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2009年10月30日 神田雑学大学定例講座No479


日本の食文化の真髄「納豆」、講師 松本忠久





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はじめに
(第1部)日本の納豆の歴史
会場からの質問
(第2部)仰木の納豆餅
会場からの質問2




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著書「平安時代の納豆を味わう」

【はじめに】

わたしは、昭和11年生まれの72歳です。ここにお集まりのかたがたの中では、若手ということになりましょうか。サラリーマン生活中、本を出版するとは、夢にも思っていませんでした。しかし5年ほど前に退職してから、「平安時代の納豆を味わう」「平安時代の醤油を味わう」「ある郷土料理の1000年」など、

日本の伝統的な食文化について本を書きました。今日は、そのなかの「納豆」についてお話ししようと思います。食べものの話ですから、今日は5種類のサンプルをお持ちしました。話の段階でお回ししますから、ご試食ください。

【前提・豉と納豆ということばの混乱について】
もともと中国では、豆の形を残した発酵食品を、「豉(くき)」と総称していました。塩気があるものを「鹹豉」(かんし)、塩気がないものを「淡豉」(たんし)と、大きく二つに分けていました。「鹹豉」の代表は、中国食品の「豆豉(トウチー)」です。「淡豉」の代表は、「糸引き納豆」「テンペ」などです。「干し納豆」は、もともとは「淡豉」ですが、塩味をつけることが多いので、「鹹豉」の一種だといえましょう。

ところが古代の日本には、このうちの「豆豉」(鹹豉)だけが渡来しました。それで日本では、「豉」というと、「豆豉」だけを指す習慣が生まれました。
それから時代を経て、平安時代の日本で、「糸引き納豆」が生まれました。ほんらいは「豉」の一種、「淡豉」なのですが、既存の「豉」と区別するため、最初は「伊等(いと)」、のちには「納豆」「干し納豆」と呼ぶようになりました。

「納豆」が普及すると、在来の「豉」を、俗に「唐納豆(からなっとう)」、つまり「外国の納豆」と呼ぶようになりました。おかげで日本では、「豉」と「納豆」ということばが二重に入り混じって、混乱を生じています。まず、これを整理させていただきました。
ついでですが、「豉(くき)」という文字は、よく楽器の「鼓(つづみ)」と間違えて書かれています。料理書の半分ぐらいは間違っています。「豆偏に支」と書くのが正しいです。

「豉(くき)」とはどんなものか、あまりなじみがないかたもいるでしょう。今日は、現代中国の「豆豉(トウチー)」を持ってまいりましたので、味を確かめてください。中国では、おもに調味料として、「排骨豆豉(パイクートウチー)」とか「回鍋肉(ホエクォロー)」などの料理に使っています。

松本忠久 講師中国では、「豆豉」は、二千数百年前、漢の時代から存在しました。生きているような婦人のミイラで有名な「馬王堆第一漢墓」(まおうたい・だいいちかんぼ)から、「豆豉」そのものが発掘されています。これが飛鳥朝以前の日本に、味噌、醤(ひしお)とともに渡来しました。日本ではこれに山椒、生姜などを加え、そのままお茶受けや酒の肴として、賞味できるように改良しました。

手まり鮨や菓子にも利用されています。京都の「大徳寺納豆」、浜松の「浜納豆」を持参しましたから、中国の「豆豉」と食べくらべてください。ついでに、日本で市販されている「干し納豆」もお回しします。

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(第1部)日本の納豆の歴史

それでは本論に入りましょう。日本の「糸引き納豆」(以下、納豆と略す)は、いつどこで生まれたのでしょうか?

