ページの先頭です
現在位置: ホーム(1)講義録一覧 2007〜2009(2) >ホータン絨毯の変遷について
WEBアクセシビリティ対応

ページの先頭です

ページの先頭です

2009年12月11日 神田雑学大学定例講座No485
  ホータン絨毯の変遷について、講師、杉山徳太郎



メニューの先頭です 目次

アクセント画鋲
1.はじめに
2.絨毯という言葉、絨毯の文様
3.西域地域の古い絨毯
4.私が発掘したホータン絨毯中興の祖「カレキン・モルドヴァック」
5.動乱時代のホータンと馬虎山「和真紀念」の絨毯
6.ホータン絨毯の文様
7.ホータンの近況
8.参考文献



メニューに戻る(M)

杉山講師の画像1.はじめに

ご紹介のように私は神田神保町のすずらん通りの真ん中で、スガハラという室内装飾業の店をやっております。祖父が17歳で横浜でテーブル掛けとかレースの装飾品を扱い始めました。
関東大震災で被災し、東京に出てきて昭和4年から神保町のすずらん通りで室内装飾の店を開いて、今に至っています。
私は1941年に地元のお茶の水浜田病院に生れましたが、育ったのは芝の南佐久間町です。結婚してからはこの神保町に住んでいまして、子供は錦華小学校、一橋中学校にお世話になりました。

私は立教大学を出てから川島織物という京都の帯とかインテリアの会社に勤めました。私は家を継ぐつもりはなかったのです。ところが父が交通事故で亡くなったのです。
家を継がざるを得ないので戻ってきたのですが、川島織物に3年いたことが、私と絨毯との出会いだったと思います。
入社した昭和41年に川島織物が緞通、いわいる中国緞通を天津で作らせたのです。日本の中尊寺の螺鈿藤原華文という厨子の貝殻で象眼した文様を織ったものです。今でも売れているようですが、非常に華麗なデザインです。
そこから数えますと45年、絨毯との長い付き合いになります。

私が西域に興味を持ったのはこの絨毯との出会いからです。
西域というのは中国領内のシルクロードという意味です。シルクロードは一つでなくて幾つもあるのです。新彊ウィグル自治区の中にも幾つものシルクロードがあります。
私は1986年に4月に、このあこがれの地にツアーで行きました。日本特殊旅行という会社が催した名前通りの本当に特殊な旅行で、12名の団体で入りました。ウルムチ、トルファン、敦煌、酒泉、嘉峪関を回りました。私が目的としていたカシュガルやホータンはあのころはまだ未開放地域だったです。
その翌年から一人で行きはじめました。まさに冒険です。
私は言葉が出来るわけではないんです。ガイドを雇って旅をしていました。行くたびに友達が増えました。
行ってしまうとガイドや通訳が何とかしてくれるので、何とかなってしまうんです。ある時はオアシスとオアシスの間で車のシャフトが折れてしまって、砂漠の真ん中で途方に暮れたこともありました。 これまで11回行って、古いアンティーク絨毯を相当集めました。また私より2年前に入っていた方が集めていらっしゃいまして、その方のコレクションも全部私のところに来ましたから、日本では最大のホータン絨毯コレクションになっていると思います。

講演会場風景 私が旅に出る目的は絨毯の文様の調査、それと絨毯の仕入れ、観光です。
行ってから人生が変わりました。ちょうどそのころ日本ではバブルが始まったのですが、あっちは物が無いんです。けれども老人がみんな幸せそうな顔をしているのです。日本のただ生きているという老人と顔が全然違うのです。
ショックを受けまして帰ってきたときに室内装飾業界の新聞に「日本では季節という節を忘れてしまい、冬でもナス、キュウリが食べられるように物資が豊かだが、はたしてこれは幸福であろうか」と書いたんです。日本では冬でもなすとかきゅうりを食べていますね。これはおかしいと思って書いたんです。 人生観が変わって、バブルの時の銀行の様々な金儲けの話にも、融資の話にも耳を貸さないで済みました。

