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平成22年4月23日
神田雑学大学定例講座N0503


イギリス王室今昔物語


目次
イラスト画像の画像
メニューの先頭です はじめに
1.イギリス王室−不思議でしたたかな絶滅危惧種ー
1−1.主役登場−王室の現在ー
1−2.王室は何のために?
1−3.東の島と西の島
1−4.王室紋章の語るもの
1−5.王室の変容ー新たな統合の象徴に向けてー
1−6.“国民ひとり年69ペンス”−“象徴”の費用対効果ー
1−7.王統途絶の恐れなしー融通無碍な継承法ー
2.アングロ・サクソンは何処に?−外来王朝の一千年ー
2−1.王室の開祖は征服者
2−2.外来王朝が担った一千年
2−3.アングロ・サクソンの流儀ー渡来人の島の国家経営ー
3.“イングランドの薔薇”の遺したもの
3−1.“ダイアナ物語”の十六年
3−2.私情の人チャールズ
3−3.世論調査に見る民意
3−4.“王家の病”の超克
おわりにー王室の未来ー



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はじめに

   神田雑学大学さんのご好意でこれまでイギリス音楽関連のシリーズ講座を担当させて頂きましたが、今日は音楽とは直接関係のないイギリス王室のお話です。実は今回、企画のご担当から、「音楽は一応一区切りついたので今度は少し目先を変えたイギリス物を」というご要望があったものですから、つい「それではイギリス王室についてお話をしてみましょうか?」と口を滑らしたところ快諾され、さしたる見通しもないままお受けしたというのが実情です。それが今から二か月ほど前のことでした。そして、よりにもよって大変な課題を選んでしまったな、というのがこの期に及んでの偽らざる心境です。
   なにしろ一千年の歴史をもつ世界に冠たる王室の今昔――歴史と現在――がテーマです。イギリスの王室史とはいわばこの国の正史そのもので、その政治・社会・文化の歴史すべてを如実に反映するものです。そこには、所謂“イギリス的なもの”の本質、精髄が見事に凝縮されているに違いありません。
   もとより、そのような大それたテーマと四つに組み、短時間でまとまったお話を申し上げる用意などあろうはずもありません。ここでは、いくつかのトピックスを取り上げてイギリス王室の過去と現在を点描風にご紹介することにより、それらが自ずと映し出す“遠くて近い国イギリス”の独特な姿をご一緒に眺めてみたいと思います。とりとめのないお話となりますが、どうかご理解の上、最後までお付き合い頂ければ幸いです。

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1.イギリス王室−不思議でしたたかな絶滅危惧種ー

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1−1.主役登場−王室の現在ー

   まずは「今」の話から入ることにしましょう。この写真の方々が、エリザベス女王ご夫妻を中心とした現在のイギリスのロイヤル・ファミリーです。

(画像をクリックすると大きな図が出ます)

現ロイヤルファミリー2007年 「イギリス王室今昔物語」とは、このファミリーが背負っている一千年の歴史と、その結果としての現在の王室の有りようを語ることに他なりません。そうした意味で、このご一家は今日のお話の主役とも言うべき方々ですね。ちなみに、写真中 央の現女王エリザベス二世(1926より)は、1066年に即位した王室の始祖ウィリアム一世(1027?〜1087)から数えて四十三代目の君主にあたり、かつイギリス王室史上六人目の女帝です。
   女王の生きた二十世紀は、イギリスのみならず全ヨーロッパの王室にとってまさに受難の時代でした。世紀の初めには王制を敷く国が圧倒的であったにもかかわらず、二度の大戦を経てその殆どが廃絶の憂き目に会い、したたかに生き残った王室はイギリス、北欧三国、オランダなど、指折り数えるほどとなりました。
そしてこの大波を何とか潜り抜けてもなお、激変した時代・社会環境の中でその将来は決して楽観できるものではありません。国民と共にある聡明・篤実なクィーンとして敬愛された現女王も既に在位半世紀を越え、八十歳半ばとなりました。そうした今、彼らロイヤル・ファミリーは、王室存続の意義、コスト、さらには王家のモラルや徳性に向けられた国民の厳しさを増す眼差しに晒されつつ、待ったなしの世代交代を迎えようとしているのです。まさに正念場にあるといえるでしょう。
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1−2.王室は何のために?

   さて、現存する世界の君主国のうち、アラブ諸国など今なお絶対王制を敷く国はさすがに残り僅かとなり、大半は民主的な「立憲君主国」です。
ご案内のように、そこでは王室は世俗の権力を持たず、国の代表としてもっぱら儀礼的な国事行為のみに携わります。即ち、国家・国民の「象徴」として存在するわけですが、その象徴の性格はそれぞれの国の歴史や国情を反映してさまざまです。では、世界に先駆けた立憲君主国イギリスの王室の場合、それは一体どのようなものなのでしょうか? 
   一言で言うと、それは「古くて新しい複合民族国家イギリスの統合の象徴」でしょう。
現在のイギリスは、「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」というその正式な国名表記が示すように、大ブリテン島を占める「イングランド」「ウェールズ」「スコットランド」、そして隣のアイルランド島の一部を占める「北アイルランド」の四国からなる連合国家です。
これら四国のうち歴史的に「宗主国」とも言うべき役割を担ってきたイングランドは、紀元五世紀ごろヨーロッパ大陸から侵略的に移住し、やがてこの島の支配者となったゲルマン系のアングロ・サクソン人が打ち立てた国であり、他の三国は彼らに屈した先住のケルト系の人々に由来する国々(いわゆる「ケルト三国」)です。
このように、現在の連合王国イギリスの姿は、その成立に関わる歴史的民族的な支配・被支配の構図を今も色濃く反映するものなのです。こうした多民族由来の複合国家にとって、統合の維持こそが今も昔も最大の国家的要請であることは理解に難くありません。
アングロ・サクソンの渡来と現在の連合王国イギリス