【結論】
わたしは、平安時代の初期に、日本で独自に生まれたと考えます。

【根拠】
(1)奈良時代以前に「納豆」が存在したという記録や遺物がない。
藤原京時代(718)に完成した基本法典、「養老令(ようろうりょう)」には、宮内省大膳職
(くないしょう・だいぜんしき)が、三種の穀醤「醤」「豉」「未醤(みそ)」を製造し、宮中に供給することを定めています。この三種は、食品自体も名称も中国に起源があることが確実です。また、奈良時代の「正倉院文書(しょうそういんもんじょ)」にも「納豆」は登場しません。

(2)平安時代前期(927)に完成した法典「延喜式(えんぎしき)」は、大膳職が「等伊」と「供御醤(くごびしお)」という新しい食べものを供給するよう、「養老令」に追加しています。それぞれ、「納豆」「醤油」に比定できます。また、「等伊」とセットになっている『豉』は、既存の「豉」ではなく、「干し納豆」を意味していると考えられます。

こう比定する最大の根拠は、奈良時代になく、平安時代以降、現代まで存続している主要な豆類の発酵食品といえば、「納豆」「醤油」しかないことです。それが重要な食品だからこそ、大膳職が宮中に供給することを法律で定めたのです。

「延喜式」の条文は、「等伊」は、大豆とワカメだけで造るかのように書かれています。これではなにもできません。昔から不可解な食べものとされてきました。これは、こう解釈されます。大豆とワカメは原料ではなく、「納豆」を外部に委託製造させた代償だと考えられます。委託した理由は、従来製造してきた「醤、豉、未醤」が米麹菌で造られるのに対し、「納豆」はその大敵である納豆菌で造られるからです。

(3)「等伊」は、そのままでは意味が通じません。「納豆」を指す古語「伊等(いと)」を、筆写の段階で誤って転倒したものと思われます。「納豆」は、外国から渡来したのではなく、日本で創出されたものです。だから、発生時には呼び名がありませんでした。そこで、「糸を引く」という最大の特徴をとらえて、大和ことばで「いと」と呼び、万葉仮名で「伊等」と書いたわけです。

しかし、「伊等」ということばは、裁縫の「糸」とまぎらわしいので、すぐ廃語になり、「納豆」という新造語に置き換えられたのです。これを裏づけるのは、室町時代の宮中で、「納豆」のことを「いと」「いとひき」と呼んでいることです。いわゆる「御所ことば」「女房ことば」です。
「納豆」発生時の命名法が再現されたといえましょう。しかし宮中では、「いと」という呼びかたが残っていたのかもしれません。

(4)「納豆」はどうして日本で発生したのでしょうか。それは、日本では稲藁を「藁苞(わらづと)」として、食器に使う習慣があったからだと思います。藁づとには納豆菌が無数に付着しています。これに煮た大豆を入れ、保温しておくと自然に発酵して「納豆」になったという可能性が高いです。日本の夏は高温多湿ですから、「納豆」ができやすい環境です。

(5)平安時代後期(1060ごろ?)に「新猿楽記(しんさるがくき)」という本が著されました。この中に、初めて「納豆」ということばが出てきます。原文はごらんのように切れ目がない漢字の羅列です。どこで区切り、どう解釈するか、昔から難題になっていました。
納豆に関する部分は、「七番目の娘は美食家で、酒を愛する女である・・・」と、書き出されています。彼女が好む食べものになずらえて、当時、じっさいに美味だとされていた料理が列挙されています。その一つが「納豆」です。ところが、その直前に「鹽辛」という文字があるため、「糸引き納豆」を指すのか、「豉」の別名なのか、両説があります。私は「糸引き納豆」説です。

その理由は、「納豆」は日本で創出されたものです。それを指す呼び名として、「納豆」ということばが新造されました。これに対し、「豉」は中国から渡来したときから「豉」と呼ばれてきました。「納豆」ということばが初出(しょしゅつ)した段階で、「豉の別名」だと考えるのは無理があります。すなおに「納豆」と解釈し、このことばが普及した後で、「唐納豆」(外国の納豆という意味)などと転用されたと考えるべきでしょう。

講義風景


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【会場からの質問】

Q.平安時代の納豆は、現代の納豆と同じでしょうか?
A.同じです。「納豆」は大豆など豆を煮て汁を切り、藁で包むか納豆菌を混ぜるかして、三日ほど保温しておけば完成します。ほかの材料は使いませんし、納豆菌以外ではつくれません。これはいつの時代でも同じです。

