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神田雑学大学 平成22年10月8日 講座 No526

ダーウィンと進化論、講師 矢島道子




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画鋲
プロフィール
1.はじめに
2.ダーウィンと私
3.ダーウィンは地質学者
4.Wollaston Medal(ウォラストン メダル)
5.ダーウィンの残したもうひとつの図
6.ヒルゲンドルフ日本で最初に進化論を教えたダーウィン大好き人間
7.地球の始まりへの考察
8.終りに



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プロフィール
理学博士、古生物学および科学史研究者
経歴 東京大学大学院理学系研究科地質学専門課程博士課程修了、理学博士、現在東京医科歯科大学教養部、早稲田大学法学部等講師
著書:『地球からの手紙』国際書院、共著『メアリー・アニングの冒険』
朝日選書、『化石の記憶-古生物学の歴史をさかのぼる』東京大学出版会等
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マイク片手に講義中の矢島道子講師1.はじめに
ご紹介をうけましたように地質学が専門で長くミジンコ化石の研究をしている私が、なんで生物学の泰斗のダーウィンの話をするのかという話を最初にいたします。今年は2010年ですが、ダーウィン年は去年でした。ダーウィンが生まれたのは1809年です。ですから、去年で生れてから200年です。私は去年の3月、ダーウィン200歳おめでとうというお誕生会をやりました。私は東京の東大でやりましたが、イギリスではダーウィンの生れた家で誕生会をやったそうです。

それから1859年11月24日にダーウィンの一番有名な著書であります『種の起源』という本が出版されています。1250冊完売でした。去年はそれから150年と言うことでもあったのです。実は私は筋金入りのダーウィン大好き人間でありまして、それを知る人は知っていますので、日本では誕生会のほかにも色々なダーウィンにまつわる講演会に出させて頂きました。

ダーウィンは皆様ご存知のように生物学者と思われていて、地質学者であったということはあまり日本では言われていなかったので、そのことをこうだと理由をつけて述べていましたら、それは日本では初めてのことだということで、今年の4月17日の日経新聞の夕刊「あすへの話題」というコラムに、もと京都大学の総長さんでいま国際高等研究所の所長をなさっている尾池和夫さんという方が、「ダーウィン生誕200年で世界中で様々な催しが行われたが、自分が特に興味を持ったのは矢島道子がダーウィンは地質学者であると言っていることだ」と書いてくれたのです。それを見たここの臼井さんが、これを雑学大学でも話してほしいというメールが入り、それが今日になりました。

(画像をクリックすると大きくなります、ブラウザの戻るで戻ります。) 新聞記事、「明日への話題」地質学者ダウィン


さてまず私が筋金いりのダーウィン大好き人間であるというのでちょっとパフォーマンスを。
暑いので、上着を脱がしていただきますと・・・・・・
はい、こういう事でございます。(笑い 拍手)
それではダーウィンを背中にしょってお話します。
このTシャツは正面に「SAVE CHALES DARWUN ‘S HOME」と書いてありますように、ダーウィンの生れた家でなくて、亡くなった家が雨漏りがして保存が難しいということで世界中に募金の運動があったんです。

ダーウィンのTシャツ この時に日本では何故か私が皆からおまえやれ、やれと言われてやっているうちに、じゃーTシャツも作りましょうと言う話になって、このTシャツがイギリスで作られ、これを3000円で売って、そのうちの500円を募金に回した時のものです。

このTシャツはダーウィン大好き人間だけが持っているのですが、背中にダーウィンをしょっているなんて怖いとか、あるいはSAVE HOME だけ良く見えてCHALES DARWINの字がよく見えないから、「え?家のない人を救うの?」などといわれたこともあります。(笑い)

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(画像をクリックすると大きくなります、
ブラウザの戻るで戻ります。)
なぜダーウィン?2.ダーウィンと私
なぜ私がダーウィン人間になったのか?私はミジンコの化石の研究をしております。左側の絵は私が描いた100号の油絵でありまして、これはミジンコです。このミジンコは化石になりませんで、化石になるミジンコはもっと小さいカイミジンコであります。この絵は筑波の産総研にかかっていますので機会あれば見てください。その私が何故?ダーウィンに結び付くのかという話です。