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1−3.東の島と西の島

日本の皇室ご一家近影2009年
   脇道にそれるようで恐縮ですが、ここでほんのちょっとわが国の皇室に目を転じて見ましょう。「神武天皇即位以来、本年もって皇紀二千六百七十年」といった草創神話に係る話は一先ず措くとしても、天皇家は、イギリスさえ凌ぐ長い皇統の歴史を誇る、世界でも稀な由緒ある王家です。また、憲法上の明確な規定こそないものの、現在の日本が実質上天皇を象徴的な国家元首に戴く立憲君主国であることは明らかでしょう。
では、そうしたわが皇室が担ってきた象徴性とはどんな性格のものなのでしょうか? 
   私見では、「万世一系」という表現にも端的に認められるように、皇室は有史以来のわが国の「一貫した民族的純一性の象徴」だと思います。これから話題としたいイギリス王室の紋章と比較して実にシンプルなわが皇室の紋章ー菊の御紋章ーにも、こうした性格が良く表われているように感じられます。
   同じように大変古い歴史を有する島国国家でありながら、かたや、古代ローマ帝国の植民地支配に始まる様々な渡来民族の興亡・混交の歴史を経て形成されたイギリス。かたや、大和朝廷による統一国家の成立以降一度も他国の侵略を受けることなく民族的純一性を保持し続けた日本。両国の辿った対照的な歴史が、それぞれの王室のあり方に良く反映されているといえるでしょう。
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1−4.王室紋章の語るもの

   先程述べたイギリス王室が象徴する「統合」の基本的な性格が、この現王室の紋章に如実に反映されているように思います。 現イギリス王室の紋章

それは「イングランドの支配・主導のもとでの連合国家の統合」なのです。紋章のデザインは、この国の成立経緯までも物語るかなり込み入ったものなのですが、要は四つの図柄に分割された中央の盾が四国連合体を表象し、これを立ち上がったライオンーイングランドの表徴ーが守護・支配している、という構図です。
このように、長い歴史を通じ、イギリス王室とは畢竟アングロ・サクソンの 国イングランドの王室に他なりませんでした。
   紋章の意匠は、王室一千年の歴史の中で時代を映しつつ大きく、あるいは微妙に変化を続けてきたのですが、現在のものは、1837年、先代ハノーヴァー朝のヴィクトリア女王即位の年に定められたものです。
図柄の意味するところをもう少しご一緒に眺めてみましょう。
   左側の立ち上がったライオンと対を成すように右側に描かれた一角獣は、実はスコットランドを表しています。従って、これを見るとイングランドとスコットランドは同格のように見えますね。
事実、この両国が建前上同格だった同君連合の時代が存在したのです。1603年に始まるスチュアート王朝の時代です。
この王朝の初代君主ジェームズ一世はそもそもスコットランドの国王でした。
以来約百年の間、スチュアート王朝の国王はイングランド、スコットランド二国の王を兼ねることとなったのです。
勿論両国の力関係は歴然で、1707年、同王朝最後のアン女王の時代にイングランドがスコットランドを併合するかたちで同君連合は解消され、今日の連合王国の祖型である「グレートブリテン連合王国」が成立します。
さらに百年後の1801年、従来の植民地アイルランドを取り込んで「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」となり、1922年、南アイルランド(後のアイルランド共和国)の分離独立により「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」と改称されて現在に至っているのです。
   ということで、もう一度現在の王室紋章が制定された1837年に立ち返って当時のイギリスの状況を整理してみると、中心国イングランドに対し、スコットランドは属国、アイルランドは事実上の植民地、そして歴史上最も早くアングロ・サクソンに制圧されたウェールズは殆どイングランド西部の一地域、といった状態でした。
四国連合体を表徴すべき紋章中央の盾の四つの図柄ー第一、第四クォーターを占める三頭のライオンはイングランド、立ち上がった赤いライオンはスコットランド、青地に黄色の竪琴はアイルランドの表象ですーにウェールズの表象である赤いドラゴンだけが入っていない理由もそこにあるのです。
このように、往時のイギリスはイングランドが圧倒的な優位に立って支配する、建前上の連合王国でした。
そして、帝国主義が沸騰する時代に、この国はそのような態勢で列強間の熾烈な競合を勝ち抜き、かつてのローマ帝国をも凌ぐ空前の大帝国ー大英帝国ーを打ち立てたのでした。
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1−5.王室の変容ー新たな統合の象徴に向けてー

