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2009年9月18日 神田雑学大学定例講座No473

千代田図書館トークイベント

航海秘話シリーズ第6回

幕末の密航 その3 薩摩藩士・森 有礼(ありのり)、講師:中村孝(なかむら たかし)



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1.千代田図書館企画河合さんから講師紹介
2.はじめに
3−1.佐久間象山の長州藩密航計画への影響
3−2.長州藩・伊藤博文と井上馨の密航
4−1.薩摩藩の密航計画:五代友厚のこと
4−2、薩摩・森有礼 神秘的宗教との出会い
4−3、薩摩・森有礼の離婚
質疑応答




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河合さん

1.千代田図書館企画河合さんから講師紹介

この航海秘話のシリーズはロシア語の通訳をなさっていた中村孝さんを講師に迎え、6回連続で行うセミナーです。今日がその最終会の6回目、森有礼がテーマとなります。通訳を仕事として各種の船に乗られ各国を訪れ、その合間に自分のお好きな航海秘話について現地でも調査を行った中村さんです。今日も皆さんの知らなかった船旅とそれにまつわる人間模様についてお話しが頂けるものと思います。


中村 孝 講師

2.はじめに

今日は6回シリーズの最終回です。4月から月一で始め、はや9月ということです。
話の進め方は前半の30分ほどを1860年代の日本人全般の留学に関する話 & 長州藩による密航について話します。休憩後、後半は薩摩藩密航の話、特に森有礼についてお話したいと思います。

前回は新島襄と橘耕斉を取り上げました。仮に新島襄や橘耕斉の密航を個人プレーと位置付けると、今回の長州・薩摩の密航は組織的に計画されたものと言えます。話の前に彼等の航路を振り返ります。薩摩の密航留学生は全部で19人。うち4人は引率者の役割でした。出国後まず香港に寄り、そこで船を乗り換え、シンガポール、ペナンへ行きます。それからセイロン、次のインドのボンベイで船をまた乗り換え地図アデンへ、そして紅海に入ります。当時はスエズ運河が未開通ですのでスエズ着後、鉄道でカイロ、アレクサンドリアへ。そこから船でマルタ島に寄り、ジブラルタル海峡経由で英に渡ります。期間は約2ヶ月です

一方、伊藤博文以下4人の長州密航ルートは、まず上海に、そこから帆船でインド洋、喜望峰沖を超え、英へということで4か月程かかっています。長州藩の密航が1863年、薩摩が1865年です。

1860年代、多くの留学生が欧米へ行きました。
下の表をご覧ください。この他にもありますが、当時の留学主な留学を取りだしました。まず公の留学の初めは榎本武揚等14人が蘭に行ったものです。この留学は当初、米だったようですが、南北戦争勃発の関係で、急遽、蘭に代わったようです。女性の留学、例えば津田梅子、大山捨松等の留学は1870年代になります。


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3−1.佐久間象山の長州藩密航計画への影響

久間象山を抜きに長州藩の密航は考えられないと思います。象山は信州松代藩士です。彼に関して「大砲を 打ちそこなってべそをかき あとの始末を なんとしょうざん」というざれ歌があります。逆説的かもしれませんが、大砲の関係で如何に象山が苦心惨憺したかを偲ばせる歌だと思います。この歌は1840年代のものと思います。

講義風景

何故なら長崎出身の大砲の専門家高島秋帆、板橋区の高島平の語源になった方ですが、この人が江戸に出てきて大砲の一大演習をやったわけです。それが1841年。その時象山は江戸にいて高島秋帆と接触していたからです。象山は若い時1830年代に藩の代表として江戸に遊学しています。3年ほど儒学を勉強し松代に帰藩、その後2度目の遊学で江戸へ再度移動。神田のお玉が池の近辺に最初の塾を開いたようです。

そうした江戸での経験から人脈も豊富になっていく訳ですが、ほぼ同時期の1841年に松代藩主である真田幸貫、この方は松平定信の子供ですが、彼が老中に抜擢され、海防掛も兼務することになります。海の防衛をどうするかということを専門的に検討する必要が職務上出てきたのです。家臣の象山は海防の顧問となり、「海防八策」としてまとめます。それには、国内の主要個所での砲台設置、海軍組織の創設、大型船建造禁止令の撤廃等々が述べられています。その中に「人材の育成」も入っているのです。