Q.「延喜式」には、それまで日本になかった食べものが書かれているという話ですが、「豉」という字に「干し納豆」を宛てるのは不自然ではないでしょうか?
A.そう比定する根拠は三つあります。
第一に、「延喜式」には、「養老令」にはなかったものだけが書かれています。すでに「養老令」に書かれている「豉」には触れません。だから、「延喜式」の「豉」は、「養老令」の「豉」と違うもの、すなわち「干し納豆」を指しているのです。

第二に、「豉」とは、豆の形を残している発酵食品全体を指すことばです。中国から伝来した「豆豉」も「豉」なら、「干し納豆」も「豉」なのです。さきほどお回ししたように、「干し納豆」は、見た感じが「豆豉」によく似ています。これを「豉」と呼んで、なにも不思議はありません。
第三に、昔は現代と違って、ものを厳密に分けるということをしませんでした。似ているものを同一視しました。たとえば、「正倉院文書」では、ほんらいの「醤」とは製法が違う豆味醤のようなものも、醤の汁(つまり醤油)も、ひとしく「醤」と呼んでいます。

Q.天皇は宮中(京都)にいたわけですが、関西には納豆文化がなく、現に関西人は納豆を食べないのはなぜですか?
A.これは、「納豆」の起源と歴史にかかわる重要なポイントです。
関東以北の人は、関西では「納豆」を食べない、と信じている人がとても多いです。
しかし、わたしは、「納豆」は京都を一つの中心として発生したのではないかと考えています。
これまで挙げたとおり、「納豆」の存在を示す「延喜式」「新猿楽記」、つぎに触れる「お湯殿の上の日記」などの古い文献は、みな京都で生まれました。平安時代から明治維新にいたるまで、京都が日本の中心であり、天皇、貴族、役人などが集中して住んでいました。文化の発信地だったわけです。

講義中の松本講師「納豆」は、宮中で好んで食べられました。室町時代から江戸時代まで、天皇の身近にはべる女官が、毎日のできごとを「お湯殿の上の日記(おゆどののうえのにっき)」という日誌に書きとめました。その中に、「いと」「いとひき」が、天皇に献上されたことが、しばしば記録されています。大部分は「門跡寺院(もんぜきじいん)が献上しました。門跡とは、京都、奈良の寺院の住職に天下った天皇の親族のことです。高級貴族も献上しました。このように、室町時代以前は、「納豆」は、むしろ高級なめずらしい食べものとして珍重されていました。

このように京都でよく食べられた「納豆」が、全国各地に伝わったと考えるのが妥当です。第二部でお話ししますが、京都と滋賀、いわゆる京滋地方(けいじちほう)では、「納豆」を手づくりして行事食にする風習が、色濃く残っています。他国にはあまり見られない、儀式的な食習慣です。納豆文化は、この地方から生まれたといっても、さしつかえないでしょう。
しかし、各地が必ずしも好んで受け入れたわけではなく、京都に近い大阪、奈良、和歌山などでは現在でも「納豆」を食べる習慣が希薄です。

Q.「糸引き納豆」の「いと」は判りましたが、「納豆」という名前のいわれはなんですか?
A.日本語の命名法は、簡潔明瞭な場合が多いです。豆を炒ったものを「炒り豆」、煮たものを「煮豆」といいます。煮てから三、四日納めて発酵させた豆だから「納豆」といったのです。「納」という字には「しまっておく」という意味があります。造りかたと材料が明確に示されていると思います。

Q.司馬遼太郎の著書に、鎌倉時代に覚心(かくしん)という坊さんが、南宋に修行に行き、径山寺味噌(きんざんじみそ)を日本に持ち帰った。それを手本に造った径山寺味噌の汁が醤油の起源だ、と書かれていますが、いかがでしょうか?
A.それは違うと断言できます。
「径山寺味噌」は、煮豆、小麦、米麹、塩などを混ぜたものに、真桑瓜(まくわうり)、生姜、紫蘇などを入れて発酵させ、そのまま食べる嘗め味噌です。仕込むとき、水は一滴も入れず、煮豆や野菜類に含まれている水分だけで発酵させます。汁はごく少なくしか採れません。もともと嘗め味噌ですから、それでよいわけです。