   二十世紀前半の二つの世界大戦により、こうした状況は一変します。
通常第一次、第二次と区別して呼ばれるこの戦争は、基本的には極点に達して行き詰まった西欧列強の帝国主義を清算するための一連の戦役――第二次ヨーロッパ三十年戦争――であり、旧体制の盟主イギリスを中心に据えてこれを見れば、その覇権の打倒と継承を巡る戦争ー大英帝国継承戦争ーと表現すべき性格のものでした。
その結果、かろうじて戦勝国に留まったものの、大帝国は跡形もなく消滅し、イギリスはヨーロッパ大陸のはずれの一島国という近代以前の姿に舞い戻ったのです。
   その結果として、「連合王国」のありかたも大きく様変わりしました。
それまで絶大だったイングランドの求心力が低下し、一方では、大戦後の世界に共通する民族ナショナリズムの高まりと共鳴するかのように、ケルト三国に自主独立の気運が醸成されます。大戦後の連合王国の歩みは、ある意味でイングランドの歴史的な優位性が徐々に一構成国のレベルにまで相対化されてゆく過程であるとも言えるでしょう。
   そうした流れの中で、1997年、まさに画期的な状況が到来します。
この年、スコットランドとウェールズへの大幅な自治権の付与が国民投票によって承認されたのです。これにより、安全保障、外交といった連合国家運営の根幹に係る重要事項以外は、新たに開設された各国の議会の決定に委ねられることとなりました。
二年後の1999年には北アイルランドもこれに続きます。これにより各構成国は殆ど一国家にも等しい自治権を有する“国”となり、イギリスは自国史上初めて名実共に四国の「連合王国」となったのでした。
   さて、そうした状況に至ってなお、その紋章は言うに及ばず、現イギリス王室が象徴するものは依然として王室一千年の歴史を背景とした“イングランドの栄光と偉大”であるように思われます。
背負った伝統の重さゆえに、そこからの脱皮もまた難しいということなのかもしれません。しかし、新たな現実を踏まえた新たな統合の象徴への脱皮なしに、ポスト・エリザベスの王室におそらく未来はないでしょう。
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1−6.“国民ひとり年69ペンス”−“象徴”の費用対効果ー

   いささか畏れ多い話ではありますが、皆さんは日本の皇室の年間経費がどのくらいかご存知でしょうか? 
ここで今流行の“仕分け”の尻馬に乗るつもりなどもとより毛頭ありませんし、こうした情報は宮内庁のホームページを見れば誰にもすぐ入手可能なものですので、臆せず、ごく簡単に概要をご紹介しましょう。金額は平成21年度の予算ベースです。
   先ず、内廷費と呼ばれる、御所にお住まいの天皇・皇太子ご一家の生活費が3億2,400万円、宮廷費と呼ばれる皇室の公務のための経費が60億9,960万円、皇族費と呼ばれる、五宮家に対して支出される生活資金が2億8,091万円となっており、これらを合計した67億円が直接的な皇室費用の総額です。そしてこれに間接費、即ち職員1,040人を抱える宮内庁の運営費用109億8,043万円を加えた約180億円が、わが皇室に係る年間総経費です。
   これは国民一人当たり年約140円の負担に相当します。これがわが国の“象徴”の維持コストです。
その評価はもちろん人それぞれでしょうが、個人的には、たかだか年カップラーメン一個にも満たない額で、口さがない人々にとやかくいわれながらあれだけのお仕事をされているのかと思うとまことに申し訳ない気がしてなりません。
   さてそれでは、今日の本題のイギリス王室の事情はどのようなものでしょうか? 
これについては、王室の大変立派な公式ホームページに、“国民一人当たり69ペンス”(2009年度)と明記されています。現在の為替レートで換算すると約100円となり、つましいわが皇室にも及ばぬ額です。
イギリスの人口は約6千万人、従って総額に引き直すと年間約60億円、なんとわが国の1/3に過ぎません。
本当でしょうか? 公私共にわが質実な皇室とは比べようもないほど豪奢に見えるイギリス王室の総経費を、これで賄いきれるとはとても思えません。
   実はこれは王室の公務遂行に係る経費、わが皇室でいうところの宮廷費のみを計上したものなのです。
国はこれとは別に王室の生活費として年890万ポンド、約12億円を支出しています。先程のわが皇室の宮廷費と皇族費を合わせた約6億円に対応するものです。しかしこれを加えても総額は年間72億円にしかなりません。
彼らの、かつての王侯貴族の暮らしぶりを偲ばせる華やかな生活を支えている本当の基盤が、別のどこかに存在しなければなりません。そして必然的に、それは王室が今も保有する莫大な資産であるということになるでしょう。
   古来、イギリスの王侯貴族の富の源泉は大土地所有にありました。その歴史を引き継ぐ現王室の保有する資産も土地を主体とした不動産です。大ブリテン島の海岸線の55%が、今なお王室の所有地――耕作地や森林――に接しているといわれています。
加えてロンドン市内の超一等地にも多数の土地建物を所有しています。そうした資産の総額は公称で約60億ポンド(約8,500億円)、時価にすれば優に一兆円を超えるでしょう。
   しかし、過去の特権に由来するこうした資産を王室自らが運用し、莫大な利益を上げて自由に費消すれば当然国民の厳しい非難をまぬかれません。
王室はそうしたおそれを、国と協調したまことに巧妙なやり方をもって回避し、実を取っているように思われます。以下、推測をかなり含んだ個人的な解釈であることをお断りした上で、もう少しお話を続けてみましょう。
   現在、王室の不動産資産は、「クラウン・エステート」という名の公的な管財機関に委託されて管理と運用がなされています。そこから生まれる純益、すなわちこれら資産の運用益から一切の管理費用を差し引いた利益はそのまま国庫に入ります。その額は2008年度の実績で年額2億1,100万ポンド、約300億円といいますから、資産総額に対して3%程度の運用利益を上げていることになります。
そして結局、国はそこから先程の王室費用72億円を相殺してなお230億円の収入を得、一方王室も、彼らの公的費用の出所につき、納税者の厳しい指弾をかわすことができるわけです。
   しかし、実情もこのような単純なそろばん勘定通りだとすると、いわば国の一人勝ちで、王室にとっての実質的なうま味はないではないかということになります。
あくまで私見ですが、おそらく、秘密は資産運用の粗利益から控除される膨大かつ複雑な諸費用の中にあるのではないでしょうか? 
そうしたからくりをもって初めて、国ーここでは、国民というよりも王制の存続を支えてきた歴代政権――および王室の双方にとってハッピーなビジネスがめでたく成立しているのではないかと推察されるのです。
ご多分にもれず、イギリスにも昨今王室存廃を巡る様々な議論がありますが、極めて単純化した損得勘定に立てば、この国の王室の廃止とは、国民が1兆円の資産を得て千年の伝統をもつ象徴を手放すことだともいえるでしょう。
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1−7.王統途絶の恐れなしー融通無碍な継承法ー