長州の吉田松陰が江戸に出てきたのは1851年で、彼はすぐ象山の門下生になっています。1852年、象山は「海防意見書」を幕府に提出、その中で門下生2人の海外派遣を提案しますが、その1人が吉田松陰でした。ところが時期尚早というべきなのでしょうか、その提案は日の目を見ずに、米ペリーの来航へと展開していきます。

松陰のペリー来航時の密航企て(1854)にはこうした伏線があった訳です。密航失敗で松陰は長州で蟄居。象山も連座し蟄居になる。その期間が6年と長いのですが、ここで興味深いのは、この象山の蟄居中に長州の高杉晋作が彼を松代に訪ねていることです。1860年です。高杉はまだ若いですから自分が抱えている疑問を象山にぶつけます。例えば、男の死すべき場所はどこか ? 日本回復の為どこから着手すべきか ? 等です。私の想像では必ずや2人の会話の中では、将来の人材育成論、その為の海外への人材派遣等の具体案が話されたと思います。象山はまた露のピョートル大帝の功績にも言及しています。

1862年、この高杉が指揮した御殿山の英公使館焼き打ち事件が起こります。この焼き打ちには伊藤博文、久坂玄瑞、井上馨なども参加しています。焼き打ち後、帰藩するわけですが、その時も久坂玄瑞はわざわざ松代の象山を訪ねます。長州としては象山を政治顧問に迎えたいという腹もあったようですが、こうした動きを見ますと、長州と象山の関係は、松陰から始まり高杉、更には久坂へとバトンタッチされ、結果として長州藩主をして海外への人材派遣へと動かすようになったと思います。久坂は帰るとまず井上馨に報告したようです。

井上は藩主に海外留学を具申します。藩主は毛利敬親、俗称「そうせい候」。家臣の提案に対し「いいんじゃないの、そうせい、そうせい」とよく言ったからだそうです。従って井上の提案も早めにOKが出ます。後半話す薩摩の密航に比べ、悪く言えば何か軽い感じ。よく言えば決断が非常に早い。そして1863年、5人が密航留学に出ます。しかし長州密航に関わった象山は1864年、攘夷派に暗殺されます。
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3−2.長州藩・伊藤博文と井上馨の密航

5人選抜されますが今回は伊藤、井上の2人に絞ります。まず上海へ移動しますが、諸々の手配はイギリスのマジソンという商社を使ったそうです。このシリーズの4回目に登場した通詞、堀達之助が編纂した英和辞書を伊藤は持参しています。上海にマジソン社の支店があり、ここと話を詰めますが、ここで一つの誤解が生じます。支店の担当が「何の目的でいくのか」と尋ね、1人がナビゲーションという単語を使ったそうです。それで「航海術の習得が目的」と理解。ならば蒸気船より帆船、となったそうです。それで4か月もかかって英に着いたということです。

話は変わりますが 船乗り用語で「吠える40度線」(roaring forties)というのがあります。南・北緯40度線近辺の海況は相当悪いという表現なのですが、私の数少ない漁業監視船の航海でもケープタウン入港時の荒天はひどいもので、750トン程度の船が揺れに揺れたことがあります。伊藤、井上は300トン程度の帆船で渡海した由ですから、19世紀後半という時代背景、また全くの初航海ということを考えれば、それこそ死ぬか生きるかの体験だったと想像します。トイレ一つとってもいつ振り落とされるか分からない、決死の覚悟で用を足したということだったと思います。

講義中の中村講師英着後の詳細はさておき、半年ほどいて、ある程度英語にも生活にも慣れた頃、ロンドンタイムズの日本の記事が目に止まります。「長州藩が外国の船舶に砲撃を加えた。英当局は報復を決意」という記事だったそうです。伊藤、井上は「これはもう英なんかにはいられない。早く帰って正しい対応をさせなくては」と即座に帰る決心をします。