現在、和歌山県の湯浅、御坊付近では、覚心が伝えたという古式によって、いくつもの味噌醤油醸造業者が「キンザンジミソ」を造っています。その中で「丸新本家」だけが、「金山寺味噌」から採った汁を「金山寺たまり醤油・九曜むらさき」という商品名で市販しています。
その造りかたは、大きな桶に「金山寺味噌」を仕込むと、上面に10センチぐらい汁が溜まります。これをバキュームで吸い上げ、ひとつのタンクに溜めておきます。あるていど溜まると、半分ぐらいを瓶詰めして売り出します。そして、またタンクに汁を溜めてゆきます。味わってみますと、色、味、香りとも濃厚な溜まり醤油です。しかし、野菜類が発酵した酸味が加わり、生姜の香りも移っています。溜まり醤油としても特殊な材料、製法です。これが日本の醤油全体の祖先だとは、とうてい思えません。

それよりずっと古い奈良時代の「正倉院文書」には、「醤(ひしお)」の汁でうどんを和えて食べたことが記されています。「醤」とは、いってみれば、野菜を入れずに醸造した「径山寺味噌」です。これが「溜まり醤油」の原型だと考えられます。さらに、平安時代の「延喜式」には、前に述べた「供御醤(くごびしお)」の原料の配合が書かれています。これが、現代の「濃口醤油(こいくちしょうゆ)」の祖先だと思われます。「供御醤」をじっさいに試醸したリポートを、前著「平安時代の醤油を味わう」に掲載しましたから、ごらんになってください。
以上のような根拠により、「鎌倉時代説」を否定いたします。

(注)覚心は中国の「径山寺」でおもに修行したが、各地を行脚して「金山寺」でも学んだといわれている。両寺とも嘗め味噌を製造していた。だから湯浅、御坊一帯では、メーカーによって「径山寺味噌」か「金山寺味噌」のどちらかを使っている。

Q.日本の食品事典によれば、「納豆」は京都のお寺で最初に造られたとあります。「納戸(なんど)」で造られたから「納豆」というのではありませんか?
A.それは誤りだと思います。「納戸」でなく「納所(なっしょ)」ではありませんか。
「納所」とは炊事場ではなく、荘園、役所、寺院などで、だいじな貢納米や金品を受け渡したり保管しておくところです。「納豆」を造るには、豆を長時間煮たり、保温したり、たいへん手間がかかります。木造建築の時代に、最も怖れられたのは火災です。ちゃんとした炊事場があるのに、だいじな保管庫で、わざわざ「納豆」を造るとは信じられません。「納所」「納戸」で造られたという積極的な根拠がどこにもありません。ただ一つ、江戸時代の医師、人見必大(ひとみ・ひつだい)が、「本朝食鑑」にこう書いただけです。

納豆ということばの意味はまだ明らかでない。ある人は、寺の納所でつくられるから納豆と名づけられたというが、適当とはいえない。

人見必大が否定した俗説が、真実であるかのように、ひとり歩きしてしまったのです。
「納所」「納戸」は、「(不急不要な物を)しまっておくところ」「しまっておく戸がついた小部屋」という意味です。「納豆」を、「しまっておいて発酵させた豆」というのと同じ簡潔明瞭な表現です。もし「納豆」が、「納所」「納戸」で造られたのなら、「納所豆」「納戸豆」というのが、自然な命名法です。

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(第2部)仰木の納豆餅

納豆の歴史を遡ると、京都・滋賀に行きつくことはさきほど申し上げました。それを裏づけるような、滋賀県大津市仰木(おおぎ)の納豆餅をご紹介しましょう。またこれは、「関西では納豆を食べない」という俗説を打破するのにも役立つでしょう。仰木は、比叡山の東北の傾斜地にある山里で、美しい棚田が有名です。昔から、棚田の畔(あぜ)に大豆を植え、それで味噌、醤油、納豆を造ってきました。