それは「進化」です。生物の進化の研究ということで両者は繋がるのです。
私が学生の時にミジンコの研究を始めるようになったきっかけは私の先生がアメリカに行って、ミジンコの化石の勉強をしてきて、日本でもミジンコの化石に研究を始めましょうということになったのです。ミジンコなんて1mmもない凄い小さなものです。

なんでそんなミジンコの化石研究があったのかと言いますと、実は1920年代に石油を探す時にミジンコの化石を使ったのです。石油は地面の上からはどこに埋蔵されているかが分からない。それでいろいろ調べると、ボーリングして色々な地層を見るのですが、ある地層にミジンコの化石が出るところに石油が出るということが分かったのです。それでミジンコの化石の研究は非常に進んだのです。

ところが石油を掘るのに最近は、より簡単で強力な電波とか地震とか色々な物理学的方法ですぐ探査が出来るようになって、世界ではミジンコの化石の研究はほとんど無くなってしまったのです。それなのになぜ私の先生は日本にその研究を持ってきたかというと、もともと日本は石油が出ませんから、石油の探査の為にミジンコ化石の研究をするんじゃない。ミジンコのために化石を研究しよう。ミジンコがどういう風に進化してきたか、ミジンコ自身のために研究しようとおっしゃるのです。私は若かったですからそれに感動してしまって、ミジンコの化石の研究に入ったのです。

その時に先生が生物の進化の勉強をするにはまずダーウィンという人も勉強しなければいけませんという話をされて、そのときご自分がイギリスのダーウィンの亡くなった家を訪ねた話をなさって、此処には世界中から学者が来るが、日本人の研究者はだれも来ていない、日本のダーウィンの研究者はロクでもないという話があって、私はもしイギリスに行くことがあったら、ぜひダーウィンの家には必ず行こうと思ったのです。

それでそのダーウィンハウス、これはロンドンから200Kmくらい南に行ったところにダウンという小さな村にダーウィンが亡くなった家があります。1988年にイギリスに行くチャンスがありましたので行きました。その時以来なぜがよく行くようになりここにはもう10回くらい行っています。実はミジンコの化石を研究していて、ミジンコの進化の研究成果がなかなか出なかったのです。それはダーウィンの理解が悪いのではないかと思うこともあって何回も行ったのです。

ダウンハウス


これは先程述べましたダーウィンの『種の起源』の初版の表紙であります。

「種の起源」初版の表紙

余計なことですが題名には「ON THE ORIGIN OF SPECIS BY MEANS OF NATURAL SELECTION, OR THE PRESERVATION OF FAVOURED RACES IN THE SDTRUGGLE FOR LIFE」とあって、普通ONやBY MEANS以降は忘れられています。これは1859年に出たんですが、良く見るとDown,Bromley,Kentと書いてあって、ケント州のブロームリーのダウンという所の家で書きましたということでダウンハウスと言う訳です。

ダウンハウスに行きますと色々ありましてすごくいいところで観光地としてもお勧めです。ここには奥様のピアノがあって昼間は奥様のピアノを聞いて昼間はボーっとしていたとか想像できます。これはダーウィンの研究室。これは入口の階段、これは撞球ですね。外には温室のテニスコートもあります。奥様のエマがテニスが大好きだったのです。そのいいところが雨漏りがして大変だ。募金を募ろうと言うことになって、このTシャツとか色々なことをしたのです。日本からは全部で70万円くらい集めて送りました。

ダウンハウス、ダーウィン家の家

後で分かったのですが、私達はうまく利用されたんです。イギリスはこの募金運動で何を狙ったのかというと、宝くじでお金を集めようとしてその申請が認可されるようにするために騒ぎを起こしたというもの、もう一つはダーウィンの係累、孫、ひ孫などは実はアメリカやイギリスで大金持ちなのです。それでその方々からお金を出させようとしてこういう運動をしたのです。金額的には私達の70万円は雀の涙くらいだったことでしょう。

しかし私ばかりではありません。かなり有名な方々がこの募金運動には関係しています。グールドとかアッテンボローとかが参加しています。ダウンハウスはダーウィンが亡くなり奥様も亡くなったあとずっとダーウィン家が持っていましたが一時女子学校の寄宿舎になりまして、その後外科のお医者さんが買いとって、その後公的な管理にはなったんですが、泥棒が入ったりして、荒れてきてしまっていました。募金の結果178万ポンドの宝くじを手に入れて、イングリッシュヘリテージという組織が買いとって、今は凄く奇麗になりました。