   君主制は世襲によって成立します。
従って、その運用における最重要事項は正統な血統――王統(皇統)――の維持・継承です。
世襲による王位の継承には四つの基本パターンがありますね。
父親から継ぐか母親から継ぐか(男系か女系か)、そしてそれを男子が継ぐか女子が継ぐかで生まれる四通りの組み合わせです。
このうち、ヨーロッパの王室では、古代ゲルマンの「サリカ法典」の伝統に従い、男系男子による継承のみを正統とするのが主流でした。わが国の皇室の場合も基本的に男系男子に限定しています。
しかし、これは当然王統途絶のリスクと隣り合わせの厳しい掟で、古くはフランスの初代王朝であるカロリング王家、近代ではハプスブルク系のスペイン王家の途絶などの破綻例が歴史上よく知られています。
特に、少子化が進行する一方で側室ー正室予備軍ーを持つことなどもっての外となった現在の民主国家の王室にとって、この厳格な継承規定の遵守は今後ますます困難になってゆくでしょう。
わが国でも昨今、「皇室典範」を改定して女子による継承を認めるべきだとする気運が起きつつあるのは既にご案内の通りです。
   イギリス王室の場合、この点についても古来実に柔軟な姿勢を取り続け、特に成文規定などは設けず、サリカ法典の考え方を基本としつつも、状況次第で四通りのいずれも可、さらには血統さえ繋がれば遠い傍系も可、というまことに融通無碍な運用をしてきました。
そうした中で女系の女王のみが生まれなかったのは単なる結果に過ぎません。世界の王室の中で、イギリス王室ほど王統途絶の恐れから自由だったところはー結果から振り返って、の話ですがーおそらくなかったのではないでしょうか。
   そのイギリスに、王室開闢から実に七百年が過ぎた1701年、突如今に生きる「王位継承法」が制定されたのです。
それは、明確な条文の形に整理されたわが国の皇室典範などと比べて実に奇妙な代物です。人名を含む固有名詞が頻出する、一連の長文の文書で、法令というよりもある具体的な案件の解決に向けた議会決定のようなものなのです。
そこから抽出し得る王位継承についての一般的・普遍的な規定は、結局以下の二点に集約されます。

 (1)王位継承者は、スチュアート家の血を引く者に限る。
 (2)イングランド国教会の信徒のみが王位継承権を有する。またその配偶者も国教会の信徒でなければならない。

   しかしながら、これらは現時点においてはあまりに当たり前すぎて、王位の継承について殆ど何も規定していないに等しいものといえます。
(1)については、後述するようにイギリス王室の王統は一系であり、誰であってもスチュアート家を経由しなければ開祖のウィリアム一世に辿り着くことはできません。
また(2)については、1534年にヘンリー八世が制定した「国王至上法」により、イギリス国王は必然的に国教会の首長を兼ねるのですから、この二点のいずれもが、文字通り言わずもがなのことなのです。
したがって、このなんとも緩やかな継承法の規定に適う王位継承権者は現在世界中にごまんといます。冗談半分に「順位第何百位の継承権者」と名刺に刷り込んでいる人もいるそうです。
この継承法をもってすれば、王統の途絶の心配などするも愚かというものですね。ちなみに、わが国では現時点で皇室典範の規定に適う皇位継承権者は七名のみです。
   いったい何故このような奇妙な法律が制定されたのでしょう?
 先程これを、「ある具体的な案件の解決に向けた議会決定のようなもの」と申し上げました。事実、1701年の時点で、この国の人々が解決を迫られた王位の継承を巡る喫緊の大問題があったのです。
その解決のために急遽制定されたのがこの継承法で、その眼目は(2)にあります。これにより、ある厄介なカトリック教徒の王位継承を将来にわたって封じることを目的とするものでした。
   その対象となったのは、1688年、「名誉革命」により国王の座を追われたスチュアート朝の前国王ジェームズ二世の嫡男(1701年当時十三歳)です。亡命先フランスの強力な後押しと、国内に根強く残る親ジェームズ派の勢力を恃み、その後王位奪還の企てを執拗に繰り返すことになる人です。
この問題でイギリスが何よりも恐れたのは、その背後に透けて見える因縁の宿敵フランスの野心でした。当時、フランスは太陽王ルイ十四世のもとであからさまな領土拡大政策を推し進めていたからです。
   そうした制定当初の目的はめでたく達成され、今ではいわば用済みとなった決め事をなお平然と保持し続けているというのも、如何にもこの国らしい姿であるように思います。
あって邪魔にならないものなら敢えて廃するには及ばない、という以上に、これが憲法を持たず、歴史的な経験・教訓に即して国を治めてきた“慣習法の国”イギリスの流儀の一端なのでしょう。「王位継承法」とは、この国の人々にとってまさしく大いなる歴史の教訓の記録なのです。
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2.アングロ・サクソンは何処に?−外来王朝の一千年ー