このあたり、司馬遼太郎さんは概略こういう風にお書きになっています。「5人のうち3人はこのまま残ると主張。この3人は明治新政府になって官僚として活躍する。一方、伊藤、井上の帰国決断は彼等の将来の政治家としての針路を決めたに等しい」。3人が決めた「勉強のため残る」という考えは官僚の発想。即刻帰って攘夷という馬鹿げた考え方を改めさせなくてはいかん、という発想が政治家的だというご指摘だったと思います。

それで2人は帰るのですが、また帆船だったようです。今度は3か月かかっています。帰国と言っても国の掟を破った密出国。見つかれば殺される可能性も高い。横浜着後、英公使館に身を隠します。

そこで諸々の援助、忠告を受けます。例えば横浜のホテルは外人用を手配してやるが、そこでは「日本語はしゃべるな、ポルトガル人になりすませ。日本人で町を歩くと殺されるぞ」等です。この時活躍したのが通訳のアーネスト・サトーです。サト―(Satow)というと日本人の様ですが、彼の父は独系英人で、独の小村Stowの出身だそうです。

伊藤、井上は英公使のオルコックと面会します。2人は「自分たちは英へ行き攘夷という考えが如何に愚かなものかを身をもって体験した。ついては攻撃を延期して欲しい。その間、長州に戻り説得工作をする」と申し入れたのです。それに対しオルコックは「一存では決められないので仏米蘭3カ国の公使を呼び協議する」と答えたそうです。ということで4者協議となりOKがでます。「もし長州藩が伊藤、井上の説得を聞き入れるなら攻撃はしない」という英文の手紙も認め2人に持たせます。東海道は避け中仙道を2人は選択しますが、
「時間がかかりすぎる。我々の船を使え」とオルコックが提案し、海路、通訳サト―も同乗し長州へ出かける訳です。

サト―は当時20歳そこそこ。伊藤は22、3歳。井上は27、8歳。20代のパワーはすごいと言う他ありません。しかしこの説得工作は不成功に終わり、4カ国の砲撃へと歴史は展開していきます。伊藤は密出国前に歌を残しています。「ますらをの 恥を忍んで行く旅も すめらみ国の ためとこそ知れ」というものです。これはどこで歌われたものでしょうか。妓楼での送別会だそうです。前回の新島襄もささやかな送別会で歌を残していますが、組織的密航と個人によるものとの対比が私には面白く感じられます。

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薩摩の計画4−1.薩摩藩の密航計画;五代友厚のこと

当時の薩摩藩はヨーロッパの情報をいち早く取り込むということに非常に熱心だった藩主が輩出しました。例えば右の表の島津重豪、彼は1820年代シーボルトとも交流があります。島津斎彬の時代では、話が具体化し派遣先は英仏米の3カ国とか、実施時期は1859年、人数はかくかくしかじかと決まっていたようです。ところが斎彬自身が1858年に死亡、頓挫します。ただこの図にある薩摩藩士の五代はこの辺の流れをずっと汲んで生きてきたと思います。彼が斎彬の計画を具体化するのです。

さて五代の重罪とは何でしょうか ? これは彼が島津久光に出した留学の建白書の冒頭に出てくる表現です。「私こと今般重罪を犯し奉り云々」で建白書は始まります。建白書自体はOKとなる訳ですが、私が気になるのはこの「重罪とは何か」ということで、この関連を話したいと思います。

時代背景は生麦事件に端を発した1863年の薩英戦争です。島津家の大名行列を神奈川県の生麦村で英人の一行が馬で横切ろうとして、無礼打ちにされた事件をめぐる戦争です。島津側にしてみれば、ここは日本、日本の礼儀に従わない場合殺されて当然。英にしてみれば、犯人を出せ、賠償を ということで水かけ論、江戸幕府もほとほと困ったようです。英は軍艦7隻で鹿児島湾に向かい、薩摩側は15歳から58歳までの男を駆りたてて5300人程の兵力を準備し待ち構えた訳です。この時、東郷平八郎、森有礼は共に17歳で戦争に参加しています。ついでながらあのシーボルトの息子もほぼ同年齢で、通訳として英船に乗っています。

