幕府から注意を受けても改めず多額の御用金を納めて継続していましたが老中阿部正弘のとき、厳しく咎められ家老の調所笑左衛門が自殺して責任をとっています。しかし、それ以後も抜け荷はやめませんでした。

島津重豪は娘篤姫を一ツ橋家に嫁がせ、のち将軍の御台所となったために岳父として権勢をほしいままにし、幕府からの干渉を妨害しました。薩摩藩は砂糖を専売制にして砂糖の増産に努め、輸入品の砂糖とあわせて莫大な利益を蓄積していきました。幕府は加賀と薩摩が大規模な抜け荷をやっていることを知りながら断固とした制裁ができなかったのは政略結婚による姻戚関係のためでした。
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4.長者丸の遭難

荒波に漂う船

長者丸は越中東岩瀬にある能登屋も持ち船で650石積みの小型の北前船です。能登屋は反魂丹薩摩組に属して琉球からもたらされる抜け荷の輸送に大きな役割を果たしていました。加賀の商人が力をもっている函館から昆布を積んで薩摩に向い、見返りに琉球からの唐薬、砂糖などを積んで帰るというものです。

乗り組みは
     
船頭    平四郎(50才)富山木町  天保10年ワホで病死
金六(47才)越後  天保10年、投身自殺
親司 八左衛門(47才)長徳寺 嘉永元、江戸で病死
方表  善右衛門(40才)四方 天保10年、船中で病死
岡使 太三郎(37才)東岩瀬    嘉永2年、病死 
追い回し 六平衛(31才)放生津    天保14年、帰国
  七左衛門(23才)放生津    天保14年、江戸で病死
  次郎吉(26才)東岩瀬    天保14年、帰国
炊  五三郎(25才)四方     天保10年、船中で病死 
  金蔵(18才)放生津    天保14年、帰国

このうち表の金六は、前任の表が函館で船を降りてしまったために臨時にやとった航海士ですが言葉が違い、遭難した責任をなじられて4ヵ月漂流の後、投身自殺します。五三郎、善右衛門は船中で餓死して7人になっていたところをアメリカの捕鯨船ゼンロッパ号に救助されます。

当時、太平洋はアメリカ捕鯨の最盛期で50隻以上の捕鯨船がアメリカ東部ボストン近くのナンタケット島から南米の先端を回って太平洋に進出しハワイを基地にしていました。アメリカが日本に目をつけたのは、これらの捕鯨船に水、食料などの補給のために開港を要求したものでした。

次郎吉と六兵衛の似顔絵救助された7人は3隻の僚船に分乗し、平四郎、次郎吉、金蔵の3人はゼンロッパ号で捕鯨に手伝いをしながら5ヵ月ほど太平洋を航海して、補給基地のハワイ(ホノルル)に入港し、ここで別れていた同僚と再会します。

ここで船長のはからいで牧師に身柄を預けられ帰国の機会を待ちますが、中国経由で長碕へ行くことを検討したものの当時アヘン戦争が勃発して危険だということで砂糖農園などで働きながら更に3ヵ月ほど待ちます。この間、平四郎が病死し、言葉を覚えるのが早かった次郎吉が一向の代表者のようになります。

サンドイッチ(ハワイ)

天保11年7月下旬、アメリカ領事のはからいでカムチャッカへ向かうイギリスの商船に便乗し2ヵ月かかってカムチャッカに着きます。カムチャッカでの取り扱いは紳士的でしたが日本に帰る手立てはみつからず、オホーツクへ移送されます。ここでロシヤ人の家の手伝いなどして更に1年ほど待ちますが、船が不足していて帰国の機会はなく当時ロシヤ領だったシトカ(現在アラスカ)に送られます。シトカはアメリカと共同で貿易会社を経営して毛皮の交易などをやっていましたが世界中の船がやってきて大変賑わった港でした。
 ここの長官は非常に親日的で帰国のために奔走し本国の許可を得てわざわざ一隻の船を準備して日本に送り届けます。

シトカ

当時、日本は厳重な鎖国令で長碕以外外国船の入港を認めていなかったので蝦夷の厚岸にこっそり上陸させようとしてカヌーの漕ぎ方まで教えたのですが厚岸があまり荒涼としているので断念して択捉に戻ります。当時択捉は松前藩の役人が駐在していましたが小林朝五郎という足軽が間違って一行を受け取ってしまったので大騒ぎとなりました。鎖国令で入港を求めてきた異国船は水、食料は与えていいものの上陸は厳禁されていました。
 
5年ぶりに日本の土を踏んだ6人は罪人扱いで江戸へ送られ、小石川春日町の大黒屋長衛門宅に幽閉されます。幕府としては人に知られたくない事情を彼らが知っていたために口封じのため軟禁したわけです。ここで老中阿部正弘のブレーンでもあった古賀謹一郎が次郎吉の記憶頼りに「蛮談」という名前で漂流記をまとめています。しかしこれは幕府にとって都合の悪いこともかいてあったので一般には知らされませんでした。

途中、七左衛門が病死し、途中一時帰国が認められますが常に役人の監視下にあって故郷でも一部の親族だけにしか会うことができませんでした。数ヵ月で再び江戸に送られますが、ここでも八左衛門が病死します

結局9年ぶりに残った4人(太三郎、六兵衛 次郎吉、金蔵)が赦免されて故郷に帰りますが加賀藩主に呼ばれてロシヤの服を着て外国の事情を報告します。藩主の命令で遠藤高mがリーダーになってプロジェクトチームを組んで漂流記をまとめたのが「時規(とけい)物語」です。一行がシトカをでるとき、長官が「これを日本の藩主に」といってたくされた時計を持ってきたことに起因します。

ロシア服の4人

「時規物語は二十六冊 絵が百枚以上におよぶ膨大なものですが、これも秘密扱いで藩の尊経閣文庫(現在駒場にある)にしまわれたままでした。これは紹介があれば見ることができますが時計は行方不明のままです。
                    (了) 



文責:得猪外明
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


本文はここまでです


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