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2009年10月23日 神田雑学大学定例講座No478
  イギリス音楽の楽しみ(4)講師、中野重夫



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アクセント画鋲
はじめに
1.ヘンデル、知られざる「音楽の母」
2.素顔のヘンデル
3.メサイアの真実
4.大英帝国とヘンデル ―国家ナショナリズムと音楽―
5.ヘンデルとイギリスのバランス・シート ―結びに変えて―



はじめに

中野講師の写真  昨年(2008年)六月に開始した「イギリス音楽シリーズ」も今回で第四回を迎えました。長期間継続してお話の機会を頂戴し、まことにありがとうございます。
 さて、今年(2009年)は大作曲家ヘンデル(1685〜1759)の没後二百五十年に当たり、わが国を含め、世界各地でこれを記念する様々な催しがありました。そしてご案内のように、ヘンデルはイギリスと大変ゆかりの深い人です。ヨーロッパ大陸の北西の海に浮かぶイギリスは古来渡来人の島ですが、ヘンデルも青年時代に故国ドイツから渡来し、帝都ロンドンを拠点に旺盛な作曲活動を展開してこの国のその後の社会と文化に大きな影響を与えた人でした。今回の「イギリス音楽の楽しみ」は、その記念年にちなみ、この“イギリス音楽史上最大の渡来人”ヘンデルの人と音楽について、この国との関わりを中心にお話ししてみたいと思います。
G.F.ヘンデルの肖像
 なにはともあれ、先ず開幕に相応しいヘンデルの華やかな祝典音楽を映像と共にお楽しみ頂くことにしましょう。有名な「王宮の花火の音楽」(1749)の冒頭部分で、オリジナル楽器を用いた管弦楽版に拠る演奏です。

アクセントボタン オープニングの音楽と映像;
    音楽演奏: ヘンデル「王宮の花火の音楽」序曲
    “ターフェルムジーク・バロック管弦楽団”
    (ソニーミュージック、SRCR2641)
    スライド映像: 諏訪湖花火祭り、2008年夏
                                     G.F.ヘンデル(1685-1759) 王宮の花火の宴画像

   王宮の花火の宴
 (彩色エッチング、1749年)

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1.ヘンデル、知られざる「音楽の母」
(1)音楽の父、音楽の母 ――音楽室の記憶から――

バッハとヘンデルの画像  私は団塊の世代ですが、その昔中学生の頃学校の音楽室に行きますと、天井近くの薄暗い壁に額に入った西洋の大作曲家の肖像がずらっと並んで架かっていたのを記憶しています。今にして思えば勿論本物の肖像画であるはずもなく、複製写真か何かをそれらしく納めたものだったのでしょうが、子供の目には十分に厳(いかめ)しく、同時に少々黴臭くて鬱陶しい印象も与える光景でした。
あれは今の音楽教室にもあるのでしょうか?

 さて、今となっては自信を持って断言は出来ないのですが、その肖像群の一番目、二番目がおそらく大バッハ(1685〜1750)とヘンデルだったと思います。そして先生からバッハが「音楽の父」、ヘンデルが「音楽の母」である、と習った、こちらについては確かな記憶が残っています。今でも学校ではそのように教えているのでしょうか?
 確かにバッハとヘンデルは生年が全く同じ1685年、ヘンデルの方が9年ほど長生きしましたが、二人はまったくの同時代人です。そして共に西洋音楽史上に燦然と輝く大巨匠。ですから、彼らが音楽の父と母だ、といわれると何となくそのまま納得してしまう気になります。事実、これは今でも一般によく耳にする譬えですが、少し考えてみるとなんだかよく分からないところもありますね。

 第一に、世界には実に様々な素晴らしい音楽が存在しますが、まさかそのすべての音楽の生みの親がバッハとヘンデルだ、と言っているわけではないでしょう。したがって、先ず、ここで言う音楽とはそのうちの一ジャンルに過ぎない所謂「西洋芸術音楽」のことだ、と限定する必要がありそうです。そしてそう規定したとして、次にはこの西洋音楽の長い歴史を振り返ってみなければなりません。その“有史”の始まりを一応グレゴリオ聖歌の時代としても、バッハとヘンデルの出現の背後には、既に一千年以上の音楽の歴史があるのです。そしてそれは絶え間のない変遷の歴史であって、必ずしも進歩の歴史ではありません。バッハ、ヘンデルの音楽と、これに先立つジョスカン・デ・プレ(c.1440~1521)やモンテヴェルディ(1567〜1643)の音楽を価値、優劣といった観点から比較評価するのは適切ではないでしょう。それでもなおバッハとヘンデルを父母とするなら、父母未生の時代のこれらの素晴らしい音楽は一体何なのでしょうか?

 それに、なぜバッハが父でヘンデルが母なのでしょう? ――ジェンダーの観点からすれば、私見では、剛毅で雄渾なヘンデルの音楽は西洋音楽史上稀にみる“男性的な”音楽です ―― そしてそもそもこの父と母とでは、そのどちらかがより偉いのでしょうか? 我が家の場合なら、倅に訊ねれば即座に「そりゃかあさんの方が偉いに決まってるよ」と答えるはずですが・・・・。
話が本題からそれてしまって恐縮です。はた迷惑も顧みず、こうしたどうでもいい(?)問題にとことん拘ってしまうのも、われわれ団塊の世代の因果な性癖のひとつかもしれません。実はこの話題はわが国の洋楽受容の歴史と現状を巡る様々な問題にも深く関わってくるものと思うのですが、ひとまずこの辺で止めにして本題に戻ることにしましょう。
会場風景

(2)栄える父と疎まれる母 ――バッハとヘンデルの現在――

 標題に「知られざる音楽の母」ヘンデル、と書きましたが、ヘンデルの知名度そのものは抜群ですね。「音楽の父」バッハと同様、極東の島国日本においてさえ、その名前なら殆ど全ての人が知っているでしょう。しかしその一方、いったいどんな作曲家でどんな作品があるのかという認知の程度となるとバッハとは雲泥の差があって、ヘンデルの全体像はかなりの音楽通にさえ必ずしもよく理解されていないのが実情ではないでしょうか。不見識を承知で自らを引き合いに出すと、西洋音楽にもう半世紀近くも親しんできましたが、ヘンデルとはこれほど沢山の立派な作品を残した凄い人だったのかと驚き、なるほどバッハと並び称される大作曲家に違いないと心底得心したのはつい最近のことです。

 同時代に並び立つ一対の巨人の例として、バッハとヘンデルのあり方は日本文学における漱石と鴎外の場合と一面でよく似ているように思います。二人とも日本人ならその名は誰でも知っていますが、こと作品の認知と受容となると、漱石に比べて鴎外の読者は圧倒的に少ないといっていいのではないでしょうか。しかし面白いことに、一般受けとは別に所謂“玄人”の間では漱石よりも鴎外を好み、評価する向きがあって、たとえば三島由紀夫などは鴎外を神のように崇め、一方漱石については一顧だにしませんでした。そのほか、石川淳や加藤周一といった高踏派(?)の文人の間にも同様の傾向が認められますね(もっとも、加藤さんは「明暗」一作のみを不朽の名作、と認めていましたが)。今や不動の“国民作家”漱石に対峙する鴎外の地位は、こうした玄人筋のかねて変わらぬ熱烈な支持によって培われ、保たれてきたのではないかという気さえするほどです。