メニューに戻る(M)

2.絨毯という言葉、絨毯の文様

絨氈とか絨毯という字が正しいです。現在は絨毯が一般的に使われています。
それからカーペットと絨毯の違い、これはお分かりにならないと思いますがカーペットというとともかく機械織りです。絨毯と言うと普通手織りのことを指します。
カーペットやラグと言うのは英語です。ラグというのは比較的小さなサイズを言います。大きいものはカーペットです。中国では今は地毯という字を使います。
絨毯を構成している基本的な模様については下の図を見てください。
絨毯の基本的文様の図

これはペルシャ絨毯の一番基本的な文様です。メダイヨンというデザインです。
絨毯の枠をボーダーと言いまして、四隅にコーナーと言う部分があります。
絨毯は縦糸にパイルを結んでいくのですが、チベットのものを例外として縦糸の結び方に二つあります。基本的には上図に書かれた、ペルシャ結びと右側のトルコ結びの2種類があります。

この結びをノット(Knot)と言います。絨毯をひっくり返しますと一目了然で分かるのですが、細かくノットが多くあるものが織るのに時間がかかっているものです。
粗いものは早く織れます。絵柄も細かなものが高いです。例えば1平方cmの中にタテ、ヨコ10のノットがあると1平方mで100万個のノットが必要です。

それから絨毯の産地です。
皆さんは絨毯と言うとペルシャと思うんでしょうが、実はアフリカから日本までベルト状につながって産地があります。アフリカではアルジェリアとかチェニジアが有名なのですが、モリタニアとかいう国にも絨毯があり、昔から織っているのです。 それからインドもムガール帝国の時に織っています。
日本に来て鍋島緞通とか赤穂緞通、堺緞通それから山形緞通などとして伝播してきています。
西域ではタクラマカン砂漠の周辺のオアシスで絨毯が盛んに織られました。天山北路、天山南路、西域南道の三つの有名な交易路があります。
ここの住民は今はウィグル族が多いです。中国の自治区や自治県は少数民族の多く住む地域ですからそう言われていますが、今は兵士などの数も入れるとひょっとすると漢族の方が多いかもしれません。

メニューに戻る(M)

3.西域地域の古い絨毯

バジリク絨毯の図A バジリク絨毯の図B

この写真は今現存する世界の絨毯の中で一番古いと言われる2400年から2500年前のバジリク絨毯です。これは西域で出土したものではないんです。
今はロシアのエミルタージュ美術館にあります。これはなぜこんなにきれいに残ったかと言いますと、南シベリア、アルタイ地方のバジリク渓谷のスキタイ時代の古墳が冷蔵庫みたいに氷漬けになっていて発見され、この絨毯とか刺青のあるミイラとかが出てきています。
絨毯は3000年以上前から織られていたと私は思うのですが、繊維ですからなかなか残っていないのです。 私が入れ込んでいる新彊ウィグル自地区のホータン絨毯も、フラグメントといいますが、右にあるような断片は出てきているのです。英国の有名な探検家のオーレル・スタインが集めたものが印度の国立博物館にスタインコレクションとしてあるようです。

ところがこの20年くらいで完全な形のものも出るようになってきました。
バジリク絨毯の図C バジリク絨毯の図D

これはホータンの近くの山普拉(サンプラ)という遺跡があるのですが、そこから出土したもので、この絨毯は1世紀から3世紀の漢代に織られたと言われています。
私は学者ではありませんから、勝手なことが言えます。
右側はサンプラで出た完全な形のものです。木の葉の文様が織られていると言われていますが、私はこれを踊り子だと見ました。木の葉なんて面白くもないではないですか。手を横に挙げて踊っている姿に見えませんか?