ここでは、「すのう」という行事に、巨大な納豆餅を食べる風習があります。納豆餅は、仰木の農業のシンボルです。棚田の水利技術は、神話や伝説によると、「墨江津~葛城山~仰木」と伝わったといわれています。

(1)「住吉神社神代記」
大阪市住吉区の住吉神社一帯は、古代では「墨江津(すみのえつ)」と呼ばれ、大陸や朝鮮半島からの文化の輸入拠点でした。「住吉大社神代記(すみよしたいしゃじんだいき)」には、このような神話が書かれています。

住吉神(すみのえのかみ)は、大和国(奈良県)の葛城山麓の人びとが、水利に乏しいのを嘆いていることを知り、峠を越えて水を引く技術を教えた。これによって開かれた土地は、水分、水越(みくまり、みこし)と呼ばれるようになった。

神話はほんとうでしょうか。現在、奈良県御所市(ごせし)の葛城山麓では、水越川(みずこしがわ)の水で棚田を耕作しています。川は、葛城山と金剛山の間の水越峠から発していますが、分水嶺(奈良県と大阪府の境界)を越えて大阪側に侵食し、大阪の水を獲得しています。御所には、水を配分する神を祀った「葛木水分神社(かつらぎみくまりじんじゃ)」があります。「住吉神社神代記」の記述どおりです。墨江津を経て伝来した水利技術で、葛城山麓が開拓されたことを暗示しているようです。

(2)「滋賀県大津市仰木に伝わる伝承」
江戸時代中期に寒川辰清(さむかわ・とききよ)が著した「近江與地誌略(おうみよちしりゃく)」などの文献によると、仰木の里がこうして開発されたという伝承があります。

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、またの名は葛城皇子(後の天智天皇)は、天智天皇6年(667)に、飛鳥京から近江大津京に遷都した。このとき、伽太夫(かだゆう)という神人(しんじん=神に仕える人)が、葛城に住む多数の民を引き連れて大津に移住した。伽太夫は水源地を発見し、ここに「滝壺神社」を設けた。この水によって仰木の棚田を開拓した。

天智天皇はわずか4年後に亡くなり、都は飛鳥浄御原に遷った。しかし、伽太夫は仰木にとどまり、開拓をつづけた。平安時代になると、「滝壺神社」の拝殿として、仰木に「小椋神社(おぐらじんじゃ)」が創設された。

傾斜地の水利技術が、住吉神社からはじまって、葛城山麓へ、さらに仰木の里へと伝わったことが伝えられています。「滝壺神社」「小椋神社」とも、平安時代の「延喜式」に記載されています。いわゆる「式内社」です。伝承の一部は事実にもとづいています。

(3)「現代の仰木のすのうの風習」
仰木では、毎年12月に「すのう」(収納という意味と思われる)という行事がおこなわれます。これに欠かすことができないのが、巨大な納豆餅です。実測したら、長径32cm、短径23cm厚さ15cmありました。重さは3.312kgでした。材料は、餅米2.25リットル(一升二合五勺)と、藁苞二、三本分の納豆、それに塩と、取り粉に使うきな粉だけです。棚田で採れた米と大豆、それに塩だけが原料です。納豆はかならず塩で味つけし、醤油はいっさい使いません。餅やきな粉には味をつけません。

「すのう」は、一年の収穫を終えたことを祝う行事です。それとともに、もう一つの意義があります。それは、農家の家督相続を公認する儀式なのです。小椋神社は、本社である「田所神社(たどころじんじゃ)」と、四つの摂社から成っています。「田所神社」の氏子は四つの組に分かれていて、各組ごとに、一年に一戸の「当屋(とうや)」を定めます。「当屋」で「すのう」の行事をおこない、その家の家督相続者を公認するのです。

仰木は昔から小作農が多かったのです。家督を相続し、戸主として小作権を継承することによって一家が暮らせたのです。今では戸主制度は無意味になりましたが、伝統は厳粛につづけられています。「すのう」の当日、朝まだ暗いうちから、「当屋」に親類縁者や集落の人が集まり、交代で餅を搗きます。