戦争が始まる前夜、薩摩所有の3隻の軍艦全てが英側に乗っ取られるという事件が起こります。しかもほとんど戦うことなしに捕獲されてしまうのです。この時の最高責任者が船奉行だった寺島宗則で、その側役が五代友厚。寺島は明治には外務卿になる人物です。高額で揃えた船を戦争前に失った訳で大不祥事ですよね。このうちの一船は五代が上海まで行って買った船でした。

以下は吉村昭さんの小説からの引用ですが、彼等は大変な責任を感じ、必ずや殺されるだろうと覚悟した。そしてこうした状況下で犬死するのは耐えられないという気持ちになったとのことです。2人は薩摩では自他ともに認める外国通です。内心では攘夷なんて時代に合わないと理解していながら、藩の動きに流されてこうなってしまった。こんなことで死ねるかということでしょう。

そんなこともあって薩摩藩から逃亡という道を選ばざるを得なかったようです。英軍に乗っ取られ、捕虜になった乗組員は桜島でみな下船させられます。しかし寺島、五代は拒否し残留を希望、下船しなかった訳です。そして翌日からドンパチが始まったのです。薩英戦が終わって英船は横浜に帰りますが、2人も一緒に横浜まで連れて行かれ、そこから行方をくらますということになります。

ですから五代は建白書ではまず、船を捕獲されたという失態、また勝手に逃亡したという大罪、この2件につき「重罪を犯した」として謝っている訳です。五代は明治初期に経済界で活躍した人物です。五代の建白書にこういう一項があるそうです。「派遣留学生の中に必ずガリガリの攘夷論者を入れろ」と。話しても分からないのだから実際に自分の目で見てもらうしかないということですね。それで過激攘夷論者3人が選ばれますが、最終的には2人は拒否したそうです。

先ほどの逃亡事件で興味深い話があります。英軍艦に日本人が一人乗っていたのです。その男は寺島の英語の生徒だったという話です。「先生、妙なところで」という会話で始まったと思いますが、男の名は清水卯三郎、通訳として英船に雇用されていたのです。この清水を中心に寺島、五代は対策を話し合い清水が提案します。「横浜に着いたらまず身を隠すべき。この際、ほとぼりが冷めるまで私の田舎、武蔵野国・羽生村でじっとしていなさい」。

こういう話を読みますと前回新島襄を命がけで出国させた福士卯之吉といい、この清水卯三郎といい、幕末維新の商人の心意気に私は驚かされるのです。ひとつ間違えば自分が殺されるのですから、そういう危険も顧みず自分の田舎を提供する。さらに自宅も危ないということで親戚の家に匿ってもらう。命を張って彼等を守るという行為に出るわけです。

彼、清水は商人ですから郷里と江戸とを行き来し、薩摩の江戸屋敷などにも出入りし大久保利通などとも話をします。無関係を装って薩英戦後の動向を情報収集し、匿っている寺島、五代をいつ頃帰藩させるべきか作戦を練ります。薩摩にしてみれば大物2人が行方不明ですから大変な騒ぎで英公使館にも問い合わせています。攘夷論者にしてみれば「憎き裏切り者、逃亡者は生かしておけない」という話です。

清水卯三郎は蘭・英語、さらには露語も勉強したという大変な努力家です。1867年にパリで万国博覧会が開かれ、日本からは幕府、薩摩・鍋島藩の3代表が参加しますがこの博覧会には清水卯三郎も行っています。彼は芸妓さんを同伴し、会場でお茶のデモンストレーションをやり、その記事がパリの新聞に載ったりしています。アイディアマンですしアグレッシブで実に興味ある人物ですね。