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2−1.王室の開祖は征服者

イギリス王朝の開祖ウィリアム一世
   さて、ここで「今」から時代を一気に一千年溯り、イギリス王室の開闢にかかわるお話をして見ましょう。
お手元にお配りした「イギリス国王一覧表」(本講義録では最終ページに掲げ、以下「一覧表」と表記)をご覧下さい。
先程もちょっと言及したように、イギリス王室の始祖は1066年に即位したノルマン王家のウィリアム一世です。以来一千年、現在のウィンザー王家に至るまでの歴代王家の正統性ー「王統」ーを担保するものは、結局のところこのウィリアム一世の血なのです。
事実、現エリザベス女王もその家系図をはるかに辿ってゆけば、ついには目出度く始祖ウィリアムに行き着きます。それでは、イギリス王室をを開いたこの栄えある君主とは、いったいどのような人物だったのでしょうか?
   昔学校で習った世界史を懐かしく思い出された方もいらっしゃるかも知れません。そう、王室開闢の1066年とは、イギリスが自国史上最大級の事件に見舞われた年でした。
それは、アングロ・サクソン人の国イングランドが、ノルマンディー(北フランス)から海を越えて襲来したノルマン人との祖国防衛戦争――「ヘイスティングスの戦い」――に敗れ、征服されてしまった国難の年なのです。
この侵略軍を率いてイングランドの軍勢を撃破したノルマン貴族ウィリアムは即座にロンドンのウェストミンスター寺院で戴冠式を挙行し、征服国イングランドの王として即位します。
なんと、イギリス王室の開祖「ウィリアム一世」とは、外来征服王朝の初代君主だったのです。
フランスの国宝「バイユー・タピストリー」が描くノルマン征服
   この一大事件は、五世紀頃に大陸から入植したアングロ・サクソンが、その後の熾烈な先住ケルトとの抗争や同族同士の覇権争いを経、また度重なるデーン人(ヴァイキング)の侵略・支配に苦しみながらようようこの島に統一王国を樹立してまだ間もない頃の出来事でした。
この、渡来から実に五百年を費やして成った彼らの統一国家は、ヘイスティングスの敗戦により王統も途絶え、一夜にして外来征服王家の支配するところとなったのです。まことに辛い、屈辱的な民族体験であったに違いありません。
   その後、アングロ・サクソンの人々は、約四百年の歳月をかけてこのノルマンの支配を自らのうちに吸収するような形で解消し、1485年のチューダー王朝の成立により “アングル人の国”イングランドを名実共に回復します。
しかしながら、その復興と再出発の時点において、民族的トラウマの払拭ともいうべき自国王室史の再編や書き換えといった行為は一切なされませんでした。
このように、一国の王室が他国の征服者を、その支配が解消された後もそのまま平然と開祖に戴き続けているというのも、他に類例を見出し難いこの国ならではの姿ではないでしょうか。
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2−2.外来王朝が担った一千年

   更に驚くべき事実があります。
先程、イギリスとは歴史的にアングロ・サクソンの国イングランドが主導・支配した国であり、その王室とはイングランドの王室に他ならなかったと申し上げました。
しかし、征服王ウィリアムから始まるノルマン、プランタジネットという外来フランス系の王朝はもとより、その後のチューダー朝から現在のウィンザー朝に至る名実共にイングランド自前の歴代王朝においても、なんと筋目のアングロ・サクソン系が王位に就いたためしはないのです。
   そのあたりを、「一覧表」を参照しながらご一緒にざっと確認してみましょう。
先ず、チューダー朝の開祖ヘンリー七世は、母系でかろうじて王統に連なるものの、父親はケルト系のウェールズ貴族です。
次のスチュアート朝を見ると、初代ジェームズ一世はそもそもスコットランドの国王で、イングランドとの同君連合の君主として即位した人、また同王朝末期に起きた「名誉革命」(1688〜89)を受け、妻のメアリ二世との共同統治の形で即位したウィリアム三世は、なんと当時のイギリスの宿敵オランダの有力公国の君主でした。
さらに次のハノーヴァー朝のジョージ一世に至っては、母方の系譜からジェームズ一世の血を引き継ぐドイツ人の君主で、英語を理解しようとせず、在位中も“ハノーヴァー選帝侯ゲオルグ”として母国の侯国の君主を兼ね続けた人です。
そして、彼の后はもちろん、彼に続く歴代君主の正室ーかのヴィクトリア女王の場合は夫君ーも、悉く大陸の名家から呼び寄せたゲルマン系の人々なのです。
現ドイツ系王朝の始祖ジョージ一世
   以降王朝の名称は二度変わりますが、このジョージ一世から現在のウィンザー朝のエリザベス二世までの十一代三百年の間、事実上一貫した親子相伝が続きます。
従って、先程の写真に写った現ロイヤル・ファミリーの面々は基本的に殆どドイツ人といってよい人々なのです。そしてご案内のように、近代以降のイギリスにとってドイツは一再ならず戦火を交えた宿命のライバルでした。
   ジョージ五世の在位中の1917年、イギリスとドイツが敵・味方に分かれて死闘を繰り広げた第一次大戦の只中に、王家の名称が急遽「サクス・コバーグ・ゴーダ」から「ウィンザー」へと改められました。
明らかに敵国由来の王朝名ではさすがに具合が悪いとの理由から、如何にもイギリス風の名前へと改名されたのです。
見方を変えると、もうこの頃には王室を取り巻く環境や民意は既に大きく変化し始め、こうした国民感情への配慮を怠ってはその存続さえ危ぶまれるような状況が到来していたということでもあるでしょう。
   さて、ちょっと脇道にそれますが、王朝名に関する今のお話のついでに、わが国と同様の一系でありながらなぜこのようにしばしば王朝の名称が変わるのかについて簡単に説明しておきましょう。
名前が変わるのは女系の君主が即位した時なのです。その際、王統に連なる母親側の家名ではなく、父親側の家名が採用されることによって王家の名称が変わるのです。
少し分かりにくいかもしれませんので、直近の例を引いて具体的にご説明します。「一覧表」のなかで、「ハノーヴァー家」が「サクス・コバーグ・ゴーダ家」に名称変更されたケースです。ヴィクトリアは女帝ですが、男系なので配偶者の家名によらず「ハノーヴァー家」の君主です。
しかし皇太子として王位を継いだエドワード七世は女系の君主となり、父親アルバート公(ヴィクトリア前女王の夫君)の家名である如何にもドイツ風な「サクス・コバーグ・ゴーダ家」へと名称変更がなされたのです。
以上、前述した「ウィンザー朝」のような僅かな例外を除き、王家命名の問題はこれで全て説明がつきます。
   それでは将来の問題として、現皇太子チャールズがめでたく国王に即位した時、王家の名称はこのひそみに倣って父親フィリップ殿下の家名(マウントバッテン)へと変わるでしょうか?
 私見では否だと思います。時代は大きく変わりました。この長い歴史をもった男性優位の王家命名法も、より時代に相応しい新たな対応のなかで過去のものとなってゆくのではないでしょうか。
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2−3.アングロ・サクソンの流儀ー渡来人の島の国家経営ー