私はホータンというオアシスでは2000年以上前から絨毯を織っていたと考えているのですが、ここを7世紀に玄奘三蔵が印度の帰りに訪れています。当時は仏教国だったのです。
その時に「ホータンは絨毯を織ることとシルクの織り物を織ることが盛んである」と大唐西域記に書いてあります。
今はウィグル族はトルコ系のイスラム教徒ですが、三蔵法師が来たときとかその前は、トルコ系のウィグル族ではなかったようです。
今いるトルコ系のウィグル族がかって住んでいたところは蒙古です。後にキルギス族に追われて、ずっと西に逃げて、それぞれの土地に定住して最後はトルコまで行ったのです。中国では突厥とかチュルキーとか言われている民族がトルコ系の民族なのです。
その中の人たちが9世紀10世紀ごろホータンに移って、現地のイラン系の人たちと混血していると思います。
またインドも近いですから、インドの血もかなり入っていますので、美人の産地として有名なところです。
ですから先程見た1〜3世紀に織られた絨毯は先住民のイラン系の人たちが織ったものです。

清朝乾隆帝以降の絨毯の図E 清朝の乾隆帝が新彊を平定したのは1756年、中国の版図が一番広くなったのがこの時代です。この時代にチベットも中国領になりました。
乾隆帝以降の絨毯が昔の北京の紫禁城、現在の故宮博物館にかなり残っているのです。
左の写真です。同治帝がまだ幼い時に西太后と東太后が養心殿東暖閣で同治帝の後ろにスダレを垂らしてその後方から政治を助言した(垂簾の政)宮殿の玉座の下に敷かれていました。現物を見ていませんし、この絨毯を解説したものしか見ていませんが、多分、シルク製だと思います。これもホータンで織られた絨毯です。文様は代表的なものの一つ、チャチマ・ヌスカ(散花文様)です。

ニューヨークメトロポリタン美術館にある乾隆帝以降の絨毯の図F 文様はかなりムガール帝国の影響も受けています。
これはニューヨークのメトロポリタンにあるもので、解説書には「Gift of Wiliam M.Emery 1963」とありエミリーさんと言う方の寄贈品です。100年くらい前のものと書いてありますがこれは間違いだと思います。私は200年前のものと思っているのです。
何故ならばこれは乾隆帝が使っていた絨毯ですが、写真ではみえませんが、この上に寧寿宮備用と織り込んであるのです。寧寿宮という建物で使っていた絨毯なのです。
寧寿宮とは乾隆帝が60歳を超えて上皇になったとき住んだところが寧寿宮なのです。ですから私は200年は下るまいと考えているのです。
真ん中の円文の中の龍は皇帝の着用する「龍袍」の胸に置かれた文様で、使用されている黄金色は皇帝にしか使用を許されなかった色相です。

ニューヨークメトロポリタン美術館にある乾隆帝以降の絨毯の図G 中国は清朝末期から新中国までの混乱の時代に良いものがかなり外国に流れており、メトロポリタンが絨毯の良いものを数多く所蔵しています。
これもメトロポリタンにある絨毯の部分写真ですが、これも200年は経っていると思います。これはザクロの文様なのですが、これは全部植物染料で染められたものです。藍と茜ですね。花柄で囲まれているボーダー(枠)もホータン絨毯の特長を良く表しています。ウィグル族の人々は花模様が好きなのですね。

メニューに戻る(M)

4.私が発掘したホータン絨毯中興の祖「カレキン・モルドヴァック」

カレキン・モルドヴァックの写真 清の末期1886年に新彊省という省が出来ました。新中国が成立したのは1949年です。この間の時代は中国が外国の干渉を受けて大きな混乱を来した時代でした。
その時代にホータンに生きたこの写真の方のお話をしたいと思います。この姿は私にとって幻の姿だったのです。
この方はアルメニア人でカレキン・モルドヴァックという人なんですが、この方のことは橘瑞超の『中亜探検』やユーリ・N/レーリヒの『アジアの奥地へ』などの本に断片的に書かれています。