 さて翻って、バッハとヘンデルの場合には、現在、このような“素人”と“玄人”を巡る構図は認められません。ここで“素人”とはわれわれ一般の音楽愛好家、そして“玄人”とは、職業的音楽家に加え、所謂音楽ジャーナリズムの世界に生きる人々を含みますが、両者はいずれも、実態において圧倒的にバッハ贔屓です。バッハは死後殆ど一世紀に亘る忘却を経て大復活を遂げ、その後あらゆる批判を超越した殆ど絶対的な存在となりました。そして今、“素人”と“玄人”を問わず、ヘンデルを疎んじる人は多くとも、バッハを退けてヘンデルを称揚する向きは殆どいません。

 それでは、この父と母に対する人々の認知・享受のかくも著しい不均衡にも拘らず、なぜヘンデルは今なおバッハと並び称される地位を保持し続けているのでしょうか? 大変難しい問いですが、敢えて独断をもって極言すれば、それは一に彼の代表作である「メサイア」(1741)という特異な作品の存在ゆえでしょう。ご案内のように、曲中の“ハレルヤ・コーラス”で知られる「メサイア」は、バッハの「マタイ受難曲」(1736、第二版)と並んで西洋宗教音楽史上の金字塔とも呼べる大傑作です。そしてこの「メサイア」一作に関する限り、世間一般の認知と享受はバッハの「マタイ受難曲」をも遥かに凌いでいるのです。

 この超ポピュラーな一作の存在がヘンデルの名声を不滅とし、またその一方で、大変皮肉なことにヘンデルの全体像を覆い隠す結果ともなりました。そしてその背後には、本日の主題のひとつであるヘンデルとイギリスとの深い関係があるのです。音楽の世界を超えた、社会的な現象とも呼べる一種独特な「メサイア」享受の歴史と伝統はイギリスにおいて育まれ、広まっていったといえるからです。そのあたりの事情については、この後のお話の中であらためて言及することになるでしょう。
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2.素顔のヘンデル
(1)ヘンデルってどんな人? ――ロンドンに生きた劇場人ヘンデル――

 バッハやヘンデルの時代、音楽家が活躍する代表的な場は教会と宮廷でした。バッハはその生涯の大半をライプツィッヒの聖トマス教会の音楽監督として過ごしましたし、あの「四季」で有名なアントニオ・ヴィヴァルディ(1678〜1741)もヴェネツィアの教会付属の音楽施設に拠って活動し、「赤毛の司祭」と呼ばれた人でした。また一方、同じく同時代人であるドメニコ・スカルラッティ(1685〜1757)やジャン・フィリップ・ラモー(1683〜1764)などは宮廷を舞台に活躍した代表的な人達です。それでは、ヘンデルはそのいずれのタイプだったのでしょうか?

アクセントボタンヘンデルと同時代の作曲家たち
A.ヴィヴァルディ、D.スカルラッテイ 及びJ.F.ラモーの肖像の肖像

 左からA.ヴィヴァルディ(1678-1741)、D.スカルラッテイ(1685-1757)およびJ.F.ラモー(1683-1764)

 ヘンデルの代名詞ともなった「メサイア」は、“オラトリオ”という形式の、紛れもない宗教的な作品ですが、その生涯を一瞥すれば彼が“教会の人”でなかったことは自明です。一方、バッハに比べればまことに数少ないヘンデルのその他の有名曲として「水上の音楽」(1717)、そして冒頭に聴いていただいた「王宮の花火の音楽」といった、イギリスの王室行事に関わる作品群があります。したがって、ヘンデルというと宮廷音楽家というイメージを持たれる方も多いかもしれません。確かにヘンデルはイギリス国王ジョージ一世・二世の宮廷と密接に関わり、王室音楽家としての役職も担って大いに活躍した人ですが、それをもって彼を“宮廷の人”と規定してしまうのは妥当ではありません。それはヘンデルという巨大な存在の一部にしか過ぎないからです。それでは、“教会の人”でも“宮廷の人”でもないヘンデルとは一体何者だったのでしょう? 一言でいえば、ヘンデルは“劇場の人”です。これについては、以下に少し説明させて下さい。。

 ヘンデルはその生涯で実に42曲のオペラと、31曲のオラトリオを残しました。そしてその殆どが、1710年、25歳で故国ドイツから渡来し、後に帰化して74才生涯を終えたイギリス、より正確にはその首都ロンドンで、当地の劇場のために作曲されたものです。これらのまことに膨大な数のオペラと劇場用オラトリオこそ、作曲家ヘンデルが文字通りその生涯を賭け、心血を注いで取り組んだ最も中核的な作品群なのです。 さて、それでは“劇場の人ヘンデル”の意味するところは、主としてこのような劇場用の音楽を書いた作曲家ということか、というと、それでもまだヘンデルの全体像を正しく反映するものではありません。

 先述したように、ここでいう“劇場”とは、他ならぬ当時のロンドンの新興のオペラ劇場です。それは、大陸の諸都市における伝統的な劇場、すなわち、王侯貴族の娯楽や権勢の誇示のために、彼らの庇護のもとに成立していた所謂宮廷劇場とは違う、時代に先んじた、都市市民を対象とした商業劇場でした。まさに今日的なオペラ・ハウスの先駆です。ヘンデルは、当時のロンドンに花開こうとしていたこうしたニュー・ビジネスの世界での成功に人生を賭けた人だったのです。そこでのヘンデルの文字通り八面六臂の活動において、作曲(劇場演目の提供)は彼が担った役割の一部に過ぎません。彼は、企画、制作、上演の全てを取り仕切る芸術監督であり、同時に興行の成功に日々腐心する事業経営者でもありました。しかも、当初は有力貴族を中心とした投資家のお雇い経営者の身でしたが、後には自ら出資してオーナー経営にも乗り出すのです。そこに見えてくるのは、浮沈の激しい興行の世界でリスクと責任の一切を引き受けて懸命に生きた企業家ヘンデルの姿です。

 さて、ここで再び冒頭の問いに戻りましょう。“ヘンデルってどんな人?” ヘンデルとは、オペラ興行という、当時のロンドンに開花したベンチャー・ビジネスの世界に生きたトータルな劇場人だったのです。同時代の殆どの作曲家が宮廷や教会のお抱え楽師となり、その義務を履行する形で活動していた時代に、ヘンデルは自らこのような自立した自由人としての人生を選び取り、そしてこれを見事に生き切って見せた人でした。

 ここに、ヘンデルという時代精神の際立った先駆性、先見性が輝いているように思います。ヘンデルより半世紀後に生まれたハイドン(1732〜1809)ですら、その生涯の殆どを一地方貴族の宮廷楽長として送りました。一般的には、さらにそのあとの“自由人”モーツァルト(1756〜1791)の出現をもって、ようやく自立した作曲家の時代の幕が開けたとされています。しかしその生涯の最後に待っていたのは、今となっては亡骸のゆくえも知れない貧民墓地への埋葬でした。自由の代償は、稀代の天才モーツァルトにとっても未だなお大きく、過酷なものだったのです。

講演中の中野講師  ここで重要なのは、ヘンデルのこのように時代を大きく先取りした人生は、当時目覚しい発展を続けていた開かれた国際都市ロンドンにおいて初めて可能なものだったということでしょう。青年ヘンデルが渡来した十八世紀初めのイギリスは、フランス革命に百年先んじて市民革命を達成して議会中心の立憲君主制を確立し、抗争に明け暮れる大陸諸国の混乱と疲弊を尻目にやがて来る「大英帝国」への道を着実に歩み始めた時期にあたります。特にその首都として繁栄著しいロンドンには既に富裕な都市市民層が興隆し、成熟すら迎えていたのです。そして、海を渡ったヘンデルがそこに見たものは、こうした人々の間に澎湃と沸き起こっていたオペラ熱でした。