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森ありもり)4−2、薩摩・森有礼 神秘的宗教との出会い

右が森有礼で、千代田図書館の内田嘉吉文庫から引用しています。彼の実のお兄さんは若い時に切腹しています。兄は薩摩藩士で明治新政府に各種提案を「集議院」という役所に出し続けたそうです。ところがある時、お前の提案は全部受付で没にされているという話を聞き、怒り心頭。「然らば俺は自分の提案書を携えて切腹する」といって実際に切腹したそうです。ですから弟の森有礼も、そうした一度思い込んだら命がけ、という面が相当ある方なのかも知れません。

密航留学に派遣された薩摩の一行は2か月かけて英着。英国生活が始まります。最年少は13歳。後にサッポロビールの基礎を作った男も行っています。それぞれ波瀾万丈の人生があって興味は尽きないのですが、今日は森有礼に絞ります。

森ありもり、・ハリス、オリファント、・米へ移動・義弟が国事犯、・森夫人の対応、彼が英で大変な影響を受けたのがこのハリス & オリファントの2人です。彼らは神秘的な宗教家で、接神社会主義という一派だそうです。オリファントは以前日本の英公使館に務め、一等書記官だったのです。しかし1862年の東禅寺事件(高輪)の時に重傷を負い日本から戻ってきたという経緯です。そんなこともあって森有礼一行と親密な関係になります。

でも何故森はこの宗教に関心を持ったのでしょうか?以下私の推測ですが、やはり期待していた文明社会・英の「負の面」を滞在中にしかと確認した、というのが一因ではないでしょうか。工業力では確かに圧倒的に先進国である、しかし日英の差はたかだか4−50年程ではないか。薩摩、鍋島藩などすでに相当実力をつけているし、必ずや追いつける。一方庶民の生活をみれば、英ではあふれる生活困窮者など貧困層も多い。

果たして英は出国前に描いた理想的な国と言えるのか。そんなことを森は考えたのではないか。然らば今後の日本が目指すべき社会はどうあるべきか?そんな悩みを抱えていた時にオリファントに出会い、彼の主義主張に惹かれたのではないかと推測します。この接神社会主義というのは(Theosocialism)、私は説明出来ないので文献にある表現だけ羅列しますと、「自己の完全な否定」「無報酬の神への奉仕」「神の息吹を体内に」「人と神との完全調和」などを標榜しているそうです。

英滞在中に森は露へも行っています。そこで日本の公費留学生とも会い現地情報を吸収します。ですから彼は他の薩摩留学生とは全く異質で、常に大きな網を張り、日本の針路につき色々な角度から検討していたのではと思います。そうした中で「この宗教は学ぶに値する」との結論に至ったのではと私は推測しています。

一方、本国からの送金が途絶える等の現実問題が起こります。なにしろ幕末維新の転換激動期で、薩摩としても留学生どころではないという状況だったと思います。そんな時に「米国でのコロニー“新生社”に参加しないか」とオリファントから誘われ、仲間を引き連れ6人が米へ移動した訳です。推測ですがこの移動は薩摩の了解無しの独断だったと思います。さてコロニーでの生活が始まる。自給自足の神への奉仕の実践生活です。

牛を飼い耕作し、夜は討論といった生活で、ある日のテーマは「日米が戦争したらいずれに加担すべきか」だったそうです。色々議論があり最終的には議長役のハリス曰く「我々は神の為に闘うべきで、日米の区別は無い。全ては神の命ずるままに正義の為に闘う」という内容で終わったそうです。この結論にショックを受けた6人の内の3人は翌日コロニーを去ります。森を含む3人が残留、修行継続となるのですが、ある時ハリス曰く「君達の祖国は今大変な時期を経験している。この際これまで学んだことを念頭に帰国し母国を活動の拠点にすべきだろう」。

こうしたハリスの勧めもありコロニー生活を離れ森は帰国します。彼はまず岩倉具視に接触したようです。それで政府に出仕する道をつけます。日本では有名な廃刀論で物議をかもし、1869年に下野。しかし人材ですから新政府としても放っておけない。呼び戻し米駐在とします。この時に前回話した新島襄との出会いがあった訳です。帰国後は「明六社」の結成(1873)とか、「契約結婚」等話題に事欠きませんが、清の駐在、英駐在など経験を深めていきます。