   冒頭で、イギリスの王室史とはいわばこの国の正史そのもので、そこには所謂“イギリス的なもの”の本質、精髄が見事に凝縮されているはずだ、と申し上げました。
事実、これまで述べてきたようなこの王室の特異なありかたを一国の国家運営という観点から眺めてみると、そこにイギリス独特の何とも柔軟で融通無碍な経世の伝統が鮮やかに浮かび上がってくる思いがします。
そして、そうした伝統を担い、このヨーロッパのはずれの島国を大英帝国の繁栄にまで導いたのが、他ならぬアングロ・サクソンと呼ばれる人々でした。
   言うまでもなく、イギリスは世界に先駆けた立憲君主国です。
そして立憲君主制とは、文字通り民主憲法によって明確に規定され、運用されるべき制度です。しかしその憲法がイギリスにはないのです。
また、この国に最高裁判所が設置されたのはなんと昨年(2009年)のことでした。三権分立の唱道者ジョン・ロックのお膝元の国で、今世紀に至るまで立法府である貴族院が司法の最高機関の機能を平然と担ってきたのです。
そしてそれで実際上何の問題もなく、結果として他のどの国よりも安定した国家経営がなされてきたのでした。
   原理原則に縛られず、状況に柔軟に対処してその都度最善の道を見出すというアングロ・サクソン独特の経世の流儀は、時に無原則なご都合主義と感じられることも確かです。
しかしそれは、むしろ原則を頑なに守ることの不合理と危険と愚かしさを熟知する人々の叡智であると捉えるべきものではないでしょうか。
それは、試練に満ちた「渡来人の島」の歴史によって培われ鍛え上げられた、この国の人々ならではの集団的叡智であるといえるでしょう。
   そうした彼らの流儀は、例えばそのまことに拘りのない実力本位の人材登用において見事に貫徹され、機能してきました。危急存亡の国難に臨んで国の命運を託され、その負託に見事応えて見せた人物の多くは、イングランド生え抜きのエリートではなく、日頃は彼らに疎外され、あるいは圧迫される立場にある人々だったのです。
1588年、本土攻略を目指すスペインの無敵艦隊を“アルマダ海戦”で撃破したフランシス・ドレークは僻遠の地の素性も知れぬ海賊の出身(おそらくウェールズ系)、ナポレオン戦争を勝利に導いたウェリントンは植民地アイルランドの貴族、第一次世界大戦の戦時内閣を率いたロイド・ジョージは筋金入りのウェールズ人でした。またちょっと性格は異なりますが、ヴィクトリア朝の名宰相で女王の寵愛篤かったディズレイリは、なんと当時まで国政への関与が制度上禁じられていたユダヤ人でした。
アングロ・サクソンの人々とは、国家の非常時にもこのような際どい人材登用を平然とやってのけ、見事に実を取るような経世の達人なのです。外来王朝に終始した特異な王室の歴史も、こうした彼らの流儀が結果として齎したひとつの必然だったのでしょう。
   昨今、そんなイギリスでも成文憲法の制定への機運が高まりつつあるようです。
これも私見ですが、その理由は、この特異な国が結局は欧州連合(EU)の一員として生き残る道を選択したことにあるのでしょう。
そのためには、この国のあまりに独自な法制度も主流の“大陸基準”と整合させる方向で標準化を図る必要があるはずだからです。
先程言及した昨年の最高裁の新設も、何らかの現実的な不都合に迫られてというより、おそらくそうした文脈の中でとられた措置だったのではないかと思われます。
   このように、王室を含め、イギリスは今大きな変化の只中にあります。そしてこうした変化への柔軟かつ賢明な対応こそ、まさしくこの島国の人々の本分とするところでしょう。大きな関心と期待をもってその成り行きを見守ってゆきたいと考えます。
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3.“イングランドの薔薇”の遺したもの

ダイアナ・ローズ「ウングランドの薔薇」
   さて、頂戴したお時間も残り少なくなってしまいましたが、イギリス王室の「今」について語りながら、かのダイアナさんにひとことも触れずにお話を終えるわけにはいかないでしょう。
それでは皆さんにまずご承知頂けないだろう、という思いと同時に、ダイアナさんが現王室に投げかけた問題は大変に大きく、ロイヤル・ファミリーの将来はこれにどう向き合い、対処するかに懸かっているとも考え るからです。
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3−1.“ダイアナ物語”の十六年