 この時代は、音楽史の上では所謂後期バロックの時代で、イタリアを本家とするバロック・オペラの最盛期です。若きヘンデルの抱いた野心も、当時殆ど全ヨーロッパを席巻していたこのイタリア・オペラの世界で国際的な名声を勝ち得ることにありました。それこそが、この時代、一流の作曲家であることの国境を越えた証だったからです。そのために、ヘンデルは二十歳そこそこで故国を後に本場イタリアへと旅立ちます。そしてローマ、フィレンツェ、ナポリ、ヴェネチア等を遍歴して四年に及んだ武者修行の後、結局生国ドイツを離れ、際立った繁栄と自由を謳歌しながらこと音楽活動に関しては未だ大陸の有力都市の後塵を拝していた国際都市ロンドンの“楽都”としての将来性に、自らの野心の実現を賭けるのです。そして、この決断は鮮やかに功を奏します。彼のオペラはすぐに輝かしい成功を収め、その名声はロンドンを発して全欧に鳴り響くこととなりました。ヘンデルの初心は見事成就したのです。

(2)ヘンデルってどこの人?  ――大作曲家の領有権――

 さて次に、ヘンデルは一体どこの国の人でしょう? 広辞苑を引きますと、“イギリスで活躍したドイツの作曲家ゲオルグ・フリードリッヒ・ヘンデル”、と載っています。つまり、われわれ日本人は普通、ヘンデルはドイツ人だと考えているということですね。もちろん、ドイツ本国の人々にとってこれは言うまでもないことです。一方、高名なグローブ音楽大事典をはじめとするイギリス系の辞典を引いてみると、その名は“ジョージ・フリデリック・ハンデル”という英語名で記載され、記述のトーンも“ドイツ生まれのイギリスの作曲家”となっているのです。

 一体どっちなんだ、ということですが、こうした国民感情の関係する話はなかなか厄介なものですね。かつてのような過剰な国家意識が希薄となった現代においても、例えばノーベル賞受賞者の国家帰属を巡ってナショナリズムの火花が散る、といった光景は毎度お馴染みのものでしょう。ですから、この類の混乱、軋轢を避けるための明快な国際ルールが存在します。“生国の如何に関わらず、その人の現在の国籍による”という決まりで、これはノーベル賞に限らず、オリンピックやサッカーのワールド・カップのような国別対抗のスポーツ・イベントにおける参加選手の取り扱いの場合も基本的に同じでしょう。

 そうすると、所謂多重国籍者の場合はどうするのか、という次の問題が生じますが、その場合は生国の国籍が優先します。さらに生国の国籍を持たない多重国籍者の場合は、受賞に関係する業績に最も深く関わった国の国籍が優先するとされています。脱線してしまいましたが、われわれにとってナショナリズムとはいかに厄介で克服しがたいものであるかについての卑近な一例としてお話ししました。

 このルールに従えば、ヘンデルは紛れもなくイギリスに帰属すべき作曲家です。若くして渡英し、英王室に仕え、英国風に改名してイギリスに帰化し、イギリスの社会と深く関わりながら創造者としての生涯を全うし、当地の人々に深く敬愛され、生前に立派な大理石像が建ち、最後は偉大なイギリス国民としてウェストミンスター寺院に葬られたのです。全く非の打ち所のないイギリス人である、といえるでしょう。しかしことは西洋音楽史上最大級の巨人の帰属の問題です。生国ドイツがその領有権をむざむざと譲り渡すはずもありません。ヘンデルの生家は復元されて記念博物館となり、立派な記念像が建ち、毎年その名を冠した国際音楽祭が開かれ、“自国の作曲家ヘンデル”の顕彰のために折りに触れて記念切手なども発行されています。ドイツの人々にとって、ヘンデルとは正に世界に誇るべき自国の大作曲家なのです。

ヘンデルの領有国は?

                     イギリス
ヘンデル生前建立の大理石像 英国偉人の「聖廟」

アクセントボタン  左:ヘンデル生前建立の大理石像(1738年、現R.アルバート美術館蔵)、右:英国偉人の「聖廟」(ウェストミンスター寺院内の墓所)

                      ドイツ
ハレの生家博物館前の広場に立つヘンデル像 ドイツが誇る三大作曲家の生誕記念切手

アクセントボタン 左:ハレの生家博物館前に立つヘンデル像、右:ドイツが誇る三大作曲家の生誕記念切手(1985年、上からバッハ、ヘンデル、シュッツ)

 ヘンデルの生まれ故郷は現在のドイツのザクセン州にあるハレという町です。同年生まれのバッハが後半生を送った同州の中心都市ライプツィッヒは、ここからほんの20マイルの距離にあります。ご案内のように、ビスマルクが1871年に普仏戦争に勝利して統一を果たすまでのドイツは大小の諸侯が割拠する侯国の集合体で、ザクセンも有力諸侯の一人であるザクセン選帝侯の治める領国でした。ザクセン訛り、ザクセン気質といった言葉があるように、ドイツの中でも独特の土地柄をもった地域のようですが、特に“音楽大国”を自認するドイツにとっては格別の意味を有するところでしょう。バッハ、ヘンデルに百年先立つドイツ・バロック初期の大作曲家ハインリッヒ・シュッツ(1585〜1672)を初めとして、ゲオルグ・フィリップ・テレマン(1681〜1767)、ヘンデル、下ってはリヒャルト・ワグナー(1813〜1883)など、ドイツ音楽を代表する綺羅星のような大家を輩出してきた地域です。隣接するチューリンゲン州生まれのバッハも、ケーテン、ライプツィッヒといったザクセン領内の諸都市を活動拠点として生きた、ザクセン文化圏の作曲家といっていいでしょう。ドイツの人々にとってヘンデルとは、いわばこの自国音楽の聖地の、最大の守護聖人の一人なのです。彼らが手放そうはずもありません。このように、ヘンデルの領有権を巡る英独両国の確執は今後も解消されることはないでしょう。

 さて、そんなヘンデルを、皆さんならどこの国の人だとお考えになりますか? その経歴に照らして、ヘンデルを国境に縛られない“コスモポリタン”であるとされる方もいらっしゃることでしょう。大変ごもっともなことですし、こうした捉え方は一面でヘンデルの音楽の本質を突くものだと思います。同郷の同時代人バッハは、ヘンデルとは対照的な徹底した“地方人”としての生涯を送った人でした。終生ザクセン圏内に留まって活動した彼の音楽は、当地のルター派プロテスタント教会を中心とする地域共同体の音楽伝統に深くその根を下ろすものです。

 一方、ヘンデルの音楽にはそうした地域性がとても希薄です。それはいわばゲルマンの堅固な構築性とイタリアの溢れんばかりの歌心とがヘンデルという巨大な才能の裡で融合・合体したといった趣のものでしょう。特に、彼が殆ど半世紀を過ごして生涯を終えた英国の音楽伝統――エリザベス朝の楽匠やヘンリー・パーセル(1659〜1695)の典雅にして慎み深い音楽の伝統――とは殆ど繋がりを持たない音楽であることは大変に特徴的です。イギリス贔屓の私でさえヘンデルをイギリス人であると言い切ることにためらいを覚えるのも、彼の音楽の持つこうした一種無国籍な性格によるところが大きいと思います。