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4−3、薩摩・森有礼の離婚

さて今日の最後の話題は森の離婚の話です。諸説ありますが、かいつまんで話せば、離婚の真相は義理の弟が当時の自由民権運動家で、森を初代文部大臣に推した伊藤内閣の転覆を企図し「国事犯」となる可能性が濃厚となった。為に夫人が身を引き、義弟との関係を清算、離婚とした、ということの様です。

「夫人の広瀬家が養子をとる決断をした」というのがこの一件の背景にあります。森の英駐在が決まり、娘も行ってしまうし世情も物騒ということで明治12年(1879)、広瀬家は藪重雄を養子として迎えます。彼は自由民権運動に関心大という男です。明治10年代は西南戦争など、世の中騒然としていた時代です。

自由民権運動でも加波山事件、名古屋事件など色々起きています。その中に明治17年、飯田事件があります。この時に養子・広瀬重雄は政府転覆事件の関係者として捉えられます。が裁判の結果は無罪でした。しかし明治19年の静岡事件では有罪になります。この事態に夫人は身辺に国事犯がいることで夫の政治生命に迷惑がかかることを憂い、決心し、身を引くということで身辺整理をして米国に活路を求めるのです。

この辺の話は森本貞子さんという方が20年来調べていて、「秋霖譜」という作品をお書きになっています。夫に迷惑をかけたくないということで夫人は離婚を決意したという記述をされています。ただ表向きには彼女を最大限悪者にし、彼女が外人さんといい仲になって云々という噂が飛んだというか飛ばせたというか、そういうことになったそうです。非常に手が込んでいるのですが、彼女の不倫事件を芝居にまでして公の場でも演じさせるということまであったそうです。尚、藪重雄の罪状は「国事犯」から「強盗犯」(民権運動家が高利貸を急襲した件の為)へと意図的に変更された様です。

幕末維新期を海外で過ごし、日本はかくあるべきとの信念を持って帰国した森有礼、かたや旗本の家に生まれ維新期、路頭に迷う羽目になり、自由民権運動に望みを託し、義兄の内閣打倒、転覆を企図した藪重雄。2人の対照的な生き様に興味をそそられた次第です。とりあえず私の話はこのくらいにして質問を受けたいと思います。

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質疑応答

質問:薩摩の密航も商社が手引きをしたのですか。
答え:薩摩の場合は長崎のグラバー商会が手助けしています。文献によれば長州の渡航費用は一人あたま400両、一年間の留学経費は一人あたま1000両と書かれています。ですから長州藩は5人で年間5000両です。新島襄のような個人密航では考えられない額です。

質問:森有礼が神秘主義的なキリスト教にシンパシーがあったということが信じられないのですが、当時、日本ではキリシタンは恐ろしいものとして定着していましたよね?
答え:私も分かりません。ただ世の中の動きとしては、例えばキリスト教の解禁が1873年ですね。先を見ていたという意味では、遅かれ早かれ日本でも という気持ちがあったのではないでしょうか。

質問:このハリスとオリファントの宗派はなんですか?
答え:よく知りませんがスウェーデンボルグ派と文献にあります。

質問:森はハリスと英で会って米に行くようになったとのことですが、ハリスとの接点はどういう形で始まったのですか?
答え:ハリスよりはオリファントの影響の方が強かったと理解していただく方が良いと思います。先ほど話した様に、オリファントは一等書記官として来日し、その1週間以内に東禅寺事件(高輪)に巻き込まれ重傷、帰国という経緯です。ただ過激派による怪我にもかかわらず、彼は日本に好意的だったようです。オリファントのボスがハリスです。

英へ帰国後、オリファントは役所勤めを継続しますが、すぐ辞めて代議士に立候補します。そういう中にあってハリスが米から英に来るのです。ハリス自身は英生まれで、5才の時に米へ移住、継母との悪関係云々があって宗教へ、という経緯の様です。ハリスの英行きは自身が理想とする社会の実現のための同志作り & 市場調査だったと推測します。その時にハリスとオリファントは出会い、そして森とハリスも初めて出会うわけです。



文責:中村 孝、臼井良雄
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


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