私はホータンオアシスにアルメニア人がいて、絨毯工場をやっていたということに興味を持ちまして、この人を調べはじめました。
第六次新彊旅行(1990年6月)の時、カレキン・モルドヴァックを探す決心をしました。 それで戦前生まれの知恵で、戦後すぐにNHKラジオで「訪ね人」の放送があったのを思い出して、それでホータンのテレビ局に掛け合いました。幾らでこういう訪ね人を放映してくれるかと尋ねたんですが、向こうも始めてらしくて、広告条令に照らして検討してくれて、結局、当時の7100円元でOKしてくれたんです。
あの頃はまだ白黒テレビでしたがウィグル語と中国語で合計4回放映してくれました。
効果は抜群で放映した日から6人の関係者が出てきました。

それぞれの方々とお会いしているうちにこの方が大変な方だったということが分かりました。
1909年にホータンに来たんです。トルコのアダナという港町でアルメニア人の大虐殺事件があり、それで二人のユダヤ人を連れてホータンに逃げて来たのです。奥さんや子供とは行き別れになっていると思います。そしてホータンで絨毯工場と絹の工場をやりまして成功するのです。
カレキンさんの絨毯工場の写真 右がカレキンさんがやった絨毯工場の写真だと思います。 この工場は1000坪の敷地に半分が果樹園で半分が絨毯工場と絹の工場だったようです。絨毯工場は250名、絹の工場は50名くらいいたようです。インド経由で輸出をしたりアフガン経由サマルカンド、とかロシアなどにも輸出をだいぶしていたようです。

見つかった人たちにインタビューして色々なことが分かりました。
このカレキンさんが最初に住んでいた家がまだ残っていました。カレキンさんは88歳で1938年に亡くなるのですが、キリスト教を信じ、ずっと独身で真面目な生活をしていたそうです。
途中でホータンには東干の軍閥が入ってきて占領した時代がありましたが、この時にイスラム教以外の異教徒は殺されたそうです。周りの人がこの人を守るためにイスラム教の礼拝を教えて、白い着物も着せて、守ったと言うエピソードも聞きました。

一緒に来たユダヤ人のことも分かりました。
この人は絹の仕事をやって任されていましたが、ある時期に独立して、絹の仕入れに近くのオアシスに行きましたら、ウィグル族の娘さんを見染めてしまいます。
でも片っ方はユダヤ人です。反対されたんだけれどもユダヤ教を捨てましてモスリムになって結婚しました。この方の子孫を私は見つけることが出来ました。

これはこの時の調査で見つけましたカレキン・モルドヴァックのお墓です。
四回墓参しました。向こうでは誰もこの人のことを知らないんです。
カレキン・モルドヴァックのお墓 杉山講師が作ったカレキン・モルドヴァックの墓碑
私は顕彰しようと思いまして墓碑を自分で作ってみました。中国語、ウィグル語、英語、アルメニア語、日本語で、「ホータン絨毯中興の祖カレキン・モルドヴァックここに眠る」という碑です。
ところがこれを建てようと申請書を出しましたが許可が下りないんです。なぜならこの人のことを誰も知らないんからなんです。
それで私も自己満足だけで建てても仕様がないし、いずれ現地の人が氏のことを評価して建ててくれるだろうと思って、まだ建立せずに自宅に置いてあります。これは本栂(ほんつが)の一枚の原板に自分で彫って人工漆で文字を埋めました。

5.動乱の時代のホータンと馬虎山「和ゥ紀念」の絨毯

さっき軍閥が入ってきたという話をしましたが、1934年に入ってきまして4年間ホータンを占領します。回族の馬虎山という男が率いていた軍閥です。

黄河の麓の甘粛省蘭州近くの河州には馬という名字の軍閥が多くいました。その中に馬仲英という英雄がいたのですが、その人が勢力を拡大してウルムチを攻めるのです。しかしソ連の介入を受けて攻めあぐねてカシュガルからソ連総領事館の人の手引きでソ連に亡命してしまうのです。
その敗残兵を引き連れて1934年にホータンを占領したのが馬仲英の異母弟とか従弟とか言われた馬虎山なんです。
4年間占領したときにこの政府が強制的に何千枚も絨毯を織らせました。それがこの絨毯です。私も20数枚所蔵しておりますので今日は実物をお見せします。
この馬虎山のことも作らせた絨毯のことも今では殆どホータンでは知られていません。