講義風景

私は直している時に内部を見ることが出来ました。1階は住んでいた時の様子が再現され一般公開、2階には色々な展示がなされて、3階は一般公開されていません。
ダーウィンの生れたところはシュルーズベリという所で、その後エジンバラで勉強して医学部に行き、のち医学部が嫌になって、ケンブリッジに行って勉強し、そのあとビーグル号で世界一周した後は戻ってきて、このウェッジウッド家のエマと結婚しロンドンに住み、最後はダウンハウスで亡くなるのです。去年の夏はこのダーウィンの生れたところに行きました。

ダーウィン夫妻、教会での結婚式

写真の上段、左の二人ははダーウィンの父母です。上段右側の二人はダーウィン夫妻で、左は妻のエマ、右はダーウィンです。写真下段左の家はメア屋敷といって奥さんのエマさんのウェッジウッド家です。そのすぐ向かいにある小さな教会、写真右の教会で親族だけの結婚式をします。エマは親の世話をしていて30過ぎまでなかなか結婚できなかったのですがダーウィンに求婚されて助かったとか、ダーウィンは船に乗る前にケンブリッジ時代大好きだった女性がいたんだけれど振られたのでエマに求婚したとかいろいろ変な話は沢山あります。

二人は結婚してロンドンに住むんですが、住んだところは現在ロンドン大学の生物学教室のところです。ダーウィンがダウンハウスで亡くなって、彼はキリスト教と対立していたような話をする人がいますが、お葬式はちゃんとイギリス国教会の最高の教会ウェストミンスター寺院で行われまして、お墓もウェストミンスター寺院にあります。

イギリスの習慣は変わっていて、有名な人のお墓はみんな足元にあります。ダーウィンの墓の上を歩いても全然怒られないという忸怩たる思いをしたことがあります。奥様のエマさんのお墓はダウンの教会にあります。本当はダーウィンはエマと一緒に埋葬されることを願ってちゃんと土地も買っていたのですが、亡くなった途端に周りが協議してウェストミンスター寺院に持っていってしまったのです。

ロンドンの自然史博物館、昔は大英博物館の自然史部門なのですが、そこの1階の階段の下にチャールズ・ダーウィンの座っている像があります。ダーウィンの一族は英国では有名なお金持ちの一族です。奥様の実家、有名な磁器製造のウェッジウッド家は有名ですし、ダーウィン家も学者さんや実業家が沢山います。有名な経済学者のメイナード・ケインズも親戚になります。

講義中の矢島講師
私はダーウィン大好きの病が高じて最近はツアーを組んで日本の観光客の方をダウンハウスに案内しています。これが二回目のツアーで神田雑学大学の臼井さんがご夫妻も参加なさいました。昨年は3回目を実施しました。これはダーウィンは地質学者と言う御話にも関係してきます。

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3.ダーウィンは地質学者
『種の起源』という本がありまして、これは全部字で書いてありまして、岩波文庫で全部で2冊あります。かなり読むのは大変です。私も20年かかってやっと読んだくらいです。みんな読まないで『種の起源』はなんだかんだと言っている人が多いのです。しかしこの本にはたった一枚図が出てきます。

これは何でしょう。あるところにAとかBとかCとかDとかいう生物がいる。これが時間とともにだんだん色々な形に分かれて来て、あるところではいなくなってしまう。あるいは何も形が変化しないでずっと時間が立っても同じ形のままいくものもある。この絵では下の方が古い時間を意味し上の方が時間が新しいのです。皆さん小学校以来グラフを書く時、時間軸は横軸にあって左が古く右が新しいと言う書き方が多いですね。ところがこの絵は時間軸が縦軸で変な図であります。しかしこれは私達地質学者には当たり前なのです。

時間軸

つまりこの絵を地層の断面を捉えたと考えると、地層は下が古い、それぞれの各地層に出てくる化石が、その形態がずっと変わらないでずっと同じ形で出てくる物やどんどん形が変わって来る物もある、この絵に化石の写真を入れても全然おかしくない絵なのです。

ダーウィンは『種の起源』の中でこの図を2回引用しています。それは第4章で「生物自身が時間とともにどういうふうに変わって行くか」というところであり、第10章の「実際に地層の中で化石が変わって行く」というところです。