これで納豆餅を四、五十個も作ります。これを儀式として食べるだけでなく、参列者へのおみやげにします。藁しべで餅のはじっこをくくり、引き絞ってちぎって食べるのがコツです。塩味の納豆が、餅の旨みとよく合い、飽きずに食べることができます。
仰木の納豆餅は、古来から営々と積み上げられた農民の労苦をねぎらい、大自然の恩恵を敬うためにあるのです。これを講演のまとめといたします。

(拍手)
                                 
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【会場からの質問2】

Q.納豆というと、茨城の水戸納豆が有名ですが、それはなぜですか?
A.納豆の発生についてはいろいろな説があります。弥生時代からあったとか、聖徳太子や八幡太郎が発見したとかいわれています。しかしこれらは、確実な根拠がない伝承、伝説です。これらの伝説は、商業目的に利用されています。しかし、総じて東北、関東では、昔から納豆を好んで食べる食習慣がありました。かといって、水戸だけが特別さかんだったわけではありません。明治維新以後、水戸で大規模に生産されるようになったのが始まりだと聞いております

Q.うちのお婆ちゃんの最初の結婚の相手は、福島県の醸造試験所で分離した納豆菌を使って納豆を造った人です。大もうけした結果、女遊びにふけり、結局離婚したそうです。納豆は福島県から工業化が始まったと聞いていますが、いかがですか?
A.納豆を工業化した地域としては、仙台だという説もあります。

明治45年に納豆製造法について詳細な研究を発表した、盛岡高等農林学校の村松舜祐博士(明治38年に初めて納豆菌を分離し、バチルス・ナットと命名した沢村真博士とは別人)の製法によるという「川口納豆」(宮城県栗原市)が、現在でも市販されています。各地で工業化されたのかもしれませんが、確実なお答えができません。

A.(会場から)質問ではありませんが、三越本店の前の路地に、「利休庵」という蕎麦屋があります。この店の売りは「納豆そば」です。欅を刳りぬいた木椀の中に、大根おろしと納豆に囲まれた細打ち蕎麦があり、それに薬味として、かいわれ大根、海苔、荒削りの鰹節、中央に生卵の黄身を乗せて客に出します。客はそれに蕎麦つゆをかけて食べるのですが、じつに美味しい。この店の客の八割が納豆そばを食べるそうです。あまりに美味しいので尋ねると、蕎麦粉は北海道、納豆は水戸納豆で、これが最高です・・・と、胸を張って答えてくれました。一度お試しください(笑い)。

A.(講師)関連情報です。京都の先斗町(ぽんとちょう)通りには、「有喜屋(うきや)」という老舗の蕎麦屋があります。ここの「有喜そば」が絶品です。軽く摺った納豆に生卵を加え、ふんわりと泡立て、それを熱いかけ蕎麦やうどんに載せて食べます。関東ではまだ食べたことがありません。京都に行かれたら、ぜひ召し上がってください。京都にも東京に劣らない納豆文化があることがわかります。

Q.甘納豆というのは、小豆にもあるし、そら豆にもあります。どれも納豆らしくないのですが、納豆なんですか?
A.「納豆」ということばは、もともと「糸引き納豆」を指す新語でした。しかし、それが普及するにしたがって、それに姿かたちが似たものに「納豆」という名をつけるようになりました。さきほどの「大徳寺納豆」「浜納豆」がそうですし、甘納豆もそうです。

Q.私は76歳です。こどものころ、「藁づと」に納豆が入っていました。米は平地で採れ、大豆は山間部で採れたと思います。
A. 私は、藁づとで納豆を試作しました。「藁づと」に煮た大豆を入れ、自分の腹に巻きつけて保温しました。その結果、納豆ができました。こんな方法でも「藁づと」で納豆が造ることができます。

Q.発酵食品は癖があるので、こどもの頃から食べないと、なかなか慣れないと思うのですが、日本の納豆は世界から受け入れられているのでしょうか?
A. 世界全体となると、わたしにはあまり知識がありません。日本の「納豆」に近いものは、ラオスあたりの少数民族が食べているようです。しかし、西欧全般では、チーズやアンチョビーなど、肉類の発酵食品が主流のようです。「納豆」は、醤油で味つけし、ご飯といっしょに食べるのが一番おいしい食べかたです。日本人はご飯を主食とし、副食物を添えて食べるという食習慣があります。やはり「納豆」は、日本人に最も愛好されるのではないでしょうか。