馬虎山と藍色の絨毯 この絨毯が特異なのは4年間しか作っていないことです。
そしてこの藍染の色は漢族の嗜好の色です。回族も同様です。ですからホータン絨毯に比べて地味ですね。

驚いたことに神保町でこの絨毯を持っている人がいました。小宮山書店のご主人が犬養健さんのご縁で手に入れたものだそうですが、殆ど同じ模様のものを持っていらっしゃって見せていただきました。ホータンにも今はあまりないものなのに、奇縁でしたね。

馬虎山はその後。破れてインドに亡命しますが、金塊120kgと共にインドのレーで捕まります。フダベルディ・アルメニは全財産を40頭のロバに積んで、奥さんと子供を置いてインドに逃げるのですが、最終的にはアラビア半島で再婚して死んだということまで私は調べました。1960年代にメッカで亡くなっています。

6.ホータン絨毯の文様

これからホータンの絨毯の文様のことをお話します。

お話し中の杉山講師 ホータンの周辺では2000年くらい前から絨毯を織っていたと言いましたが、周辺のカシュガルやヤルカンドでも織っていたと思います。
それからロプ(洛浦)というオアシスにも絨毯工場があって、清の時代にはここに漢族の絨毯工場があったという記録もあります。
ですからカルキンさん以外にも以前は沢山の工場があったのですね。

それから工場以外でも農村の中庭で、雨がほとんど降りませんから、ぶどう棚の下で親子で織ったり夫婦で織ったりしてバザールに持って行って売るということもあったようです。
ですから私の持っている絨毯も、文様が一枚一枚違っています。基本的なパターンは40種類でほどに分類できるのです。

ホータンの場合一つのオアシスで多岐な文様を作っていました。周辺の国も影響を受けて色々な文様を作っていました。
まず漢民族の影響、それからムガール帝国の影響もあります。それからコーカサスの影響、当然ペルシャの影響もあります。
完全なコピーではないんですが、うまくアレンジして自分の文様にしています。 先程メトロポリタンにあったザクロの文様については写真を載せました。これは昔から織っていた文様です。ただ古いと言っても乾隆帝の前のものは一挙に遺跡からの出土品に飛んでしまい、その間のものは残っていないのです。

次の6点は代表的な文様です。ヌスカはウィグル語で文様を意味します。

ホータン絨毯の文様1 ホータン絨毯の文様2 ホータン絨毯の文様3

左のものは200年は経っているものと思います。杉山コレクションの一部です。
これは散花文様チヤチマ・ヌスカですね。とにかくウィグル族は花が好きですから、花模様をいっぱいに散らしたものです。一つ一つを見ると素朴ですがすごく力強い文様です。

次は150年くらいたっています。漢族の影響の花瓶の文様(ロンカ・ヌスカ)です。花瓶は中国では色々な絵画や染色とか陶器の文様のモチーフになっています。

三番目も花瓶文様(ロンカ・ヌスカ)です。これは200年は経っているでしょう。 桃、ざくろ、仏手柑の三つの組み合わせで吉祥文様“三多”です。ボーダーの蝙蝠も中国では吉祥動物です。

ホータン絨毯の文様4 ホータン絨毯の文様5 ホータン絨毯の文様6

四番目は礼拝用絨毯(ジャー・ナマズ・ギラム)です。この長いのはモスクで使用され、一つのミヒラーブ(壁がん)に一人一人座り礼拝します。

五番目はロシアの影響を受けた絨毯です。当時はロシアから色々な物品が入ってきていましたが、その中にバラの花をプリントした毛布があったようで、それとお盆(トレイ)とを組み合わせたモダンな文様です。