私はこの絵を見た時「あれっ?もしかするとダーウィンは私と同じ仲間かな?」とは思ったわけです。そう思っていましたら、『チャールズ・ダーウィンは地質学者だ』という本がちゃんと出ていたんです。これは英語で2005年に出ています。これが本の表紙です。著者はサンドラ・ハーバートという人です。この人はイギリス出身のアメリカの人ですが、この人はケンブリッジ大学に寄付されているダーウィンの残した著述の山を全部見ているのです。
彼女の本による、これはダーウィンが使っていたハンマー、これはダーウィンが使っていたクリノメーターです。これは磁石なんですが地質用のもので東と西は逆についている磁石です。

図はハーバート著『地質学者ダーウィン』より

図はハーバート著『地質学者ダーウィン』より(トリーミングした岩石標本、標本ノート、標本引き出し)

そして結晶の角度を測るゴニオメーターもあるしフィールドノートもある。地質学者なら必ず持っているものが全てある。道具があるだけでなく、採って来た石ころをどういう所で採ったかメモをしてラベルを付け、標本が整理されている。それだけではなくて、ビーグル号で航海したときには南米に寄った時南米の地質調査をして南米の地質図を描いて残しています。

サンドラ・ハーバードのおかげで、「なるほど地質学者なんだなー」と思ったのですが私としてはまだ不服と言うか、困ったなあと思うことはいっぱいありました。それはどういうことかといいますと、ダーウィンは伝記を書いているのです。その中でエジンバラに行ってジェームソンという先生に地質学の授業を受けたことが書いてあります。「こんなつまらない講義は二度と聞きたくない。私は地質学なんてやりたくない。」なんて書いてあるのです。それでダーウィンは地質学なんてやりたくないと書いてあるのに、地質学者とはちょっと困ったなと思っていたわけです。

ところが去年ダーウィンの生れたところに行きました。シュルーズベリという町です。これがダーウィンの生れた家で今は不動産会社の事務所になっています。ひとつの部屋だけ公開されていて、見たいですというと見せてくれます。ここへ行って色々なことが分かりました。
先ほどお見せしたダーウィンが亡くなった町ダウンは、かなり平らな所でありまして地質学的に面白いところではありません。ところがこの生れたシュルーズベリは非常に地質学的に面白い所で、イングランドとウェールスの中間にあたるのです。ウェールスは非常に古いシルル紀だとかデボン紀の地層があります。イングランドの方には白亜紀の火山が沢山あります。なるほどこういう場所で育ったんだから、小さい時に石集めが好きだっただけではなく、色々な古い地層のことを知っているんだなと思いました。一番面白かったのはベルストーンがこの町にはあることです。

ベルストーン氏ここに立っているのは私のイギリスの友人でヒュー・トレズというのですが、イギリスでの科学史学会のもと会長です。このベルストーンは鐘の形をしているので、ベルストーンと呼ばれるのですが、これは何かというと、氷河の迷子石です。日本には氷河がありませんから、見ないのですが、氷河というのは周りの石を削り取って流れて行くわけです。そして氷河がとけてしまうと運んでいた石をそこに置き放します。これが迷子石です。置き放された土地にとってはどこの石だか訳のわからない変な種類の石だからです。

この町にはこういうベルストーンが沢山あったので、土地の人は色々興味を持って調べていた。ダーウィンは自然になじむことは大好きで学校は大嫌いな少年でした。ところがこういう町ですからこの町には地質に興味のある物識のおじいさんなんかが沢山いて、色々説明してくれるのです。

土地の人からベルストーンという珍しい石について面白いことを聞いたと伝記に書いてあるのです。その説明は「ノアの洪水の時に運ばれてきた」とかすごく変な説明なんですが、小さい時からそういうことを聞いて、非常に興味を持っていて、おじいさん達から変な話を聞いたけれど、自分で色々なことを考えて、正しい地質学的知識を自分で持っていたんです。

それでエジンバラ大学に行ったら、ジェームソン先生が自分が持っている知識より古い、変なことを言ったんで2度と聞きたくないと文句を日記に書いたということではないでしょうか。
ヒューに言わせれば、「だいたい小さい頃は学校の先生に習うよりも町のおじさんやおばさんから聞いた方が面白いんだよね。」ということです。日本にいるダーウィンの研究者はこの写真を見て「えっ!ベルストーンってこんなの!」と吃驚していましたね。