 最後に、ここでなぜことさら“ザクセンの人”ヘンデルについて言及したのかについて蛇足ながら一言補足させて下さい。あるいはもうお気づきの方もいらっしゃるかも知れません。そう、ザクセンの英語標記は“サクソニー”ですね。他ならぬ、“アングロサクソンの国”イングランドの人々の父祖の地なのです。したがって、イギリスがヘンデルを自国の作曲家であると主張することは、民族的な近縁性からしてもさほど勝手な言い分とも思えません。しかし、その人と音楽をこの国の文化伝統の中に置いて眺めてみると、そこにやはり拭いがたい異質性を覚えるのです。  5世紀頃に大陸から海を渡ってこの島に侵略的に移住したアングロサクソンの人々は、統一イングランドの形成に費やしたその後の長い波乱の歳月を経て“島のゲルマン”へと大きく変容を遂げ、独特の国民気質と文化を育むに至りました。父祖を同じくするにもかかわらず、十数世紀を隔てて渡来した“大陸のゲルマン”ヘンデルと、これを迎え入れた“島のゲルマン”は既に大変に異なった者同士となっていたのです。

(3) 挫折と再起の人、ヘンデル

   先程、ヘンデルはロンドンでイタリア・オペラの作曲家として早々と華々しい成功を収め、めでたく青雲の志を果たしたと申し上げました。それはまさしくその通りなのですが、半世紀に及んだ劇場人としてのヘンデルの実人生はまことに波乱と浮沈に満ちたものでした。そして、彼が持てる才能と情熱の全てを注いで取り組んだオペラ興行の世界で、ヘンデルは結局挫折して終わるのです。

 1737年、ヘンデルが自らオーナーとして主宰するオペラ・カンパニーが一万ポンドという巨額の赤字――イギリス王室が彼に支給していた年金の実に五十年分に相当する金額――を出して破綻します。起死回生のためのあらゆる手立ての甲斐もなく、文字通り万策尽きての倒産でした。このときヘンデルは既に五十の坂を越え、老境の入り口に立つ人となっていました。その上、積年の過労、心労が祟ってか、同じ年に深刻な脳卒中の発作に襲われ、利き腕に麻痺が残って暫くは指揮もオルガン演奏も出来ない身となります。ロンドンには、もうヘンデルは再起不能、という噂さえ飛び交いました。深い失意と挫折感の中で、ほぼ生涯を費やして臨んだ彼のオペラ人生に事実上の終止符が打たれたのです。

一体何故そのような仕儀となったのでしょうか? 今も昔も、オペラは途方もない金食い虫です。これを事業として成立させるのは並大抵のことではありません。いやそもそも、そんなことは殆ど不可能であることを、その歴史と現在が証明しているように思えます。この贅を尽くした飛び切り豪奢な娯楽は、かつては王侯貴族の丸抱えで、そして現在は公的補助と篤志のスポンサーの支援を得て初めて成り立つ類のものなのです。この一事をもってしても、自立した劇場人ヘンデルの志と奮闘を多とすべきでしょう。

 さて、歌舞伎と同様、オペラは基本的にスター中心主義の芸術です。特にこの時代のバロック・オペラの公演はまさしく大スター歌手の存在を前提として成立するものでした。観客の多くは、ヘンデルの音楽そのものよりも本場イタリアの大歌手、名歌手の華麗で超人的な妙技を目当てに劇場に足を運ぶのです。したがって、興行の成否を決するこうした人気歌手の調達のためにヘンデルも再三自ら大陸に足を運ばなければなりませんでした。そうして連れて帰った彼らは往々にして傲慢不遜で大変扱い難い上、当然のように法外な報酬を要求して常に経営を圧迫します。またヘンデルの一座に対抗するオペラ・カンパニーなども現れて厳しい競争にも晒されるのです。

 しかしヘンデルの挫折の真の理由は、何よりも、誰も抗うことの出来ない時代の趨勢にありました。ヘンデルがロンドンの劇場で生きた半世紀は、前世紀(17世紀)初めにイタリアで花開いたバロック・オペラが爛熟して絶頂を迎え、やがて急速に衰退していった時期に重なります。特にヘンデルがその本分とした“オペラ・セリア”(シリアスなオペラ)と呼ばれる荘重・長大かつ極めて様式的な正統オペラは次第に時代の趣味・志向と合わなくなり、人々の支持を失ってゆきました。そもそもイタリア語などよく分からないロンドンの聴衆はヘンデルの重厚なオペラ・セリアに倦み、よりシンプルで軽快な、喜劇的で下世話な出し物を求め始めるのです。

“乞食のオペラ”の一場面  そうした気運を受け、1728年、人々の欲求を見事体現したかのようなオペラがロンドンの劇場で初演さ れ、瞬く間に大評判を取りました。ジョン・ゲイ(1685〜1732)の台本による「乞食のオペラ」(1728)の登場です。時代設定はまさに今現在、登場人物は大泥棒を初めとするアウト・ロー、内容は辛辣な社会・政治の風刺。こうした大変下世話なオペラ、あらゆる点で格調高い様式美に溢れたヘンデルのオペラ・セリアの対極にあるようなオペラが出現し、一世を風靡するに至りました。そしてこれによりヘンデルのオペラ興行は大きな打撃を蒙ります。まさに彼の奉じる正統イタリア・オペラの衰退を決定づけ、これに引導を渡す象徴的な一撃となったのです。
            アクセントボタン上の図:”乞食オペラ”の一場面(W.ホガース、テート・ギャラリー)

 あらゆる努力の甲斐もなく、それのから九年後、彼のオペラ・カンパニーは遂に破綻して終わり、ほどなくしてヘンデルは事実上オペラ創作の筆を措きます。栄光のバロック・オペラの最後の偉大な完成者、それが作曲家ヘンデルの担った音楽史上の役割でした。

 しかしこの後、既に老いに向かうヘンデルを意外な展開が待ち受けていました。 彼の人生には、“偉大なイングリッシュ・オラトリオの創始者”というもうひとつの歴史的役割が残されていたのです。この生涯最大の難局に臨んでついにオペラを断念した劇場の人ヘンデルは、まさに不屈の精神力をもって、英語台本に基づく自作の新たなオラトリオ――イングリッシュ・オラトリオ――の興行へと再起を賭けた大転進を敢行します。後にヘンデルの代名詞となった畢生の大作、オラトリオ「メサイア」は、皮肉なことに、深甚な挫折を契機としたこの苦衷の決断・転進の結果、いわば期せずして生まれ出たものだったのです。後ほどお話しするように、それは結局、ヘンデルにとって“晩年に得た最愛の庶子”のようなものだったといえるかもしれません。

 何故ヘンデルはオラトリオに向かったのでしょう? それは先ず何よりも、興行上の経済合理性の追求というまことに現実的なニーズが念頭にあったからです。オラトリオというとなにやら宗教的なイメージが先行しますが、彼はオペラに代わり得るより安上がりな劇場演目としてオラトリオという形式を選択したのです。ヘンデルの劇場用オラトリオとは、いわばコンサート形式で上演されるオペラ、舞台装置も衣装も演技も場面転換もない、簡素で静的なオペラとも言い得るものです。

 従前のイタリア・オペラと比べたときの大きな差異・特徴は、先ずイタリア語ではなく英語で歌われること、及び合唱が大変効果的に多用されること、の二点です。英語による上演は、大半がイタリア語を解さないロンドンの聴衆に対する遅れ馳せの配慮でもありますが、その最大のメリットは、わざわざ大陸から金食い虫のイタリア人スター歌手を招く必要がなくなったことでしょう。また合唱の巧みな重用は、作曲家ヘンデルによる純粋に音楽的な新たな独創であると同時に、省略された演技や舞台装置、場面転換に代わる劇的効果を経済的に担保するためのものでもありました。