六番目はカレキン・モルドヴァックが創案したケルクン・ヌスカ、流水文様と言うのです。 ウィグル語でケルクンというのは洪水とか溢れる水という意味です。

それと向こうの人はカレキンさんのことをケルクンと言うのです。ですからカレキンのかけ言葉でケルキュンと言ったのかもしれないと思っています。
これが一番人気があるものですから私のコレクションでも一番多いです。たしかにきれいです。
ホータンは砂漠でしょう。花なんて殆どないのです。ですから柘榴なんかが咲くと大喜びです。着るものもみなさん赤いものが好きです。花にあこがれるのも無理はないでしょうね。

上海風景図 最後のは珍品です。私は今までに40種類近くの文様を探し出しましたが、これは風景の文様を織った中の一枚です。
上海風景図と書いてありますね。1920年代のものだと思います。
織られている飛行機は中島飛行機の甲式四型戦闘機と同じ形です。
まだ上海租界が建築中のようですから1920年代には間違いないと思います。

私はこれはカレキンさんが織らせたと仮説を立てています。
カレキンさんはインド経由でタイムス誌を取って読んでいたことが知られています。
アルメニア人は世界中に散らばってしまったのですが、ともかく情報をとっているのです。お金儲けもうまいのですが、慈善事業もやっているのです。
カレキンさんは子供たちや貧しい人たちに本当に親切にしていたようです。
タイムズにこの文様の元になる写真が載っていないかと思って調べたこともありますが、まだ見つかっていません。

これはホータンの羊です。絨毯はアフリカからずっとありますが、だいたい良い羊がいるところがいい絨毯の産地です。ただし日本は佐賀に伝わってきまして鍋島緞通、赤穂に伝わって赤穂緞通、堺に伝わって堺緞通がありますが、これらは全て綿なのです。日本には羊がいませんでしたからね。

7.ホータンの近況

下の左の写真がカシュガルの5年前の9月末に行った時の街かど風景です。葡萄だとか柘榴だとか果物のシーズンです。
右は私の親戚みたいな家でヤルカンドにあります。
私は4,5回お邪魔しています。

カシュガルの街角風景とヤルカンドの親しい家族

20年ほど前に初めてお伺いしました。おじいさん、お父さんは亡くなって、今は一番左に立っている息子さんが布地商の当主です。

中央の丈の長い外套(チャバン)を着たお父さんは、この写真を写した翌年、メッカに巡礼に行って帰国後まもなく亡くなりました。
メッカに行けて幸せでしたと、息子さんは言っていました。大変なお金持ちの家です。

カシュガルの絨毯屋 これがカシュガルの絨毯屋でのスナップです。今、バザールで売っている絨毯は殆どが化学染料です。
手織り絨毯はウールで織ったものが丈夫です。シルク絨毯は壁掛用です。
ウールの足ざわり、手ざわりをお楽しみください。



8.参考文献

最後になりますが絨毯のことを知る上で有用な文献を書いておきます。

『ペルシャ絨毯の話し』山川出版社 坂本勉著。
これは非常に良い本です。これはペルシャ絨毯の陰と陽を書いています。良いことも悪いことも全て分かりやすく書かれています。

今回の講演で使用した参考文献は下記です。
[参考文献]
杉村棟 (1994)『絨毯―シルクロ―ドの華』朝日新聞社
杉山徳太郎 (1991)『維吾爾絨毯文様考―西域の華』源流社
杉山徳太郎 (2008)『ホ―タン手織絨毯選集』国書刊行会‥
HANS,BIDDER(1964)『Carpets from Eastern Turkestan』Universe Books,London
賣応逸・張亨徳編著 (1984)『新彊地毯史略』軽工業出版社(中文)



文責:臼井良雄
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:大野令治


本文はここまでです


このページの先頭へ(0)

現在位置: ホーム(1) 講義録一覧 2007〜2009(2) >ホータン絨毯の変遷について―清朝第6代皇帝乾隆帝から新中国成立まで―

個人情報保護方針アクセシビリティ・ポリシィ著作権、掲載情報等の転載、リンクについて連絡先

Copyright (c) 1999-2010 kandazatsugaku Organization. All rights reserved.