イギリスの地質学会は1807年に出来ています。ダーウィンが生まれたのは1809年ですからダーウィンが小さい時にすでにこのシュルーズベリには地質学者がいっぱいいたんです。ダーウィンは小さい時からいろいろな話を聞いていたのです。ダーウィンが小さい時にどんな地質学者がいたかということは今ヒューが調べていて何人もの名前を挙げていましたが、メモする暇もなく忘れてしまいましたが、そういう所で育ったということです。
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4.Wollaston Medal(ウォラストン メダル)
ノーベル賞で今日は大騒ぎですが、地質学の関係にはノーベル賞はありません。それに代わる色々な賞があります。イギリスの地質学会が出している大きな賞がウォラストンメダルという賞です。ウォラストンはイギリスの大金持ちでその遺産を資質学会に寄付した人です。地質学者にとっては世界的に一番素晴らしい賞であります。

ウォラストンメダル受賞者名

ノーベルはダイナマイトで儲けましたがウォラストンは顕微鏡に付ける特殊な道具で財を築きました。顕微鏡で物を見ながらスケッチする時に、両目を開けて片方の目で顕微鏡、片方の目で紙を見る道具があるのです。それを発明したのです。この人は鉱物を集めるのも趣味だったんです。鉱物でこのウォラストンの名前のついた鉱物があります。ウォラストナイトと言うのですが、日本語では珪灰石と言います。全然分からないでしょうが、有名なのは紫式部が源氏物語を書いたと言われる石山寺、あの石山寺に大きな石があります。あの大きな石があるから石山寺と言うのですがあの石が珪灰石です。

地質学的に素晴らしい功績を残した人に1831年からこのメダルが授与されています。
例えばダーウィンの先生のアダム・セジックは1851年に貰っています。実はチャールズ・ダーウィンもこのメダルを1859年に貰っています。地質学者としてイギリスで生きていたのですね。『種の起源』を発行した時と同じ年に受賞しています。

良く言われるのは1866年にチャールズ・ライエルという人が受賞しています。なにを言いたいかというとライエルというのは『地質学原理』という地質学の教科書を書いたので有名な人です。日本でも地質学の勉強には必ず読まれる教科書です。ダーウィンはこのライエルの書いた『地質学原理』を読んで勉強したと言われています。それは正しいのですがウォラストンメダルはダーウィンの方が先に貰っていることです。ダーウィンは生物学者として有名ですがイギリスではライエルを凌駕する地質学者として評価されていたことが分かります。

ちなみに日本人でこのメダルを貰っているのは誰か?残念ながら一人だけです。2003年に東大の岩石学の教授久城育夫先生が頂いております。
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ダーウィンの残したもう一つの図5.ダーウィンの残したもうひとつの図
先程『種の起源』に載せられたたった1枚の図版が地質学的知識にもとずいた進化の系統図だったという話をしましたが、実はダーウィンが手帳に遺したもう1枚の系統図があります。生命の樹という説明図です。
こちらの図の方がダーウィンの思想をよく伝えていると言って、よく引用されます。
生命はあるところから発生して、そして様々な形に分かれて行く。ダーウィンの進化論と言うのは何かと言うと、一つは生命の種類がだんだん分かれて行くということ、そしてもう一つはそれが何で起きるかというと自然選択で起きるのだということなんですが、それをよく表しているというので生物学者はこの図を良く使います。

しかしダーウィンは『種の起源』にはこの図ではなくて、先ほど掲げた地質学的な系統図を使ったのです。この図と先程の図の何が違うのか、両図とも生物がだんだん分かれて行くということは同じなんですが、先程の図はだんだんと時間が経つにつれてこういう風に分かれて行く、あるいは分かれないで何も変わらないで行くものがあるということをいう時間軸を持った図でした。