 さらに、手練の“企業家”ヘンデルは、「四旬節興行」という、宗教的な理由に基づく劇場界の閑散期を活用した卓抜な興行システムを考案し、自作オラトリオのシリーズ公演に打って出るのです。オペラは古来長くて陰鬱な冬の夜の愉しみです。従って初冬から春の訪れまでが中核的なオペラの季節で、ヘンデル当時のロンドンではおおよそ11月の初めから翌年の5月末までの約半年間を開期として興行がなされていました。実はそのちょうど真ん中の書き入れ時に、「四旬節」という一か月以上に亘る“開店休業”の期間があったのです。

 キリスト教国最大の祝祭は、毎年3月の下旬から4月の初旬の間に巡ってくる復活祭(イースター)です。「四旬節」とは、この復活祭に先立つ四十日間の斎戒期で、この間、人々は十字架上の受難に至るイエスの苦しみを偲び、歌舞音曲を慎んで禁欲的な毎日を送る慣わしでした。世俗的な娯楽の代表格であるオペラは当然のようにご法度で、一方教会オペラとも呼ばれ、建前上宗教色が強いオラトリオの上演はいわばお目溢しとして認められていたのです。ヘンデルは、遊んでいる場所と演奏者を格安に手当てでき、他に競合者もいないこの時期に目をつけて、娯楽に餓えた首都の人々にいわばオペラの代用物として自作のオラトリオを提供することを思い立ったのでした。

 1743年、58歳の年に開始したこの試みは功を奏し、74歳で亡くなる1759年まで途切れ目なく続いて収益を上げ、一時は破産の憂き目を見たヘンデルは二万ポンドという巨額の遺産を残して人生を終えるに至ります。挫折したオペラ興行者ヘンデルは、もうその生涯の晩年といってもよいこの時期に自ら創始したイングリッシュ・オラトリオで作曲家として新たな境地を開くとともに、劇場人として見事に再起・復活を果たしたのです。
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3.メサイアの真実
(1)“最愛の庶子”の辿った道

 お待たせ致しました。ここからがいよいよ“われらが「メサイア」”のお話です。たしかに、今日のヘンデルをひとり代表するかのようなこの超有名曲も、上述したいきさつにより生まれた約30曲に及ぶイングリッシュ・オラトリオのひとつです。しかし、実はその中では大変特異な、例外的な作品なのです。

 先ず、成立の経緯です。そもそもがロンドンの劇場での上演のためではなく、ある貴族の依頼を受けて、ロンドンから遠く離れた植民地アイルランドの首都ダブリンにおける慈善演奏会のために作曲され、上演されたものです。

 次に、その内容と性格です。他のオラトリオは、同じく聖書に材を採ったものでも、その内容は宗教的というよりもひとつの完結した人間ドラマです。複数の独唱者がそれぞれに劇中の登場人物の役どころを担って筋が進行していくというスタイルはなんらオペラと変わるものではありません。一方、イエス・キリストの降誕・受難・復活を扱った「メサイア」には一貫したストーリーも登場人物も存在せず、この主題に関連して聖書から精妙に抜粋・配列された聖句がそのままひたすら歌い継がれてゆくのです。その意味でまったく劇的性格を欠いた純粋な宗教的作品で、このような彼のオラトリオは他にモーセの出エジプト記に拠った「エジプトのイスラエル人」(1739)一作があるのみです。また、両作ともに合唱の比重が飛びぬけて高いことも例外的な特徴といえるでしょう。

 そしてとりわけその受容とその後の運命です。1741年4月のダブリン初演は大成功で、6月には想定外の再演を行うほどでした。しかし翌年3月のロンドン初演時の首都の聴衆の反応は冷淡なものだったといわれています。劇場作品としてはあまりに非・劇的であること、またこのような宗教的な作品を世俗の劇場で上演することへの疑義などがその主な理由だったようです。この偉大な作品は、その後むしろロンドンの劇場とは無縁の場所で人々の心を捉え、やがてこの国の全土に浸透し、広く受容されてゆくことになるのです。またそれが、後にこの曲が海を越え、西欧文化圏をも越えて普及し、“世界のメサイア”となってゆく大きな流れの出発点であったことは言を俟ちません。

 そのひとつは、この作品とキリスト教的な慈善精神との結びつきです。晩年のヘンデルはキリスト教信仰への帰依を一層深め、“劇場の人”から“篤信の慈善の人”となって生涯を終えた感があります。特に1750年、65歳の時に開始し、以降死の前年に至るまでロンドンの孤児養育院において自ら開催し続けた「メサイア」の慈善演奏会は大きな感動と社会的共感を呼び、作品の認知と評価を著しく高めると共に、その後国内外に広まってゆく「慈善活動としてのメサイア演奏会」の伝統を生むことになったのです。その伝統はやがて非キリスト教国であるわが国にまで及び、現在もなお生き続けています。日本国際ボランティア・センター(JVC)が毎年公募によりアマチュアの大合唱団を組織して挙行する年末恒例の「メサイア」チャリティー・コンサートなどはその代表例のひとつといえるでしょう。

 もうひとつは、「メサイア」によって、遂にヘンデルの音楽がこの国の人々の心の深い部分に届いたことです。この作品をもって初めて、“首都ロンドンのヘンデル”は“イギリスの人々のヘンデル”となったのでした。まさしく、それまでのヘンデルの劇場音楽は帝都ロンドンの富裕な上、中流階級の人々のためのものでした。ヘンデルの時代にもこの首都への一極集中は凄まじいもので、当時人口60万のロンドンに対し、一万人を超えるような都市はイギリス全土で数えるほどしかありませんでした。またそうした規模の問題を別にしても、この国の地方都市にはそもそもヘンデルのオペラを受け入れるような土壌はなかったのです。

 ドイツでは、こんなところに、と驚くような地方の中小都市にもオペラ・ハウスがあり、あるいはかつてあった名残が今も残っています。国の統一が遅れ、大小の諸侯が割拠した歴史を反映するものでしょう。長い間多くの都市国家が並立したイタリアでも事情は同じです。これらの国々では、人々がオペラを育み、享受する土壌が歴史的に広く醸成されていたのです。一方、イギリスの地方都市にとって、こうした大陸のオペラの風土・伝統は全く縁のないものでした。国際的な音楽消費都市ロンドンは別格として、常設のオペラ専用劇場は現在でもスコットランドとウェールズの首都(エディンバラとカーディフ)にそれぞれ一箇所あるばかりです。この島国の人々にとって、オペラは長い間、ただ“異界”ロンドンを賑わすのみの新奇な風俗に過ぎなかったともいえるでしょう。

 さてそれでは、ヘンデルの本分であるオペラや劇的オラトリオではなく、彼の作品の中では大変に特異な性格を持った「メサイア」を、かくも広く深く受け入れるに至ったこの国の音楽風土とは一体如何なるものだったのでしょうか?