Q.55年ほど、東南アジアで仕事をしてきました。最後の5年間はベトナムでした。あの国は、中国の内乱で負けた民族が流れてきたといわれていますが、「豉」が料理に使われていました。ただし「糸引き納豆」は売られていませんでした。
A.韓国料理には、「納豆チゲ」という鍋料理がありますが、日本統治時代に、海苔巻きや沢庵漬けなどといっしょに伝わったのだと思われます。

Q.腹巻納豆はちょっとできないと思いますが、「干し納豆」ならできそうです。造りかたを教えてください。
A. ちょうど、手製の「干し納豆」を持参しました。神田明神下の「天野屋」の大粒の納豆で造りました。まずこれを味わってみてください。造りかたは非常に簡単です。ワンパックの納豆を大皿に広げます。その上に塩をパラパラ振ります。一日ぐらい陰干ししたら、スプーンなどで裏返し、もう一度塩を振ります。このとき、振りすぎないよう注意してください。乾燥すると濃縮されますから。やや乾いてきたら、ほこりが入らないようキッチンペーパーで蓋をします。もう戸外で直射日光にあてても大丈夫です。途中、手で粒をバラしてやります。5日から一週間ぐらいで出来上がります。

コツは三つあります。少しづつ(ワンパックぐらい)造ること。塩を控えること。干しすぎないこと、です。大量だったり、しょっぱすぎると食べ飽きます。干しすぎると、なかなか味がでてきません。持参したものが限度です。

Q.藁づと納豆は確かに売っていますが、サランラップに包まれた納豆が中に入っていました。醸造の段階では大きな桶で造って、出荷の際にフィルムに包んで藁づとに入れるのでしょうか?
A. 秋田県の「藁づと納豆」のメーカーに聞きました。生の藁で納豆を造るのは、衛生上、保健所から禁止されているそうです。それで、藁づとを加熱殺菌し、その中に煮豆に納豆菌を吹きつけたものを入れ、保温して発酵させるという話でした。けれども、まったく別に造った納豆を、藁づとに挿入する方法もあります。この場合、藁づとは単なるパッケージです。

ちなみに、大規模に納豆を造る場合、納豆菌を吹きつけた煮豆を、最初からカップに入れたりラップでくるんだりしてから発酵させます。この方法なら手際よく造れますが、大量にまとめて造った納豆を、小分けして包装するのはたいへんです。

Q.転勤で関西に行ったとき、居酒屋のメニューには「糸引き納豆」と書いてありました。東京に帰ってきましたら、ただ「納豆」とだけ書いてありました。なにか歴史的な背景があるのでしょうか?
A. 関東では、「納豆」といえば「糸引き納豆」だと、ほとんど決まっています。ところが関西、特に京都では、「納豆」といえば「大徳寺納豆」なども指します。それで「糸引き納豆」と明示したのでしょう。つけ加えれば、関東以北は料理文化の面では後進地域です。京都は、平安時代から明治維新まで、永いあいだ首都でした。だから、料理文化が発達しました。さまざまな食材を、いろいろに調理するのに長じていました。

「糸引き納豆」は、調理加工せず、そのまま食べるのが一番おいしいです。だから関東以北では、「納豆」そのものを常食にする習慣が根づいたのではないかと思います。余談ですが、熊本では名物の馬刺し(ばさし)を納豆で和えた「桜納豆」を美味しくいただきました。熊本では、蕎麦屋でもラーメン屋でも、トッピングに「納豆」を選べます。また、納豆に醤油と砂糖を混ぜて食べる風習もあります。これはご飯には合いませんが、焼いて焦げ目をつけたお餅と食べると美味しいです。工夫しだいで、まだまだいろいろな「納豆」の食べかたがあると思います。
おわり




文責:松本 忠久・三上卓治
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


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