この図には時間軸がありません。単に分かれて行くと言うだけです。先程の図の方がこの図より情報量が多いのです。私はダーウィンは地質学者で時間の概念があったので、この図は使わなかったのだと思います。
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6.ヒルゲンドルフ 日本で最初に進化論を教えたダーウィン大好き人間
以前神田雑学大学で、明治のお雇い外国人ヒルゲンドルフの話をしました。私が科学史として研究している人物で、日本で最初にダーウィンの進化論の講義を行い、それが森鴎外の筆記ノートに記載されていると言う人物です。この人の若い時の学位論文を読んでいて、あっと思ったことがあります。この右の図を見てください。ヒルゲンドルフの論文の図とダーウィンの生物進化の系統図は同じなんです。
                

生物進化の系統図

時間軸がヒルゲンドルフは1、2、3、4・・・ですがダーウィンはA B C D・・・と時間を区切っています。そしてそれぞれの生物が変わったり変わらなかったりしています。ヒルゲンドルフはダーウィンのこの図を見てこの図に合わせるようにこの図を描いたんじゃないのかなと私は思っていて、ヒルゲンドルフは多分私よりももっとダーウィン大好き人間だったんではないかなーと思っています。みんな地層の違う化石を見て生物の進化を考えたのですね。
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7.地球の始まりへの考察
『種の起源』の中に生きている化石という表現がありましてイチョウなど色々書かれています。このLiving Fossil という言葉は多分ダーウィンが最初に使った言葉でありまして、ダーウィンが化石に関して多くの知識があったことの証拠だと思います。

それからこれは難しい問題なのですが、生物の化石が地層の中で途中から無くなってしまうこと、絶滅してしまうことをどうやって解釈するのかについても一生懸命考えています。それも地層とか化石とかということをダーウィンがいかに知っていたかと言うことで思います。いま地球は46億年ということは常識になっているのですが、そんなことが分かったのはキュリー夫人なんかが出て来た1920年より後のことです。原子核がだんだん変わって行くと言うことが分かって初めて46億年と言う数字が出て来た。その前はどうやって考えたのでしょう。

聖書の創世記から起こったことを全部足し算して計算した人がいます。
17世紀のアッシャーと言う神学者ですが、神様が初めに光ありきに始まってアダムを作り、アダムが何年で死んでうんぬんを全部足し算すると、紀元前4004年に地球は出来たと言っています。いまから6000年くらい前ですね。そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、他にデータや根拠が何にもありませんから、そう言われたらそうだと思うほかしょうがないわけです。

ダーウィンはそういう時代に住んでいた。その時にどう思ったか?ダーウィンは生物はだんだんだんだん変わって来た。その変わるにはすごく沢山の時間が必要になる。6000年で今の生物が出来たとはとても考えられない。ダーウィンは困ってしまいます。しかしダーウィンは地質学者ですからウィールド地方の高い崖を観察して、それが毎年見に行くたびに少しずつ削られて減っていっていることに気付きます。それで1年間に何センチ減るかを観測し、それをもとに地球が生れてから削られた年数を推測し、地球が生れてから少なくも3億年はかかっているのではないかという推論を出しています。

19世紀としてはちゃんとしたデータに基づいて言っているわけです。これは6000年と言われていた時代に言われた3億年ですから画期的なことだったのです。そのくらい凄い永い時間がかかっているという意見をダーウィンは『種の起源』で堂々と出したのです。
そのときに有名なイギリスの物理化学者ケルビン卿がそれは違うとダーウィンに食らいついたのです。

いま地球の表面は冷えているが中は熱い。全体として熱かったのが今の表面温度までに冷えるのにかかる速度を計算すると1億年だというのです。これは崖を削る速度より説得力があったのですね。ケルビン卿に一億年と言われたダーウィンは『種の起源』第6版では批判を受け入れて、3億年という数字は削ってます。やっぱりノーベル賞の方がウォラストンメダルより強かったのかなーなんて考えてしまいますね。
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8.終りに
そんなことでダーウィンが地質学者としての知識を最大限使って、進化論を考えたことはご理解していただけたと思います。やっぱり生れたところや亡くなったところを歩いて見ますと少年時代のダーウィンのことなどが想像できるようになり、理解度がだいぶ違ったように思います。

私としてはミジンコの化石の研究をしていて、これではなかなか生物の進化までは言えなかったのですが、ダーウィンのことを色々調べると、ダーウィンが進化を研究するその基には化石の研究があったということでやっとこれが結び付いたかなということで今日の話を終えたいと思います。
(拍手)





文責:臼井良雄 
会場写真撮影:橋本 曜
HTML制作:和田節子


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