 連合王国ブリテンの中核であるイングランドには現在約50の“カウンティ”と呼ばれる行政区画がありますが、その殆どは英国国教会の伝統的な主教区と一致するものです。そこには必ず主教座都市があり、旧市街の中心には壮麗な、あるいは古色蒼然とした大聖堂が聳え立っていて、その中にはパイプオルガンがあり、専属の聖歌隊が組織され、これを演奏し、指揮する専門の音楽家がいます。この国には、彼らを核として地域の人々が集い、教会音楽のみならずさまざまな世俗の音楽をも楽しむ共同体が津々浦々に古くから形成されていたのです。ヘンデルの「メサイア」を自らの音楽として真に受け止め、継承したのは、首都ロンドンの劇場に集う移り気な聴衆ではなく、こうした伝統的な地方の音楽共同体を構成する人々でした。そうした人々の耳に届いたこの新しい音楽は、彼らが熱愛する合唱を縦横に駆使した、母国語で歌われる、宗教的な高揚に満ちた音楽でした。しかも、晦渋なところの少しもない、誰にでも開かれた明るく祝祭的な音楽。「メサイア」は、正に彼らが待ち望んでいた、彼らのための音楽だったというべきでしょう。

(2)地域性と普遍性のアイロニー

 お話ばかりが延々と続いてしまって恐縮でした。ここでその「メサイア」をご一緒に聴くことにしましょう。ただしご案内のように全曲を聴き通すと殆ど三時間を要する大曲です。そこで今日はまことに乱暴にも、冒頭の管弦楽による荘重な序曲、第二部最後の超有名な「ハレルヤ・コーラス」、そして「アーメン・コーラス」という俗称で知られる輝かしい終曲、以上三曲のみを抜粋してお聴きいただきます。

アクセントボタン音楽演奏: 「メサイア」抜粋。 カール・リヒター指揮ミュンヘン・バッハ 合唱団・管弦楽団(1964年録音のドイツ語版に拠る演奏、ポリドール・レコード)

 峻厳かつ劇的なバッハ演奏で一時代を築いたカール・リヒター(1926~1981)の指揮によるCDで聴いていただきました。このように、“ほんのさわり”とすらも言えないような断片を聴いただけでも、力の漲った素晴らしい音楽であることが実感されますね。聴き手の心に常に真っ直ぐに、力強く訴えかけてくる、まさしくヘンデルの面目躍如たる音楽です。

 ところで、ここで、歌詞が本来の英語ではなくドイツ語訳で歌われていたのにお気づきになったでしょうか? これは一種の作品の翻案に当たりますから、その是非を巡っていろいろと議論を呼ぶ類の問題ですが、ドイツ人リヒターは録音時のインタヴューでとても興味深いコメントをしています。その主旨は、“「メサイア」の場合、聴衆のよりよい理解のために状況により適宜翻訳歌詞で臨むことに問題はないと考える。しかしバッハの「マタイ受難曲」については、いかなる場合でもオリジナルのドイツ語版によって上演されなければならない”というものでした。ヘンデルの「メサイア」もバッハの「マタイ受難曲」も、国や民族や時代の枠を超えて人々に強く働きかける普遍的な力を持った作品です。しかしその普遍性のあり方が両者では大変に異なっている、というのがリヒターの発言の意味するところでしょう。ご案内のように、後者は “コラール”という、ルター派ドイツ・プロテスタント教会固有の伝統的な聖歌群を背景に成立する作品です。バッハの生きた地域社会の人々の信仰生活、音楽生活の中核にあったこの“コラール”の歌詞を、別の国の言葉に置き換えて演奏することなど考えられない、とリヒターは断言しているのです。そもそも無国籍的なヘンデルの音楽の持つ明快直截な普遍性と、地域共同体固有の音楽伝統に深く根を下ろすことによって逆説的に発現するバッハの音楽の普遍性。上述のリヒターのコメントは、同時代に並び立つこの二人の巨人の代表作の対照的な性格を端的に指し示すものだと思います。

 皮肉なことに、地域性に徹した先に初めて普遍性への扉が開かれる、という道筋が、偉大な芸術表現に至る王道のように思われます。逆に、こうした逆説を経ないで成立する普遍的な芸術作品こそむしろ稀であるといっていいのではないでしょうか。地域性に深く根ざすことのない芸術は見事花開いたかに見えても往々すぐに立ち枯れてしまい、永続的な生命を獲得することが難しく、時の経過と共に通俗的で浅薄なものに転落しやすいものです。その意味で、“コスモポリタン”ヘンデルの代表的な音楽はこうした危険を免れて今日ある希少な例といえるでしょう。まさしく彼のような巨大な才能をもって初めて可能な力技というべきです。そしてそのなかでもひときわ高く聳え立つ存在が、他ならぬ「メサイア」であると思います。

(3)「メサイア」と祝祭

 ご案内のように、「メサイア」は、神の恩寵による魂の救済と死の超克の喜びを歌うキリスト教的な宗教作品ですが、そこで歌われる喜びはキリスト者以外の人々にも広く開かれ、共に分かち合うことが可能な性格のものです。その意味で、この作品は、より普遍性をもった大いなる人間讃歌であるともいえるでしょう。こうした性格の作品に往々共通して認められる特徴として、それが人々の幅広い支持を得ることで音楽の世界を超えた社会的な広がりを獲得してゆき、そこでひとつの祝祭的な役割を担うに至るという一面を挙げることができます。 唐突な物言いで恐縮ですが、「メサイア」の八十年後に現れたベートーヴェンの「第九交響曲」(1824)なども同様の性格を持つ代表的な作品のひとつではないでしょうか。「第九」はフランス市民革命を経た時代精神が生んだ音楽です。これと共鳴するかのような人間讃歌を、殆ど一世紀も前に高らかに謳い上げていたヘンデルの先駆性に改めて驚きを禁じえません。

 いずれにせよ、ヘンデルの死後、「メサイア」は多分に祝祭的な音楽としてイギリスの社会に定着することになりました。ある特定の機会に「メサイア」を共同体験することが、社会が共有する理念や価値や願望を確認し合うひとつの祝祭となっていったのです。時代状況に応じ、それは時にキリスト教的な慈善精神の称揚のための祝祭となり、地域共同体のアイデンティティを確認するための祝祭となり、また時にナショナリズムの発揚のための祝祭となりました。こうした祝祭性と結びついたメサイア享受の伝統は、この曲が海を越えて世界に普及する際にも何らかの形で受け継がれていったように思います。

 さて、こういった「メサイア」を巡る歴史的文脈の中で、作曲家の死から既に百年が経過した大英帝国の絶頂期に、この国と渡来人ヘンデルを巡る大変興味深い、象徴的な光景が出現します。もうあまり時間もありませんが、これについては次に少々お話しておきたいと思います。
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4.大英帝国とヘンデル ――国家ナショナリズムと音楽――
(1)“音楽のない国”とヘンデル

 先ず、お手元に配布した国別作曲家年表をご覧下さい。17世紀後半から20世紀前半にかけてのヨーロッパの三大音楽大国とイギリスの状況を比較一覧したもので、一番上の欄がドイツ・オーストリア、次がイギリス、その下にイタリア、フランスという順に並んでいます。
国別作曲家年表
 この一覧表からも、日頃われわれが“クラシック音楽”と呼んで親しんでいる、おおよそバロック後期から後期ロマン派にかけての西洋音楽におけるドイツ・オーストリアの圧倒的な優位が明らかに見て取れますね。また、イタリアもフランスもこの期間ほぼ途切れることなく多くの大作曲家を輩出しています。ところがイギリスの場合、ご覧のように17世紀末のヘンリー・パーセルの死から19世紀末のエドワード・エルガー(1857〜1934)の出現まで、実に二百年にも及ぶ大空白期が存在するのです。ですから、イギリスの人々が、この空白期を埋める虎の子である“自国作曲家 ヘンデル”の所有権を決して手放そうとしなかった気持ちはとてもよく理解できる気がします。