プリンセス誕生1981年
   1981年のロイヤル・ウェディングで芳紀二十一歳のまことに初々しいプリンセスが誕生した時、イギリスは喜びに沸きました。
その二年前には“英国病”からの脱却を掲げたサッチャー政権が発足し、その荒療治の齎す痛みがイギリス社会にじわじわと広がり始めた頃で、そうした重苦しい気分を暫し吹き払う明るいニュースとして特に歓迎されたということもあるでしょう。しかしそれに加えて、生粋のイングランド系名門貴族の息女という花嫁の出自が、この国の人々が殊の外の喜びをもってこの成婚を歓迎した理由の一つであったように思われます。
ジョージ一世以来実に三世紀に及んだドイツ系の王家に、これをもって初めて“生粋のイングランドの血”が注入されることとなったからです。
   しかしながら、この結婚を当時誰よりも喜んだのは他ならぬ花婿の母、現エリザベス女王だったのではないでしょうか。
そう推量する理由は、もう皆さんよくご存知の子息チャールズ皇太子とカミラ夫人との執拗な不倫関係にあります。
何しろこの王家にはエドワード八世の退位(1936)に至ったかの有名な「シンプソン夫人事件」ー当時“王冠を賭けた恋”などと囃されたこともありましたが、実態はそうしたロマンティックな純愛ドラマのイメージからはかなり遠いものでしたーという忌まわしい前例があるのです。
女王が、放置すれば将来の王位継承の重大な障害となりうる子息の不倫問題に、これをもって決着をつけることが出来たと信じ、大いに安堵したことは想像に難くありません。
   残念ながら事態がそのように進展しなかったのは皆さん既にご案内の通りです。
葬列1997年
目出度く二人の王子を儲けながら皇太子とカミラ夫人との関係は一向に清算される気配もなくズルズルと続き、1996年ついに離婚に至ります。
そして自らもスキャンダルにまみれ、翌1997年、突然の事故死によって十六年の“ダイアナ物語”は幕を閉じました。
   驚いたことに、その悲劇的な死を境に“ダイアナ・スキャンダル”を巡る状況は一変しました。
醜聞探しとバッシングの嵐は嘘のように止み、突如悔悟と赦しと和解の時が訪れたのです。多くの人々が、共に手を取り合うようにして涙を流しました。
身勝手で感傷的な光景といってしまえばそれまでですが、当時そこに醸成され、人々に共有された不思議な一体感・連帯感を傍から眺めたとき、それは一種宗教的ともいえる集団的・社会的なカタルシスのようにも見えました。いずれにせよ、人々が容赦なく断罪した醜聞にまみれた王室の姿は結局はモラルなき自らの社会の反映であり、パパラッチを駆り立てて彼女を死に追い遣ったのも畢竟自らの卑しい好奇心だったことを、この不意打ちのような事件を期に多くの人々が身に沁みて悟ったことは確かだったのではないでしょうか。
崩壊の危機に瀕しているのは実は我々の社会であること、そしてこれを乗り越える重要な鍵のひとつが、おそらく自省と寛容から生まれる人々の連帯にあること。これが“イングランドの薔薇”が最後に人々に示唆したメッセージだったように思われます。
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3−2.私情の人チャールズ

チャールズ皇太子カラミさんと結婚2005年
   ダイアナさんの死から八年経った2005年四月、チャールズ皇太子はついにカミラさんとの結婚を果たし、二十歳代から実に三十年の長きに亘って抱き続けた思いを遂げました。
このときチャールズ皇太子既に五十六歳、カミラ新夫人は五十七歳、カメラを前に、まるでこれまで何事もなかったかのように喜色満面のお二人の姿です。
特に、近来これほど嬉しそうな表情のチャールズさんの写真は見たことがなかったような気がします。
   それにしてもチャールズさんの初志貫徹振りは見事というより他ありませんね。
終わってみれば、母にして現女王の願いも、国民の期待も、お妃ダイアナや二人の王子の人生も、王室の威信や名誉も顧みず、一途に“私”の思いを貫いたわけですから。
まさに筋金入りの“私情の人”というべきでしょう。しかしこれが王位継承の筆頭順位にある者として相応しい身の処し方であるか否かは当然問われなければなりません。
チャールズさんが、あるいは現女王が、この問題に“公”の立場からどうけじめをつけるのかが、現王室の負ったポスト・ダイアナの最大の課題の一つのように思われます。
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3−3.世論調査に見る民意