 特にこの時代はイギリスが数々の国難を乗り越えて発展・伸長を続け、産業革命と対仏第二次百年戦争の最終的な勝利を経て世界に覇を唱えるまでの時代です。西欧列強が欲で目を血走らせながら植民地獲得競争に鎬を削った時代、そしてこうした帝国主義を背景に国民国家のナショナリズムが興隆した時代でした。大英帝国が最盛期を迎える19世紀はまた、列強の国家ナショナリズムがいわば沸点に達した時代です。

(2)万博の世紀 −「水晶宮」に鳴り響く音楽―

 そうした時代を象徴する国際的なメガ・イベントが、列強が国の威信をかけて開催を競った万国博覧会です。帝国主義の19世紀はまた万博の世紀でもありました。
クリスタル・パレス クリスタル・パレス
 1851年にロンドンで開催された記念すべき第一回万博において、その代名詞となったのが、「クリスタル・パレス」(水晶宮)という愛称で親しまれた展示会場です。鉄骨・総ガラス張りの、当時の技術の粋を集めたこのパヴィリオンは、その奇抜な外観と圧倒的なスケールで国内外の来訪者の度肝を抜きました。ここを舞台に、大英帝国の威信をかけた半年に及ぶ祭典が挙行されたのです。

第一回万博開会式 クリスタル・パレス

(3)「ヘンデル記念祭」−大英帝国の七十年−

 さて、祭典に壮麗な音楽は不可欠です。そこで大々的に徴用されたのが、他ならぬ“イギリスの作曲家”ヘンデルの「メサイア」でした。ヴィクトリア女王夫妻が列席した開会式では、一千人の演奏者による「ハレルヤ・コーラス」が高らかに会場に鳴り響きました。また六か月の会期中、会場内で毎週オラトリオ演奏会が開かれ、「メサイア」全曲が繰り返し演奏されました。この国威発揚の大イベントに、なんと既に死後一世紀を過ぎた渡来人ヘンデルが召還され、大英帝国の巨大な“国家的(ナショナル・)表徴(アイコン)”としてクリスタル・パレスの大空間に甦ったのです。しかしこれには実はさらに続編があります。そしてそちらの方がより驚くべきものかもしれません。
移設されたクリスタルパレス 移設されたクリスタルパレス
 大盛況のうちに万博が閉幕した後、当初解体・廃棄の予定だったクリスタル・パレスは惜しまれてロンドン南郊に移設され、その名を冠して新たにオープンした一大プレジャー・ランドの顔としてその後も長く存続し続け、全国から多くの人々を集めました。そしてここを会場として、1859年、ヘンデル没後百年を記念する「ヘンデル記念祭」という名の大イベントが挙行されます。これは実に途轍もないもので、なんと合唱が三千人、オーケストラが五百人、そして聴衆が二万人という、前代未聞のスケールのコンサートでした。ここで採り上げられた中心的な演目は、もちろん「メサイア」です。そしてこれまた驚くべきことに、このイベントはその後二年おきになんと1926年まで70年近くに亘って開催され続けるのです。

 ほんのちょっと想像を巡らせて見れば、これがもう音楽会などとはとても呼べない代物であることは瞭然です。クリスタル・パレスの中に設えられた仮設ステージは、大体現在の標準的なコンサート・ホール(座席数二千人程度)の舞台のほぼ十倍の広さでした。そこに総勢三千五百人の合唱とオーケストラが立錐の余地なく並んだ光景を思い浮かべてみてください。演奏者間の距離は最大で百メートルはあったでしょう。音楽は時間の芸術です。そして音速は毎秒330メートルです。互いに音を聴き合うのに――もし聴き合えたとしての話ですが――0.3秒かかるのです。どんなに有能な指揮者でも、そんな状況をまともに統率できるわけがありません。演奏者の前には、二万人の観客を収容した途方もない吹き抜けの大空間が広がっています。勿論マイクもアンプもない時代です。独唱者たちはここで声を限りに絶叫するよりほかに何が出来たでしょうか? またオーケストラには、この大空間と大合唱に負けないために、ヘンデルのスコアにない楽器が、作曲当時は影も形もなかった近代楽器も含めて多数取り入れられました。

 ちなみに、ヘンデルが自ら指揮した前述の孤児養育院での慈善演奏会における演奏者の数については、独唱者5名、合唱団18名、オーケストラ38名の総計61名だったという記録があります。「ヘンデル記念祭」と銘打ちながら、そこに再現されたものは、作曲者ヘンデルの意図とはまるでかけ離れた異様な大音響の世界でした。今日の常識からすれば、ヘンデルに対する、とても正気の沙汰とは思えない冒涜行為ということになるでしょう。

 要するに、通常のコンサートの範疇を遥かに越えたこの巨大イベントは、クリスタル・パレスという時代を象徴する祝祭空間で執り行われた国家スケールの祝祭だったのです。あるいはこれを、ある特殊な時代のひとつの社会的儀式、と言い換えてもいいかもしれません。それでは一体何のための祝祭、何のための儀式だったのでしょうか?

 祝祭には“神”が必要です。しかし、ヘンデルの名を標榜しながらも、彼は実はこの祝祭における“神”ではなく、いわばこの祝祭を統合するひとつのシンボル、表徴でした。私見では、真の“神”とは“大英帝国”であり、その栄光と偉大です。そしてこの祝祭をかくも長期に亘って支え続けた巨大なエネルギーは、ナショナリズムという名の人々の熱気でした。

   ナショナリズムとは、われわれ一人一人にとってはとても自然な、殆ど本能的な感情でしょう。しかしそれが国家として、あるいは民族として集合的に形成され、発動すると、ときに一種の狂気と化すものでもあります。帝国主義を背景とする国民国家の時代に様々な局面で噴出した過剰なナショナリズムはその代表的な例といえます。この、今日のわれわれの眼からは異様としか言い様のないヘンデル記念コンサートも、ヘンデルという巨大な表徴の下でのナショナリズム発揚の祭典だったのです。当時の国家ナショナリズムとは、本来そうした集団的狂気とはもっとも縁遠いイギリスの人々さえも巻き込む時代の病だったというべきでしょう。
 クリスタル・パレスという祝祭空間に当初揺るぎない絶対神として君臨した絶頂期の大英帝国は、やがて異教の神々にその座を脅かされ、遂には黄昏れて姿を消す運命にありました。「ヘンデル記念祭」の70年はちょうどその歳月と重なります。当初赤々と燃え盛っていたナショナリズムの炎は、やがて青白いノスタルジーの炎となり、ついには消えていったのです。
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5.ヘンデルとイギリスのバランス・シート ――結びに変えて――
(1)終の棲家

ヘンデルの家  ヘンデルの終の棲家はロンドン市内に現存し、“ヘンデル・ハウス”の名前で一般に公開されています。ロンドン屈指の目抜き通りニュー・ボンドストリートに近接する超一等地、という立地を別とすれば、それは右の写真のようにイギリス中いたるところで見かける何の変哲もないテラス・ハウス(棟割長屋)の一区画に過ぎません。