   世論調査に表われたこれに関連する民意を眺めて見ましょう。
先ず、保守系の高級日刊紙「デイリー・テリグラフ」が2003年11月、おそらくは皇太子とカミラさんの結婚が間近なことを意識して実施した調査の一例です。
「皇太子はカミラさんと結婚すべきか否か」という単刀直入な設問に対しては、48%がイエス、36%がノーと答えています。
しかし、「もし二人が結婚し、チャールズ皇太子が国王となった場合、カミラさんは王妃として公的な役割を担うべきか否か」という問いに対しては、なんと78%がノーと回答しているのです。
これは王の配偶者としてまさに有り得べからざる状況でしょう。第一そんな状況をチャールズさんが受け入れられるわけがありません。要するにこれは、皇太子に対し、「結婚はしてもいいが即位はするな、それがあなたのけじめだ」といっているに等しいのではないでしょうか。
そして、あるいはそれでもなお、二年後の2005年にチャールズさんとカミラさんは華燭の典を挙げました。
この時点で、皇太子は将来の王位継承について自らひとつの決断を下したということなのでしょうか? なお、「現女王が亡くなった後、君主制は存続すべきか否か」というまことに核心的な問いに対しては、64%がイエス、27%がノー、態度保留が7%となっています。
四人に一人が王制廃絶派という、なかなかに厳しい民意の現状というべきでしょう。
   もうひとつ、ダイアナさん没後十周年の2007年八月に同じ新聞社が実施した調査から二、三ご紹介しておきましょう。
「ダイアナ妃の出現と死により王室のあり方は変わったか否か」に対しては、32%が良い方向に、8%が悪い方向に変わったと答えた一方、48%が何も変わらなかったと回答しています。
また「生前、ダイアナ妃に対してどの程度の敬意を抱いていたか」「ダイアナ妃を好ましく思うか否か」に対しては肯定的な回答が共に70%、一方、「現王室に対してどの程度の敬意を抱いているか」に対しては、肯定的な回答が49%、否定的な回答が50%と拮抗した状況が認められます。
死後十年が経過してもなお、現王室は“ダイアナ物語”の教訓を活かし切っていない、と見るべきなのでしょうか?
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3−4.“王家の病”の超克

   王様は王統を絶やさないこと、すなわち子孫をたくさん残すことが先ずなによりも大切な仕事ですから、基本的に好色で精力絶倫でなければなりません。
したがって、王家の古来の慣わしとして、性的に放縦で放蕩に耽るという性癖もむしろ王の徳として許容され、あるいは歓迎されてきたということがあるでしょう。
しかしそういう性向が代々継承されてゆくと、往々にして“王家の病”ともいうべき度外れな放蕩の血が形成されることにも繋がります。
ハノーヴァー朝から現ウィンザー朝までの歴代君主をこうした観点からあらためて眺めてみると、このドイツ系の王朝がまさしくこの“王家の病”に深く冒されていることに驚きを覚えます。
   歴代九人の男性君主のうち、初代のジョージ一世を筆頭に少なくとも四名の王は明らかに重症患者だったといっていいでしょう
独身時代の荒淫はまだしも、身を固めても放蕩は一向に収まらず、また悪いことに必ずといってよいほど上流の有夫の婦人に手を出し、不倫関係を持つのです。
なにもチャールズ皇太子や前述したエドワード八世に限らず、不倫はいわばこの王室のお家芸といった感があります。
ちなみに、カミラさんはエドワード七世の不倫相手として有名なアリス・ケッペル夫人の曾孫に当たる人です。だからどうだということではありませんが、そこに何か歴史の因縁のようなものを感じてしまうのは否めません。
   現在、こうした王室の“伝統”は人々にとって最早許容し難いものとなったことは当然でしょう。
特に「シンプソン事件」の顛末を国王の姪として身近に経験した現エリザベス女王は、この積年の負のイメージを払拭することが自らの切実な課題だと考え、即位後は最愛の夫君フィリップ殿下と共に貞潔清廉を旨とする模範的家庭造りに勤しんだはずです。
しかしこと志に反し、ファミリー内には離婚や不倫騒動が相次ぎます。
そしてひび割れだらけとなった虚像に最後の一撃を加えたのが、チャールズ皇太子とダイアナ妃を巡る一連のスキャンダルだったのです。
第二次大戦下の困難な時代、若きプリンセスとして父王ジョージ六世を助け、以降波乱に富んだ半世紀を国民と共に歩んで晩節を迎えたエリザベス女王に取ってはまことに辛い成り行きとなりましたが、“王家の病”の根はそれほどに深く、新生のためには一度全てを白日のもとに晒し、膿を出し切る荒療治が必要だったということなのでしょう。
   さて、もう一度振り返って、ダイアナさんとは一体何者だったのでしょう?
王室の欺瞞と積年のモラルの荒廃を、そして大衆の度し難い身勝手と偽善を共に身をもって白日の下に明かし、同時に未来の希望への手掛かりを暗示して逝った人、とでも評すれば当たらずとも遠からずといえるでしょうか。
今にして思えば、世紀の変わり目のイギリス社会に現れるべくして現れた人――ひとつの時代精神――だったのかもしれません。
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おわりにー王室の未来ー

   たとえ時代がどのように変わっても、国民の敬意と誇りの対象であり続けることが王室存続の基本条件でしょう。
しかし国民が何をもって王家を敬愛し、誇りとするかは、時代と共に当然変化して止みません。そして、そうした民意を的確に掴むことがとても難しくなったのが今の世というものでしょう。
言葉を変えれば、現代の王室とは、伝統的な権威や価値が悉く相対化された社会の只中で、流動して止まない民意に絶えず翻弄され続ける宿命を負った小舟のようなものではないでしょうか。
イギリス王室に限らず、今ある世界の王室の未来は決して安泰ではないのです。
   そうしたなかで、イギリス王室の今後の道のりは更に一層困難なものでしょう。
その未来は、“ダイアナ物語”により幻想のことごとくを引き剥がされ、そのあられもない実像を顕わにした現王家が、今後いかに人々の信頼を回復し、新たな敬意と誇りの対象へと変身し得るかにかかっているのです。
今年八十四歳となった現女王がその重責を誰に託すか、という重い決断を含め、一千年の歴史を誇るイギリス王室は今まさに正念場を迎えているといえるでしょう。

本日はご清聴いただき、まことに有難うございました。
イギリス国王一覧表
(出典:石井美樹子「図説イギリスの王室」 河出書房新社 2007)



文責:
中野重夫・臼井良雄 会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:臼井良雄


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