 “青い銘版”と呼ばれる、何らかの史跡であることを示す控えめな丸い表示が壁面に掲げられていなければそのまま見過ごしてしまうような簡素な建物です。ちなみに、その左隣りの区画には一時ロック・ギタリストのジミ・ヘンドリックス(1942〜70、アメリカ)が住んでいたことがあり、やはり同様の銘版が貼られています。何の巡り会わせか、18世紀と20世紀の代表的な“渡来人音楽家”が、時を隔てて隣りあわせに住んだことになりますね。いずれにせよ、実際に訪れて眺めてみると、その外観も、内部の広さや間取りも、これがあの大作曲家にして輝かしい人生の勝利者ヘンデルの終の棲家か、と拍子抜けするほどの慎ましやかなところでした。しかしロケーションは超一流で、それがひとつの社会的なステータスの証明であることは古今を問いません。事実、地方に本拠を持つ上流階級の人々も当時ロンドンでは多くこういう一等地にあるテラス・ハウスに居を構えて滞在していたのですから、ヘンデルの“あがり”の住居として不足のないものだったといえるかもしれません。

(2)遺産と遺言

 もうひとつ、“渡来人ヘンデル”の人生の締め括りを示すものとして、その遺産があります。先述したように、後年破産に見舞われながらも、ヘンデルは結局二万ポンドという多額の遺産を残しました。イギリス王室が彼に支給した年金が二百ポンドですから、実にその百年分に相当する金額です。これを現在の邦貨に換算するのは難しく、またそれほど意味のあることとも思えませんが、おそらく優に数億円以上の額だと思います。

   ヘンデルは、この遺産の処分を詳細に指定する遺言書を残しました。それは既に1750年、65歳の時に作成したものにその後何度も手を加え、1759年の4月、74歳で死去する三日前にも補足を行って最終確定されたものです。ヘンデルは生涯独身を通し、その私生活を窺わせるよすがも殆ど――おそらく意識的に――残しませんでした。そうしたなかでこの遺言書は、その改定の経緯を含め、ヘンデルの人生に光を当てる貴重な一次資料であると考えられます。それについて今詳細に述べることは出来ませんが、これまでのお話に関連して特に注目すべき点にのみ、簡単に触れておきたいと思います。

 そのひとつは、ヘンデルが深く関わった孤児養育院への配慮として、“「メサイア」の清書譜を贈る”、と言い遺したことです。これは熱心な慈善活動家としての晩年のヘンデルを、そしてこれと深く結びついた「メサイア」という特別な作品への彼の深い思い入れをよく物語るものでしょう。しかしやはり慈善の一環として、例えば困窮音楽家救済のためには一千ポンドという現金を贈っているのです。これに対し、“「メサイア」の清書譜の遺贈”とは一体どういう実質的な意味を持つものだったのでしょうか。 全くの私見ですが、著作権などないも同然だった当時、これはいわば、「メサイア」の演奏についての特別なステータス、一種の優先演奏権を孤児養育院に与えたいというヘンデルの希望の公的な表明だったのではないでしょうか? 人々がヘンデルの遺志を尊重し、孤児養育院がこれを効果的に行使できれば、養育院は一時的な現金の取得よりも大きなメリットを長期に亘って享受できるはずだからです。しかしもしそうだとしても、その願いの成就が大変難しいことはヘンデル自身がよく心得ていたことでしょう。彼は生前、度重なる自作の無断上演や楽譜の海賊版の横行に散々悩まされ続けた人でした。

ウェストミンスター寺院 ウェストミンスター寺院
 もうひとつは、ヘンデルが遺言の中で自らウェストミンスター寺院での“ほどほどの”葬儀を希望し、そのための費用まで遺したことです。それは“渡来人”としてこの国に果たした貢献への自負の表明であり、また文字通りその臣民として生涯を終える意志の最終的な表明だったといえるでしょう。 ヘンデルの遺言はおおむね誠実に履行されたようです。ウェストミンスター寺院での葬儀には三千人が参列し、まことに“ほどほどに”執り行われました。“渡来人ヘンデル”のイギリスにおける実人生はこうしてめでたく幕を閉じたのです。

(3)“ビジネス”のゆくえ

 さて、以上はいわばヘンデルの側から眺めた“ヘンデル渡来”の一部始終です。それではこれを、彼を受け入れたイギリスという国の側から眺めてみるとどんな次第になるのでしょうか? これは語り始めるとまたまた大変長いお話になってしまうので、今回はごく手短に触れて、それをもってひとまず今日のお話を終えたいと思います。

 おそらく、有用な「他者」を拘りなく内部に取り込み、縦横かつ巧妙に登用・活用して実を取る能力にかけてイギリスの人々の右に出る国民はいません。見事なまでに外来系の君主で占められたこの国の歴代王朝の系譜などは、その最も象徴的な現れのひとつでしょう。その昔渡来した大陸のゲルマンが長い歴史を経て“島のゲルマン”へと変容する中で形成された、この国の人々の際立った特質のひとつだと思います。

 そうした観点から眺めてみると、ヘンデルのイギリス渡来は、野心実現のための自由な天地を帝都ロンドンに求めた若きヘンデルと、この将来性豊かな目覚しい才能の囲い込みを図ったイギリスとの間に成立した一種のビジネスだったと捉えることもできるような気がします。そのために、アン女王の王室はヘンデルにそこそこの身分と生活の保証を与え、活動の機会と基盤を提供したのではないでしょうか。

 そこそこの身分とは、この時点(1713)では王室からの年金の下賜を受ける者、と言うステータスです。そしてそこそこの生活の保証とは、二百ポンドというその年金額でした。ちなみに、少し後になりますが、十八世紀を代表する文人サミュエル・ジョンソン(1709〜84)に下賜された年金は三百ポンドでしたから、これはそれほど破格の厚遇というわけでもないでしょう。当時のロンドンの熟練職人の年収が四十ポンド、教員や教区教会の聖職者のそれは百ポンド前後といわれています。一方ヘンデルのオペラの主な聴衆だった上流階級、及び富裕な中流階級の人々はおよそ一千ポンドから上の年収を有する層だったと思われます。ヘンデル自身は、やがてオペラ興業の雇われ芸術監督として二千ポンド程度の年収を得る身になりますから、彼にとってのこの年金は、明日知れぬ劇場人生における有難いセイフティー・ネット、といった程度のものだったでしょう。

 そしてこのささやかな先行投資の見返りは、実に莫大なものでした。彼らが囲い込んだこの渡来人は、主要な国家行事のたびごとに壮麗な式典音楽を提供して帝国の威光を内外に遺憾なく示し、首都ロンドンをヨーロッパ屈指の国際的な音楽の都とし、偉大な“イングリッシュ・オラトリオ”の伝統を創始し、更には死後にも召還されて、ナショナリズム発揚の国家的表徴という役回りまで勤めるに至るのです。 “島のゲルマン”のビジネスのいつもながらの見事な結末を、ここにも見る想いです。

 本日は長時間ご清聴いただき、まことに有難うございました。

DVD鑑賞編 ――ヘンデルのオペラを見てみよう!――

 現代に甦ったヘンデルのオペラの代表作のひとつ、「ジュリオ・チェーザレ(ジュリアス・シーザー)」の一部をDVDで鑑賞。当日適宜行った解説については割愛します。

アクセントボタンDVD情報;
  歌劇「ジュリオ・チェーザレ」全曲  DENON  TDBA-5041~2
  指揮:ウィリアム・クリスティー、演出:デイヴィド・マクヴィガー、
  ジュリオ・チェーザレ:サラ・コノリー、クレオパトラ:ダニエル・ドゥ・ニース
  2005年のイギリス・グラインドボーン音楽祭のライヴ収録。

歌劇「ジュリオ・チェーザレ」 歌劇「ジュリオ・チェーザレ」 歌劇「ジュリオ・チェーザレ」


文責:臼井良雄
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:大野令治


本文はここまでです


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